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今日から君は俺のもの 初恋のハイスペ男子に1億円で買われて毎日溺愛されています 1

第一話


 たぶん、私だけが知っていた。
 前髪で顔を隠しているあなたが、実はとびきりの美少年だということ。素っ気ない態度を取ってばかりだけれど、本当は誰より優しい人だということも。
 初恋だった。そしてあれから十年が経った今も、私はあなた以外との恋を知らない。
 私たちは、私のせいで離ればなれにされたようなもの。十年、私はとにかくひとりで生きていきたくて、必死に勉強して、働いて――そうやってぎりぎりの綱渡りみたいな暮らしを続けてきた。誰も頼れず、誰も信じられず、ずっと。
 幸せではなかった。渇きっぱなしで生きていくしかないのだと思っていた。
 だからこそ余計に、あなただけが、特別綺麗なままで記憶に残っているに過ぎないのかもしれない。
 だとしても。
「は、ぁあ……っ」
 大きく開いた脚の間に顔を寄せられ、あり得ないくらい頬が熱くなる。
 もう何度も同じことをされているけれど、私がこれに慣れる日は、おそらくこの先も訪れないだろう。キャミソールワンピースの裾を持ち上げる自分の指は、刺激を受け取るたび派手に震え、ちっとも落ち着かない。
 服も下着も、全部、あなたが私のために用意してくれたものだ。
 愛されている。大切にされている。でも、あなたに与えられたもので着飾った私は、本当にあなたのお気に入りになれているだろうか。
 正直、私には分からない。自信もない。
「気持ちいい?」
 私の脚の間に顔を埋めるあなたの声は、今夜もひどく甘い。右の目尻に浮かんだほくろが、微笑みに合わせて色っぽく揺れている。
 私と変わらなかった背丈は大きく伸びて、自分を〝僕〟と呼ぶのをやめて、今では大きな会社の重役で――考えるたびに眩暈がする。あなたは私の知っているあなたではなくなってしまったのに、目尻のほくろだけは変わっていなくて、その変わらない部分を軸に、あどけない少年の面影が強制的に今のあなたへ置き換わる。
「あっ」
 甘い刺激が背筋を駆け抜け、堪らず目を見開いた。
 熱い舌が、あなた以外の誰にも触れられたことのない、自分でさえ触れたことのない秘密の場所を這っている。とても直視していられず、きつく目を瞑りながら、私は蕩けるような責め苦に耐える。
 じゅる、と音を立てて舐められるたび声を抑えきれなくなる。もっともっとと欲張って、自分から腰を揺らしてしまう。
 こんなにも淫らな欲が私の中に眠っていたなんて、と愕然とする。
 頭の先からつま先まで、今夜も私は、あなたの唇と舌で全身をとろとろにほぐされては鳴いてばかりになる。少しずつ、けれど確実に溺れさせられ、私の身体はすっかりあなたのものになってしまった後。
「寧々子(ねねこ)ちゃん」
 肌を暴くさなか、強烈な独占欲の滲んだ声が鼓膜を揺らした。この声で呼ばれるたび、お腹の奥がきゅんと切なくなる。
 身体が作り変えられている。淫らな、あなた専用の身体に。
 硬く反り返った自身を取り出したあなたは、そこへ避妊具を巻きつけてから、私のびしょ濡れの秘部へそれを擦りつけた。
「ぁ、んんっ!」
 ごり、と入り口に擦りつけられると同時に唇を塞がれる。
 気持ちいい。肌が密着するのも好きだし、あなたの蕩けた目がまっすぐ見えるのも好きだ。でも。
「芹生(せりう)くん、ぁ、好き……っ」
 ――でも、今の私は、籠の鳥。
 別れから十年、あなたにはもう二度と会えないと思っていた。けれどあなたは私を迎えにきてくれた。
 まるで奇跡。だから私は、人生で今が一番幸せだ。たとえあなたが追いかけているのが今の私ではなく、あなたが最後に見た十年前の私なのだとしても。
 私は、この十年で変わってしまった。
 十年前の私を追いかけたまま、あなたは私をこの部屋で飼い始めた。あなたが十年前のあなたに戻れないように、私も、十年前の私には戻れないのに。
 だとしても、私は、人生で今が一番幸せだ。
 幸せなんだ。
「芹生くん」
 私は、十年前のあなたではなく、今のあなたに恋をしている。
 出会いと別れを何度繰り返したとして、私はきっと何度だってあなたに惹かれてしまう。けれどその胸の内をあなたに明かすことはできない。あなたが追っているのは、今の私ではないから。
 昔の私ってどんなだったっけ。
 戻りたいけど、戻ろうとして戻れるものなんだっけ。
 分からない。別に分からなくてもいいのでは、と、ともすれば簡単に流されそうになる。こうやって存分に甘やかされた後は、特に。
 たっぷり可愛がられた後、ふたり並んでベッドに横たわった。
 抱き締められている。私も抱き締め返している。それでも、私たちの間には埋めきれない溝がある。
「可愛い。寧々子ちゃん」
「あ……」
「ちゃんと俺に甘やかされてて。これからずっと、一生」
 うっとりと蕩けた瞳に見つめられ、唇を塞がれる。やわらかな感触が唇を辿り、キスは見る間に深くなる。
 嬉しい。満たされている。幸せだ。
 確かにそう思っている。でも、こんなに傍にいるのに、私たちの道は交わらないまま。
 いつまで経っても不安が抜けない。
 息苦しさをごまかすように、あなたの腕に身を任せ、私はゆっくりと瞼を下ろした。

 

『ごめんなさ~い、最下位はおひつじ座のあなた! やる気が空回りして周りに迷惑をかけてしまうかも……』
 早朝五時台、ローカルテレビの星座占いが耳を刺す。
 音声だけを適当に聞き流している。社会人になってからずるずると続けている日課だ。少なくとも今日一日は自分より不幸な人がいる、そういう実感が欲しくて始めた。
 かわいそう、おひつじ座の人。私は最下位ではないから大丈夫。十一位だったけど大丈夫だ。無理やりそう思い込む。
 我ながら歪んだ手段だ。実際、こんなやり方で心が満たされることなんてほとんどない。
「おはようございま~す」
 人がいるはずのないフロアに到着するや否や、そうと分かっていて、私、有泉(ありずみ)寧々子は声を張り上げた。
 しんとした静寂が無駄に優しく私を包み込んで、ああ、寒いな、と思う。
 私が勤めているのは、地方都市の中心街にある古びたビルの三階、ワンフロアの小さなオフィスだ。
 鍵の開け閉めはかなりの頻度で私がしている。直属の上司が管理する鍵を、前日、上司が定時で帰る際に渡され、翌朝彼が出社してきたら返す。その繰り返しだ。
 フロアの鍵を任されるなんて、きっと自分の価値を認めてもらえているからだ、と励みに感じていた時期もあった。
 でも、今は。
 もう会社に住んだほうが早いかも、と本気で思う日が増えた。けれど結局はなにも変えられなくて、毎日必死に通勤を繰り返している。
 間もなく十月。近年の初秋は日中に三十度を超える日もあるとはいえ、さすがにこの時期になると、夜が明けて間もない時間帯はだいぶ肌寒い。十分あまり自転車を漕いでそこそこ温まっているはずが、七分袖のトップスからはみ出した自分の手首はひんやりと冷たかった。
 身も心ももうずっと寒いのに、私の居場所はここにしかない。だから仕方ない。
 ひとりぼっちのオフィスでさっそく作業を開始する。つきりと走った胸の痛みを、私は無理やりスルーした。

    *

 私の勤め先は、総勢十名強、零細と呼んで差し支えない規模の下請けIT企業だ。
 中途で入社して以来、ずっと総務部に在籍している。ふたりしかいない部署の、役職に就いていないほうの社員が私だ。
 いわゆる〝ブラック企業〟に分類される職場なのだと思う。いや、職場自体は別にそこまで黒くないのかもしれない。私のポジションおよび直属の上司が真っ黒、というだけで。
 それでも、逃げるように実家を去った私にとって、地元から離れたこの街で働くことは自立の象徴だ。たとえ、朝から晩まで毎日毎日働き詰めで生計を立てなくてはならないような状態であっても。
 私しかいなかったフロアに、ひとり、またひとりと同僚が出社してくる。
「おはようございます」
「……っす」
「ども……」
 覇気のない同僚たちの挨拶を聞きながら、ふ、と溜息が零れそうになる。
 正直、明るい職場とは呼びがたい。激務に激務が重なるのが当たり前で、誰もが疲れ果てている。先月から無断欠勤が続いていた同僚が正式に退職となって以来、職場に流れる空気はそれまで以上に重くなった。
 社内でいつも威勢がいいのは、社長と、私の直属の上司である安達(あだち)さんだけと言っても過言ではない。
 午前九時五分、手短な朝礼が終わると同時に、安達さんが声をかけてきた。
「ネネコちゃ~ん、昨日頼んどいた報告書、進捗どう?」
 社長が社長室へ向かい、その目が届かなくなった途端にこれだ。普段通りとはいっても、やはり胃がきりきりと軋む。
 私より後に転職してきた安達さんが上司になり、二年が経った。社長の親族というだけでこの厚遇だ。社長が権力の大部分を握るワンマン企業ではよくあること、と言われてしまえば、たぶんその通りだ……でも。
 入社当初はここまで傲慢な人ではなかった。私が指導した業務もたくさんあるし、教わろうとする彼の態度も決して悪くはなかった。
 それが、役職に就いた今では、面倒な仕事はどんどん私に押しつけて、どれもこれもすぐ自分自身の手柄にしてしまう。
 社長はそうした挙動に勘づいていないのか、あるいはあえて目を瞑っているのか、〝さすが自分の甥〟と笑うばかり。同僚たちも、口を挟めば今度は自分になんらかの矛先が向くのではと怯えるのみで、誰も助けてくれない。
 今ではもう誰も安達さんに逆らえない。彼に逆らうことは、社長に逆らうことと同じだ。その結果、私の実績はほぼすべてが安達さんに吸い尽くされて終わりになる。
 頼られるのは素晴らしいことだ。頼られているうちは自立を守れる。でも私、いつまでこんな生活を続ければ、と胸が締めつけられる。
 高校卒業後、初めて勤めた会社を半年も経たずに辞めるしかなくなり、流れるようにこの会社の求人に応募した。あれから七年、ただの一度の昇給さえ叶わないまま、私はひたすら安達さんの指示通りに動くしかない会社員生活を送っている。
「すみません。少し、遅れておりまして」
「ええ~困るよ。急いでもらっていいかなァ、てか昨日のうちに言っといたじゃん!」
 上機嫌に声をかけてきた安達さんは、私の返事を聞いた途端、分かりやすく顔を歪めてみせた。
 朝早くに出社してきてなにをしていたかといえば、まさに安達さんの言う報告書を作成していた。まとまりに欠けた報告を要約するだけでもひと苦労、ここから通常業務が始まってしまえば、勤務時間中にはまずまともに進められなくなるだろう。
 今週の電話当番は私を含めた三名。ただし、実際に外線電話に応じるのは私だけだ。安達さんははなから応じる気がないし、別部署の残りの一名は今日、終日外出予定だ。だからといって人員の調整が入るわけでもない。
 他の面々が、私を助けたり庇ったりしてくれることもない。私と安達さんの今のやり取りさえも、完全に見て見ぬふりだ。立場の弱い私に気を配れるほどの余裕と勇気がある人は、残念ながらこの職場には残っていない。
 近頃は業績不振も相まって、小さな社内は常にピリピリしている。無論、周囲に仕事を押しつけては呑気に笑っている安達さん以外は。
 安達さんがさらに一歩踏み込んできて、耳に息がかかった。
 恰幅のいい彼に近寄られると、それだけで緊張が走る。身震いしかけた身体を、私はなんとか直立不動に保った。
 ほどなく、私にしか聞こえない程度まで声量を絞った安達さんの声が、ねっとりと耳に入り込んでくる。
「それともやっぱネネコちゃん、オレとふたりっきりで残業したい感じ?」
 耳を舐め回されているみたいな気色の悪い囁きに、ぞ、と今度こそ背筋が粟立った。
 もうずっとこういう感じだ。〝やめてください〟と伝えても〝冗談だよ〟と返されるだけ。セクハラだと社長に訴えたとしても、きっとなにも変わらない。
 名門大学出身の安達さんは、社長のとびきりのお気に入りだ。問題を大きくしたとして、評価を下げられるのは私であって、最悪クビだって飛びかねない。
 クビ。どくりと心臓が震える。
 それだけは絶対に避けたい。無職になって実家を頼るしかなくなる状況を、私は、他のなによりも恐れている。
「と、とんでもない。お手間は取らせません、定時までには必ず」
「ふーん、残念。んじゃ頼むわ」
 下卑た笑みを浮かべる安達さんへ、無理やり口角を上げて笑い返す。
 気のせいだと、ただの自惚れなのではと、そういうふうに思い込もうと努めていた時期もある。でも、もうごまかしきれない。周囲の見て見ぬふりも、もはや不自然の域に届きつつある。
 ――ああ、私、いつまでこんな生活を続ければ。
 寝不足と疲れにかすむ目の奥が、ずき、とひときわ強く痛んだ。

    *

 休憩は午後二時過ぎからになった。
 昼食は、コンビニで買ったおにぎりとサラダのみ。先月に何品か値上げしてからは、野菜ジュースを我慢するようになった。これっぽっちの糖分を摂取しただけで、私はまた、安達さんひとりが得をする業務のために頭をフル回転させなければならない。
 今の職場で働いていて私が幸せを実感したことは、ただの一度もなかった。だとしても、実家を離れていられるだけでありがたい。そう思わなければならない。
 この自立を守り抜き、これからも誰にも頼らず生きていきたい。最悪の職場も、最悪の上司も、実家に戻らなければならなくなるくらいなら余裕で受け入れてみせる。
 梅おにぎりの梅の味を噛み締めながら溜息を零した、そのときだった。
 ブー、とスマートフォンが通知に震える。メッセージだ。数秒でステータスバーに吸収された新着の通知を、スマホを手に取って確認した瞬間、ぎくりと喉が震えた。
 父だ。
 まさか、と震える指で内容をタップする。
 画面に表示されたのは、極めて短い、端的な文章だった。
『来月の十二日に帰ってきてほしい』
『謝りたい』
 手短なメッセージを、息を詰めたまま確認する。
 少しでも腹持ちを良くするために噛み締めていた梅の味がふっと消え、口の中になんの味も残らなくなる。
 数年ぶりのメッセージを呆然と読み返してから、休憩室の壁に吊るされたカレンダーへ視線を向けた。
 今日はなにか特別な日だっただろうか。例えば母の命日、あるいは私の誕生日……違う。どちらでもない。まさかこんなただの平日に、しかも父本人から、これほど腰の低い連絡が届くなんて。
 帰省は丸七年していない。全寮制の女子高を卒業して実家へ戻ったその日、とんでもない事態に巻き込まれ、それ以降、私は一度も帰ることなく絶縁状態を貫いてきた。
 ふたまわり以上も齢の離れた男性との結婚の話が、私抜きで進んでいたのだ。
 頭の天辺からつま先まで舐めるように私を見つめる、下卑た笑みを浮かべた男の顔は、もう覚えていない。それなのに、あのとき感じた気色悪さはべっとりと脳にこびりついたきりだ。
 連鎖的に、父の再婚相手――継母である静世(しずよ)さんの笑みも思い出した。
 私を、実家から通えない町の女子高へ入学させる手筈を整えたのも彼女だった。『有泉の名に恥じない名門校に通わせたくて』とかなんとか大層な大義名分を口にしてはいたけれど、要はさっさと私を家から追い出したかったのだと思う。父親の再婚に反対し続ける、亡くなった前妻の娘なんて、彼女にとっては邪魔でしかなかっただろうから。
 きつく唇を噛み締める。
 あれから七年。もし父が心を入れ替えてくれたのなら、と期待する気持ちを止められなくなる。
 ひとりぼっちの休憩室で、息も指も震わせながら、私はメッセージの返信を打ち込み始めた。
『一度、電話で話せませんか』