今日から君は俺のもの 初恋のハイスペ男子に1億円で買われて毎日溺愛されています 3
私が最初に家出をしたのは十年前。
中学三年の初夏、夏休みを控えた六月下旬の夜だった。
急に雨が降り出して、途方に暮れていた。そんな私に傘を貸してくれたのが、雨宿りに立ち寄ったコンビニで偶然会った、同級生の芹生くんだった。
私と変わらない身長に、目がすっかり隠れるほど長く伸びた前髪……あ、とひと目でピンとくる程度には覚えがあった。不登校の彼がときおり保健室にだけ通っているのは知っていたから、『芹生くんだよね』と声をかけたのが始まりだ。
かなり気が昂っていた。大して面識のない彼に家出の理由を伝え、さらには『どうしたらいいと思う?』と相談まで始めてしまうくらいには。
それでいて、具体的にどうしたいのか、どこへ逃げたいのか、芹生くんから訊かれてもなにも答えられなかった。
店を出て軒下で話しているうち、雨の勢いは次第に落ち着き始め、そして。
『今日は家に帰って』
『いい子のふり、してて。夏休みが始まるまで』
思いもよらない話を切り出され、目を見開いて芹生くんの前髪の奥を凝視した。視線が合って、右目尻のほくろが妙に目に焼きついて残った。
『計画を立てたほうが確実だ』
『夏休み中なら、今よりも絶対逃げやすい』
『放課後になったら落ち合おう。有泉さんの計画、僕も考えておくから』
私を家の近くまで送ってくれた彼は、傘を私に預けたきり、走って帰ってしまった。
芹生くんがどうしてそこまでしてくれるのか、私には分からなかった。けれど、彼が差し伸べてくれた手は私には救いにしか見えなかったし、事実それ以外の何物でもなかった。
それから私たちは、放課後にあのコンビニで落ち合って、近くの公園で一緒に秘密の家出計画を練り始めた。
目的地は父方の叔母の家にした。私たちが暮らす田舎町から遠く離れた、都心に近い大きな街、横浜だ。
横浜には新幹線一本では行けないんだな、と初めて実感を伴った理解があった。知識として知ってはいたけれど、私はそれまで県外へ出たことがほとんどなかったから。
まずは新幹線で東京駅へ向かい、それから電車を乗り換える。芹生くんのスマホで検索した電車の路線図は、網の目のように画面の中を這っていろいろな方向へ延びていて、胸が弾んだ。
私たちが住む世界とは無縁のその網の目の中に、まだ知らない自由がたくさん詰まっている。そんなふうに見えて、私が家を出るための至極真面目な計画なのに、完全にわくわくしてしまっていた。
『ねえ、せっかく夏休みなんだし遊びながら行かない?』
『は? 呑気すぎ、あんたの家出だろこれ』
『ごめんごめん、けどどうせなら楽しいほうが良くない? 芹生くんは神奈川って行ったことある?』
『ないけど』
『鎌倉の大仏とか見たくない? あと横浜の中華街も行ってみたいな、楽しそう!』
『呑気すぎ』
私にとっては、部活を引退して間もない、塾中心のスケジュールに切り替わるまでのほんの隙間みたいな放課後だった。そんな時間に、私たちは何度もコンビニで落ち合っては、公園でノートとペンと芹生くんのスマホを広げた。
傍目には、単に中学生がふたり、一緒に勉強をしているように見えていたのではないかと思う。
前髪の長い芹生くんにヘアピンをあげたり、お礼に芹生くんが使っているずうっと芯が尖ったままのシャープペンシルを渡されたり、こんないいシャーペンもらえないよと慌ててみたり……秘密の計画を立てる私たちの絆は、どうかしているくらいに強く結びついていた。小さな公園の小さな東屋で、あの時間だけは、まるで世界に私たちふたりきりみたいだった。
ひと月にも満たない日々だったけれど、恋心が芽生え、育つには十分だった。
計画を実行に移したのは、夏休みが始まって三日目の朝だ。最寄りの無人駅を出て、新幹線の通る大きな街まで行き、貯めていたお小遣いとお年玉を駆使して切符を買って、とうとう新幹線に乗り込んで、そして。
結論から言うと、私たちの計画は失敗に終わった。
道中の大きな街にある神社にどうしても寄りたい、と私が我儘を言って、そこで一度新幹線を降りた。芹生くんはかなり渋い顔をしていたけれど『まぁあんたの家出だから』と結局は頷いてくれて、それが当たり前のように裏目に出た。
見つかったのは、その夜だ。
神社を出て、日が暮れて、また駅に戻るまでの道すがら、小さな公園で一緒に星空を見上げて、『綺麗だね』と笑い合って初めてキスをした、その直後。
私たちを見つけたのは、うちで雇っていたお手伝いさんたちだった。父に頼まれてずっと私たちを追っていたらしい。つまるところ、私の家出は最初から始まってすらいなかった、ということだ。
私たちは別々に保護されて、別々に家族が迎えにきて、それでおしまい。
当たり前だ。今なら、あれがどれほど無謀な計画だったのかも分かる。子供が、それも男女が泊まりがけで遠方に出かけるなんて、あってはならない。
でもあのときの私は本気だった。おそらく私だけではなく、芹生くんも。
芹生くんは学校には来ていなかったけれど、成績は飛び抜けて優秀だった。そんな人があの家出計画の不備、そして無謀さに気づいていなかったわけはない。
あれを実行に移した芹生くんにも理由はあったのだと思う。絶対に無理だと分かっているのにそうしなければならない、そうしたいと思わせるだけのなにかが、きっと。
残りの夏休み中、私は家から出ることを許されなかった。
自宅に軟禁されて数日が経った頃、父から、芹生くんに手切れ金を渡したと聞かされた。芹生くんと彼の親はそれを拒まなかった、と。
父に楯突いたのはあのときが初めてだ。掴みかかって声を荒らげて、でもなにも変わらなかった。
父は面倒そうな目で私を一瞥して、やはり面倒そうな所作で私の手を振り払って、その後はいつも通りだ。静世さんとの食事の約束がどうとか、私の気を逆撫でするような発言をわざわざ残して出かけていった。
どこにも行けず、会いたい人にも会えないまま、無意味な夏休みはやがて終わり、私の軟禁も解かれた。
新学期、芹生くんはもう学校に在籍すらしていなかった。夏休み中に遠くの町へ転居したと、先生から聞かされた。
私の無茶に巻き込んだこと、父が汚い手段で縁切りを促したこと、最後に会えもしなかったこと。どれもこれも後悔しながら、私の心は十年、ずっとあの逃避行に囚われたきりだった。
芹生くんは、私が好きになった、最初で最後の男の子だ。
身長は私と変わらなかったのに、手が大きくて指も長くて、いつからか目が合うたびドキドキしていた。私が突拍子のないことを言い出しても、きちんと意見を尊重してくれた。喋り方は素っ気なかったけれど、いつだって親切で優しかった。
初めてキスをしたあの夜、芹生くんも私と同じ気持ちでいてくれたんだと心が満たされて、嬉しさだけでできた涙が浮かんで、けれどその幸せはたった数分で粉々に砕けてそれきりだ。
私は、自分の我儘のせいで、大事な人をひどい目に遭わせてしまった。
いつか謝りたかった。でも、もう二度と会えない可能性のほうが遥かに高かった。そう思い知らされるたび目の前の現実に引き戻されて、がむしゃらに勉強したり働いたりするしかないまま、十年。
――まさか、こんなふうに彼のほうから私に会いにくるなんて。
車に揺られながら、隣の彼をちらりと盗み見る。昔から綺麗な子だったけれど、本当に格好良くなった。背が高くなって、肩幅もしっかりして、目鼻立ちだってあの頃よりずっと精悍な印象になって……まるで別人だ。
それでいて、右目尻の泣きぼくろは記憶の中の芹生くんと同じ場所にある。そこを軸に、かつての芹生くんと今の彼がゆっくりと重なり、ああ、この人って本当に芹生くんなんだな、という実感に結びつく。
彼の荷物はスーツケースひとつのみ。対する私は、背負ってきたリュックと、着てきた服を詰めた紙袋という、派手な振袖とのちぐはぐ感が際立つ奇妙な格好だ。まさかこんなことになるとは思っていなかったから、仕方がないといえば仕方がない。
ぎゅ、とリュックを抱き締めながら、芹生くんがお金で、それも大金を叩いてまで私を購入した目的を考える。
『買っちゃった』
『十年前の手切れ金の百倍で』
十年前、私が無謀な家出計画に彼を巻き込んだせいで、芹生くんはこの町にいられなくなった。ということは、やはり今回の件は私への復讐が目的なのでは、と考えざるを得ない。
ずき、と胸の奥が痛んだ。
実家で雇われている運転手の車に乗り込み、十分あまりが経った。触れるようで触れない距離を保ったまま、私と並んで後部座席に座る芹生くんは、相変わらず涼しい顔で窓の外を眺めている。
どこに連れていく気なんだろう。
急速に緊張が高まってきた、そのときだった。
「似合ってないね。その着物」
不意に話しかけられてぎくりとした。視線が煩わしかったのかも、と慌てて目を逸らしてももう遅い。
似合っていない……確かにそうだろうけど、と傷ついた気分になる。
歯に衣着せない芹生くんの喋り方は、昔から変わっていない。そうした印象を強く受けてしまうのは、私があの頃から変わりすぎたせいもある。
私は、十年前に比べて卑屈になったし、自分に自信も持てなくなった。
「うん。ごめん、変だよね」
「なんで謝るの、寧々子ちゃんには派手すぎるって思っただけだよ。お継母さんが選んだの?」
「あ、う、うん」
「センスないね、お継母さん。それともわざと? 嫌がらせでもされてる?」
はあ、と溜息を漏らした彼と視線がかち合った。芹生くんの表情は、どちらかといえば不機嫌そうというよりは心配そうに見えて、思わず目を瞠る。
運転手さんにこんな話を聞かれたら、とハラハラしてしまう。
「さっき、よくあの人に言い返さないで黙ってられたね。こっちがキレそうだった」
苦々しくそう言われてから、先ほどの記憶がようやく脳裏を巡った。
実家を離れて久しいとはいえ、静世さんの不遜な態度なんて、私にとってはごく当たり前のことだ。彼女のああした態度が、私だけではなく周囲の人々にまで不快感を撒き散らしているのだと改めて理解し、ふ、と安堵の吐息が漏れる。
十年前とは違って、芹生くんの目は前髪で隠れていない。なににも遮られずに視線が合ってしまう。
「いいの。言い返しても、いいことあんまりないから」
言葉の途中で俯いて、芹生くんから目を逸らす。
「着物も、私がこういうの、似合わなくなっただけだよ」
もう何年も働き詰めだし、とは言わなかった。芹生くんとは関係のない話だし、今それを伝えたら私自身があまりに惨めだ。
芹生くんは私を、十年前に父が渡した金額の百倍、すなわち一億円で購入した。
私が一生かかっても稼げないだろうお金だ。そんなお金を簡単に使えてしまう人になったということなのだろう。応接間ではまじまじと視線を向ける余裕がなかったけれど、彼が着ているスーツだって、いかにも仕立ての良さそうな品のある質感だ。
なにより、静世さんがあれほど深々と頭を下げるとは、という驚きも消えない。
ひなびた田舎町での話とはいえ、由緒ある家として知られる有泉家。その当主代理である静世さんが、彼の機嫌を損ねないようにとひたすら低姿勢だった。いつだって不遜な態度を崩さないあの静世さんが、私と同い齢の人を相手にしているにもかかわらず。
彼女のあんな下手な態度を見るのは、初めてだった。
静世さんは〝顔合わせ〟と称していたけれど、実際のところ、私は実家から芹生くんへ売られただけだ。立場の危うさは変わらない。いや、むしろ想定よりさらに危うくなっているのでは……きゅ、と似合わない振袖の膝の上で拳を握る。
私たちの立ち位置は、こんなにも遠く懸け離れてしまった。
並んで笑い合っていた十年前とは、もうなにもかも違う。
「あのう、本当にこちらまででよろしいんでしょうか」
運転手の嗄れた声が耳を掠め、はっと現実に引き戻された。
途中から舗装が途切れて砂利になった道の上を、ぎりぎりまで進んだ車が、ほどなく静かに停まる。
「ええ。結構ですよ」
涼やかな芹生くんの返事を聞きながら、慌てて窓の外へ目を向ける。
そこは実家の最寄りの小さな駅だった。最寄りといっても、距離はかなり離れているのだけれど。
「降りてて」
「あ……はい」
言われるまま車を降り、砂利道の上に草履の足を乗せる。
運転手と芹生くんがなにか話している声が聞こえたものの、内容までは聞き取れなかった。黒塗りの車は、ほどなく来た道を去っていき、赤いテールランプが妙に眩しく私の目を焼いた。
電車の時間ではないせいか、無人の駅には人の気配がない。目的地が駅とはどういうことなのか。芹生くんが私をこんな場所に連れてきた意図を察しあぐねる。
落ち着かない私の目に、彼の大きな手が映り込んでくる。
十年前の時点で私より大きかった彼の手は、あの頃よりもさらに男性らしく筋張っていた。意識してしまったせいか、急に心臓が早鐘を打ち始める。
「あの、ここから、どこかに行くの?」
無人の駅舎のちっぽけな入り口の前で、おずおずと尋ねる。
本当は私を買った理由を訊きたかった。それなのに言葉が続かない。隣で私をまっすぐ見つめる芹生くんの視線に呑まれ、質問のための言葉は簡単に掻き消える。
「うん。やり直ししてほしいんだ、十年前の」
しゃり、と足元の砂利が立てた音の合間に、思いもよらない言葉が届いた。
「え?」
「家出計画。あのときは失敗したけど、今から一緒に全部やり直してほしい」
「家出、計画……」
鸚鵡返ししながら目を瞠る。
初日にあえなく終わってしまった、ほぼ私ひとりのせいで失敗に至った、私のための私たちの計画。当時、私よりずっと真面目に計画を練ってくれていた芹生くんが、あれをやり直そうと――くらりとした。
私を買ってやりたかったこと、まさかそれ?
わざわざ、とんでもない額のお金を用意してまで?
沈黙が舞い降りた。ちょうど貨物列車が線路を走り抜けていき、その長い轟音を呆然と聞きながら、私はやっとのことで「ちょっと待って」と切り出す。
「今から、って、そんなの無理だよ。私、仕事が」
「仕事?」
意味が分からないとばかりに首を傾げられ、もしかしておかしなことを言い出しているのは彼ではなく私なのでは、と余計に頭が混乱する。
「うん。明日からまた仕事だし、今日だって家に持ち帰ってる仕事、いっぱいあって……早く帰らないと」
困惑に呑まれないようにと意識し、強引に口を動かし続ける。
けれどその途中、私の声は半端に途絶えた。
「いいよ、そんなの。もうやらなくて」
「は? いや、そういう問題じゃなく……え?」
声を荒らげかけた私へ、間を置かず、芹生くんがスマホの画面を提示してくる。
ネットニュースの記事らしきそれを見せつけられ、話の途中なんだけど、と余計に困惑しそうになった矢先、見知った顔が画面に映った。
「え?」
穴が空くほどじっと画面を見ながら、私は言葉を失う。
そこに表示されていたのは、社長と安達さんの顔だった。脱税、逮捕、倒産手続き開始。文字の羅列が、理解が追いつかないうちから、頭の中へ濁流のように流れ込んでくる。
「……え……?」
倒産?
週末、当たり前に出社していた職場が? こんなに急に?
頭が真っ白になる。帯の内側で胃もきりきりと軋み始め、は、と乾いた吐息が漏れた。
もう一度、差し出されたスマホの画面を凝視する。本来なら倒産したところでニュースになるかどうかも怪しい零細企業だ。けれど、話題になっているのは倒産そのものではなく、社長一族の主導による脱税らしい。
画面の中の安達さんの顔写真と目が合い、う、と呻きが零れた。
ニュースの中、安達さんの顔と名前は、社長と並列して表示されている。記事の見出しに書かれた〝逮捕〟という二文字が、さらなる眩暈を誘った。
「そん、なわけ、……私、おとといだって、普通に働いて」
独り言と変わらない細い声が、ろくな意味を成さないまま、ぽつぽつと喉を滑る。
眩暈が止まらない。ふらついた身体を支えてくれた芹生くんの手の感触さえ、どこまでも鈍かった。
「分かってくれた? もう働かなくていいって」
「あ……」
「だから俺と来て。そもそも俺、もう寧々子ちゃんのこと、買った後なんだよね」
強烈な耳鳴りが頭の芯を刺している。
これからどうすればいい。会社が潰れてしまった。それに、この人の言う通りで、私はすでにこの人に買われた後だ。
芹生くんは、私をどうする気なんだろう。
「けど、私……そう、荷物とか、一度、アパートに帰らないと」
「欲しい物があったら買ってあげる。食べる物も服も日用品も、全部」
「そんなことできるわけ……っ」
「できるよ」
断言され、今度こそ絶句した。
ひゅる、と喉が乾いた音を立てて鳴って、そこを長い指が這う。こくりと唾液を飲み込んだ、その震えごと撫でられている気がして、なおさら息が詰まった。
「他にはなにが心配? ああ、冷蔵庫の中とか?」
非日常的な話の中に、急に日常的な視点が入り込んできたせいで、感覚は鈍っていく一方だ。混乱でぐちゃぐちゃの頭の中を、自宅の、ほぼ空っぽの冷蔵庫がふっとよぎる。
別に困らない。
私が困ることは、仕事以外では特にない。
「別に、悪くなりそうなものとかは入ってない、かも」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
目線を合わせるように屈まれ、堪らず額を押さえた。
確かに大丈夫なのかもしれない。いや、本当にそうだろうか。大丈夫なわけがなくないか。
常識がぐらついて、自分で出せるはずの答えがいつまでも掴めない。
「そんなに冷たくしないでよ。一度はキスまでした仲じゃん」
笑う彼の真意を掴みきれないまま、きゅる、と帯の中の内臓が切なそうな鳴き声をあげた。
*
無人駅から二両編成の電車に乗り込んだ私たちは、数少ない電車の利用客の目にどう映っただろう。
片やぎらぎらの似合っていない振袖姿、片や長身のスーツ姿。極めて異質に映ったに違いない。「撮影かなんかかな」とひそひそ喋るふたり組の高校生とは、終始視線を合わせないよう努めた。
のっそりと線路を走る各駅停車の箱の中、田舎特有の長い長い四駅分の距離を揺られ、さらに乗り換えを経て、辿り着いたのは隣市の駅だ。県内で最も規模の大きな地方都市の駅。
十年前の夏休み、あの日も、私たちはこの駅から新幹線に乗った。
「それ、早く脱ぎたくない?」
「え?」
「着物」
訊かれるや否や、帯が急にきつくなった気がして、「うん」と苦笑しながら頷き返した。
あの夏の日の計画とは違い、私たちは一度改札を出た。彼が私を連れて向かった先は、駅直結のデパートに入っている、いかにも高級そうな雰囲気のブティックだった。
「いらっしゃいませ」
にこやかな店員さんが、まっすぐ私たちのほうへ向かってくる。
「彼女の服をいくつか新調したい。一着はそのまま出かけられる服がいいんですが」
「かしこまりました。それでは……」
芹生くんが店員と話を進めている間、私はずっと、きょろきょろと店内を見回しては身を縮めていた。
お店のそこはかとない高級感に呑まれる。私だけが、どこまでも場違いな気がしてならなかった。
「好きな服、選んで着替えてきて。今から着る分と明日着る分、最低二着」
「えっ、で、でもお金は?」
「全部買ってあげるって言ったでしょ。気にしなくていいよ」
いや気にするよ、と返したかったのに、そのタイミングで「どうぞこちらへ」と店員から声がかかり、結局は言えずじまいになった。
試着室のスペースは広く、壁面の大きな鏡をおずおずと見る。
慣れない中、ふと懐かしい記憶が脳裏を掠めた。こういうお店、お母さんが元気だった頃によく連れてってもらったな、と思い出した途端、うっかり涙腺が緩む。
忙しさにかまけて、完全に忘れていた。そんなことは。
何点か試着して、黒糸で花が刺繍されたベージュのワンピースを選んだ。スーツ姿の彼の隣に並んでも遜色なさそうな服を、靴と髪留め、バッグも合わせて揃えてもらう。
振袖を脱いだだけでも呼吸が楽になった。五分袖のAラインワンピースにカーディガンも合わせてもらい、大きな鏡に映った自分を見つめる。
こういうふうに服を選ぶのはいつぶりだろう。母が生きていた頃以来かもしれない。
何年も、機能性と値段のみで地味なオフィスカジュアルばかり選び続けてきたけれど、元々私は可愛い服を着たり選んだりするのが大好きだった。実家から距離を置きたいあまり、本来の自分を削ぎ落としすぎていた。
試着室を出ると、芹生くんが待っていてくれた。
「いいね。可愛い」
「あ……りがと」
開口一番そんなことを言うから、思いきり照れてしまってお礼を伝え逃しそうになった。店員たちも朗らかに笑って見守るばかりで、それもまた羞恥を煽る。
試着したうちのもう一着を包んでもらう中、ひとりの店員が遠慮がちに尋ねてきた。
「その、お召しでした振袖はいかがいたしましょうか?」
彼女の視線は、私と芹生くんを交互に泳いでいた。
窺うように、隣の芹生くんを見上げる。
「処分してもらえますか。費用がかかるなら別途払います」
ぎょっとした。
費用を支払ってまで、と露骨に固まってしまう。
「か、かしこまりました。あの、買取でも承れますが……本当によろしいですか?」
「いや、処分がいいかな。寧々子ちゃんはどう?」
「あ……と、お任せ、します」
「そう? では処分で」
静世さんに返さなくてもいいのかな、と不安がよぎったものの、どのみち実家はすでに私をお金で売り飛ばした後。無理やり着せられた振袖だけを返すというのも、確かにおかしな話だ。
どうしてだろう。私をモノ扱いしているのは、お金で私を買った芹生くんも同じだ。それなのに、私は芹生くんには少しも嫌悪を抱かずにいる。
ぼんやりとそんなことを考えながらお店を出て、私たちは再び駅に戻った。着慣れないブランド物のワンピースは、歩くたびたおやかにスカートの裾が揺れて、そわそわと落ち着かなかった。
新幹線には、信じられないくらいスムーズに乗れた。
予約とか指定席とか、中学生だった頃の私たちはあんなに懸命に調べていたのに、今は芹生くんのスマホの中だけで全部が綺麗に完結している。私はただ、彼の隣で馬鹿みたいにぼうっとしているだけだ。
隣同士の席に座ると、アナウンスが入った。
終点の東京駅までの停車駅を淡々と案内する車掌の声が、なんとなく現実離れして聞こえる。けれど、道中の大きな街の名前が耳を掠めた瞬間、「あ」と声が出た。
「そこで降りよう。今回も」
「あ……うん」
返事をしながら、居た堪れなくなった私は手元に視線を落とす。
そうだ。昔の私たちも、その街で一度新幹線を降りた。
本当に間抜けだ。東京まで一気に行ってしまえば、変にもたもたしなければ、私たちの逃避行はもっとうまく進んだのかもしれないのに。
『この神社、寄りたい! すごく有名なところなんだって!』
当時の自分の発言を思い出すだけで恥ずかしくなる。目的地へ一気に近づける新幹線を、わざわざ一度降りてまで寄るべき場所ではなかった。
大人になった今、もしあのときと同じ条件で逃避行をするとしたら、絶対にしない選択だ。子供の自分が考えていたことは本当に幼稚で、最初から最後まで感情に支配されっぱなしだった。
でも、あのときは全部本気だった。
そして、あの頃の私に、今の私の選択は絶対にできなかった。
「ごめんね。あのとき私が『神社に寄りたい』なんて言わなかったら、もっと……」
「いや。どのみち時間の問題だったと思う」
すれ違う新幹線同士の警笛に重なった芹生くんの返事は、どこまでも淡々としていて、私ははっと息を呑む。
「もしかして、あのときもそう思ってた?」
時間の問題。当たり前といえば当たり前の事実ではあったけれど、改めてきちんと言葉に置き換えられると衝撃的だった。
思わず、口を歪めて問いかけを重ねてしまう。
「だったら、なんで」
「ん?」
「ううん。なんでも、ない」
なんでそんな失敗確定の家出に、わざわざリスクを背負ってまで付き合ってくれたの、とは訊けなかった。
『ご乗車ありがとうございました。間もなく……』
ほどなく到着した駅で、私たちは新幹線を降りた。
目的の神社は、駅の北口から歩いて十分程度。有名な観光名所でもある大きな鳥居の前に到着した頃には、すっかり日が暮れていた。
日々代わり映えのしない社畜生活を繰り返していた私にとって、今日という一日はあまりに濃厚だった。全部夢なのでは、というふわふわした不安がずっと頭の端に居座っている。
なんとかそれを払いたくて、参道を進みながら、私は隣の彼に話しかけた。
「あのときはね」
「うん」
「お父さんと静世さんの縁がさっさと切れますように、ってお願いしたかったの」
手水舎で手を清め、笑って切り出す。
顔を見ないまま零した私の本音に、芹生くんが尋ねてくる。
「静世さんってさっきの人?」
「うん。お母さんが亡くなってまだ一年も経ってなかったのに、お父さん、あっさり再婚なんて考え始めて……ひどいよね」
ふふ、と笑う。笑うしかなかった。
母を喪い、父はきっと悲しくて悲しくて仕方なかったのだと思う。でもそれは私だって同じだった。
子供だった私の目にさえ、静世さんは父が弱っているところにつけ込んできたように見えた。けれど、父は私の意見になんか聞く耳を持たなかった。なにをどう訴えても『子供が余計な口を挟むな』と一蹴されるだけ。
母を喪った悲しさごと否定されているみたいな、刺すような苦しさ。十年前に感じたそれに、今、こんな出先でまるごと呑み込まれそうになる。
唇を噛み締めた、そのときだった。
「まぁ気持ちは分かるけど縁切り神社ではないんだよな、ここ」
淡々と返され、は、ときょとんとする。
思わず見上げた先で、芹生くんと目が合った。彼の言葉の意味を、ようやく頭が理解し始め、つい噴き出してしまう。
「そう。それ、私も後から気づいてさぁ」
さっき〝着物が似合っていない〟と言ったときと同じだ。
芹生くんは私に、同情も忖度もしない。私を〝かわいそう〟という枠に無理やり押し込めたりしない。
十年前の私も、この人の、こういうところを信頼していた。
「はは。芹生くん、ほんと変わってなさすぎる」
今日初めて、口を開けて笑った気がした。
いや、今日どころの騒ぎではない。ここ直近で、私が最後にこんなふうに笑ったのはいつだっただろう。思い出せない。久しぶりに表情筋を動かしたせいか、目にうっすらと涙の膜まで張ってしまう。
笑って手水舎を背にしたそのとき、不意に目の前が翳った。
顔に手を寄せられ、は、と声が漏れる。大きな手のひらが視界いっぱいに広がり、咄嗟にきつく目を瞑ると、そっと目尻を撫でられた。
滲んでいたわずかな涙を拭われたのだと、一拍遅れて思い至る。
「今日は?」
「え?」
「なにをお願いするの、今日は?」
前触れもなにもない急な接触に狼狽えた私は、すぐにはなにも答えられない。「あ」とか「う」とか意味のない声を落としながら、早く答えなきゃ、と焦る。でも、結局まともな答えは浮かばなかった。
私は、いつも芹生くんの質問に答えられずじまいだ。
十年前、最初に家出をした雨の日もそうだった。どこに逃げたいのか、どうしたいのか、訊かれても答えられなかった。分からなかった。
具体的な計画はいつだって中途半端にして、ただ形だけで生きている。
形ばかりの自立を維持して、形ばかりの意地を貫いて……元々限界は差し迫ってきていた。今日、もし実家で私を待ち構えているのがこの人でなかったとしたら、今頃私はどうしていただろう。
「どうしようかな。芹生くんは?」
胸の痛みをごまかしたいあまり、質問に質問を返してしまう。それには「内緒」と微笑まれただけで、話はそれきり途絶えた。
本殿まで続く行列は意外とあっさり短くなって、私たちは並んでお参りをした。なにをお願いするのか特に決めていなかったから、無心に手を合わせるだけになった。
手を合わせながらちらりと視線を動かすと、〝縁結びの神様〟と大きく書かれたポスターが目に留まり、ぎくりとした。
そうだ。ここは縁結びで有名な神社だった。なんで私はあの人たちの縁が切れるようにと願うために縁結びの神社を選んだんだ、間抜けすぎる、と今さら心底呆れる。
同時に、さっきの芹生くんの質問の意図をなんとなく察せてしまって、急速に顔が熱くなる。
お参りを済ませるまで、隣の彼の顔は見られなかった。
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