あなたはタイプじゃありません! 大好きだった美少年の幼なじみがマッチョな変貌を遂げて熱烈に迫ってきます 2
はっと目を開けると、目の前に細マッチョで、見慣れないほど背の高い男がこちらを覗き込んでいた。
「……わ、私の怜央は!?」
「大丈夫? 美琴……。怜央は俺だよ?」
青い瞳が、心配そうに揺れている。
――そうだ、これが怜央だった。
あの頃の儚げな少年とはまるで別人の、筋肉のついた大人の男。
そしてここは……病院の仮眠室のベッドの上。
そうだ、私はあの後、怜央に抱きしめられて倒れたんだった。
「あぁぁぁ! 小児外科の子どもの前で倒れちゃったんだ!」
思い出した瞬間、頭を抱えた。
「なんてこと……倒れるなんて最低……」
「大丈夫だよ。子どもたちもちゃんと分かってる」
「ダメなの! 私は子どもの前では強いヒーローでいたかったの! あの子たちは病気で不安なのに、目の前の大人が倒れるなんてありえないでしょ!?」
ああもう、怜央の変貌もショックだったけど、それ以上に子どもたちに失態を見せたことのほうが何倍も悔しい。
私が頭を抱えたままぶつぶつ言っていると、怜央がくすっと笑った。
「な、何笑ってるんですか」
「いや……美琴って、変わらないなって。これまでもずっと守る側でいたんだね」
「そんなの当たり前でしょう」
私は大人だし、他の人よりも強い。それで守る側にいないはずがない。
そう言ったら、怜央は「ふふっ」と楽しそうに笑った。
その笑顔に、ほんの一瞬、昔の怜央が重なる。
「怜央……」
やっぱり、この人は怜央だ。彼が、私の初恋だった。
感傷に浸りそうになっている私に、怜央ははきはきと言葉を発する。
「美琴のそういうところ、大好きだよ。だから、結婚してくれるよね?」
――そうだった。
この人、怜央だという以前に、さっき病棟の真ん中でプロポーズめいたことを叫び、私を抱きしめ、気絶させた張本人だ。
「あのですね、二度と病棟の真ん中で抱きしめないでください! それに、結婚って何ですか。私はあなたと結婚なんてしません!」
「感動の再会だったから、つい。ごめん。でも結婚は諦めないから」
怜央はさらりと言い切る。
二十年前の「一生守る」という約束の一言で、どうして再会してすぐプロポーズに至るのか。
私だって、白馬に乗って帰ってきた怜央にプロポーズされる……そんな想像を、ほんのちょっとだけしたことはある。
でも、想定していたのは細マッチョじゃなくて、線の細い王子様のほうだ。
こんな方向で成長するなんてまったく聞いてない!
悲しみに似た感情が込み上げてきた時、女性が入ってきて声を上げた。
「あー! 剣持さん、何でこんなことろにいるんですか!? 探したんですよ!」
整形外科の看護師だった。どうやら、怜央は病棟を抜け出してここまで来たらしい。
怜央は「見つかった」と言いたげに小さく肩をすくめると、「また来るね」と私の髪を軽く撫でた。
「も、もう絶対来なくていいですから!」
「また来る。だって、俺は美琴にずっと会いたかったんだから」
「っ……迷惑!」
「どう言われても来るから」
どうやら彼は言っても聞かない性格に成長しているらしい。
――拝啓、私の初恋の儚い美少年さま。
できればあなたには、外見も中身もあの頃のまま、まっすぐ綺麗に成長していてほしかったです。
……一体どこでそんな方向に育ったの、怜央。
大人になった怜央は、儚さの欠片もなくなっていた。
どこからどう見ても、強靭な体を持つ細マッチョだ。
しかもその細マッチョが、なぜか小児外科に差し入れを持ってやって来る。毎日毎日、やって来る。
しかも差し入れだけで終わらない。
当たり前のように、いつも決まって口にするのはこの言葉だ。
『美琴、結婚してください』
誰がするか!
ただでさえ、怜央の変貌ぶりに脳の処理が追いついていないのに、毎日そんなセリフを聞かされていたら頭がバグる。
あんな別れ方をして心配もしていたのに、二十年ぶりに再会したら開口一番プロポーズしてくるなんて、普通に考えて冗談としか思えない。
もしくは、目についた女性全員にプロポーズするタイプの残念な人に成長したのだろう。
そう結論づけていたのに、春奈の反応はこれだ。
『あんな、たっつん並みの完璧細マッチョで、しかも昔から一途に先輩を好きだったとか、もう最高じゃないですか! 結婚しちゃえばいいじゃないですかぁ! 遊ばれたっていいじゃないですか! むしろラッキープレイですよ!』
いやいやいやいや。どの口が言ってるの。ついでにラッキープレイって何。
ちなみに『たっつん』とは、春奈が狙っていたジムのインストラクターで、最近ついに交際が始まったらしい。さすが恋愛成就のプロ。
でも私は、春奈ほど筋肉に興味がない。むしろ、筋肉はない方がいいタイプだ。
それに、別に純潔を守ってるわけでもないけれど、「遊ばれる相手」くらい自分で選びたい。というか、そもそも遊ばれたくない。
さらに厄介なのは、入院中の子どもたちにまで私の結婚話が広まっていることだ。
『みこ、結婚するんだって?』
『お祝いしなきゃ!』
『れおくんが、おひろめしてもいいって言ってたよ!』
あの男は、勝手に何を子どもたちに話しているんだ!
しかも子ども経由で広まったせいで、保護者やスタッフまで知ることになり、今や病院中の共通認識になってしまった。
毎日誰かしらに「おめでとうございます」と言われる始末。
外堀を埋める、って言葉があるけど、私の場合、外堀どころか内堀まで完璧に埋め立て済みで、もはや身動き一つとれない。誰も私の言い分を聞いてくれないのだ。
いや、ただ一人だけ例外がいた。
『みこが怜央と結婚? ありえないだろ』
乙藤だ。人生で初めて、乙藤と心が通じた瞬間だった。
もちろん私は、怜央にだって毎回きっぱり『結婚なんてするわけないでしょ!』とお伝えしている。
でも、怜央は一切めげない。
『じゃあ、納得してもらえるまで来るから』
『来なくていいって言ってるの! 本当にやめて!』
そう言っても、彼は日勤明けでも夜勤明けでもやって来る。
見た目どおり体力は底なし、そして驚くほどメンタルが強い。
断られても断られても、にこやかに再挑戦してくるのだ。
体力、精神力、持久力のすべてを兼ね備えたストーカー予備軍ほど面倒なものはない。
「一体どうすれば諦めてくれるのよ!」
そう叫びながらも、一週間が過ぎる頃には、私は怜央が来る時間、放つ言葉、表情のすべてを嫌でも予測できるようになっていた。
慣れって怖い。
その日はその日で、勤務を終え、職員出入り口から出た私に怜央が声をかけてきた。
「美琴!」
「……なんで今日も帰りまでいるんですか。ホント、ストーカーとして警察に捕まえてもらいますよ」
顔をしかめた私に、怜央は悪びれる様子もなく笑っていた。
その時、ふいに彼の視線が私の鞄に落ちる。
「美琴、それ……もしかして昔、俺があげたやつ?」
「そうですけど」
私の鞄には、怜央からもらった小さなテディベアのキーホルダーがぶら下がっていた。
そういえば、この鞄を使うのは久しぶりだった。
今まで怜央と会う時は別のバッグを使っていたから、彼が気づくこともなかったのだ。
「かわいくて、なんとなく付けてただけですから!」
言い訳めいた声が裏返る。
怜央はふっと笑い、柔らかい声で言った。
「嬉しいな……ずっと持っててくれたんだ」
その笑顔に、胸の奥がぎゅっと音を立てる。昔の怜央が、一瞬だけそこに戻ってきた気がした。
「で、今日はなんですか」
落ち着かない気持ちを隠すようにぶっきらぼうに尋ねると、怜央は「あ、そうだった」と手を叩く。
「すごく大事なことを言い忘れててさ」
「なんですか。もう帰るところなんですけど……って、あれ?」
その瞬間、私は違和感に気づいた。
怜央が私服を着ている。つまり入院着ではないということだ。
「俺、今日で退院なんだ」
「そ、そうですか。それはおめでとうございます」
思わず安堵の息が漏れる。
これで、毎日のプロポーズ攻撃からもようやく解放される。仕事が始まれば、彼も忙しくなるはずだ。きっともう、ここへ来ることもない。そして彼は一人で毎日を過ごす……。
ふいに、別れた日のことを思い出した。
一人で泣くこともできなかった少年の怜央。
あの時、私はすごく心配だった。この子をこれから誰が守るのだろう、と。
再会した今、怜央はすっかり別人のようになっていた。
いつも冗談交じりの調子の裏で何を考えているのか分からなくて、私は不安も感じた。
――怜央は、本当にもう大丈夫なのだろうか。
気づけば、彼の顔を見つめて口が動いていた。
「怜央は……もう大丈夫?」
怜央が少しだけ驚いたように目を見開き、そして柔らかく笑った。
「俺は、美琴がいてくれたから……大丈夫だったんだ」
怜央が一歩近づいて、私の左手を掴んだ。
「ちょ、なに……!」
驚いて声を上げた時には、彼の指が私の指の間に滑り込んでいた。
きゅっと優しく、でも逃がさないように強く絡め取られる。
心臓が大きく跳ねた。
これは動揺じゃない。嫌だから。とにかくすごく嫌なのに私の心臓は勝手にドックンドックンとうるさく騒ぎ立てる。動かそうとしても左手は一ミリも動かない。
っていうか、怜央、とんでもない力だな!
怒ろうとして怜央の方を見れば、彼は真剣な表情で私の手を見ていた。
その瞳を見ていると、本当に怜央が帰って来たんだと思い急に目の奥が熱くなるのを感じる。しかし、私は慌てて首を振った。
「も、もう放してください!」
振り払うと、怜央は次はあっさりと手を離してくれた。
「もういいならあなたも帰ってください」
「ああ、引き留めてごめん。じゃあね」
それだけ言って、怜央は踵を返した。
今日は、プロポーズしないんだ? 最後の日なのに。百本の花束を抱えて現れてもおかしくないのに。
あまりにもあっさりしていて拍子抜けした私を置いて、彼はそのまま急ぎ足でいなくなったのだ。
背中が角を曲がって見えなくなったあとも、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……よかった。これで、もう来ない。っていうか、あっさり引き下がりすぎじゃない?」
もしかして入院中、寂しくて絡んできただけだろうか。
時々、入院中だけの疑似恋愛のように看護師を好きになってしまう事例がある。
春奈なんて少し話しかけただけで、他の科の患者さんまでメロメロにして何度も告白されているのだ。
つまりはそういう話だったの? それでもう会わなくなるから用済み?
私はなんだか胸にぽっかり穴が開いた気分になって、それからイライラし始めた。
「二十年ぶりに帰ってきたと思ったら、しつこくプロポーズしてきて……最後はあっさりいなくなるってなんなのよ!」
そしてそんな彼に振り回されてきた自分にも、心底腹が立った。
怜央が病院からいなくなったことで、毎日のように繰り返されていたプロポーズ攻撃からついに解放された私は、やっと普段の生活に戻れた。
朝起きて、仕事に行って、疲れて、寝る。
その一つ一つが、なんて平和で、なんて尊いんだろうと心の底から思う。
そう。間違いなく、私は安堵しているはずだ。なのに……どこか胸の奥に空白のようなものが残っている気がする。
でも、そんなのは気のせいだろう。
しつこくされてた相手がいなくなったら、静かすぎて逆に変な感じがするだけ。
ただの反動だ。間違いない。
そのまま二週間ほど、仕事に追われて日々は過ぎていった。
日勤も夜勤も混ざって生活リズムはぐちゃぐちゃ。
気づけばカレンダーの曜日感覚もなくなった頃、ようやく半日の休みができた。
そんな日を狙ったように、兄から電話が入った。
「いつでもいいから、たまには顔出せ。最近見ないぞ」
それで、私は実家に向かうことになった。
曇り空の下、最寄り駅から電車で三駅。そこから歩いて十五分ほどの住宅街の中に、桜沢道場はある。
父のあとを兄が継いだ道場は、今は兄一人で指導していて、特に週末には子どもたちで賑わっている。
このご時世に門下生の数が減らないのは奇跡みたいなものだ。
赤字ギリギリでどうにか経営できていると兄は言うけれど、それでも誇りを持って続けていた。
私も小さい頃からずっとここで汗を流してきたから、何かしたい気持ちはあるけれど、今の自分にできることは正直に言ってほとんどない。それがもどかしくもあった。
もし私が、道場のことを心配しないでいいような相手と結婚したら、少しは何かできるのかな?
そう思った瞬間、ふいに怜央の顔が浮かんだ。
……なぜ? 今、怜央は全然関係ないよね? いや、むしろ一番関係ない人でしょうが。
自分でツッコみながら首をぶんぶん振って、気持ちを切り替える。
気づけばもう道場の前まで来ていて中から子どもたちの元気な声が響いていた。
どうやら今は子どもクラスの稽古中らしい。
顔なじみの子たちも多い。会うのは久しぶりで、ちょっと嬉しくなる。
邪魔にならないようにそっと引き戸を開け、そして、息をのんだ。
「……れ、怜央!?」
思わず叫んでしまう。
そこに立っていたのは、紛れもなく怜央だった。白い道着姿。裸足で畳の上に立ち、低い声で号令をかけている。
なぜ、怜央が道場にいるの?
怜央は言葉に詰まっている私に視線を向けて一瞬だけ微笑む。
そしてすぐに子どもたちの方へ視線を戻した。
本当になんでいるのよ……。
私は開いた口がふさがらない。
「突き!」
ビシッ、と一斉に子どもたちの拳が伸びる。
怜央はその動きを鋭く観察していた。突きの角度が甘ければすぐに手で姿勢を正し、力任せに蹴る子には「呼吸を合わせろ」と諭す。
その目は厳しいのに、正しくできた瞬間には柔らかく笑い、「よし、今のはいい」と声をかける。
――これが、あの怜央?
っていうか黒帯? 空手なんて全然できなかったのに……。
私が知っている怜央は、本当に儚い存在だった。
それなのに今、そんなことはみじんも感じさせず、子どもたちの指導者として堂々と立っている。
私はぼーっとそんな怜央を見つめていた。
「礼!」
ふいに大きな声が響けば、子どもたちが一斉に腰を折る。稽古が終わったらしい。
そのタイミングで、子どもたちの何人かが私に気づいた。
「みこ!」
わーっと駆け寄ってくる子どもたち。
その勢いに負けて、思わず笑ってしまう。
「みんな元気そうだね。上手になったなぁ」
「俺、今度六級に挑戦するんだ!」
「僕は七級! 昇級したら家族でご飯に行く約束なんだ!」
小さな体に溢れるやる気。それが眩しくてこちらまで元気になる。来てよかったと思う。
子どもたちを見送り終えると、いつの間にか怜央の姿は消えていて、代わりに兄が現れた。
「美琴、おかえり」
「兄さん、ただいま。……って、いたんだ」
兄は百八十近い長身で、私服の上からでも鍛え抜かれた体が分かる。
一度どうしても春奈が会ってみたいと言ったので会わせたが、大きめのマッチョな肉体は春奈の好みとは違ったらしい。
でも、何度も『さすがみこ先輩のお兄さま。本当にいい肉体をしていらっしゃる! 後は好みの問題ですけど、私の場合はもう少し細身なら満点です!』と言って喜んで触っていて、兄はまんざらでもない顔をしていた。
兄も、そして亡くなった父も、美人には弱い。
「っていうか、なんで怜央がここにいたの」
私が眉をひそめると、兄は当たり前みたいな顔で言った。
「二人、結婚するんだろ?」
「はぁ!?」
またそれ!?
私は思わず両手をぶんぶん振って全力否定した。
「まさか! するわけないじゃん!」
「そうなのか?」
「怜央が勝手に言ってるだけ! っていうか、その肝心の怜央は!?」
怜央の姿を探すと、兄が無造作に廊下の先を指さした。
「あっち。キッチンにいる」
「なんでキッチンにいるのよ!?」
意味が分からない。キッチンに何の用があるの、あの人。
私は眉をひそめながら、兄の後を追って歩き出した。
すると本当に、怜央はキッチンにいた。
まるで自宅のように自然に、我が実家の台所に立っている。白いシャツの袖をまくり上げ、腰には見慣れたエプロン。
フライパンを軽やかに振る手つきは驚くほど手際がよく、焼ける魚の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっていた。
思わず感心してしまったけれど、我に返って小声で兄に詰め寄る。
「ど、どうして怜央がうちで、我が物顔で料理してるのよ!」
「あいつ、少し前に退院したろ? 住んでたアパートが水漏れで住めなくなったらしくてさ。行くあてもないって言うから、うちに来させたんだ」
「そ、そうなの……」
確かに、怪我のあとで住む場所までなくなったら困るだろう。
兄が放っておけなかったのもよく分かる。
兄は昔からこういうところがある。情に厚くて、困ってる人を見捨てられない。
「新しいアパートが見つかるまで、空いてる時間は指導を手伝うって条件でな。俺だって仕方なく置いてやってるんだよ」
「……一応怪我人なんだから、こき使わないでよ」
「それは大丈夫だよ。もうすっかり回復したから」
突然、後ろから声がして、思わずびくっとした。
振り向けば、怜央本人がトレイを手に立っている。
「二人とも、昼食できたよ」
「はやっ! さっきまで指導してましたよね?」
「簡単なものだから、すぐできるよ」
柔らかく笑うその顔に優等生みたいに落ち着いたトーンで話すから、怒るタイミングを完全に失う。
「美琴、運ぶの手伝って。美琴も昼はまだだろ?」
「あ、はい……」
流されるようにして、私は皿を受け取り食卓へ。
テーブルの上には、炊きたての白飯、照りのある焼き魚、小鉢には胡麻和えと浅漬け、そして柚子の香りがふんわり立つ吸い物まで並んだ。
どれも家庭的で、やたらにおいしそうだ。
兄だけが住むこの実家の冷蔵庫に、こんな充実した食材があったとは思えない。
「……これ、本当にうちの冷蔵庫の中身?」
「買い足したよ。朝のうちに」
「え、朝に?」
「うん。今日は美琴が来そうな気がしてね」
……エスパーか。
ちょっとというかかなり恐ろしい。
その時、ぐうぅ、と私のお腹が鳴った。それを聞いた怜央は嬉しそうに顔をほころばせた。
三人で「いただきます」と手を合わせ、まずは一口。
「……お、おいしい」
思わず声が漏れた。
これは悔しいけれど、確実に私の料理より上だ。兄は深く頷く。
「そうだろ。美琴の料理より断然おいしいよな」
「なによ、失礼ね……って、私もそう思ったけど!」
「これで俺が婿入りしても大丈夫だね」
怜央がサラリと爆弾を投下してきた。
婿入りって!?
そして、まだ求婚してくるつもりらしい。
ホッとしたような、うんざりしたような、何とも言えない感情になる。
「っていうか、結婚って婿入りするつもりだったの!?」
「そうだよ。だって、ここは二人のお父さんにとっても、二人にとっても大切な場所じゃないか。ここで二人とも強くなったんだしさ」
怜央はきっぱりと言い放った。そのまっすぐな調子に、私は思わず息をのむ。
怜央、そんなふうに考えてたんだ。
「まぁ、智己(ともき)はいつ結婚するか分からないのもあるからさ。俺たちが結婚すれば子どもがたくさんできるし、道場も安心だろう」
「な、何言い出したのよ!」
子どもって……!
一瞬、怜央との家庭が頭をよぎって慌てて首を振った。頼むから、勝手に未来を捏造しないでほしい。
「だから勝手に話を進めないでくださいってば! そもそも二十年も会ってなかったのに、いきなりプロポーズしてくるとか普通ありえませんから!」
「でも、美琴の勤務先にももう話をしたし」
「怜央が勝手にね!」
怒りにまかせて焼き魚を頬張る。
……なにこれ、この味加減。おいしすぎるんだけど!
それにすら腹が立つ。
そのとき兄が思い出したように言った。
「そういえば、怜央は警視庁警備部勤務なんだろう。だから警察病院に行ったのか」
「えっ、そうなの?」
私は兄の言葉に目を丸くしたが、そんな私に兄も驚いた顔をしている。
「美琴は知ってたんじゃないのか?」
「いや……怜央、入院してた科も違うし。警察関係者じゃなくても警察病院って使えるから、まさか警察官とは思ってなかった」
そして、怜央に警察のイメージがあるかといえばなかったから、というのもある。
あの儚い美少年だった子が警視庁勤務なんて誰が予想できるの。
「でも、警視庁の警備部か……」
警視庁警備部……いわゆるSPだ。
警察の中でも精鋭中の精鋭。昔の記憶を振り払って今の怜央だけよく見てみれば、納得できてしまう。
「美琴も昔は警官になるか迷ってたよな。俺も美琴は警官になるとばかり思ってた」
兄の声が、少し懐かしそうに響く。怜央はふっと微笑んだ。
「看護師も、優しくて強い美琴にぴったりだよ」
「そ、そう……?」
「うん、そうだよ」
みんな当たり前に私は警官か武道家になると思っていたから、似合ってるなんて素直に言われたのは初めてだ。
怜央の曇りのない言葉に、胸が少し熱くなる。
その時、兄が突然ものすごい勢いで食事をかき込み始め、食べ終えると「町内会長さんに会費を届ける」と言って風のように去っていったのだ。
……これ、もしかしなくても、二人きりにしようとされた!?
確かに、これだけ強くなって、道場の指導もできる人間と結婚してくれれば、兄にとっては理想的だろう。
でも、本当にやめてほしい。
私にだって選ぶ権利がある。いや、そもそも結婚する気なんてない。
今のうちに釘を刺しておこうと、私は怜央に向き直った。
「兄さんが本気にするから、もう兄さんにも結婚なんて冗談を言わないでください」
「プロポーズなんて、冗談でできるはずないだろ」
冗談じゃないなら、なおさらタチが悪い。
ふいに怜央がすぐ目の前まで来ていた。彼の目の奥の青が深い。その瞳がまっすぐに私を射抜いてくる。
頬に触れられた瞬間、呼吸が止まった。
「俺は、離れている間もずっと美琴が好きだったんだよ。だから美琴に俺が男だってわかってもらえるくらい強くなろうって決めたんだ。強くなることが一生美琴のそばにいる方法だって思った」
そんな理由で? でも確かに、彼が昔に比べて大きくなっただけでなく、精神的にも肉体的にも強くなっているのも感じる。
気づけば、怜央との顔の距離が五センチ、三センチと縮まっていた。
なにこれ、近い! このままじゃ、キスしちゃう。っていうか本当にする気!?
もう本当に唇がくっついてしまうというところで、
「なにすんのよ!」
パシィンッ、と乾いた音が部屋に響いた。
気づけば私は、怜央の頬を思いっきり叩いていたのだ。手形が浮かぶほどしっかり打ってしまっていた。
怜央を守りたいと思ってきた私が、怜央に手を出すなんて――。
自分の血の気が音を立てて引いていくのが分かる。
だけど、怜央はというと、ゆっくりと笑ったのだ。
「ふふ……」
「な、何がおかしいのよ」
「昔だったら、俺に手なんて出さなかったよね。少しでも、俺を見る目が変わってくれた?」
それがなんでそんなに嬉しそうなのよ。
意味が分からない。私は全然嬉しくない。それなのに、怜央の目はまだ柔らかく笑っている。
まるで叩かれたことすら愛しいみたいに。
「でも、これくらいの反撃じゃ次は止められないからね。覚えてて、美琴」
そう言うと、怜央は私の左手を包み込むように握った。
握られた手が熱くなる。
私は退院した日のことを思い出していた。あのときも、こうして手を握られた。
怜央の手は、昔よりずっと大きくて力強くなっていて、振り払おうとしてもまるで鋼みたいにびくともしない。
なのにその握り方は、どこか優しくて……胸の鼓動が落ち着かない。
なんでこんなことで心臓が暴走してるのよ。
「怜央、もうやめてってば……!」
勢いよく首を振ったら、怜央はすっと手を離した。
その瞬間、息が一気に肺に流れ込んできた。無意識に息を止めていたらしい。
安堵と同時に、頬が熱くなった。
何も言えずに立ち上がり、ほとんど逃げるように玄関へ走る。
「美琴?」
「うるさい! もうここには当分来ないから、できるだけ早く出て行って。病院にも絶対来ないで!」
私は振り返らずに叫んで、走って駅まで戻ると電車に飛び乗り、その後自宅に滑り込んだ。
まだ、心臓がうるさく騒いでいる。
私は、怜央といるとおかしい。昔もまぁ、おかしかったけど、今の方がもっとおかしい。
あんな怜央、好きじゃない。
あんな変なストーカーじみた細マッチョな怜央なんて好きじゃないんだから……!
そう言い聞かせても、頬の熱はなかなか引かなかった。
何十分かして、ようやく落ち着いた頃。
今度は、じわじわと怒りが込み上げてきた。
「そもそもどうして私が、こんな目に合わなきゃいけないのよ!」
あの人の一挙一動に振り回されるなんて、もうまっぴらごめんだ。やけ酒でも飲まなきゃやってられない。
「あぁもう、ワイン開けよ!」
棚から秘蔵のボトルを取り出し、グラスを探して、ふと、左手を見た。
「……ん?」
薬指の上に、きらりと光るもの。
「これって……」
それは見慣れない指輪だった。しかもその指輪には立派なダイヤがきらめいている。
あの時、手を握られて……。
「あの時だ! あの時はめたんだ!」
マジシャンか!
「しかも、なんで勝手にこんなものはめてるのよ。それになんでサイズぴったりなの!?」
指輪そのものの高価さも、怜央の行動もかなり恐ろしい。
二十年ぶりに会ったらプロポーズしてきて、堀という堀を埋め、そして最後はダイヤの指輪。それも、私は何も納得していないままで!
「ありえない!」
私は叫んで、部屋の真ん中で崩れ落ちた。