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子作り契約、はじめました。 独占欲強めの顔がよすぎる同期と目的を達するまで××します 1

第一話

 

 午後三時を少し回った頃。
 天樹アセットマネジメントの運用企画部のフロアは、昼過ぎの気怠さを引きずりながらもモニターの光とキーボードの音だけは途切れない。佐伯怜衣(さえきれい)もまた画面に並ぶ数字の列を凝視していた。
 疲れているわけではないけれど集中の糸がほんの少し緩む時間帯。だからこそ、些細な刺激がやけに鮮明に見えてしまう。
 そんな時──。
「佐伯さん、おやつにどうぞー」
 不意に呼びかけられて顔を上げると、視界の端に白い紙が映り込んだ。
 そこに描かれた黒と金で渦の丸紋を認識した瞬間、呼吸がほんの一拍だけ止まる。心臓がぎくりと跳ねたものの、辛うじてキーボードから浮かせた手は止まらず、差し出されたものを受け取った。
「わあっ、ありがとうございまーす」
 いつも通りの明るい声といつも通りの笑顔。自分でそう言い聞かせながら口角を上げる。
 受け取ったどら焼きは薄い紙に包まれているだけなのに妙にずっしりと重い。紙越しに伝わる密度が餡の存在感を主張していた。
「もしかして、これは加藤(かとう)君からの差し入れ?」
「そう! って言いたいとこだけど、残念ながら違うんだよなぁ」
 どら焼きを配っていた同期の加藤康太(こうた)が悪戯っぽい笑みを浮かべ、窓際の打ち合わせスペースを顎で指した。
「光栄建工がやらかした施工遅延の件、篠原がうまいこと調整してくれただろ? そのお礼だって持ってきたんだ」
 康太の声が届いたのか、当の篠原匠海が一瞬だけこちらへ視線を向け、すぐに課長と打ち合わせに集中を戻す。怜衣は笑顔の気配が欠片ほども感じられない端整な横顔をしばし眺めてから、康太ににこりと微笑みかける。
「それじゃあこれは『棚からぼたもち』ならぬ『棚からどら焼き』ってことね」
「そうそう!」
「わぁ、いただきます!」
 怜衣と康太が朗らかに会話する横で、後輩の森下陽菜(もりしたひな)が嬉しさを隠しきれない様子で包み紙を開いた。
「玄紋舎のどら焼きって、ちょっとお高いけど美味しいですよね」
 弾むような声でそう言ってからすぐさまひと齧りした。そして、もぐもぐと口を動かしながら小さく首を傾げる。
「んん……? なんか、いつもと味が違う気がします」
「え、どう違う?」
 康太が目を丸くして問うと、陽菜はさらに一口齧りつく。咀嚼しつつ真剣な顔で考え込む。
「うーん、生地がすごくもっちりしていて、小豆の粒も大きい……? つまりはすごく美味しいです」
「うん。たしかに美味しい。ってか、いつも美味しいけど」
「もしかして、作りたてだったとか?」
「そうかもしれないね」
 他の席でも似たような会話が起きている。あちこちで笑い声が弾み、午後の空気がほんの少し軽くなる。怜衣も「へーそうなんだ!」と笑みを浮かべた。
(実はこれ、本店で販売されている数量限定品なんだよね)
 ちなみにお値段は「ちょっとお高い」どら焼きの約二倍。百貨店や支店での取り扱いはなく、季節と天候と職人の都合で出せる数が安定しない。だから、確実に手に入れるには少なくとも一週間前から予約しなければならないのだ。
 だからこそ、わざわざ手配した送り主の感謝の気持ちは相当なものだろう。だが、それを指摘するつもりはない。
 怜衣も受け取ったどら焼きの包み紙を開けた。白地に描かれた黒と金の渦が思いのほか鋭く目に刺さる。
「いただきまーす」
 誰に向けたのでもない言葉を小さく落としてからぱくりと頬張る。
 もっちりとした生地は噛むたびに優しく戻ってくる。小豆は粒が立ち、上品な甘さの裏にほんのわずかな塩が隠れていて、後味はすっと消えていく。
(……うん。たしかに美味しい)
 これまでいくつものメディアで取り上げられたどら焼きは、実に正しい味をしていた。今はそれがやけに腹立たしい。
 周囲はまだ突然のティーブレイクに盛り上がっている中、怜衣の意識だけがゆっくりと時間を逆走しはじめた。
 昨晩、そろそろベッドに入ろうと立ち上がった瞬間、テーブルの上でスマートフォンが音声通話の着信を報せた。こんな時間に誰だろうとディスプレイを覗き込んだ瞬間、思わず目を瞠る。表示された番号は登録されていない。だが、数字の並びに覚えがあった。
 指先が一瞬だけ迷い、観念したように画面を滑らせる。
「……もしもし」
『怜衣か』
 一体どんな話をされるのか。応答する声は自分でも驚くほど硬くなっているのを感じた。
 低く抑えられた男の声に「そうだけど」と返すと、怜衣の父、佐伯恒一(こういち)が忌々しげに溜息をつく。
 彼は、三百年以上の歴史を持つ和菓子店「菓匠 玄紋舎」の十三代目社長であり、百貨店のテナントを中心に百を超える店舗を束ねる人物だ。怜衣とは父娘という間柄であるものの、こうして直接話すのは五年以上ぶりだった。
(なにがあったんだろう……嫌な予感しかしないんだけど)
 大学を卒業する直前に派手な喧嘩をして以来、母親へごくたまに近況報告をするだけだった。それが突然、父親が自ら電話を掛けてくるとは一体どんな用件なのか。訝しさが先に立ち、頭の中で警鐘が鳴る。
 身構える怜衣へ、父は前置きもなく淡々と告げた。
『優斗(ゆうと)が家を出ていった』
「…………は?」
『どこにいるか、心当たりはあるか?』
 驚きのあまり声が裏返ってしまった。だが父は怜衣の動揺など気に留めないように問いかけてくる。その口ぶりには期待の色が感じられない。ただ確認のために訊ねているのが透けて見えていた。
「ないよ。優斗とは最近連絡も取ってないから」
『そうだろうな』
 怜衣がそう返してくるのを見越していたのか、電話の向こうには落胆した気配はない。なにがあったのかと問うより先に、苛立たしげな口調で事の次第を語りはじめた。
 優斗は怜衣の二歳年下の弟で佐伯家の長男。争いを好まない穏やかな性格をしており、父の意向に逆らうことなく生きているように怜衣の目には映っていた。
(まさか、あの優斗が……)
『一ヶ月前に、突然いなくなった』
 父は淡々と衝撃的な出来事を語る。弟は有名私立大学の経済学部を卒業し、玄紋舎の十四代目になるべく修業をしていたというのに、なんの前触れもなく姿を消した。
「書き置きとかはなかったの?」
『部屋に手紙が残されていた』
 しっかりと便箋が封筒に収められていたことが、衝動的な家出ではないことを物語っていた。父は現物を手元に置いていたのか、紙が擦れ合う音が微かに聞こえてくる。
 ──ずっとやりたいことがあったので、玄紋舎は継げません。本当に申し訳ありません。
 謝罪の言葉で締められた、限りなく簡素な失踪宣言。赦してくれ、と書かれていないことが弟の誠実さと、そして本気度がうかがえた。
 しかし、父の口から「やりたいこと」という言葉が出たことが、怜衣にはひどく奇妙に聞こえてしまう。佐伯家にはいつだって「やりたいこと」よりも「やるべきこと」が先にある。家の都合が個人の希望の遥か上に位置する。それを当然とする家なのだ。
 それに反発し続けた結果、怜衣は単なる会社員としての生活を勝ち取ったのだ。
「まさか、優斗にそんな夢があったなんて……」
 思わず漏らした感想にそんな夢などどうでもいいと言わんばかり、父はふんっと鼻を鳴らす。とにかく重要なのは家の跡取りが消えたという事実だけなのだ。
『騒ぎにはできないから、ずっと内々に探していた』
 すべてを放り出して姿を消すこともできたはずなのに、優斗はしっかり仕事の引き継ぎ書を残していったという。その事実と手紙がある限り、警察からは「事件性なし」と判断され、捜索願は受理されないだろう。
 いや──それ以前に玄紋舎の名に傷がつくのを避けるために、届けを出すつもりはなかったのかもしれない。
「それで、手掛かりはあったの?」
『大学時代の友人に接触した。するとそいつが、優斗から手紙を預かっていた』
「手紙……」
『それには、これ以上探したら、自分が失踪していることを週刊誌にリークする、と書かれていた』
 怜衣は言葉を失った。
 あの穏やかで争いを好まず、父に逆らうなどという選択肢を持っていないと思っていた弟が、そんな脅しをするとはとても思えない。
 けれど同時に別の感情が芽を出していた。
(優斗ってば、うまい手を考えたなぁ……)
 怜衣は状況を忘れて感心してしまう。なにせそれは、父と玄紋舎にとって最大の弱点だからだ。
 老舗は名を売って生きている。体面をなによりも重んじ、そのためには家族すらも切り捨てる。優斗はそれを知っているからこそ逆手に取ったのだ。
 だが、感心している場合ではないと我に返る。佐伯家の長男で、玄紋舎の後継者である弟が失踪し、これ以上の捜索も不可能なのだ。
 この電話は、ただ単にその事実を伝えるためのものではない。
 電話番号を見た時に感じた嫌な予感が、怜衣の中で急激に膨らんできた。
『優斗は諦めることにした。あんな恩知らずなぞ、こっちから願い下げだ』
 父の声は腹を立てているようには聞こえなかった。怒鳴りもせずにただ淡々と、決定事項を読み上げる調子でそう告げた。
 怜衣にとってはその冷静さがむしろ恐ろしい。激情をぶつけてくるのであれば揺らぐ可能性がある。けれど、この静かな声はもう結論が導き出されている合図だった。
「それじゃあ、どう……」
『お前が婿を取れば良いだけの話だ』
 怜衣が言いかけた瞬間、父は言葉を被せてくる。頭から血の気が引き、息の通り道が狭くなる感覚がした。
 言葉を失ったのはほんの一瞬で、すぐに全身を怒りが満たす。怜衣の喉から思っていたより強い声が飛び出した。
「ちょっと待ってよ。勝手に決めないで!」
 深夜の部屋に怒鳴り声が響き、怜衣ははっと口を噤む。ここは実家の屋敷ではない。壁の向こう側には他人が生活する集合住宅だ。
 けれど父は娘の反応すらも想定していたのだろう。電話越しの気配は微動だにしなかった。
『お前ももう二十七歳だろ。これまで散々好きにさせてきたんだ。そろそろ佐伯家の役に立て』
 ──好きにさせてきた。
 その言葉が怜衣をいっそう苛立たせる。自由を与えられたのではなく、捨て置かれただけだ。反抗的な娘が煩わしくて家から追い出した。ただそれだけのことを恩のように言われるのは心外だ。
 噛みしめた奥歯がぎしりと鳴った。
「……絶対に、嫌」
 今度は声をしっかりと抑えた。声の温度を落として、一語ずつ切るように話せば怒鳴らなくても凄みは出せる。小柄で童顔な怜衣は得てして舐められやすい。だから怜衣はそうやって自分を守ってきた。それは相手が父親でも同じだ。
「用件はそれだけ? じゃあもう話は終わり」
 そう告げて返答を待たずに通話を切った。ディスプレイが暗くなり、物言わなくなったスマホをテーブルに戻すと、怜衣はそのままベッドへダイブする。
 スプリングが小さく軋み、投げ出した身体を柔らかく受け止めてくれた。
(やっぱり、電話に出るべきじゃなかったな)
 寝返りを打ち、天井を見上げながら怜衣は激しい後悔に襲われる。出なければ余計なことを知らずにいられたかもしれない。弟がいなくなったことも、父が怜衣の人生を当然のように書き換えようとしていることも知らずに済んだ。
 いや──もし電話に出なかったら、必ず別の手段で接触してきていただろう。つまりは仕方のないことだったと自分を慰める。
 あの命令はそのまま素直に受け取ってはいけないことはわかっていた。怜衣が後継者になるのではなく、佐伯家、ひいては玄紋舎にとって益になる相手と結婚し──男児を産め、ということなのだ。
 口にされなくても意図は否が応でも伝わってくる。父が欲しいのは婿でも怜衣でもなく、佐伯の血を引いた跡取りだ。大事なのは血筋だけで、娘の気持ちなどまったく考えていない。
 そう再認識した途端、言い知れぬ怒りが全身を駆け巡った。
(ほんと、なにも変わっていない……)
 けれど、怒り狂って終われないのが腹立たしい。怜衣は左腕で目元を覆い隠して右手の指でシーツを掴み、呼吸を整えようとした。
 優斗と違い、怜衣は自由にさせてもらってきた──そう言われてしまえば否定しきれない部分もある。
 今の怜衣は実家を出て、玄紋舎と一切の関わりを持っていない。そしてコネなど使わずに日本有数の不動産デベロッパーである天樹開発の子会社、天樹アセットマネジメントで働いている。
 だが、この生活は父の気まぐれと都合の上に乗っていただけで、いつでも取り上げられることはできたのだ。
(佐伯のために、受け入れるしかないのかな……?)
 胸の内に浮かんだ問いが怜衣の自尊心をじわじわと締め付けてくる。認めたくないけれど、拒んだところで現実は変わらないことも認めざるを得なかった。
 どうしたらいいのか。そして、どうすべきなのか。
 結論が出ないまま、時間だけがただ過ぎていった。

 

 弟の失踪を伝えられてから十日が過ぎた。
 あの夜以来、怜衣の胸には小さな棘が居座り続けている。それを抜く方法が見つからないどころか、少しずつ根を張りはじめているような感覚さえある。ふとした拍子にその存在を思い出し、眠りも浅くなってしまっていた。
 どうにかしなければいけないとはわかっている。だが、どうしたらいいかわからず、焦りだけが募ってしまう。とにかく仕事だけには影響させまいと気をつけつつ、その日の怜衣は同期が集まる飲み会に参加していた。
 行きつけの居酒屋はオフィスから最寄り駅とは反対に少し歩いたところにある。駅から離れているせいか飛び込みの客はほとんどおらず、一番奥にある広めの個室を独占できるのが大きな利点だった。
 本社勤務の同期は入社した時、五十人を超えていた。それが五年の歳月の中で徐々に減っていき、今では二十人ほどが不定期で集まってくる。
 部署や立場が変わっても、同じ歳月を同じ場所で過ごした仲間はやはり格別。怜衣は開催のお知らせを受け取るたびにできる限り参加するようにしている。
 いつもなら近況報告や他愛のない愚痴で盛り上がるというのに、今日はどうにもうまくいかなかった。
「怜衣、もしかして調子悪い?」
 目の前に座っている経理部の小川美咲(おがわみさき)がビールジョッキを片手に首を傾げる。周囲もそれに同調してうんうんと頷いていた。
「ううん? 普通に元気だよ」
 慌てて明るく軽やかな、いつものトーンで返す。だが、そのせいでこれまでいかにテンションが低かったのかを証明することになってしまった。
「最近忙しそうじゃない。遅くまで残ってるって、加藤君が心配してたよ」
「あー、たしかに色々立て込んじゃってるかも」
 まさか、気づかれているとは思わなかった。朗らかな口調で誤魔化しながら手を伸ばし、竹の笊に盛られた枝豆を摘まみ上げる。口に入れるとほどよい塩気と豆の甘みが舌に乗り、頭に浮かび上がってこようとするものを抑え込むように噛み砕いた。
 これは悪意のない、純粋な気遣い。怜衣はありがたいと感謝しつつも、同時に罪悪感でちくりと胸が痛んだ。仕事が詰まっているのも事実ではあるが、会社に残っている本当の理由なぞここで言えるはずがない。
 不意にどこかから振動音が聞こえてきた。その瞬間、怜衣は密かに身構える。視線をさりげなく膝のすぐそばに落とすと、座布団に置いてあるスマホがメッセージの着信を報せていた。
(もう……本当に勘弁してよ)
 ここ数日はなにをしていても常にスマホが気になってしまう。ディスプレイに「佐伯恒一」の文字が浮かぶのではないか。そう思うだけで全身が反射的に強張った。
 この件に関して、父には諦めるという選択肢が最初から存在していない。怜衣がはっきり拒否したはずの「婿を取れ」という話は、当然ながらそれで終わりとはなっていなかった。
『一度帰ってこい』
『いつなら時間が取れるんだ』
『家のことを忘れるな』
『お前も佐伯だろう。役目を果たせ』
 メッセージが送られてくるだけではない。時間などお構いなしに電話がひっきりなしにかかってくる。出なければ着信履歴が積み重なっていき、あまりのしつこさに耐えかねて応答すれば、同じやり取りが繰り返される。
 今はまだ電話やメッセージで済んでいるが、いずれは実力行使に出てくるかもしれない。
 ある日突然、父が会いに来るのではないか。あるいは父の息のかかった誰かが会社の前で待ち伏せしているかもしれない。あるいはアパートの玄関のチャイムが鳴って、覗き穴の向こうに見覚えのある顔が映っているかもしれない。
 もし、抵抗する暇もなく、荷物をまとめることすら許されずに連れ戻されたら──。
 そんな想像が、どこに居ても怜衣を落ち着かない気持ちにさせていた。
 安らげる場所であるはずの自宅アパートにいてもいつの間にか気が張ってしまうのは、たぶんそのせいだろう。鍵が掛かっているのを何度も確認し、カーテンを隙間なく閉め、廊下に響く靴音に耳を澄ませる。
 スマホはすぐ手の届くところに置いているのに、通知が来ると怖くて画面を見るのを躊躇ってしまう。精神的に疲れ果てて眠ろうとしても、目を閉じた瞬間に父の声が蘇る。
『佐伯家の役に立て』
 幼い頃から散々聞かされてきた言葉が、耳元でいつまでも鳴り続けるようになってしまった。
 そんな日々を送っている結果として怜衣は慢性的な寝不足に陥っている。鏡を見るたび、目の下がじわじわと濃くなってきているし、肌も荒れる一方。それらをなんとか化粧で誤魔化して出社し、疲れて帰っても眠れないまま夜が更けていった。
 正直、今日の飲み会も欠席するか悩んだ。そもそも本調子ではない上に心から楽しむことはできそうもない。それでも来たのは、飲み会好きで知られている怜衣が急にキャンセルしたら皆に驚かれ、理由を問われるだろう。今はそれに対応する気力すら残っていないのだ。
 それに──一瞬でも嫌なことを忘れられるかもしれない、という期待を抱いていたのも事実。
 結局、この選択は間違いだったと認めざるを得ない。怜衣はジョッキを掴むとビールの苦みを喉へ流し込む。アルコールがほんのわずかな時間だけ緊張を緩めてくれたものの、その効果はあえなく消え去っていった。
「悪い。遅くなった」
 廊下に面した襖がすっと静かに開かれる。低く、よく通る声が店の喧騒とは別の空気と共に入り込み、宴席の視線が反射的にそちらへ向けられる。
 長身の男が慣れた仕草で軽く身を屈めて部屋に入ってきた。匠海(たくみ)は肩幅もあってがっしりしているというのに、まったく粗暴な印象を受けないから不思議だ。
 怜衣の鈍い思考の片隅に彼の予定が浮かび上がる。たしか午後から面倒な案件の対応を行っていたはず。もはやクレームに近い内容だと誰かが言っていた。そういう火種はたいてい、課長は匠海に頼りがちだ。それでも文句など言わずに淡々と、与えられた任務を全うしてくる点は純粋に尊敬していた。
「篠原(しのはら)君、お疲れさま。大変だったね」
「……あぁ」
 入口近くに座っていた怜衣は、いつもそうしているように労わりの言葉を投げた。匠海はこちらをちらりと見遣り、素っ気なく返すと席の端へと向かっていく。背けられた顔は「これ以上は話しかけるな」という意思表示なのだろう。
 同期かつ同い年、そして同じ部署で働く仲間にする態度としてはあまりにも冷たい。けれど、匠海の振る舞いは今に始まったことではなく、すっかり慣れてしまっていた。
 怜衣は小さく肩をすくめてからジョッキの底に残っていたビールを飲み干した。
(前は普通に喋ってくれていた気がするんだけどなぁ……)
 唐突にそんなことを思い出したのは、怜衣の思考がおかしな方向に働いているせいかもしれない。寝不足なのに考えることを止めない頭は余計なものを拾ってしまう。普段なら「そういう人だ」と済ませていたことを今夜は妙に掘り返したくなっていた。
 目の前にある白菜の浅漬けを箸で摘まみ、しゃくしゃくと噛む。塩気と酸味のバランスが良いのでいくらでも食べられてしまう。小気味良い咀嚼音を立てながら、怜衣はさらに考え込んでしまった。
 入社したばかりの頃は他の人と変わらないコミュニケーションが取れていた。業務に関することだけでなく軽い雑談もできていたはず。視線もちゃんと合っていたし、怜衣の話に笑ってくれた記憶すらあった。
 それが、月日が経つにつれて徐々に距離を置かれるように態度が変わったのかもしれないがなってしまったのだ。
 なにか匠海の気に障る言動をしたせいで態度が変わったのかもしれないが、怜衣にはまったく心当たりがない。別に距離を縮めたいとも思っていないので、プライベートな話題まで踏み込んだりしないように気をつけていた。
 とはいえ、匠海は元々寡黙なタイプで、女性に対しては必要最低限のコミュニケーションしか取っていない気がする。数人の女性社員は積極的に親睦を深めようと頑張っているようだが、その成果はとても芳しいとは言えなかった。
 単にそういう性格なのか、あるいは──。
(イケメンなりの自衛策、ってやつなのかなぁ?)
 追加の浅漬けを口に運びながら怜衣はぼんやりと思う。たしかに匠海はただそこに立っているだけで人の目を惹きつけてしまう。背が高くてがっしりとした体格で、おまけに顔も整っている。あの容姿で愛想よく接すれば、大惨事が引き起こされるのは火を見るよりも明らかだった。
(たぶん、それはそれで大変だよね……)
 そんな他人事みたいな感想を頭の中で転がしながら、怜衣は不意に自分のジョッキが空になっていることを思い出した。今日は飲むペースが少し速いかもしれない。
 食器を下げに来た店員に向かって怜衣は「すみません!」と手を上げる。
「生ビールをお願いしまーす」
「かしこまりましたー!」
 しっかり手を上げ、存在をアピールしたおかげで無事にオーダーできた。こうしないとどこにいるのか見つけてもらえないこともすでに慣れている。
 いつもであればそろそろウーロン茶に切り替えるのだが、今日はもう少し飲みたい気分だった。
「ちょっと聞いてよ! 経費精算遅刻魔がさぁ、最近また増えてきちゃったんだ」
「うそっ、ようやく二人減ったって、この前話してなかったっけ?」
「もうね、三ヶ月連続が三人。しかも謝るどころか『仕事が忙しいから経理でやってくれ』とか言ってくるんだよ!? ほんっと信じらんない!!」
 父からの命令を少しの時間でいいから忘れたい。着信の振動を気にしなくなりたい。
 それに──酔ってしまえば少しは眠れるかもしれない。
 そんな都合のいい期待を抱き、新しいジョッキを手に向かいに座る美咲の苦労話に耳を傾けていた。
 頬に熱が居座り、笑い声の輪郭が曖昧に聞こえる。そして、ビールの苦さがあまり感じられなくなっていることで、怜衣は自分がいつもより深く酔っていることを理解した。
「お手洗いに行ってくるね」
「はいはーい」
 座布団から立ち上がると、足元が覚束なくなっている。畳の上で踏ん張りが利かないのは座り続けていたせいだけではない。廊下へ出る襖を開ける動作さえ、いつもより丁寧にしなければ大きな音を立ててしまいそうだった。
 廊下はひんやりとしていて、頬の熱を冷ましてくれる。あちこちから届く酒宴の賑わいを聞きながら、怜衣は壁に軽く手を添えて歩き出した。
 手洗いから出て戻る途中でジャケットのポケットが震える。布越しに伝わる振動が酔いの膜を一瞬で破り、別の意味で鼓動が激しくなる。席を立つ時に持ってきたスマホを取り出し、恐る恐るディスプレイを覗き込んだ。
 そこに表示されているのは、実家の番号。
 父は自分のスマホからしか電話をかけてこない。おそらくボタンを押して電話をかけるのが面倒なのだろう。だからこれは──間違いなく母だ。
 とはいえ、相手がわかったところで応答する気にはなれない。どうせまたあの話をされるだけなのはわかりきっている。だけど出なければ何度でもかけてくるだろう。遅かれ早かれ、と自分に言い聞かせながら怜衣は通話ボタンをタップした。
「……なに」
 せっかくリフレッシュしていたというのにこれでは台無しだ。自分でも驚くほどぶっきらぼうな声が出た。
『怜衣? 今、ちょっといい?』
 やはり電話をかけてきたのは母である直子(なおこ)だった。口調は穏やかなものの、用件は明白。怜衣の胸が冷え冷えとしたものに満たされていった。
「今、飲み会の最中だから手短かにして」
 戻るべき座敷とは逆方向、裏口に通じている方の廊下を進んでから背中を壁に預ける。ひんやりとした感触が心地よく感じられた。
 怜衣は父から勘当を言い渡されていた身であるが、母とだけは連絡を取ってきた。だからこそ先に「絶対に家には帰らない」とメッセージを送っておいたのだ。
 けれど返ってきたのは了承ではなく「一度話し合いましょう」という言葉。怜衣はそれに対して返事をしていなかった。
 母はわずかな沈黙の後、小さく溜息を吐いた。
『実はね……お父さんがお相手を選びはじめているのよ』
「はぁ!?」
 廊下に驚きの声が響いたが、ちょうど近くの座敷からどっと笑い声が上がったおかげで誰かに聞かれることはなかった。
『だからね、せめてプロフィールくらい見た方が良いんじゃないかと思って……』
 目を閉じると瞼の裏がひどく熱く感じられる。これは酔いのせいなのか、それとも怒りのせいなのかわからない。
 いくら母が怜衣に同情的な姿勢を取っていても、結局のところは佐伯家の人間なのだと遅ればせながら思い知らされる。元からわかっていたというのに失望が胸を締め付けた。
「あのさ、了承してないのに勝手に進めないでくれる?」
 立場上、母は父に逆らえないのだからなにを言っても無駄。頭では理解しているというのに酔いが怜衣の冷静さを奪っていた。
『そうは言っても、お父さんの気持ちも少しは考えてほしいの』
「私の気持ちは無視するのにね」
『怜衣……』
 父を擁護する言葉を一笑に付した。
 取り付く島もない反応に母が言葉を失っている。怜衣が言うことを聞かないのは、お前の躾がなっていないからだと、きっと父から責められたのだろう。そういう責め方をするところも大嫌いだった。
 母は父と娘の間で板挟みになっている。その点については申し訳ない、と一瞬だけ思う。
 だが、こればかりは譲れない。
 怜衣はこの時、言葉を選ぶべきだった。けれど酔いが選別の手間を省いてしまう。
「あのさ」
 声が低く震えた。怒っているのに、泣きそうな震えだった。
「お父さんは私に帰ってきてほしいわけじゃないよね。佐伯の血を引いている、玄紋舎の後継者を産む人間であれば誰でもいいんでしょ」
 自分の口から出た言葉が廊下の空気に冷たく落ちる。頭からすっと血の気が引き、現実が一瞬にして迫ってくる感覚がした。きっとこの言葉は母のことも傷つけてしまうだろう。だから口にすべきではないとわかっていたのに、どうしても止められなかった。
「そんな道具みたいに扱われるのは……御免だから」
 言い切ると同時に怜衣は通話を終わらせた。急にスマホが重く感じられてだらりと手を下げる。
 母がどういう反応をするのかが怖い。もし泣かれたりしたら、きっと揺らいでしまうだろう。
 廊下の涼しさが急に身に染みる。店のざわめきが遠のき、代わりに自分の鼓動が耳の奥で大きく響いていた。
 怜衣は壁に背中を預けたままずるずると座り込む。立てた膝に額をつけて目をぎゅっと閉じる。
(ついに、言っちゃった……)
 激しい後悔に襲われた一方で、言ってよかったとも思ってしまう。このまま放っておいたら父は暴走し続けるだろう。指摘したところで止まらないかもしれないけれど、少なくとも怜衣が拒否している理由をはっきりと伝えるべきだとも思っていた。
「はぁぁ……」
 廊下の隅にしゃがみ込んだまま深い溜息を吐いた。冷たい板張りの廊下が火照りを残した肌にやけに心地よく感じられる。
 父の考えを改めさせるのは不可能。だけど、政略結婚なんて絶対に受け入れられない。
 それだけは譲れない一方で、板挟みになっている母のことを考えると胸が苦しくなる。
 怒りが収まるにつれて、一度は醒めたはずの酔いが再浮上してきた。思考はまっすぐ進まないのに余計な発想だけが勢いよく飛び跳ねる。
 どうしたら逃げられるんだろう。
 どうしたら縛られないで済むんだろう。
 どうしたら──。
「大丈夫か」
 不意に頭上から低い声が落ち、怜衣はのろのろと顔を上げた。廊下の明かりを背に受け、長い影を落としている男がこちらを見下ろしている。
 どうして、怜衣との接触を避けている篠原匠海がここにいるのだろう。問うより先に不機嫌そうな表情の乗った顔に釘付けになってしまった。
「あっ、うん。ちょっと飲みすぎただけ」
「……そうか」
 眉間に皺が寄り、口元は固く結ばれている。いつも素っ気ないけれど、ここまで露骨に感情を顔に出すのは珍しい。
 そう思った瞬間、怜衣の脳はまったく別の方向へ跳んだ。
(こんな表情をしていても、やっぱりイケメンだなぁ……)
 場違いな感心が酔った頭で花火みたいに弾ける。整った目鼻立ちにがっしりとしていながら均整の取れた身体つき。童顔かつ小柄な怜衣とはあまりにも対極な存在にはもはや羨望すら抱けない、むしろ生物として別種なのではないかとすら思えてしまう。
 その顔をぼんやり見つめているうちに、怜衣の脳裏にひとつの考えがふわりと浮かび上がった。
「篠原君てさ、ほんっと顔だけはいいよね」
「は?」
 匠海の目がすうっと細められたが、怜衣の思考は止まらない。むしろ、考えを言葉に出したことで勢いがついてしまった。
「ああ、そっか……顔で相手を選んじゃえばいいのか。うん、そうしよう」
 自分でも意味がわからないまま口だけが勝手に回っていく。
 好きでもない相手と結婚するなんて論外。
 だから──子どもだけ作らせてくれるイケメンを探そう。
 暴走した思考から導き出されたやけくその結論はひどく乱暴で、倫理もへったくれもない。それなのに頭の中では「父の望みを満たせる」「結婚しなくていい」「相手は選べる」といった、短絡的な理屈が勝手に組み上がっていく。
 眉間の皺が深くなり、匠海の表情がさらに険しくなる。廊下の空気がいっそう冷え、熱暴走を起こしていた怜衣の思考が落ち着きを取り戻していった。
「ごめんっ。忘れて!」
 慌てて謝罪すると怜衣は握ったままのスマホをポケットへ押し込む。酔っぱらいの戯言として片付けてもらえることを祈りつつ立ち上がった。
 次の瞬間──ふらりと世界が傾く。
 このままでは頭が壁と衝突するのを本能的に察し、咄嗟に手を伸ばす。衝撃に身構えた視界の端に大きな手が映り込んだ。怜衣の肩がしっかり、しかし痛みを感じない強さで掴まれ、身体がそこで止まった。
 ジャケット越しに伝わる熱が妙に生々しく感じられる。
「話は全部聞こえていた」
「え……?」
 静かな声で伝えられ、頭から血の気が引く。
 宴席から手洗いへ続く廊下からは少し離れた場所へ移動したつもりだったが、声を荒らげたせいで居場所を突き止められてしまったらしい。
(最悪……)
 まさか、こんな形で自分が日本有数の高級和菓子店、玄紋舎の創業者の血を引いていることを知られるなんて思わなかった。全部聞かれていたのであれば誤魔化すのは不可能。だけどせめて、電話で話していた内容は口止めしなければ。
 なのに思考が空回りして、どう切り出すべきかわからない。
「えっと、あの……」
 口をぱくぱくさせるだけでなにも言葉が組み立てられない。
 ただ焦っているだけの怜衣の前へ匠海がすっと身を屈めてきた。不意に縮められた距離に心臓がどきりと跳ねる。それは酒のせいか、恐怖のせいか、それとも別のなにかなのか、自分でもわからなかった。
 匠海が鋭い眼差しで怜衣の心と身体をその場に縫い留める。初めて至近距離に迫った目の奥にはひんやりとした闇が広がっていた。
「今度、詳しい話を聞かせてもらう」
 相談でも提案でもない。それは、怜衣にとって死刑宣告にも思えるほど絶望的な命令だった。