戻る

この街角で、君に恋して② 1

第一話

 

 杉崎李帆が天使と見紛うほど綺麗なエルダー・ネビル・カニンガムと出会ったのは、ニューヨークの空の下。
 初めての海外旅行は突発的だったし、ほとんど英語もできない中で、目的のすべてを果たすことはできなかった。けれど、エルダーと出会ったという事実は李帆にとって、とても意味のあることとなった。
 恋を知らない李帆が、目もくらむような美貌の男性に助けてもらい、好意を向けられたのだ。もちろん李帆もまた最初から彼に惹かれた。
 彼──エルダーとはそれで終わりの関係だと思っていた。けれど、カニンガムホテル東京の社長として赴任してきたエルダーは、改めて李帆に好意を伝え、終わらない恋愛の歌を歌って一緒に生きていきたい、歩いていきたいと言ってくれた。
 真摯に愛を囁くエルダーに、李帆も応えたい、一緒に歩きたいと思った。そして、なによりも自分の今を変えていきたいと心から願った。
 こんな幸せは、今まで感じたことがない。
 恋が実ったまま、ずっと続きますように。恋愛の歌が途切れることがありませんように。
 エルダーとずっと、歩いていけますように──。

 ☆

 目を開けてあたりを見回すと、いつもの李帆の狭い部屋とは違う風景。
 深呼吸をしてゆっくり起き上がれば、布団の下は裸だった。
 うっかり、そのまま寝てしまったらしい。赤い顔をしながら慌てて布団を引き寄せる。
「おはよ」
 広い寝室の出入り口にはドアがなく、彼はその出入り口の壁に寄りかかり、こちらを見ていた。
 シャワーを浴びてきたのだろうか、下はルームウエアのズボンを穿いているが、上は裸でタオルを首にかけただけ。程よく鍛えられた身体を見て小さく息を呑んでしまった。
 彼──エルダーの身体をいまだに見慣れないし、何も着ていない今の自分にも慣れない。
「李帆?」
 ベッドルームに大きな窓。薄いカーテン越しに明るい日の光を感じる。
「赤い顔……恥ずかしい? もう何度も愛し合ってるのに」
 李帆のすぐ傍でベッドの縁に腰掛けたエルダーは、光に照らされたダークブロンドを揺らし、李帆の顔を覗き込んでくる。
 こんなに完璧な身体の前に、自分の大して鍛えてもいないごく普通の、特にグラマーでもない身体を晒すなんて。
 陽光を取り入れるように作られた部屋だから、何でもはっきり見えてしまう。
「私、エルよりも早く起きたかったです……」
 李帆はただ顔を赤くするしかない。
「昨日は、疲れたよね? えっと……そう、気疲れだ……それとも僕が疲れさせちゃったかな……セックスで」
 セックス、と聞いて李帆の心臓は跳ね上がる。彼の言う通り、間違いなく昨夜のパーティーの気疲れもあった。でも、そのあと求められるままに応えた身体は確かに疲れ果て、眠ることで回復しようとしていたのかもしれない。
 肩にかかっている髪の毛を払うと、彼は露わになった肩に口付ける。
 チュ、と音を立てるのに思わず肩を竦めたら、エルダーが微笑んだ。
「そう、ですね……確かに緊張しましたが……」
「イったあと、意識が飛んでそのまま眠ってしまったんだよ。よく眠れたなら良かった」
 昨夜はほどほどだが、お酒も入っていた。そして部屋に戻ってしばらくすると、エルダーに求められた。
 抱きしめられ、身体に触れられ、快感を注ぎ込まれた。
「ごめんなさい。エルはちゃんと、い……イキましたか?」
 彼が達してないまま意識がなくなっていたら、さすがに申し訳なさすぎる……と顔をうつむけ恥ずかしながらも問いかける。
「謝ることないよ、李帆。ちゃんとイったよ、一緒にね」
 頬にキスをされ、柔らかい唇が触れたそこを手で覆う。
「シャワー浴びる?」
「あ、はい、もちろんです」
 にこ、と笑った彼に、ひときわ明るく太陽の光が当たる。
「……天使」
「ん?」
 首を傾げるその角度さえも、まるで李帆を魅了するかのようで。
「ねぇ、李帆……英語で言うからなんて言ってるか当ててみて」
 見蕩れる李帆にチュ、と小さくキスをし、エルダーはにこりと笑う。
「Starting now, I want make love with you.」
「え……? もう一回言って」
 ふふ、と笑った彼は、今度はゆっくりと言ってくれる。
「Starting now, I want make love with you.」
 英語は正直得意ではなかった。だから大学受験の時は付け焼き刃のように何度も復習したものだ。
 だが、さすがにアイウォントメイクラブは分かる。李帆は何度か瞬きをした。そのあとに続いたウィズユーも分かり、思わずキュッと布団を握る。
「部分的に分かりました……でも、私、シャワーを……してからでも、いいでしょうか?」
「シャワーの前がいいな。ダメ? 李帆」
 恋人同士のアレコレについては、まだ経験不足だからどうしても羞恥が先立ってしまう。
 確かにシャワーを浴びたところで、どうせ一緒だろうけれど。
「どれだけ抱いても足りない、こんなの初めてなんだ」
 スルリと白い大きな手が、李帆の首筋へ伸ばされる。
「君が愛しすぎて、すぐに欲しくなってしまう」
 自分にはもったいないくらいの、素敵な彼氏。
 昨日、初めて、彼の住む世界へ一歩踏み出した。
 社交の場と言えるような、カニンガムホテル東京、社長就任パーティー。
 ドレスで着飾って、素敵なリングを左手の薬指に嵌め、李帆はエルダーの婚約者だと紹介された。
「恥ずかしいから、なんて言わないで欲しいよ。もう、僕は君の身体のすべてを知っているんだから」
 初めて好きになった人はあまりにも素敵すぎて。
 確かな熱量で求められれば、拒否できない。
「わ……わかり、ました」
 エルダーから愛される時間は、李帆の女性としての心を満たすだけではなく、身体もまたどうしようもないほどの悦びを味わうのだから。
 彼が李帆の掴んでいる布団をゆっくりと剥がす。露わになる胸の先端が、少し痛いくらいにピンと立ってしまう。
「君は美しい」
 そんなことないのに、と思うが彼はいつもそう言ってくれる。
 身体がゆっくりと押し倒され、背がベッドに吸い付くようだった。
 この重みがすごく心地いいと思う。李帆は彼の後頭部に手を回し、ダークブロンドの柔らかな髪を撫でた。
「唇を開いて」
 言われたとおり小さく開くと、彼は微笑んで自身の唇を近づけた。それが重なって、柔らかい舌がザラリと入ってくる。
「……っん」
 鼻で息をしながら、長いキスを受け止める。
 間に挟まれていた布団を彼が引っ張って外す。そして李帆を抱きしめながら身体を覆うように上に被せる。
「……エル」
 唇がゆっくりと離れ、上にいる彼を間近で見つめた。
 空色の瞳、金色の睫毛。
「……綺麗ですね、エルは」
 李帆が指先で目蓋に触れ、スッと撫でる。すると、彼は触れるだけのキスをして言った。
「全部君のだよ、君の好きにしていいんだよ」
 微笑み、それからもう一度キスをし、彼は李帆の秘めた部分へ手を伸ばす。
「あ……っ」
 いつも受け身で、李帆は翻弄されてしまうけれど。
 あとで何度も反芻してしまうくらい幸せな時間となるだろう未来は、思い描くことができたのだった。

 ☆

 日曜日はエルダーとほぼ部屋から出ずに過ごした。
 食事はルームサービスで、高価な服や靴はすぐにクリーニングされ、部屋まで届けられるという至れり尽くせりぶりだ。
 ここから出勤していけばいい、と言ったエルダーを説き伏せ、日曜のうちになんとか自宅へ帰った。
 そして月曜日。
「はぁ……」
 昨日まで夢の世界にいたから、現実に戻された気分だ。
 仕事をこなしながらも、土曜日のあの煌びやかさを思い出し、ため息をついてしまう。
 彼の社長就任パーティーに参加している他の女性たちは、みな華やかなドレスを身に着けていた。李帆には露出が少なくシンプルな色とデザインのドレスを、エルダーがあえて選んでくれていたのだろう。
 エルダーが挨拶回りに行っている間は、彼の従妹のアリスとその夫である添島零士が相手をしてくれていた。
 アリスも背中が大きく開いたドレスを着ていた。スタイルが良いのもあり、肩甲骨が美しく浮き出て綺麗だった。夫の添島も容姿抜群の男性で、こんなに見目の良い二人が夫婦なんだなぁ、と李帆は変な方向へと妄想をしてしまった。
 そもそも世のカップルというものは、いったいどのような感じなのだろうか。今までの李帆は恋愛の何たるかも知らなければ、自分はセックスなんて一生しないだろうと思っていたくらいなのだ。
 それだけに受け身で、パーティーに出ていても時折彼から呼ばれて婚約者と紹介され、当たり障りなく曖昧に微笑むだけで。何をすればいいのかちっともわからないと言ったら、挨拶だけで十分、と言われた。
『みんなすごく素敵ですね。アリスさんの背中が開いたドレスもなんだか……セレブな感じで……』
 李帆が周囲の雰囲気に圧倒されて気後れしていると、エルダーは笑いながら言った。
『気にしすぎ。僕は雇われている身だし、セレブってわけじゃない。それにカニンガム家は、労働者階級からの成り上がり者なんだ。だからこそ、僕の家族も……アリスも地位はどうであれ、働いているんだよ』
 そこでカニンガム家の歴史をかいつまんで話してくれ、ただの労働者だから貴族には決してなれないのだと、エルダーは言い張った。
 それでも、彼らは成功した家柄で、すごい人たちだと李帆は思う。
『けれど……さすがに婚約となると……きっとここにもエルに憧れていたり、結婚をしたいと思う人だってたくさんいるでしょうし』
 李帆が小さくそう言ったら、アリスとエルダーは笑った。添島だけは笑わず、目線を横に流していたけれど。
『そんなことないよ。僕、こういう場所ではモテないから』
 それはさすがに嘘だと思ったが、李帆はそうですか、とだけ返しておいた。
 パーティーの時の会話や情景を思い起こしていると、不意に事務の寺崎真央美が声をかけて来た。
「杉崎さーん、今用意している薬なんですが、この総合感冒剤って風邪薬のPLですか? もしそうなら飲みたくないんですって……どうしましょうか?」
「え……? あ、ありがとう、先生に電話してみる」
 寒くなってきたから最近は風邪薬の処方が多い。
 今度の発注は多めにかけておこう、と思いながら処方箋を出した医院に電話をする。確認をすると、漢方薬を提案されたので、患者に確認をし、改めて処方箋を出してもらうことになった。
 途中まで作っていた薬袋を破棄し、李帆は漢方薬を薬袋に詰め、患者へ服用の説明を行った。
 どうしてもPLは飲みたくなかったから良かった、と笑顔で帰ってくれてホッとする。ぼーっとしていたらいけないな、と大きく深呼吸をする。
 こんな風にごくごく普通に働いている李帆が、セレブの集まりに足を踏み入れてしまった。
 気にしないでいい、と言ってくれたエルダーの言葉を信じているけれど、何か努力をした方がいいのではないかとも思う。
 例えば苦手な英語を学び直すとか。
 エルダーが李帆に話してくれる英語だって、あまり理解しているとは言えない。この前のエッチなお誘いのフレーズは、文法も普通で、ゆっくり話してくれたので聞き取りやすかったけれど。
 彼は気を遣って、分かりやすい単語を選んでくれたのかもしれない。
 そこでふと、彼がどんな学校を卒業したかなどを全く知らないと思った。たくさん話してくれたけれど、学業はどんなだったか聞いたことがなかった。
 日本語が上手いのは子供のころ日本にいたから、というのは説明がつくけれど。
「エルのこと、もっと知らなきゃ」
 李帆は思い立ったら行動しなきゃ、と休憩時間を使ってエルに連絡しようと決めた。
 もっと彼の世界を知りたいという欲が李帆の中で芽生えていた。

 ☆

 李帆がエルダーに連絡をすると、急いで仕事を片付けるというメッセージが来た。けれどそのあとしばらくして、やっぱり遅くなる、とのことだった。
『確実に夜の八時は過ぎそう。よかったらアリスと先に食事をしていて欲しいんだけど』
 彼はまだ日本に来たばかりだから、引き継ぎなどで忙しいのだろう。
 正直、アリスとはまだ数回しか顔を合わせていないので、付き合ってもらって大丈夫かと心配になった。
 けれど、彼の従妹なのだから、人付き合いが苦手な李帆も関わっていくべきだと思い直す。エルダーからアリスのメッセージアプリのアカウントを教えられ、李帆の方から連絡した。すると、すぐに返事が来た。
『こんにちは、アリスです。今日はよろしくお願いします。すみません、勝手に場所を決めてしまったのですが、居酒屋を予約しておきました。完全個室みたいですよ』
 居酒屋というメッセージを見て、まさかエルダーの時のようにはならないよね? と思った。彼が言った『居酒屋』は、高級料亭だったからだ。
 仕事のあと、若干の不安を持ちつつ、待ち合わせに指定された場所へと向かえば、もうすでにアリスは待っていた。
 仲良くしてくれるといいけど、と心の中で呟きながら思い切って声をかける。
「すみません、遅くなってしまって……」
 頭を下げると、アリスはにこりと笑った。
「そんなことないです、李帆さん。時間通りです!」
 美人だ、と李帆は彼女の顔をジッと見た。
「エルと似てますか?」
「あっ、すみません、不躾に……似てます。雰囲気と、顔立ちが少し」
 目をキュッと一度閉じて、顔をクシャッとしながら笑みを作る。艶やかな唇に弧を描く様は、とても可愛らしく魅力的だ。
「行きましょうか。個室形式のところなんですけど。この前、夫と立ち寄って、いいなって思ったところなんですよ」
 ふふ、と笑った彼女は顔立ちもだが、とても上品そうなお嬢様だ。
 こういうふんわりとした感じの美人は、今まで李帆の周りにいなかったタイプだ。
「李帆さんは、嫌いな料理とかありますか?」
「いえ、私は特には」
「いろんな料理がメニューにあるから、いいですよね? 日本の居酒屋って」
 どんなお店なのか聞いてみると、居酒屋……というか、大人が安心してゆっくり飲めそうなカジュアルダイニングだったのでホッとした。
「旦那さんとこういうお店に行くんですね」
「結婚してからは、外食はだいたい居酒屋です。カジュアルで、作法も気にしなくて良くて、夫の零士は楽で落ち着くそうです。私もそう思います」
 そう言って肩を軽く回した彼女は、さらに言う。
「年中フランス料理とか食べてると肩がこるんですが、日本に来て、なんだかすごく自由です」
 彼女は本当にお嬢様なんだな、と李帆は思った。
 年中フランス料理など、普通の女子からはそんな言葉は出てこない。
 しかし、なんだかすごく自由だと楽しそうに言った彼女の気持ちを考えると、ごく普通の庶民である李帆からは考えられないような苦労もありそうだ。
 駅から歩いてほどなくして、目的の店に入った。
「予約していた添島です」
 彼女は四名で予約をしており、二人はあとから来ますからと言った。席に案内されると、割とゆったりとした個室だった。
「席が広くて良かったです」
「広いほうがいいですよね? 飲み物頼みましょう、李帆さん」
 アリスは置いてあったタブレットを操作して、飲み物の画面を開く。ここには本当に何回か来ているのだと、その慣れた注文の仕方で思った。
 どちらかと言うと李帆の方が、あまり人とこういう場所に来なかったこともあり、慣れていない。
「李帆さん、実は私……初めてお店を自分で予約したんです」
「あ……そうなんですか? 素敵なところを選んでいただいてありがとうございます」
 けれど、李帆が思っていたのとアリスの思ったことは違っていたらしい。
「私、添島の名前で初めて予約しました……すごく、いいです……! さっき李帆さんと話している間も、零士のこと夫って言うのもなんだか嬉しくて」
 頬を染めて言うアリスは、とても美人だが今はすごく可愛い。本当に夫婦の仲が良いんだなと思う。
「アリスさんは、結婚してどれくらい経つんですか?」
「やっと一年経ちました。李帆さんは、エルといつ結婚を?」
 聞き返されて、李帆は戸惑った。
 いつでも結婚していいと言ったエルの言葉は本心からだと思うが、実際にいつがいいのかは決めていない。でも、明日入籍したいと言えば、すぐにでも役所へ行きそうだ。
 それよりもアリスの口から、エルといつ結婚するのかという質問が出たのに驚いた。
 彼女はエルと李帆が結婚するということを疑っていない。婚約者として紹介されたのだから、結婚前提の付き合いをしていると思われるのは当然ではあるのだけど。
 華やかな世界を知ってしまえば、私で大丈夫かな、と尻込みする気持ちもないわけではない。現実的に言えば、慣れが必要そうだ。