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あなたはタイプじゃありません! 大好きだった美少年の幼なじみがマッチョな変貌を遂げて熱烈に迫ってきます 1

第一話

 

 きらめく街の光が、ガラスの向こうでにじんで揺れている。
 そんな中、目の前にいる彼女は、頬のラインも、指先の細さも、もうあの頃のままではない大人の女性になっていた。
 だけど、心の中はまだあの頃のままだ。
 今も誰かを守ることに一生懸命で、いつだって自分が守る立場にいる彼女は、俺に負けてなお昔の俺がちらついて、どうしても弱みはさらけ出せないでいる。
 だから決めたんだ。
 彼女さえ受け入れてくれるなら、少々強引にでも彼女を抱いてしまおうと。
「俺はあの約束をずっと覚えてた。そのためにずっとやってきたんだ。俺にとっては、やっとなんだ。少しずるくても、こうして手に入れたかった」
 俺が彼女に触れた瞬間、胸の奥に燻っていた二十年分の想いが溢れ出た。

 彼女の入口に自分の陰茎をあてがい力を入れると、濡れていてもきつく閉ざされていた内壁がゆっくりとこじ開けられていく。
「ぅっく……!」
 短い息を吐きながら、彼女は俺を受け入れた。苦しそうに歪んだ顔から、少しずつ変化する表情と声。
「美琴(みこと)」
 俺は彼女の手を取り指を絡める。俺のものなのか、彼女のものなのか、心臓が大きな音を立てて耳の奥で響いていた。
「俺が入ってるの、分かる?」
 彼女に分かってほしかった。
 俺が彼女の元に帰ってきたこと。俺はあの頃の俺じゃないこと。もう大人で、彼女を守れるくらい強くなっているってことを……。
「怜央(れお)……」
 彼女の涙が溢れていた。一滴も逃したくなくて、その涙を唇でぬぐう。
「好きだ。美琴、愛してる」
 少年の頃、いつだって俺を肯定し、守ってくれた腕。今、その腕も身体も全部、俺が包んでいる。やっとここに帰って来たんだ……。
 その日、ようやく俺と彼女の約束が動き出そうとしていた。


「みこーー!」
 朝の回診が終わって、スタッフステーションに回診車を戻そうとしたところで、子どもたちの元気な声が響いた。
 次の瞬間には、どすん、がしっ、ぐいっ、ぎゅううううう! と前から横から後ろから、五人の子どもたちに勢いよく抱きつかれている。
 今日も、朝から完全に包囲されているようだ。
「抱っこしてー!」
「遊んでよ、みこー!」
「みこ、また持ち上げてー!」
「だめだめ、仕事中。そんなことしたら怒られちゃうでしょ」
 私――桜沢(さくらざわ)美琴が首を横に振ると、つぶらな瞳たちが一斉に「えー!」とブーイングを奏でた。
 本当は私だって抱っこしたいし、思いっきり遊んであげたいに決まってる。
 でも現実にそれをやれば、看護師長の雷が直撃するのは目に見えている。
『看護師としての自覚が足りません!』
『子どもの遊び相手じゃありません!』
『怪我でもさせたらどうするんですか!』
『新人じゃないんですよ!』
 すべて経験済みだ。
 私は、東京都警察病院の小児外科に勤めて五年目になる看護師だ。ただ、仕事の覚えはあまりよくないし、手先も正直、不器用なほう。看護師としての成長も人よりずっと遅い。
 しかも、この部署の後輩はたった一人。その唯一の後輩が、驚くほど要領のいいタイプで、飲み込みも成長も私の何倍も早い。
 結果、怒られる率ナンバーワンはいまだに私だ。世の中は理不尽でできている。
「抱っこぐらいしてやれよ。みこなら五人まとめて軽々だろ」
 背後からのんびりした声がする。
 振り返ると、黒髪短髪の男――小児外科専攻医の乙藤壮一(おとふじそういち)が立っていた。
 身長百八十センチ、体格がっしり。通った鼻筋に黒目がちな瞳を持つ彼は、私の保育園時代からの幼馴染だ。
 だけど乙藤のほうは六年制大学を経た医師なので、この病院の勤務歴は私の方が先輩となる。でも給料は向こうが上。世の中ってやっぱり理不尽だ。
 乙藤を見るなり、子どもたちがキャッキャと笑い出す。
「この前、乙藤先生、みこに抱っこされてたー!」
「お姫様だっこー!」
「王子様とお姫様が逆~!」
 徹夜明けでふらふらの乙藤を、私が休憩室まで強制搬送した日のことを彼らはいまだ覚えていて、楽しそうに話をされる。
 指摘された乙藤は、私のせいだと言わんばかりに、私をジトッと見つめた。
 なによ。あの時は乙藤が歩けないくせに「大丈夫だから放っとけ」って言いはるから、仕方なく抱えただけでしょ。
 変なところで男気出す乙藤も悪い。同僚なんだから、素直に頼ればいいのに。
 正直に言って、乙藤は私より弱いのだ。昔からよく喧嘩したけど、二百五十八戦二百五十八勝、すべて私の勝ちである。
「何か文句があるみたいだけど、こっちの方が文句を言いたいわよ。乙藤が恥ずかしがって暴れるから余計に重かったんだよ」
「普通、男がお姫様抱っこなんてされないだろ。体重だって、どう見てもみこの方が軽いのに!」
「体重とか関係ないの。抱き上げにはコツがあるのよ。それに乙藤、男にカウントされてないから大丈夫よ」
「は? じゃあ俺は何なんだよ」
「面倒くさい幼馴染でしょ」
 私の返しに、乙藤は眉間に皺を寄せた。
 その顔がちょっと悔しそうで、ちょっとだけ昔のままだった。

「みこ先輩、そろそろ乙藤先生で手を打てばいいじゃないですか~」
 昼休みの病院の食堂に、コロコロ転がるような声が響いた。
 私の目の前には、二つ下の後輩・戸崎春奈(とざきはるな)。
 ふわふわの茶髪に、トイプードルみたいな愛らしい顔立ち。小柄で細いくせに胸だけやたら大きく、極めつけはこのかわいらしい声。
 完璧じゃないか、この生き物。
 しかも仕事までできる。病院内のモテ看護師ベストスリー入りは伊達じゃない。
 ……が。彼女には、たった一つの弱点、いや、強烈な趣味がある。
 彼女は、超がつくほどの『筋肉フェチ』なのだ。
 しかも、ただのマッチョじゃダメ。条件は細マッチョで、さらに筋肉のつき方が美しくなきゃ即アウトらしい。
 おかげでこの病院には、春奈に気に入られようとジムに通う男性スタッフが急増中だ。涙ぐましい努力である。
「春奈はどうしてそんなに乙藤を勧めてくるの」
「え~? だってみこ先輩、筋肉ない人の方が好みでしょ? 乙藤先生くらいの普通のがっしり体型ならギリOKじゃないですか。それに、幼馴染×医師×看護師なんて、漫画なら両思い確定パターンですよ~」
「そもそも職場恋愛とか面倒くさいの極みだし」
「でも、二人とも子ども好きじゃないですか~。結婚したら絶対子だくさん夫婦ですよ」
 乙藤と子だくさんの夫婦……。
 想像しようとしただけでゾッとして震えた。
「想像しようとしただけで寒気がするから無理。乙藤となんて百二十パーセントない。あいつと二人で暮らしたら一瞬で離婚よ」
「喧嘩するほど仲がいいって言うし、二人で食事もしてるでしょ? デートじゃないですか」
「食堂の食事までデート? デートって基準ゆるくない?」
「希望さえあれば、レストランでもバーでもどこでも連れて行ってやるけど。みこより給料いいんだから、おごってやるよ」
 声の主に顔を上げると、例の本人がトレイを持って登場していた。
 昔は何度も喧嘩を吹っかけられて腹がたっていたけど、大人になると収まった。しかし、なぜか代わりに、大人になってからはこういうわけの分からない冗談を言われるのでさらにウザさが増した。
「あ、お疲れさまです、乙藤先生」
「おつかれ、乙藤」
 私は乙藤の発言は無視して食事に戻った。
 乙藤は席に着きながら、息を吐く。
「で、デートはいつにする?」
「しない! そうやって言うから春奈が誤解するの。乙藤とはただの腐れ縁!」
 私はきっぱり言い切った。
 すると春奈が「えぇ~ひどい~! 乙藤先生の決死のアプローチを~」と、いかにも少女漫画ヒロイン風に唇へ指を当てる。
 ……いや、何がひどいのよ?
「アプローチって……そんな事実ないでしょ。春奈は本当に恋愛脳なんだから」
 春奈は恋バナが大好きだ。なんでも恋愛に結び付けたがる悪い癖がある。
 私だって恋バナは嫌いじゃないけど、自分事になると途端に億劫になる。
 前の彼氏と別れてから、恋愛は優先順位の最下層に落ちた。
「彼氏いなくても全然困らないし、もう当分いらないって思ってるのよね」
「いや~、みこ先輩の場合は、早く現実で手を打たないとまずいと思いますよ。だって、二十年も前の初恋の美少年を引きずってるとかヤバすぎますもん」
「引きずってないし!」
 言い返したけど、春奈の目が完全に『図星ですね』と言っている。
 やや焦り気味に弁明する。
「たまに思い出すだけよ。元気かな、とか。かわいかったな、とか」
「それを引きずってるって言うんですよ~。しかもせっかくできた彼氏とも別れたし、もったいない~」
「別れたのは別の理由よ!」
「ほんとに~?」
「ほんと!」
 三か月前、数合わせで行った食事会で出会った男性と、その日のうちに連絡先を交換し、すぐに「付き合ってほしい」と告白された。
 私はもう「誰とも付き合ったことがありません」では恥ずかしい年齢に差しかかっていて、嫌いじゃなかったからとりあえずOKした。
 だけど結局、二か月を過ぎた頃……つまり先月お別れしたところだ。
 そして今、「初恋こじらせ系看護師」という不名誉な称号を春奈に与えられている。
「春奈だって誰とも付き合ってないじゃない」
「私は理想の相手を探してるんです~。まぼろしの初恋とかじゃなくて、ちゃんと現実を見て!」
 春奈が胸を張る。物理的に迫力あるな。
「スポーツジムにめちゃくちゃ好みの筋肉のインストラクターがいるんです。彼も私に興味あるみたいで、きっともうすぐ絶対付き合います!」
 きっと、と、絶対、は共存するらしい。
 とにかくすごい自信だが、春奈が言うとそうなる気がする。
「でも珍しいね、ジムで見つけるなんて。今まで警察関係ばかりだったのに」
「もう比べ物にならないすばらしい筋肉なんですよ! 見た瞬間、雷に打たれたかと思いました!」
「それはすごいね」
 私は笑ってお茶をすする。
 つい、今もどこかで春奈のために走り続けている当病院のスタッフに想いを馳せていた。
 いつかその無駄につけてしまった筋肉を好きになってくれる女性を見つけてほしい。
 そんなことも知らない春奈は人差し指をたて、私にずい、と顔を寄せる。
「ちなみに、今年の警察の推しは刑事部に異動してきた新垣(あらがき)さんです~。既婚者なんで残念ですが。他にも、海外帰りの引き抜きのエリートも一人いるらしいって噂では聞いてはいるんですよ。ただ、まだ部署も顔も体もチェックできてないんです」
「春奈がチェックできてないとか珍しい。春奈の筋肉調査網ってほんと刑事以上だもんね」
「みこ先輩みたいに強かったら、私はきっと刑事になってましたよ! 高校で空手部主将、インターハイ出場、黒帯初段ってすごすぎでしょ。なんで警察に入らなかったんですか。筋肉まみれの生活ができましたよ!」
「ハハ……いや、警察はいいけど、筋肉まみれになりたいわけではないってば」
 筋肉には興味ないけど、確かに警察官も考えたことはあった。
 しかし父の病気がきっかけで看護師になると決めたのだ。
 母は私が三歳の時に事故で亡くなり、そして父は私が高校生の時に病気になった。父は亡くなるまで長く入院していた。
 もう回復が見込めず、弱っていく父を見ているのは辛かった。そんな中、兄は父の大事な道場を継ぐ決意をした。
 私には何もできない……。それがとにかくもどかしく思っていた時、看護師さんに『美琴ちゃんはお父さんの心を支えてあげているわ』と励まされた。
 その看護師さんは、父の心も優しく支え、そして辛い身体にも寄り添ってくれていた。それを見て、私は自分の進路を『看護師』と決めたのだ。
 人を守る仕事をしたい気持ちは同じ。でも、心身の健康を支えるのも大切な守り方だと思ったから。
「そういえば、みこ先輩の初恋の人、乙藤先生も知ってるんですよね?」
 急に話を振られて、それまで唐揚げ定食を頬張っていた乙藤が顔を上げた。
「ああ、知ってる。俺たちが小一の頃にイギリスに引っ越した剣持(けんもち)怜央な。線が細くて、女子より女子。いかにもみこが好きそうだった」
「乙藤は『オトコオンナ』とか言ってからかってたじゃない」
「だって二歳上なのに、みこに守られてたんだぞ? どう考えても変だろ」
「変じゃない。乙藤がからかって泣かせてただけでしょ」
「なんだと」
 言い合いに発展しかけた瞬間、春奈がため息をつく。
「よく覚えてますねぇ。私、小一なんて記憶ゼロですよ」
 たしかに。隣で乙藤も頷いた。
「不思議と怜央のことはよく覚えてるんだよな。俺、記憶力いいからだろうけど」
「私は逆にあの頃だけが鮮明で、それ以降がぼやけてる気がする。乙藤って怜央へのあたりが一番きつかったもん。あれはひどかった」
 怜央をからかう乙藤に心底腹を立てていた記憶も、乙藤の顔を見ているだけで嫌でも鮮明に蘇ってくる。
 怜央は兄の友人で二歳年上だったけど、美少年という形容にふさわしい男の子だった。一種独特のオーラを纏っていて近寄りがたかったせいか、同級生の男の子たちにはなかなか溶け込めなかった。そんな怜央を乙藤はよくからかっていた。
 だからか、私の乙藤に対する態度は他の人のそれより厳しい。
 すると春奈がまた指先を唇に当てる。
「先輩、いまだにクマのキーホルダーつけてますよね。あれ、その初恋の彼にもらったやつでしょ? それが原因で忘れられないんじゃないですか。もう捨てちゃえばどうですか?」
「俺があげた怪獣ストラップは秒で外されたけどな」
「乙藤のはセンスがなかっただけよ。クマは……ただ気に入ってるの!」
 声が裏返った。
 そのキーホルダーは怜央がイギリスへ行く前にくれたもの。
 糸がほつれたら自分で縫って、何度も洗って、ずっと使ってる。
「『これは僕があげたものじゃないか! 君は美琴だね! 会いたかった。結婚しよう!』――みたいなシンデレラ展開は起こりませんよぉ」
「そんなの分かってる!」
 兄は彼と時々電話で話しているようで、元気でいるみたいだと聞いていたから安心もしていた。
 私は、怜央は日本には帰ってこないだろうと分かっていた。彼からしたら日本にはいい思い出がないからだ。
 でも、大人になって白馬に乗ってる怜央の姿は、どうしても想像しちゃう。
 だって怜央は本当にかわいくて天使みたいだったんだもん。
 長いまつ毛、白い肌、細い手足。そして何よりも宝石のように綺麗な青い瞳。白タイツまで恐ろしく似合うだろう。
 絶対王子様みたいな男性に成長しているはず。
 うっとり妄想に浸っていたら、口が半開きになっていたようだ。
 乙藤が力強く私の顎を戻し、幻想をぶった切るように声を上げた。
「本当にそろそろ現実を見ろ。みこの兄貴、結婚しろってうるさいんだろ?」
「まあね。両親もいないし、兄が心配してくれてる。でも、前の彼氏はその兄に反対されて終わった感じ」
「線が細すぎて無理だって思ったんだろう。だって道場経営じゃん。継いでほしい気持ちだって少なからずあるだろう?」
「そうなのかなぁ……」
 兄は彼氏ができたと聞いて喜んでたのに、会わせてから突然「別れたほうがいい」って言い出した。
 乙藤の言うように、線の細い彼氏だったからダメだったのだろうか。
「ま、みこみたいな美少年好きの変態は結婚できねぇよな。仕方ないから俺がボランティアで結婚してやるよ」
「絶っっっ対お断り! それに変態じゃないし。守りたいだけだし!」
 ここだけはしっかり言わせてもらおう。
 私はただ、かわいくて儚いものを守りたいと思っているだけだ。手を出したいだなんて思うこともないし。
 あの時も、そうだった。普段から怜央を守りたい気持ちでいたけど、怜央の両親が亡くなった時、泣くこともできない怜央を見て私はこれまでよりも強く彼を守ってあげたいと思った。
 それなのに、イギリスの祖父に引き取られることになった怜央とは離れ、もう守れなくなることが何よりも悔しかった。
「怜央は大好きだったよ。でも今も好きかって言われたら違う。私が怜央を守りたかったっていう強い思いが残っているだけだと思う」
 ――怜央、絶対に帰ってきて。そしたら私が一生守るから。
 私は彼と約束をした……あの日の自分の強い気持ちを忘れられないでいるだけだ。

 夕方。外来からスタッフステーションに戻ったら、春奈がわたわたしていた。
「どうしたの?」
「あぁ、みこ先輩~。ソウヤくん、今から緊急オペで……でも親御さんとまだ連絡が取れないんですぅ。しかもこれから救急に新患のお迎えもあって……」
「新患? 申し送り出てたっけ。いい、迎えは私が行く。春奈はご両親に電話し続けて」
「でも先輩、もう上がりの時間……」
「大丈夫。迎えはすぐ終わるし。カルテどこ」
「これです」
 電子カルテを受け取る。
「『五月涼(さつきりょう)くん、八歳。昨夜、車との接触で左大腿骨複雑骨折。救急搬送。夜勤の乙藤先生が初療』ね。うん、乙藤が主治医、担当看護師は春奈か。了解、行ってくる。連絡は頼んだ」
「ありがとうございます!」
 うちの救急は大きくない。大人も子どもも、簡易の仕切りで同じ部屋に並ぶ。だから子どもは特に、一刻も早く迎えに行きたい。
 私はすぐに準備を整えて一階にある救急へと向かった。
 そして救急に入った瞬間、視線を奪われる。
 白く細い手足。つぶらな瞳。さらさらの髪の少年がそこにいたのだ。
「れ、お……?」
 ぶんぶん首を振る。違う違う。顔つきも年齢も別物。怜央のはずがない。
 今日、昼にあんな話をしていたからつい怜央に重なっただけだ。
 雰囲気は似てても、黒目がちの瞳が何よりも違うのに……。
 ごほん、と一息入れて気持ちを整える。
「五月涼くんだよね。私は小児外科の桜沢美琴。みんなにはみこって呼ばれてるよ。よろしく」
 こくん。
 かわいいな……。
「涼くん、三年生だって?」
 こくん。
 尊い……。
「足、昨日手術したんだよね。今、痛みはない?」
 こくん。
 ……天使か。いや仕事しろ私。
 声をまだ聞いていないのが少し引っかかったところで、救急の看護師に呼ばれた。
「申し送りです?」
「えぇ。涼くん、脳の損傷はないんですが、声が出ません。こちらで診断はまだ出てませんが、いわゆる失声症の診断が出ると思います」
「事故のショックで、ですかね……」
「ええ。突発的なものではないかと思いますが……以後ケアはそちらでお願いします」
「任されました」
 いつかこの子がどんな声で笑うのかちゃんと聞きたい。そんな看護師の欲が出た。
「よーし、小児外科に行こう。七階までエレベーターね」
 涼くんの元に戻って車いすを動かそうとした瞬間、涼くんの視線が隣のベッドへ吸い寄せられた。仕切りの向こうに、大人の男性の足が見える。
「隣の人と仲良くなった?」
 こくん。
 入院中に話しかけてもらったりしたのかもしれない。私は微笑んだ。
「じゃ、挨拶してこ」
 私は「失礼します」と仕切りを動かした。
 ベッドの上にいたのは、ブラウンがかった髪に同じ色で意志の強そうな眉。高く通った鼻筋に形のよい唇をしたやたらと長身の男性。
 細身に見えるのに、筋肉はしっかりついている。
 それは、昔、春奈が力説し、『筋肉をつけるために運動をしたんじゃなくて、激しい運動を続けていたらついたようなこういう筋肉がいいんですよ~』と見せられた写真の男性の筋肉に似ていた。
 細マッチョってやつだし、これは春奈が絶対好きなタイプだ……。
 思わず、後で報告しようと考えた瞬間、彼の左腕のリストバンドが目に入った。
【ケンモチレオ】
 ――え? 剣持怜央……?
 初恋の彼と同じ名だ。
 しかし、見た目はまったく違う。目の前の男は、銃弾を受けても倒れなさそうな強靭な体躯をしていた。本物の怜央なら、銃弾どころか、少し強い風でも倒れるだろう。
 そもそもこんなところに怜央がいるはずがない。間違いなく赤の他人だ。
 そう思った瞬間、彼とバチッと目が合う。
 その瞳の奥が、青く光っていた。この色って……。
「美琴?」
 あれ? 今、この人、私の名前を呼んだ?
 いや、いやいやいや。まさかまさか。
 一緒なのは目の色だけ。顔も体も声も、全部違うじゃない。絶対違う。違うに決まってる。
 私の気持ちが整理できる前に、彼はずけずけと口を開いた。
「覚えてない? 俺、昔、隣に住んでた剣持怜央だよ」
 本人じゃないのよーーーーーーー!!!
 私はあまりの事態に声が出ず、口をパクパクと金魚みたいに開けては閉めて、を繰り返した。
「美琴?」
「こ、こんなところで、なにして……」
「ああ、仕事中に怪我してさ。美琴は? ここで――」
「し、失礼します!!」
 涼くんには申し訳ないけど、私は超高速で小児外科に彼を連れ帰った。
 気がつけば涼くんはちゃんと部屋に収まっていて、気がつけば涼くんの担当の春奈に申し送りをして、気がつけば私は病院を飛び出していた。
 オートで動く自分って怖い。
 そして自宅マンションの自室に入るなり、玄関で鞄を放り投げ、髪をかきむしりながらぐるぐる歩き回っていた。
「悪い夢。あれは悪い夢。ぜったい悪い夢……!」
 だって。だってあの怜央が。か弱い、守ってあげなきゃいけない儚げな美少年が!
 あんな男らしく、背が高く、筋肉までつけて成長してしまったなんて、絶対夢でしかない!
 誰か、あれは全部まぼろしだって言って!

 翌日、私は昨日のことを「夢」だと信じて出勤した。
 あんな変貌、現実であるはずがない。白昼夢だ。幻覚だ。疲労のせいだ。そうに決まってる。
 しかし、現実はそう甘くなかった。
「美琴、待ってたよ」
 いるーーーーーー!!!
 朝イチの小児外科に剣持怜央本人が堂々と立っていたのだ。
「こ、こんなところで何して……! 救急でしたよね!?」
「俺も昨日から一般病棟なんだ。この下の整形外科」
「じゃあ、すぐに戻ってください! 他の階に来るのは許されてませんよ!」
 毅然とした態度のつもりが、声は震えまくっている。
 もう動揺だか、なんだか分からないけれど、色々と漏れそうだ。
 そんなギリギリで危険な状態の私とは対照的に、怜央は落ち着き払って堂々と立っていた。
 あの頃とは比べ物にならないくらいに伸びた背。百九十センチほどだろうか。百六十センチの私では完全に見上げる形になる。
 彼は青い瞳をまっすぐ私に向けた。
「ねぇ、美琴」
「な、なんですか……」
「戻ってきたからさ。一生守るって約束、果たしてもらってもいい?」
 ――怜央、絶対に帰ってきて。そしたら私が一生守るから。
 その約束、怜央も覚えてたの?
 で、ちょっと待って。あの約束、覚えてるってことは……本人、確定じゃん。
 いや、いやいや。本人だとしても、あなたには必要なさそうな約束じゃん。
「い、今のあなたは守る必要、全然ないように見えますけど」
「一生守るっていうのは、結婚するって意味でしょう」
「け……!? ぜ、全然、違うわよ!?」
 どうしてそういう飛躍した発想になってるの!?
 しかし、混乱している私を前に、怜央は顔をすっと近づけてくる。
 昔の怜央にされたなら赤くなって目を逸らしただろう。でも今の私は、逆に血の気が引いて真っ青だ。
「違わないよ。一生、なんて他に意味はないでしょう」
 そう言って、次の瞬間抱きしめられた。ぎゅっ、て。ぎゅううううって。
 いやいやいや。何やってるの、やめて!
 そう思うのに、身体はうまく動かない。頭の中がグルグル回っていた。さらに――。
「美琴、ずっと会いたかった! 俺と結婚しよう!」
 怜央が小児外科病棟の中心で愛を叫んだせいで、廊下にいくつもの顔が出てきた。
 子どもたちは、突然のラブストーリーの勃発に目を輝かせている。
「みこがラブラブしてるー!」
「きゃー!」
「みこ、結婚するの!?」
 さらに背後からは……。
「みこ、おまえ何やって……!」
「先輩、うそっ! なにそのベスト筋肉!」
 乙藤と春奈まで……。そして……。
「桜沢さん、職場でいかがわしい真似をして何を考えているんですか!」
 師長もいる。

 考えうる限りで一番、最悪の状況が完成していた。
 桜沢美琴、二十六歳。
 ちょっと前まで付き合っていた彼氏は、昔の怜央に少し似た線の細いタイプ。
 でも今、私を抱きしめているのは、儚さゼロの、完全に別ジャンルのベスト筋肉に成長した本物の怜央。
 そしてさっきから顔に当たっているのは逞しすぎる彼の胸板だ。
 どうしていいか分からない。どうしてこれが夢じゃないのか分からない。
 全部全部分からない。分かりたくもない。
 本当に、なにがどうしてこうなった……?
 そして、私の意識はふっと遠のいていった。


 二十年前――怜央はよくからかわれていたから、私はよく怜央と一緒に帰っていた。
 いや、嘘だ。
 本当はただ、私が怜央と一緒に帰りたかっただけ。
 一秒でも早く、一秒でも長く、怜央の隣にいたかった。怜央を守っていたかった。
 その日も私は、校門を出たところで怜央の姿を見つけ、ランドセルを揺らしながら全速力で駆けだした。
 けれど、怜央の前に立ちはだかる影があった。乙藤を中心とした、悪名高い一年生男子グループだ。
「こいつ三年生のくせに、超弱っちいんだよな」
「また乙藤たち! いい加減にしなさい!」
 すぐに駆け寄り、私は乙藤に向かって仁王立ち。乙藤は一瞬怯んだようだが負けていない。いつもの生意気な笑みを浮かべる。
「うるせーな、ゴリラ女! いつも俺たちの遊びを邪魔しやがって!」
「これが遊び? 最低ね!」
「なんだと!」
 乙藤が拳を振り上げる。その瞬間、私も無意識に足を構えていた。
 いつでも来なさい。絶対負けないんだから。
 そう思っていた時、怜央が私の腕を掴んだ。
「美琴ちゃん、だめだよ!」
 振り返った怜央の青い瞳は、水面みたいに揺れていた。
 しまった。怜央を心配させた。そう気づいた途端、私は拳を下ろした。
「ごめん、怜央。もうやめる」
「弱虫美琴! オトコオンナと仲良くしてるから、お前まで弱虫になったんだろ!」
 ……乙藤、ほんと人の怒りスイッチを押す天才か。
 私は我慢しきれず、再び拳を握る。
「弱虫は乙藤のほうでしょ。だからいつも群れてるのよ。一人じゃ私に勝てないもんね?」
「か、勝てるし!」
「へぇ、なら今度こそ一人で来なさいよ。私、逃げないから」
「ほんっと生意気な女!」
 一度拳を戻したとしても、最終的には喧嘩に発展するわけで……。
 いつも圧勝! っていうわけにはいかないけど、私は乙藤に喧嘩で負けた経験は一度もない。
「お前なんて女でもないからな!」
 その日も同じようなセリフを吐き捨てて、乙藤たちは逃げていった。
「次やったら承知しないからね!」
 ……まあ、間違いなくまたやるんだけど。
 深く息を吐く。クラスの男子って、どうしてこうもバカなんだろう。
 兄も似たようなところがあるけど、少なくとも弱い者いじめだけは絶対にしない。
 ――武道をやる者は、自分より弱いものに手を出さない。挑むのは、いつも自分より強い相手だ。
 それは父が何度も言っていた言葉で、兄と私はその教えを叩き込まれていた。
「乙藤たちって最低よね。ホント、大嫌い!」
「美琴ちゃん……」
 怜央が眉を下げている。それを見て、私はハッとした。
 あぁ、まただ。怜央が止めたのに、私、結局喧嘩してる。
 当時の私は、カッとなるとブレーキが効かなかった。いや、今もそうかもしれない。
「ご、ごめんね。結局やっちゃった」
「俺こそごめん……」
「なんで怜央が謝るの? 悪いのはあっちだよ」
 そう言って改めて怜央を見た瞬間、息をのんだ。
 白い肌、細い手足、大きな青い瞳、さらさらの髪……。本当に、天使みたいな子だ。今日もこの綺麗な子を守れてよかったと思う。
 すると怜央も、まっすぐ私を見返してきた。
 いつも自分は怜央を隅々まで見ようとしているのに、怜央にこちらを見られるのはなんだか居心地が悪い。心臓がいつもより忙しなく動いた。
「な、なに……?」
「美琴ちゃん、怪我してる」
「え? 怪我?」
 見れば、右ひじの裏から血がにじんでいた。たぶん、さっき乙藤に掴まれたとき擦ったんだろう。
「こんなの平気だよ。舐めとけば治る!」
 そう言って舐めようとしたが届かない。
 帰って洗えばいいかと思った瞬間、怜央が私の腕を取って顔を近づけた。舐めようとしているのだとすぐに分かった。
「れ、怜央! だめ、汚いから!」
「でも、美琴ちゃんさっき自分で舐めようとしたじゃない」
「それは自分のだから! 怜央は違うの!」
 私はもうすっかり慣れっこだけど、怜央みたいに綺麗な子には、絶対に血も泥も似合わない。
 止めようとしたのに、怜央は真剣な顔で言った。
「美琴ちゃんに、汚いところなんてないよ」
 その一言で、これまでとは違う音で心臓が鳴る。
 ……何この感じ。
 怜央がさらに顔を近づけて、唇が触れる寸前に私は思わず身体を翻した。
「ご、ごめん! やっぱりだめ! 怜央はそんなことしちゃだめ!」
 次の瞬間には、全速力で走り出していた。
 顔が熱い。心臓が暴れてる。息ができない。
 そして何をしていても、怜央のさっきの言葉が頭の中を占拠した。
『美琴ちゃんに、汚いところなんてないよ』
 ――これ、なに? 私、どうしちゃったの?
 なんだかこれ以上は知っちゃいけない気持ちになって、それにふたをするように稽古に励んだ。
 がむしゃらに身体を動かしている時だけ、いつの間にかあの妙な感覚は消えた。
 とにかく、もっともっと強くなろう。
 これからも怜央を守れるように。乙藤なんかには負けないように……。

 翌朝、登校途中の角を曲がったところで、怜央がいつものように待っていて「おはよう」と笑った。
 その顔を見ていたら、守らなきゃって強く思って、それと同時に一緒にいられることが嬉しくなる。
 並んで歩くと、私のほうが頭一つ分高くて、「姉弟みたいね」「お姉ちゃんと一緒なんだね」と声を掛けられることもあった。
 怜央はそのたびに少しだけ唇を尖らせて「早く大きくなりたい」と呟いた。
 私は笑って、いつも同じ言葉を返した。
「そのままの怜央でいいよ」
 本気でそう思っていた。
 このままの怜央で、ずっとそばにいてくれたらそれでいいと。
 今になって思えば、あの頃の私は、自分が怜央を守ってさえいれば、彼とずっと一緒にいられると信じていたのだ。

 やがて、夏休みが始まった。
 怜央は突然、数週間の旅行に出かけた。
 それだけのことなのに、私は胸の奥がぽっかりと空いたように寂しかった。
 どうしても落ち着かなくて、空手の稽古に打ち込んで気を紛らわせていたら、低学年の部で優勝した。
 嬉しさと共に「早く怜央に報告したい」という気持ちでいっぱいだった。
 だってそれを知った怜央はきっともっと安心して私に守らせてくれるだろうと思ったのだ。
 やっと帰ってきた怜央は、私の優勝を聞いて「お土産のつもりだったんだけど、お祝いになったね。おめでとう」と言い、小さな包みを差し出した。
 中には、イギリス土産のテディベアのキーホルダー。
 その青い瞳は、怜央の瞳と同じ色をしていた。
 怜央は祖父がイギリス人だと聞いたことがある。夏休みに入ってすぐ、その祖父に会いに行っていたらしい。
 けれどそれが、怜央からもらった最初で最後のプレゼントになった。
 怜央の両親が突然の事故で亡くなり、すぐに彼はイギリスの祖父に引き取られることになったのだ。
 引っ越す前夜が、両親の葬儀の日だった。
 怜央は泣きもせず、ただ静かにその光景を見つめていた。
 誰よりも小さな背中があまりにも静かで、見ているだけで胸が痛くなった。
 私は怜央の隣に立ち、何も言えずにいた。
 両親を亡くしたことも、明日には彼が自分の目の前からいなくなることも、現実だと分かっていても受け入れたくなかった。
 気づけば、怜央の右手をきゅっと握っていた。
 初めて触れたその手は、驚くほど小さくて、細くて、冷たかった。胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
 一人で泣くこともできない怜央。この子は、これから誰に守られるのだろう。
 本当は、私が守ってあげたかった。ずっと守っていてあげたかった。
 そう強く思った瞬間、怜央が、私の指を握り返した。驚いて顔を上げると、怜央はまっすぐな瞳でこちらを見ていた。言葉が勝手にこぼれる。
「怜央、絶対に帰ってきて。そしたら私が一生守るから」
「うん、絶対帰ってくる。約束だよ」
 ずっと黙っていた怜央が、小さな声でそう答えてくれた。
 その瞬間、目の奥が熱くなる。
 どうして私たちはまだ子どもなんだろう。
 もし今、私が大人だったら、怜央のそばにいて守ってあげられたのに……。
 悔しくて、寂しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
「……っく」
 慌てて息を止める。泣き声を出したら、怜央に泣いていることに気づかれてしまう。
 弱い自分を見せたくなかった。
 彼を守ると誓ったなら、彼の前で泣いていちゃだめだ。
 だけど涙は止まらなくて、もう泣くのはこれで絶対に最後にすると決めて、声を押し殺して泣いた。

 あれは、小学一年生の夏の、小さな小さな恋心だった。
 けれど今になって思えば、それは「好き」というよりも、「彼を守りたい」という気持ちばかりだった気がする。
 そんな幼い恋は、本来なら浜辺に描いた線みたいに、あっという間に波にさらわれて消えていくものなのだろう。
 いつの間にか記憶の砂に埋もれて、気づけば忘れてしまう……それが普通の成長の形だ。
 でも私は、なぜか忘れられなかった。
 あのときの光景も、声も、約束の言葉も、ずっと心に残ったままだった。
 二十年が過ぎ、二十六歳になった今でも、あの夏の続きに自分の一部が取り残されている気がする。
 もちろんこれまで、「いいな」と思う人がいなかったわけじゃない。
 中学のとき隣の席になった男の子。高校で同じ部活だった先輩。そして、社会人になって初めて「好き」と言われた人。
 気づけば、どの人も怜央に似ていた。
 細くて、儚げで、どこか守ってあげたくなるような人たち。
 そして彼らと過ごしていても、心の奥ではいつも比べていた。
 笑った顔、うつむく姿、沈黙の間……どれも怜央とは違うって。
 キスのときでさえ、瞼の裏に浮かんだのは二十年前の怜央の顔だった。
 そのたびに、自分でも呆れるほどに過去に縛られていると気づく。
 私の初恋は、ずっと心の奥底で形を変えながら、今まで静かに生き続けていたのだ。