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俺だけのものになってよ 独占欲強めの社長と極甘同棲中です!? 1

第一話

 

 青山にある人気の美容院エトワール・アンジュ。
 カットが上手だとSNSで有名になった店長が個人で開いた小ぢんまりしたお店だ。店は小さいものの予約困難の超人気店。その店に入社して二年の私――小橋瑞穂(こばしみずほ)には密かな楽しみがある。
「上白石(かみしらいし)さま、いらっしゃいませ」
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
 毎月来る常連の上白石征也(まさや)さんは、この近くで会社を経営している青年実業家だという。あまりプライベートな話を踏み込んで聞かないので、大まかな情報しかないけれど、自身で事業を立ち上げて成功を収めている人らしい。
 年齢は三十二歳。身長は百七十五センチの店長よりも高いので百八十センチほど。足が長くてスタイルがよくて、シンプルな服装だけど上質で品のある装いで清潔感が溢れている。
 顔はきりっとした目元が印象的で、俳優だと言われたら信じてしまうほど男らしくて整った顔立ちをしている。鼻筋も通っているし、形のいい唇もバランスよく顔の中に配置されている。
 こんなに格好よくて非の打ち所がない男性を見たのが初めてで、近くにいくと自然と意識して緊張してしまう。
「今日もシャンプーは、小橋さんが担当してくれますか?」
「はい。あと、ヘッドスパも私がさせていただきます」
「そうですか、よかった。よろしくお願いします」
 にこっと微笑みかけられて、その素敵なスマイルに胸が撃ち抜かれる。
 きっと仕事中じゃなかったら、腰が砕けてその場に崩れ落ちていただろう。そんな姿は見せられないと必死に平然を装うけど、心臓は早鐘を打ってうるさいほど音を立てていた。
 彼のシャンプーとヘッドスパを担当させてもらって早一年。
 最初は死ぬほど緊張していたけれど、最近では自分らしく上手に施術をできるようになってきた。
「では、始めますね」
「はい」
 シャンプー台に座った彼の顔にガーゼをかけて、今日も心を込めてシャンプーをする。三週間に一度の間隔でうちの店に通っている上白石さんは、仕事が多忙で疲れているらしい。
 その疲れを癒すことと、身なりを整える目的で短いスパンで通ってくれているのだと聞いた。
「小橋さんにヘッドマッサージをしてもらったら、頭痛が治まるんです」
「本当ですか? それはよかったです。確かに、凝っていらっしゃいますね」
 デスクワークを中心にしている上白石さんは、頭や首、肩にかけて凝っていることが伝わってくる。マッサージしていると、緊張した筋肉がほぐれて柔らかくなっていくので、きっと頭痛も緩和されるのだろう。
 ヘッドマッサージの勉強をし、どうすればお客様が喜んでくれるのか、一生懸命研究して今に至る。だから毎回指名してもらえるほど成長したのだろう。それが嬉しくて、より集中して施術に励む。
 私――上白石さんのこと、きっと好きだ。
 でもこれは絶対に態度に出してはいけない。私と上白石さんは店の従業員とお客様だから。
 変なことをして店に迷惑をかけられないし、上白石さんが来られなくなるのは嫌だ。
 会えなくなるくらいなら、この恋心は隠したままでいよう。
 仕事に集中して、一生懸命頑張るのみ。
 そう思っていたのに――
 まさか一ヵ月後、事態が急変することになろうとは。
「俺の家に住めばいい。一緒に住もう」
 行き場をなくした私に、そう言った彼は、真剣な眼差しで私に迫ったのだった。


 朝、通勤時に急に降り出した雨のせいでしとどに濡れたシャツが体に張り付いて、不快感が半端ない。非常時用に持ち歩いている折り畳み傘では凌げないような激しい雨に打たれ、心が折れそうになっていた。
「はぁ……髪も濡れちゃったし最悪」
 せっかくヘアセットしてきたのに、と残念に思う。でも、店に着けばドライヤーがあるし、ヘアセットもやり直せる。
 予備の服もロッカーに置いてあるので、着替えれば今日の仕事に支障はないだろう。
 天気予報では、ここまで激しい雨が降るなんて言っていなかった。今や警報級の大雨になっていて、お客さんが来店できないのではと心配になるくらい降っている。
 店の前に着き、従業員入口のほうへ駆け足で向かう。小さな屋根の下に隠れて、店の鍵を取り出して開錠して中に入った。
「あれ……?」
 冷房の効いていない店内から、むわっとした熱い空気が迫ってくる。灯りを付けて中を見てみると、いつもの光景ではなくなっていた。
「何、これ」
 設備が何一つない、ガランとしている広々とした空間が広がっている。大きな壁かけ鏡や、お客さんが座るソファ、シャンプー台。観葉植物たちも、何もかもがない。
 空き店舗の一室と化していて、状況が呑み込めなくて立ち尽くす。
 一体何が起こっているのか。
 昨日までヘアサロンとして運営していた場所とは思えない様子に混乱し始める。
 そうだ、店長に事情を聞こう。
 バッグからスマホを取り出し、急いで電話をかける。しかしコール音が鳴り続けるだけだった。
「まさか……移転? いや、まさか……」
 私たち従業員に何も告げずに、そんなことあり得ない。だけど、ここはもぬけの殻。
「夜逃げ……とか」
 ドラマで見たことのあるシーンを思い出して、そんなことを口走ってみるものの、やはり考えにくい。けど、店の中に何もないから、そうなのかもしれない。
「あ、あれ。何だろう」
 部屋の隅に三つの紙袋を見つけ、覗いてみると、私のロッカーに入れていた私物が入っていた。他の二つも他のスタッフのものだった。
 さっき考えていたことに信憑性が増してきた。
「雨やばー! 何なの、この雨、マジ最悪……って、……ナニコレ」
「おはよー! え? ええええー?」
 あとの二人の従業員も到着し、私と同じように驚いて固まる。一人は男性、もう一人は女性の先輩だ。
「ヤバいですよね。これ、倒産みたいなやつですか?」
「嘘でしょ。これ……店たたんだってこと?」
「急に閉店とかあり得ない」
「そういうこと……だよね。この状況じゃ、営業なんてできないし」
 外は大雨、中は空調の効かない何もない部屋。エアコンすら撤去されている状況で、ここに残された私たち従業員は、どうすればいいか頭を悩ませた。
「これ、どうしたらいいんだろ。俺ら詰んでるよな」
「顧客リストが入ったパソコンもないし、連絡先も分からない。ネット予約の管理は店長のアカウントだし、私たちでは触れないから、どうすることもできないね」
「店の前に張り紙をしたいですが、今日は大雨だし無理ですね」
 きっと簡易の張り紙をしても、紙が濡れて飛ばされていくのが目に見える。数日後に張り出すほうがいいだろう。
「うちの店、経営難だったとは思えないけどね。連日予約でいっぱいだったし」
「そうですね」
「なのに、急に閉店になるなんて、どういうことなんだよ。俺ら、職を失ったってことだよな。今月の給料もなし? そんなことある?」
 先輩に言われてハッとする。
 急に店長がいなくなったってことは、給料を支払う人がいなくなったということだ。
 自分の住んでいるアパートの家賃も光熱費も支払わないといけないのに、給料が支払われないなんて、月末死亡確定だ。そんなの嘘だ、と頭を抱える。
「お給料なしになるんでしょうか」
「店長連絡つかないー! メッセージ送っても既読になんない」
「終わってる……最悪すぎて言葉が出ない……」
 私たちは大きなため息をついて、床に座り込む。
「そういえばさ、長谷川(はせがわ)さんが独立するって言い出して、うちのスタッフを引き抜きしたって噂じゃん。本人たちは否定しているけど、きっと引き抜かれてるよな」
「そこから店長の様子がおかしくなってたのはあるね」
 うちのスタイリストは今一緒にいる男性スタッフの京本(きょうもと)さん、女性スタッフの刈谷(かりや)さん、そして今名前の挙がった女性の長谷川さんだった。その長谷川さんが先月急に独立するので退職すると言い出したのだ。
 それに次いで、アシスタントの女性二人も急に退職することになった。理由としては、一人は「親の介護をすることになって地元に帰ります」で、もう一人は「美容師に向かないので辞めます」だった。
 そういうわけで、店長と京本さん、刈谷さん、私の四人になった。三人の退職に伴い、激務になっていたし、毎日残業続きで大変ではあったけれど。
 だからといって、突然閉店になるなんて信じられない。
「とにかくここにいても仕方ないし、一旦解散しようか」
「そうだね。また何かあったら連絡するよ」
「はい」
 外を見ると、少しだけ雨が弱くなっていた気がして、私たちはそれぞれの荷物を持って店をあとにした。
「はぁ……」
 これからどうしよう。
 今月の給料が支払われるか分からないし、未だ店長から音沙汰もないままだ。もしかしてサプライズで移転したんだ、と驚かされるのではないかと思いつつも、そんな連絡もない。
 翌日になっても状況は変わらずで、店にもう一度行っても、昨日のままだった。せめて張り紙だけでもしておこうと「臨時休業」と書いた紙を貼っておいた。
 きっとお客さんたちも怒ることだろう。せっかく予定を空けて美容院に来たのに、臨時休業の張り紙だけだなんて。
 そういえば、今日は上白石さんの来店日だったような気がする。
 いつも予約時間の十分前には到着し、丁寧に挨拶をする。どの従業員に対しても優しく声をかけてくれて、にこやかに話しかけてくれる人だった。
「時間までは覚えてないけど……きっと今日だった」
 このまま店の前にいたら会えるかもしれないけど、何と説明していいのかも分からないし、私には何もできない。京本さんに相談したものの、私たちは状況を把握しきれていないので、何もしないでおこうと言われた。確かにそうだなと納得し、張り紙をして、その場を立ち去ることにした。
 そのあとの数日間、店長からの連絡を待ったけれど、やはり折り返しの電話はなく、メッセージも既読にならなかった。ここまで音信不通が続くと事件性もあるのではないかと心配になってくる。
 お店のSNSもいつの間にか消去されてしまったようで、ホームページも出てこなくなった。ネットマップの口コミには「突然閉店になっていた」と書かれており、お客さんも驚いていることが伝わってきた。
「はぁ……」
 一週間が過ぎたし、店長からの連絡を待っていても埒が明かないと気づき、このままでは無職になってしまうと危機感を覚えて、行動を起こすことにした。
「まずは、求人を見よう」
 ネットで求人広告を見て、どこか働ける美容院を見つけようと探す。就職活動をしないといけないし、履歴書を作らないといけない。それからスーツも。
 以前履歴書を作成したときは、専門学校にあるパソコンを借りて作った。スーツも、同級生に借りて着ていったから、私は所有していない。
「はぁ……貧乏すぎて嫌になる」
 うちの家は片親な上に兄妹が五人もいるので、私の美容専門学校代も自分でアルバイトをして貯めて行ったくらいの余裕のない暮らしをしていた。実家にパソコンなどあるわけないし、履歴書を買って手書きでやるしかないと諦める。
 華やかな美容院、サロンとはいえ、さすがに面接のときに私服では行けない。綺麗めな洋服など持っていないので、やはりスーツは新調しなければならないだろう。
「最近のスーツって安くでも売ってるよね」
 そう思ってネット検索してみたものの、最低でも上下セットで一万円ほどはかかりそうだと肩を落とした。
「靴も鞄もいるもんな」
 時間もあることだし、リサイクルショップに行って探してみようか。掘り出し物のリクルートスーツや靴などがあるかもしれない。
 美容師のアシスタントの給料は低くて、日々の生活費でほとんどなくなってしまう。そこから二万円は家に仕送りして、あと一万円は貯金。残りのお金で家賃、食費、光熱費、スマホ代を支払ったら手元には少ししか残らない。そのお金でコスメや服を買ってやり繰りしていた。
 でもコツコツ貯めた貯金があるし、二ヵ月ほどなら節約生活をすれば生きていけるはず。
 今回の出費は痛手だけど、スーツ代は貯金から出そう。そう思ってスマホアプリで口座の状況を見てみると、貯金額が五万円になっていた。
「え……?」
 この前まで二十五万円ほどあったのに、なんで急になくなっているの?
 パニックになりながら、確認すると見覚えのない会社名から二十万円引き落とされていた。
「なに、ここ……?」
 新手の詐欺か何かかと慌てて会社名を検索してみると、サロン向け製品を扱う企業だと出てきた。そんなところからどうして私の口座引き落としになっているのか問い合わせてみる。
『エトワール・アンジュ様がご購入されたシャンプー台のお引き落としをさせていただいております』
 コールセンターの可愛らしい女性の声が、残酷なことを告げる。
 うちの店舗のシャンプー台の支払いが私になってる……?
 頭が真っ白になり、状況の把握ができずに固まる。
「おいくらなんでしょうか……?」
『百万円の請求を五回の分割支払いにされていますね』
「ひゃ……っ」
 百万円!?
 そんな買い物していない。どうしてそんなことになったのだろう、と過去のことを思い返すと、「契約書の更新をするね」と、先月の始めに店長からサインを求められたことがあった。
 店の営業中、しかもものすごく忙しい時間帯に呼ばれ、急いでサインをしてほしいのだと言われた。
 契約社員でもないのに、どうしてそんなことをするのだろう? と思いつつ、期日が今日なのだと急かされ、求められるままサインをしてしまった。
 それがシャンプー台の契約書だったのだろうか。口座情報などもう一度書いてほしいと言われたことも同時に思い出す。
 そのとき他のスタッフからカラーのアシスタントをして欲しいと呼ばれていたこともあり、ちゃんと確認せずサインした私も悪い。
 悪いんだけども!
「申し訳ないんですが、キャンセルってできません……よね?」
『商品は納品済となっておりますので、できかねます』
 ダメ元で聞いてみたけれど、もちろん無理だった。そうだよね、数日前に新しいシャンプー台が店に届いていたのを確認していた。
 コールセンターの方に言っても困らせるだけだと諦める。企業の方からすれば、商品を購入しているのだから支払いをしてもらうのは当然だし、支払い者側の揉め事は関係のないことだ。
 電話を切り、しばらく呆然とする。
 無職になった上に、借金まで抱えているなんて。来月の家賃さえ払えるのか怪しい状態になってきた。
 スーツを買うとか、そんなことよりも、生活するためのお金がすぐに必要になってきた。今すぐにでもできる仕事を探さないといけない。
 ネットでもう一度検索し、今すぐお金が手に入る仕事を探し始める。
「なかなかないよね、そんなの」
 身を削るような危険な仕事はしたくない。できる限り安全で、時給が高くて、すぐにお金がもらえる仕事がしたい。でもなかなか見つからない。
 心が折れそうになりながら探していると、深夜の牛丼屋のバイトを見つけた。
「これなら、安全そう!」
 深夜だけど、明るい店内だし、駅近で安全そうだ。しかも深夜だから昼間に働くよりも時給が高い。とにかく今はすぐに働いて、来月の生活費を稼がなくては。
 借金は、できるぶんだけ支払うことにしてもらえないか相談してみよう。今は働いて、どれだけ手元に入るのかやってみないと。
 牛丼屋に連絡し、面接をしてもらったら、即時採用してもらえた。深夜バイトは人手不足ですぐにでも来て欲しいらしい。なので、今日から働けることになった。
 深夜業務に就く前にオリエンテーションをしなければならないので、昼間のシフトにも入ることになる。
 数日間先輩スタッフに業務を教わり、一通りできるようになったら、深夜シフトに入ることになった。
 もともと牛丼屋に入ったことがなかったので、覚えることがたくさんだった。牛丼屋さんなのに、うどんやカレーも販売していることにとても驚いた。
「じゃあ、小橋さん、今日から深夜シフト頑張ってください」
「はい」
 店長から声をかけられて、気合いを入れる。深夜に出歩くなど、あまりしたことがないから緊張する。駅が近いから人通りも多いし、入店客も割と多いらしい。
 あとは酔っ払った人の利用も多いそうで、女性は絡まれやすいと聞いた。そういった場合は丁重にお断りし、キッチンスタッフの男性に助けを求めるように言われた。
 案の定、夜中になると飲んだあとの締めに食べにくるお客さんが増えて、話しかけられることが多くなった。最初は戸惑っていたけれど、だんだん慣れてきて上手に躱せるようになってきた。
 三週間もすると戸惑うことも少なくなり、スムーズに仕事ができるまでに成長していた。
「小橋さん、お疲れさまでした。これ、お給料です」
「ありがとうございます」
 まだ口座引き落としの登録が完了していないため、手渡しで給料を受け取った。
 月半ばから働いたから、一ヵ月分丸々の金額ではないが、お金を受け取れるのはありがたい。給料袋の中を見てみると、十五万円ほど入っていた。
 これなら今口座にあるお金と合わせれば、生活はできる。だけども、借金の支払いまではできない。分割の金額を下げてもらって払わせてもらうしかないか、と肩を落とす。
 ――私って、どうやら貧乏神に好かれているみたい。
 昔から、そう。
 父親が病気で働けなくなって、母親だけの稼ぎで生活をしていた。家に家賃の取り立ての人は来るし、父の医療費の支払いにも追われる。食費もないから、食べるものも少ないし、服だってボロボロだった。
 幸い、近所のおばちゃんがお風呂を貸してくれていたから入れていたけど、あのおばちゃんがいなかったら、お風呂さえ入れない貧困さだった。
 その後、父は他界し、母親だけになったが、生活は豊かになることはなく、ずっと困窮したままだった。
「はぁ……」
 専門学校に行くお金も高校生の頃からアルバイトに励んで自分で貯めた。仕事を始めたら、さすがに安定した生活を送れると思ったのに、この有様だ。
 急な退職と思わぬ借金を負うことになり、なりたかった美容師の夢も中断している状況だ。
 いつまで経っても苦しいままで、全然よくなっていかない。苦しくても前を向いて頑張っていけば何とかなると思ってやってきたけれど、さすがに心が折れてしまいそうだ。
 バイトの開始時間になり、目に浮かぶ涙を引っ込めようと考えるのを止めた。別のことを考えて気を紛らわせて泣かないようにして、ホールへと向かった。
 今日はお客さんが少ない。雨が強く降っているからかな。
 そんなことを思いながら、ガラス張りの店の壁から見える、外の景色を見ながらテーブルの拭き掃除をしていた。たくさんの人が行き交う歩道の中に、急に立ち止まる男性と目が合った。
 見覚えのある男性――それは、上白石さんだった。
 うそ……どうして? これって夢……?
 久しぶりに見たから、一瞬誰か分からなかった。数ヵ月ぶりの再会に驚きを隠せない。
 上白石さんは私の顔を見ると、とても驚いた表情を浮かべて何か話しかけてくる。だけどガラス越しだから何を言っているか分からない。
 驚き固まっていると、彼は店内に入ってきた。
「何でここにいるの!」
 久しぶりに見る彼は相変わらず格好いい。今日は仕事終わりのようで、ジャケットスタイルで凛々しく見える。肩に載っているわずかな雨粒でさえ輝いて見えて、彼の麗しさに磨きをかけているように感じた。
「上白石さん、お久しぶりです」
 美容院が閉店してから一ヵ月ほど経っている。三週間に一度必ず会っていたことが嘘のように、とてつもなく久しぶりに再会したような気持ちだ。
 もう会えないと思っていたのに……またこうして会えるなんて。
 一瞬で体温が上がって、心臓がうるさいほど鳴っている。
「お久しぶりです、じゃないよ。どうしてここで働いているの? しかもこんな時間に!」
 現在時刻は深夜0時を回ったところだ。美容院の従業員だった者がこんな深夜に牛丼屋で勤めているなんて驚くのも仕方ないだろう。
「エトワール・アンジュが突然閉店してしまって、無職になってしまったので……すぐに働けるところを探していたら、ここのアルバイトが見つかったんです」
「店が閉店すること、事前に聞かされていなかったの?」
「はい。出勤したらもぬけの殻になっていました」
 未だに店長と連絡が取れておらず、一体何が起きているのかスタッフたちも把握できていない状態なのだと説明した。
「まさかそんなことになっていたとは」
「それよりも、上白石さんも予約されていたのに、突然閉店して申し訳ございませんでした」
 予約しているので店に向かったら、閉店しているなんて失礼極まりなかっただろう。こちらも連絡先が分からず、どうすることもできなかったのだと謝罪する。
「小橋さんは悪くないから謝らなくていい。君も知らなかったんだから」
 話したいことがたくさんある。しかし今は勤務中だ。他の店員の視線を感じるので、そろそろ立ち話は終わらなければならないと察した。
「私のこと、覚えてくださっていて嬉しかったです。ありがとうございました。もしよかったら、また牛丼食べに来てくださいね」
「このままじゃ帰れない。小橋さんと話がしたい。これ、俺の連絡先だから、仕事が終わったら連絡して」
「でも仕事が終わるのは朝の六時で――」
「大丈夫、待ってる」
 上白石さんから渡されたのは、彼の社用名刺だった。会社名と代表取締役という肩書きが書かれている。
「分かりました」
「じゃ、またあとで」
 そう挨拶して、彼は店から立ち去っていった。
 上白石さんとまた会えた――。
 それが信じられなくて、もう目の前に彼はいないのにドキドキの余韻がまだ続いている。久しぶりに味わう高揚感にふわふわしてしまう。
 そうだ、上白石さんと会うといつもこんな感じだった。熱に浮かされたような甘い感覚に襲われて、幸せな気持ちになるのだ。
 私のことを覚えていてくれたのと、心配してくれていたのが嬉しかった。外から私を見つけてわざわざ声をかけてくれたのも。
 上白石さんは、私が勤める前から通っていた常連さんだと聞いた。店長が前にいた店からの付き合いらしく、独立したあとも通い続けてくれていた人だ。だからこんな事態になって驚いただろうし、心配していたのだろう。
 私が入社してすぐの頃から顔を合わせていて、ぎこちない動きをしている頃から知られている。何もできなかった学生上がりの私が失敗しても、「気にすることないよ、頑張れ」と声をかけてくれる素敵な人だった。
 上白石さんとの思い出を振り返りながら仕事をしていると、あっという間に時間が過ぎていった。朝番のシフトのスタッフが出勤したところで、私は退勤の準備に入る。
 更衣室に入り、着替えて荷物の整理をしていると、閉めていたはずのバッグが開いていることに気づく。
「あれ……?」
 いつも私のバッグのファスナーは閉めているはず。しかも化粧ポーチやポケットティッシュなどを入れている小物入れまで開いていて違和感を覚える。
 おかしいな。いつも全部閉めているのに。
 嫌な予感がして、バッグをテーブルの上に置いて中身の確認をすると、大事なものがなくなっていることに気づいた。
「嘘でしょ、お給料袋がない……」
 現金の入った茶封筒がなくなっている。その上、財布の中に入っていたお札類もなくなっていた。
「うそ、何で?」
 あのお金がないと、これから生活していけない。
 借金も返さないといけないし、家賃や光熱費などの生活費だって支払えない。こういうとき、どうすればいいの? と半泣きになりながら、他のスタッフに相談する。
「えー、それはヤバいね。うちの店、スポットバイト系の人もいるから、音信不通になるんだよね。そういう人がやったんじゃない?」
「確かに。昨日、見たことのないオジサンと、外国人留学生みたいな人が皿洗いに来てたよね。その人かもー。わかんないけど」
 うちの牛丼屋は、人手不足だから、短時間採用の人が入れ代わり立ち代わりでやってくる。面接もなしに、お皿洗いの仕事や店内掃除だけしに来るから、知らない人が更衣室に入室できるようになっているけども。
 だからって、人のものを盗むなんて犯罪だ。
「警察に連絡する前に、店長に連絡したほうがいいかもね」
「そうですね、そうします」
 とは言うものの、店長だって、今の時間は早朝だし勤務時間外だからすぐに連絡がつかない。念のため電話はしたものの、不通だった。
 ということは、店長と連絡がつき、その後警察の手続きが終わるまで、帰れないということだ。
 がっくりと肩を落とし、泣きそうになりながら給料が見つかることを祈って待つのだった。