推し活女子とエリートくん 推し一筋の私をハイスペ同期がトロ甘溺愛してきます! 1
抱えきれない想いが口から出るとき、いつも単純な言葉になる。
「はあー……しんど」
頭をパカッと開いたら、一言では済まない感情がたくさん詰まっているはずなのに、どういうわけか上手く言語化できない。
「たまんないな……」
居酒屋の狭苦しいトイレで感嘆の声が漏れる。かれこれ五分以上、スマホで推しの画像を見続けている。
お人形さんのようなクリクリの目。艶を纏ったサラサラの黒髪。綺麗に上がった口角と、なめらかな頬を包む男らしい骨ばった手。わずかに見える白い歯一本一本さえも愛おしい。
「かっこいいのに、なんでこんなにかわいいの。意味わかんない」
碓氷真咲(うすいまさき)。三十一歳。中学一年生のころから大好きな人だ。
デビューしたのは、十八歳。七人組の男性アイドルグループ〝Premium love(プレミアムラブ)〟通称〝プレラブ〟のメンバーの一人だった。女の子のような愛らしい見た目とは裏腹に頭脳明晰、毒舌キャラであり、その場に適したキレのあるツッコミはバラエティー番組でとても重宝された。
ライブのうちわには〝笑顔で毒づいて〟なんてものもあり、わたしも〝にらんで〟、と描いたうちわを持参したことがある。
三十歳になったタイミングでプレラブを卒業してしまったけど、それ以降も舞台に出たり、ソロで曲を出したりするなど芸能の世界で活動し続けてくれている。最近ではドラマや映画にも出演するようになった。
年齢を重ねるごとに大人の男性の色気が出てきて、昨年発売された写真集にはシャワーシーンを切り取ったものがあった。際どいところまで見えている美しい裸体をスマホのロック画面にしようと思ったけど、万が一誰かに見られたときのことを考えて実行には至らなかった。
今のロック画面には、おにぎりを頬張っている愛おしさの塊でしかない画像を使わせてもらっている。真咲くんの顔を拝むだけで、わたしの頭はお花畑になる。
「あー……もう好き」
今日は職場の後輩の送別会だ。真咲くんを見るためにトイレに入ったわけじゃない。だけど、真咲くんが久し振りにSNSを更新していて、数秒見るだけでは満足できない画像を投稿していたから出るに出られない。
触れられなくても、言葉を交わせなくても、心が満たされるってすごい。自然と笑顔になれて、生きる活力になって、明日もがんばろうと思わせてくれる。
推しよ、今日もありがとう。
「逢坂(おうさか)さん、知ってました? この子再来月からロンドンに行くらしいですよ!」
真咲くんを堪能して席に戻ると、後輩社員が退職する子の肩を興奮気味に叩いていた。「彼氏さんの仕事の拠点が海外になるそうです!」と声を張る横で、彼女本人は頬を赤らめている。
退職する理由が結婚ということは知っていたけど、海外に行くことは初耳だった。そうなんだ、と頷き、飲みかけの烏龍茶で喉を潤す。
「家族や友人と離れることにさみしさはあるけど、永遠に会えなくなるわけじゃないし、今の時代、ビデオ通話だって簡単にできる。海外生活に憧れもあったから、正直今は不安よりもワクワクした気持ちでいっぱいです」
上擦った声で気恥ずかしそうに話す彼女は、頭のてっぺんから足の爪先まで幸せに満ち溢れている。
結婚。寿退社。
上司や先輩社員、同期がそのルートを選ぶのを目の当たりにしてきたけど、ついに後輩もその道に進んでいった。
ふっ、と息を吐く。この先もわたしは見送る側で過ごすことになるかもしれない。交際経験どころか恋愛経験も一度もないまま、社会人四年目、二十六歳になってしまった。
学生時代、わたしと同じように好きなアイドルや芸能人を応援していた友人たちには、いつの間にか恋人ができていた。わたしは告白をされても、男の子を紹介されても、まったく心が動かなかった。どんなに素敵な人だとしても、真咲くんが一番だと思ってしまう。
恋人を作ってみたいからって、好きでもない相手とは付き合いたくない。その時間は真咲くんを応援することに捧げたい。大学生になってもその信念を曲げずにいると、友人たちに「いい加減現実見なよ」と呆れられた。正直、ショックだった。
わたしは別に真咲くんといつか付き合えると夢見ているわけじゃない。ただ純粋に真咲くんが好きで、これからも楽しく活動してくれるよう愛を届けているだけだ。それなのに、恋をすることなく推しを応援することは、現実から目を背けていると思われる。
別に恋をしたくないと思っているわけじゃないし、年齢を重ねるだけで、ライフステージが変わる予兆が一切ない自分の人生に焦りも感じはじめている。
恋愛の〝れ〟の字もない日々を過ごすわたしに何も言わなかった両親までも、「誰かいい人いないの?」と会うたびに訊いてくるようになった。結婚はともかく、いっそ誰かと一度でも付き合えば安心するのでは? と思うけど、そもそも好きな人がいない。
このまま一生独りだったらどうしよう。真咲くんに匹敵する魅力的な男性が突然目の前に現れないかな……と机上の空論を思い浮かべていたときだ。
「ねえお姉さん、おすすめ教えてよ~」
隣のテーブルのおじさんに声をかけられた。かなり酔っているようで、赤い顔でビールを持ったまま左右に揺れている。
「店員さんに訊いてください」
大テーブルの端に座っていると、こういうことがあるから困る。適当にあしらい、大皿に入った揚げ出し豆腐を取ろうとすると「お姉さんが飲んだの教えてよ~」と手首を掴まれた。
「やめてください」
睨みつけて振り払おうとした直後、わたしとおじさんの間にするりと長い腕が割り込んだ。
「お酒よりお水飲んだほうがいいんじゃないですか」
おじさんの分厚い手首を色白の手が掴み上げている。穏やかな口調なのに声の冷たさで強い圧を感じた。おじさんのテーブルに水が入ったグラスを置き、すっと目を細める。
「飲酒は肌に悪いので、ほどほどにしてくださいね」
念押しするようにグラスを近づけると、わたしの腕を掴む。
「逢坂さん、俺が座ってたところ行って。また絡まれちゃうよ」
「ありがとう。そうさせてもらう」
お礼を言うと、整ったパーツが並ぶ小さな顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
阿南大翔(あなんひろと)。わたしと同じ商品企画部に所属しており、かつ同期の一人だ。わたしは彼を見るたび、身長デカいな、と思っている。
真咲くんは一七八センチ。握手会イベントで初めて間近で真咲くんを見たときの衝撃を阿南さんにも感じる。彼の身長は、おそらく真咲くんと同じくらいか、それ以上。高身長の男から突然話しかけられ、おじさんもびっくりしただろう。
グラスと皿と箸を持って阿南さんがいた席に移動するや否や「ねえ! 阿南さんイケメンすぎない!?」と両隣から詰め寄られた。
「酔っ払いから助けてもらってたでしょ? かっこよすぎて正直逢坂さん羨ましかった」
「わかる。阿南さんが来てくれるなら喜んで絡まれますって感じ」
本人がトイレへ行っていないのをいいことに、同僚二人は鼻息荒く話している。
阿南さんは、社内で〝ハイスペックイケメン〟と騒がれている。
わたしが勤務する株式会社シュウェットは、彼──阿南大翔の父が社長兼CEOを務めている株式会社アナンのグループ会社である。日本の化粧品メーカーの大手企業であり、化粧品だけではなく、日用品の製造・販売も主な業務としている。十数年前から海外市場にも参入し、新しい顧客の獲得や国際的な知名度の向上にも力を入れている。
つまり、阿南さんは有名企業の御曹司。スキンケアやポイントメイクなどの製造・販売をする株式会社シュウェットに入社した一年目で、営業成績トップを飾ったという俄かには信じ難い噂まで持つ恐ろしい人物。仕事の優秀さのみならず、彼の整った容姿も耳目を集める要因になっている。
切れ長で色気のある瞳、毛穴ひとつ見えない透明感のある肌に、形のいい紅色の唇。正面からでも十分すぎるほど整っているのに、横から見ると鼻の高さが際立ち、横顔は絵画として展示したいほど美しい。クールで物静かそうな人に見える分、クシャッとした笑顔と物腰の柔らかい接し方がギャップとして最高で、もはや出勤してくれるだけでありがたい存在。光沢のある黒髪は眩しく、セクシーな低音ボイスはストレスを軽減してくれる──と同僚が熱く語っていたのを聞いたことがある。
「逢坂さんはときめかなかったの? 阿南さんに助けてもらって」
何事もなかったようにイカの刺身を食べていると、右側に座っている同僚に信じられないという顔で見られた。
「特にそういうのはないですね」
手足もモデルのように長く、顔も小さい。スタイル抜群で芸能人みたいだなと思うし、非の打ち所がない人だとも思うけど、ときめきを感じたことはなかった。
「今にはじまったことじゃないけど、逢坂さんって阿南さんに無関心だよね? かっこいいと思わない? 圧倒的な美男子よ?」
「綺麗な顔だと思いますよ。でもタイプじゃないので」
わたしは真咲くんのようなかわいい顔が好きだ。というか、真咲くんの顔が好き。二人とも甘めの顔立ちをしているけど、阿南さんはなんというか高級菓子に近い。すぐに形が崩れてしまいそうな、持ち運ぶのが難しい上品で繊細な洋菓子。
「クールだね、逢坂さん。タイプじゃなくても、かっこいい~ってなるものじゃない?」
そう言われても曖昧に首を傾げるしかない。多くの女性が虜になっている阿南さんにも心が弾まないとなると、わたしはこれから先、真咲くん以外、誰ひとりとして好きになれないのかもしれない。
毎週水曜は、真咲くんが出演しているドラマが放送される曜日だ。万が一リアタイできなかったときのことを考えて毎週録画に設定しているけど、一番の理由は真咲くんの出演シーンを繰り返し観るためだ。
リアタイで物語全体を楽しんで、録画で真咲くんだけを注目して観る。三周目で一時停止しながら真咲くんの表情を楽しむ。それが理想の視聴の仕方。
でも、今日はリアタイするのは難しいかもしれない。
「逢坂さんもどう? 久し振りに同期でごはん行かない?」
退勤時間まで残り三十分。取引先との打ち合わせを終えて、無事に定時で上がれそうだと浮かれていたタイミングでごはんに誘われた。
ドラマの放送開始時間は、二十二時。
十八時に退勤して、それからごはんを食べて、二十時くらいに解散したとする。二十一時前に家に着いて、そこからお風呂に入ったら、二十二時前にはテレビの前にスタンバイできる。少しでもごはんの時間が延びようものなら、開始と同時のリアタイは厳しい。
正直、断りたい。だけど前に誘われたときも真咲くんのライブ配信を観たいがために断ってしまった──。
「うん。行く」
社会人には付き合いというものがある。毎回誘いに乗らないと印象が悪い。二十時にお店を出さえすれば、真咲くんを拝める。さっと食べて、適当に理由をつけて帰ろう。
ごはんに行くメンバーは、他の部署の同期も含めた六人だった。職場近くの和食居酒屋に入り、各々食べたいものをタブレットで注文していく。先にドリンクと豆腐のサラダが運ばれて、少しずつテーブルに唐揚げやアジフライ、天ぷらなど脂っこい料理が増えていった。
「逢坂さん、なんか取ろうか?」
「え?」
右隣に座っている阿南さんに話しかけられたのは、スマホで時間を確認した直後のこと。「お肉とか食べてないでしょ?」とわたしの皿を指差して、「食べたいのあったら取るよ」と気を配ってくれる。
現在の時刻は十八時五十分。入店してからわたしが食べたものといえば、サラダとだし巻き玉子くらいだ。
「大丈夫。あんまりお腹空いてないの」
──言えない。来週末に控えている、真咲くんが出演する映画の舞台挨拶に向けてシェイプアップ中で、最高の状態の自分で当日を迎えたいなんて。
「逢坂さんダイエットしてるの?」
はす向かいに座っている別部署の男性が唐揚げを頬張った口をもぐもぐと動かす。
「ダイエットっていうか、軽く気をつけてる程度だけどね」
「えー。全然太ってないし、今でも十分綺麗で細いのに。必要ないよ」
ジロジロとたっぷり見つめられる。素直に褒めてくれているのか、お世辞なのかわからない。真咲くんに 〝綺麗だよ〟って言ってもらえたら、一生寝なくても生きていけるレベルのパワーが湧いてきそうだけど。
「こーら。体形のこと言うのあんまよくないよ」
舞台挨拶で目が合い、わたしだけに微笑んでくれる真咲くんを想像していると、阿南さんが柔らかな声で彼を窘めた。視線をガードするように、左腕をわたしのほうに伸ばしている。
「なんだよー。いちいちイケメンだなお前は」
「ごめん、逢坂さん。あいつ悪気はないだろうから気にしないでね」
阿南さんが誰よりも申し訳なさそうにしていた。「大丈夫。ありがとう」と伝えながら、送別会のときといい今回といい、阿南さんは本当にできた人間だなあと感心する。
今の部署に配属され、周りから阿南さんの話を聞いたとき、すごく傲岸不遜な男性なのでは? と疑った。家柄が立派で顔もいいなんて、きっと子どものころから多くの人に親しまれる人気者だっただろう。どんなときも自分が一番じゃないと気に食わない横柄な大人になってもおかしくない。
だけど、一緒に仕事をしていくうちにそうではないことがわかった。常に機嫌が穏やかで、仕事も早い。自分のタスクさえやり遂げればいいというわけでもなく、周りをよく見ていて、困っている人がいればすぐに気づくし、溜まった業務を手伝っていたこともある。
商品企画部はさまざまな人と関わり、違う意見を持つこともよくあるけど、阿南さんは相手の話をきちんと聞いて、真っ向から否定せず、改善点や良案を出す。その場の雰囲気を壊すことも、誰かを不快にすることもなく、ちょうどいい着地点を見つけるのが上手い。
変に妥協もしないし、かといって押しつけがましさもない阿南さんとは仕事がしやすくてとても助かる。
ただのお金持ちのお坊ちゃんだろう、と思っててごめんなさい。同期とのごはん会でも素晴らしい人柄を見せる阿南さんは、きっとプライベートでも人望を集めている聖人君子なんだろう。
ちなみにわたしは職場ではクールで冷静な人だと思われているけど、真咲くんを愛でることを生きがいとして、少しでも真咲くんのことを考えたら顔がとろりとにやけてしまう、熱いパッションを持った女──。
「逢坂さん」
「ひっ!」
トイレ待ちの最後尾に並び、スマホで真咲くんのSNSをチェックしていると、背後から声をかけられた。慌てて振り向けば、「驚かせてごめん」と片手で詫びている阿南さんがいる。
「な、何?」
心臓がバクバクしている。ピンク色のクッションに顔を埋めている真咲くんが映った画面を見られたかもしれない。瞬時にスマホを胸に押し当てたから、ギリギリセーフだったと思いたい。
「もう一軒行こうかって話出てるんだけど、逢坂さんどうかなって」
阿南さんに特に変わった様子はない。
「あー……わたしは遠慮しとこうかな」
行ったら確実に真咲くんのドラマに間に合わないので。
スマホで時間を確認しながら答えると、阿南さんは不思議そうに首を傾げた。
「このあとなんか予定あるの?」
「え?」
「今日ずっと時間気にしてるように見えたから。無理して来てくれたのかなって」
「無理とかではないんだけど……」
この状況を切り抜ける上手い返しが見つからない。推しのドラマを観たいので二十時に帰りたいだけ、と伝えるのが一番手っ取り早いのに。
「もしかして彼氏?」
「えっ、あ、うん」
脊髄反射で頷いてしまった。彼氏なんかいたことない! と心の中で否定しても意味がない。もう手遅れだ。
「あ、こういうのもセクハラか。ごめんね」
「ううん、大丈夫。気にしないで」
真咲くんのことを彼氏だと本気で思っているイタい女になった気分だ。男子トイレに入っていく阿南さんの背中を見送りながらため息をつく。
大丈夫。阿南さんは人のプライベート話を吹聴するような人じゃない。だから、(本当はいないのに)わたしに彼氏がいることは職場に広まらない。つまり、今後にまったく支障はない。
「……帰りたい」
こんな一回きりの嘘、神様は見逃してくれる。
***
なんか今日の逢坂さん、いつもと違うな。
開発担当者との打ち合わせを終えて執務室に戻るエレベーターの中、逢坂さんを盗み見する。
なめらかな鼻筋と、ふわりとした薄紅色の唇。癖のないブラウンの髪を今日は後ろでひとつに結んでいて、首の長さと細さが際立っている。白色のブラウスにベージュ色のジャケット、グレーのパンツ姿という落ち着いた色でまとめるのが彼女のスタイルだ。綺麗な横顔も、真っ直ぐ伸びた背筋も、彼女の隣のデスクで仕事をしているからよく視界に入る。
一見すると、いつもと変わらない。だけど、やっぱり──。
「逢坂さん、先どうぞ」
エレベーターの扉の開くボタンを押すと「ありがとう、阿南さん」と頭を下げる。
「いいえ」
先に降りた逢坂さんの斜め後ろを歩きながら、やっぱり違うわ、と何度目かの違和感が募った。
今日の逢坂さんは、明らかに機嫌がいい。
出勤したときから思っていた。挨拶の声音が普段よりも高く、いつもより表情が柔らかい。リズムに乗っているように一挙手一投足が軽やかで、さっきの打ち合わせの準備中には小さく鼻唄を歌っていた。
──いいことでもあったんだろうか、彼氏と。
この前、同期でごはんに行ったとき逢坂さんに恋人がいることが発覚した。正直、意外だった。美人な上に仕事もできてモテそうではあるけど、彼女自身は他人にあんまり興味なさそうだな、と勝手な印象を持っていたから。
逢坂さんの口が開くのは仕事の話をするときぐらいだ。いつだって淡々と仕事に取り組み、自分の話をしているところは見たことがない。周りと距離を置いているわけではなさそうだが、積極的に関わっている様子はなく、基本一人でいるのが好きなんだろうと思っていた。
別に無愛想というわけではない。同僚ともコミュニケーションを取るし、後輩のフォローもきちんとする。トラブルがあっても落ち着いて迅速に対応をしてくれる逢坂さんは取引先からの評判もいいし、社内でも頼りにされていて、俺も信頼を置いている。
(……そりゃあ、恋人ぐらいいるよな)
職場での姿なんて彼女の一部にすぎないと、今になって思う。
「フンフーン♪」
本人は無意識なんだろう。隣のデスクから小さく鼻唄が聞こえてくる。メールを作成していた手を止めて、ふう、と小さく息を吐いた。
なんでちょっとショックを受けているんだろう。好意を寄せていたわけでもなければ、逢坂さんのタイプが俺じゃないことは送別会のときにはっきりとわかっていたのに。
『綺麗な顔だと思いますよ。でもタイプじゃないので』
トイレから戻ったタイミングでそれを聞いて、そうだろうな、という納得感があった。逢坂さんだけは、俺のことを異性として意識せず接してくれていたから。
大半の女性は俺と目が合うだけで恥ずかしそうに顔を逸らして、あたふたする。日常の些細な場面で、〝男〟と意識されると、途端に仕事がやりづらくなるから困る。だけど、逢坂さんは猫のような大きな瞳に俺を映し続けるし、偶然手が触れてしまっても、顔色ひとつ変わらないし、声のトーンも一切乱れない。ただの同僚として見てくれていることが、すごくありがたかった。
それもこれも、逢坂さんに彼氏がいて、俺に興味も関心もなかったからだ。タイプじゃないからこそ、なんのフィルターもない状態で接することができる。
今日、逢坂さんがこれだけ上機嫌なのもきっと彼氏のおかげ。
職場では感情を表に出すことのない逢坂さんに鼻唄まで歌わせる男っていったいどんなやつなんだろう。きっとその男は、逢坂さんの好きな食べ物とか趣味とか俺が知らないことをたくさん知っている。
(……なんかうぜーな)
俺を〝男〟として意識せず接してくれる逢坂さんに感謝しているのに、俺には絶対見せない逢坂さんを知っている男がいることが気に食わない。
妙な特別感を抱いていたせいだ。逢坂さんだけは、家柄も外見も切り離して、俺自身を見てくれているような気がしていた。
自分が特別だと思っていた人に特別な誰かがいることが、ひどくやるせない。
***
推しには美肌成分が含まれている。真咲くんを直接摂取する前と後では、明らかに肌の状態が違う。色ツヤもキメの細かさも化粧ノリも格段に良くなる。自社製品にその成分を取り入れたい。
そんなことを開発担当者や研究者に言えるわけもないけど、美容液やシートマスクなどのスペシャルケアの中に、推しが含まれているといっても過言ではない。
「んふふ」
先日の舞台挨拶を思い出して頬が緩んだ。
生で見る真咲くんは相変わらずかっこよかった。席は遠かったけど、同じ空間で呼吸できることがこの上ない喜びだった。マイクを通した声は蜜のように甘くて、わたしをいつまでも幸せに浸らせた。
かっこよすぎるのは罪だ。真咲くんはわたしの日常生活を脅かす。仕事中も脳内を占領してわたしを困らせてくるけど、真咲くんでいっぱいになるのは嫌いじゃない。
「逢坂さん」
右側のデスク──阿南さんから名前を呼ばれて顔を上げた。
「明日のミーティングなんだけど、予約してた会議室の空調の調子が悪いみたいだから、別のところに変更しとくね」
「わかった。ありがとう」
今、わたしと阿南さんはスキンケア商品のリニューアル企画に携わっている。
昨今は小中学生という若年層も美容への意識が高まっていて、メイクやスキンケアに興味のある子が増えた。そんな幼いころから手入れをしなくても……という意見もあるが、ニキビや乾燥など、新陳代謝が活発な年代故の悩みを抱える子も多い。
肌に優しい低刺激かつ手に取りやすい価格の商品は既に販売しているが、より悩みにアプローチできるものを目指している。
明日のミーティングでは、試作品をいくつか試すことになっていた。実際に肌に塗りながら意見を出し合うのだけど、感じ方が人それぞれでいつも有意義な結果を得られる。
話を終えたあと、阿南さんがまだじっとわたしを見ていた。不思議に思って見つめ返すと、朗らかな笑みを残して席を立つ。
なんだろう。顔に何かついてる? 手鏡で確認してみるも特に何もない。
そうだ。今日は帰ったら録画していた真咲くんのドラマをもう一回観よう。朝、鏡の前で髪を慌ててセットするところがリアルで、真咲くんとの同棲生活を味わえる。……たまらない。
よしっ。気合いを入れて、今日届いたすべてのメールに返信をしていく。明日は月に一回、ファンクラブ限定で真咲くんの動画が公開される日だ。油絵や陶芸、アイススケートなど、毎月あらゆることを体験してファンに共有してくれる。
真咲くん、今月はどんなことやったのかなあ。楽しみだなあ──。
【碓氷真咲より大切なお知らせ】
うん?
翌日。十三時からのミーティングの準備を終えてお昼休憩に入ると、ファンクラブ会員宛てにメールが届いていた。動画更新のお知らせが届くのは、いつも十七時。こんな時間にメールが来るなんて初めてかもしれない。
休憩室の窓際の席。コンビニで買ったサンドイッチよりも、スマホを握りしめてしまう。
大切なお知らせ……? 新しい仕事が決まった? まさかプレラブ再加入? ブログの書籍化? オフラインイベント開催決定? スキャンダル? 芸能界引退……?
ドッドッドッと心拍数が増していく。怖い。メールのURLをタップできない。いいお知らせの可能性もあるのに、どうして悪いことを想像してしまうんだろう。
いつどんな形で姿を消すかわからないから、推しは推せるときに推せというけど、もしかしてついにわたしも──。
手に汗を握り、震える指でURLを押す。
どんなお知らせも見届けよう。真咲くんのファンなんだから。真咲くんがした決断を世界中の人が否定しようとも、わたしだけは全力で尊重するから──。
【いつも応援してくださるファンの皆さまへ。この度、かねてよりお付き合いさせていただいている方と結婚する運びとなりました。大切なファンの皆さまに一番にお伝え──】
ガコン、とスマホが滑り落ちた。
心がポーンと宇宙空間に放り出された。頭の中がグワングワンと揺れている。上下左右がわからない。
これは現実じゃない。真咲くんを間近で見たときと同じ感覚だ。
この世のものとは思えない美しさとかっこよさを脳が処理できなくて、別の世界を作り出す。石のように固まってその場に佇むことしかできないわたしに、「大丈夫?」と真咲くんが優しく話しかけてくれて、陽だまりのような笑顔はわたしの硬直した心を解きほぐしてくれた。
【突然の報告で驚かせてしまって申し訳ありません。これからも感謝の気持ちを忘れず、より一層精進してまいりますので、あたたかく見守っていただけますと幸いです】
真咲くんの直筆メッセージが脳裏に焼きつく。
これは現実だ。
推しが結婚した。
真咲くんが結婚した。