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インフィニティ・ラブ 好感度メーターがぶっちぎりのわんこ系後輩に死ぬほど執着されてます 2

第二話

 


 二階堂が入社して一ヶ月が経とうとした頃、彼の歓迎会が近くの馴染みの居酒屋で開かれた。一次会の幹事は小夜。二次会の幹事は今井主任だ。第一営業部のメンバーはほとんどが参加。
「二階堂くんどう? 慣れた?」
「だいぶ慣れました! 皆さんのおかげです。ありがとうございます!」
「君、開発部に評判いいよ~。なんで? なんかコツとかあるの?」
「いや、なんででしょうね。特に意識はしてないんですけど。ありがたいことに気に入っていただけたみたいで」
「二階堂くん、その後水無瀬さんとはどうよ?」
「小夜さん大好きです! いつも丁寧に指導してもらってます。プライベートでもお付き合いしたいです! ほんと大好きです! 結婚したい……」
 好奇心いっぱいというか、野次馬根性丸出しの先輩方に囲まれて、二階堂は照れながらも卒なく躱している。
 でも、小夜の話になると饒舌になって、“大好き”を連呼するのはちょっと恥ずかしいからやめてほしい。二階堂がそんなことを言うものだから、彼の周囲は大盛り上がりだ。みんなして、わーわーと大声で騒いでいる。第一営業部は男性が多いから、一度盛り上がると手が付けられない。
 数少ない女性社員らと一緒に小夜が隅っこでちびちびと料理を突いていると、突然、目の前にどさっと村上が座ってきた。相変わらず頭上の好感度メーターがドスケベピンクだ。
「よう、幹事。飲んでる?」
 ビール瓶を片手にしていた彼が、半分ほど減った小夜のコップにビールを注いでくる。
(うっ……)
 なんてことだ、せっかく半分まで減らしたのに。小夜はアルコール類が苦手だ。ビールもコップ一杯で気持ち悪くなってしまう。
 げんなりしたのをおくびにも出さずに、小夜はその辺にあった焼き鳥の皿を取って、村上に勧めた。
「村上くん、焼き鳥食べない? これ美味しかったよ?」
「食う食う。サンキュー」
 正直、苦手な人なのだが無視するわけにもいかない。今後の仕事の付き合いもある。穏便に穏便に躱さなくては。ああ、人間関係ってほんと難しい。
「向こう、盛り上がってんなぁ~。水無瀬、二次会行く?」
 不意に聞かれ、首を横に振る。二次会まで行くと帰りが遅くなってしまう。そんな体力はない。
「わたしは遠慮しようかなと思って」
 小夜の答えに村上はずいっと身を乗り出してきた。
「じゃあさ、これ終わったらふたりで抜けね?」
「えっ?」
 ヒクッと顔を引き攣らせながら村上の頭上の好感度メーターに目をやると、ドスケベショッキングピンクだったメーターの色が、今はラブホテルのネオンのようにギラギラに光り輝いているではないか! 下心がまったく隠れていない! 小夜でどんないやらしいことを考えていたら、こんな色になるのか!
(ひぃ! 怖い!)
 この人とふたりっきりになったら、なにをされるかわかったもんじゃない! はっきり言って身の危険を感じる!
 小夜はゾゾゾゾゾッと鳥肌が立つ腕を軽くさすりながら、苦笑いした。
「いやぁ、わたしは帰ります」
「いいじゃん、いいじゃん、そんなこと言わないで。俺いい店知ってるんだよ。ちゃんと家まで送るからさ」
 そう言った村上は小夜の手を握ってきた。
 ゾワッ! ゾワッゾワッゾワッ! 小夜の警戒が一瞬でピークに達する。
「も、もう、村上くんったら酔ってるんだね。手、離して?」
「えーやだ。水無瀬が俺と飲みに行ってくれるまで離さないー」
「なに言ってるの、もー」
 小夜は苦笑いしながら手を引くが、村上は本当に離そうとしない。それどころか、指で手の甲を撫で回してくるのだ。気持ち悪い。
「ちょっと……! やめて……」
 限界に達した小夜が声を荒らげかけたとき、「あーっ!」と誰かが叫ぶのが聞こえた。
「なにしてるんですか! 村上さん! なんで小夜さんの手を握ってるんですか!」
 血相を変えた二階堂が飛んできて、ベリッと村上の手を引き剥がす。彼は小夜の隣にデンと座り、身を乗り出して村上から護るように盾になってくれた。心なしか彼の好感度メーターの赤が、いつもより強く輝いて見える。
「やめてください、村上さん! 小夜さんにちょっかい出さないでください!」
「はぁ? なんだおまえ……」
「小夜さんは僕の運命の人なんです! プロポーズだってしてるんです。僕は本気です!だからやめてください!」
 酔っているのかいないのか、まるで空気を読まない二階堂は、大声で喚き散らしながら小夜にガシッと抱き付いてくる。彼は入社当初から小夜大好きキャラできているので、彼の過剰反応に誰も違和感を持たないのか、みんなケラケラと笑い、囃し立ててくるのだ。
「村上ー。水無瀬さんにちょっかいかけてるのかー? 二階堂が許さないぞー!」
「二階堂は水無瀬さんを口説いてる最中なんだから邪魔してやるなよ」
「水無瀬さんを巡って、村上と二階堂のバトルか!」
 やんややんやと周りがうるさい。注目されて小夜が身の置き所がなくなっていると、今度は二階堂が小夜の手を握ってきた。
「村上さんと仲良くしないでください。僕だけを見てください、小夜さんっ!」
「べ、別に、村上くんと仲良くしてるわけじゃないよ?」
 きちんと否定しておきたくてそこだけは力説すると、二階堂はふにゃふにゃな笑顔を見せて小夜の肩にもたれ掛かってきた。
「よかった!」
 正直、絡んでくるのは村上も二階堂も同じなのに、村上はいやで、二階堂は許せてしまう。それはふたりの好感度メーターの違いからかもしれない。一方はネオンギラギラのドスケベショッキングピンク、一方は純粋な赤色。数値だって70と∞では、どれだけ一生懸命に想ってくれているのかが違う。
「小夜さんは僕が護ります……小夜さん大好きです」
 真剣な表情で言われて、カアァッと顔に熱が上がる。
(正直……助かる……ケド、恥ずかしい……)
 彼のせいで注目されている。注目されると周囲の好感度メーターの上下が激しくなるのであまり嬉しくない。あ、ほら、数少ない女性社員らの好感度がぽちっと下がった。辛い。ついでに、村上からの好感度も下がった! そっちは素直に嬉しい。
 二階堂はチラッとテーブルを見やると、まったく減っていない小夜のビールのグラスを視線で指した。
「小夜さん、ビール苦手ですか?」
「あ、うん。実はあんまり得意じゃなくて……すぐ酔っちゃうの」
 小夜が控え目にそう言うと、彼はにこにこしながらグラスに手を伸ばした。
「じゃあ、僕が飲みますよ」
「えっ?」
 小夜が返事をする前に、二階堂はグラスを呷るようにグビグビとひと息で飲み干してしまった。
「あ……」
(あれ、の、飲みかけだったのに……)
 間接キスだということに気付いて、思わず顔が熱くなってしまう。
「あ、小夜さん、顔が赤いです。苦手なのにビール飲んでたんですか?」
「えっ? あ、ああ、うん。ちょっと飲んでる……」
 顔が赤いのは、飲みかけをあなたに飲まれたからだとは言えずにはぐらかすと、二階堂が再び小夜の手を握って立ち上がった。
「小夜さんが酔ってるので送ります!」
 周りに宣言するかのような大声に、面喰らってしまう。小夜が呆気に取られているうちに、またわぁっと周りが騒ぎ出した。
「押せ押せ二階堂! おまえイケメンだからいけるって」
「送り狼になるなよー!」
「結婚式呼んでー」
 みんな好き勝手言うんだから始末に負えない。
「いや、大丈夫だから! 大丈夫。それにわたし幹事だし、抜けるわけには……」
 小夜が断ると今井主任が出張って、小夜と二階堂の間に入って肩を組んできた。
「送ってもらいなさい、水無瀬! 主任命令だ。幹事は空気の読める私が引き受けた!」
「えっ、ええっ! なに言ってるんですか主任!」
「二階堂……貸しひとつな」
「ありがとうございます主任! 僕、主任に一生付いていきます!」
 完全に面白がっている主任が憎い。二階堂は二階堂で、嬉しそうに主任に頭を下げているんだから、外堀は埋められたようなもの。
「小夜さん、帰りましょう! 小夜さんの鞄、これですね。僕が持ちます!」
「え? ええっ? 二階堂くん!?」
「皆さん、お先に失礼します!」
「おー。頑張れよ二階堂」
「行きましょう、小夜さん!」
「ちょ、ちょっと待ってぇ~!」
 強引に手を引かれ店から引っ張り出されてしまう。
 野次馬たちに見送られて、小夜は高鳴る胸を抑えながら二階堂の背中を追った。
「二階堂くん! 待って、待ってってば……!」
 息を切らせ、小走りで大通りまで出たところで、彼は足をとめるとタクシーを一台捕まえた。
「小夜さん、乗ってください。送ります」
「ええ……いいのに。わたしひとりで帰れる」
 小夜は断ったのだが、先にタクシーに乗った二階堂に手を引かれた。
「そう言わないで。送らせてください。心配だから。夜も遅いし」
 時刻は二十一時過ぎ。電車で帰れば、家に着く頃には二十二時になっているだろう。確かに少し遅い時間になる。小夜は観念してタクシーに乗り込んだ。街灯と対向車のライトの中を、車が駆け抜けていく。
「二階堂くんって強引なんだね」
 少し呆れた口調で物申すと、二階堂が途端にきゅーんと眉を下げた。
「……ダメでしたか?」
 可愛い顔で見つめられ、ドキドキする。
 駄目だ。この顔に弱い。強く叱れない。小夜は視線を逸らして、唇を尖らせた。
「別にダメじゃないよ……正直、助かっちゃったし……」
 村上と飲みに行くくらいなら、二階堂に送ってもらったほうが千倍いい。そう思いながら小夜がチラッと二階堂に目をやると──
「可愛い……」
 赤い顔をした二階堂がポツリと呟く。そして、ポコポコポコポコポコポコ……と、彼の好感度メーターからハートがたくさん飛び出してきたのだ。次から次へと飛び出してくる赤いハートに、小夜は思わず目が釘付けになった。
(ええっ? なにこれ!)
 好感度メーターが人によって色や数値が変わるのは今まで見てきたが、ハートが飛び出してくるなんてのは初めて見た。村上の好感度メーターも相当珍しい色にはなっていたが、ハートのエフェクトなんかなかったのに。
(こ、これはつまり、どういうこと? ハートがいっぱいって……)
 二階堂の好感度メーターは人と違う。枠は突き抜けてるし、数値は∞。おまけにハートのエフェクトまで……どうしてひとりだけこんなに人と違うんだろう? まさか、メーターが突き抜けるだけでは足りないほど、それだけ想いが強いという意味……?
 戸惑った小夜が動けないでいると、二階堂が不意に微笑んできた。
「よかった。小夜さんの役に立てて。僕が小夜さんを護ります!」
「ええ……そ、そんな……」
「ずっと言ってますよね? 僕、本気です。小夜さんのこと……好きだから……」
「~~~~っ!」
 急になにを言い出すのか。運転手さんだっているのに! でもさすがプロ。運転手さんはなにも聞こえないフリ、見えないフリをして、運転してくれている。
 顔が熱くなって、二階堂を見ていられない。ぷいっと窓の外に視線を向け、だんまりを決め込む。
(ドキドキする……)
 まっすぐに向けられる好意から逃げられない。気持ちの直撃を喰らってしまい、その都度異様なときめきを覚えてくらくらする。
 うっかり恋がはじまってしまわないように、まだ彼のことをよく知らないからと予防線を張る一方で、素直な気持ちを四六時中浴びて、彼のことが気になってしまう。
 だって気にならないわけがない。この一ヶ月、彼の真っ赤な好感度メーターは一度も下がることがなかった。彼の態度も変わらない……無限大の想いでずっと好きって言ってくれる……こんなに小夜を想ってくれる人は他にいないかも……
 そのとき、シートに置いていた指先が二階堂のそれと触れ合って、ハッとする。
 恐る恐る二階堂のほうを見てみると、もうポコポコとハートは出ていなかったけれど、代わりに蕩けるような眼差しとかち合う。不意にぎゅっと手が握られて、ドクンと心臓が跳ねた。
「!」
「……いや、ですか?」
 包み込むように手を握られて、親指で手の甲をそっと撫でられる。村上に同じことをされたときには嫌悪感からぞっとしたのに、今は胸の奥が甘く痺れてくる。緊張して、身体の芯がざわめいて──落ち着かない……落ち着かないけれど、いやじゃない。いやじゃないのだ。
 そのことに気付いたとき、頬にカアァッと熱が上がって思わず窓のほうを向いた。
「……だ、大丈夫……」
「よかった……」
 またぎゅっと手を握られて、指と指とを絡められる。恋人繋ぎになったその手を、小夜はとても振りほどけなかった。
 恋に落ちるにはまだ早いと思っているのに、手のひらから二階堂の熱が伝わってくる。あたたかくて、染み込んでくるような、確かな存在感のある熱が、小夜の中でじっくりと広がっていく──
「小夜さん……好きです」
「…………」
 ポツリとこぼれた二階堂の声に鼓動が高鳴る。小夜が素知らぬフリをして窓を見ていると、暗くなって反射した窓に二階堂の顔が映った。
 彼は窓越しに小夜を見つめながら、切なそうに目を細めてくるのだ。そんな目で見られたら……彼の想いが伝わってきて胸が苦しくなってくる。
「好きです……」
 彼のその言葉に、心の中の柔らかい部分が刺激される。
 小夜はほんのちょっとだけ、二階堂の手を握り返した。


 三十分ほどタクシーに揺られて着いたのは、閑静な住宅街にある六階建てのマンション。茶色いタイル仕立てで、高さはそれほどないが、横に大きく部屋数は多い。このマンションの三階に小夜はひとりで住んでいた。駅から少し歩くぶん、家賃がお財布に優しいのだ。
「三二〇〇円になります」
「あ、わたしが出すね」
「いいえ、僕が」
 二階堂の手が小夜から離れたのは、タクシーの料金を払うタイミングになってから。彼はすかさずスマホを取り出すと、ピッとバーコードをかざして、あっと言う間に会計終了してしまった。
「えっ! 払っちゃったの? じゃあ、お金……」
 タクシーを降りた小夜が財布を出そうとすると、一緒に降りた二階堂は、笑いながら小夜の手を押しとどめた。
「いいから」
「いや、せめて半分だけでも出させて?」
 小夜の家まで送ってもらったのだ。二階堂の家がどこかは知らないが、遠回りになったことは確実だろう。そう言ってまた財布を出そうとしたのだが、優しい笑顔でとめられた。
「格好つけさせてください。好きな人の前では格好つけたいんです」
 はにかむように微笑まれて、小夜の胸がうるさく鳴り響く。今日一日で何度“好き”と言われたんだろう?
「部屋まで送らせてくれますか? 上がりませんから。玄関の前まで」
 スマートに言われて、断る術を小夜は持っていなかった。
 エレベーターで三階に上がり、通路を中ほどまで歩くと、そこが小夜の部屋だ。
「ここなの。送ってくれてありがとう」
「僕こそありがとうございます。歓迎会、開いてもらって嬉しかったです」
「幹事、最後までできなかったけどね」
 自嘲気味に肩を竦めると、二階堂は気にしないでと笑ってくれた。その笑顔と一緒に、そっと指先を包まれる。名残惜しそうに握られた手から、熱がじんわり伝わってきた。
「あの、小夜さん。休みの日に僕と一緒に出掛けてもらえませんか? デートというか……」
 二階堂が緊張しているのが伝わってくる。ずっと好き好き言ってくれる彼だけど、決して軽い気持ちで言っているわけじゃないというのは、好感度メーターを見ていてわかる。彼は自分の想いを口にしないではいられない人なんだろう。彼は嘘のない人だ。好感度メーターとその言葉は常に一致している。
 素直で、まっすぐで、可愛い人。
 彼がくれる愛情に心惹かれている自分がいる。あの無限大の愛情を一身に受けたなら……
「ん……いいよ」
 小夜が小さな声で頷くと、二階堂の頭上の好感度メーターがキラリと輝き、ポコポコポコポコポコポコッ! と勢いよくハートが弾け飛んできた。
「やった! 約束ですよ! また連絡します! おやすみなさい!」
 駆け出した彼は、途中何度も振り返りながら小夜に向かって手を大きく振り、好感度メーターからはポコポコとハートを撒き散らす──その様子は子犬がクルクル回りながら駆けていく姿とそっくりだ。あまりにも無邪気で可愛くて、思わずくすっと笑ってしまった。
「おやすみなさい、またね」
 小夜も小さく手を振る。
 彼を見ていると、ドキドキするだけじゃない。ふとした瞬間、どこか胸があたたかくなっている自分に気が付くのだ。
 胸がときめく。
 小夜は自然と口角が上がっていくのを自覚しながら、玄関のドアを開けた。


『三連休にプラネタリウムに行きませんか?』
 そうメッセージで二階堂からお誘いがあったのが先週末。
 七月の三連休の最終日、ストライプのノースリーブロングワンピースを身に纏った小夜は、くるりと姿見の前で一回転した。
(うんっ。可愛いよねっ!)
 大人っぽくリラクシーな雰囲気が素敵で、左ウエストに付いた黒い大きめのリボンがいいアクセントになっている。それが気に入って買ったワンピースだ。ふんわりシルエットが可愛らしさをプラスしてくれる。
 仕事ではいつも下ろしているストレートの黒髪を、今日はせっせとコテで巻いてふんわりさせ、編み下ろしスタイルに結ってみた。いつもはしない髪形が新鮮で、ちょっと照れくさい感じがしてしまう。髪形まで変えるなんて、気合が入りすぎているだろうか?
(でも、可愛くしたいし……)
 二階堂に可愛い自分を見てほしい。初めてのデートだから、余計に。
 小夜は壁に掛けた時計を見て、さっとリップグロスを塗り直した。
(ちょっと早いけど、もう行こうかな)
 用意はできた。あとは出掛けるだけだ。小夜は帆布でできた丸底の小振りなトートバッグを持ち、ローカットのキャンバススニーカーを履いて颯爽と家を出た。
 二階堂と待ち合わせをしているのは、特急電車のとまる大きな駅だ。会社の最寄り駅のような繁華街ではないが、海沿いの街で、観覧車と大型ショッピングモールがあり、デートスポットとして賑わっている。
 十時十分。約束の時間、二十分前だ。早く着きすぎた。初めてのデートに張り切ってしまった自分がちょっと恥ずかしい。
(どうしよ……)
 喫茶店に入る? でも、二十分くらい待っていればちょっとな気も……そんなことを考えながら、小夜は待ち合わせの駅シンボルのモニュメントの前に向かった。
 すると──
(えっ! 二階堂くんっ!?)
 トレンドの白いビッグシルエットTシャツにシンプルなパンツというラフな格好。斜め掛けバッグを合わせた彼は、モニュメントに寄り掛かり、スマートフォンをいじっている。私服の二階堂は新鮮だ。ただ立っているだけなのに、アイドル顔負けな容姿なことも手伝って、周りの女の子たちがチラチラ視線を送っている。
 約束の時間の二十分も前なのに、もう待ち合わせ場所に来ているなんて! いったいいつから待っていたんだろう。ついうっかり、待ち合わせ時間を間違えてしまったんだろうかと焦ってしまう。
「二階堂く──」
 小夜が慌てて駆け寄ろうと一方を踏み出したのと、さっきから二階堂を見ていた女の子ふたり組が、彼に声をかけたのはほぼ同時だった。
「…………」
 女の子たちを相手にしている二階堂を見ていると、なんだか胸にザラッとしたものが広がる。
 なにを話しているのかはわからないが、彼は会社で見るような朗らかな笑顔ではなく、スンとした無表情だ。その差にびっくりしてしまう。彼は愛想がいいほうなのに、あんな表情をするなんて。
 彼はひと言ふた言話すとスッとふたりから離れようとした。そのとき──
「あ、小夜さん!」
 小夜と目が合った二階堂の頭上に好感度メーターが浮かび、ギュィィィィィィイン! と鮮やかな赤いメーターが伸びてパアァン! と枠をぶっちぎり限界突破すると、真っ赤なハートをポコポコと出しながら駆け寄ってきた。嬉しそうな笑顔で、尻尾まで見えそうな喜びようだ。そんな彼を見ていると、自然とさっきの胸のザラつきがほぐれていく。
「おはようございます! わぁ、休日の小夜さんだ。いつも可愛いけど、今日は特別可愛いですね! 髪の毛結んでるのも新鮮で! 可愛い!」
 目をキラキラさせながら小夜を見つめ、“可愛い”を連呼してくる二階堂は、もういつもの彼だ。好感度メーターとリンクしたまっすぐな褒め言葉に照れながら、小夜は手を後ろに組んで微笑んだ。
「おはよ。褒めてくれてありがと……二階堂くんもかっこいいよ……」
「小夜さんに褒められた。この服ヘビロテしようかな」
「ふふっ」
 なんだか顔が熱くなってくる。小夜は誤魔化すように前髪をちょんちょんと触って話を変えた。
「二階堂くん、早いね。待ち合わせ時間の二十分前なのに。いつからいたの?」
「えっと……小夜さんを待たせたくなくて。実は十分くらい前からここに……」
 そんなに前から来ていたのか。それだけ今日を楽しみにしてくれていた? 自分も気が逸って二十分前に来たくせに、それは棚に上げておく。
 頬を掻いた二階堂は、可愛く照れながら微笑んだ。
「来てくれてありがとうございます。今日は楽しみましょう」
「んっ!」
「じゃあ、早速プラネタリウムに行きましょうか!」
「んっ!」
 小夜と二階堂は歩いてプラネタリウムに移動した。プラネタリウムは待ち合わせの駅から徒歩十分くらいのビルの屋上階にある。科学館ではないプラネタリウム専門の施設だ。都会の真ん中でプラネタリウムが楽しめると、オープンしたてのときには、随分と話題になったらしい。夏休み前の三連休ということもあってか、チケット売り場には人が列を成している。中に入ってすぐのところにある売店にも、人がたくさんいた。
「実はもうチケット買ってあるんです」
「そうなの? ありがと」
 なんて準備がいいんだろう。話を聞くと、WEB上で買えるんだそうだ。
 中に入ると誰もいない。上映まで時間があるからだろう。予定よりも早く着いたから当然か。
 白いドームの中にひとり掛けの座席がズラリと八〇席ほど並んでいる。映画館のように段差はないが、結構な広さだ。ドームの中央には迫力満点の大きな投影機が。そして一番前の席にあったのは、五席ある真っ白でふかふかの円形ソファだ。雲のような形をしている。脚を伸ばせるタイプで、寝ながら星空を鑑賞できるらしい。
「実はこのカップルシートを予約したんです」
「え、そうなの?」
 まさかカップルシートだとは思わなかった。正直、恥ずかしい。寝ながらということは、ひとつのベッドに一緒に横になっているのとそう変わらないのでは?
(わたしの考えすぎかなぁ……?)
 まだ付き合っているわけではないのに、そんな近い距離感でいいんだろうか?
 小夜が躊躇っていると、先に座った二階堂がぽんぽんとソファを叩いてきた。
「小夜さん! このソファ、寝心地よさそうですよ」
「え、あ、うん」
 靴を脱いで恐る恐るソファの上に乗ってみる。ふかふかしていて気持ちのいいソファだ。ちょこんと行儀よく横座りした小夜に、ごろりと寝転んだ二階堂が軽快に笑った。
「小夜さん、リラックス、リラックス」
「う、うん……」
 なんだか二階堂を意識しすぎて照れてしまう。でも、今なら周りに人はいないし……少しくらい大胆になってもいいのかも……
 えいやっと思い切って身体を横たえてみると、二階堂が微笑みながら顔を覗き込んできた。頭上の好感度メーターは相変わらず無限大で、赤く光り輝いていて、ハートがポコポコと飛び出している。
「小夜さんとふたりっきりだ、嬉しいな。このまま誰も来ないといいのに」
「ふふ。貸し切りがいいの? さすがにそれは無理じゃないかな」
 そんな思い通りにいくわけがない。チケット売り場に並んでいる人は結構いたのだ。上映時間が近くなれば、きっと彼らが入ってくるはず。
 誰かが入ってきたときにバカップルだと思われないようにしないと。そう思った小夜は身体を起こして、ソファに座り直した。
「プラネタリウムって久しぶり。小学生の頃に校外学習で見たのが最後かも」
「そうなんですか? 僕はたまに来るんですよ。夜の上映はヒーリングプラネタリウムっていって、オリジナルアロマの香りが楽しめたりするんです」
「へぇ、今はそんなのもあるんだ? だからかな? なんかここ入ったときちょっといい匂いするなって思った」
「確かにちょっといい匂いでしたよね。映画みたいに、ホラーのプラネタリウムもあるんですよ」
「ええっ、ホラー? ホラーとプラネタリウムって意外すぎる~。わたし、怖いの苦手」
「じゃあ、ホラーはやめときましょう、結構怖いんで。あと楽器の生演奏を聴きながら見るプラネタリウムもあったりして──」
 話しながら待っているとあっと言う間に時間が過ぎる。でも、その間誰も入ってくる気配がない。もしかして本当に本当に貸し切り状態……?
 小夜が入り口のほうを見ると、ブーッと開演案内のブザーが鳴った。照明が前から順に落ちて、ドームが真っ暗になる。
「──今、目の前に広がるのは、無数の星たちのきらめき。この星空は、遠い昔から人々の願いや想いを映してきました。夜空に光るひとつひとつの星は、誰かが大切な人を想って見上げた光でもあります」
 ナレーションと共に、漆黒の天井一面に星々が咲き乱れる。ひとつ、またひとつと増えていく光は、やがて視界を覆い尽くし、夜空そのものが目の前に降りてきたかのようだった。
 はじまったプラネタリウムに小夜が一気に呑み込まれていると、後ろからそっと肩を抱かれた。
「横になりましょう?」
「あ、うん……」
 言われるがままソファに横になると、一八〇度広がる満天の星に吸い込まれそうになる。
(わぁ、綺麗……)
 無数のきらめきは圧巻だ。都会じゃこんな星空は見られない。手を伸ばせば触れられそうで、触れたら指先が光に溶けてしまいそう。人工物であることなど忘れるほど、リアルで美しい。でも、すぐ隣に感じる二階堂の体温が気になってしょうがない。あまり広いソファでないだけに、肩と肩が触れ合っている。
「──星は遠い昔から変わらず、私たちを照らしてきました」
 その言葉に呼応するように、天井いっぱいの闇がいっせいに輝きを増し、漆黒の空間に星がぶわっと花開いた。銀の粉を惜しみなく散らしたような天の川が、緩やかに弧を描いて流れていく。
 そのとき──突然ぎゅっと手を握られて、小夜は小さく肩を震わせた。
(あっ)
 思わず隣を見れば、暗闇に溶け込む二階堂の横顔が、ほんのわずかにこちらを向いている。
「小夜さん……僕、小夜さんとずっと一緒にいたいです」
 低く囁かれる声は、ナレーションよりも近くて、胸の奥に直接落ちてきた。広がった星空が、ふたりのためだけに輝いているように思えてしまう。事実、ここにはふたりしかいないわけだけど……
 天の川が緩やかに流れ、その中でひとつの星が尾を引いて走った。流れ星だ。
 小夜は心地よい緊張に包まれながら、唇を引き結んだ。
「…………」
 胸の奥で高鳴る鼓動が、流れ星の光と重なって響いている。なにを言えばいいのかわからず、言葉が喉の奥で絡まってしまう。
 けれど──嬉しい。
 握られた手があたたかくて、振りほどきたくない、離したくない。このまま突き進むのが怖いような気もするのに、突き進んでみたい気持ちもある。揺れるこの女心の取り扱い方が、自分でもわからない。
「小夜さん……好きです」
「……ん」
 否定せずに、小さい声で頷く。彼の気持ちに嘘はないことは、もうわかっている。
 暗闇の中で視線が交わり、ふと彼の指先が小夜の頬を撫でた。
 思わず息を呑んだ。
 満天の星を見ているはずなのに、今は二階堂しか見えない。少し上体を起こした彼の顔の距離が近くなるたびに、胸の鼓動はますます高鳴り、呼吸さえ忘れてしまいそうだった。
 彼の整った輪郭が、淡い光を放つ瞳が、星明かりを受けて揺れている。
 徐々に徐々に近付いてきて、二階堂の吐息が頬を掠める。暗闇と光の狭間で、世界がふたりだけに閉じていく。
 あと少しで唇が触れてしまう──その瞬間、館内に柔らかな音楽が流れ、ナレーションが再び響いた。
「──どうぞこの星たちに願いを託してみてください」
 ピタッ──ふたりの距離は、ほんの紙一重でとまった。
「んんっ……」
 誤魔化すように咳払いする。
 触れなかった唇がかえって熱を帯び、余韻の甘さだけが胸いっぱいに広がっていくようだ。
(……キ、キスされるかと思った……)
 お客が他に誰もいないとはいえ、公共の場なのに!
 ああ、ドキドキする。
 小夜は唇を噛み締めながら、満天の星を仰いだ。隣から、二階堂の視線を感じる。彼がとまってくれなかったら、本当にキスされていたら……小夜は抵抗できていただろうか?
 高鳴る胸を抱えたまま、繋いだ手は最後まで離れなかった。


 四十分の上映のあと、プラネタリウムを出たふたりは、ショッピングモール内にあるレストランでランチを食べた。パスタと焼きたてパンの店で、木のぬくもりが心地いいカジュアルイタリアンの店。そこら中に小人のモチーフがあり内装も可愛らしかったが、ガラス張りの厨房からはパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、店に入った瞬間に空腹を感じたほどだ。
 小夜はベーコンときのこのカルボナーラを食べた。二階堂は季節野菜のペペロンチーノ。二階堂がひと口くれたから、小夜もひと口彼にあげた。シェアするのは恥ずかしかったけれど、なんとなく……彼とならしてもいい気分になったのだ。
「焼きたてパンおいしかったね」
「なにが一番好きでした?」
「クロワッサン! 焼きたてのクロワッサンはサクサクで最高だね!」
 レストランを出て、話しながらショッピングモールを見て回る。雑貨店やアパレルショップを目的もなく覗いて、ふと振り返ると自分を見つめる二階堂の優しい笑みがある。そんな彼の好感度メーターは無限大でいつも真っ赤。小夜がなにをしても、なにを言っても、一ミリも下がる気配がない。
 なんとなく照れくさい気持ちになって、小夜はウィンドウに並んでいたカウボーイハットを取って被った。
「似合う?」
 ちょっと戯けてみせる。
「ん。可愛いです」
 無限大の好感度メーターから、ポコポコと真っ赤なハートを出す二階堂を見て満足し、小夜は帽子を戻した。
 エスカレーターを降りる途中、吹き抜けから覗く一階の広場に、カラフルなジェラートのキッチンカーが見えてくる。多くはないがいくつかテラス席がある。キッチンカーはジェラート以外にもホットドッグやトルティーヤがあり、人集りができていてちょっとしたお祭りの屋台みたいな雰囲気だ。
「ねぇ、あそこでデザート食べたいな」
 ジェラートのキッチンカーを指差す。
「ジェラートか、いいですね」
「ふふっ、おいしそっ!」
「可愛いなぁもう」
 ポコポコ……また、二階堂の好感度メーターからハートが飛び出してくる。もしかしてこのハートは、彼が小夜を“好きだ”とか“可愛い”と思うたびに出ているのかもしれない。そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「ジェラートなに食べよっかなぁ~」
 一階に着くと、キッチンカーの前に大きな垂れ幕が掛かっていてメニューが載せられている。キッチンカーに向かって歩きながら、遠巻きに小夜はメニューを眺めた。
「あ、ストロベリーがある。わたし、ストロベリーにしよっかな」
「じゃあ、俺はピスタチオにしようかな。小夜さん、コーンでいいですか?」
「うん」
「じゃあ、俺、ちょっとひとっ走り行って買ってきます」
「いいの?」
「はい。陽射しが強いからそこにいてください」
 七月下旬の灼熱光が降り注ぐ。確かに今日は暑い。空は雲ひとつない青空で、陽射しのあるところにいたら焼けてしまいそうだ。小夜は屋根のあるテラス席に一歩引っ込んだ。
「ありがとう。お願いするね。あ、お金はあとで払うから」
「これぐらいいいですよ。格好つけさせてくださいって」
 二階堂がころころ笑いながらキッチンカーに駆けていく。そんな彼の後ろ姿を見送って、小夜は静かにテラス席に腰を下ろした。
 二階堂と一緒にいるとドキドキする。不安からくるドキドキじゃなくて、軽い高揚だ。それは心地よく、ありのままの自分を引き出して、小夜を自由にする。普段なら“周りにどう見られているか”を意識してしまう小夜なのに、彼の隣ではそんなことは考えなくてもいい。自分をよく見せようと取り繕う必要もなく、自然体でいさせてくれる。
 ふざけて帽子を被ったり、子供っぽく甘えてみたりしたけれど、そのたびに二階堂は笑いながら、優しい……けれど確かに熱っぽい眼差しで見つめてくれるのだ。
 好感度メーターだってずっと無限大のまま。「可愛い」と口にするごとに、ハートをあふれんばかりに出してくる。
 彼は新しい小夜を見せても幻滅するんじゃなくて、喜んで受け入れてくれる……それだけ強く想ってくれている。
 それがなにより──嬉しい。
 この人と、ずっと一緒にいたいかもしれない。もう既に、彼に心を許している自分を認めないわけにはいかない。
 ジェラートを受け取った二階堂が小夜のほうに歩いてくる。小夜は椅子から腰を浮かせて彼を出迎えた。
「おかえり~」
「ただいま、小夜さ──」
 ザ────ッ!
 あと一歩でテラス席……というところで、雨が物凄い勢いで降ってきたのだ。そして、一帯をびしょびしょに濡らし、一瞬でやんだ。本当にあっと言う間の出来事だった。
「ええ──……」
 全身濡れ鼠になった二階堂が両手にジェラートを持った状態でその場に固まる。小夜もあまりのことに身動きが取れなかった。
「だ、大丈夫!?」
 我に返り、慌ててバッグからハンカチを出して二階堂に駆け寄った。背伸びして濡れた彼の頬にハンカチを当てる。
「ぷっ! アハハ! なんだよもー。めっちゃ濡れたし!」
 晴れているのに大雨。夏の天気のいたずらに、二階堂は怒り出すでもなく、噴き出して大笑いする。二階堂の他にも雨に降られて濡れてしまった人たちはいたけれど、彼のように笑い飛ばしている人はいない。ただ運が悪かったと肩を落としていたり、理不尽に不貞腐れていたりする人ばかりだ。性格なんだろう。でも、その性格が爽やかで嫌味がない。釣られて小夜も笑ってしまった。
「すごかったね。びっくりした」
「ね。びっくりですよ、ほんと。ジェラート溶けたんじゃないかな? あーでも──」
 彼は小夜に顔を拭かれながら、眩しそうに目を細めた。
「──小夜さんが濡れなくてよかった」
 穏やかな眼差しで微笑まれ、ぐっと胸が詰まる。これは彼の本心なんだろう。
(優しい人……)
 こういうところ、すごく好きだなぁと思ってしまう。自分はこんなに濡れたのに、小夜のことばかり考えてくれる。
 小夜はストロベリージェラートを受け取って、彼の濡れた髪をそっとハンカチで拭いた。
「でも二階堂くんがだいぶ濡れちゃった。今日はもう帰る?」
 本当はもっと一緒にいたいけど……
 小夜が上目遣いで見つめると、彼は思いっきり首を横に振った。
「絶対いやです! ちょっと濡れたくらいで帰るなんて! 僕なら大丈夫です! こんなのすぐに乾きます!」
 力いっぱい言い切る彼に、小夜はあ然として、そしてぷっと噴き出すように笑った。そうまでして帰りたくないなんて。
「わかった、わかった。帰らないよ。ふふふっ、ハンカチ、よかったら使って?」
「ありがとうございます。僕、ハンカチ借りてばっかりだな」
 ひとしきり顔を見合わせて笑うと、ふたりはテラス席に座ってジェラートを食べた。


 陽が暮れて、自宅マンションまで送ってもらった小夜は、玄関の前で二階堂を振り返った。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
 これは小夜の本心だ。途中、アクシデントもあったけれど、彼のことをより知れた気がする。
「僕も楽しかったです。すごく……」
 二階堂は小夜の指先をちょこんと握って、照れながら口元を引き締めた。
「あの、好きです……小夜さん。よかったら、僕とのこと、前向きに考えてみてください。お願いします」
 ぺこっと頭を下げてくる彼が律義だ。小夜は彼の指先を握り返した。
「ん……わかった」
「じゃ、また明日会社で」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
 手を振りつつ、爽やかな笑みで帰っていく二階堂を見送って、小夜は胸に残るあたたかな気持ちを抱き締めながら部屋に入った。


 翌日、昼──
「ただいま戻りました」
 外回りからひとり帰ってきた小夜は、鞄から書類を出しつつ二階堂の姿を探した。が、向かいの席は空っぽだ。
(あれ……いない……)
 いつもなら、「おかえりなさい」と飛び付いてきてくれるのに。今日は今井主任と行動しているようだったから、指導ついでに資料室にでも行かされているのかも。すぐに戻ってくるだろう。
 そう思った小夜は、書類を片付けるとノートパソコンを立ち上げた。まずはさっき外回りで行ってきた会社の訪問記録をまとめなければ。エクセルのフォーマットを開く。
(担当者の反応は……前向き寄り。次回の提案次第で、もう一歩踏み込めそう……っと)
 指が軽快にキーボードを叩いていく。
 そうしてお昼になって顔を上げると、里見と三宅がランチに誘いに来てくれていた。
「小夜! お疲れ。ご飯食べ行こ」
「うん。──あれ? 二階堂くんは?」
 向かいの席は未だに空っぽ。おかしい──そう思いはじめたとき、今井主任が声をかけてきた。
「二階堂なら帰ったぞ」
「えっ!」
 予想だにしていなかったことに面喰らう。小夜が「どうしたんですか?」と聞く前に、今井主任が教えてくれた。
「具合悪いんだと。なんか熱っぽいって言ってたな」
「そう……なんですか……」
 今朝、会社で顔を合わせたときは元気そうだったのに。きっと昨日雨に降られたせいだ。軽く拭いただけだったから、風邪をひいてしまったのかもしれない。
(心配だな……)
 熱は高いんだろうか? ちゃんとひとりで帰れただろうか? 大丈夫だといいのだが……
 どこか気持ちが落ち着かない。
 里見と三宅と一緒に社員食堂に向かって定食を頼んだところで、小夜は二階堂にメッセージを送った。
『早退したって聞いたんだけど。具合は大丈夫?』
 送信してしばらく待ってみたけれど、返事は来ない。いつもならすぐ返事が来るのに。寝ているんだろうか。
 二階堂から返事が来たのは、小夜が食事を終え、昼休みがもう終わる頃だった。
『ちょっと熱っぽくて。風邪ひいたみたいです。たいしたことないです。寝れば治ると思います』
 たいしたことないと聞いてちょっとほっとする。明日には治っているといいのだけれど。
『お大事にね』
『ありがとうございます』
 本当はもっと彼とメッセージを送り合っていたいけれど、もう午後の仕事がはじまる。小夜は後ろ髪を引かれる思いで仕事に戻った。