パーフェクト御曹司の戦略的溺愛婚 昔フラれたはずなのに、こんなに甘やかされるなんて聞いてません!? 2
誠一郎は、一切目をあわせてくれなかった。
『優衣も他人のふりをしてくれ』と言わんばかりの態度に、失恋以上の痛みが走る。
──どうして……どうして?
父に背中を押され、誠一郎の向かいに腰を下ろす。
車中で、父の口から『九条』の名前が出たとき、胸騒ぎは覚えていた。父が執着するほどの大企業で『九条』といえば、九条グループしか浮かばなかったのだ。
けれど、誠一郎が優衣との縁談を受ける理由がない。
──先輩も相手を知らなかったとか? でも驚いた様子はないし……。
社会人としての経験が、もともと完璧な彼の魂を、いっそう磨き上げたのだろうか。
七年ぶりに再会した彼の面立ちはますます凜々しさを増し、体格もさらに逞しくなったようだ。
押し込めていた生々しい思慕と同時に、暗澹とした気持ちがこみ上げる。
──やっぱり私は、面倒な恋人だったんだろうな。
──他人のふりをして、視線すらあわせたくないほど……。
誠一郎の隣に座っている中年の男性は、九条大和と名乗った。
優衣の父より一回りは若い印象だが、彼が誠一郎の父で、九条グループの中核を担う九条地所の社長らしい。
父は今にももみ手をせんばかりの笑顔で、鞄から数枚綴りの書類を二組取り出し、テーブルに置いた。
「いやあ、このたびはどうも、双方納得のいく条件に整ってよかったです。先日ドラフトをお送りした通り、契約書を用意して参りました」
「……契約書? 何の話……?」
呟くと、父に一睨みされた。
何も知らないのは優衣だけなのか、はす向かいに座った大和がペンを取り出す。
「ありがとうございます。優衣さんも十分に読み込んで、合意の上でいらしてくださったと思いますので、先に署名を済ませましょうか」
震える手で書類を一組引き寄せると、そこにはおぞましい文字が並んでいた。
【契約結婚の主目的】
一.血縁関係の確保のため、入籍後は、子をもうける努力義務を負うこと。
二.離婚には、正当事由がない限り、五億の違約金が発生すること。
三.愛媛の再開発事業を中心とした、長期協業の担保…………
「なに……、これ……」
釣書の封筒を捨てる前、一瞬中を覗いたが、こんな契約書は絶対に入っていなかった。
──子をもうける? 努力義務?
──離婚には、違約金……?
他にも、九条地所は再開発の事業準備金として父に十億円を支払うこと、契約の存在は非公開とすることなど、細々とした条項が続いている。
ありえない。
優衣一人と引き換えに、九条グループが十億もの投資をする理由がない。
誠一郎の険しい顔を見れば、彼もこの契約を望んでいないのは明らかだ。
──一体、どんな手を使ったの……?
驚愕の視線を向けると、父はにこやかに言った。
「料理や家事は一通り仕込んでありますし、仕事も辞めておりますので、すぐにお役に立ちますよ」
誠一郎が不快げに眉を歪ませ、大和も笑顔を引きつらせる。
まるで奴隷か、家事ロボットの売り文句だ。あと少し父に品性が欠けていたら、『健康体で、孕ませるのにうってつけです!』と加えていただろう。
これは、見合いではない。
家畜を、強制的に番わせるのと同じ。
強制的な政略結婚──仕事の取引だ。
「あの、待って……待ってください。私は、こんなの聞いてません……! ただのお見合いだと思って、」
「優衣。お前も喜んでいただろう? ほら、サインをしなさい」
「っ……」
父が『まったく困った娘だ』と言わんばかりの溜息とともにペンを差し出してきたとき──誠一郎が声を上げた。
「小鳥遊社長。少し優衣さんと二人にしていただけますか? 私から優衣さんを説得しますので」
「誠一郎くんからそう言ってもらえると心強いな。頼むよ。なかなか手の焼ける娘でね」
父と大和が個室を出ていくと、誠一郎がぎこちない笑みを作った。
「……優衣。久しぶりだね」
「……お久しぶり、です」
笑みを返したつもりだが、頬が引きつっただけかもしれない。
「ごめん。知らないふりをして」
「いえ……実際、私たちは……終わった関係ですから。それより私、何が何だか。先輩もこんな契約、望んでませんよね? もし私の父が強引に話を進めて、何か事情があって断れないなら……私がなんとかします。大丈夫です。サインなんて絶対しませんから」
いつか再会したら、今度こそ相応しい振る舞いをして、彼の役に立ちたいと思っていた。
でも昔振った女と義務で結婚して子作りなんて、彼の幸せを奪うことにしかならない。
そう思ったのに──。
「いや。この話は、俺から……俺の父から頼んだことなんだ」
「……意味がわかりません。だって私の父と先輩のお父様では、その……」
あまりに、格が違いすぎる。
彼の父が、地方のゼネコンの社長に息子を差し出すなんて、何の得があるのか。
「父は長年、愛媛の再開発を狙っていたんだけど、小鳥遊社長に先を越されてね。すでに他のデベロッパーと組んでいたから、九条が割って入るには他社との契約を白紙にして、乗り換えてもらうための交渉材料が必要だった。それで……」
誠一郎が、言葉を濁して俯いた。
九条家と血縁関係を結ぶチャンスなんて、滅多にない。“納得のいく条件”として、ここぞとばかりに娘との結婚を迫る父は、容易に想像できた。
「つまり先輩も、お父様に命じられて……?」
先ほど同席していた誠一郎の父は人好きのする笑みを湛えていて、とてもそんな冷徹な判断を下す人には見えなかった。
でも日本の不動産業界の頂点に君臨する巨大デベロッパーの社長だ。徹底的に合理的な面もあるのかもしれない。
「いや。俺は、優衣と結婚したいと思ってる」
「え……?」
「この七年、ずっと忘れられなかった」
夢見た以上に情熱的な言葉は、薄っぺらく聞こえた。
彼の顔は蒼白で、まるで贖罪のようだ。
「俺も、こんな形での再会は望んでなかった。でも他に手立てがなくて……。子作りはすぐじゃなくていいし、全部優衣の気持ちにあわせる。金銭面はもちろん、生活環境も──」
「ちょ、ちょっと待ってください! つまり、やっぱり……親の仕事の都合で、本当は望んでいないってことですよね? こんなのお互い不幸になるだけで、」
「いや。サインの前に、ちゃんと伝えておきたい。俺は優衣を愛してる。もう昔と同じ思いはさせない。一生をかけて幸せにする」
また、台本を読み上げたような空っぽのプロポーズだ。
──私を巻き込んだ罪悪感から、私が喜ぶことを言ってくれてるだけだ……。
わかっているのに、都合よく信じたくなっている、愚かな自分がいる。
ただどうしても、はじめてもらった『愛してる』『幸せにする』を偽物だと断じることはできなくて。
「……嘘でも、嬉しいです。ありがとうございます。でも……」
でもやっぱり、こんな結婚は駄目です。
そう続けて、浅はかな誘惑を断ち切る前に──夢が終わった。
「よかった。じゃあサインを」
「っ……」
やっと同意を得られた、とばかりに誠一郎がペンを取り、契約書の本紙と控えに署名する。その下に隠すように重なっていた、婚姻届にも。
書き終えたペンを差し出されて、首を横に振る。
「……駄目です。やっぱり、こんなのよくない」
この結婚が、本当に彼の幸せの礎になるのなら望むところだ。
優衣だって、形だけでも大事にしてもらえるなら、父に支配され続けるより何倍もいい。
でも誠一郎の顔色は、ますます悪くなっていく。
「やっぱりわかりません。先輩、どうしちゃったんですか? どうしてそこまで……私は先輩を、不幸にしたくありません」
「違う。酷いことをしてるのは俺だから。こんなときに俺の幸せなんて、考えないで」
誠一郎は立ち上がると、優衣の隣に腰を下ろした。
「ごめんね。納得してもらえなくても、絶対に今日、サインしてもらう必要があるから」
「え……、っ……!?」
肩を抱き寄せられた。
逃げられないほど、強く。
全身が、かっと熱くなって──あっという間に昔の恋心が蘇り、全身の血がざわめいた。
ペンを持たされ、その手を上から包み込まれる。
付き合っていたころだって、こんなに密着したことはない。
夢見たよりもあたたかくて、頼もしくて、力強くて。
頭の芯がじんと痺れて、感情が絡まって涙が滲む。
「全部俺のわがままだから。全部俺のせいにして。無理矢理こんなことをさせた、俺を恨んで」
「っ……」
誠一郎が、握った手を動かした。
はねのけようと思えば、簡単にできた。
だから彼の手に委ねたのは、間違いなく優衣の意思だった。
だって、今も彼が好きだ。大好きだ。
憧れで、尊敬の対象で、ずっと心の支えだった。
こうして肩を引き寄せられるだけで、涙が溢れるくらい嬉しくて、抱きつきたくなる。
結婚するのに、それ以外の理由が必要だろうか。
次第に、滲んだ涙で書類が見えなくなっていく。
強張った指からペンを取り上げられて、すべての署名が終わったのだとわかった。
「……もう一回、優衣を振り向かせてみせるから」
指先で涙を拭われて、泣くほど嫌だと誤解させてしまったことに気付いたけれど、暗い顔をした彼に『これは、触ってもらえて嬉しくて』だなんて口が裂けても言えなかった。
誠一郎は優衣の隣を離れると、電話で「すべて終わりました」と報告する。
ほどなくお互いの父親が戻り、優衣の父は満足そうに署名を見つめた。優衣の字がぐにゃぐにゃに歪んで、滴った涙で紙が濡れていても、何の問題もないようだった。
それどころか、娘が九条家に嫁いだことを世間に知らしめたくてたまらないのだろう。
「先々の結婚式は、愛媛と都内の二カ所で行いましょう。愛媛では地元の有権者や政治家を集めます。新居はこちらで用意しておりますので、娘にはすぐに支度を調えさせます」
と、前のめりに話を進めた。
一方、誠一郎の父は、優衣に嫁入りの自覚を持たせたかったのだろう。
「我が家は付き合いも多く、冠婚葬祭や式典に参列する機会も増えるでしょうから」
と言って、最高級のパールのネックレスとイヤリング、そして馴染みの職人に彫らせたという象牙の実印を贈ってくれた。
でも、夫婦になった実感は微塵もなかった。
まさか翌週には義実家で可愛い義弟たちに迎え入れられ、誠一郎に甘やかされまくる日々が訪れるなんて──どうやったら想像できただろう。
◇ ◇ ◇
父が用意していた新居のマンションへ向かうと、誠一郎はいなかった。
──やっぱり、私との生活が嫌になったとか……。
と思ったが、落胆はしなかった。
というのも、先週の見合いからずっと、
──経緯や状況はともかく、再会が叶ったどころか、もう結婚しちゃったんだから。
──気持ちを切り替えて、今度こそ後悔がないように、尽くすことだけ考えよう!
と自分に言い聞かせてきたから、何が起きても動じない覚悟ができていたのだ。
が。新居を見て回り、二台のベッドが別室に設置されているのを見たときは、さすがにこたえた。
『子作りはすぐじゃなくていい、優衣の気持ちにあわせる』と言っていたし、その手のことはしたくないのが本音なのだろう。
──別に、甘い生活なんて、一切期待してないし……!
寝室のドアを閉めて、隣の部屋を覗く。都心部の最上階で、どの部屋も景色がよく広々とした造りなのに、なぜか実家のように無機質で冷たい印象だ。
──昔はできなかった形で、先輩の役に立つチャンスなんだから。
──せめて完璧に家事をこなして、家の中は疲れが癒える場所にして。
──今度は家庭内のマネージャーとして、いい女だなって思ってもらえたら……。
リビングへ戻って、三月の穏やかな空を眺める。
家財は九条家が用意してくれたもので、二人の荷物は、あらかじめ引っ越し業者によって整理されているから、特にすることもない。
夕食の食材でも買っておこうかと迷ったとき、ソファーに置いたバッグの中でスマホが鳴った。誠一郎からの着信だ。
深呼吸して明るい気持ちをつくり、応答ボタンをスワイプする。
『優衣? もしもし? もう新居にいる?』
「はい。大丈夫ですか? もしかして、何か問題でも……」
『ごめん。もっと早く連絡したかったんだけど、もうバタバタで……実はちょっとトラブルがあって、さっきまで群馬の病院にいて。もうすぐ東京には着くんだけど……』
「えっ。病院?」
思わずスマホを握り締めた。
耳を欹てると、かすかに車内アナウンスが聞こえてきた。走行音はしないし、電話をしていることから、新幹線だろうか。
『いや、俺は平気なんだけど、父が趣味の登山中に転んで、大腿骨を骨折しちゃって』
「ええっ、それは……もしかして、大がかりな手術とか……」
大和の日に焼けた健康的な肌を思い出す。いかにもアウトドアが好きそうな、快活な印象だった。
『うん。さっき無事に終わって術後説明も聞いてきたんだけど、長期入院が必要で。リハビリに入ったら東京の病院に移してもらう予定。でね、実は……弟たちの面倒を見なきゃいけないから、しばらく実家を離れられそうになくて』
「弟さん、たち……?」
付き合っていたころ、誠一郎は家について話したがらなかったから、プライベートをほとんど知らない。
でもそういえば、弟が中等部にいて、誠一郎に負けず劣らずのとんでもないイケメンだと噂になっていたことを思い出す。
『あれ。釣書に書いてなかったかな。学生時代は、周りを気遣わせたくなくてあまり言わなかったんだけど、うちは父子家庭だから』
「えっ……」
さすがに『釣書は一切見ずに捨てました』とは言えず、驚きを飲み込んだ。
──ああ、もう。こんなことになるなら、保管しておけばよかった。
──母親がいないって……一体、どういう事情で? いつからだろう。
『で、住み込みの家政婦さんが、ご家庭の事情で長期休暇を取っていて、予定より長引いててね。父も不在となると、さすがに……一番下が小学生だから、まだ手がかかって。もう高学年なのに、すごい甘えん坊で』
「っ……そ、そうですね。確かに、それは……」
──しょ、小学生!? じゃあ少なくとも、七年前くらいまではお母様と一緒に暮らしてた……?
──ちょうど、私と付き合ってたのも七年前で……。
『とにかく早急に人を雇って、俺も新居に引っ越せるようにする。新婚早々一人にしてしまって申し訳ないんだけど、少しだけ待っていてほしい。今日は無理そうだけど、明日自由に使えるカードを渡すし、毎晩そっちに顔を出すから』
「っ、ちょっと待ってください、でもそれって──」
──家族の面倒を……小学生の弟さんの面倒を、先輩が見るってこと? 働きながら?
誠一郎は九条地所に入社してまだ二年目。経営企画部所属で、甘い環境ではないはずだ。どんな仕事をしているのか詳しく聞くタイミングもなかったが、次期社長として、相当なプレッシャーがあることは容易に想像がつく。
ここで妻が夫を支えなくて、いつ支えるのか。
今こそ、役に立つチャンスではないのか。
それに、もし父に新婚早々の別居がばれたら間違いなく、『何をやっているんだ! 夫に尽くして早く子供を作れ!』と激高するだろう。誠一郎にも火種が飛びかねない。
『ごめん、もう東京に着きそう。細かいことは明日改めて──』
「待ってください! 私も今から、ご実家へ伺います!」
『……え?』
「経緯はどうあれ、私も覚悟を決めましたから。一人でのんびり過ごしていられません。ちゃんと、妻として──」
『いや、いやいやいや! 駄目だよ。絶対に駄目。大事にするって言ったよね? どれだけ大変かわかってないからそんな、』
「ご実家に押しかけたら迷惑ですか? やっぱり、私とは距離を置きたいとか……」
『違う違う、そうじゃなくて、家政婦代わりにするために結婚したんじゃないから。これ以上優衣の自由を奪いたくない。契約結婚自体知らなかったんだよね? 小鳥遊社長はああ言ってたけど、仕事も望んで辞めたわけじゃないんだろう?』
「それは……、もちろんまた働きたいし、専業主婦になるつもりはありません。でも今は助けあうときじゃないですか。家政婦さんが見つかるまでの短期間ですよね?」
『それは……そうだけど……』
誠一郎は電話の向こうで言葉に詰まった。
『あんなに酷いことをしたのに、そんなふうに言ってくれるなんて……嬉しいよ。正直かなりきついから、来てくれたら助かるけど、ただやっぱり──』
「ご迷惑でないなら、途中で夕食の買い出しをして向かいますね!」
『えっ。いや待って、うちほんとに動物園みた──』
──……? どうぶつえん?
勢いで電話を切ったが、ペットでもいるのだろうか。
──すごい豪邸だったし、ガレージかなんかで、珍しい動物を飼っててもおかしくはないかも……。
──うう。もふもふした可愛いのだったらいいけど、爬虫類系だったらどうしよう。お世話できるかな……。
そんなことを考えつつ、クローゼットの衣類を数着バッグに詰めて電車に飛び乗り、最寄り駅に降り立って、スーパーに寄った。
──高校時代噂になってた弟さんと、小学生の子と……三人兄弟だよね。
──私を含めて、四人分で足りる?
食材を抱えて店の外に出ると、日が暮れ始めていた。