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ライバルなのに愛し合うなんてごめんです!? 御曹司なモテ男の執着愛 3

第三話

 

 待ち遠しい週末がやっとやってきた。
 いくら仕事が好きでも、そこは人間。
 遥香だって疲れるし、適度な休養は必須である。現実問題、一人暮らしなら掃除や洗濯に留まらず、家でやるべきことが目白押しなのだ。
 貴重な土日は晴れ予報が出ていてホッとしたが、雑事に追われて終了しそうな予感に、想像だけで嘆息したのもしょうがない。
 だが突然光琉からの『暇なら付き合ってくれ』という連絡により、遥香は待ち合わせ場所に立っていた。
 土曜日の駅前は、大勢の人が行き交っている。時刻は間もなく正午。
 よく待ち合わせの目印にされるモニュメントの周囲は特に混んでいて、これでは目当ての相手を見つけるのが逆に困難なのではないかと心配になるほど。
 やや離れた場所にいる遥香は、携帯電話に視線を落とす人々の群れを、ぼんやり眺めていた。
 ──何で私、断らなかったんだろう。
 光琉とは『同期』だけでは説明しきれない関係ではあるものの、決して会社が休みの日にまでわざわざ会う間柄ではなかった。
 休日出勤などの事情ならいざ知らず、プライベートで顔を合わせるのは、あくまでも退社後のホテルでだけ。しかも必ず終電に間に合うように解散する。
 それがセフレの流儀であり作法だと思っていたのだが。
 ──面白みのない週末にうんざりした気分のところへ『奢る』なんて言われたから、ついノコノコ出てきちゃった。……今からでも帰ろうかな。
 彼のメッセージを受信する直前に、地元の幼馴染から結婚報告を受けたのも影響していたのだろう。
 電話の向こうで友人は、『独身同盟、一抜けさせてもらいます。お先に失礼』と宣った。
 こっちはそんな同盟を結んだ覚えはないし、結婚願望もないのだが、勝ち誇った口調にカチンときたのは不可抗力だ。もしくは単純な負けず嫌いが発動したか。
 何だか悔しいと感じたタイミングで光琉から食事に誘われ、気づけば了承していた。
 ──嫉妬とかではないけど、私にも結婚に対する憧れとか多少はあったのかな。
 そうでなければ、彼と休みの日に約束するなんて、これまでは考えられなかった。
 というか、今でも『ミスったかな』と思っている。
 正しいセフレは、こんなデートっぽいことはしないはず。食事のために待ち合わせなんぞ、線引きを誤っていやしないか。
 外出用に身なりを整え、電車に乗ってここまで来たにも拘らず、遥香は今更の懊悩で段々気が重くなってきた。
 ──私の悪いところだよね。深く考えずその場の気分で行動しがちなところ。仕事中はそれなりにコントロールできているのに、プライベートは油断しちゃう。……というか、ひょっとして高峰さんが関わると、ガードが甘くなる?
 辿り着いてはいけない答えに踏み込んだ気がして、遥香は咄嗟に思考を中断した。
 そんなわけがない、気のせいだと全力で己に言い聞かせる。
 色々な意味で安定した今の生活サイクルが壊される予兆を感じ、慌てて頭を左右に振った。
 ──今の、なし。偶然でしょ。たまたま、そんなことが続いたから、理由を見出したくなっているだけだって。
 セフレはセフレ。
 大事なのは身体の相性と安全性。それ以上を求めたら、根本から揺らいでしまう。
 この居心地がいい関係を続けたいなら、不要なものは排除するのが、唯一にして絶対の正解だった。
「一人でヘッドバンキングして、何してんの」
「縦ノリじゃないから、ヘッドバンキングとは違うでしょう」
「ふはっ、横ノリはしていたの?」
 顔を合わせるなり明るく笑う光琉に肩透かしを食らった気分になった。
 こっちとしてはどう言い訳して本日の予定をキャンセルしようか思い悩んでいたのに、馬鹿らしくなる。
 揶揄う口調に不快感は抱かず、遥香は秘かに安堵の息を漏らした。
 ──よかった。いつも通りだ。
「急に誘い出して、ごめん。忙しくなかった?」
「予定があったらOKしてないよ」
「そりゃそうだ。でも断られるかなって思っていたから、逆に意外だった。来てくれて、嬉しいよ」
 晴れやかに笑った彼に、皮肉の色はない。本心から楽しげな笑顔は眩しくイケメンだ。
 丁度通りかかって目撃した若い女性は、目を見開いて頬を赤らめている。それくらい、非常に魅力的で、喜びが溢れていた。
 ほんの数秒前まで、如何にして立ち去ろうか思案していた身としては、若干の疚しさを禁じ得ない。
 よもや自分の頭の中を読まれたのではあるまいなと、遥香の顔が引き攣った。
「……暇していたし、奢ってくれるって言うから」
 半分、嘘だ。
 本当はやらねばならないことは沢山ある。今日中に常備菜を作り置きしておくつもりだった。
 だがそれらを後回しにし、遥香は部屋を出てきたのだ。
「ああ。予約していた店があるんだけど、同行者が急遽都合がつかなくなってさ。当日キャンセルは店に迷惑になるし、何よりもなかなか予約が取れない人気店だから惜しくって」
 ──それって、相手は女性?
 強張りそうになった口元を緩め、遥香は「へぇ」と短く返した。
 実際には『彼女?』『だったら浮気って疑われない?』『痴情の縺れに巻き込まれるのは、ごめんですけどっ?』と一瞬のうちに様々な考えが渦巻いたが、おくびにも出さない。
 しかし微かに目の色が濁ったかもしれない。
 横目でチラリとこちらを見た光琉は、特に言及することなく前を向いたけれども。
「大学時代の友達がこっちに来る予定が、風邪をひいて無理になったんだ。数年振りの再会だから、楽しみにしていたのに残念だ。ちなみに、男」
「あ、ああ。そうなの」
 胸の中に湧いた感情の種類を見極めたくなくて、遥香は殊更素っ気なく告げた。
 だが見知らぬ相手であっても、せっかくの予定を変更しなくてはならないほど体調不良なら心配になる。
 数秒の沈黙の後、「あまり悪化しないといいね」と付け加えずにいられなかった。
「……遥香は基本的に優しいな。俺には辛辣なところがあるのに」
「え? 難癖つけている?」
 喧嘩なら買うぞの精神で、顔を背けた彼の背を軽く叩いた。気安い遣り取りは、遥香の気を大きくさせる。
 けれど光琉はこの流れに乗るつもりがないのか、大仰な溜め息を吐いた。
「……鈍感」
「はい?」
 ぼそっと呟かれた言葉は、聞き取れなかった。
 遥香が聞き直そうと首を傾げても、彼にもう一度口にする気はないらしい。さっさと歩き始めるものだから、置き去りにされまいとこちらは追いかけるより他になくなった。
 人ごみではぐれれば、面倒だ。
 他者を器用に避けて歩く光琉の背中に、遥香は慌てて追いついた。
「ちょっと、そっちの方が圧倒的に脚が長いんだから、ゆっくり歩いてよ」
 せめて目的地が分かっていれば平気だが、どこに向かうか教えてもらっていないので、不安になる。普段あまり利用しない駅なので、地理に詳しくない。
 しかも観光客が多い昨今、よく分からないところで急に立ち止まられたり、道を塞ぐ大荷物を抱えていたりする人々が少なくなく、一度光琉と離れてしまうと合流するのも一苦労だ。
 少しはこっちに気を遣えの意味で、遥香は彼に抗議した。
「こっち。じゃあ、はぐれないように手を繋ぐ?」
「えっ?」
 スクランブル交差点の信号が変わり、四方八方から人並みが押し寄せる。
 いい歳をした大人、それも特別な関係ではない男女が手を繋ぐ意味が見当たらず、遥香は数秒固まった。
 その隙に、無防備に下ろしていた左手を取られる。
 拒否する前に引っ張られ、思わず歩き出した。
「え、あの。手は──」
「これなら遥香が迷子にならずに済むでしょ」
「ま、迷子って。私のこと馬鹿にしていない?」
「いいから、こっち」
 歩く速度が速まって、文句が喉奥に絡まった。
 遥香一人で雑踏を歩くより、比べ物にならないほど快適に前へ進める。ぶつかることもなく、スイスイと人の間を縫い、それでいて強引に引き摺られている感覚はなかった。
 光琉が遥香に歩調を合わせてくれたのかもしれない。そして、ぶつかりそうになる度にさりげなく守ってくれた。
「裏道に入れば、静かになる」
 彼の誘導に従って行けば、大通りから外れた瞬間、喧騒が遠退いた。
 広い道路を埋め尽くす勢いだった人出も、急に閑散とする。たった一本道を逸れただけでこんなにも風景が変わるのは驚きだった。
「この先は昔からの高級住宅街があるから、かなり雰囲気が違う。どっちの空気も俺は好きだけど」
「この辺、詳しいの?」
「以前、住んでいたから」
「え」
 日本有数の繁華街の一つである地域に、『住んでいた』と言われ驚いた。
 このエリアは相当裕福でないと、とても家賃を捻出できるとは思えない。遥香的には、遊びに来る場所であって、暮らす場所ではないという認識だった。
 ──もしや実家がかなり太いのかな? いやまぁ、『この辺』の定義にもよるけど。
 電車で数駅離れたり、川を越えたりすれば土地価格は大幅に変動する。遥香はきっとそういうことだろうと判断し、深く追及しようとは思わなかった。
 どうせセフレに過ぎない自分には、あまり関係のない話だ。興味本位で根掘り葉掘り聞くのも下品だと考えた。
「結構歩くの?」
「ここから十分はかからない。それより──もう少し俺に興味を持ってもよくない? 話題拡げないんだ」
「え……ああ、聞かせたいなら、話していいよ」
 ──もしかして家が裕福だって自慢したいのかな? へぇ。かなり、意外。
 光琉が社内で実家のことをペラペラ喋る姿を目撃したことがなかったので、私的なことは明かさない主義かと思っていたのだが。
 遥香が『以前住んでいた』の言葉に食いつかなかったのが不満なようで、彼は軽く顔を顰めている。
 急に機嫌を損ねられた理不尽さは呑み込み、遥香は昼食を奢ってもらう手前、先を促した。
 ──さっきまで上機嫌だったのに、情緒不安定? らしくないな。
 普段の光琉は同年代の若者の中でもかなり精神的に大人だと思う。遥香を揶揄って遊ぶところはあるが、幼稚な面を見せたことはなかった。
 節度を保った悪ふざけ。その域を踏み越えず、他人を不快にすることはない。
 かなり自分を客観視してコントロールできる人だ。
 会議の場では俯瞰して周囲を見ているのか、癖のある取引先や上司を上手く転がしている。
 出世が早くても同期に妬まれないのは、要所要所で巧みに人間関係を構築しているからだろう。遥香が苦手な根回しも上手い。
 こっちが感情的になっても、しなやかに受け流してバランスを取ってくれる。そんな点を心底信頼していた。
 ──でも何か、今日は雰囲気がちょっと違うかも。
 思えば、わざわざ約束を取り付け社外で会うのは、これが初めて。
 仕事で意見が対立した後でもない。今週は月曜日の騒動以降、至極平和だった。
 キャスティングに纏わるトラブルは彼のおかげで事なきを得たし、その後はかなり順調に進んでいる。
 他に問題は勃発せず、だからこそ土日は心置きなく休める予定だった。
 だから遥香が光琉と会う理由はないと言える。発散したいストレスを抱えていないし、運動不足でもない。
 無意識に決めていた『セフレのルール』を逸脱している自分に戸惑い、遥香は視線を揺らした。
「……いや、別にいい。特に面白い話でもない」
「何それ、そっちが話を振ったんじゃん」
「今日は仕事の延長じゃないから、どういう話題が相応しいか、探っただけだ」
 その言い方だと、彼も遥香との距離感を測りあぐねているように聞こえた。まるで緊張しているみたいで、こちらまで動揺が大きくなる。
 何を言えばいいのか迷ううちに、いつしか目的の店に到着していた。
 隠れ家レストランといった風情の小さな店舗は、知らなければ前を通り過ぎてしまうだろう。
 小さな看板は目立たず、中の様子は窺えない。
 だがいい香りが店外まで漂っており、遥香は空腹感が刺激された。
「素敵なお店だね。内装が可愛い」
「フランスの田舎町に建っているイメージで造ったらしい。すごく雰囲気が出ているよな」
「行ったことないから判断できないけど、居心地がいいのは伝わってくるよ」
 気取らない空気が落ち着く。こぢんまりとした店な上、一見分かり難い店構えなのに、人気で予約が取れないレストランとのことで、いやが上にも期待が高まった。
 どうやら常連客が多いらしく、店内では誰もが穏やかに料理を楽しんでいる。忙しさや賑やかさとはかけ離れた時間が、ゆっくり流れていた。
「……こういう店を好むんだ」
 遥香は何となく声を落とし、独り言ちた。
 改まった席で二人きりの食事をするのは初めてだなと思い至る。仕事終わりに適当に買ったものを腹に収めるのとは、随分趣が違った。
 あれらは空腹を満たすことを目的にし、味や雰囲気は気にしたこともない。
 もはや作業と同じで、楽しむ発想もなかった。それよりもどうやって時間を有効活用するかばかりを計算していた。
 つまりは、性行為により長くかまけるために。
 ──思い返すと、全力でセックスを優先して、食べる時間が惜しいとすら考えていたわ。人間として終わっているな、私……
 自分の殺伐具合に眩暈がする。一応二十代の女として、マズい自覚はあった。
 ──でも……恋愛はもう面倒臭いんだよね……どうせ私には向いていない。
 胸の奥がヒヤリとする感覚があって、遥香は睫毛を伏せた。
 嫌な記憶が浮かびそうになり、強引に頭の隅へ追いやる。わざわざ不愉快なことを思い出す必要はない。
 せっかく今日は若者の休日っぽい時間を過ごしているのだから、余計なことは欠片も考えたくなかった。でなければ、モヤモヤしつつここに来た意味がない。
 気もそぞろながら、光琉と当たり障りのない会話を交わしている間に、注文した料理が運ばれてきた。
 ムール貝の白ワイン煮、そば粉のガレット、アーティチョークの詰め物など。他にも色々。
 海産物のメニューが多く、遥香には食べやすかった。しかも全てが美味しい。
 甘いシードルも飲み口がよく、つい杯を重ねてしまう。
 アルコール度数はさほど高くないものの、極上の料理と温かな店の雰囲気に酔ったのかもしれない。
 すると饒舌になるのか、普段なら口にしようとも思わない疑問が、ついこぼれた。
「……高峰さん、何で今日はご友人の代役に私を誘ってくれたの?」
 きっと彼ならば、他にいくらでも付き合ってくれる相手はいるだろう。
 それこそ男でも女でも。
 敢えて遥香を選んだ理由が分からない。その上、自分がOKするとはあまり思っていなかったようではないか。
 なのに、何故。だが質問しても答えを聞きたいのかどうか、遥香自身曖昧だった。
 ──やっぱり酔っているのかな。馬鹿なこと聞いちゃった。
 いったいどんな答えを期待しているのか、全くもって謎だ。苦笑して、遥香はごまかすために愛想笑いを浮かべた。
「ごめん。何でもない」
「遥香と来れば、絶対に楽しいと思ったからだよ」
 しかし濁そうとしたのを遮って、光琉はキッパリと言い切った。
 一瞬の逡巡もなく。初めからその答えを用意してきたと言わんばかりに。
 その勢いに圧倒され、遥香は質問しておいて唖然とした。
「それは──ありがとう?」
 普段意見が対立することが多いし、あまり個人的な話をしたこともないので、そんな風に思ってもらえていたのは驚きだ。
 嬉しくもある──が、彼の真意を図りかね、遥香の笑みは微妙に歪んだままだった。
「料理、どれも美味しかった。私一人だったら絶対辿り着けないし、そもそもこんな素敵なレストランがあるって、知らないままだったな」
「気に入ったなら、よかった」
 絡んだ視線をさりげなく解き、話題を変えたことに光琉は気づいただろうか。
 こちらに注がれる眼差しに勘付いても、遥香は平静を装った。
 今、目を合わせてしまったら何かが変化する予感がある。向き合いたくないものを突き付けられそうで、怖いと感じた。
「……こっちも、一つ聞いていい?」
 幸いにも彼は先ほどの会話を強引に続けるつもりはないらしい。
 上手く矛先を逸らせたことにホッとして、遥香は軽く頷いた。
「勿論。奢ってもらうお礼に、答えられる範囲なら喜んで。仕事のこと?」
「じゃあ、遠慮なく。──遥香はどうして頑なに特定の恋人を作らないんだ?」
 まさかこんな人目のある場所で、しかも真っ昼間に危うい話題をぶっこまれるとは思っておらず、大いに動揺した。
 遥香が口に含んでいた水を吹かなかったのは、奇跡に近い。
 ただ気管には入ってしまい、盛大に噎せた。
「ごほっ、げほっ、ぐ……な、何て?」
 辛うじて『セフレ』などの際どい単語は出されていないが、光琉が問いたい内容は明らかだ。少なくとも周囲の目と耳があるところでする会話ではなかった。
「いや、ずっと聞きたかったけど、機会がなかったから。今なら答えてくれる気がして」
「ずっと、って……」
「初めてそうなった、あの日から」
「わ、わぁ!」
 遠回しな言い方でも遥香は慌てふためき、つい周囲を素早く確認した。決定的なワードは飛び出していないものの、誤解されかねないではないか。
 世間的常識に当て嵌めれば、身体だけの関係を称賛されることはないのだ。
「ちょっと、やめてよ」
「理由を教えてくれたら、やめる。あの後──遥香は『絶対に付き合うことはない』って宣言したよな。俺のことが嫌いなのかと思ったけど、結局はズルズル続いている。初めは、俺が恋人に相応しいか試されているのかなとも思ったけど、それにしちゃ審査期間が長いし」
「審査期間って……ローン査定じゃあるまいし……高峰さんも酔っているの?」
 自分でも間の抜けた突っ込みになったのは察している。
 だが思い切り茶化すのも、真剣に聞き入ることも相応しくない気がした。
 どんな表情をすればいいのか判断できず、遥香は落ち着かない心地で座っていることしかできない。息苦しさを覚え、いっそ席を立ってしまおうかとも考えた。
「これくらいじゃ酔わないって、知っているだろ。それより、遥香は自由に遊びたいタイプでもないよな。むしろ堅実で慎重だ。それに俺とのことを秘密にしたいのは、この関係に疚しい気持ちがあるからじゃないか?」
 いちいち的確に言い当てられて、心の奥底を覗かれている錯覚がした。
 全部、その通り。
 遥香の狡さと保身、美味しいとこ取りを選択した結果だ。そして丸ごと光琉が受け入れてくれたからこそだった。
 今思い返しても、彼はよく了承してくれたなと感嘆する。同じ部署内にセフレがいるのは、それなりにリスクを負うはず。
 普通なら、何もなかったことにして距離を置くか、一応は交際してみて円満に別れるかだろう。大人の責任として。
 ただ、光琉にも利益がある話なのかなと、当時遥香は納得した。彼が深く詮索してこず、あっさり『槙野さんがそう望むなら、分かった』と頷いてくれたからだ。
 ──それなのに、どうして今更こんなことを質問してくるの?
「普通に付き合うか、忘れた振りをした方が楽なのに、どちらも遥香は選ばなかった。それは何で?」
「つ、付き合うって……そっちこそそんな気はなかったでしょう? 誰とも交際する気がないって、社内では有名だったもの」
「それは──まぁ、いろいろ事情があって、表向き宣言した方が煩わしくなかったから。でも俺はちゃんと『本気じゃないなら』って付け加えていたと思うけど」
「案外真面目な高峰さんを変なことに巻き込んでごめんってば。いくらでも謝るから、もう許してくれない?」
 ──チクチクと私を攻撃してくるのは、彼の信念を曲げさせてしまったせい?
 今更蒸し返すなんてしつこいと言いたいのをグッと呑み込む。
 事の発端は遥香のやらかしなのを反省しているので、強く出られなかった。
「──槙野さんっていつもは有能なのに、こういうところは的外れだな。ポンコツ?」
「すっごい悪口言うじゃん……申し訳ありませんでした!」
 ここはひたすら頭を下げるより道がないと諦め、遥香は素直に首を垂れた。
 ──今日出てきたの、やっぱり失敗だったかも。
 これまで通り適度な距離を保ち、セフレの流儀を守っていたら、光琉に嫌味を言われることはなかったのでは。
 返す返すも自分の判断力の甘さが憎らしい。
 しかも下げた頭部にズシリとした圧を感じるものだから、顔を上げられない。
 先ほどの質問に回答するまで、この拷問が続くのか。
 遥香は真実を伏せたままこの場を切り抜けられる方法を模索した。
 ──高峰さん、実は粘着質なの? 割とドライだと思わせ油断させて、急に厳しく私を尋問するの、策士じゃない? すっかり油断していたから思いっきり術中に嵌った気分。……いや、恨み辛みはお門違いだよね……もとをただせば全部私が原因だし。
 しかし『あの件』は口にしたくない。
 別に大層な秘密でもないけれど、遥香の黒歴史だ。
 光琉とうっかり寝てしまったことよりもっと己の恥部であり、苦い記憶。
 口にする気にはなれない。しかし上手い嘘も思いつかず、じっと押し黙る。
 重苦しい沈黙が流れたのは、おそらくほんの数秒。だが遥香がいよいよ限界を感じ始めた時。
「……どうしても言いたくないなら、いいよ」
「えっ」
 グイグイと追い詰めてきたくせに、遥香が強い戸惑いを滲ませると、光琉はあっさり引いてくれた。
 本気の『嫌』を見抜いたのだろう。こういうところが、嫌いになれない。
 悔しいけれど優しい男だ。
 じわりと胸の奥が熱くなり、張り巡らせていた遥香の心の壁が僅かに崩れた。
 仲のいい友人は勿論、家族にだって打ち明けようとは一度たりとも考えなかったこと。
 話されても、相手が困るだけに決まっている。だからこそ遥香は一生誰にも語るつもりはなかった。
 けれど彼ならば──妙な偏見や嫌悪感を持たず、聞いてくれるかもしれない。
 そんな期待が、これまで過ごした積み重ねの中で育っていた。
「……くだらないって、笑わない?」
「しない。誓ってもいい」
「そんな大袈裟なものはいらないけど……」
 遥香は自分の中に凝る出来事を、初めて他者に話す気になった。『あの日』以来、極力思い出したくもなかった不快なこと。
 いざ口にしかけても、言い淀まずにはいられない。
 迷う遥香を急かすでもなく、光琉はじっと待ってくれた。だからこそ背中を押された気がしたのかもしれない。
 テーブル越しにそっと身を乗り出すと、意図を察した彼も前のめりになった。
 光琉の耳へ口を寄せる。内緒話をするようで、ほんのりとこそばゆい。
 吸い込んだ彼の香りは、秘密の戯れに興じる時よりも不思議と軽やかで爽やかに感じた。
 ──夜じゃなく、こんなに接近するのは新鮮だな……何だかホテルで密会するよりも、親密に感じる。
「……昔付き合っていた人に、『淫乱』って言われたの」
 聞こえるギリギリまで絞った声量はしかし、充分光琉の耳に届いたようだ。
 彼は僅かに肩を強張らせ、ゆっくりこちらに視線を向けてきた。
 その瞳には嘲笑も呆れもない。それどころか、遥香ではなくかつての恋人への怒りが滲んでいた。
「は?」
 恫喝に似た低い声が、たった一言発せられる。
 こんなにも負の感情を露わにした光琉を目にしたのは、初めてだった。
「何だそいつ。頭湧いてんの?」
 剣呑な瞳が細められる。真剣な面持ちは、美貌も相まって無機質に見えた。
 ──よかった……万が一『その通りじゃん』なんてニヤニヤされたら、私は結構傷ついたかもしれない。
 自分を品行方正な淑女だと言うつもりはないものの、気を許した相手に『淫乱』などと貶められれば悲しくなる。かつてと、同じに。
 しかも当時の遥香は、当たり前ながらセフレなんて抱えていなかった。
 真剣交際をし、身体を許したのもその恋人だけだ。
 大学時代にできた初めての彼氏と過ごす時間は夢のようで、恋しい人と肌を重ねるのも、遥香には最高の喜びだった。
 けれど交際二年目の秋。
 彼は突然『お前って、すっげぇ淫乱だよな』と遥香を罵ってきたのだ。
 浮かべた薄ら笑いは下品で、思い出す度に腸が煮えくり返る。しかし怒りに変換できるのは、今の遥香だからこそ。
 当時の自分はショックと羞恥で、黙り込むのが精一杯だった。
「まぁ、いきなり何言ってんだって話だよね。失礼だし、大学生にもなって言っていいことと悪いことの区別もつかないの、痛々しいわ」
 とはいえ今だから分かること。たぶんあの時の元恋人は、遥香を貶めることで己の自信のなさをごまかしたかったのだと思う。
 というのも、体力があり好奇心旺盛な遥香は、セックスにも貪欲だった。
 大好きな人と密着して包まれる、覚えたての幸福感に酔っていたのかもしれない。
 親元を離れた学生生活の解放感と人生初の恋人。浮かれていたのは否めない。
 周りが見えなくなっていたし、比較できる対象もいなかったから──自分の旺盛な性欲はごく普通だと信じていた。
 しかし、彼は違ったのだろう。
 遥香の期待に応えられない時もあり──男のプライドが傷ついていたのが、今なら理解できる。心のバランスを保つために『遥香がおかしい』と攻撃的にならなくてはいられなかったことも。
 ──だけど、だからって私にトラウマを植え付けていいってことにはならないよね。やっぱりあいつはクソ男だわ。
 別れを告げられた後日、大学の仲間うちでは遥香に関する屈辱的な噂が囁かれた。
 曰く、『槙野遥香はスキモノ過ぎて、手に負えない』。
 流したのは元カレで間違いなかった。
 あくまでも自分に非はなく、遥香に原因があり『俺が振った』と周囲に知らしめたかった姑息さが丸見えだ。
 幸い遥香を庇ってくれる女友達が多かったので、さほど広まることはなかったが。
 とにかくそういうことがあって以来、遥香は『付き合う』ことにひどく慎重になった。もっと言えば、臆病になった。
 好きだった人に裏切られ、しかも自分の性欲は並外れており、淫乱らしい。
 それが元カレの負け惜しみの捨て台詞だとしても、呪い同然の言葉は心の奥に深く突き刺さった。
 抜けない棘として。いくら忘れた振りをしても、秘かに膿んで癒えてくれない。
 今後再び誰かと交際すれば、またそんな風に思われるかもしれないと考えると、一歩踏み出す勇気はなくなった。
 だったら誰とも特別な関係にならなければいい。
 恋愛から足が遠退けば、自然と性的欲求も薄れ『普通』になれるはず──そう信じてスポーツに打ち込み、就職するまではそこそこ上手くいっていた。
 転機が訪れたのは、光琉との過ちの夜。
 言い訳はいくらでも並べ立てられるが、端的に言えば『理想のセフレを見つけてしまった』だった。
 身体の相性が合い、人格や性癖に難がなく、口が堅い男。安心安全に遥香の欲求を満たしてくれる──高峰光琉という人を。
「──だからさ、私にとっては現状が一番快適なんだよね。高峰さんは昔の元カレみたいな真似をしないし、私自身、面倒臭いことを避けられる」
 言葉を選びつつ、遥香は過去の苦い記憶を吐き出した。
 恋に絶望したのは何年も前で、既に立ち直っているけれど、それでも新たな恋愛をしようとは思えなかった。
 大人になるほど、フットワークは重くなるのかもしれない。
 人生において仕事に重きを置いている身としては、他のことに悩まされ余力を使うのが煩わしかった。
 一から恋人関係を築くよりも、手っ取り早く欲しいものを手に入れたい。この場合、遥香が欲しいのは言わずもがな『性的な満足感』だ。
 冷静に考えるとみっともなくて浅ましい本音を吐露し、遥香は深々と嘆息した。
 ──あぁ、ぶちまけちゃった。
 流石に絶句されるかなと不安になったが、光琉なら遥香を軽蔑はしないだろうという謎の信頼感はある。
 そして案の定、彼は大仰な溜め息を吐き出した。
「好きな女を悦ばせるより自分のプライドが大事な、下手くそなガキに八つ当たりされて、嫌気がさしたってことか」
 遥香に対してではなく、元カレに対する文句と共に。
「ははっ、そんなところ。もう他人に気持ちを乱されるのが心底嫌なんだよね。感情を揺さ振られたくもない。歳を取ったのかも。仕事以外に割くリソースが、今の私には負担が大きい」
 光琉が辛辣に元カレを罵ってくれたので、こちらも軽く笑い飛ばせた。
 深刻な空気にならずに済んで、安堵する。もし光琉から痛ましげに見られ同情されても、遥香は居た堪れなかったに違いなかった。
「なるほど、分かった。今が必要な時間なんだな、遥香にとっては」
「ん? そうなの、かな?」
 やや意味が汲み取れなかったが、彼が自分にとってかけがえのない『セフレ』なのは事実だ。
 替えはきかない。できるなら、まだこのぬるま湯関係に浸かっていたかった。
「強引に踏み込むのは逆効果だって、肝に銘じた」
「高峰さんはいつも絶妙な距離感を保ってくれているじゃない。──今日は、珍しかったけど」
 そして遥香の側も普段とはやや違う行動をした。
 五年も関係を続けていれば、こんな日もある。不意に距離が縮まって、戸惑うことも。
「じゃあ、いつもと同じに戻ろうか」
「ん?」
 急に艶を帯びた声音で告げられ、遥香は瞠目した。
 先ほどの渋面から打って変わり、光琉は妖艶さをだだ洩れにしている。
 テーブルの上に置いていた手を取られ、意味深に撫でられた。
「俺を最大限利用していいよ」
 握られた遥香の手は持ち上げられ、そのまま彼の口元へ運ばれた。
 柔らかな唇が押し当てられ、男が上目遣いで見つめてくる。ゾクッと走る愉悦は、とても鮮烈だった。
「り、利用?」
「欲求不満解消の道具にしていいってこと」
「ちょ、変なこと言わないでよ」
 周りに聞こえる声量ではないが、遥香は言葉のインパクトに慌てた。
「きょ、今日は別に……」
「溜まってなかった?」
「ストレスの話だよね?」
 これ以上光琉を放っておくと、ろくでもない発言をしそうである。
 遥香は鞄を持って立ち上がり「ごちそうさま! 奢ってくれてありがとう!」と告げ、店の外へ出た。
 本当ならこのまま解散して自分の部屋へ帰りたかったが、流石に彼を置いてけぼりにするのは心苦しい。律儀な性分が勝手に姿を消すのを躊躇わせた。
 結局光琉が会計を終えて店外に出てくるまで所在なく待つ。
 優雅な足取りで扉を開けた彼は、膨れ面の遥香を見て、晴れやかに微笑んだ。
「じゃ、行こうか」
「ど、どこに」
「いつものホテルはここからだと遠いから、俺に任せてもらえる?」
 歩き出した光琉はスマートで、どこか抗えない吸引力があった。それ故、遥香はつい追いかけてしまう。

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ご愛読ありがとうございました!
この続きは11月7日頃発売のオパール文庫『ライバルなのに愛し合うなんてごめんです!? 御曹司なモテ男の執着愛』でお楽しみください!