沼らせないで、メグルくん 元同級生の地味男子が激メロ内科医になって容赦なく迫ってきます! 1
「童貞の僕でいてほしかった? ごめんね、こんなになっちゃって」
彼は薄く笑って、私に口づけた──。
自分で言うのもなんだけれど、私は男を見る目がない。
残暑厳しい金曜日の夜、地元の雑居ビルに入っている焼肉屋で、私は親友からこんこんと叱責を受けていた。
「は……? お金貸しちゃったの?」
「うん」
「沙良、嘘でしょ、あんたって子はほんともうっ……」
素子がビールジョッキの底を叩きつけ、勢いで中身がちゃぷんと音を立ててテーブルに飛び散る。
唇を引き結んだ彼女の横顔には怒りがにじんでいるが、『怒らないで』なんて言えない。
浮気されたあげく別れた男にお金を貸すなんて自分でもどうかと思うし、私が素子の立場だったら、呆れて文句のひとつも言いたくなると思うから。
「でもね、引っ越しのお金がないって言うし……」
「はぁ?」
「ゴメンナサイ……」
こちらをにらみつける素子の目の冷ややかさから逃げるように、テーブルの上の水滴を紙おしぼりで拭う。
「いや……別に沙良に謝ってほしい訳じゃないんだけど」
これ以上落ち込んだ私を責めても仕方ないと思ったのだろう。素子はゴニョゴニョと口の中で言葉を紡ぎ、はぁとため息をつく。
「まぁ、しゃーなしかぁ……」
そしてなにかを諦めたように、無言で肉をトングでつかみ網の上にのせた。
さすが中学校からの親友。私がどういう人間かよくわかっている。
「そういうことにしておいて」
私もおどけて肩をすくめる。
結婚前提で同棲していた彼氏が浮気をして、一緒に住んでいた部屋を出て行った。
そう、悲しいかな。それが現実だ。受け入れるしかない。
ジュージューと音を立てるカルビを無言で見つめてから、視線を窓の外に移す。
雑居ビルの二階にある焼肉屋のカウンター席は壁に沿って配置されていて、道行く人たちを自然に見下ろすことになる。
(みんな、幸せそうだなぁ……)
楽しそうに歩いているカップルを見ていると胸がざわめく。
自分だってほんの少し前までは、彼らと同じように恋人との時間をそれなりに楽しく過ごしていたはずなのに──なんて思わずにはいられない。
でも──。
自分の中にこんこんと湧き上がってくる言葉を何度も紡ぎなおしながら、ハイボールを一口だけ飲む。
「お金は返ってこないと思うけど、一日も早く出て行ってほしかったの」
「……それもそうね。次の給料日まで待ってられないもんね」
素子が当然とうなずいた。
恋人と住んでいたのは、もともとは私が家族で住んでいたマンションだ。
兄と姉が独立し、両親も仕事の都合で何年も前に関西に住まいを移したので、部屋は十分余っている。だから元恋人にすぐ出て行ってもらわなくてもよかった。
だけど私は、浮気した男と一秒でも同じ空気を吸いたくなかった。
一刻も早く出て行ってほしかったのだ。
ストレスとお金を天秤にかけて、身銭を切ることを選んだだけなので自分では納得している。
「ちなみに元カレは浮気相手の所に引っ越したの?」
カルビを裏返しながら素子が尋ねる。
「どうなんだろう……どこに行くのかなんて聞いてないしね」
私は肩をすくめ、いくつかの段ボールと共に出て行った彼の背中を思い出していた。
あの時、私は彼になんと言ったっけ?
体に気を付けてね。
仕事がんばってね。
別れる時に当たり前のようにかわされる社交辞令──労りの言葉は浮かんだと思うけれど、結局なにも言わず黙って見送った気がする。
何年も付き合ったからという情よりも、浮気に対する嫌悪感が勝ったのだと思う。
「彼女、今年入ったばかりの新人でね、彼がOJT担当だったんだって。それで今、八月でしょ? 同じ会社だし、なんとなくの浮気っていうよりも最初からそっちに乗り換えるつもりだったのかも」
「……結婚話が具体的に進む前でよかったね」
素子がしみじみとつぶやく。
「うん……ほんとそう」
私も今年の冬には二十八歳になる。
三十になる前には結婚したいと漠然と考えていたので、付き合っていた彼に結婚前提で同棲しようと言われてうなずいたし、当たり前のようにこの人と結婚する未来を想像していた。
なのにちょっと前まで大学生だった女の子に鞍替えって。
考えただけで吐き気がこみあげてくるし、背筋がゾワッとする。
『沙良ちゃんが悪いわけじゃないよ。ただ……あの子のこと、守ってあげたいんだ』
浮気を隠すのも面倒になっていたんだろう。甘い石鹸の匂いを漂わせて帰ってきた彼は、浮気を問い詰めた私にあっけらかんとした態度でそう答えた。
その瞬間、自分の中でこれまで積み上げていた愛情が、あっという間に霧散していくのを感じた。
文字通り、百年の恋も一瞬で冷めた。
な~~にが、私は悪いわけじゃない、だ。あの子を守ってあげたい、だ!
浮気されて当然と言える失点が、私にあってたまるか!
栄養を考えた食事にお弁当、シャツにアイロンをかけ、炊事掃除洗濯まですべてこなしていたのは私だというのに、その恩恵に全乗っかりしておいて若い女の子によろめくなんて。
心の中では『普通のサラリーマンのあなたが、いったい彼女の何を守るって言うんだよ、貯金ゼロのくせに!』と言いたかったが諦めた。
私が口にしたのは『すぐに出て行ってほしい。今すぐに』それだけだ。
元カレは『冷たすぎる』とか『情はないのか』なんてああだこうだ言っていたけれど、意味がわからない。情がどうのって、浮気するやつに言われたくなさすぎるセリフ第一位でしょう。
とりあえず、情にほだされず出て行ってもらう提案をした自分の切り替えの早さだけは、褒めてあげたかった。
「まぁ、私の男を見る目が悲惨なのは毎回のことだけど……この話をしたらすぐに飲みに誘ってくれた友達がいてくれて、本当によかったと思ってるよ。ひとりじゃさすがに耐えられなかったと思うから」
私はことさら明るく笑いながら、隣の素子を軽く肘で小突く。
そう、私は男運はないけど女友達には恵まれている。
佐野素子は中学の同級生で、かれこれ十五年の付き合いがある。私のリアルタイムなプライベートを家族以上に知っている存在だ。
彼女のおかげでひとりで落ち込まないで済むんだから、本当にありがたい。
「仕事も忙しいのに、来てくれてありがとね、素子」
ニコ、と笑うと、彼女は眉をきゅっと寄せた後、
「ばか、当たり前でしょ!」
と言いながら私の体をギュッと抱きしめた。
素子は老舗出版社で雑誌編集者として働いているバリキャリだ。いつも忙しい。
なのに『彼氏が浮気してた。同棲解消になった。ひとりになった』という私の泣き言を聞いて、週末にわざわざ地元まで飛んで帰ってきてくれたのだ。いい女すぎる!
私が男だったら絶対素子と付き合いたい、いや、でも私なんか相手にしてもらえてないだろうな、なんてことをつらつら考えている一方で、素子はジョッキの中身を呷るように飲み干し、卓上のタブレットからビールを追加注文する。
「よしっ、飲もう! 肉食べて元気だそ!」
「カルビお代わりする!」
「キムチも食べよ!」
それから蛮族のようにもりもりと肉を焼きお酒を飲み、ご機嫌状態のまま同じ商店街の並びにあるカラオケへと向かったのだった。
最近流行っている歌を何曲かノリで歌った後、私が学生の頃好きだったミュージシャンの歌を歌ったことで、素子は昔の記憶を呼び戻されたようだ。
「そういえば沙良、高校の時このバンドのライブ行ってたよね。なんだっけ……るんるんみたいな名前の、もやしみたいにひょろっとした男の子」
「るんるんじゃなくて、めぐるんだから。和久井周くん」
「そうそう、めぐるんね! あんた高校三年間、ずっとめぐるんと仲良かったよね~! 今は連絡取ってないんだっけ?」
アイスコーヒーをストローでくるくる回しながら、素子が尋ねる。
「うん……まぁ、彼、進学で地元離れちゃったから」
「どれだけ仲良くても、遠くの大学行くと自然に没交渉になっちゃうか。まぁ、お互いの生活ペースもあるし仕方ないのかもね」
「……そうだね」
私は笑ってうなずく。
(周くん、懐かしいなぁ……今なにしてるんだろう)
高校を卒業して十年、ふとした拍子に彼を思い出す。
和久井周くん。同じ高校の男の子。
『市川』で出席番号が一番だった私は『和久井』で出席番号が最後の彼と、隣の席になった縁で仲良くなった。
彼の第一印象は『真面目』。新入生総代の彼は成績もずっと一番で、髪は真っ黒だったし、制服も着崩さないし、シャツの第一ボタンまで留めてきっちりネクタイも締める男の子で。まさに絵に描いたような優等生だった。
通っていた高校は地元では偏差値真ん中くらいだったけど、周くんはなぜこの高校に? というレベルでとても頭がよかった。多分なにか事情があったんだと思う。
周くんはいつも教室で本を読んでいた。漫画でもスマホでもない、小さい字がびっしり詰まった本。
ハブられてるわけでも虐められてるわけでもないのに、いつもひとりでいることを選んでいる、純粋に本が好きな人だった。
そういうところを、話す前からちょっと素敵だなぁと思っていた。
私はひとりでいたいなんて思っても、それを行動に移せるタイプじゃなかったから。
ひとりでいることを選んでいる和久井くんを尊敬していたのだ。友達になってみたいとすら思っていた。
だけど小説なんて教科書以外で読んだことがなかった当時の私は『私みたいな子と口を聞いたら馬鹿になるって思われそう』って勝手に決めつけていた。
今はすっかり地味女の私だけど、当時の私はちょっぴり……いや、だいぶ身の丈に合わない背伸びをして派手めのグループに所属していたので、余計そう思ったのかもしれない。
私には美男美女の五つ上の兄と三つ上の姉がいて、ふたりは昔から地元の有名人だった。
『市川兄妹の一番下の妹ちゃん』である私は、必然的に兄と姉のグループとみなされ、死ぬほど先輩が恐ろしかった中学時代も誰に目をつけられるわけでもなく平和的に過ごし、そのまま特に猛勉強せずとも入れる近場の高校を適当に選んで進学した。
そして中学と同じように自動的にイケてるグループに所属し、周囲からは陽キャ扱いされていたのだ。
今ならわかる。相当無理してたなって。
だってお兄ちゃんやお姉ちゃんのことは大好きだけど、私はふたりとは全然違うから。
私は友達同士で集まってダンスチーム組んでテレビに出たり、バンドしたいなんて人生で一度も思ったことないし、ブランド品に興味もないし、金粉を振りかけるお鮨をSNSに上げたりしない。
人生におけるやりたいことリスト──テーブルが根本的に違い過ぎるのだ。
(そう……私の根っこは地味で普通……毎日ぬか床をかき混ぜる女。だから同棲までしていた彼氏に浮気されるわけで)
別れたことは後悔していないけれど、思い出しただけで気分がどんよりと落ち込んでしまう。
「沙良!」
唐突に肩を叩かれてハッと顔をあげると、素子がマイクを差し出していた。モニターには中学校の時に、ふたりでハマった恋愛ドラマの主題歌が映し出されている。
「とりあえず歌お~~!!!」
「い……いぇ──い!!!!」
いい感じに酔っぱらった私は、ことさら大きな声を出してはしゃぎながら、周くんのことを強引に意識から追い出してマイクを手に取る。
(十年経った今でも、周くんに合わせる顔がないよ)
親友の素子にも話していないけれど、周くんのこと、今でも後悔してることがある。
この後悔を、私は一生抱えて生きていくんだろう。
翌日の土曜日。時計の針がお昼を回った頃にようやく目を覚ました私は、突如覚醒し部屋の模様替えに取り掛かった。
彼が出て行ってからはや二週間。なにもする気が起きず部屋は荒れ放題だった。
段ボールを紐で縛りごみを捨て、フローリングを水拭きする。始めるまでは億劫だったが、いざ動き始めると段々気持ちよくなる。掃除洗濯整理整頓と、やることはいっぱいあり、気が付けばあっという間に夕方になっていた。
カーテンの外からは西日が差し込んで眩しい。
「はぁ……いい汗かいた」
美しくなった部屋を見回して私は額の汗をぬぐう。
見違えるようにきれいになって、これならお客様だって呼べそうだ。
まぁ、当分そんな予定はないけれど。
「お風呂入ろっと!」
自分を励ますように声をあげ、それからぴかぴかに磨いた湯船にお湯をためて柑橘系の入浴剤を入れてアロマをたく。ミネラルウォーターのペットボトルとタブレットを持ち込み、配信サービスで海外ドラマを観ることにした。
「はぁ……ごくらくぅ~……」
洗い髪をまとめて頭の上でお団子にして、水分を取りながらぼんやりと画面を眺めていると、じわじわと体が幸福感に包まれる。
元カレが嫌いだったので入浴剤はため込むばかりだったが、これからは自分の好きな匂いに包まれながらお風呂に入れると思うと、悪くないなと思う。
「……そういえばあの人、風呂掃除もしなくなってたわ」
彼の唯一の仕事だったのに『自分はシャワーでいいからさ!』という謎理論で掃除すらしてくれなくなった。シャワーでも掃除は当たり前に必要なのに。もうその頃から浮気相手といい感じだったのかもしれない。
恋に目が眩むと、日々の生活の雑事なんてやってられなくなるんだろう。
「やっぱり別れてよかった……ほっんと~~によかった……!」
付き合っている時は全然気にならなかったのに、別れた途端嫌なところがたくさん見えてくる。
なんでもっと早く彼の浮気に気づけなかったんだろう。時間を無駄にしたと思うと、沸々と腹が立ってきた。
(でも、私っていつもこうなんだよね……)
湯船の縁に足首をのせて、ぼんやりと天井を見上げる。
私に初めて彼氏ができたのは中学二年で、そこから数か月から一年単位で彼氏は変わった。兄と姉がいて交友関係が広かったせいもある。声をかけてくる男の子も多かったけど、基本的に長続きはしなかった。
とはいえ私も『彼氏がいるのは当たり前』という周囲の価値観をそのまま受け入れていただけだし、どうしても付き合ってほしいと言われて断るのが面倒になり、流されていただけなので文句は言えない。若気の至りというやつだろう。
「当分、彼氏なんかいらないかも……」
泣いたり怒ったりの感情の起伏が激しい海外のドラマを見ながら、ぽつりとつぶやいた言葉が湯気に消えていく。
結婚適齢期でこの考えはまずいかもしれないが、周囲が結婚を意識し始める年だから、私自身、次に付き合った人と結婚するかもという気持ちでいたのだ。
数合わせで参加した合コンで出会った元カレは大手企業の安定したサラリーマンで、最初から猛アタックをしてきたものだから『これだけ好かれてるなら』と受け入れた。
そうして一年付き合ったところで彼の賃貸マンションが契約更新の時期になり、そのタイミングで『結婚を見据えて一緒に住みたい』と言われて同棲することになったのだ。
だが同棲生活を振り返ってみると、ほぼ彼のお世話係の日々だった。
恋愛じゃない。お母さんだった。
(うん……私にもうかつなところがあったな……むしろ結婚前でよかった、さっさと出て行ってくれてよかった! ラッキー!)
失敗したかもしれないが、これはいい失敗だった。経験してよかったのだ。
そう自分に言い聞かせれば、気分が若干楽になる。
これこそ末っ子特有の楽観的思考というやつかもしれない。
ぱしゃんと顔にお湯をかけ、これから始まるおひとり様生活をいかに楽しむかに、意識を切り替えたのだった。
のんびりバスタイムを過ごした私は、身支度を整えて外食に出る。
料理も好きだし、自炊もかなりするほうだけど、たまには贅沢だってしたい。
お気に入りのゆったりとした赤いシャツワンピースを身に着け、髪を手早くバレッタでまとめて、財布とスマホだけ入れた小さなバッグを手にマンションを出る。少し歩くが、近くの商店街の中にいくつもお気に入りの店があるのだ。
元恋人は外食を好まない人だった。私から外食に誘うことはあったけれど『家でゆっくり食べたいなぁ』と言われれば、受け入れるしかなかった。
今思えば料理をするのも片付けるのも私なので、ちっともゆっくりできなかった。本当に私ってつくづく男を見る目がない。
(よし、今日は己に贅沢を許すぞ!)
力強く唇を引き結んだ私は、あたりを見回す。
フレンチ、イタリアン、和食。昔からある居酒屋で焼き鳥もありだなぁ、なんてぶらぶらする途中、思い浮かんだのは昔なじみの店だ。
目的のレストランバー【蜜蜂】は古めかしい雑居ビルの地下にある。
「おひさしぶりです、マスター。今日は空いてますか?」
「こんばんは、沙良ちゃん。空いてますよ」
チョコレート色のドアを開けて中に入ると、白いシャツに蝶ネクタイとベストをつけた白髪のマスターが、こちらを見て穏やかに微笑んだ。
「カウンターにどうぞ」
ちらりと店内を見回すと、奥のテーブルに長身の男性客がひとりいるだけだ。
いつもはほぼ予約客でいっぱいなのに、珍しいこともあるものだ。
私はウキウキした気持ちを隠さず、跳ねるように入口付近のカウンターに腰を下ろし、差し出されたおしぼりで手を拭く。
「マスター、私今、すっごくお腹がぺこぺこなんですが、がっつりめでおまかせしてもいいですか?」
「畏まりました」
マスターはそう言って冷蔵庫を開けて燻製された鴨を取り出すと、鮮やかな手つきで切り分け始める。
セロリと、アボカド、クレソンをガラスの器にのせ、鴨をのせてくし切りにされたオレンジを最後に盛り付けた。
「どうぞ」
そして一緒にさわやかなシャンパンを添えてくれる。
「わぁ、おいしそうっ!」
いただきます、と手を合わせてからフォークでオレンジと鴨を口の中に入れる。
少し甘めのマスタードソースが口いっぱいに広がって、噛めば噛むほど美味しい。みるみるうちに幸せゲージがたまっていく。
サラダを平らげ、シャンパンを飲んだころ合いに、自家製のパンと一緒にココットになみなみのビーフシチューがサーブされる。そしてお供は少し渋めの赤ワイン。本当に最高だ。
久しぶりの外食に、多幸感で脳髄が痺れてきた。我ながら単純極まりない。
「マスターのごはん最高過ぎる……っ!」
思わずスプーンを握りしめたところで、マスターがグラスを拭きながら私の前に立つ。
「私は沙良ちゃんのところのおにぎり弁当が、なによりも大好きなんですけどね。土日は買えないのが本当に残念で」
「ふふっ……ありがとうございます。おばあちゃんも喜びます」
そう、我が家──というか祖母はこの商店街で四十年前からお弁当屋さんをやっている。
メニューはおにぎり弁当のみ。しかもこのご時世でワンコインという格安。コンビニのお弁当より安いという、圧倒的コスパの良さが売りだ。
中身はおにぎりに合う季節の副菜、ぜんまいを炊いたのとか、ちくわとピーマンの煮びたしとか。たまに唐揚げとかも入る。
両親は父の仕事の都合で関西に住んでいるが、私は大学を卒業後、兄姉が経営しているダンススタジオではなくおばあちゃんのお弁当屋さんで働き始めた。近隣にはオフィスビルや大学があるのでお弁当はよく売れるし、夕方に出すお惣菜も地元の奥様たちに大人気だ。
おばあちゃんには『せっかく大学を出たのに』と言われたけれど、多忙な両親に代わって私たち兄妹の食生活を支えてくれた祖母の味を心から愛していて、大学で経営の勉強をしながら簿記の資格も取ったし、同時に有名デリ店で四年間みっちりアルバイトを経験している。
恋愛は昔から失敗ばかりだけど、仕事に関しては割といい滑り出しをしたと思っている。
お弁当屋さんで食べていけるのかと思われがちだが、土地も店舗もおばあちゃんのもので家賃ゼロだ。
宅配用に特別なお弁当も作るし、お花見シーズンやクリスマスなどの季節のイベントがある時は、少しお高めのオードブルのケータリングもやっていて、これがなかなかの収入になる。祖母のように、己の体が元気なうちは自分ひとりが食べていくくらいはできるだろう。
(もう、結婚なんか考えないほうがいいかも)
アラサーだからと流された結果が今の自分なのだから、ひとりで生きていく算段を立てたほうが幸せかもしれない。
そんなことを考えながら、丁寧にビーフシチューをパンで拭って口に入れる。
噛めば噛むほど小麦のうまみが口内に広がる。
「うぅ……おいしい……」
一口食べるごとに身もだえしていると、グラスを拭いているマスターが私を見てクスッと笑った。
「美味しそうに食べてもらえて嬉しいです」
「だって、実際、すっごく美味しいですもんっ」
私は力強くうなずく。
マスターはお酒だけじゃなくて料理も本当に上手で、パンも焼くしベーコンだって作るしデザートも作る。本当に素晴らしい料理人なのだ。
今年還暦になる父とそう違わないはずだが、ここ十年くらいはほとんど容貌が変わらない。ずっとイケオジだ。謎すぎる。こういう仕事をしていると年を取らないのかもしれない。
デザートのラムレーズンアイスまできれいに平らげた私は、ゆっくりとコーヒーのカクテルを飲み支払いを済ませる。
「久しぶりにマスターのごはん食べられて本当によかったです……! ちなみに彼と別れて同棲解消したので、これからはもっとマメに通えると思います!」
ほんのり酔っぱらっていた私の口は、いつもよりだいぶ軽くなっていた。
「おや、そうなんですか」
「そうなんですよ~」
どうせマスターには、おばあちゃんを通してプライベートは筒抜けなのだし。
若干大きめの声で、えへへと笑いながら彼氏と別れて身軽になったことを意気揚々と告げたところで、店の奥からガタン、と大きな音がした。
「──先生、大丈夫ですか?」
マスターが音のしたほうを振り返る。
先生?
釣られてそちらを見ると、唯一の先客だった男性が小さなひとり用のテーブルに手をついて、茫然と立ち尽くしている。
「……市川さん」
「へ」
いきなり苗字を呼ばれて私は目を丸くした。
お店はオレンジ色の照明であたたかく照らされているが、全体的に薄暗い。顔まで判断できない。けれど手足はすらりと長く、長身で顔が小さいのはシルエットでわかった。
名前を呼ばれたんだから知り合いだと思うけれど、全然ピンとこない。
(もしかしてお姉ちゃんと間違えてる?)
私は首をひねりつつ、
「妹の、沙良のほうですけど……」
と財布を仕舞いながらうなずいた。
「市川沙良!」
男性は感極まったように名前を呼び、慌てたようにこちらに駆け寄って来る。
「嘘だろ、僕だよ、僕! まさかここで会えるなんて、思ってもみなかった……」
そして彼は両手を伸ばし、私の肩をガシッとつかむ。
「えっ……ええっ?」
私は茫然としながら背の高い男性の顔を見上げた。
身長は兄とそう変わらない。間違いなく百八十以上はあるだろう。
さっぱりした黒髪におしゃれな黒ぶち眼鏡をかけていて、彫刻刀で彫り込んだような切れ長の瞳は、目じりがすっと吊り上がっている。形のいい並行眉と伏目がちの長いまつ毛に囲まれた瞳は三白眼で、鼻筋は通っており唇は少し薄目で上品だ。
(ずいぶん顔のいいオレオレ詐欺だなぁ……低音イケボだし……)
黒のワイドパンツにショート丈の黒のブルゾンを羽織り、足元はよく磨かれた革靴を合わせている。全身真っ黒だがとにかくスタイルがいいのでオーラがすごい。
(こういう塩系? 沼系男子っていうのかなぁ……めちゃくちゃモテそ~……こういうの、最近じゃメロいっていうんだっけ?)
じっと彼を見ていると、私の頭の中で、警告アラームが鳴り始める。
(やばい、めっちゃタイプかもしれない!)
私は昔から、背が高く黒髪で落ち着いていて知的で穏やかな雰囲気のある男子が大好きなのだ。しかも眼鏡をかけている。さらにプラス五千点だ。
(落ち着くのよ、アラサーの私! 同棲解消したばっかりで、見知らぬ沼系男子にメロついている暇は私にはないんだってば! 絶対にえらい目に遭う!!!)
つい数時間前に、恋愛からはしばらく距離を保とうと決めたばかりだ。ここは大人しく深呼吸して距離をとろう。そうしよう。
ギリギリの愛想笑いを浮かべつつ、助けを求めるようにちらっとマスターを見つめた。
「先生、沙良ちゃんと知り合い? 彼女、びっくりきょとんとしてるけど」
即座にマスターがやんわりとした態度で、男性の手をそうっと私から引きはがす。
どうやらマスターとこのメロ男子は知り合いらしい。
ありがとうマスター……と思っていたところで、彼はハッとしたように手を離し戸惑ったように首をかしげた。
「え? あっ、僕……和久井周、だけど……。もしかして覚えてない感じ?」
でっかい男の子がしょぼんと眉を下げる様子にドキッとしつつも、彼が口にした名前を聞いて頭にぴしゃーっと雷が落ちた。