戻る

今日、初恋をリセットします。 憧れの先輩に実はずっと愛されていたなんて!? 1

第一話


 夕焼け色の空を眺めながら、吉川葵【よしかわあおい】は校門を潜った。自転車置き場を通り過ぎ、ペダルを強く踏み込む。送別会は午後七時から。開始まで三十分を切っているが、会場は自転車で十分もかからない距離だ。間に合うのはわかっている。それでも一年生の自分がギリギリに着くわけにはいかないと、落ち着かなかった。
 体育館とグラウンドの間を抜け、部室棟の前で自転車を降りる。焦る気持ちを抑えつつスタンドを立て、カゴから洗濯済みのタオル袋を取り出した。
 階段を駆け上がっていると、視界の端に体育館が映り込む。
(……あっという間だったな)
 葵はこの春高校に入学し、マネージャーとして男子バレーボール部に入部した。中学時代まで選手としてプレーしていたが、足を負傷したため今は裏方だ。
 練習中の部員を見ると羨ましく思う時もあるが、マネージャーの先輩たちは明るく優しい人ばかりで部活動が楽しい。毎日が充実していた。しかし今日、そんな三年生たちが引退する。わずか三ヶ月半の付き合いなのに、思い出は色濃く、脳裏に焼きついていた。
(……いけない、急がなきゃ)
 自然と止まってしまった歩みを進める。だが、部室が近づくにつれ、違和感を覚えた。それに、なにかを抑え込んだようなくぐもった声まで聞こえる。
 気のせいならいいが、幽霊や心霊現象は苦手だ。葵は怯えつつも部室に近寄った。
(……鍵が、開いてる?)
 外されたダイヤル式の南京錠を見て、葵は違和感の正体に気づいた。部室の鍵は主将とマネージャーリーダーが管理している。だがミーティングの後に、葵はリーダーの星野から鍵を受け取っており、もうひとつは新部長の佐藤が持っているはずだ。
(……じゃあ、中にいるのは佐藤先輩?)
 葵は目を眇め、扉の隙間から部屋の中を覗き込んだ。すると、見慣れた背中がぼんやりと見える。葵はハッと息を呑み、見間違いではないか、もう一度確認した。
(……あれって)
 夕陽の差し込む部室には、部長の春名陽裕【はるなようすけ】がいた。けれど様子がおかしい。
 春名は壊れかけのパイプ椅子に腰掛けて、頭からタオルをかぶっていた。大きな背中を丸めて肩を震わせている。時折、堪えきれないような嗚咽を溢し、これが先ほど聞いたくぐもった声だと理解した。
(――泣いている……)
 胸がギュッと締めつけられた。春名は試合後も、引き継ぎミーティングでも、終始笑顔を見せていた。試合に負け、悔し涙を流す部員を励まし、寂しがる後輩たちにエールを送ってくれた。――それなのに。
 ダンッ、と彼が足を踏み鳴らす。葵は勢いよく扉を開けて部室に飛び込んだ。
「――ハル先輩!」
 空気の抜けたバレーボールを飛び越えて、彼の元に駆け寄る。
 踏み鳴らした右足は、今日の試合で負傷したばかりだった。病院に行ったのだろう、包帯をして床には松葉杖が転がっている。
「な、なにをするんですか!!」
 葵は春名の前に跪くと、右足を覗き込んだ。痛くはなかったか、悪化したらどうするんだと恨みがましい目を向ける。
「……怪我、しているのに。……もっと大切に……っ」
 彼の顔を見た瞬間、それ以上言葉が続かなかった。力なく俯く様子に、適切な言葉が出てこない。
 あまりにも悲しい目。それなのに、差し込む夕陽のせいか、ゾッとするほど美しかった。瞳いっぱいに涙を湛えた目はなにもかも諦めたような色を滲ませる。
「――ハル先輩……」
 試合中、彼はボールを追いかけるのに夢中なあまり、味方と接触し転倒した。
 そして、足を負傷。コートを離脱した。たぶん、接触した部員に気を遣わせまいと、試合の後も、ミーティングの後も、自身の怪我について触れなかった。
 けれど、試合に負けた悔しさと責任をたったひとりで背負っている。最後まで部長であろうとする、その健気な姿勢に胸を打たれた。
(――なんて不器用な人なんだろう……)
 悔しいなら悔しいと泣けばよかったのに。仲間と共に思いきり泣いて、感情を吐き出せば苦しむ必要などなかったはずだ。
 気がつけば葵の目からもはらはらと涙が溢れていた。虚ろな目がようやく葵を認識する。
「――どうして、吉川が泣いているの」
 わずかに見開いた目がすぐに困ったように和らいだ。さっきまで悄然としていた様子が一瞬で部長の顔になる。あぁ、気遣われてしまったという残念な気持ちが強くて、つい溢れた言葉がこれだった。
「く、悔しくて」
 いつも輪の中心で笑っている春名が、たったひとりで泣いていた。誰もいない部室で、静かに感情を吐き出していた。葵がいることにも気づかず、頼りにもしてもらえない。それがとても寂しくて、葵は唇を噛み締めた。
「――ひとりで泣かせてしまったことが……」
 頼りになる部長は誰にも弱い部分を見せられない、不器用な人。笑顔の裏にたくさんの葛藤があったはずだ。自分に厳しいからこそ、その責任を重く受け止めているのだろう。その悩みに気づいてあげられなかった不甲斐ない自分に腹が立つ。
「――誰も悪くないんです。試合に負けたのも、ハル先輩のせいじゃない……っ」
 たしかに春名が最後までコートに立っていたら、勝てたかもしれない。でも、試合の後、少なくとも部員の中で、そんな阿呆なことを言い出す奴はいなかった。
「――それでも悔しいなら、わたしも一緒に泣きますから……」
 涙を拭いながらそう言えば、春名が破顔する。
「――なにそれ、かっこよすぎ……」
 そしてすぐに顔をぐしゃっと歪めた。悔しさも、歯痒さも、文句もすべて押し込んだ顔。彼は逃げるように顔を背け、葵の肩に顔を押し付けた。
 ――トクン
 胸の奥で跳ねた鼓動が、なんの感情なのか、自分でもわからなかった。
 縋り付く腕に気を取られ、考える余裕すらない。やがて肩が濡れていく感触がして、彼に囲われていることに気づく。
 葵は少し躊躇って、嘆く背中にそっと手を伸ばした。不器用な彼を宥めながら、橙から薄い闇に染まる空を静かに眺めていた。


      * * *


 葵は目を凝らしながら、パソコンの画面を注視していた。視線を左から右へと流し、入力項目に間違いがないか確認する。最後に添付されたファイルを開き、リップの取れた唇でぶつぶつと数字を読んだ。
 入力された数字と添付の領収書の数字が合っていれば承認ボタンを押す。合っていない場合は棄却ボタンを押した。その作業をひたすら繰り返す。
 新卒で入社した東藤【とうとう】ハムは、〝食卓にいつも美味しいを届ける〟を理念に食肉加工食品、冷凍食品、調味料や健康食品等を展開している大手食品メーカーだ。
 グループ会社を合わせると延べ二万名を超える従業員を抱え、国内に二十以上の自社工場を持つ。取引先は百貨店や大手小売メーカーだけでなく、最近ではコンビニへも製品を卸すといった新しい取り組みも始めていた。
 おかげで事業は年々拡大中。最近では東藤ハムのCMで用いられている音楽が話題になり、世代を超えて認知度が上がっている。
 葵はそんな会社の経理部に所属しており、今は経費精算書の承認確認を行なっていた。なんといっても、本日は十一月二日。月初だ。経費申請の締め切りは毎月五日までだが、明日は祝日で会社が休み。できるところまで確認してしまおうと残業申請を出して、この時間まで残っていた。
 承認業務は地味に面倒くさいが、それほど難しいわけではない。時折こんな風に間違いはあるが、概ね単調な作業だった。
「あぁ、二百円違う……」
 新幹線の指定席は時期によって価格に変動がある。添付された領収書の方が多く、入力された申請書の金額が少なかった。どうしてだろう……と不思議に思っていると、金額の合う選択肢がなかったようだ。こういう時は直接入力してほしい、とマニュアルには書いているのだが。
「ま、読まないよねぇ」
 読んでくれよ、と思いつつも、葵はきっちり申請の棄却理由にその旨を入力した。きっと金額の合う選択肢がなく、二百円ぐらい……と思って涙を飲んだのだろう。その心意気は認めるが、会社の経費を自身で負担しないでほしい。
 葵はコメントの最後に「今後はマニュアルご確認後、ご不明点があれば経理部までご相談ください」と一言添えておいた。そして棄却ボタンを押す。
 マウスのクリック音の後、溜息が漏れた。それと同時にお腹が鳴る。
 ――ぐぅ~……
「もう八時か……」
 パソコンの片隅にある日時を確認すると、どうりでお腹が空くわけだ、と納得した。葵は首を左右に倒して両肩をぐるぐる回す。オフィスにはいつの間にか葵以外誰もおらず、ひとり黙々と仕事をしていたらしい。本来ならもっと早く帰れるはずが、本日は上司の渡辺が体調不良で欠勤している。ママ社員の坂井は時短勤務で、新米パパ社員の横川は、定時で保育園にお迎えダッシュしていた。帰り際、葵に「明日僕がやるから、早く帰ってね」と言ってくれたが、明日は休み。
 ただでさえ、月末月初は業務量が増える。そのうえ、今月は年末調整に賞与支給額の決定があり、できることは前倒しで進めたかった。じゃないと、トラブルが起きた時詰んでしまう。
「あーあ、集中切れちゃった……」
 ぐったりと椅子の背もたれに背中を預けて、ぼんやりと画面を見つめる。次の申請書が表示されているが、マウスに手を伸ばす気力が出てこなかった。
(――あれだ、あれ。お腹が空いて力がでない~ってやつだ……)
 葵は某菓子パンヒーローのセリフを思い出してひとりでふふっと笑ってしまった。誰もいないのに、にやにやしているなんて気持ち悪い。
 さらに、懐かしい音楽が有線で流れて――つい目を閉じてしまう。
 高校時代に流行った失恋ソング。世代を超え、今も多くのファンを虜にしている楽曲だ。葵もまた虜になったひとりで、同時にある先輩の顔を思い出した。
(――元気にしているかなぁ……、ハル先輩。しかも今日、誕生日だし……)
 十一月二日は彼の誕生日。葵の二つ上なので、二十八歳になった。
 彼に恋をした時のことを今もまだ、鮮明に覚えている。
 まるで水たまりに波紋を広げるように、胸の奥から膨らんだ感情の雫が静かにゆっくりと落ちた。じわじわと広がる不思議な感覚が心を揺らし戸惑わせる。同時に足元から湧き立つような感覚にも包まれて――これが〝恋〟なのだ、と気がついた。
 二十六年という短い人生の中で、後にも先にもあの感覚は一度きり。彼の後に交際した人や告白された人もいたけれど、同じ感覚にはならなかった。
 きっと初めて〝恋〟というものに触れたから、脳が教えてくれたのだと思う。
(――ま、叶わなかったんだけど)
 ここでぐうたらしていても、腹は満たされないし、仕事は進まない。それなら気分転換にコンビニにでも行こう、と重い腰をあげた。
 残業は午後九時までしかできない。それ以降は事前に部長の承認と共に、明確な理由が必要だった。大手企業はコンプライアンスや会社のルールにとても厳しい。働き方改革が始まり、いわゆるホワイト企業というブランドを保つには、会社だけでなく従業員の協力も必要である。
 おかげで、基本的には定時に上がれるが、残業のたびにいちいち承認をもらうのは正直面倒くさい。
(――逆に言えば、集中して業務ができるから良い面もあるんだけどね……)
 葵はエレベーターに乗り、二階のオフィスフロアエントランスに降りた。首からぶら下げたセキュリティカードを翳してゲートを潜る。警備員に挨拶をして、一階に続くエスカレーターを降りた。ビルの一階にはコンビニだけでなく、ドラッグストアや飲食店など商業施設が充実している。この時間になると祝日前の陽気な雰囲気が漂っており、葵はそれを横目にコンビニに入った。
 夕食は母が作ってくれているので、軽くつまめるものを……と考えながらチルドコーナーに向かう。商品の在庫が心配だったが幸いにもまだ残っていた。
 それも、春雨サラダ、ひじきの煮物、ピリ辛味付け玉子と三種類も。
(――どれにしようかな……)
 顎下で拳を弾ませながら、葵は悩む。気分は玉子だ。だが、玉子を二つも食べると夕食が入らなくなりそう。今夜のメニューがなにかは知らないが満腹で帰るわけにはいかない。とはいえ、この後まだ少し仕事をする。家に帰る頃には午後十時近くになっているはずだ。時間と空腹を計算し終えて葵は決断した。
(――よし、玉子にしよう。最後のひとつだし)
 ラスいちゲット! なんて思いながら手を伸ばす。しかしその時、隣からにゅっと知らない人の手が伸びてきて――。
「――あっ」
 手がぶつかる。咄嗟に手を引っ込めたが、シュッと爪が擦れて葵は顔を青くした。短く切って整えているが、爪は爪だ。もしかすると怪我をさせてしまったかもしれない。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ。不注意でした」
「お怪我はないでしょうか? 手を引っ掻いてしまい……」
 おろおろとしながら、葵はぶつかった手を凝視する。骨っぽい長い指と手の甲に、引っ掻き傷は見当たらなかった。
(――よかった……)
 ホッと胸を撫で下ろして顔を上げる。まともにその男性の顔を見て言葉を失った。
 形の良い二重瞼。口を閉じていても口角が上がっているかのように見える口元。左目の下にある小さな泣きぼくろがセクシーで、笑うと埋もれてしまうことをよく知っていた。
 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろう。つい先ほど思い出したばかりの先輩が大人になって目の前に立っていたのだから。
「――ハル、せ……ん、ぱい?」
 語尾がしゅるる~……と勢いを失くす。もしかすると彼によく似たそっくりさんの可能性もあるのだ。だが、葵の不安をよそにその男性は、葵が懐かしい名前を呼んだ途端、目を見開いた。薄茶色の虹彩を覆うコンタクトレンズがよく見えるぐらい、目がまん丸になる。彼はややして、怪訝そうに口を開いた。
「――もしかして、吉……川?」
「はい、吉川です!」
「え、マジで?」
「マジです。本物です」
「え、え? えぇ~」
「なんですか、その〝えぇ~〟は」
「いや、だって……。わかんないだろ、これは」
 不思議そうに瞬きをした葵にハル先輩こと春名陽裕が苦笑した。
「――俺の知っている吉川は、小豆色のジャージを着たショートカットの女の子。もちろん、化粧もしていないし、ヒールだって履いてない」
 そりゃそうだ。お互い高校生で、部活の先輩と後輩だ。会うのはいつも体育館でいつもTシャツにハーフパンツ姿だ。間違ってもスーツなんて着ていない。
 一方、葵は学校指定のジャージだ。葵の学年は小豆色だったので、いつもTシャツに小豆色のズボンを履いていた。足元は当然競技用のシューズ、もしくはスニーカー。ヒールを履き始めたのは社会人になって以降だ。高校時代しか知らない春名が驚くのも無理はなかった。
 最後に会ったのは、彼が高校を卒業した年の夏。彼らにとってひとつ下の後輩たち、葵のひとつ上の先輩たちの最後の試合を見に来てくれた。以来会っていない。
「――お元気でした?」
「うん。元気、元気。吉川は……元気そうだな」
「おかげさまで」
 葵は笑顔で肯定する。春名もまたつられて微笑んだ。
「でも、名前を呼ばれるまで全然誰かわからなかったよ」
「どこで気づきました?」
「呼び方かな。俺を〝ハル先輩〟って呼ぶのは吉川の代、それも一部のメンバーだけだから」
 たしかに部員たちは〝ハルさん〟や〝部長〟と呼んでいた。葵は〝春名先輩〟から略して〝ハル先輩〟になっただけ。
「どうですか? 大人になりました?」
「大人になったというか……シンプルに綺麗になったね」
 率直な褒め言葉がくすぐったい。褒められ慣れていないせいで、葵はどう返せばいいかわからなかった。自分でも特段不細工だとは思っていないが、別段美人というわけではない。どちらかといえば童顔で、二十四歳の時、すっぴんで夜にコンビニに行って年齢確認されたこともある。葵は口元をむずむずさせながら、笑って誤魔化した。
「――そういうハル先輩も大人になりましたね」
 春名は当時のあどけなさを削ぎ落とし、精悍さを加えた大人の男性に成長していた。黒い短髪は、アレンジがしやすい長さまで伸ばされ、トップにボリュームを乗せたアップバングヘアに。耳周りがスッキリしているのでとても好印象だ。上質な濃灰色のチェック柄のスーツにワインレッドのネクタイ。ベルトと靴は焦茶色で合わせたお洒落な装いは、彼をより誠実でこなれ感のある男性と印象付けていた。
「大人って……。もう二十八だよ。おっさん」
「おっさんはナイです。そうだ、今日、お誕生日ですよね? おめでとうございます」
「覚えていたんだ?」
「はい!」
 春名が嬉しそうに頬を緩める。葵は笑顔で頷いた。
 十一月二日生まれ、蠍座のA型。身長百八十センチ・七十一キロ。大好物はカレーとハンバーグ。好きなお菓子はガトーショコラ。朝ごはんに納豆は欠かせない。目玉焼きは醤油派でおやつにはゆで卵かサラダチキン。どれも高校時代の情報だが、十年経った今もまだ覚えている。
「なので、味玉どうぞ」
「え、いいの?」
「はい。わたしは別のものにします」
 葵は味玉の代わりにヨーグルトを選んだ。ひとつでタンパク質が十グラムも摂れるという、小腹が空いた時の強い味方だ。
「それ、俺もよく食う」
「美味しいですよね」
「この間ネットで安く見つけてさ。うちの冷蔵庫に一ヶ月分ぐらいある」
 そのせいで他の食材が入らなくなった、と嘆く春名に笑ってしまった。
「入るかなと思ったんだ。実際入ったけど、詰めが甘かった」
 ヨーグルトのスペースしか考えていなかったらしい。しばらくは食材のまとめ買いができないと項垂れている。
「――そういえば、吉川はどうしてここに? もう遅いのに」
「ここのビルの中で働いています」
「やっぱり。じゃないとこんな時間に会わないよな」
 午後八時を過ぎてオフィスの入った商業ビルのコンビニで顔を合わせたということは、仕事か、家が近くで仕事帰りにたまたま立ち寄った……ぐらいだ。
 お互い手ぶらなので、後者の可能性はない。つまり――。
「ハル先輩もこのビルで働いているんですか?」
「うん。ウィルネットっていう会社。待って、名刺を出すから」
 春名は足元に籠を置くと、ポケットから名刺ケースを取り出した。その中から一枚出して、葵に差し出す。
「コンサルティング部、マネージャーって……、すごい!! 管理職じゃないですか」
「若い会社だから人がいないんだ。そういう吉川は?」
「東藤ハムです」
「吉川こそすごいじゃん」
「えへへ。うまく引っかかりました」
 就職活動中、唯一引っかかった大手企業。記念受験のような気持ちでエントリーシートを出したが、あれよあれよと面接へ進んだ。無事内定をもらった時は家族だけでなく、親戚中が大喜びしてくれた。
「ハル先輩、それ夜ごはんですか?」
 セルフレジで会計をする。彼の籠の中には、おにぎり、サラダ、味付け玉子が入っていた。成人男性の夕食にしてみれば量は少ないが、バランスの取れたメニューだ。
「そう。帰って作るのも面倒だし、腹減ったし。吉川は? それだけってことはないだろ?」
「はい、夕食は帰って食べます」
「えらいね。作るんだ」
「実家暮らしなんです」
「いいね。作ってくれる人がいるって」
「甘えてばかりで申し訳なく思いますけどね」
 その分、給料から家にお金は入れている。両親は気にしなくていいと言ってくれているが、甘えっぱなしはよくない。
「――そういえば、縁【ゆかり】、こっちに戻ってきたんだっけ」
 二歳年上の兄、縁はプロバレーボール選手として活動している。春名とは中学時代県の選抜代表チームでプレーした。
「そうなんです。寮暮らしですけど家が近いのでよく帰ってくるようになりました」
 兄は昨季まで神戸ベルーガに在籍していたが、今季は横浜ファルコンズに移籍。念願叶って拠点を神戸から横浜に移して以降、週に一度は実家に帰ってくる。
「ご両親は嬉しいんじゃない?」
「もう慣れて、〝また来たの?〟って呆れています」
 二人はコンビニを出てオフィスフロアに戻る。いつもならサクサク歩くエスカレーターを、今夜はのんびり上った。途中立ち止まると、春名も足を止めてくれる。
「縁によろしく言っておいて」
 春名の勤める会社のオフィスは二十一階、葵は十階だ。エレベーターホールが各階によって異なるため、セキュリティゲートを潜った先でお別れする。
「はい。お仕事頑張ってください」
「吉川も。気をつけて帰れよ。――また」
 手を振って去っていく春名を葵は見送った。エレベーターホールに消えていく後ろ姿が見えなくなるまでずっとその場で立ち尽くしていた。