この街角で、君に恋して② 3
「あの、先に断っておきますが、私のマンション、すごく狭いですから」
李帆はマンションの部屋のドアを開ける前に、エルダーに伝えておいた。
手早く必要なものをコンビニで揃えてきた彼と、近くにいたタクシーを拾って李帆の住むマンションへ帰って来た。またタクシー代は出してもらってしまった。
「エル、今回もタクシー代、すみません。次は必ず私が出すので」
いつも先に彼が乗り込むからだ、と李帆は反省していた。
「気にしないで、李帆。僕がしたいからしてるだけ」
そう言うのを聞いて、李帆が納得のいかない顔をすると、エルダーは頭を撫でてくれた。
「そんなことより、今日ちょっと寒いよね。早く中に入れてほしいな」
ふわりとダークブロンドの髪を揺らし、目線を合わせてくる。近くに誰もいないのは分かっているのに人目が気になってしまい、慌ててドアのカギを開けた。
「どうぞ、先に」
玄関が狭いので、先に彼を入れる。
「Oh! Amazing!!」
「え?」
なんて言ったのかとっさに聞き取れず、これはやっぱり英語を習うべきだと思った。
「ごめん、英語で思わず言ってしまうくらい、すごいね李帆! これが噂の、世界に二人しかいないと思えるほどコンパクトな部屋というやつだね? ここから部屋の全部が見える」
「……え?」
「上がっていい?」
「も、もちろんです」
エルダーの言葉の意味が李帆には上手く理解できないが、要するにめちゃくちゃ狭い、ということだろうか。
今のエルダーが住んでいるマンションは2LDKだが、ひとつひとつの部屋が大きい。彼はそれでも狭いと言っていた。アメリカ人だしセレブなので、そう思ってもおかしくはないだろうけれど。
「良かったら、そのリクライニングソファーに」
脚がついておらず床にそのまま置けるソファーは、昼寝にも最適なので重宝している。
「この上、何かあるの? 収納と階段が一緒だ」
「ああ、ロフトですね。お布団があります。スノコの上に敷いたままで……薄いマットレスも使ってるからちょっとベッド風というか……」
「見てもいい?」
「はい、もちろん」
割としっかりとした収納兼階段で上り下りがしやすいのもあるため、狭くてもロフトのあるこの部屋を選んだ。彼はタタタッ、と階段を軽快に上がっていく。
李帆は慣れるまでにちょっと時間がかかったのだけど。
「わぁ、すごい……!」
そのまま上に行ってしまったので、李帆もロフトへと向かう。
「狭い。でも、ゆっくりできそうな空間。ラグの上にクッションが二つ。僕は天井に頭が当たりそうだけどね」
楽しそうに話す彼は、李帆の方を向いてにこりと笑った。
「ここだったらゆっくり話せそうだ。お互いシャワーして、アイスクリームでも食べながらどう? あ、しまった! 冷凍庫に入れないと!」
彼が目を見開いて、慌てて階段を下りるのを見て、李帆も再度下りた。忙しないな、と思わず笑ってしまうが、エルダーの行動は見ていて楽しい。年上の余裕や大人な仕草も見惚れるけれど、こういう少年っぽいところも好きだなと思う。
急いで買ってきたアイスを冷凍庫に入れる。大げさにホッとした顔のエルダーがなんだか可愛かった。
「アイスクリームのことをすっかり忘れてたよ……大きいのを買ったから、好きなだけ分けて、一緒に食べよう?」
李帆は頷きながら、口元に少しだけ笑みを浮かべた。
一人暮らしなので、お皿は大して持っていない。同じ柄の小さいボウルが二つあったことを思い出し、それを出そうと思った。
そこでふと、李帆は大学時代に暮らした場所から今のマンションに越してきて、一度も他人を上げていなかったことに気付く。
もちろん社会人になってからも、ずっと働き詰めだったので、誰かが来る機会なんて皆無だった。
来客用のきちんとしたマグカップやグラス、お皿があったらよかったと今更ながらに思う。
「家に上げたのは、エルが初めてです。食器もそんなに持ってないから、今度エルの分をちょっと買い足しますね」
彼の青い目が瞬きをして、それから詰まっていたような息を吐き、微笑んだ。
「じゃあ、一緒に買いに行こう。君の好みを知りたいな」
一緒に行ったら、彼が李帆に買ってくれそうな雰囲気だった。だから小さく首を振り断る。
「エルが、じゃなくて私が、買いたいんです」
はっきり言うと、どうして? と返ってくる。
「それくらいいいじゃないか。李帆と買い物に行きたいのに」
「ダメですよ。それに……」
一度言葉を止め、李帆は彼を見る。
「私、あまり自分の楽しみのためにお金を使ったことがないんです。だから、私が私の大切な人のために、自分で食器を買い足したくて」
きっぱり言えた、と李帆は内心拳を握りしめる。彼はクスッと笑った。
「なるほどね。OK、わかったよ。でもできれば一緒に行きたいな。ついて行くだけならいいよね?」
そう言って李帆の頬にチュ、と口付けた。
頬にキスなんて、エルダーにとっては普通かもしれないが、李帆には十分にドキドキすることだ。
「先にシャワーどうぞ。スーツじゃ寛げないと思いますし……」
李帆はエルダーの手を引き、浴室へ案内する。
「狭いシャワーブースしかないんですが」
李帆の部屋はトイレと洗面台、シャワーブースが一つの部屋みたいになっている。築年数は結構経っているが、総リノベーションしていて綺麗なのが気に入って入居した物件だった。
当初は湯船のないお風呂に抵抗があったけれど、今は手軽で便利だと思うようになっていた。
「日本っぽくないね」
「でも、慣れれば割と使いやすいですよ。タオルや下着はこっちのボックスに入れておいてください、洗うので」
エルダーの家に泊まった時と逆だと思った。あの日はエルダーが李帆の下着などを洗濯したのだった。
「ありがと、李帆」
小さく頭を下げてドアを閉める。するとすぐに、服を脱ぐ音が聞こえて、ドキッとした。
家が狭いせいか、距離が近いのだ。はぁ、と息を吐いてドアから離れる。そして彼の下着を洗うのだと改めて考えて、顔が熱くなった。
「彼氏の下着、初めて洗うんだけど……」
李帆はそこでしゃがみ込み、一人でワーッとなってしまったのだった。
☆
エルダーは李帆がシャワーを終えるまで、リクライニングソファーに座って待っていた。
アイスクリームを一緒に食べたい、と言っていたので、李帆は二つしかないボウルを出した。スプーンは二つあるけれど、揃いのデザインではない。
けれど彼は気にせず、アイスクリームを持ってロフトに上がり、李帆と並んで食べ始める。
「夜のアイスクリームはすごく美味しいな……」
しみじみとエルダーがそう言った。少年じみたセリフとはうらはらに、その姿は高貴な天使が休息しているかのように見える。
夜中にアイスを食べたことがないし、そもそもわざわざ買ってきて食べたこともなかった。学生時代から節約をしていた癖が抜けなかったのもあるが、あまり食べたいと思わなかったことも事実だ。
「……確かに美味しいです。ナッツ入りのアイスが食べたくなったかも……」
夜寝る前のアイスクリームは太るかもという罪深さもあるが、彼の言う通り、とても美味しかった。
以前はとても好きだったことを思い出し、もう一度食べたくなってきている。
「ナッツ入り……いいなぁ。ホテルでも提案してみようかなぁ……」
ふむ、と言いながらバニラアイスを口に入れる唇を見ていると、彼はにこりと笑った。
「ところで李帆は、何を話したかったのかな?」
時間はもうすぐ日付を超えそうだ。
李帆は明日休みだが、彼は仕事だと言っていた。
「いえ、今はいいです。もう遅いですし、アイス食べたら、寝ましょうか」
「平気だよ。朝の八時にここを出れば、着替えてオフィスに行ける。あと二時間喋っても、十分寝る時間はあるから」
李帆がアイスを口に入れると、彼も同じように口に入れた。
「何か悩み事?」
「いえ……エルのことを聞きたかっただけです。アリスさんと一緒にいるとき、エルの学歴を聞いてしまって。プライベートなことなのに、勝手に聞いて悪かったと思うけど」
スプーンを口に含んだまま、彼はフッと笑った。
「そんなこと別にいいよ。アリスは従妹だし。なんならネットに載ってるかも? あの百科事典サイトとか。僕が話すよりも、詳しく載ってたりして?」
「エルはウィキペディアに載ってるんですか!?」
「アリスは載ってないよ。僕はカニンガム家の長男だから、ちょっとだけ載ってるはず」
「本当に?」
「ほんとだよ」
呑気に言ったエルダーを横目に李帆は足元に置いていたスマホを取り、検索した。
スクロールすると、確かに名前が掲載されていた。
「わぁ……」
目を見開いてポカンと口を開けてしまう。名前の部分をタップすると、写真はないが略歴みたいなのがズラッと出てきて、思わずエルダーを見る。
どこか可笑しそうに笑った彼は、李帆と視線を合わせてくる。
「アイスクリーム、お代わりしようかな。美味しかった……」
ニューヨークの街中でぶつかった相手は、本当にものすごい人だったらしい。
芸能人とか、どこかの社長とか、名前を検索したらいろんな有名人が出てくるけれど。それと同等に成功している人物ということだ。
「大学を二つ卒業していると聞いたんですが……アリスさんが……頭がいい、って」
「ああ……それね。気が付いたら、ハイスクールの卒業資格も貰えて……普通に考えたら次のステップとして大学かなぁ、って」
エルはそう言って明るい表情をしたまま考える仕草をする。
「僕は知らないことを知るのが好きだったし、勉強も楽しかったしね。十五歳の時、自分のルーツを知って……本当の父と暮らしてみたかった。だから最初は、マンハッタンにあって留学生も多い、ニューヨーク大学に入った。というか、カニンガムはみんなそこに入るんだ。敬意を持ってね」
十五、と聞いて李帆はまた目を見開く。
彼は李帆の驚きをよそに、話を続けた。
「二つ目の大学に入ったのは、勉強は好きだし、もう一度学生をしたかったのもあるんだけど。普通は驚くよね? 日本にはスキップ制度もないから」
『私から見て、エルは……すごく優秀で……頭がキレル? って言うんでしょうか?』
アリスの言葉を思い出し、李帆はとりあえず肩の力を抜いた。
世の中にはこんな人いるんだな、と改めて思う。彼といると何度もこの言葉を頭に思い浮かべてしまう。
「私……勉強嫌いだったから……」
「あはは、そうだよね。だいたいみんなそう言うんだけど、僕は未知のものが一度気になってしまうといてもたってもいられないんだ。知りたいと思ったら、あれもこれも調べた方が、ってどんどんやってしまうんだよ」
彼はスプーンをボウルの中にカチンと入れて横に置いた。
「五歳から十二歳まで日本にいて。小学校の六年生でニューヨークへ帰って、すぐに日本で言う中学に編入したんだ。そのあとはスキップ、スキップで。ゆっくり学びたい気持ちもなくはなかったけど、それより好奇心が強かった」
勉強嫌いな李帆は大学受験の時、それはもう寝る間も惜しんで知識を詰め込んだというのに。早く受験日が来て、その日が過ぎ去って欲しいとさえ思っていたのとえらい違いだった。
「本当の父と二年間一緒に過ごして、大学卒業間近で見送って……そのあと、父が遺した小さなホテルの権利とマンハッタンのタウンハウスを相続して、そのホテルを経営していたんだけどね……」
もちろん周りの大人にたくさん助けてもらったよ、と言いながらエルダーは一度口をつぐんだ。
だけど、とエルダーは下唇を噛んで、一度目を閉じた。
「思い出すだけで、もうなんか……そう、腹が立つことがあって」
次の瞬間、笑って見せた顔はさっきと全く違う表情で、いつもの彼だった。
「二つ目の大学のことはね……十八のころだった。クリフがいるパーティーで、あんまり行きたくなかったんだけど、招待されてね。そこで、すごく腹が立つことを言われてしまって。それで受験が間に合うからハーバード大受けて、受かってみせたってわけ。しかも普通より早く卒業して……日本語で表現を上手くできないけど、んー……すっきり?」
「スカッとした?」
「ああ、そうそう。それだよ、スカッとした」
そうなんだ、と相槌を打ちつつ、ムカついたからってハーバード大学を受験したとしても、そう簡単に受かるものじゃないと思った。
「でも、大学は二つとも行ってよかったよ。二つの大学に行ける環境に生まれたことにも、今はとても感謝をしている。有意義な時間で、勉強も仲間との遊ぶ時間も、すごく楽しかった」
少し遠い目をした彼の青い目の先には、当時のことが見えているようだった。
『エルって天才なのかな』
現実に戻ってきたように、李帆を見て微笑む天使なエルダーと視線を合わせる。やっぱりすごすぎる人を恋人に持ってしまったのでは、と自分の平凡さを痛感していた。
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