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今日から君は俺のもの 初恋のハイスペ男子に1億円で買われて毎日溺愛されています 2

第二話


 安達さんから頼まれていた書類を最優先し、他の残務は持ち帰る形で、残業をせずに帰宅した。安達さんには露骨に睨まれたけれど、どうしても時間が欲しかった。
 結局、父は電話でのやり取りを拒んだ。
『帰ってきたときに直接話したい』
 用件のみの文面から父の面影を追うのは難しい。文字通り、他人行儀というか無機質というか……謝りたいなんて言うわりに私と電話をする時間も作れないのか、と嫌味のひとつでも零したくなってしまう。
 元気にしているかとか、仕事はどうだとか、そういう家族らしいメッセージはひとつももらえないまま、それでも私は了承を返した。
 そういう言葉は面と向かって伝えたい、と考えてくれているのかも。この七年の間に、私への不当な扱いをきちんと反省してくれたのかも。母が生きていた頃の優しい父に戻ってくれたのかも。そういう期待に、どうしても抗えなかった。
 ――そして訪れた、十月十二日、日曜。
 前泊しなくても、朝一の電車に乗れば約束の時間に間に合うと踏んだ。普通列車を二度乗り換え、さらに本数の限られたバスに揺られながら、実家へ辿り着いたのは十一時二十五分。約束ぎりぎりの時間だった。
「お待ちしておりました、寧々子お嬢様」
「……どうも」
 お嬢様。他人行儀な呼び方をされ、複雑な気持ちで言葉を濁す。
 広い屋敷の正門前で私を待ち構えていたのは、使用人だという三人の女性だった。記憶にない顔ぶれだ。私が家を出た後、新たに雇われた人たちなのだろう。
 父が再婚するまで、屋敷には町内の馴染みの人たちが働きに来てくれていた。中には同級生のお母さんやお祖母さんもいた。けれど、継母がこの家を取り仕切るようになって以降は、完全に新しい人だけになったみたいだ。
 あの頃働いていた人たちは、今、どうしているだろう。
 苦々しくそんな考えが巡ったそのとき、三人のうちのひとりが声をあげた。
「お急ぎいただいてもよろしいでしょうか」
「……え?」
 なぜ、と眉が寄る。どことなく苛立ったような口ぶりも気になった。
 だいたい、父は今どこにいるのか。向こうから『謝りたい』と切り出してきたのだから、父が直接出迎えてくれてもいいだろうに……職場の休憩室で最初の連絡を受け取ったときから胸を這い続けていた微かな違和感が、じりじりと膨らみ始める。
「父はどこですか?」
 思わず尋ねたものの、返事はなかった。それに、誰も私に〝おかえり〟とは言わない。不気味なほどの沈黙の中、三人に半ば強引に連れられ、私は屋敷の中へ足を踏み入れた。
 屋内はだいぶ改装されていた。とはいえ、私が住んでいた当時の面影はところどころに残っている。亡き祖父母や母、そしてかつては優しかった父とともに暮らした幼い日の思い出が蘇り、胸の奥がひりひりと痛み出す。
 通された先は、廊下の一番奥。
 襖を外せば大広間になる、その端の端に当たる和室だった。
「え?」
 開口一番、訝しげな声が零れた。
 目の前の衣かけに振袖が下がっていたからだ。ぎらぎらと光沢の目立つ金色の振袖を、目を見開いて凝視しながら、ぞわりと背が震える。
「どういうことですか、これ」
 返事はやはりない。
 着替えろ、ということ? 今から? 振袖に?
 しかもこの派手な意匠、間違いなくこれは彼女(・・)の趣味だ。まさか、今日のこの呼び出しは。
 こくりと喉が震えた、そのときだった。
「どう? 急いでくださる?」
 襖越しにハスキーな女性の声が聞こえてきて、びく、と背が跳ねる。
 咄嗟に振り返ると、開いた襖の先で、真っ赤な口紅の美女が私を睨みつけていた。冷たい目だ。亡き実母よりも私に齢が近い彼女は、最後に見た七年前から少しも顔が変わっていない。
 継母の静世さんだ。
 ぞわ、とひと息に鳥肌が立ち、私は声を張り上げた。
「どういうつもりなんですか? 父はどこ!?」
「は、なに? 聞いてないの?」
 うるさいわね、と言わんばかりに眉間に皺を寄せ、静世さんは面倒そうに続ける。
「顔合わせだって伝えておいてって言ったのに、ったくあの人ったらもう」
「……は?」
 父の居場所を聞き出そうと躍起になっていたはずが、急に目の前が暗くなる。
 顔合わせ。立ちくらみがした。足をふらつかせた私の傍までゆっくりと歩み寄ってきた静世さんは、ふん、と鼻で笑ってみせる。
「まぁいいわ、あんたが来てくれたならそれで。ああ、今度の相手はあんたと同い齢よ、前と違ってね」
 にい、と唇の両端を持ち上げ、静世さんは「安心なさいな」と濃い化粧の顔を歪ませる。ああ、笑っているのか、と一拍遅れてから気づいた。
 顔合わせ。今度の相手。ぞっと背が凍りつく。
 父はそんな話を一切しなかった。つまり、父は私を騙してここを訪れさせたのだ。抱いていたほのかな期待が砕け散り、くらくらと眩暈に襲われながら、私はきつく拳を握り締める。
「仕上がる頃にまた来るわ。早くして」
「はい、奥様」
 私ではなく使用人たちへ言い残してから、ほどなく静世さんは部屋を去っていった。
 その後はもう、されるがまま着付けを施されるしかなかった。信じたかった父に裏切られた。それだけで、私が諸々を諦めるには十分だった。
 静世さんが再びこの部屋を訪れたのは、誰ひとり口を開かないまま続いていた着付けの終盤、帯を締め終えた頃だった。
 明らかに似合っていないだろう、派手すぎる振袖に包まれた私を一瞥し、静世さんはまた「ふん」と鼻で笑った。
「まぁそれなりね、着られてる感がすごいけど」
 言いたい放題の静世さんへ、私は虚ろな視線を向ける。
 派手な光沢を放つ振袖だけを見ていた彼女が、ようやく私の顔にも焦点を当ててきた。
「久しぶりね、寧々子。元気にしてた?」
「……ええ」
 取ってつけたかのような挨拶への返事は、自分が思う以上に投げやりになった。
 私が今、遠く離れた街でひどい働き方をしていることを、この人は果たして知っているのかどうか――いや、知っていたとしてももはや関心はないだろう。高校を卒業した私がこの家から逃げた理由を、静世さんはただの我儘としか考えていない。曲がりなりにも娘である私を、心の底から目障りだと思っている。
 静世さんに対しては、嫌い、という感情よりも怖さが勝つ。
 この人に人生をめちゃくちゃにされたのだと思うたび、醜く顔が歪みそうになる。身体も硬く強張ってしまう。
「先方を待たせてるの、急いで。ったく、来るのが遅いのよあんた」
「……すみません」
 素直に頭を下げた。
 父に指定された時間は守ったはずだけれど、それを静世さんに訴えても意味はない。安達さんといいこの人といい、私の周りは話の通じない人だらけだ。
「にしてもあんた、やるじゃない」
「は?」
「今日の話よ。それも重春(しげはる)さんから聞いてないわけ?」
 重春は父の名だ。要領を得ない話の内容に眉を寄せると、にい、と静世さんは唇を歪めてみせた。
 さっきと同じ笑い方だ。ぞわ、と震えかけた背を、私はなんとか直立に保つ。
「はい。日時以外は、なにも」
「んもう、本当になにをやってるのよあの人は。やっと娘のもらい手が決まったってときに!」
 娘のもらい手、という言葉が激しく頭を揺らす。
 今日の席は、私の意思が反映されるようなものではないのだろう。それが確定してしまったせいで余計に気が滅入った。
「男前だったわよ~、良かったじゃないの。こんな可愛げのない子のなにが気に入ったんだかさっぱり理解できないけど」
 軽い口調の最後に露骨な貶しが入り、ぴく、と唇の端が震える。
 下手に楯突いても面倒ごとが増えるだけだ。「そうですか」と短く答えるだけにとどめ、なるべく穏便に、と意識して話を畳む。
 つまるところ今日の席は、父と静世さんが勝手に決めた縁談であり、その相手との顔合わせなのだ。高校を卒業して帰省したあの日以来、この手の話をここまで強行されるのは初めてだ。
 あれから今日まで、私は一度も帰省せずに生きてきた。
 実家から逃げた後、高校の同級生の伝手でなんとか就職できた職場を早々に知られ、パニックになって退職した記憶が苦々しく蘇る。無理やり家に連れ戻されるのでは、職場にも迷惑がかかってしまうのでは、とあのときは気が気ではなかった。
 それから日給の仕事で食い繋ぎながら次の仕事を探し、なんとか再就職できたのが今の職場だ。ブラックな環境だと骨の髄まで分からせられてからも、自立を続けられなくなる恐怖が先立ち、結局辞められずじまいで今に至る。
 この縁談、うまく断れるだろうか。断れたとしても、最後まできちんと逃げきれるかどうか。
 そして仮に逃げきれたとして、私が戻る先はあのブラックな職場以外にない。完全に八方塞がりだ。
 いっそ今日のお見合い相手が助けてくれたらいいのに、と馬鹿げた夢を見てしまいそうになる。広がりそうになった呑気な妄想を、私は強制的に終わらせた。
『今度の相手はあんたと同い齢よ、前と違ってね』
『男前だったわよ~、良かったじゃないの』
 どうでも良すぎる。そんな情報は。
 同い齢で男前だからなんだっていうんだ、と舌打ちしたくなる。父と静世さんが強硬手段に打って出てまで逃したがらないという時点で、ろくでもない縁談に決まっている。
 現実を見なければならない。自宅アパートには、金曜に職場から持ち帰った業務がまだ残っている。今日の帰省の時間を無理に捻出した分、帰り次第、早急にそれらを片づける必要がある。
 とはいえ、今日の話をきちんと断ったり切り上げたりなんて、今の私に本当にできるだろうか。働き詰めで疲弊しきった自分には到底できない気がして、眩暈がした。
 息苦しいだけの着付けを終え、和室を出て、静世さんの後ろをついていく。
 その間、静世さんはなにも言わなかった。衣擦れの音と床の軋む音しかしない中、この先は応接間か、と見当をつける。案の定、静世さんは応接間の前でひたりと足を止め、障子戸の前で膝をついた。
 ぎり、と緊張が高まる。
 断れるなら断りたい。せめて話が通じる人でありますように。
 祈るような思いで、私も静世さんに倣って膝を折る。
「失礼いたします。大変お待たせしました」
 猫撫で声の静世さんが、ゆっくりと障子戸を開く。
 彼女に続いて畳を進む。三つ指をつくよりも先、盗み見るようにして相手の顔へ焦点を定め――瞬間、ひゅ、と息が止まった。
 目が合った。
 衝撃を受けたのは私だけで、相手は露ほども驚いていなかった。微かに緩んだ彼の口元が、焼きつくようにして目に留まる。
『寧々子ちゃん』
 懐かしい声が聞こえた気がして、くらりとした。
 忘れられない人の声。目の前にいる男の人の、十年前の声だ。ぐにゃりと畳の目が歪んで見え、いけない、こんな場所で、と片手で胸を押さえる。
「芹生様。娘の寧々子でございます」
 同い齢。男前。静世さんの声が、今さら虚しく脳裏をよぎっていく。
 まさかこんな偶然があるなんて。いや、これが偶然なわけがない。真逆の気持ちがふたつ、勢いをつけて同時に膨らみ始める。
 芹生志貴(ゆきたか)。私の、中学時代の同級生だ。
 あどけなさの消えた精悍な相貌には、それでも確かにかつての面影が残っていた。なにより、右目尻の泣きぼくろ……間違いない。
 いや、私がこの人を見間違えるはずはない。
 たとえどれだけ容貌が変わっていたとしても、絶対に。
「なにぼーっとしてるの寧々子、早く頭を下げなさい」
 ひそめられた、それでいて焦りと苛立ちの滲んだ静世さんの声が、耳の近くで私を突き刺してくる。
 ああ、そうか、と唐突に腑に落ちた。
 父は間違いなく知っているけれど、静世さんは知らないままなのだ。目の前のこの人が、かつての私の同級生であることを。この人と私が、昔どんな関係にあったのかを。
 相手から目を逸らすように頭を下げ、畳に額をつける。
 締めつけられた帯の内側で、どくどくと心臓が早鐘を打っている。痛みを感じるほどの鼓動に思わず唇を噛み締めた、そのときだった。
「お待ちしていました。ああ、お継母様はここまでで結構」
 まだ顔を上げられない。
 低い声だ。私の記憶している芹生くんの声とは全然違う。でも。
「……はい?」
「お嬢さんとふたりで話したい。外していただけますか」
 声そのものは穏やかに聞こえるのに、拒否は許していない。静世さんに向けた言葉だと分かっていながら、私こそぎくりとする。
 おそるおそる、隣の静世さんへ視線を向ける。
 静世さんは目を見開いてぽかんとしていた。鳩が豆鉄砲を食ったような、という比喩でしか言い表せない顔だった。
「で、ですが……わたくしにも、この子の親として、務めが」
「ケースの中」
 は、と間の抜けた声を落とした静世さんから目を離し、私は再び彼へ向き直る。
 面影を感じただけで圧倒されたさっきとは違い、今度は、彼の端整な顔を穴が空くほど見つめてしまう。
「確認していただけましたか?」
「え、あ、えっ?」
「ぜひ早々にご確認いただきたく。それとも、お嬢さんの目の前で手渡ししたほうが良かったでしょうか」
 言葉尻と一緒に持ち上がった彼の口角から、目が離せない。
 ケースの中? 確認? お嬢さんの目の前で?
 なんの話だ。息を詰める私の隣で、「あらあらあら」と静世さんが慌てふためいている。いかにも話の矛先を逸らしたがっている、そういう声に聞こえた。
「そ、それではわたくしは失礼して。寧々子、くれぐれも粗相のないように」
 赤すぎる口紅の唇をねっとりと曲げ、静世さんは「失礼します」と去っていく。
 そそくさと廊下を戻っていく彼女の足音を呆然と耳にしながら、震える息が零れた、そのときだった。
「来ないの?」
 崩した口調で問いかけられ、弾かれたように相手へ視線を戻す。
「……え?」
「こっち。いつまでそこ、座ってんのかなって」
 ひゅ、と喉が鳴る。
 喋り方は私の知る十年前の彼と変わらないのに、低い声は相変わらず別人じみている。私の記憶の中で、芹生くんはずっと十五歳のままだ。けれど現実はもちろん違う。あれから十年、私が齢を取った分と同じだけ、彼もまた年齢を重ねている。
 この人が私に会いにきた理由を、緊張にかすむ頭で必死に考える。
 静世さんの浮ついた態度、ねっとりとした笑み、そして私に連絡してきた張本人のくせに不在にしている父。
 これがただのお見合いであるはずはない。
 父は今日、私にもこの人にも合わせる顔がなくて席を外したのだ。
「早くおいでよ。俺に近寄るの、嫌?」
 ぎゅ、と拳を握る。
 立ち上がって和卓まで歩み寄り、相手の傍で再び膝を折った。すぐ顔を伏せたかったのに、顎に向かって指が伸びてくる。私が顔を伏せたがっていることを知っていると言わんばかりの、迷いのない動きだった。
 こくりと、喉が音を立てて鳴る。
「久しぶり。寧々子ちゃん」
「あ……」
「綺麗になったね。十年前も可愛かったけど」
 社交辞令にしか聞こえない。
 あの芹生くんが、そんなことだけをわざわざ言いにきたわけがない。
「芹生、くん」
 その名を口にするのは十年ぶりだ。
 巡りかけた懐かしい記憶を頭から掻き消すためだけに、私は声を絞り出す。
「さっき言ってた、ケースの中、ってなんの話?」
「え、聞いてないんだ?」
 私の顔を持ち上げたきり、芹生くんは意外そうに目を見開いた。
「意地悪だね。お父さんも、今のお母さんも」
 頷けない。首を横に振ることもできない。
 返事ができないまま曖昧に目を泳がせていると、ふふ、と芹生くんが吐息交じりに笑い声をあげた。
「買っちゃった」
「……は?」
「寧々子ちゃんのこと、十年前の手切れ金の百倍で」
 告げられるや否や、バン、と撃ち抜かれたような衝撃が胸を貫いた。
 十年前の手切れ金。当時の父が用意したという、厚さ一センチメートルの札束……それの百倍?
 そんな大金を、どうやって。
 なにより、どうして私を買うためなんかに。
「なん、で、そんな」
「どうしてもやりたいことがあったから」
 ぐい、とさらに顎を持ち上げられ、ますます息が浅くなる。
 芹生くんが、大金を叩いてまで私を買ってやりたいこと。息が詰まる。
「本当はもっと早く来ても良かったんだけど、まぁどのみち」
 逃げられない距離で、私と芹生くんの視線が、音がしそうなほど派手にかち合った。
「今日から寧々子ちゃん、俺のものだから」