スパダリ御曹司は初恋の不運女子を囲い込んで逃がさない 1
「淳さん……?」
目の前の状況が飲みこめず、水無瀬果歩は呆然と声を漏らした。
金曜の夕刻、人でにぎわう新宿の繁華街。こちらに向かって歩いてくるのは間違いなく果歩の恋人のはず。でもなぜ横に若い女性が寄り添っているのだろう。しなだれかかるように腕を組んで。
そもそも果歩は今日、彼、篠原淳と仕事終わりに会う約束をしていた。
淳は二十六歳の果歩より二歳年上のサラリーマンで、大学時代の友人の紹介をきっかけに交際を始めた。順調に関係を育み、気づけば二年。しかしここ数か月は彼の仕事が忙しく、なかなか会えない日々が続いていた。
久しぶりの恋人とのデートをとても楽しみにしていた果歩は、退勤後に備えて新しいワンピースに袖を通し、いつもより丁寧にヘアメイクを整えて出勤した。
しかし定時直前、彼から【仕事でトラブルが起きて対応に夜中までかかりそうだ】とキャンセルの連絡が入った。
がっかりしたものの、仕事なのだから仕方ない。果歩は【わかりました。お疲れ様。大変そうだけど無理しないでね】と返していた。
せっかくおしゃれしてきたのに、そのまま帰宅するのはもったいないと思い立った果歩は、ウインドウショッピングをしようと新宿まで足を延ばした。
そこにトラブル対応中のはずの恋人が、女性を伴って歩いてきたら混乱して当然だ。
見たこともないようなデレデレとした表情に人違いかと思ったが、近づくにつれ間違いなく彼だと確信する。
ふたりが足を踏み入れようとしていたのは、若い女性に人気のアクセサリーブランドの路面店だった。口元を緩めていた淳は、立ちすくむ果歩に気づいた瞬間、その場でぴたりと動きを止めた。
「……え、果歩?」
明らかに狼狽した様子に、淳の腕にぶら下がるようにしていた女性が首を傾げる。
「淳くん、どうしたのぉ?」
甘えるような声を出した彼女は二十代前半だろうか。果歩より若いのはたしかで、派手に盛られた今時メイク、オフショルダーのカットソーにミニ丈のスカートを身に着け、肩や足を惜しげもなく晒している。
「えっ、いやその……ああ! 仕事でお世話になっている人がいたんだ。ちょっとだけ話をしてくるから先に入ってて」
果歩の方は一切見ず、淳は彼女に笑いかける。
「わかった。待ってるねー」
彼女はちらりと果歩に視線を向けると、そのままガラスのドアを押して店内へ入っていった。
それを見送った淳は、「ちょっとこっち来て」と声を潜め、果歩を建物の陰へと誘った。
「淳さん、今日、仕事じゃなかったの? それに今の女性は誰?」
「それは……」
果歩の問いに視線を逸らした淳は、しばしの沈黙のあと、観念したように口を開いた。
「ごめん、果歩。実はあの子と付き合ってる」
気まずそうに告げられた一言で、もしかしたら妹かもしれないという淡い期待はあっさり打ち砕かれた。そもそも、兄妹にしてはあの距離感は不自然だったのだが。
「……それって、浮気してたってこと?」
頭では理解していても、聞かずにはいられなかった。
「ど、どうしてもって誘われて参加した合コンで彼女にアプローチされてさ……最初は軽い気持ちだったんだ。でも、いつの間にか本気になっちゃって……果歩を傷つけたくなかったから言い出せなかった」
目を泳がせながら話し続ける淳を前に、果歩の胸は急速に冷えていく。
(最近なかなか都合が合わなかったのは、あの子を優先していたからなのね。今日も仕事だと嘘をついて、会っていたんだ)
優柔不断で、自己主張が控えめな淳。そんな彼をこれまで優しく穏やかな人だと前向きに捉えていたが、どうやら単に意思が弱く、面倒ごとから逃げたいだけの人だったようだ。
恋人がいるのに合コンに参加するのも、若い女性に押し切られたのも〝果歩を傷つけたくなかった〟のも自分勝手な言い訳にすぎない。
結局、果歩は最悪の形で恋人の裏切りを知り、深く傷ついている。
「それにさ、果歩と一緒にいるとなにかと振り回されるから、ちょっと疲れちゃってさ」
言葉を失ったままの果歩に、淳が追い打ちをかけた。
(振り回される……)
意味を理解した瞬間、胸の奥でなにかが千切れる音がした。
「別れたいんだよね。わかった」
喉に張り付いた声をなんとか押し出した果歩は、肩にかけていたバッグに手を突っ込み平たい箱を取り出す。綺麗にラッピングされたそれは、二週間前に誕生日を迎えた淳にプレゼントしようと前々から用意していた高級ブランドのネクタイ。悩みに悩んで彼に似合いそうな柄を選んだつもりだった。
今日会うはずだったから大切にバッグに入れていたけれど、今は少しでも早く手放してしまいたい。
無言で淳の胸に無造作に押し付けると、ぐしゃっと箱がつぶれる嫌な感覚がした。
「か、果歩?」
「さよなら。お幸せに」
少し声が震えたのが悔しい。これ以上言葉を交わしたくない果歩は戸惑う淳には目もくれず踵を返した。
(ああ、もう最悪……! 散々な週末になっちゃった)
さすがにショッピングを楽しむ気になどなれず、足早に人ごみを避けながら駅へと急ぐ。週末の夜、新宿の街の明かりは目に染みるほど眩しい。
雑居ビルの窓ガラスに目を向けると、小柄な体にAラインのワンピースをまとった自分の姿が映っていた。表情は、この世の終わりのように暗い。果歩は思わず俯き、視線を逸らした。
(せっかくおしゃれしてきたのに、こんなことになるなんて)
とにかく早く家に帰ろう。温かいお風呂に浸かって、なにもかも洗い流してしまいたい。そのままベッドに潜り込んで、寝てしまえばなにも考えないで済む。
しかし、明日は土曜日で会社は休みだ。ひとりで、このやり場のない気持ちと向き合わなければならない。そう思うと、気持ちがさらに重く沈んだ。
週末に読むのを楽しみにしていた、好きな作家の新刊小説も、手に取る気になれそうにない。
九月中旬の都心は、夏の名残がしつこく居座り、不快な蒸し暑さが肌にまとわりついた。信号待ちをしながら、こっそりとやるせない息をつく。
そのとき、手の甲にぽつりと冷たいものが落ちた。
軽く顔を上げると、ビルの照明を受けて雨粒が反射している。その数はみるみる増え、すぐに体を濡らし始めた。
行き交う人たちは早足になり、一斉に傘の花が咲く。
果歩も慌ててビルの庇の下に駆け込み、バッグからいつも持ち歩いている折り畳み傘を取り出した。
そうしている間にも雨脚は強まり、アスファルトの上にはあっという間に水たまりが広がっていく。
(すごい雨。ゲリラ豪雨かな。あと少しで駅だったのに……でもなんとかなるか)
目の前の交差点を渡れば、その先に地下街の入り口がある。そこまで行けば、あとはほとんど濡れずに駅までたどり着けるはずだ。
それに、ここで雨が止むのを待っていたら、余計に気分が沈んでしまいそうで、じっとしていられなかった。
意を決した果歩は、雨脚がわずかに弱まった瞬間を見計らい、信号が青に変わった横断歩道へと駆け出した。
少しでも濡れまいと傘の下で身を縮め、足早に進む。
(よし、もう少し……)
そう思った瞬間、横から突然、強い風が吹き抜けた。
「わ……っ!」
風に煽られた傘に気を取られた果歩は、不意に足をもつれさせて膝をついた。次の瞬間、傘はあっけなく壊れ、無防備になった体に雨が容赦なく降り注ぎ始めた。
「痛……」
膝に軽い痛みが走ったが、それどころではない。慌てて立ち上がり、歩道へと駆け出す。ちょうどその瞬間、背後をタクシーが猛スピードで通り過ぎた。
バシャッという派手な音と同時に、全身に冷たい水が叩きつけられた。通り過ぎた車が、水たまりを勢いよく跳ね上げたのだ。
(嘘……今日はいつにも増してひどくない?)
ワンピースに泥水が染みていく不快な感覚に耐えながら、果歩は心の中で天を仰いだ。
都会のど真ん中で、ひとりドツボにはまっているこの状況がたまらなく恥ずかしい。誰とも目を合わせないよう俯きながら、とにかく屋根のある場所に急ぐ。デパートのエントランス脇に、雨をしのげそうなスペースを見つけて駆け込んだ途端——勢いよくなにかにぶつかった。
「あっ」
「……っと」
誰かに抱き留められていると気づくまでに、数秒かかった。戸惑いを含んだ声に、はっとして慌てて飛びのく。
「す、すみません!!」
そこには長身の男性が立っており、驚いたように目を見開いて、果歩を見下ろしていた。
彼が身に着けているスーツのジャケットが濡れて色を変えているのに気づき、果歩はぎくりとする。
(ずぶ濡れで、ぶつかっちゃったせいだ。人様を巻き込んで、私、なにやってるの……!)
「スーツを汚してしまい申し訳ありません。クリーニング代、お支払いします」
泣きたい気持ちで、深々と頭を下げる。
「……いや、どう考えても君の方が大変な状況だよね」
一瞬の沈黙のあと、柔らかな声が降ってきた。顔を上げた果歩は、改めて男性の顔を見て息をのんだ。
(ものすごく、顔の整ったお方だ……)
年は三十前後だろうか。彫りの深い顔立ちに、通った鼻筋とすっきりとした輪郭が印象的だ。一方で、わずかに垂れた優しげな目元が、その整った顔にどこか中性的な柔らかさを添えていた。
百五十六センチの果歩が見上げるほどの長身で、顔が小さく、全体的に均整の取れた体躯をしていた。
初めて目にするほどの美貌に思わず言葉を失った果歩だったが、見惚れている場合ではない。
「私は大丈夫です。それよりスーツが……」
彼のスーツは上質な生地らしく、落ち着いた艶を帯びていた。すらりとした体に無駄なく沿うラインから、仕立てのいいオーダーメイドなのだと察せられた。
クリーニング代だけで済むだろうかと現実的な不安がよぎる果歩をよそに、彼は心配そうな視線を足元へと落とした。
「転んでたみたいだけど怪我はない? あのタクシー信号無視だったよ。ぶつからなくてよかった」
(見られてたんだ……恥ずかしすぎる)
自分はこのイケメンに、醜態の一部始終を晒してしまったらしい。成人女性が豪雨の中で転び傘を壊したうえ、泥水まで浴びるなんて、相当痛々しかったに違いない。
「ちょっと打っただけなので……大丈夫です」
あまりのいたたまれなさに俯き、もごもご言いながら手で膝を払う。おろしたてのワンピースの裾は泥水が染みて重くなっていた。
(本当に……今日は、散々だ)
情けなさと恥ずかしさがないまぜになり、胸の奥に悲しみが広がっていく。すると、肩にふわりとした感覚が乗り、上半身が温もりに包まれた。
「えっ、あの?」
「そのままだと冷えて風邪をひく。俺ので悪いけど、少しの間我慢してくれる?」
彼は躊躇なくスーツのジャケットを脱ぎ、果歩の肩にかけていた。
「だめです、スーツがもっと濡れてしまいます!」
慌てて脱ごうとする果歩を彼は「いいから」と微笑みで制し、スマートフォンで電話をかけ始めた。
「――野口さん? 綾瀬です。急で悪いんだけど雨で濡れてしまった女性を着替えさせてもらいたいんだ。そう、それはもう全身びしょ濡れ。西側エントランスを出たところにいるから……」
なぜか楽しげな様子で話していた彼は、やがて通話を切った。
「あの……?」
「うちの外商を呼んだから、着替えておいで」
「え、ガイショウ?」
(外傷……じゃないよね。ひどい怪我をしたわけでもないし)
思いがけない単語に理解が追いつかないままの果歩は、数秒遅れて、ここがデパートの玄関脇だと気づいた。
(もしかして外商のこと? まさかこのデパートで着替えるように勧められるとか)
ここは、日本人なら誰もが知っているであろう老舗の有名デパートだ。格式ある店内には高級ブランドやジュエリーショップがずらりと並び、セレブ御用達というイメージが強い。
「お気遣いはありがたいのですが、さすがに……」
どうやらぶつかってしまったのは、浮世離れしたセレブだったらしい。善意からの申し出なのだろうが、どうにも金銭感覚が違いすぎる。
普段はプチプラの服が中心で、たまに奮発して駅ビルのブランドに手を伸ばす程度の果歩にとって、このデパートで服を購入するのは、かなりハードルが高い。
「その格好で帰るわけにもいかないだろう?」
全力で固辞する態勢に入る果歩に、彼は優しく微笑む。
「でも……」
「とにかく早く着替えた方がいい――ああ、来てくれた」
彼の視線を追うと、パンツスーツ姿の女性がエントランスから出てくるのが見えた。
「綾瀬様、お待たせしました。あら、大変!」
足早に近づいてきたのは、四十代後半ほどの、背筋のすっと伸びた品のある女性だった。ずぶ濡れの果歩を目にすると、気の毒そうに表情を曇らせる。
「野口と申します。すぐに着替えを準備いたしますのでこちらへどうぞ」
「彼女のセンスは間違いないから、安心して任せて大丈夫だよ」
「え……あの……」
ふたりの勢いに押されるように果歩はエレベーターに乗せられ、気づくとホテルのラウンジのような空間に通されていた。
「またあとで」
そう言って彼は慣れた様子でソファーに腰掛けた。
(な、なにがどうなっているの?)
野口がスタッフに「綾瀬様にコーヒーを」と声をかけるのを聞きながら、果歩は案内されるまま奥の個室へ向かった。
大きなドレッサーや洗面台がある空間に所在なく立っていると、ホットタオルとバスローブを持った野口が入ってくる。
「まずはこちらにお着替えください。一度席を外させていただきますね」
「は、はい……」
ラグジュアリーな雰囲気に気圧され、思わず生返事になる。だが、ここまで来てしまえば逃げるわけにもいかない。果歩は観念して服を脱ぎ始めた。
きっとここはデパートの外商サロンで、〝綾瀬様〟と呼ばれていた男性はここのお得意様なのだろう。
セレブ向けにそのようなサービスがあるのは知っていた。けれど、あまりに縁遠く、自分が実際に足を踏み入れるなんて、想像したこともなかった。
(綾瀬さん、だっけ。私があまりにも哀れに見えて、放っておけなかったんだろうな)
彼に借りていたジャケットは、野口が回収していった。きっとクリーニングされるのだろう。
温かいタオルで丁寧に体を拭くとだいぶすっきりする。転んだ拍子に打った膝も少し赤くなっているだけで出血はなかった。ドライヤーで髪を乾かしバスローブ姿で軽くメイクを直していると、野口が戻ってきた。
「さきほどのお召し物のイメージで、お似合いになりそうなものをご用意いたしました。お気に召さない場合は、別のものをご案内いたします。お申しつけください」
「あの、私、服だけ着替えられれば……」
服だけでなく、バッグや靴、さらには下着まで並べ始めた野口に、果歩は慌てた。
しかし彼女は「綾瀬様に一式ご用意するよう申しつけられております」と、笑顔のままだ。
(どうしよう。お財布が悲鳴を上げる予感しかしない)
心の中で大量の冷や汗をかいていた果歩だったが、野口がハンガーにかけたワンピースに気づき、視線を奪われる。
「わ……綺麗」
やや高めの位置でウエストが切り替えられたワンピースは、裾に向かってゆるやかに広がり、美しいラインを描いている。たしかに今日着ていたものと雰囲気は似ているが、漂う格がまるで違っていた。
戸惑いを覚えながらも、どうしても試してみたいという気持ちに抗えず、果歩は用意された下着に着替え、そっとワンピースに袖を通した。
「すごく着やすいですし、なによりデザインが素敵です」
姿見に映った自分の姿に、思わず感嘆の息が零れる。さすがプロの見立てだ。実際に袖を通してみると、デザインの美しさも仕立ての良さもはっきりと伝わってくる。高級な服には、それに見合うだけの理由があるのだと、改めて実感する。
「野口さん、ありがとうございます」
「お似合いでいらっしゃいますよ。モスピンクの色合いも色白でかわいらしいお嬢様にピッタリです」
果歩がお礼を言うと、野口は穏やかに微笑む。
ワンピースに合わせた靴やバッグも、どれも驚くほど上質な品だった。しかし困ったことに値段がわからない。さりげなく確かめようと視線を巡らせたが、値札はどこにも見当たらない。かといって、野口に尋ねる勇気もなかった。
(もういいや。この際、がんばって支払おう。こんな場所に来るのも、こんな素敵な服を買うのも、きっと最初で最後なんだから)
人生何事も経験だ。果歩は気持ちを無理やり前向きに切り替える。そもそも、この状況になったのは自分が原因で、親切な男性は気を利かせてくれただけ。スーツのクリーニング代も加算されるだろうけど、クレジットで分割払いにすればなんとか……なるはずだ。きっと。
腹を括った果歩は、元々身に着けていた服や下着に至るまで、すべてクリーニングのうえ自宅へ送ると野口に告げられても、動じないふりができた。
野口は「ワンピースに合わせて髪をアレンジしましょうか」と微笑み、果歩の肩下まである髪をハーフアップに整えてくれた。
ラウンジに戻ると綾瀬はコーヒーを飲んでいた。彼も着替えたようで、爽やかなブルーのシャツに黒いパンツ姿になっている。
果歩に気づいた彼はコーヒーカップを置いて立ち上がり、長い足で近づいてきた。
「体調に変わりはない?」
「はい、おかげさまでさっぱりしました」
すると彼はホッとしたように目を細めた。初めて会った人間をここまで気遣ってくれるなんて、見た目と違わず紳士のようだ。
「そのワンピース、君にとても似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
ストレートに褒められて、つい頬が熱くなる。リップサービスだとわかっていても、こんなイケメンに持ち上げられれば悪い気はしない。
(……って、喜んでいる場合じゃないでしょ!)
我に返った果歩は居住まいを正し、改めて深々と頭を下げた。
「綾瀬さん、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日かかった費用、スーツのクリーニング代も含めてお支払いします」
さきほど野口に会計方法について尋ねたところ、この場での支払いは不要だとやんわりとはぐらかされてしまった。詳しくはわからないが、おそらく彼に一括で請求がいく仕組みなのだろう。
「君には一切払わせるつもりはないよ」
当たり前のように返ってきた言葉に、果歩は目を丸くした。
「そういうわけにはいきません」
迷惑をかけた相手に、クリーニング代どころか衣装一式の代金まで負担させるなんてあべこべだ。ありえない。
「スーツは少し濡れただけだよ。気にするほどじゃないし、君に着替えてもらったのも俺のわがままだしね」
声は穏やかだが、まったく譲る気配がない。ここに連れてこられたときもそうだったが、優しげな雰囲気に反して、押しの強い人なのかもしれない。
「でも、見ず知らずの方にそこまでしていただくわけには」
すると彼は「見ず知らず、か」と小さくつぶやいた。
「じゃあ、ひとつお願いがあるんだけど、このあと食事に付き合ってもらえないかな?」
「えっ」
突拍子もない方向に話が飛んで果歩は目を瞬かせた。
「金曜の夜だろう。このままひとりで夕食をとるのも寂しいんだ。それでチャラにしよう」
「でも……」
「よく知らない男に急に誘われたら警戒するよね。俺は怪しい人間じゃないから安心して……って自分で言う人間ほど怪しいか」
彼は苦笑しながらポケットから名刺入れを取り出し、一枚引き抜く。
「アヤセグループって名前は聞いたことある?」
「も、もちろんあります」
アヤセグループは、飲料や食品、ヘルスケア事業まで幅広く手がける日本を代表する大企業だ。国内外に数多くの関連企業を抱えており、経営の中心を担う飲料事業は果歩の勤め先と関連があった。
果歩は受け取った名刺に視線を落とす。そこには〝アヤセホールディングス 事業戦略室 室長 綾瀬蒼司〟と書かれていた。
(若いのに大企業の室長さんなんてすごい優秀なんだな。……ん、ちょっと待って、アヤセホールディングスの綾瀬さん?)
嫌な予感がじわりと胸に広がり、果歩は名刺から顔を上げる。
「綾瀬さん、もしかして経営者のご親戚かなにかだったりしますか?」
「親戚というか、経営者の息子だね」
さらりと告げられた衝撃的な事実に、果歩は限界まで目を見開いた。
「息子……」
(嘘、私、天下の大企業の御曹司にずぶ濡れでぶつかって、迷惑をかけたってこと?)
「君の名前を聞いていい?」
「み、水無瀬、果歩です」
意識が遠のきかけた果歩は、問われるまま自分の名前を口にする。
「果歩ちゃん――いい名前だ」
綾瀬蒼司は、その名を噛みしめるようにつぶやき、そっと口角を上げた。