17歳と40㎝差の純情 スパダリ社長と偽装婚約したら、とろ甘溺愛生活が待っていました 1
このスーパーマーケットの従業員用出入口は、警備員の待機所と商品搬入の出入口が隣接しているので、大型トラックの出入りもしょっちゅうである。
「タートル運輸の島崎でーす。えー、ラビットフーズさんからの納品で……。すいません。俺ここ初めてなんで、ちょっと勝手がわからないんですが」
「はい、そこに停めていただいて大丈夫です。こちらの名簿に名前の記入をお願いしますね」
そんなやりとりの脇──従業員用の出入口近くで、小柄な少女が繰り返し頭を下げていた。たった今停められた大型トラックと並ぶと、まさにゾウとネズミの対比を思わせる。
「田中さん、ありがとうございました! またよろしくお願いします!」
ネズミの少女が礼を述べている相手は、いかにもベテランのパートさんといった感じの中年女性だ。イケイケスーパーと店名のプリントされたエプロンをつけている。
女性は破顔して手を前後に振った。
「いいのよお。私も楽しかったし。小雪ちゃんとお喋りしているとあっという間で楽しいわあ。また来てちょうだいね」
「はい! ぜひ!」
「じゃあね。頑張ってね~」
そして、少女はよく見ると少女ではない。
身長が一四五センチ程度しかない上に可愛い童顔なので、一見高校生くらいかと勘違いしそうだ。
しかし、きっちりとスーツを着ているし、しっかりと女性らしい胸もある。
何より駐車場に停めた社用車に乗り込んだので、十八歳以上であるのには間違いない。
更に助手席に置かれたニタカ製菓のネームタグから、二十二歳より上だということもわかった。
ニタカ製菓は中堅の製菓メーカーである。人気のチョコレート菓子を製造しており、近年SNSでの口コミで人気になり、メディアへの露出も多くなっている話題の企業だ。
そして、このニタカ製菓に入社するためには新卒であれ、中途であれ、大卒が必須条件となっていた。
ということは、少女ではなく女性と呼んだ方がいいのだろう。
また、名前は「沢井小雪」とある。小雪ちゃんではなく小雪さんなのだ。
さて、その小雪はシートベルトを締めると、「よし!」とガッツポーズを取った。
以前売り場作りで気合いを入れたからか、売り上げが伸びて前回よりもずっと多く発注数が取れた。
ニタカ製菓の東京第六営業所に配属されて三年。ずっとルート営業を頑張ってきたが、ようやく仕事の成果が出るようになってきたとしみじみする。もうじき新規開拓も任されるかもしれない
小雪は浮かれた気分のまま、助手席に置いてあったバッグに手を伸ばした。
中からニタカ製菓のレーズンサンドを取り出し、個別包装を破ってパクリと一口で平らげる。
(エネルギー補給完了!)
お祝い気分の時にはアルコールなどよりも自社のお菓子が一番だ。特にこのレーズンサンドは小雪のお気に入りだった。
小雪は車を出すと、会社に戻るべく国道に出た。
しかし、運悪くすぐに信号に捕まってしまう。
とはいえ、今日の外回りはこれで終わりだ。急ぐ必要もないのでのんびり帰ればいい。
(でも、終業まで手を抜かない! 身だしなみはしっかりしないとね)
再びバッグに手を突っ込み、今度は化粧直し用のパウダーのコンパクトを取り出す。
そこに映った顔は相変わらずの童顔だった。丸みを帯びた顔の輪郭も、黒目がちな大きな双眸も、小作りな鼻も、口も、すぐに赤くなる白い肌も、もうすぐ二十六歳の大人の女性らしくない。幼い頃には「フランス人形みたい」と可愛がられたこの顔も、いい年となった今となってはもはや呪いだった。
少しでも大人っぽく見えるよう、栗色の髪は長く伸ばしてハーフアップにしている。メイクも勉強しているものの限界があった。
この外見のおかげで昔はろくな目に遭わなかった。
小学校、中学校まではさほど問題はなかった。成長のスピードは他の女児と変わらず、友だちと一緒の仲良しこよしだった。
当時の小雪はどちらかと言えば明るく活発な少女だった。
ところが、人より早く生理が始まったからか、小雪の身長の伸びは小学校六年生時点の一四五センチでストップ。
なのに、胸やお尻だけは人並みに育ち、チビで童顔なのに体は大人という、なんともアンバランスな状態になってしまった。
同時にその頃からよく痴漢に遭うようになった。どうもこの容姿はある種の男性の嗜虐心を刺激するらしい。
通学電車の中で知らない男に付き纏われただけではない。すれ違いざまに不意打ちで胸にタッチされたり、クラスメートの男子に転んだ風を装って、抱き付かれたりしたこともあった。
数日に一度はこんな仕打ちに遭い続けていれば、男性不信にもなり外に出るのが恐ろしくもなる。
もちろん、ストーカーにもよく遭った。高校時代、警察の生活安全課に何度お世話になったことか。
あまりに何度も相談に来るので、年配の警察官から『ほんとは君が誘ってるんじゃないの? ちょっと異常でしょ?』と嫌味を言われたくらいだ。
あの一言は傍からだとそんな風に見えるのかとショックだった。
それでも大学入学を機に自分を叱咤し、なんとかコンプレックスを乗り越えようとした。
せっかく志望校に合格したのだ。人並みに楽しいキャンパスライフを送りたかった。
小雪は友だち作りをすべくあるサークルに入部した。
ところが、そこでも先輩の男子学生にストーカーされ、下宿先にまで押し掛けられ、危うく乱暴されそうになったのだ。
──車の赤信号が青に変わる。
小雪ははっとして慌ててアクセルペダルを踏んだ。
(もう、何を考えているの。昔のことでしょう)
外の景色が次々と移り変わっていった──。
──結局、大学でも男性に振り回され、ろくな目には遭わず、おかげですっかり引っ込み思案になってしまった。
しかし、大学生の小雪はいつまでも落ち込み、引き籠もってはいられなかった。
実家はそれほど裕福ではなく、おまけに高齢出産だった両親は、もう年金を受け取る年齢だったのだ。二人に負担を掛けないためには、就職して自立しなければならなかった。
だからなんとか自分を叱咤激励し、就職活動を始めたのだが、これがまったくうまくいかない。
エントリーシートと筆記試験まではどの企業も比較的すんなり通る。ということは、学歴と一般教養とそれなりの事務処理能力、人格等は基準値に達しているということだ。
ところが、面接になると面接官は皆まず驚いた顔をし、「……失礼ですが、平成〇〇年生まれですよね?」と確認を取ってくる。
履歴書の写真は写真館で大人っぽく写してもらい、書類選考を通りやすくしてもらったのだが、かえって逆効果になってしまったかたちだった。
そして、子どもみたいで頼りなく見えるからと、その時点で落とされるならまだマシだった。
男性の面接担当の中には後日無断で個人的に連絡を取ってきて、面接の指導をしてやるので二人きりで会おうと誘ってきた人もいた。もちろん誘われた先はホテルか、ホテル街が近くにあるレストランである。
一体なんの指導をするというのか。
小雪はなぜ普通の就活ができないのかと悩んだ。
贅沢なことを言っているわけではない。人形のような童顔だの、なのに体はしっかり大人だの、そんな表面的なところばかり見ず、今までやってきたこととできること、これから身につけようと計画している点を見てほしいのにと。
ゼミの友人知人が次々と内定を勝ち取る中、小雪だけがまだ内定のないまま時が過ぎていった。
焦れば焦るほどうまくいかない。
すっかり自信をなくし、これは就職浪人かとがっかりしていた頃、何気なくエントリーシートを出してみたニタカ製菓の書類選考と筆記試験を通過。
更に一次、二次、三次の面接もすんなり突破。
いずれも女性の面接官だったからか、セクハラは一切受けず、容姿を妙に褒められることも、逆にけなされることもなかった。実に公平に判断してくれた。
それでも、小雪は過度に期待してはいけないと自分に言い聞かせた。
(まだ最終面接があるし、そこの面接官は男の人かもしれないし、今まで運が良かっただけで……)
しかし、トラブルが一切なかった上に、最終まで来たのは初めてだったので、どうしても気負ってしまう。
更に、ニタカ製菓は製菓メーカーの中では名のある中堅。歴史ある企業で待遇はよいし福利厚生もしっかりしている。
それだけではない。子どもの頃から定番商品のクッキーをよく食べていたのだ。慣れ親しんでいたのでなんとかして内定を獲得したかった。
──最終面接当日、本社会場までどう行ったのかを、小雪はよく覚えていない。
よほど緊張していたのだろう。
面接官は年配の女性と中年の男性で、一方小雪は一人で二対一の面接だった。
面接が始まる前に男性のスマホに電話がかかってきて、しばらく話したのちに『申し訳ございません』と謝られた。
『今日はもう一名面接官がいらっしゃる予定なのですが、ちょっと交通事情で遅れているようなんです。時間も押しているので、先に始めさせていただきますね』
まず、これまでの面接と同じように志望動機を聞かれた。
『それでは自己PRをお願いします。あなたの強みを活かして我が社でどのような仕事をしたいのか教えてください』
『はい。私は──』
口を開きかけたその時のことだった。
会場のドアが叩かれたかと思うと、長身痩鏸の男性が一人、「遅れて申し訳ありません。失礼します」と入ってきたのだ。
『その方が最後の学生さんですか?』
『はい、そうです』
『確かお名前は沢井小雪さん……でしたね』
思わず振り返った小雪と男性の目が合う。
小雪の心臓がドキリと跳ね上がった。
年の頃は四十代くらいだろうか。
切れ長のチョコレート色の目には、同年代の男子学生には決してない、きちんと生きてきた男性だけが持つ落ち着きがあった。その落ち着きは自信と言ってもいい。なのに、どこか憂いを帯びてもおり目が離せない。
身長は小雪よりはるかに高く、一八〇センチを優に超えるどころか、一八五センチはあると思われる。
ただ大きいのではなく全体的にスタイルがいい。腰が高い位置にあり足が長いのだとわかる。
仕立てのいいグレーのスーツに包まれた腕も同じく長い。
丁寧に整えられた髪と彫りの深い端整な顔立ち、立ち姿からは知性と品性が感じ取れ、極上の大人の男なのだと全身が物語っていた。
今まで小雪が会ったこともない人種の男性だった。男だとか女だとか以前に人としての格が違う気がした。
こちらが業務用大袋のチョコの一つなら、この男性はデパ地下に鎮座し恭しく扱われる、お一つウン千円のブランド品のそれに見える。
『あ、あの……』
小雪の戸惑いを見て取ったのだろう。男性は「驚かせて悪かったですね」と丁寧に謝った。
『僕も面接官の一人です。二藤と申します。別件で遅れてしまいましたが、どうぞよろしくお願いします』
『は、はい』
男性は右端の席に腰を下ろすと、履歴書とエントリーシートのコピーに目を落とした。
『では、改めて自己PRをお願いします』
『はい。私の強みはどんな状況でも耐え忍び、目的を達成するまで諦めない忍耐力です。大学ではゼミで──』
嘘ではない。どんな状況でも耐え忍ぶというよりは、そうする以外何もできなかったのだが。
小雪は事務職を希望していた。営業や販売に回されてしまうと、また人と──男性と接触する機会が増える。となると、自分に異常な興味を示す者もまた出てくるに違いない。それが怖い。
企業側の都合が優先されると理解してはいるのだが──。
その後面接官による質問が続き、小雪はそつなくそれらに答えていった。
中でもあのイケオジの男性は一風変わったことばかり聞いてきた。セクハラではない。
『今日は面接を受けるため、何時に家を出ましたか?』
『最近あった面白いエピソードを教えてください』
『明日地球が滅ぶとしたら何がしたいですか?』
などと、最初の質問以外は答えにくい内容ばかりだった。残る二つはこちらの価値観を知りたいのだと思ったが──。
面白エピソードには以前面接した企業の受付で、子どもに間違えられそうになったことを赤面しつつ教えた。年齢証明のため運転免許証を常時携帯していることも。『面接と同じく対策はバッチリです!』とアピールすると笑いが取れてホッとした。
こんな恥を晒したくなかったが、せっかく最終面接まで来たのだ。背に腹は代えられない。
地球滅亡の質問には『両親に会いに行って、お礼を伝えたい』と答えた。
『私を産んでくれて、大切に育ててくれてありがとうと言いたいです』
『ご両親に感謝されているんですね。ということは、生まれてよかった……沢井さんはそう感じていますか?』
『えっ……』
一瞬言葉に詰まった。
脳裏で今までセクハラをかましてきた男性らの下卑た笑みがぐるぐる回る。
(でも、嫌なことばっかりじゃなかったでしょう?)
二十二年間の人生は悪いことばかりではなかった。
今日だって最終面接にまで来れたし、こんなに素敵なイケオジと話せているではないか。
だから、こう答えることができた。
『はい。生まれてよかったと思います』
同時に、こう心に誓った。
(……もう自分は可哀想だと思うのは止めよう)
せっかく両親に健康に産んでもらったのだ。
二人は今だってひどい目に遭い、すっかりしょげた自分のことを心配してくれている。経済的余裕がないのに、「ずっと家にいていい」だなんて、もう二度と言わせたくない。
どうしてこんな容姿なんだと嘆くばかりではなく、一歩前に踏み出さなければ申し訳ない。
『そうですか。ありがとうございます』
質問は以上だと二藤は締め括り、残る二人の面接官に向かって小さく頷いた。
そこで小雪はふと気付いた。
(……そういえばさっきから面接官の人たち、この二藤さんにすごく丁寧に接していない?)
どちらも二藤より年上に見えるのだが、彼は高い役職に就いているのだろうか。
そこまで考え待てよと目を瞬かせる。
面接の途中までガチガチに緊張していたので、二藤だと名乗られてもそれどころではなかったが、どこかで聞いたことがある名前だ。
それどころか、企業研究の際に真っ先に確認したではないか。
(ま、まさか……)
背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
面接官の女性が二藤に話し掛ける。
『社長、いつもの一言は?』
『……!』
予感がしっかり的中してしまった。
小雪は息を呑みつつ男性を見つめた。
やはりこの男性は二藤鷹人──ニタカ製菓の代表取締役、すなわち社長である。
ネットでざっと経歴は確認していた。大正時代創業の歴史の長いニタカ製菓の九代目で、確か社長としては若手の四十歳だったはず。
と言っても、二十代の小雪にとっては四十代も六十代も同じだったので、その時にはふうん、そうなんだとしか思えなかった。
更に調べた範囲では写真はどこにも掲載されていなかったので、これほど目を引く男性だとは思いもしていなかったのだ。
二藤は──鷹人は『そうですね』と長机の上に手を組んだ。
『おっと、こちらだけで話を進めてしまって失礼しました。それと、最後まで名乗っていなかったですね。僕は代表取締役兼社長の二藤鷹人と申します』
『は、はい……』
こちらをリラックスさせようとしたのだろうか。鷹人はふと目を細めて優しい微笑みを見せた。
『ニタカ製菓の面接では僕も立ち会い、最後に必ず一言、コメントするようにしているんです』
『コメント……ですか?』
『ええ。面接での出会いも一期一会です。我が社とご縁があっても、なくても、恐らく自分がどんな人間で、何をしてきたか、これからどうしたいのかを誰かに語る機会は今後もなかなかないと思うんです。だから、こうした場でしか言えないことを僕も言いたいと思っています』
チョコレート色の瞳に改めて見つめられ、小雪はまた心臓がドキリと鳴るのを感じた。
『沢井さん、あなたと話していて大変楽しかったです。沢井さんには人を緊張させず、すっと心に入り込む力がありますね。親しみやすく馴染みやすく、人と接するのに向いていると感じました』
『えっ……』
初めてされた評価だった。
しかし、よく考えてみればと記憶を掘り起こしてみる。
男性にはさんざんな目に遭わされたが、お爺ちゃん、お婆ちゃん、おじちゃん、おばちゃん世代には可愛がられる。
年下にも怖がられたことはなく、相手が子どもになると慕ってくれる。父の実家の田舎に行くと、小さな従弟妹たちにいつも『小雪ちゃん、遊ぼう!』と引っ張り回される。『僕の分、わけてあげるよ』と、貴重なおやつをもらったこともあった。
男性にしても自分を舐めているからあんな扱いをするのだが、小雪に警戒する要素が皆無だからこそだとも言える。
確かに、人の心にはすっと入り込めているのかもしれない。
しかし、今までデメリットの部分ばかり見つめてきたので、小雪にとっては目から鱗の視点だった。
『ありがとう、ございます……』
気が付くとそう返していた。
『そんな風に言っていただけて嬉しいです』
胸がじわじわ熱くなっていくのを感じる。
(きっと今、顔が赤くなっているんだろうな)
そう思ったがもう見られてもいいやと開き直った。
(いい人だな。この会社に入社できたらな)
とは思ったものの、社長の人物評と人材としての評価はまた別物だ。
競争率が高いのはわかっていたし、ここまで来れたのは運がよかったとも思っていた。
だから、その面接から二週間後、ニタカ製菓の人事部から電話がかかってきた時には、夢ではないかと何度も頬をつねったものだ。
『ぜひ沢井さんとご一緒にお仕事ができればと思いまして。先日内定承諾書を含めた書類一式を発送させていただきました』
『は、はい! こちらこそよろしくお願いします……!!』
その後本社内にある東京第六営業所に配属され、小売──都内のスーパーの営業担当になった時には戸惑った。果たして自分にできるのかと怖かった。
ところが、挑戦してみると意外なことに性に合っていたらしい。
なぜなら、商談の相手は店長やバイヤーよりも、発注担当者となることが多かったからだ。
そして、発注担当者はパートの中高年女性がほとんどである。
そうしたおば様たちは小雪を娘のようだと可愛がってくれ、個人的にも仲良くなれたので、贔屓にしてもらうことが多かった。
二年目に指導社員の手を離れる頃には、小雪個人で成果を上げられるようになっていた。
つまり、あの時の鷹人の評価は的を射ており、その資質を仕事に活かせたということになる。
小雪は四年前のことを懐かしく思い出しながら、最後の曲がり角を曲がってニタカ製菓本社の駐車場に車を停めた。
(今の私があるのって社長のおかげだな)
会社に入る前にもう一つ……と、レーズンサンドの袋を探る。
しかし、営業先で食べたものが最後だったらしい。
(う~ん、販促活動で余ったものを分けてもらおう)
そう思いつつ本社のあるビルの自動ドアを潜り、十四階の総合受付まで向かおうとしたところで、「沢井さん」と声を掛けられて足を止めた。
鷹人だった。
エレベーターから降りてきたところらしく、手を上げて微笑みを浮かべている。
心臓が軽くドキリと跳ねる。
「社長、おはようございます。お出かけですか?」
と言ってももう夕方近くなのだが、これは営業の習慣だった。朝だろうと夜だろうと、その日初めて会う人物には「おはようございます」と挨拶するのだ。
「はい。今から帝都ホテルで台湾の製菓会社と会議の予定なんです」
鷹人は小雪の前に立ち、「久しぶりですね」と目を細めた。
「いや、そうでもないですね。二日前もここで会いましたか」
「そうですよ。忘れないでください」
小雪は鷹人を見上げながら、やっぱり素敵だなあと内心溜め息を吐いた。人間ランクがあるのだとすれば、間違いなく鷹人は頂点レベルにいるのではないか。
声を掛けるまでもなく、女の百人や二百人、あっという間に群がってくるに違いない。
なのに、まだ独身だというのが信じられなかった。しかも、離婚歴があるわけでもない。
(こうして同じ空間にいるだけで奇跡って気がしちゃう)
なのに、入社四年目で役職の付いていない自分にも、こうして敬語で接してくれるので心がムズムズする。同時に、物足りない気分にもなってしまう。
(もう、何を考えているの)
小雪は自分を叱り付けつつ、「イケイケスーパーさんからの発注数増えました」と真っ先に報告した。
「それはすごい。お疲れ様です。イケイケスーパーさんはあの地域の女性層のニーズ全体を左右していますからね。やはり沢井さんが担当になって正解でした」
「ありがとうございます……」
頬がみるみる熱くなる。
鷹人は本社のビルに出入りする、全社員の顔を覚えているだけではない。誰がどの部署に所属し、どんな仕事を担当しているのかを把握し、こうして顔を合わせた際には声を掛け、成果を出していればすぐ評価してくれた。出せていなくても励ましてくれる。
自分だけではないとわかっているが、それでも褒められるのは嬉しい。ますますやる気になるというものだった。
「そうだ。これ、ご褒美です」
鷹人がスーツのポケットに手を突っ込む。
「ご褒美……ですか?」
「先ほどサンプルの試食会があったんですよ。明日には営業部にも配られるかと思いますが……」
大きな手の平の上に小袋が乗っている。
「レーズンサンドのココアベースバージョンです」
また心臓がドキドキしてしまった。
(社長、私がレーズンが好きだって知っている? ううん、そんなはずないよね。偶然、偶然。もう、意識しすぎ。私なんかが相手にされるはずないのに)
鷹人は皆に同じ態度を取っているのだからと自分に言い聞かせる。
憧れの人がフレンドリーに接してくれるのも考えものだ。いちいちときめいてしまうのだから。
「ありがとうございます。いただきます」
お菓子を渡されようとしたその時、ふと鷹人の長い指の先と、小雪の子どものように小さなそれが触れ合った。
再び心臓が跳ね上がった。
「コーヒーに合わせて食べてみます」
ドキマギしつつお菓子をそっと受け取る。
「ブラックでもいいですが、実は僕はホットミルクと食べるのが一番美味しいと思っているんですよ」
「ホットミルク……ですか?」
ついまじまじと鷹人を見つめてしまった。
恐らくブランド物だろうと思われる仕立てのいいスーツと、傷一つない丁寧に磨き抜かれた革靴。さり気ないカフスボタンが嫌味なく似合っている。
彼自身がハイブランドのような人物で、洗練された大人の男性というイメージがあり、それに釣られて普段の飲み物もなんとなくブラックコーヒーだと思い込んでいた。
なのに、まさかのホットミルクである。
(ちょっと可愛い……)
うっかりそう感じてしまい、慌てて首を小さく横に振った。
(だから、失礼だって)
「承知しました。じゃあ、お勧めのホットミルクと一緒に堪能します」
「ぜひ感想を聞かせてくださいね」
聞かせてくださいということは、また社内で顔を合わせることがあれば、こうして他愛ないお喋りができるのだろうか。
(だったら嬉しいな)
小雪はそう思いつつ頭を下げて鷹人と別れた。
鷹人とのこうした一時が、一番のご褒美だった。