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今夜から、冷徹シゴデキ上司のオカズになります! 1

第一話


「はる……」
 その名を呼ぶだけで、口の中が甘くなる。
 こくりと喉を鳴らせば、注がれる視線に熱がこもった。
 徐々に、夢を見ている気分になる。頭がぼうっとして、暖かいような寒いような、どちらでもないような──ふわふわした心地の中、右胸のリボンをつまむ。
「ほどく……?」
 華恋(かれん)は大胆にも、真っ赤な下着を身につけていた。
 肌がすっかり透けて見える、レース素材のもの。それだけですでに挑発的なのに、ブラにもショーツにも、いかにも好色な縦のスリットが施されている。
 そしてその隙間を閉じるためにあるのが、華恋が示しているリボンなのだった。
 プレゼントのような結び目を、彼の手で解かれたら……想像するとたまらない。
 しかし「いや」と、答える彼の声はぎこちない。
「約束は『オカズになること』だ。触れるのは話が違う」
 そうだ。
 約束した。
 どうしてこの人がそんなふうに言い出したのか、華恋にはわからない。
 けれど、断るすべはなかった。最初は、問答無用で受け入れるしかなかったのだ。
 それだけだったのに。
 徐々に、身体が火照ってくる。なんだろう。この感覚、たまらない。
 蕩けたように両目を細め、華恋は、はあっと息を吐く。
 人差し指にリボンの先端を巻きつけ、これ見よがしに引っ張ってみせる。
 右の結び目が、はらりと解けた。
 途端、スリットを押し退けて、桃色の先端が姿を見せた。ようやく自由を得たとばかりに現れた突起は、すっかり硬くなって昂りを訴えている。
「……ん……」
 まるで、そういう漫画の一場面を演じているみたいだ。
 今ならば、わかる。
 彼らが激しく動いていなくとも、汗ばんだふうに描写されていた理由が。登場人物が、皆、恍惚とした表情に描かれていた意味だって──わかってしまった。
 やはり、暑い。すごく暑い。でも、のぼせそうなのも不思議と心地いい。
 呼吸にのせて、時折、猫の鳴き声のような声が漏れる。
 止めようとしても、止められない。
 坂を転がり落ちているみたいに、我慢できない……。
「っふ……ぁ」
 そうしている間、ずっと、彼の注目は華恋の体に向けられていた。
 勃った乳頭からくびれた腰、そして太ももまでを食い入るように見つめる視線が、くすぐったい。くすぐったくて、心地いい。
(ヤラしい顔をしてる……塔野(とうの)さん)
 本能を滾らせた瞳に、何故だかきゅんとした。
 ここにいるのは、いつもの冷静な上司じゃない。
 皆が噂するような、機械っぽい人の面影は見えない。いつになく人間らしい、欲の滲んだ雄の顔に、無性に惹かれてしまう。
 彼らしくないこんな表情を、もっと見てみたい。
 欲に火がついたら、どんなふうになるか……。
 知りたい。
「……どっちにします、か」
 次に華恋が示したのは、左胸と脚の付け根だ。
「今度こそ、ほどいて……?」
 膝立ちになり、彼のほうへ一歩、距離を詰める。
 もはや華恋は、はー、はー、と胸全体で呼吸をしていた。
 吐き出した息が熱を持ったまま、ふたつの膨らみを滑り落ちていく。
 衝動に屈する理性を、引きもどすすべはもうない。
 ここにあるのは、もはや欲望に従順に従う本能だけ。
 もちろん、誰でもいいわけではなくて。だから、受け入れるしかなかったといっても、本当はそれだけの理由ではなくて。
 彼の手をゆっくりと、自分のほうへ引き寄せる。
 早く暴いてほしい。ほかの誰かではなく、あなたに。
 ふんわり熟れた胸と、期待感でたっぷりの太ももの付け根。骨ばった手をその間で彷徨わせていると、いきなりふっと目線が天井へ舞い上がった。

 


 人は皆、塔野葉流(はる)チームマネージャーをAIのようだと噂する。
 強靭なメンタルに加え、常に冷静沈着、レスポンスは迅速。
 作業には一切の無駄がなく、中でもコスト管理の巧みさは社内随一。
 その腕前で入社以来、社長から表彰された回数は数知れず──。
 そもそも三十歳にして、すでにチームマネージャー二年目というのが異例だ。新部署が創設されたときに導入されたそのポジションは、課長と並んでも遜色ない。
 むしろ、彼を抜擢するために設けられた特別枠の役職とも言える。
 AIでなければ、超人だろう。
 超人ハルくん……なんて、本人には絶対に言えないけれど。
「桜庭(さくらば)」
 呼ばれて、華恋は「はいっ」と背すじを伸ばした。
 ワークチェアに腰掛けた超人は、手もとのバインダーに視線を落としている。
 無造作に分けた、おしゃれな前髪。猫を彷彿とさせる、つり目がちのぱっちりした瞳。輪郭はすっきりと引き締まり、顎の細さは中性的。そして細身の体に際立つ長さの四肢は、三つ揃いのスーツを着こなすためにあるものみたいだ。
 街中にいるなら、二度見必至の美形である。
 だが、うっかり見惚れてはいけない。
「よくできている」
 ひと言めに、こうして褒められてもだ。
「だが、これは社内保管用だ。これからはコスト削減のため、書き損じの裏紙を使うことを徹底してくれ。足りなければ、白色度七十五以下の安紙を使うこと」
「は、はいっ。気をつけます!」
「続けて、明日の商談のための資料を印刷しておいてもらえないか。左綴じのバインダー用に、だ。それから、開発の進捗をまとめたデータをプレゼン用に準備しておいてほしい。指示は、メールで送る。あと、昨日の仕様変更に関してだが、反映はどの程度されている? システム部への引き継ぎはいつになりそうだ? 加えてきみには株主総会までに頼みたいことが二、三あるのだが」
 怒濤の要求に、キターっ、と脳内で叫んでしまう。
 絶対にこうなると思った。
 超人は、己がこなせる仕事なら部下の誰もがこなせると思っている。だから真顔でさも当然のように、コストカットの徹底かつ大量のタスクを強いるのだ。
 ほぼ毎日。
 そう、飽きもせずに。
「え、ええと、資料の印刷ですね。左綴じで。プレゼン用のデータも。それと、仕様変更については、このあとすぐに確認して報告しますっ」
 忘れないよう、メモに走り書きしながら言えば、穏やかな声でつけ足された。
「システム部への引き継ぎと、総会の件もだ」
「はいっ、申し訳ありませんっ。すぐに取り掛かります!」
 肩まで伸びた多めの髪を翻し、くるっと方向転換をする。早足で席へ戻ろうとすると「すぐに、でなくていい。もう昼休憩の時間だ」とつけ足すように言われた。
 壁に掛けられたアナログ時計を見る。
 短い針と長い針が、ちょうど十二を指して重なっている。
「焦る必要はない。時間はまだ、午後いっぱいある」
「……はい……」
 人生二十三年、華恋は今が一番、頭を使っている気がする。
 受験勉強をしていたときよりも。大学の卒論を書いていたときよりも。
 ここ、久永商事は機械部品を取り扱う、いわゆる中堅の専門商社である。
 古めかしい制服──白いブラウスに、紺色のベストとスカート──には当初、怯んだ覚えがある。というのも華恋はかわいらしい名前に似合わずザ・日本人な和顔で、レトロな服装が似合いすぎるほど似合う。
 初めて着たときは、鏡の前で愕然としてしまった。
 あまりに昭和っぽさが溢れる仕上がりだったから。
 慌てて髪を染め、ほんの少し明るい色にした今は、多少ましになったが。
「華恋ちゃん」
 席に戻り、食堂へ行く準備をしていると、左からそう呼ばれる。
 見れば、隣の席からボブヘアの美人が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? 手伝おうか? 私、この仕事が終わったら手が空くから」
「さわさん……」
 さわ──田丸さわ(たまる)は華恋の先輩で、教育係を務めてくれている人だ。
 今どきの美人で、幼稚園児の子供を育てているからか、お母さんらしい包容力がある。流行りものにも詳しいし、かといって気取ったところもなくて、憧れる。
「ありがとうございます。嬉しいです。でも、昨日も助けていただきましたし、今日は自力でやってみます。やってみたいんです!」
「そう? 前向きね」
「はいっ。それだけが取り柄ですからっ」
 両手を拳にして力んで見せたが、ひそめた声でさらに聞かれた。
「くれぐれも無理だけはしないでね。塔野さん、仕事はめちゃくちゃできる人だけど、部下への無茶ぶりが凄まじいでしょう。しかもコスト削減も徹底しすぎてるから」
 ふふっと華恋は笑って、小声で答える。
「そうですね。でも、わたしは大雑把な性格なので、あんなになんでもきっちりできる塔野さんは本当にすごいと思います。尊敬してます!」
「そう? 塔野さんの外見に騙されて、そう言ってるわけじゃないわよね」
「騙され……いえ、まさか! でも、塔野さんって綺麗ですよねぇ」
「そうそう! 猫っぽい美人なのよね。だけど感情が表に出にくいから、機械っぽいというか暗い感じっていうか、ああいうのダウナーみがあるって言うのかしら」
 ダウナー、確かに。
 彼は根暗ではないけれど、明るいエネルギーのようなものは感じられない人だ。日向より日陰が似合うし、テーマパークより図書館とか美術館のほうが似合う。
 クールとか知的というのとも、ちょっと違う。
 なんとなく影を背負っている雰囲気、とでも言おうか。
 そうですねと華恋が応えれば、気づいたように「じゃなくて」とさわは翻した。
「困ったときは、一番に私に相談してね。うちの部署、悲しいことに社内でも新人の離職率がダントツなのよ。華恋ちゃんみたいないい子に辞められたくないわ」
「そんな、絶対に辞めないです!」
 思わず、声が大きくなる。
「わたし、お仕事はやりがいがあるほうが好きです。残業だって嫌じゃないですっ」
 それは華恋の、本心からの言葉だった。
 どんなにキツくたって、転職するという選択肢は華恋にはない。むしろ、早く仕事を覚えたい。そのためにできることなら、なんだってしたい。
 だって──。
 すると、背後から「えー」と割り込まれる。
「もしかして桜庭さんって、Mっ気ある?」
 振り返ると、若い男性社員がニヤニヤと笑っていた。
 紺色のスーツに身を包んだ短髪の彼は、秦祐樹(ゆうき)と言う。
 狐っぽい容姿で、とにかくよく喋る。華恋とは同期入社で、唯一同じ部署に配属された新人だ。斜め後ろに席があるので、たまにこうして話しかけられるのだが。
「普通、しんどいでしょ」
 正直、ちょっと苦手だ。
「俺、実際キツいし。こないだボールペン一本なくしただけで塔野さんに睨まれたし……あの人の睨み、呪われそうで怖いんだよね。なのに、この環境で残業したいとか、マジですごいよ。どMでしょ?」
 こういう話題を、しょっちゅう振ってくるから。
 と言っても、下世話な話をしたくないほど華恋が潔癖だからというわけじゃない。
 むしろ好き、話し出したら止まらなくなりそうだから困ってしまうのだ。
 どMかどうか? そんなの、もちろんイエスに決まっている。
 好きな人には、積極的に虐められたい。言葉責めも好きだけれど、できれば性的な意味で。ひいひい言わされたいし、ねちっこく苛められたい願望だってある……なんて、とてもではないけれどオフィスでは言えない。
 言えるわけがない。
 口角を上げた状態で固まり、華恋は考える。
 とにかく返事をしなくては。
 M、えむ……ボンテージ姿の女王さまが脳裏をよぎる。いや、駄目だ。えーと、えーと、Mと言えばM字開脚……ああああ、ダメダメダメ。
「あの、Mは……サイズのことだよね? チップ部品のサイズ、ややこしいよね。JIS規格だとミリ表記なのに、米国の工業規格だとインチだし……」
 苦し紛れにそう答えたら、秦(はた)が目を丸くした。
 わけわからん、と言いたげな顔で。
 しまった。かえって失敗した。これなら笑って誤魔化すほうがマシだった。
 後悔して青ざめていると、さわが「こらっ」と秦を叱咤する。
「秦くん、それは立派なセクハラよ。無駄口を叩く暇があるなら、メールの返信をしちゃいなさい。学生じゃあるまいし、返信を二日も三日も溜めるなんて論外だわ」
「いや、もう、休憩時間ですけど」
「休憩前に休憩っぽい過ごし方をしてたんだから、やっちゃいなさい」
「うーん、ごもっとも! でも、休憩時間に休むのは権利ですからねっ」
 調子のいいことを言って秦が去ったから、華恋はホッと胸を撫でおろした。
 よかった。ひとまず、助かった。いや、全然助かってない。どうして自分はこう、口下手なんだろう。それも、男性に対してはすこぶるうまくいかない。
 しくじるわけにはいかないのに。
 自分には、これしかないのに。
(一日も早く、わたしは一人前にならなくちゃ。ううん、一人前じゃ足りない)
 そうだ、落ち込んでいる暇なんてない。
 華恋はランチのために席から離れようとしたものの、すぐに戻ってきた。
 デスクの上に置いていた資料を抱え、踵を返す。食事をしながらでも、読み進めておこう。休憩時間だって、無駄にはできない。
 そうしてパタパタと廊下へ向かった華恋は、知らない。
 必死さが滲み出る背中を、塔野が遠くから見つめていたこと。
 同時に、ふっと好ましげに微笑んでいたことも。


 華恋が育ったのは、久永商事の本社ビルから遠く離れたど田舎だ。
 最寄りの駅まで、車で三十分。電車がやってくるのは一時間に一本ばかり。
 大型商業施設がなければ、ファーストフード店もファミレスもない。スマートフォンの電波はかろうじて届くけれど、接続が安定しない日もままある。
 売るほどあるのは、広い空と大自然ばかり。
「華恋ちゃん、これ、今日のお弁当ね」
 皺だらけの手で差し出された包みを「ありがとう、おばあちゃん」と言って受け取る。それから中学校の制服であるセーラー服の裾を翻し、運動靴に足を入れた。
 つま先をトントンしていると、廊下の奥から白髪頭の翁が小走りでやってくる。
「儂がアッシーになろう。車で学校まで送ってやる。華恋はこのあたりには珍しい、ナウいべっぴんさんだからのう。悪い虫がついたらいかん。ちょっと待っておれ」
「おじいちゃん、今日も死語が絶好調だね……」
「死後!? なんと、華恋は儂が、すでに死んでいると言うのかっ」
「いやいやいや、言ってない。ねえおじいちゃん、今日、出社する日でしょ? わたしの送迎なんてしてたら、秘書の天馬さんがお迎えに来ちゃうよ」
「天からのお迎えだと……!?」
「違うってば。あ、もうこんな時間っ。友達待たせちゃうから、もう行くね!」
 いや待てと、なおも引き止めようとする祖父をあしらい、外に出る。
「言ってきまーすっ」
 元気いっぱいに告げて、華恋は玄関に向かって手を振った。
 祖父母だけでなく、靴箱の上に飾られた古い写真にもだ。写っているのは、華恋にどことなく面影が重なる若き夫婦……寄り添って笑う彼らは、華恋の両親である。
 彼らが亡くなったのは、華恋が三歳のとき。
 三人で散歩をしているとき、信号を無視したトラックに突っ込まれて、即死だったらしい。幼かったものの、事故の瞬間を華恋は今でも覚えている。
 何故なら、彼らは共に、娘である華恋を庇って命を落としたから。
 当初は、罪悪感より寂しさが勝っていた。
 祖父母に引き取られたあともひどく寂しくて、眠れない夜があった。
 両親がいないというだけで、息苦しい気がした。
 幼稚園でも小学校でもふとしたときに心臓が潰れそうになって、一気に耐えきれなくなって、教室から逃走したことも何度もある。そんなとき──。
 必ず、祖父母が迎えに来てくれた。
 ふたりは幼い華恋を可愛がり、我が子のように育ててくれた。悲しい日は寄り添い、潰れそうなときは涙を拭き、辛い夜には抱きしめて眠ってくれた。
 彼らが惜しみなく愛情を注いでくれたから、華恋はやがて生きる気力を取り戻すことができた。せっかく生きるのなら、前向きに、とも思えるようになった。
 祖父母には、感謝してもしきれない。
「華恋、おはよー」
「おはよう! いい朝だねっ」
「そう? いつもどおりの朝じゃない?」
 中学校への道のりは、上りも下りもある山道だった。
 どんなに急いでも、徒歩で一時間はかかる。それで通学路で友人と出くわすと、もっぱらお喋りに夢中になった。
 話題に上がるのは、恋バナ……ではない。
「ねえ華恋。私、昨日、お兄ちゃんのエロ漫画を内緒で読んじゃったんだけどね」
「えっ、ど、どんな……?」
「それがねえ、すっごいの! 触手が美女を辱めるやつでね、触手の分泌液が媚薬入りのローションなんだよ。もう、どろっどろ。ぐっちょぐちょ」
「うわあ、うわあ、ローションって何!?」
「それはねえ、ふふふ」
 盛り上がるのは、大概、そんな刺激的な話だった。
 なにせ周辺は山ばかりで、娯楽などほとんどない。小中学校は数十人の決まったメンバーしかいなかったし、だから恋すらできなかったし。
 もちろん祖父と筍を採ったり、川釣りに行ったりするのも楽しかった。
 祖母と梅干しを作ったり、パッチワークをしたりするのも楽しかった。
 だが年相応の興味も相まって、桃色トークは止まらなかった。
(ローションって、ぬるぬるのじゅぽじゅぽのぬこぬこなんだ……っ。すごい、じゃなくてこういうときはしゅごい、だよね。ローション、しゅっご……っ)
 と──。
 ここまでは割と、珍しくない話かもしれない。
 だが華恋の場合は、この先が少々まずかった。
「なあ、宿題やってきた?」
 男子から声を掛けられた途端、目がグルングルンに泳いでしまう。
「なあってば」
「……っふぅ……っ」
 顔を見られないだけでなく、話もできない。答えようとすると、喉が潰れたようになってしまう。そして、頭の中は桃色の想像でいっぱいになる。
 あの学ランの下には何があるのか。部屋にはエロ本を隠しているのか否か。
(オカズは同人誌ですか商業誌ですか、動画ですかASMRですか──っ)
 市外の高校に進学し、見知らぬ男子と出会う機会が増えると、さらに症状は悪化した。
 強引に連れて行かれた合コンの席で、焦るあまり口走ってしまったのだ。
「わた、わたっし、SかMかと聞かれたらどMで、中でも興奮するのは執拗な三点責めなんだけど、言葉責めも嫌いじゃなくて好きだからこそしつこくしちゃうっていう執着ありきの描写が特にたまらなくて、えと……っ」
 参加者全員ドン引きで、男子からは気持ち悪いと吐きすてられた。
 妄想しすぎだろ、地味な顔してどエロくて、コミュ障のうえに想像力ばっかたくましいなんて、典型的な喪女じゃんもう帰れよ──と。
 泣いた。
 その晩は布団の中で号泣した。
 エロくてすみませんね、上手にコミュニケーションが取れなくて悪かったですね。
 でもね、顔について言及するのは違うと思うんです。わたしだって好きこのんで昭和なレトロ顔に生まれたわけじゃないですし、妄想と顔は無関係ですし。
(いいじゃない、エロはいわば生存本能なんだから!)
 そんな状況は大学を卒業するまで続き、華恋は恋愛経験ゼロのまま。
 にもかかわらず、豊富なアダルト知識とたくましい想像力を身につけた『拗らせむっつり女子』に育ったのだった。
 今、社内の男性とそれなりに言葉を交わせているのは、仕事だからだ。この場所でだけはしっかりしなければと、己によくよく言い聞かせて出社しているから。
 ゆえに仕事という前提が崩れると、いけない。
 絶対に、目なんて合わせられなくなる。そっぽを向いてしまうだろうし、妙な声が出てしまうだろうし、変なことを口走るかもしれない。
 ただでさえ口下手なのに、そんなことになれば一瞬で居場所がなくなる。
 それだけは避けたい。
「わー、もう定時!」
 その日の夕方、華恋は出来上がったバインダーを抱えて廊下を駆けた。
 窓の外は夕焼けに染まり、廊下には照明が灯されている。
 塔野はまだ、デスクにいるだろうか。システム部との話し合いが長引いて、営業用の資料をまとめるのが最後になってしまった。どうか、間に合いますように。
 しかしフロアに飛び込み、奥を見れば、窓辺の席に彼の姿はなかった。
 壁のホワイトボードには、営業に同行、と書かれている。この時間、社内にいないということは現場から直帰に違いない。
 今日はもう、塔野はここに戻ってこない。
 肩で息をしながら、ああ、とうなだれてしまう。
 このバインダーは、明日、営業に回すものだ。すなわち、塔野のチェックが必須の仕事。本来なら、なにより優先して終わらせておくべきだったのに。
 席に戻ると、さわの姿もすでになかった。
 デスクの上には『いつでも連絡してね。リモートで手伝うからね』と手書きのメモが残されていたが、頼れるわけがない。さわは幼い子供の子育て中。それで定時に退社しているのだから。
 席につき、深呼吸して、両頬をペシペシ叩く。
「大丈夫。わたしならできるっ。切り替え、切り替え!」
 ノートパソコンを開くと、塔野から開発の進捗に関するメールが届いていた。
 これをプレゼン用に準備すれば終わりだ。意気込んで早速、中身を確認し驚いてしまう。
 内容がすっきりまとめられていて、あとはいつもの型に流し込むだけだったからだ。
(塔野さん、なんだかんだ言って、いつもこうなんだ)
 山ほど仕事を投げてくるように見えても、きちんと終わる量に調整されている。
 聞いた瞬間は毎回ぎょっとしてしまうし、無茶振りだとさわも言っていたけれど、実際に取り掛かってみるとそれほどでもないのだ。かといって──。
 子供でもできるような、簡単な作業ばかりを与えるわけでもない。
 知っておくべき知識を、日々のタスクの中でさりげなく学ばせてくれる。
 彼の部下でよかった。
 ここ数か月、何度そう思ったことか。
「──よしっ」
 作業が終わったのは、約一時間後だ。
 伸びをしながら周囲を見まわすと、ライトがついているのは華恋の席だけだった。
 早く帰ろう。お腹がぺこぺこだ。本当は自分で何か温かいものでも作って食べたいけれど、そんな気力も残っていないし、そもそも料理できないし。こうなったら、夕飯はコンビニにしよう。
 でも、思えば昨日もその前もコンビニだった。
 だからか、もはや買ってまで食べたいものも思いつかない。
(おばあちゃんの手料理が食べたいな……きんぴらごぼうとか、お味噌汁とか)
 そんなことを考えながら、ロッカーで退社の準備をしはじめたときだ。
 鞄の中で、スマートフォンが鳴る。
 見れば『おばあちゃん』──祖母からの着信だった。
「もしもし、華恋です!」
 元気よく応答する。
 ちょうど祖母のことを考えていたところだったのだ。気持ちが通じた?
 続けて、どうしたの、電話を掛けてくるなんて珍しいね、と華恋は言おうとした。
 なにせ祖母は、祖父からスマートフォンを持たされているのに、ほとんど弄ることがない。メールどころか、電話すら滅多にしない人なのだ。
 何かあったのだろうか。
 しかし華恋が何か言う前に『華恋ちゃん、あのね』と祖母が言った。
『知らせるかどうか迷ったんだけど……』
 心なしか、いつもより暗い声だ。
 嫌な予感がする。
『おじいちゃんがね、入院することになったの』
「えっ、にゅ、入院?」
『ええ。昨日畑で倒れてね、救急車を呼んだのよ。それで検査したら……』
「どうだったの? どこが悪いの? わたし、すぐに帰るよ!」
『えっ、いいえ、すぐに悪化するようなものではないから、大丈夫よ。そう、ええと、肝臓がちょっとね、数値が……それだけ。大したことはないの。慌てて帰ってこなくていいわ。おじいちゃんも、華恋ちゃんには知らせるなって言い張ってるし。でもなんだか心細くてね……』
 祖母の声が、徐々にぼんやりと遠くなっていく。聞こえてはいるけれど、理解が追いつかない。だって、祖父が倒れた? 救急車? 入院?
 頭を硬いもので、ガンッと殴られたみたいだった。
 ──『死ぬ前に、華恋の花嫁姿が見たいなあ』
 脳裏に、低くてのんびりした声がよぎる。
 ──『先祖代々受け継いできた久永商事だが、このままでは久永家の手から離れてしまう。華恋が婿でもとって、会社も、家族も、周辺の土地も全部、儂の代わりに守ってくれるようにならねば、死んでも死にきれんわい』
 それは、祖父がお酒を飲むたびに呟く口癖だった。
 祖母も同意するようにうなずいて、華恋ちゃんよろしくね、と言っていた。
 華恋の記憶の中にいる祖父は、安心の塊だ。温厚で、力持ちで、風邪も滅多に引かなくて。何があっても祖父さえいれば、なんとかなると思っていた。
 倒れるなんて、想像もしなかった。
 大したことはないと祖母は言っていたし、その言葉を信じたい。けれど、考えてみれば祖父はすでに七十過ぎ。華恋が子供だった頃より、年齢を重ねている。
 通話を終えたあと、震える手で検索をした。肝臓の数値……どれのことだろう。食生活が原因とか、アルコールのとりすぎとか書いてあるが、ちっとも頭に入ってこない。
 しかし入院するからには、軽度ではないはずだ。
 怖い。父と母のように、ある日突然、祖父がいなくなってしまったら?
 いや、祖父だけじゃない。祖母だって、祖父と同い年なのだ。いつまでも今と同じ調子ではいてくれないだろう。いずれ、華恋はひとりきりになる。
 親戚もいないことはないが、遠縁だし馴染みはないから、ほぼ他人だ。
 未来を想像すると、突然だだっ広くて何もない場所に放り出されたようで……。
 しばらく動けなかった。