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子作り契約、はじめました。 独占欲強めの顔がよすぎる同期と目的を達するまで××します 2

第二話

 

 金曜日──。
 終業のチャイムが鳴っても怜衣は肩から力が抜けなかった。少しでも落ち着こうとパソコンの電源をオフにしてからデスク周りを片付ける。そして、同僚と挨拶を交わしてもどうにもそわそわしてしまった。
 怜衣の正体を知られてから数日が経った。匠海は外出が多く、顔を合わせる機会はほとんどなかったのが不幸中の幸いだった。もし顔を合わせていたら確実に挙動不審になっていただろう。
 ビルを出ると夕方の空気がひやりと頬を撫でた。街は週末前の浮ついた熱を帯びている気がする。怜衣はその流れから少しだけ外れるように駅前の明るい通りを離れ、裏路地へと入った。
 辿り着いた店は塀に看板がぶら下がっているだけの小さな店だった。細い路地の奥にいかにも「隠れ家」という風情の木の扉がある。店の前で足を止めた怜衣は時間をたしかめた。
 本音を言うと逃げたい。けれど逃げたところでなにも解決しないだろうし、むしろ悪化するだけだ。匠海に知られてしまった事実は覆らないし、父からの圧力はなくならない。
 それならせめて、正直に打ち明けるしか道はないだろう。もしかすると打開するアイデアをもらえるかもしれない──そう自分に言い聞かせ、怜衣は真鍮のレバーに手をかけた。
 重さの感じられる扉の向こう側は驚くほど広々とした空間だった。天井が高く暖色の照明が柔らかく壁を照らしていて、外見から想像したよりずっと奥行きがある。壁には様々な種類のワインボトルがずらりと並び、穏やかなピアノ曲が空気の隙間を埋めるように流れていた。
 予約名を告げると店員が店の奥へと案内してくれる。
(このお店は、あえて裏路地に作ったのかもしれない)
 そんなどうでもいい想像をしてしまうのは、緊張の逃げ道を探しているからだろう。ここは人の目を気にせず談笑できる。だからこの店を指定したのかもしれない。あまりにも目的にぴったりな店選びに思わず感心してしまう。
「お連れ様がお見えになりました」
 通された個室の扉が開かれる寸前、怜衣は静かに深呼吸した。
 二人で使うには広すぎる部屋では、すでに待ち合わせ相手が座っている。
 匠海はジャケットを脱いでシャツの袖を軽く捲っており、手にしている細身のグラスは早くも中身が半分ほど減っていた。リラックスした様子から察するに、この店に来るのは初めてではなさそうだ。
 あの夜──母との電話を聞かれてしまった時、怜衣は半ば強制的に匠海と連絡先を交換させられた。そして何度かのやり取りを経て、この「詳しい話を聞かせる」場が用意されたのだ。
「……お疲れさま」
「あぁ。お疲れ」
 なんと声を掛けるべきか悩んだが、結局は無難なものになってしまった。そんな怜衣の気持ちを知ってか知らずか、匠海はいつもと変わらない調子で返してくる。
 ただ挨拶を交わしただけだというのに、にわかに緊張が高まってくるのを自覚した。それはきっと、こちらに向けられている視線のせいだろう。いつもなら素っ気なく、まるで拒絶するかのように目を逸らされていたはずなのに、今日はそれをしないのはなぜだろう。
 怜衣は軽く目を伏せたまま向かいの椅子に腰を下ろし、ショルダーバッグを壁際のサイドテーブルに置いた。いつもなら自然とできる動作が、食い入るように見つめてくる眼差しのせいでぎこちなくなってしまう。
 背中を軽く背もたれに預け、差し出されたおしぼりを受け取る。指先から伝わってくる温もりに助けられ、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
「飲み物はどうする?」
「えっと……あ、生ビールがあるんだね」
「あぁ、これがそうだ」
 匠海が傍らにある細身のグラスを軽く持ち上げる。イタリアンレストランなので発泡ワインにしようかと思っていた。だが、ドリンクメニューの表紙に見知らぬビールメーカーの生ビールが紹介されているので、これがおすすめなのだろう。
「同じものをお願いします」
 店員は「かしこまりました」と笑顔で告げてから退室していく。扉が閉められた途端、ここが二人きりの、周囲から隔絶された空間であることをはっきりと感じてしまってさらに落ち着かなくなってきた。
「今日は飲みすぎるなよ」
「……わかってます!」
 居心地の悪い沈黙が揶揄い交じりの声によって霧散する。反射的に怜衣はむきになって返した。それは明らかに同期会での言動を指しているのだろう。母に電話で噛みつき、自己嫌悪で廊下にしゃがみ込むという醜態は思い出すだけで悶絶しそうになる。
 その記憶を掻き消すように素早く切り返すと、匠海がくくっと喉を鳴らして笑った。
(こんなに笑った顔を見るのは、久しぶりかも)
 驚きのあまり、怜衣は瞬きを忘れて見入ってしまう。ここ数年、彼の笑顔といえば口角がほんのわずかに上がるだけの、ごく薄い──辛うじて微笑みと呼べるものしか見たことがない。
 いつしか匠海は笑い方そのものを忘れてしまったのだとさえ思っていた。それほど、怜衣の前にある表情は珍しいものなのだ。
 肩を揺らして匠海が笑う姿に、頬が熱を帯びてくるのを自覚する。まだ琥珀色の液体に満たされたグラスは届いていない。それさえ来れば、アルコールのせいにできるのに。怜衣はきゅっと唇を引き結んで無駄な抵抗を試みた。
「お待たせいたしました」
 細いグラスが怜衣の前に置かれ、続いて前菜の盛り合わせが運ばれてきた。「ごゆっくりどうぞ」の言葉の後に扉が閉まる。
 白い楕円の皿には生ハムとサラミのスライスとホタテのグリル、カプレーゼ、パプリカのマリネが品よく盛り付けられていた。食欲を刺激する色彩に急にお腹が鳴りそうになる。さっきまで張り詰めていた神経が「食べたい」と訴えはじめた。
 怜衣はグラスを目の高さまで上げ、匠海もそれに倣うように細身のグラスを掲げた。
「……乾杯」
「乾杯」
 琥珀色の液体を喉へ滑り込ませると、苦みが少なく爽やかな飲み口が広がっていく。ほんのり柑橘の気配が感じられてとても美味しい。思わずもう一口、とグラスを傾けかけたところでぴたりと手を止める。
(しまった。呑気に飲んでいる場合じゃないんだった)
 ビールの美味しさに気を取られて大事なことを忘れそうになってしまった。怜衣はグラスをコースターに戻すと、膝の上で両手を重ねて姿勢を正した。
 深呼吸をひとつ。ここは茶化したりせず誠実に、と心の中で自分に言い聞かせる。
「先日は、その……失礼なことを言ってしまってごめんなさい」
 口に出した瞬間、あの夜の自分自身が脳裏に浮かぶ。寝不足な上に酔っていて、追い詰められていた。挙句の果てに、まるで匠海が「顔だけの男」だと言わんばかりの発言をしてしまった。
 どれだけ正常な状態ではなかったとしても、口にしたのは事実。だから、ここは余計な言い訳をせずに謝罪しなくてはならない。
「気にするな」
 文句や嫌味のひとつくらい言われると覚悟していたというのに、匠海は驚くほど軽い口調で許してくれた。テーブルに落としていた視線を恐る恐る上げていくと、なぜかそこにある整った顔には不敵な微笑みが浮かんでいる。なんだか嫌な予感がして怜衣は身を固くした。
「しかし、玄紋舎のお嬢様だったとはな」
「う……そう、です」
 前置きなく核心を突かれ否定はできない。「お嬢様」と呼ばれるのは居心地が悪いが、電話の内容はしっかり聞かれていたことがこれで証明されてしまった。
 天樹アセットマネジメントで働く佐伯怜衣は、ごくごく平凡な会社員に見えていたはずだ。住まいはオフィスまで一回乗り換えで一時間ほどかかるアパート暮らし。昼食は基本的に自作の弁当で、服装もファストファッションをうまく組み合わせているし、バッグも靴も機能性を重視している。
 その姿からは「お嬢様」の気配は完全に排除されていた。だから、これまで社内で怜衣の正体に気づいている者は誰一人としていなかったというのに、あまりにも迂闊だったと後悔している。
「玄紋舎のお嬢様だったら、もっと前に結婚の話は出ていたんじゃないのか?」
 フォークを手にした匠海の淡々とした問いは核心を的確に突いてきた。生ハムを口に運ぶ所作が妙に洗練されて見えるのは、怜衣の気にしすぎだろうか。
「えーと、実は……それが原因で家を出たんだよね」
 明るい口調で打ち明けながら、喉の奥から苦いものが込み上げてくるのを感じた。思い出すだけであらゆる悪感情が胸を焦がすけれど、匠海に話をしなくてはならない。
 少し長くなるけど、と前置きしてからゆっくりと語りはじめた。
 昔から父は高圧的で、佐伯家の繁栄がなにより重要だと考える人だった。男尊女卑の思想も強く、幼い頃から負けん気の強かった怜衣は折に触れて反発してきた。
 どれだけ怒鳴っても、なにを言っても従おうとしない長女に呆れたのか、高校生になった頃には会話らしい会話をしていなかったと記憶している。
 そして、父娘が完全に決裂したのは、怜衣が大学三年生の時。就職活動を始めた怜衣に向かって言い放った。
『就職などしなくていい。お前は大学を卒業したらすぐに嫁ぐんだからな』
 久しぶりにまともに話をした父は、まるで決定事項のように告げた。怜衣は当然ながら反発したが、冷ややかに言い渡したのだ。
『従わないなら、来年の学費は出さない』
 それは明らかな脅し。けれど父からすれば、子が親に従うのは当然のことなのだ。
 たとえ今回拒否したところで、この先も怜衣は佐伯家のものであり、その人生は取引の材料にされ続けるのだと思い知らされた。
 怒りが大きすぎると人は逆に冷静になるらしい。怜衣には世界が急に色褪せて見えて、思わず笑ってしまいそうになった。
 そして──絶対にこの家を出ていくと決めたのだ。
 結局怜衣は、大学四年の学費はそれまで貯金していたお年玉やお祝い金で支払い、就職活動に精を出した。採用してくれるならどこでもいい、というわけではない。給与だけでなく福利厚生もしっかり吟味し、寝る間を惜しんでエントリーシートを書き、面接のシミュレーションを繰り返した。
 そして、日本でも有数の不動産デベロッパーである天樹開発の子会社、天樹アセットマネジメントの内定を勝ち取った。
「そんなわけで、大学を卒業してすぐに家を出たんだ」
 勘当されたも同然の状態なので援助は一切受けていない。一人で暮らし、働き、自分の力だけで生活している。
 語り終えた怜衣はすっかり泡の消えたビールを飲んだ。当時を思い出すと今でも腹が立ってしまう。だが、その怒りは燃え上がる炎ではなく、鋭く研がれた刃のように冷え冷えとしていた。
 まさか、有名和菓子店である玄紋舎の社長がそんな人物だと失望されたかもしれない。経営者としては優秀だとフォローを入れるべきかとも思ったが、そんな義理もないかと開きかけた唇をきゅっと閉じた。
「どうして今になってその話が再浮上したんだ?」
 匠海の問いは短く、無駄がない。けれど、その一言が怜衣の胸を締めつけた。淡々としているのに逃げ道を作らないのが交渉上手と言われる所以だろう。
「……この話は、他言しないでほしいんだけど」
 個室とはいえ壁の向こうに人がいる。怜衣はフォークを持ったまま声を落とした。優斗の失踪は対外的には病気療養とされているはず。もし情報が漏れたら、怜衣が誰かに話したとすぐに突き止められてしまうだろう。
 いつになく真剣みを帯びた怜衣の口ぶりに、匠海がすぐさま軽く頷いた。
「わかった。約束する」
 言質を取った怜衣は静かに大きく息を吸った。口にして事実を再認識するのが怖いけれど、ここまで来た以上は後戻りはできない。
 覚悟を決め、より潜めた声で語りはじめた。
「……なるほどな。だからここ最近、様子がおかしかったのか」
 匠海は驚いた様子はなく、むしろ腑に落ちたように呟く。フォークを持つ怜衣の手がパプリカを刺したまま止まった。
(心配していた? そんな素振り、微塵も見せなかったのに……)
 飲み会の場で美咲に心配されてしまったものの、仕事で頻繁に話をする陽菜や康太から指摘されたことはない。だからうまく隠せていると思っていたのに、匠海は異変を感じ取っていたらしい。いくら同じ部署にいるとはいえ、言葉を交わす機会は多くないというのに、どんなところで気づかれていたのだろう。
 訊ねたい。けれど、今はその勇気が出なかった。
「同期会でなかなか戻ってこないから、ついにどこかで倒れたのかと思ったぞ」
「あははっ、ご心配をおかけしました!」
 怜衣は朗らかに感謝を口にしてからパプリカのマリネをぱくりと頬張った。甘みと酸味のバランスが良い。香ばしさが奥に残っているので、一度焼いてからマリネ液に漬けているのだろうと想像する。こんなふうに料理のことを考えると少しだけ現実から逃げられる気がした。
 もぐもぐと咀嚼する怜衣を匠海がじっと見つめている。さっきと同じ、逸らされない視線に落ち着かなくなってくる。頬が少し熱くなっているのに気づき、怜衣は慌ててグラスに手を伸ばした。
「それで?」
「え?」
「これからどうするのか、という意味だ」
 怜衣はわずかに残った炭酸が舌の上で弾けるのを感じながら思案する。
(まあ、気になるよね……)
 ここまで事実しか語っていないので、怜衣がこれからどう動くつもりなのか訊ねてくるのは当然だろう。怜衣はフォークを置き、膝の上で指を組んだ。
「逃げ回っていても仕方ないし、実家に行って話をするつもり」
 言葉にしたことで決意の形を取る。だけど決意と言うにはまだ不確定で、揺らぎを残していた。行けば父は一気に話を進めようとしてくるだろう。もしかして相手を決めるまで家から出してもらえないかもしれない。
 だけど怜衣は、逃げ続ける生活にいよいよ限界を感じるようになっていた。
「つまり、親が決めた相手と結婚するということか?」
「うーん……どうだろう。嫌だけど、仕方ないかなぁって思ってる」
 怜衣は言葉を濁す。正直、自分でもどうするのが正解かわからなかった。
「一応の確認だが、今は付き合っている相手はいないんだよな?」
「いないけど、一応ってさすがに失礼だよ」
 急な飲み会や週末のイベントにも、怜衣はわりと身軽に参加している。交際相手がいないと思われても仕方がないとはいえ、確認の仕方というものがある。
 むっとして抗議したものの、匠海は無表情のままさらりと受け流した。
「まぁ……実のところ、恋愛は諦めてるんだ」
「理由を訊いてもいいか?」
「大した話じゃないんだけどね」
 怜衣は中身の減ったグラスを見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「大学生の時に憧れていた先輩から告白されて付き合ったんだけど……私自身を好きだったわけじゃないっていうのが、しばらくしてわかったんだ」
 あの時の衝撃と悲しみは、今でも思い出すだけで身体が強張る。
 文武両道で、甘いマスクの先輩は皆の憧れの的だった。そんな彼から告白されて舞い上がり、一も二もなく頷いてしまったのは、若気の至りとしか言いようがない。
 交際を始めてからも先輩は優しかった。怜衣の前ではいつも穏やかで気遣いのできる人だった。だからこそ、あの日耳にした言葉を最初はうまく理解できなかった。
 ある日の放課後、偶然、彼が友人と話しているのを扉越しに聞いてしまったのだ。
『あいつと結婚できたら玄紋舎の役員コースが確定するだろ? 正直女としては物足りないけど、あの家の娘って肩書はでかいよな』
『それ、付き合ってて楽しいのかよ』
『楽しいとかじゃないんだって。将来の投資。玄紋舎がついてくるなら、多少のマイナス要因は目をつぶらないとな』
 周囲がどっと笑いながら同意する声を耳にした瞬間、全身から一気に血の気が引いた。
 子どもっぽい見た目を気にしていなかったわけではない。小柄な身体も、年齢より幼く見られる顔立ちも、怜衣にとってはずっと人知れず抱えてきた劣等感だった。
 それを「好きだ」と言ってくれたはずの人が価値の低い欠点として笑っていたことで、心に深い傷を負ってしまった。
 その後ほどなくして、怜衣の方から別れを告げ、それ以来男性に対して不信感を抱くようになったのだ。
「今思えば、絶対に家を出ようって決めたのは、あの時の出来事がきっかけだったのかもしれない」
 独り立ちしなければ、怜衣にはずっと「玄紋舎の娘」という肩書がついて回る。本当の自分を見てくれないのなら、その肩書からできるだけ遠く離れた場所で生きようと決意した。
 だが、これまで怜衣が自由に生きてこられたのは弟の存在が大きい。どうせ長男が跡取りになるのだから、長女は放置しておいて問題ない──父がそう判断していた。
 弟とは特別仲が良かったわけでも、悪かったわけでもない。けれど、失踪を敢行するほど思い詰めていたのだと思うと申し訳なさが湧いてきた。
 自分だけが自由を享受する陰で、優斗は人知れず苦しんでいたのかもしれない、と考えると胸が苦しくなってしまう。
 それに、両親が焦る気持ちもわからなくはない。いくら本家とはいえ、跡取りの失踪は親戚から叱責の対象になり、玄紋舎の結束が揺らぐかもしれない。店の評判が落ちれば現場で働く人間が困るし、取引先にだって迷惑がかかる。
 父が大嫌いなのは変わらないし、歩み寄れる日は決して来ないと思っている。けれど、玄紋舎の評判を下げたいわけではなかった。
 それに、年を重ねるにつれて、結婚が必ずしも恋愛の先にあるものではないと割り切れるようになったのも大きな理由かもしれない。
「そんなわけだから、条件がいい人がいたら結婚を考えると思う。あっ、引き継ぎはちゃんとするから心配しないで」
 婿を取れと言われている以上、結婚後も今の仕事を続けられるとは思っていない。佐伯家に戻れば、いずれ玄紋舎の一員として動くことになる。せめて引き継ぎだけは、社会人としてきちんと済ませるつもりだった。
 会社には絶対に迷惑をかけない。そう宣言したつもりだったのに、なぜか匠海がすうっと目を眇めた。
 纏う空気が変わり、急に部屋の温度が下がった気がする。怜衣は戸惑い、グラスを手にしたまま動きを止めた。
「それなら、俺でいいだろ」
「…………は?」
 唐突すぎる申し出に怜衣は言葉を失った。匠海の声はたしかに耳に入ったはずなのに、意味が頭の中でうまく形にならない。
「だから、俺と跡継ぎを作れば問題は解決だろ?」
「ええっと……」
 怜衣はバラバラになった言葉の欠片を必死でかき集める。
 つまり、政略結婚をせずに「顔がいい」と称した匠海と、子どもを作る……?
 あの夜、酔ってやけくそで口走った考えが、目の前で現実の提案として突きつけられている。ようやく組み立てられた提案を理解した瞬間に心臓がどくりと鳴り、怜衣は勢いよく首を振った。
「いやいやいいよ!!」
 思ったより大きな声が出てしまい、慌てて手で口元を押さえた。個室とはいえ壁の向こうに人がいるし、店員が入ってくるかもしれない。焦っている怜衣とは対照的に匠海は眉ひとつ動かさなかった。
「なぜだ?」
「なぜ、って……」
 不機嫌そうな顔のまま問われ、怜衣は二の句が継げなくなった。
(どうしよう。「顔がいい」発言を真に受けられてる……!)
 怜衣の背中に冷や汗が滲む。あれは酔っぱらった末に思考が暴走した結果、うっかり口から飛び出た戯言です。そう言えば済むというのに口の中で言葉が絡まって出てこない。
 理由は当然、倫理的に問題があるからだ。相手を「顔で選ぶ」なんて失礼だし、子どもだけ作って終わりなんて、誰の人生も軽く扱いすぎている。頭ではわかっているのに、今はそれを言い返す余裕がない。
 それに、匠海の方から申し出てくるなんてあまりにも予想外すぎた。
(もしかして、揶揄われている……?)
 そんな考えが一瞬頭をよぎる。けれど、匠海は態度こそ素っ気ないものの、面白半分で人の弱みにつけ込むような人間ではない。
 だからこそ、この申し出に混乱してしまった。
 匠海は怜衣を嫌っている。いや、厳密には避けているのだと思っていた。
 仕事の話をしていても目を逸らされるし、会話も必要最低限。あからさまに距離を取られることが多かった。そういう人なのだと割り切れば仕事に支障はなかったし、こちらから踏み込まなければいいだけだと思っていた。
 それなのに今になって「俺でいいだろ」なんて言われても、素直に受け入れられるはずがない。
 正直に伝えるのは躊躇われる。けれど理由を訊いてきたのは匠海だ。これを機に避けている理由をたしかめてしまおうと怜衣は開き直ることにした。
「だって……篠原君は、私のことを嫌っている、から」
 怜衣はいつもより低い声で答えた。口にした途端、それが事実として固定されてしまったような気がして胸がちくりと痛む。
 認めるのは少し悔しい。けれど残念ながら否定できなかった。
 周囲からもきっとそう見えているはずだ。篠原匠海は常に淡々としているが、とりわけ女性に対してはその傾向が強い。中でも怜衣への態度はひときわ冷たかった。
 だが今夜の匠海は明らかに違う。
 怜衣の事情に踏み込み、食い入るように見つめ、会話を終わらせようとしない。挙句の果てに子作りの相手に立候補してきたのだ。
 匠海の胡乱げな視線が不意に揺れ、驚いたように目を瞠る。
「あのっ、私の勘違いだったらごめんね。仕事に影響はないから、問題だとは全然思っていなかったんだけど……」
 まさか自覚がなかったのだろうか。怜衣は声を上擦らせながら慌てて言葉を足したものの、自分の中で固まっていた認識が少しずつ揺らぎはじめていた。
「……嫌っているわけではない」
 短い沈黙の後、匠海が否定した。
 その声は低く、いつものように淡々としている。けれど、言葉だけははっきりしていた。
 匠海の喉仏がわずかに動く。続けてなにかを言いかけたように見えて、怜衣は思わず身構えた。けれど、落ちてきたのは言葉ではなく、個室を満たす静寂だった。
(それなら、どうして避けていたの?)
 ずっと胸の奥に押し込めていた疑問だった。今なら、それを聞けるかもしれない。
 だけど理由を訊ねてしまったら引き返せなくなる気がした。ただの同期という距離に戻れなくなる。そんな予感が怜衣の唇を縫い留める。
 逡巡していると、匠海がテーブルの上で手を組み、ぐっと身を乗り出してきた。
 突然近づいた距離に、怜衣は反射的に椅子の背もたれへ身体を押し付けてしまう。
「家のためだけの結婚はしたくないと思っているんだよな?」
「う、うん」
「だったら、俺の提案を断るのはおかしいだろ」
「それは、そうなんだけど……」
 倫理的な問題も、お互いの気持ちも、どこからどう説明すればいいのかわからない。言葉を探している間にも匠海は容赦なく怜衣の逃げ道を塞いでいく。
「新しく相手を探すのは時間がかかる。それに、素性を知られるリスクもあるだろ」
 並べられる言葉は現実的かつ的確でぐうの音も出ない。怜衣が漠然と考えていた懸念点を見事なほど正確に指摘されてしまった。
「俺なら身元もはっきりしているし、情報漏洩の心配もない」
「だけど、あの……」
 気づけば匠海の自己アピールのような流れになっている。なんとか制止しようと怜衣が絞り出した言葉はあっさりと遮られてしまった。
「それに……『顔がいい』相手を探しているんだろ?」
 怜衣は言葉を失い、視線をうろうろと彷徨わせる。
 たしかに匠海の言い分は正しい。引き受けてくれるなら、願ったり叶ったりの相手だ。
 だけど、まだ最大の懸念事項が残されている。頭では正しいとわかっていても心が追いつかない。これを口にすれば、ずっと目を逸らしてきた自分の「女としての点数」を匠海にたしかめることになってしまう。
 それでも──訊かずにはいられなかった。
「篠原君は……私で、いいの……?」
 問いかける声は想像していたよりもずっと小さかった。
 怜衣は童顔で小柄。大人の女性らしい色気など欠片もないと思っている。だから余計に匠海がこんな提案をする理由がわからなかった。
 緊張で喉が渇いてくる。怜衣は息を詰めて匠海の反応を待った。
 テーブル越しの端整な顔がにやりと笑う。
 意地悪そうな表情でさえ様になるのが今はひどく腹立たしい。狡いと思ってしまうほど、その笑みには余裕があった。
「安心しろ。俺は結構、お前のことを気に入ってる」
「えっ…………?」
 さらりとした口調で爆弾を投げ込まれ、怜衣の思考も動きも完全に停止する。
 耳の奥で心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

**********

「そろそろ着くぞ」
 耳元で響いた低い声に、怜衣はゆっくりと顔を上げた。
(あれ……どうして車に乗ってるんだっけ)
 焦点の合わない視界の中で信号の赤が滲み、白いヘッドライトが不規則な線を引いている。車の揺れは心地よく、耳の奥にはまだ店の音楽が残っているような気がした。
 あの爆弾発言──「気に入ってる」と言われて、怜衣は完全に固まってしまった。思考が戻る前に匠海から「一回試してみる」と話をまとめられ、気づけば追加のビールとピザが注文されていた。
 それからは、勧められるままに飲んで食べた記憶しかない。
 半ば呆然としながら店を出ると、すでにタクシーが待機していた。
 あまりの用意周到さに怜衣は再び硬直する。断りを入れるより先に後部座席のドアが開き、背中に添えられた手で素早く押し込まれた。
 そして行き先も教えられないままタクシーに揺られ、今に至る。
 ようやく状況を思い出した時には、匠海はもう車から降りていた。振り返ると身を屈め、怜衣へ手を差し伸べてくる。
 傍目からすればデート帰りの恋人に見えるだろう。けれど怜衣にはわかっていた。
 これは優しさの形をした──逃げ道の封鎖だ。
 手を差し出されている以上、運転手に「扉を閉めてください」と頼むこともできない。怜衣は観念してその手に自分の手を乗せた。
 するりと手が包まれる。
 次の瞬間、怜衣の身体はあっさり車外へ引っ張り出された。引っ張り出されたというより、持ち上げられたと表現した方が正しいかもしれない。圧倒的な力の違いを見せつけられ、抵抗する気はまったく起きなかった。
 降り立ったのはマンションのエントランスだった。店からタクシーに乗っていた時間はそう長くないので、ここもまだ都心のはず。
 けれど目の前に広がる光景は、怜衣が想像する「都心のマンション」とは明らかに違っていた。
 ロータリーと車寄せは余裕を持って設計され、植栽も丁寧に整えられている。建物は高層ではなく、横へ広がるタイプの物件だった。
(一等地を随分と贅沢に使っているのね……)
 ここが高級物件だとすぐに察してしまう自分が少し恨めしい。
「行くぞ」
「えっ……あ、うん……」
 返事をするが早いか、匠海に繋がれたままの手を引かれた。その勢いに足をもつれさせた怜衣は転びそうになる寸前でどうにか踏みとどまる。
 自動ドアを抜けた先のエントランスホールは天井が高く、モダンな空間が広がっていた。石と木とガラスで構成されたその場所は、間接照明の柔らかな明かりに包まれている。
 窓や壁にもさりげない装飾が施されているようだが、匠海が早足で歩くせいで眺める余裕がない。怜衣は引かれる腕に置いていかれないよう、必死に足を動かした。
「ちょ、ちょっと……! もう少しゆっくり歩いてよ!」
 このままだと転んでしまう。危うさを感じた怜衣が抗議すると、斜め前を歩いていた匠海がちらりと振り返った。
 歩く速度が落ちてほっとしたのも束の間、強く手を引かれて身体がふわりと浮き上がる。
「なんでっ!?」
 足が床から離れると同時に視界が大きく揺れた。次の瞬間、匠海に抱え上げられていることに気づき、素っ頓狂な声が出る。
 恥ずかしさと怒りで匠海を睨み上げたが、当の本人は涼しい顔でずんずんエレベーターへ向かっていった。
「お前に合わせていたら夜が明ける」
「そんなわけないでしょっ!」
 いくら怜衣が小柄でもあまりにも言いがかりがすぎる。すかさずツッコミを入れると、匠海がくくっと喉を鳴らして笑った。
 その顔はまるで悪戯っ子のようだった。憎らしいほど様になっていて、怜衣は思わず言葉を失う。
(こんな顔もできるんだ……)