あなたが好きでたまらない 敏腕フライトドクターはまじめな彼女をどこまでも愛したい 3
無理をしないように。
そうは言われたものの、やはり店を預かる店長としてやらなくてはならないことはあるし、考えなくてはならないこともある。
気をつけてはいたつもりだった。
まだ大丈夫、まだ大丈夫。そう、自分に言い聞かせながら……。
「……り、みの……、……り、──美乃梨っ」
耳元で響く強めの声と、両肩を掴まれた衝撃で我に返ったように意識がはっきりとする。名前を呼ばれて首を回すと、敦子がうしろから心配そうに顔を覗きこんでいた。
「敦子……?」
「ちょっと、大丈夫? 顔色悪いんじゃない? 具合悪い?」
「そう? そんなこと……ないよ。大丈夫」
敦子の手をさりげなく外しカウンター側へ歩いていく。エントランスから見える場所に立てば追及されないだろう。
……と、思ったのだが、敦子はそのまま横に並びメニュー表を持って話しかけてきた。こうすると、メニューについての話し合いをしているように見えるからだろう。
「裏で休んできなよ。私、今日は本店に行かないし、閉店の十九時までお供するよ」
「大丈夫だってば。それに、敦子は八時から出てるんだから十七時まで。店長として、その前提は崩せないよ」
「店長本人が崩しているんだから説得力ないって。昨日も私が本店に行った十五時からひとりだったって聞いたよ。どうしてそんな無理なことするの」
「それは、ほら、佳枝さんのお子さんが保育園で熱を出したって連絡がきたから帰ってもらっただけで、別に無理をしようとしていたわけではないし」
「してるでしょ。そういうときはヘルプ連絡入れなよ。支店のバイトさんとかで都合がつくかもしれないんだから」
「バイトさん、せっかくの休みに呼びつけるのは悪いよ。他の店だって、人員に余裕があるわけじゃないんだから」
「それでもさ……」
敦子のセリフは途中で止まる。商品スペースでお菓子を選んでいた女性がカウンターに近づいてきたからだ。
カウンター横に併設された商品スペースでは【くつろぎ堂】オリジナルの焼き菓子やサンドイッチなどのフード販売もしている。コーヒー豆も数種類用意されていて、豆のまま、もしくはペーパーフィルター用に挽いて、など要望に合わせて量り売りもできる。
「このコーヒー味のマカロン、美味しいですよね。ミルクコーヒー味がお気に入りで、これだけ十個くらい入ったのがあればいいのにって思うんですよ」
「ミルクコーヒー味、人気なんですよ。確かに単体でも人気商品になるかもですね」
キャッシャーで話を聞かせてくれる女性の声が、なにか薄い壁を通して聞こえているように感じる。それでも、店の商品を気に入ってもらえているのは嬉しいので自然と笑顔で返せていた。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
そう言ったあとに視界に入ったエントランスの光景が、単純な線画と色彩になって不穏に描かれる。そんな視界の向こうで、スクラブに白衣を羽織った侑馬の姿だけが鮮明に浮かんだ。
(あれ……? 目、ヘン……? 桐生先生は見えるのに……)
景色が回りはじめる。これはなんだろう。
「あ……」
さらに視界がぐらりと歪んだ。敦子の「美乃梨!」という焦った声が聞こえた気がする。
カウンター越しの風景が、まるで水彩画に水をぶちまけたように混ざり合う。コーヒー豆の香ばしい匂いも、食器やコーヒーマシンを洗浄する音も、すべてが遠くへ吸いこまれていく。
(倒れちゃ駄目! まだ仕事が……!)
仕事のことを考えつつ、まぶたの裏に浮かんでいたのは侑馬の姿だった。
毎日一度は顔を出してくれる常連さん。いつの間にか、彼が来るのを心待ちにしていて、毎日楽しみで、……彼と話すのが心の癒しになっていた。
────先生が……来てるのに……。
全身から力が抜ける。しかしこのまま冷たいタイルのうえに倒れるはずだった身体は、なにかになびくようにさらわれた。
「──近藤さん! 美乃梨さん!」
あたたかく硬い腕、聞き慣れた、けれどこれまでに聞いたことがないほど切迫した低い声が耳元で響く。
かすかに鼻腔をくすぐったのは、独特な白衣の香りとかすかな煙草の残り香。
(……桐生先生……)
安堵が全身を包み、美乃梨の意識はそこで途切れてしまった。
*****
「搬送終了、これより帰署します」
救急救命士である島崎克己は、無線機に短く告げ額の汗を拭った。
ストレッチャーを救急車へ戻し、重いバックドアを閉める。天空中央病院の救急外来の入り口は常に張り詰めた空気が漂っているが、無事に患者を引き継いだあとのこの一瞬だけは、わずかに呼吸が軽くなる。
足早に廊下を歩いていた看護師長の三笠がこちらに気づいて足を止めた。
「あら、克己くん。ちょうどよかった」
「三笠師長。お疲れ様です。……なにか?」
三笠は顔見知りのベテラン看護師だ。亡くなった叔父の知り合いで、幼いころから知っている。いつも落ち着いた人なのに今は違う。なぜか、おかしな直感が動いた。
「美乃梨ちゃんのこと聞いた? さっき店で倒れて、今そこの処置室に運ばれたんだけど」
「……美乃梨が?」
心臓がいやな跳ねかたをする。
美乃梨は亡くなった叔父の娘だ。お互いひとりっ子だったこともあって、妹のように面倒をみてきた。
叔父が亡くなってからは、進学をせず就職したいという彼女の後押しをし、心配する美乃梨の母親を説得してひとり暮らしの手助けをした。
彼女の母親は他県にある実家に身を寄せているので、実質、克己は保護者として美乃梨を気遣い続けている。
美乃梨の一大事に、克己が黙っているはずがない。
「倒れたって、原因は?」
「脱水と過労って、桐生先生が言っていたけど」
「桐生先生……? 救急科の?」
「美乃梨ちゃんが倒れたとき、桐生先生がお店の近くにいたらしくてね、すぐに抱きかかえて救急科に運んだらしいの」
三笠の言葉が終わるか終わらないかのうちに、克己は一礼をしてから速足で歩きだしていた。
(……桐生が、付き添ってる? どうして)
それを考えると、喉の奥に苦い砂を流しこまれたかのような不快感が広がる。重い安全靴の音を響かせ、救急外来へ向かう廊下を急いだ。
ネイビーの救急隊服に刻まれた反射材が、天井の蛍光灯の光を跳ね返して不規則に明滅した。腰のベルトに吊るした無線機やレザーツールが、脚の動きに合わせてまるで警告音のように騒がしく鳴り響く。
(なぜ、あいつなんだ。なぜ、あいつが美乃梨のそばにいる!)
──六年前、崩落現場の白煙のなかで見た侑馬の横顔がフラッシュバックした。
救命士としての心配を通り越し、奪われてはならない聖域を侵されるような、どす黒い焦燥感が全身を支配する。
処置室を仕切る厚いドアの前に辿り着き、一瞬だけドアノブにかける手に力をこめた。手袋を外したばかりの手のひらには、現場の熱気と脂汗が混じった不快な湿り気が残っている。
ガッと音をたててドアをスライドさせた瞬間、室内の冷えた空気が頬を撫でた。
*****
ゆっくりと意識が戻ってきたとき、最初に目に映ったのは無機質な白い天井、そしてそこから垂れさがる点滴のパックだった。
周囲の音が徐々に鮮明になってくる。規則的な電子音、どこか遠くに聞こえる足音や話し声。
「目が覚めたかな?」
低くおだやかだが厳しい声。ゆっくり首をかたむけると、ベッドの傍らに立つ侑馬がいた。
崩れていく景色のなかで彼だけが鮮明に見えたときのまま、スクラブに白衣を羽織った姿、片手に持つ電子カルテは美乃梨の症状が記録されたものだろうか。
「先生……わたし……、倒れたんですか?」
「そのとおり。俺がここまで運んだ。脱水と低血糖、それに極度の過労だ。……頑張り屋なところは美徳だが、自分の限界も把握できないのはプロ失格だよ、店長さん」
厳しい言葉ではあるけれど、彼の手は驚くほど優しく美乃梨の乱れた前髪をそっと整える。その指先の熱に、心臓が頼りなく弾んだ。
「すみません、わたし……ご迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない。……近藤さんなら、特に」
呼びかたが「店長さん」から変わる。それだけなのに頼りなかった鼓動が大きくなる。
「ここは……」
「救急科の処置室。店から一番近かったから駆けこんだ」
「一番……」
まだ少しぼんやりしているのかもしれない。特になにか考えるわけでもなく繰り返すと、侑馬が困ったように笑う。
「ごめん、嘘ついた。一番近いのは内科かな。でも緊急だったし、ここで正解」
腕を組み、したり顔でうんうんとうなずく彼を見ていると、楽しくなってきて自然と口元がほころぶ。それに気づいたのか、侑馬も表情をなごませた。
カーテンの向こうからは人の話し声や足音、医療機器を移動させる音など慌ただしく聞こえてくるのに、ここだけおだやかな時間が流れている感覚に囚われる。
しかし、処置室のカーテンが激しい音をたてて開かれたことで、その長閑さはうち破られる。
「美乃梨! 大丈夫か!」
聞き覚えがありすぎる声。カーテンを掴んで立っていたのは、従兄の克己だった。
搬送作業を終えたばかりなのかもしれない、彼は救命士のユニフォームを着用している。
濃紺の機能性素材で作られた制服、反射材を用いたシルバーの肩ライン、胸元の【PARAMEDIC】の文字と消防本部のエンブレムが誇らしげだ。
少し乱れた髪と、日々鍛えられた胸板が大きく何度も上下しているのは、彼がどれだけ急いでここへ向かってきたのかを物語っているよう。
「克己くん……どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろう。こっちが聞きたい。三笠さんに聞いて驚いた、具合は? いつから調子が悪かったんだ?」
「調子、っていうか、……なんか、ついうっかり倒れちゃって、気がついたらここにいた」
「うっかりで倒れるもんじゃない。だいたい、おまえは最近……!」
お小言に発展しそうな寸前で、克己は美乃梨の他にも人がいることを思いだしたのだろう。言葉を止め、侑馬に顔を向けた。
「桐生先生、美乃梨を助けていただいたそうで、ありがとうございます。あとは家族の自分が付き添いますから」
克己の言葉は丁寧だが、その瞳には、なにか言葉にできない重いものが宿っているように感じる。
「家族……? 初耳だ。救命士の島崎さん、苗字が違うようですが?」
ひりついた空気が走る。侑馬も負けてはいない、克己の言葉を軽く受け流す。
「従兄です。家族同然なので」
「なるほど。ですが、まだ点滴が終わっていないし、なにより島崎さん、あなたはまだご自分の仕事があるでしょう。搬送して終わりではないはずだ」
おそらく克己は、このあと消防署へ戻らなくてはならないだろう。美乃梨の意識もシッカリしているし、彼が任務を放棄してまで付き添う必要はない。
克己もそう考えたのか、視線を美乃梨に戻した。
「今日はもう帰って寝ろ。店には俺から言っておくから」
「まだ営業中だし、締め作業はわたしがやらなくちゃ。大丈夫、すぐに戻れるくらい元気だから心配しないで」
ここにいてはいけない気がした。美乃梨が休んだままだと克己は引き下がらないだろうし、侑馬も動かない。
なんとか上半身を起こそうとしたが、左腕に点滴が入っているのを失念していた。力を入れた瞬間いつもは感じることのない違和感のせいでベッドから腕を浮かせてしまう。
そのせいでうしろへ倒れかけた背を、侑馬の腕が支えてくれた。
「ご心配なく。主治医として、責任をもって見ていますから。──それとも、俺が信用できない理由がありますか?」
これは意地悪な質問だ。美乃梨が知る限り、侑馬を悪く言う人は見たことがないし悪い評判も聞かない。
……ただ、仕事に真摯で厳しい人なので、ときどき現場で意見が衝突することがあるとは聞いたことがある。
(やっぱり……)
このふたりの雰囲気といい、克己が“融通の利かない救急救命士”などと言われていることといい、意見が衝突する相手というのは克己のことで間違いないだろう。
いっとき火花が散るような沈黙が走ったが、克己に呼び出しの無線が入ったことで、その場は収まったのである。
点滴を受けているうちに少し眠ってしまっていた。
そのあいだに、侑馬が美乃梨の状態について店のほうに説明をしてくれたらしい。「近藤さんより背が高い人に」と言っていたので敦子のことだろう。
『承知いたしました。店は私が責任もって閉めますので、店長には家に帰ってゆっくり休んでくれとお伝えください!』
と、それはそれは張りきっていたとか……。
本音を言えば、点滴をしたうえに休ませてもらって体調はかなりすっきりしている。引き続きいつもの閉店時間まで頑張れそうだ。
だが、ここは敦子の気持ちに甘える判断をした。
調子にのってまた悪化したら敦子に申し訳ない。それに「主治医として、責任をもって見ていますから」などと言ってしまった侑馬が、克己になにを言われるかわからない不安がある。
一度店に戻って帰宅の準備をしたが、敦子が「任せておいて」と張りきっていたのに対し、なぜか佳枝が気まずげだったのが気になった……。
「近藤さん」
夜間出入り口に向かっていると声をかけられた。
呼ばれているのが自分だと確信が持てたのは、それが侑馬の声だったからかもしれない。
足を止めて顔を向けると、侑馬が駆け寄ってくるところだった。
「間に合ってよかった。今帰るところだよね?」
「はい、おかげさまで。先生は……これからフライトですか?」
そう思ったのは、彼がフライトチームのユニフォームを着用し、なおかつ白衣を羽織っていなかったからだ。
救急科のフライトチームには専用のユニフォームがある。フライトスーツのインに着用しているTシャツだが、フライトチームの証、背中の白い羽のマークと【Connecting lives from the sky】──空から命を繋げ──の白文字はフライトドクターとしての誇りでもある。
──美乃梨の父も、同じだった。
「でも、もう飛びませんよね? 夕方だし」
「察しがいいね。出動要請があったんだけど、状況確認のため待機になって結局ドクターカー案件になった。今から飛べなんて言われたら、パイロットどころか理事長まで怒りだす」
安全上の理由から、ドクターヘリが運用できるのは日没まで。正確な時間は季節やその日の天気によって変わる。
すでに夕日が射している今の時間に飛んで、戻りが日没後になっては大変だ。
「それで、俺、今日はこれで終わりだから送っていくよ」
「そうなんですか、お疲れ様で……えっ!?」
ねぎらいの言葉を口にした次の瞬間、自分がなにを言われたのか理解する。つい大きな声が出てしまった。
「送っていくって……あの……」
「でもその前に一服してきてもいい? ずっと患者を診ながら待機だったから、午後から一服してなくて」
うろたえる美乃梨を置き去りに、侑馬はさっさと出入り口へ歩いていく。考えてみれば、美乃梨が倒れたとき侑馬の姿を見たのは彼が休憩をしようとコーヒーを飲みに来たからなのではないか。
だとしたら、そんな貴重な休憩時間を奪ってしまったことになる。美乃梨が処置室で休んでいるあいだも救急科の仕事をしていたのだろうし、そのあともずっとだとすれば……。
(お礼……それと謝罪っ!)
焦燥のまま彼を追いかける。「送っていく」という衝撃のひとことより、医師の休息時間というとんでもなく大切なものを奪ってしまっていたという罪悪感のほうが大きくなっていた。
侑馬は前庭に向かっているようだった。花壇やベンチが並ぶエリアは禁煙だが、遊歩道側は喫煙OKになっている。そこに向かっているのだろう。
歩きながら話しかけようとするものの、なにせ侑馬は長身なぶん脚も長い。そして、無理もないと言うほかないが、医師というのは歩くのが速い人が多い気がする。
追いつこうとするのに必死で言葉が出せず、結局前庭の遊歩道までついてきてしまった。
やっと立ち止まってくれたのに、今度は息切れですぐに声が出ない。
「出入り口で待っていてくれてよかったのに。それとも近藤さんも一服?」
「す……吸いませんよ……」
まだわずかに上がる息を整えながら答えると、「そうだよな」と侑馬は楽しそうに煙草を取り出す。ちょっとからかわれてしまったようだ。
「それならどうして? そんなに俺といたかった?」
「せんせっ……」
さらに楽しげな様子は続く。嬉しそうにさえ見えた。
彼はなにげない冗談で言っているのだろう。けれど、これは駄目だ。
……少し、つらい。
「……駄目ですよ、先生」
「ん?」
ちょっとおどけて怒った声を出せたらよかったのだが、自分でも予想外に沈んだトーンになってしまった。
予想外だったのは侑馬も同じだったのかもしれない。煙草の先に火を点けてから、身体ごとこちらを向く。
「先生みたいにカッコいい人が、気安くそんなことを言っちゃ駄目です……。先生は言い慣れているのかもしれないけど、言われたほうは困ってしまいますから」
「困る?」
「はい……」
「……どうして?」
大きく煙草を吸いこみ、煙を吐き出しながら言葉を出す。
来店したとき、侑馬はいつも煙草を出そうとする。店は禁煙なのでもちろん止めるが、実際に彼が吸っている姿を見るのは初めてだった。
医者が煙草なんて……そう思うのに。
煙草を片手に持つ姿が、とても素敵だと感じてしまう。夕刻の景色に浮かぶ彼は朱色の陰影をまとい背徳的な魅力さえにじませていた。
「先生は……本当にカッコよくて素敵なんですよ。自分でもわかってますよね? それなのに、『送っていく』とか『俺といたかった?』とか、そんなことを気安く言っていたら……誤解されますよ」
「近藤さんも、誤解してくれる?」
やはり面白がっている。それならそれでいい、彼に好意を持つ女性があらぬ思いこみをしてしまう可能性をわかってもらわなくては。
「しますよ。実際、先生が毎日店に顔を出してお話ししてくれるから仕事を頑張れるし、今日だって、ちょっと体調がきついなとは思っていたけれど、先生の姿が見えるまで頑張ろうってムキになっちゃっていたし。でも、そういう女性ってたくさんいると思いますよ。思うじゃなくて、いるんですよ、だから、先生みたいな人が気を持たせるようなことを言っちゃ駄目なんです!」
話しているうちに感情がエスカレートして強い口調になる。
捉えかたによっては、侑馬がおかしなトラブルに巻きこまれないよう心配していると感じるだろうが、美乃梨自身、それは違うと痛いほどわかっていた。
侑馬に優しくされて誤解をする女性が現れるのが、いやだからだ。
誰にでもそんな態度をとらないでほしい。向けられる眼差しを自分だけのものにしていたいという、狡い独占欲が胸をいっぱいにしている。
ここで侑馬が理解して「わかった」と言ってくれたなら、話はそれで終わり。そうしてもらえれば、いつまでも狡い自分に苛まれずこの場を締められる。
しかし侑馬の返事は想像の斜め上だった。
「でも、近藤さんは誤解してくれるんだろう? それならこのままでいいかなって思う」
斜め上すぎる。
無自覚ならともかく、わかっていて続けるのは意地悪がすぎないか。
「どうしてですか、仕事の仕方が下手なわたしへの意地悪ですか」
「仕事の件は大丈夫。これから俺が見ているから」
「……主治医って、言っていましたしね」
克己とのやりとりを思いだした。あれは、克己を帰すために出た言葉ではなかったのだろうか。
「主治医っていうか、近藤さんが誤解をするっていうなら、誤解じゃなくて“本当”にしてしまえばいいってこと」
「本当の……嫌がらせ?」
「どう考えたらそうなる」
ハハハッと軽く笑い、煙草の先を赤く燃やしてから煙を吐く。
「つまり、さっきの誤解される云々はさ、私以外の女を誤解させちゃ駄目、って意味だろう?」
──見抜かれている。
自惚れを見抜かれて恥ずかしいというのに、そんな美乃梨の顔を侑馬はじっと見つめている。
なにか言いたげな様子は、自分の質問に答えてほしいのだと感じさせた。
「はい……、そうです。すごく狡いけど、他の女の人に、誤解するような態度をとってほしくないって」
「ひとりじめ?」
さらに質問が恥ずかしい。
言葉にはせず、こくんと首を縦に振った。
「そうか、ひとりじめか」
侑馬の声が少し嬉しそうだ。美乃梨の戸惑いは大きくなるばかり。
さらに彼は、戸惑いの波を大きく揺らした。
「それなら、俺とつきあおうか」
マンションに戻ってからも、しばらくぼんやりしていた気がする。
原因はやはり、憧れを抱いていた人とつきあうことになったからだろう。
ローテーブルの前に座り、そこに置かれた白い買い物袋を眺める。なかには【栄養満点お野菜たっぷり煮込みラーメン!】が入っている。手間いらずの煮込み用鍋付き、先日侑馬に連れていってもらったラーメン店の持ち帰り商品である。
送ってくれる際、ラーメン店に寄って購入したものを美乃梨に渡してくれたのだ。
煮込み用の鍋は土鍋風。使い捨て容器も選べるらしいが、しっかりとした器に入っていると特別感がある。
幼いころの家族旅行で、本物の土釜に入った駅弁を食べたことがあった。器の物珍しさと旅行の楽しさで、幼いころ苦手だったシイタケも美味しく感じたのを覚えている。
『本当は食事に誘ってロマンチックなムードに持ちこみたいところなんだけど、ついさっき倒れた子にそれはできないし。これ食べて、今夜はシッカリ寝て、次はロマンチックなムードに持ちこむから覚えておいて』
「……ロマンチックな……」
侑馬の言葉を思いだし、理解するより先にカッと頬に熱が灯った。
言われたときも照れ笑いをしていたが、改めて考えると照れ笑いで済ませてはいけないことを言われてはいないか。
「……意地悪なんだか本気なんだか……」
カッコいいから言い慣れている、なんて拗ねた考えかたがまだできるなら、「誰にでも言えるんでしょう」と照れ隠しの憎まれ口をきいたかもしれない。
けれど今は、今までの自分にはない気持ちになっているのを感じる。
(そんなムードに持ちこまれても……いいかな)
今はまだ絶対口に出せない気持ちで、胸を熱くする。これからの期待のようなものがうっすらとあっても、異性との交際経験がない美乃梨には現実感がない。
ふたりともひとり暮らしをしているから、お家デートなどもありなのだろうか。
(あ……わたしのとこは駄目だ)
美乃梨が住むのは1DKの女性専用マンション。管理人常駐、オートロック、二十四時間セキュリティ完備。という、美乃梨のひとり暮らしを母親に納得させるために克己が用意した隙のない物件。
決定的なのは、男子禁制なこと。親族さえエントランスに入ることを許されない。
近所に住む克己が美乃梨の帰宅時間などを把握しているのは、部屋の照明が点いているのかいないのかで判断できるから。
【栄養満点お野菜たっぷり煮込みラーメン!】が入った袋を両手で持ってキッチンへ向かう。袋を見ているだけで侑馬を思いだし、頬がピクピクして締まりのない顔になりかける。
ずっと気になっていた人と想いが通じ合ったのだ。今日くらいはニヤニヤしても許されるのではないか。
父が生きていたら、同じフライトドクターの恋人ができたことを喜んでくれるだろうか……。
そんなことを考えて、少し気持ちが平静を取り戻した。
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