御曹司、ニセ婚で愛に目覚める この俺が、こんなに夢中になるなんて!? 1
十二月一日。昼過ぎ。
ちょっと広めの3LDKのダイニングで、中山瑠璃(なかやまるり)は左手の薬指から細身のプラチナリングを外してコロンと机の上に置いた。
フレアスカートの上に瑠璃が着ているのは、今日のために前もって用意しておいた勝負服。力強い筆文字書体で胸元に“バツイチですが!?”と書かれたトレーナーだ。税込み三九六〇円。こんなの最高だ。もう買うしかないじゃないか。このトレーナーを見たときから、絶対に今日着ようと思っていたのだ。
勝負服でテンション爆アゲの瑠璃は、向かいに座る書類上の夫──加賀蒼葉(かがあおば)に、記入捺印済みの離婚届を満面の笑みで差し出した。
「今日で契約満了ですねっ。一年間、お疲れ様でした! はい! 離婚しましょう!」
明るい瑠璃とは対象的に、奥歯を噛み締めたのか、頬を硬直させた彼は黙って離婚届を見つめていたが、やがてズズッと瑠璃のほうにそれを押し返してきた。
「……俺は……別れたくありません……」
「ええ!? いや、でも、そういう契約じゃないですか?」
机に置いてあったクリアファイルから、慌ててもう一枚の紙を取り出して、瑠璃は蒼葉の顔に突き付けた。
“契約書”と題されたそれは、去年の十二月一日の日付が記入されている。
一、契約期間は十二月一日から翌年十二月一日までの一年とする。
二、契約期間中、乙は甲の要求に従って、妻として振る舞うこと。
三、契約期間中、甲乙共に淫らな行為はしないこと。
四、甲は乙に毎月五〇万円を支払うこと。契約満了時、甲は乙に追加で一千万円を支払うこと。
五、契約満了後も、乙は甲について知り得たことや当契約内容を口外しないこと。
条文の少ないシンプルな契約書の甲欄には蒼葉の名前が、そして乙欄には瑠璃の名前が書かれている。
「蒼葉さん、今日は十二月一日ですよ! ほらほら、ここにちゃんと書いてあるでしょ?っていうか、書いたの蒼葉さんじゃないですか」
第一条に掲げてある期間を人差し指でバシバシと叩いてアピールするついでに、スマートフォンの待ち受け画面に表示されている今日の日付も見せてやる。
間違いなく今日は十二月一日。一年前の今日、瑠璃と蒼葉はこの契約書を交わしたのだ。あの日契約を主導したのは、今日と違って蒼葉だった。まぁ、瑠璃も嬉々として署名したのだけど。
「今日が十二月一日なのはわかってます。わかってますけど……」
言葉を濁す蒼葉を見つめていた瑠璃は、ハッとして身構えた。
「ま、まさか、お金が惜しくなったんじゃ──」
すべてを言い終える前に、蒼葉が縁なしの眼鏡の奥からキッと睨んでくるから、瑠璃は「いやまぁ、蒼葉さんはお金持ちだからそういうのはないってわかってますけど、わかってますけどね? ほら、離婚したくないって言うから……」なんてブツブツと弁解するはめになった。
イケメンが睨んでくると怖い。普段の彼がとっても優しい分、余計にそう感じる。
「報酬は全額きっちりお支払いしました。口座を確認してください。──ほら、ちゃんと振り込まれてますよね? 今日で契約満了なのはいいんです。はい、契約期間はここまで! それとは別で、“離婚したくない”と言っているんです」
「つまり、嫁延長?」
こてんと首を傾げる。瑠璃は、彼が自分になにを求めているのかがわからないのだ。
彼はとっても素敵な人だ。この一年、一緒にいてそう感じた。
ビジネスパートナーとしては最高に優秀で、頼りになる存在。
プライベートでは思いやりのある優しい夫。自然体でいても包み込んでくれる存在。
彼と過ごした日々が充実して満たされていただけに、彼以上の男の人なんて見付けられないんじゃないかと心配になるくらいには……
蒼葉は徐に席を立ち、ダイニングテーブルを回り込んで瑠璃の側に来ると、瑠璃の左手を握り、さっきまで指輪のあった薬指の根元をそっとさすった。
「るりりん、俺は──」
「え? るりりん?」
思わずツッコんでしまう。突然愛称で呼んでくるなんて。今までの婚姻期間中、一度も瑠璃のことを愛称で呼んでくることなんてなかった人なのに。瑠璃がツッコんだせいか、蒼葉が一瞬押し黙る。が、彼は意を決したように再び口を開いた。
「……るりりんは、俺のこと嫌いですか?」
(また“るりりん”って言っちゃいましたよ? 絶対呼ばないんじゃなかったんですか?)
今度は脳内でツッコんでしまう。でも、左手をぎゅっと握られて、瑠璃は見つめてくる彼の瞳から逃れるようにサッと顔を横に向けてしまった。
「いや、そ、そんな……嫌いとか、……そんなのあるわけないじゃないですか……」
嫌いなわけない。むしろ“この人ちょっといいな〜”くらいには思っている。“こんな人と結婚したら幸せになれるんだろうな”と思ったことも一度や二度じゃない。それぐらい彼は理想的な旦那さまで──
(でも蒼葉さん、独身主義じゃないですか! 女の人嫌いじゃないですか! 『好きになられて別れてもらえないのが一番困る』って言ってたじゃないですか!)
そう、彼は独身主義なのだ。しかも女嫌い。その彼が、結婚に向いていないことを実績として残すための偽装結婚がこの契約。そのための彼好みの完璧な嫁として選ばれたのが瑠璃なのだ。
「よかった。俺のこと嫌いじゃないんですね? じゃあ──」
「いや、好きとか嫌いとかじゃなくて! もともと契約は一年だったんです。契約は終了なんですよね? じゃあ、離婚してください!」
弾んだ声で迫ってくる蒼葉の顔面ど真ん中に、瑠璃は離婚届を突き付けた。
ビリビリビリビリ……
中央の折り目に沿って真っ二つに破かれた離婚届の間から、蒼葉の満面の笑みが覗いたと思ったら──ちゅっと唇に柔らかな熱が触れた。
「え……?」
突然のことで、なにをされたのかわからず頭が真っ白になってしまう。目をパチパチと瞬かせていると、離婚届を床に放り捨てた蒼葉が優しく頬を撫でてきた。
「離婚はしません。これからもずっと、俺の奥さんでいてください」
(離婚、しないの? なんで?)
彼は独身主義なのに。今日で契約期間が終わったのだから、夫婦関係も終わりのはずなのに。
「へ?」
理解できない瑠璃が再び瞬きしている間に、蒼葉は瑠璃をひょいと横抱きに抱え上げた。
「ええ!? ちょ、ちょっと蒼葉さん!? ス、ストップ! お、下ろしてくださいっ!」
驚いて声を上げながら身じろぎするが、蒼葉はビクともしない。細身なのに意外とガッシリした身体に妙に感心してしまう。だがそれどころじゃない。
「いやいやいや、どこ連れてくつもりですか!? えっ、部屋ぁ!?」
蒼葉は瑠璃を抱えたまま、リビングから見える三つ並んだドアのうち、わずかに開いていたドアを肩で押して中に入った。そこは、普段は絶対に入ることのない彼の部屋で──
ぽすんとベッドに寝かされて、手も脚もぎゅっと縮こめたまま硬直する。それは恐怖からというよりは、過度な緊張から。初めて男の人に抱き上げられて感じた高揚が消えない。蒼葉のベッドに寝かされた事実より、身体に残る浮遊感が落ち着かない。
「るりりん。愛しています」
「……………………………」
覆い被さってくる蒼葉の目を見つめたまま、瑠璃はひたすらに瞬きを繰り返した。彼の瞳に映るのは、間抜け面の自分だ。
愛? L・O・V・E・ラヴ? 誰が誰を愛しているって?
ちょっと自分とは結びつかない単語が頭を埋め尽くし、瑠璃をフリーズさせる。頭も動かないし、身体も動かない。でも、心臓だけはやたらと速く動くのだ。
ドキドキ、ドキドキ、ドキドキ──……
(まさか……蒼葉さんがわたしを……?)
「別れたくない。ずっと一緒にいたいんです。俺の側にいてください」
蒼葉の目が切なく細まって近付いてくる。ぎゅっと目を瞑る間に、すりっと柔らかく頬ずりされる。恐る恐る目を開けると、頭を包み込むように抱き締められているではないか。蒼葉と目が合ったら、ちゅっと頬にキスされた。
「るりりんがいない人生なんて、考えたくありません」
(えええ……??)
耳元で甘く囁かれる声に、勝手に視線が泳いでぐるぐると目が回る。しかも、抱き締めてくる彼の身体からとってもいい匂いがするのだ。普段から彼が使っている爽やかな香水の匂いも混じっているが、これは蒼葉自身の匂いだ。男の人らしいのに、忌避感や警戒心を抱かせない優しい匂い。ベッドと同じ匂い──
ドクンと心臓が強く跳ねた瞬間、蘇ってくるのはこの匂いに包まれて眠った記憶。
「あ、蒼葉──」
「好き」
蒼葉の唇が耳に触れ、彼の吐息を感じてしまい、ひゅっと息を呑む。心臓の音が輪をかけて速まった気がした。
「……あ……あの……な、なにかの間違いではありましぇんでしょうか……?」
顔を反らせ、ぎゅっと目を瞑る。情けないくらいに小さな声しか出なかった。
「間違いなんかじゃないです」
「で、でもですねぇ……あの……」
「俺は愛に目覚めたんです」
だめだ。顔が熱い。今まで他人の顔がこんなに近くまで来たことなんかない。目がぐるぐる回って、一気に緊張が高まった。
「間違いなんかじゃないから受け入れて?」
「ぴゃ……」
瑠璃の腰を抱いていた蒼葉の手が、スッと“バツイチですが!?”トレーナーどころか、キャミソールの中にまで入ってきてお腹を触る。そしてそのまま正中線をなぞるように上がってきて、瑠璃のささやかな胸に触れて──
「いやゃぁああ!!」
ドゴォッ!!
「グハッ!!」
ずっと折り曲げていた両脚を、瑠璃がここぞとばかりに蒼葉の腹目掛けて解放したものだから、瑠璃の両足蹴りをまともに喰らった彼は“くの字”に折れ曲がり、ベッドから華麗に吹っ飛ばされた。
「な、なななにしてるんですかぁ! さっきからぁ! え、えっちなことはしないっていう契約じゃないですか!?」
瑠璃は、ぐるぐる泳ぎまくった目に涙を滲ませ、真っ赤になった顔でパニクりながら枕を振り回し、終いには蒼葉の顔面に向かって投げ付ける。
(い、今、おっぱい触った! おっぱい! ぎゃああああああ!!)
触られたせいか、胸がバクバクする。
蒼葉という男は、今まで瑠璃に恋愛感情やそういった性的な欲求を向けてきたことは一度もなかった。なのにどうして突然──
飛んできた枕を片手でキャッチした蒼葉は、ゆらりと立ち上がって乱れた前髪を手櫛で梳くと、流れるような動作で眼鏡を外した。
「るりりんのそういう慎み深いところ、好きですよ」
「っ!?」
ギシッと再びベッドに乗ってきた蒼葉は、シーツを掴む瑠璃の手に自分のそれを重ねて迫りながら、ベッドサイドのテーブルに眼鏡を置いた。
力のこもった指をほぐすように、ゆっくりと手を撫でられる。また顔が近い。
「ど、どうしちゃったんですか蒼葉さん! なんか変ですよぉ!?」
彼らしくない。彼はもっと理性的で、爽やかで、肉欲とは遠いところにいて──
「ずっと我慢してたんです。契約期間はさっき終了しました。今度は俺と“本当の夫婦”になってください」
そう言った蒼葉の顔が、まるで重篤な熱病にでも浮かされているように蕩けているから、瑠璃は内心悲鳴を上げながらも動けなかった。
八月三十一日。
「ということで、中山さんは来月で契約期間満了です。お疲れ様でした!」
中年の男性主任から放たれた無慈悲な宣言に、中山瑠璃は唖然として振り返った。さっきまでリズミカルにキーボードを打っていた手がピタリととまる。
今、契約期間満了と言ったか? 満了? そろそろ次回更新の話が来ると思っていたのに、まさかの満了?
「……え? あの! 次回更新は……?」
「なしです!」
「なしぃ!?」
ガシャンと椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がる。お饅頭みたいな丸っこい顔と人懐っこい笑顔でなんて残酷なことを言うのか、この人は。しかも、別室に呼び出すわけでもなく、他の社員たちもいる前で。寒いくらいに冷房が効いたオフィスで、指先がかじかむ。
「ええ……あ、あの、主任……。わたし、結構会社に貢献していると思うのですが……?ほら、自動配車システムもわたしが──」
次回更新がない契約期間満了なんて、実質的なクビ宣言と同じじゃないか。その判断は間違ってますよ〜と身振り手振りでアピールするが、上司はぷよぷよのほっぺをぶるんとさせて微笑んだ。
「なに言ってるの! 両方とも西川くんを中心とした開発チームの成果でしょ。中山さんひとりで作ったわけじゃないんだから。それに中山さん、最近は新しい開発にも関わってないじゃない」
誰か「その評価は間違っている」と言ってくれないかと期待して辺りを見回す。が、誰も彼もが瑠璃から目を背けるのだ。
検証チームでしか一緒になった覚えのない西川に目をやると、彼はニヤニヤと笑って得意げに眉を上げた。その顔を見ただけで悟ってしまう。
やられた……
AI開発事業を行うこの会社に派遣されて丸三年。瑠璃はエンジニアとしてAIシステム開発に携わってきた。派遣されてすぐに、自動配車システムを開発した。道路情報や運転状況をドライバーが所持するスマホのGPSと連動させ、空車を作らないように配車を組み替えるシステムだ。大手運送会社でこのシステムを利用していない会社はほぼないと言っていいほど短期間で浸透した。最近はタクシー会社も搭載するようになってきている。
この看板システムを瑠璃ひとりで開発したのだが、検証にはチームが立ち上げられ、そこに西川や他数人と共に瑠璃も入った。なんのことはない、この検証チームを開発チームだとこの男性主任は勘違いしているのだ。それもどうかと思うのだが……
そして、このシステムが現地に出張して設置導入するタイプであるのも問題だった。ここ最近の瑠璃に振り分けられていた業務は、このシステムの設置導入作業。新規システム開発とは程遠い業務に追いやられていたのだ。その業務に瑠璃を振り分けたのも西川……
「ということで、お疲れ様でした。まぁいいじゃないの。中山さん、そろそろいい年だし、結婚したら?」
「そんなこと言ったら可哀想ですよ。相手いないでしょ。誰かもらってやれよ」
「いやだよ、あんな地味なの。主任、次の派遣は、もっと可愛い娘がいいで〜す」
西川と彼の仲間が瑠璃を嘲ってくる。
「アハハ、そうだなぁ! それがいいなぁ!」
「…………」
誰も擁護してくれないどころか、傷口に塩を塗りたくる勢いで罵られる。どうしてこんなことを言われなくてはいけないのか。
(確かに地味だけど……彼氏いたことないけど……それ仕事に関係ないじゃないですか!)
瑠璃は言い返すこともできずに、小さくなって椅子に座り込んだのだった。
「゛あ──……」
夕方。最寄り駅の改札を出た瑠璃は、家への道をトボトボとひとりで歩いていた。まだ陽は完全に落ちきっていないが、瑠璃の周りだけどんよりと影が落ちたように暗い。道行く人々が横目でチラ見してくる視線には気付かないふりをしよう。どうせこの人たちは助けてくれないんだ。周囲はみんな敵のような気がしてしまう。心がやさぐれているんだ。酒は飲めないが一杯やりたい気分だ。手に握ったヨレヨレの通勤鞄を脚に打ちつけながら顔には絶望をたたえ、一歩を半歩にしてため息を吐く。
(わたしが開発したシステムなのに……アップデートもわたしひとりで管理してるのに。いったいこれから誰が管理するんでしょ……)
自分の成果を主張する手はあったと思う。でもそうする意味を見出せなかった。
瑠璃の開発はいつの間にか西川をメインとするチームの手柄にされており、誰も庇ってくれない状況。こんな中で、あーだこーだと主張してまで会社に居座っても居心地悪いだけだ。いや、もとから居心地のいい職場ではなかった。仕事は押し付けられるし、男性ばかりで怒鳴られるのだって日常茶飯事。まぁ、瑠璃に意地悪してくるのはいつも西川だったけれど、会社の体制自体もひどかった。残業代は固定だし、長時間労働だし、それにまったく正社員になれない! たぶんあれだ。入社したばかりの頃、西川らが開発したシステムのセキュリティホールを指摘したのがよくなかったのかもしれない。結構笑えない設計ミスだったので言わずにはおれなかったのだが、その結果、嫌われて孤立したんだから目も当てられない。黙っていればよかったんだろうか? 人間関係って難しい。自分でもよくわからないのだが、瑠璃は結構な頻度で人に嫌われる。
(ふんだ! いいですよー! ぷんぷん! あんな会社、こっちから辞めてやります!)
自分を正当に評価してくれなかった会社に未練はない。有給も二十日ほど残っていたはずだし、来月まで律義に出社してやることはないだろう。とりあえず有給を消化して、あとは欠勤しよう。引き継ぎ? システムの開発者は西川らということになっているんだから、引き継ぐことなんてなにもない。それに仕様書は全部整っている。派遣元や瑠璃の仕事を肩代わりしなくてはならない同僚からの印象は最悪だろうが、知ったことか! 今日、誰も瑠璃を助けてくれなかったじゃないか。西川に至っては成果まで横取りして! 自分を切った会社のために一生懸命になるくらいなら、転職活動に邁進したほうがずっといいはず!
(もっといい仕事見付けて、見返してやります! 目指せ! 正社員っ!)
派遣だったから軽んじられたのかもしれない。派遣だったから簡単にクビになったのかもしれない。せめて正社員だったら……
「やるぞ、おー!!」
気を取り直した瑠璃は、人目も憚らず夕陽に向かって吠えた。
「──という時期がわたしにもありました……」
十一月二十日、夕方。
ハローワークから帰ってきた瑠璃は、メイクも落とさずにベッドにダイブした。メイクと言っても、色付き日焼け止めクリームとリップを塗っただけのスッピン風を通り越したほぼスッピン。洗顔だけで落ちるメイクだけれど、今はバスルームまで行く気力がない。ボブの髪がおもいっきり顔にかかったって、払う力もないのだから。
会社を辞めて早二ヶ月と二週間。未だに仕事が見つからない。ハローワークだけでなく、エージェントにも登録したが結果は芳しくない。前職が派遣だったからか、はたまた二十五歳という妙齢のせいか、それとも実績がないことになっているからか……まずは面接までの難易度が高い。なんとか面接に漕ぎ着けても、結果はお祈りメールになって返ってくる。
いい仕事に巡り逢えるように願掛けがてらネット通販で買った“求職中”シャツを三枚ローテしているが、そろそろ違うシャツが着たい。
「わたしにぃ〜お仕事をぉ〜く〜だ〜さ〜いぃ〜♪ 正社員でぇ〜♪」
気分を上げようと、とりあえず節を付けて歌ってみるものの、逆に落ち込んでいく。
瑠璃は緩慢な動きでスマートフォンを顔まで持ってくると、銀行アプリを立ち上げた。ログインして残高を確認するが……お金がめりめりと目減りしていくのが見ていてつらい。
(失業保険が入ってきても、今のままじゃあと半年持つか怪しいです……水道光熱費スマホ代は切り詰めてますけど、国保思ったより高いし……家賃は変えれないし、あとはもう食費しか削るとこないですよぉ……はぁ……)
「ああ──奨学金の存在が憎いッ……いや、感謝してますけどぉ……奨学金という名の借金ンンンン!」
瑠璃は私立の四大を卒業するにあたって、奨学金制度を利用していた。給付型も利用したが、実家から出て独り暮らしをしていたので、無利子の第一種奨学金も借りた。月々一万円弱をコツコツ返済してきたが、まったく減らない。残り三八〇万近くあるはずだ。収入が心許ない今、この月々一万円弱の返済がキツイのなんのって……
借金までして行った大学。もちろん勉強もサボらずしっかりやった。資格だって取った。
『あら〜幼稚園教諭と小学校教諭の免許をお持ちなら、幼稚園の先生とかどうですか? たくさん求人ありますよ?』
ハローワークに行った初日。窓口で、瑠璃はベテランそうなおばちゃん職員から案内を受けた。今の教育界隈はどこも人手不足ということで、引く手数多。小学校教諭は時期的に教員採用試験も終わってしまっているので非常勤講師枠への応募になってしまう。それは正社員になりたい瑠璃の希望とは合わないので、これから二次試験枠のある幼稚園教諭のほうを勧められたのだ。
『あまの幼稚園、みなと幼稚園、ひよどり幼稚園……ほらほら私立幼稚園は他にもたくさん──』
幼稚園教諭の求人票を手際よく用意してくれるハローワークの職員の手を、瑠璃は恐る恐る遮った。
『あのぅ……わたし、幼稚園の先生も小学校の先生も無理です。あの、適性がないので』
『え?』
『適性が、ないんです』
『…………』
こいつ二度言ったよ……みたいな顔で見つめられたが、本当のことなので仕方ない。
借金してまで適性のない資格を取った己の要領の悪さに一番びっくりしているのは瑠璃自身だ。
(──だってぇ! 実習に行ったら無理ってわかっちゃったんですもん。そういうことあるでしょう!?)
結局、新卒での就職も教育界隈へは進まず、迷いに迷って派遣社員のブラック企業行きである。もっと上手に人生歩めばいいものを、真っ直ぐ違う道を進んで勝手に迷子になっているのが瑠璃だ。
でも派遣先で、ITエンジニアとしての適性を見出せたのはよかったと思う。行った先はブラック企業だったが、その分スパルタだった。プログラムは高校時代の情報の授業が最初で最後だったものの、適性があったらしく瑠璃は現場でめきめきと伸びたのだ。この適性、もっと早く知りたかった。知っていれば、大学もそっち方向を学んだのに。そしたら人生違ったかもしれない。こんなことを言っても、今更どうにもならないが。
それでも少しでも自分をよく見せようと、瑠璃はこの数ヶ月、転職活動をしながら猛勉強して、IT関係の国家資格にチャレンジしてみた。年間を通じて随時試験を実施している基本情報技術者試験と、ITパスポートだ。他にも通年受験の資格をポロポロ……。全部で五、六個取ってみた。記憶力だけは昔からいいのだ。今月になって合格通知が届いたから、履歴書に書けるようになった。まぁ、その資格のお受験代で、また貯金が目減りしたのだが。
(……お家帰りたい……)
今いるところが家だけど。
実家は……頼れないことはないが、頼っちゃいけない。
瑠璃の実家はフランチャイズのコンビニエンスストアを家族経営している。瑠璃が実家に帰ればコンビニを手伝うことになるのだが、実家のコンビニを手伝ったところで、世帯収入が増えるわけではない。むしろ瑠璃の食い扶持分、赤字になるのだ。おまけに、瑠璃の弟が来年大学受験をする。弟に金が掛かるのだ。
「うおおおお! お姉ちゃん頑張って働くよおおおお!」
熱く叫ぶ。これは誓いだ。一応、十二月頭に、また面接を受けることになっている。全国に支店のある大手の広告代理店で、ITエンジニアの正社員枠。お給料も破格だったし、福利厚生も充実。しかもオフィスにお手頃価格の社員食堂があるらしい。社員を大事にしてくれる社風があらわれているようではないか。なんて素晴らしい。ホワイト企業のかほりがぷんぷんする! コーディング試験と書類選考までは通ったんだ、あとは面接だけ! 面接さえ合格すれば晴れてホワイト企業の正社員に! きっと資格をたくさん取ったから書類審査にも通ったに違いない。この調子ならいけるかも!? と、望みをかける。
「頑張れ、るりりん! 頑張れ、るりりん! わ────ッ!!」
そうしてベッドの上でうつ伏せのまま気を付けをし、ピンと背筋を伸ばした状態で、陸に打ち上げられた魚のようにピョンコピョンコ跳ねていると──
ドンッ!
「ひっ!」
いきなり隣から壁を殴られてビビり散らす。
(わたし、うるさかったのかな? うるさかったですね? ごめんなさい……)
ビクビクしながら壁に向かって頭を下げると、瑠璃はバスルームに移動するためにのろのろとベッドから降りて、ひとつ大きなため息を吐いた。
十一月二十日、夕方。
「──うん、うん、へぇ。珍しいね」
加賀蒼葉はハンズフリーで通話しながら、滑らかにハンドルを左に切った。会社を出てすぐ、母親から電話がかかってきたのだ。普段から元気いっぱいの母親だが、今日は輪をかけてテンションが高い。というか、機嫌がいいのか。
「それでね、徹がなんて電話してきたと思う?」
「えー? なんだろ? あー正月に帰ってくるとか?」
車を走らせながら、適当に母親が喜びそうなことを口にしてみる。
蒼葉のふたつ下で今年三十五歳の弟は、蒼葉たち加賀一族が経営している広告代理店、クレアスの関西支社で一般社員に交じって係長をやっている。彼は来年四月付けで、東京本社に異動してくることになっているのだ。
自由奔放な弟のことだから、引っ越しの用意で忙しいとかなんとか言い訳をして、正月に帰ってこない可能性だってあった。弟がどれぐらい自由かというと、大学を卒業したと思ったら、突然アメリカで就職して数年帰ってこなかったくらいだ。五年前にようやく帰国して関西支社に就職したものの、辞令を通して呼び出さないと東京の実家に顔を出さない。だがしかし、そんな弟から「帰ってくる」と連絡があったなら──母のこの喜びようにも頷けるから。
ちなみに、長男の蒼葉は、東京本社で専務取締役。将来は、父親の跡を継いで社長になることが決まっている。弟とは違って、親に敷かれたレールの上をひた走ってきたが、それほど悪い人生だとは思っていない。全国三万人の従業員とその家族、そして取引先を路頭に迷わせないために、確固たる成果を求めて企業を牽引していくことに、やり甲斐も誇りもある。それに、他にやりたいこともなかったし。
「そうなのよ! お正月に帰ってくるって電話があったのよ〜」
「そう。よかったね」
正直、この程度のことをいちいち報告してこなくてもと思わんでもないのだが……
「そして結婚するって! お嫁さん連れてくるって!」
「え? マジ?」
これには正直驚いた。弟に先を越されたという焦りよりも、純粋な驚きだ。
「へぇ、徹が結婚ねぇ……。この間、九月に会ったときはそんなことなにも言ってなかったのになぁ……」
結婚の話どころか、そういう女がいるということすらも匂わせなかったのに。というか、仕事の話だけして関西にとっとと帰った薄情者だ。ちなみに、母親と会った時間は一瞬。あのときの母親のブチギレようは……
弟がなにかやらかすたびに、カッカする母親のフォローに回るのはいつも蒼葉だ。これが“長男”と“次男”の役どころの違いなんだろうか。
自由奔放な弟だが、頭がよく要領がいいので、好きなことに邁進してあっと言う間に成果を出してしまう。そもそも、あいつが自分から取り組んで成果を出せなかったことなんてない。好きなことに邁進と言えば聞こえはいいが、ようするにねちっこいのだ。自分の気に入る結果が出るまで、とことん突き詰める。入れ込むと言ってもいい。その代わり、興味のないことにはとことんドライだ。仕事だって、「経営は興味ない」と言って現場で働くことを選んだ。
蒼葉はというと、なにかに特別熱くなることがない代わりに、なんでもそつなくこなす。所謂、優等生タイプ。弟が経営に加わらないなら、自動的に蒼葉が跡取りになる。そうやって決まった人生を特に問題なく進めていけるくらいには、こだわりがない。必要とあらば自分の意思より、効率と損得を優先するのが蒼葉だ。
弟との仲は悪くないが、正直、あの奔放さが時々無性に羨ましくなる。自分の好きなことを純粋に追いかける姿勢が……いや、まず、“好きなこと”があるのが羨ましい──
蒼葉のぼやきに、母親は少し苦笑いした。
「それがね、相手の方に赤ちゃんができちゃったんですって」
「ああ。それで……」
予定外の結婚なのか。ふとそう思ったが、弟はその手のことで下手をこくタイプじゃないなと思い直す。そして、好きでもない女と責任感なんかで結婚するタイプでもない。つまりは、相当相手の女性に惚れ込んでいるんだろう。子供も、弟が望んだ子であることはなんとなく想像できた。
「いいんじゃない? めでたいことだよ。徹におめでとうって言っておいて。じゃあ、正月に相手の人も連れてくるのかな?」
「そうですって。だからあなたもそのつもりでいてね」
「はいはい。わかったよ」
返事をしながら、自宅マンションの地下駐車場に入っていく。契約スペースに、バックで車を駐めていると──
「あなたは? 最近ちっともそういう話聞かないけど、お付き合いしている女性はいるの?」
「ええっ、俺!?」
突然自分に火の粉が降り掛かってきて、思わず急ブレーキを踏む。誰も見ていないのをいいことに、おもいっきり口元を“への字”に歪めた。
「母さん。俺、運転中なんだけど……」
話を逸らそうとしてみるが、そうは問屋が卸さない。スマートフォンの向こう側で、母親のマシンガントークがはじまった。
「お付き合いしている方がいないのならね、お父さんが懇意にしている名誉教授がいらっしゃるでしょ? ほら、経済学者の。あの方の姪御さんがお相手を探してるそうなのよ。あなたどう? この方は普通よ。しっかりした方だし。今度は大丈夫よ。お見合いしてみる? あなたもいつまでもひとりでいるわけにはいかないんだから。実はお母さん写真もらったのよ、可愛い方よ。メッセージで送るから見てみ──」
「待って待って、母さん」
思わず待ったをかける。このまま喋らせていたら、いつの間にか教授の姪とお見合いさせられてしまう。
「俺も特に言ってなかったけど、付き合ってる人くらいいるから」
「ええっ!? そういう方がいるのならちゃんと言いなさいよ!」
「いや、自分だけのことじゃないからさ、相手がいてのことだし、いろいろ本決まりになってから言うほうがいいだろ」
母親の驚いた声にそう返すと、『まぁわからないでもないけれどね』と一応、理解はしてくれたようだった。
「ふうん? 今度は普通のお嬢さんなんでしょうね?」
「普通だよ」
「ああ、よかった。結婚を考えてるの?」
「……一応」
「そうなのね。だったら一度うちに連れてきなさいな。会ってみたいから」
「…………」
「蒼葉?」
「わかった。今度紹介するよ」
「よろしくね。お父さんにも言っとくから。今日は息子ふたりからいい話が聞けて嬉しいわ。じゃあまたね」
「はい。じゃあね。──────はああああああああああ、やってしまった……」
電話を切るなり、蒼葉は盛大なため息を吐いてハンドルに頭を押し付けた。
(なにが“付き合ってる人がいる”だ……そんな人いないのに……)
嘘を吐いてしまった。こんな口からでまかせなんて、普段なら絶対に言わないのに。
見栄だったんだろうか。弟の結婚話を聞いたから、張り合ってしまったんだろうか? 三十七にもなって? いや、そんなはずはない! お見合いを回避したかったんだ。
(……っていうか俺、独身主義なんだけどなぁ……)
蒼葉だって、初めから独身主義だったわけじゃない。結婚するなら会社を一緒に盛り立ててくれるような女性がいい──そう思って、営業手腕のある自立した女性と付き合ってみたことがある。家柄もよく、愛されて育った綺麗なキャリアウーマンだ。
結果は最悪。初めは自立していたはずの彼女が、なぜか半年もしないうちに激重の依存体質になっていたのだ。しかもそういうのが一度や二度じゃない。蒼葉に女を依存させるなにかがあるのかはわからないが、付き合った女が軒並み激重の地雷女にクラスチェンジするのは、正直、耐え難いものがある。別れるのも毎度泥沼……
「好きなの! 絶対別れない! あなたと別れるくらいなら死ぬ!」
と、何度自殺騒ぎを起こされたかわからない。深夜の自宅に包丁を持って突撃されたこともある。蒼葉への接近禁止命令が出ている女が五人はいるという、わりと洒落にならない事態になっているのだ。親に『今度の女は普通なんだろうな』と言われるのも無理はない。
昔から人に好かれる蒼葉ではあるが、なりふり構わず気持ちを押し付けられても本気で嬉しくないのは当然。いつの間にか純粋な気持ちをもらっても、引いてしまう自分に気付いてからは、女性と付き合うことをやめた。たぶん自分は、根本的に人を愛することができないんだろう。というか、わりと女性恐怖症寄りの女嫌いになっていて、自分でも気が滅入る。親も諦めてくれたらいいのだが、跡取り息子の結婚に対して期待が重い。
そんな親に、結婚を考えている相手を紹介することになってしまった。厄介な問題を抱え込んだかもしれない。そんな女性はいないのにどうしたものか。
弟は愛する人を見付けたのに自分は……
ハンドルにもたれかかったまま、蒼葉が項垂れていると──
ピッ! と、クラクションが鳴らされた。顔を上げれば、駐車場に入ってきた車が、バック駐車の途中でとまっている蒼葉の車のせいで動けないでいるではないか。
「うわ、すみません! 申し訳ない。すみません……ほんと……」
蒼葉は対向車に頭を下げながら、駐車スペースに車を入れた。入れたものの、今度は降りる気になれない。
身体が重い。一瞬で気持ちが億劫になってしまっている。
蒼葉は眼鏡を外して目頭を押さえると、もう一度深いため息を吐いた。
「馬鹿なの? 普段は頭いいのに時々すごい馬鹿だよな、おまえ」
翌日会社で、秘書の髙藤に、弟の結婚報告と、そこからの流れ弾に自分が被弾したことを話すと、返ってきたのは呆れたこのひと言。
髙藤は高校時代の同級生で、蒼葉が唯一ざっくばらんになんでも話す男だ。きっちりスーツを着て、黒髪マッシュで一見おとなしそうな彼だが、よく見ると耳にピアスホールが五つは開いている。若い頃は随分と女を泣かせていたが、結婚した今ではすっかり落ち着いているんだから人というのはわからないものだ。彼は、蒼葉が女と別れるのに毎度泥沼化して、独身主義に至った経緯も知っていた。
「言うな。後悔してるんだ」
頬杖を突きながらため息を吐き、髙藤が差し出した書類を読んで判を押す。
この蒼葉の執務室は、今は蒼葉と髙藤のふたり。仕事で常時神経を張り詰めているわけにはいかないから、彼とふたりのときはこうして雑談することもある。
書類を髙藤に返すと、彼はひと通り目を通して脇に抱えたバインダーに仕舞った。
「おまえが女嫌いになるのもわかるけどね? どいつもこいつも強烈だったもんなぁ」
「……初めはみんないい子だったんだよ……」
もう思い出したくもないが。
髙藤は顎をさすりながら同情するように眉を下げた。
「まぁ、顔もいい、金もある、優しい、大企業の社長の息子で、将来は安泰。そんな男が自分をお姫様扱いしてくれるんだから、逃がしたくないのも当然だろう」
「俺が悪いのか」
「悪いっつーか、おまえ、優しすぎるしマメすぎるんだよ。そのくせ本気じゃない。しかもモテる。女からすると、おまえの気持ちを確かめたくてしょうがなくなるんだとは思う。まず、自分が優良物件な自覚を持て? な? いい男に尽くされると、それはそれで不安になる女もいるんだぞ?」
「優しくしたつもりなんだけどなぁ……なんでみんな病んじゃうんだろ?」
仕事で忙しくてふたりの時間が取れなくても、誠実に連絡だけはマメにして、その分、会ったときは存分に尽くしたつもりだ。なのに彼女たちの不安はエスカレートして、どんどん蒼葉を束縛してくる。でも蒼葉の立場上、女に構ってばかりもいられない。仕事を優先させることもあったし、打ち合わせで他の女性と会うこともあった。そのたびに、彼女たちは烈火の如く怒るのだ。だったら別れようかという話になるのだが……そうすると今度は泣いて縋ってくるし、なにがいけなかったのか、どうすればよかったのか、今でもわからない。
「おまえの優しくするはさ、なんか違うんだよ。悪循環なんだって。俺もなんて言っていいのかわからんが、とにかく違うんだよ」
「……めんどくさ」
本気でそう思って吐き捨てると、髙藤は語気を強めた。
「そういうところだよ! 女を沼らせて捨てるのやめろ!」
「…………」
随分な言われようである。こっちは普通に付き合っていただけなのに。
「もうおばさんに、嘘ですって言っちゃえよ。それか付き合ってたけどもう別れましたって。別れたばっかりだから、しばらく女はいいですって」
「それだ!」
「お? 正直に言う気になった?」
「すぐに別れてくれる人と付き合おう」
「あ、そっちに行くんだ……」
苦笑いと共に小さく肩を竦める髙藤の姿は絵になる。
「いっそのこと本当に結婚しようか。しばらく結婚して別れれば、親も諦めるだろ」
「結婚したくないがために結婚してるがそれはいいのか?」
的確なツッコミに顎をさする。
「何事も実績が大事だ。俺みたいな人間は結婚しちゃいけないと思うんだよ。親の紹介する人と適当に結婚する手もあるんだろうけど、それはさすがに相手の女性に失礼だし、なにより俺がつらい。それより、あらかじめ離婚に同意してくれる人を探して結婚して別れたほうがいい気がする。幾らか払えばいるだろ、引き受けてくれる人。金ならある」
人には向き不向きがある。仕事であれば弟より器用になんでもそつなくこなす自信があるが、家庭は……自分が弟のように、ひとりの女性を本気で愛し、子供も望んで、家庭を築いていく様が想像できない。無理だ。金で解決できるならそれに越したことはない。
「問題はどうやって探すかだな……引き受けてくれそうな女性に心当たりないか?」
「……おまえやっぱ馬鹿だろ」
髙藤の投げやりな返事に、蒼葉はきょとんと瞬きした。
十二月一日、十二時四十分。
黒いスーツに身を包んだ瑠璃は、くたびれてよれた鞄とベージュのコートを片手に、キョロキョロと辺りを見回していた。
(あんれぇ? 受付のお姉さん、二十階って言ってましたよねぇ?)
面接会場である大会議室に行くつもりだったのだが、この階はパンの焼ける香ばしい匂いが立ち込めている。しかも椅子がいっぱい。椅子の数だけなら、大会議室と言われても不思議ではないが、さすがに雰囲気が違うだろう。
瑠璃が今いるのは、地上三十九階・地下三階建ての都心のオフィスビル。地下鉄の駅から直結しているこのビルが、本日面接を受けることになっている大手広告代理店、クレアスの東京本社の自社ビルだ。クレアスが専有しているのは十階から二十一階まで。他は他社や飲食店やブティックなどの商業施設がテナントとして入っている。
エレベーターだけでも八基もあり、広いのなんのって……。しかもいちいちおしゃれ。エントランスは広々としており、余白こそがデザインの本領だと言わんばかりのソファの配置だった。オフィスを照らす電気は安い蛍光灯ではなく、洒落た照明シェードを吊るしてあるんだから、オフィスというよりデートスポットの商業ビルのようだ。いや、商業施設も入っているのだけれど……
それより、すれ違う社員と思しき人たちのなんとキラキラしたことか。男性はビシッとしたスーツで全員爽やか。女性はカジュアルコーデで、まるで雑誌のモデルが外に飛び出してきたかのようにみんな美人。これが選ばれしエリートたちか。使い古した鞄を持った自分の場違い感が半端ない。ここで正社員として働けたなら、この鞄は買い替えよう。
(ああ〜美味しい匂ひ〜)
カフェのようなオープンキッチンの周りには、デザインの統一されたテーブルと椅子が一〇〇席近くある。もしかして、ここは噂の社員食堂か!?
(ご飯がおしゃれでおいしそうです〜! この会社に入ったらこの食堂が使い放題なんですね! 今日のオススメメニューなにかなー? 帰りに食べちゃおー)
店内で焼いているパン以外にも、ラーメンや丼ものといったガッツリしたメニューもあるらしい。デザートにプリンもある! ここは天国か? なんとしてもこの会社に就職したい! ご飯のために!
(それどころじゃないです! ここ絶対違うところですよね!? 迷子になっちゃった! も〜時間がないのに! ここは食堂ですよね? 大会議室はどこですか!?)
面接は十三時からだ。あと十分あるが、あと十分しかない。ちょっと誰か捕まえて、大会議室へはどう行けばいいかを聞かないと、ここに就職するチャンスがふいになる!
瑠璃は軽く辺りを見回して、一番近くにいた男の人に声をかけた。
「あの、すみません! ちょっとお伺いしたいことがあるのですが……」
駆け足しながら近寄って会釈すると、その人は食べ終わった食器を返却スペースへと片付けているところだったのに、わざわざ向き直って会釈してくれた。
「はい。なんでしょうか?」
インテリな眼鏡をかけたスタイリッシュな男の人だ。瑠璃の少し年上だろう。三十代前半くらいと見た。ダークグレーのスーツをきっちり着こなしている。背が高いのにひょろっとした感じはしない。黒髪がサラサラしていて、眼鏡の奥の目が優しそうな人だった。しかもなかなかにイケメン。
「あの、わたし、大会議室に行きたいのですが、どちらへ行けばいいですか?」
「ああ、でしたらひとつ上の階ですね。大会議室は二十階です。ここは十九階なので」
「ぴえっ! そうだったんですか!」
そうか、ここは十九階だったのか。エレベーターのボタンを押し間違えてしまったらしい。うっかりうっかり、これはうっかり。
「ありがとうございます。教えていただけて助かりました!」
「もしかして、これから面接ですか?」
男の人に聞かれて、ピシッと背筋を伸ばして頷く。
「はい、そうなんです。エンジニアの中途採用面接で……えへへ」
「ああ、そうなんですね。頑張ってください」
見知らぬ人に応援してもらったのが嬉しくて、瑠璃はボブの髪を揺らして笑顔になった。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
お辞儀をして、来た道を戻りエレベーターに乗って、二十階へと上がる。そこは十九階の社員食堂とは違い、ピリッと空気が張り詰めていた。
白い壁、グレーのフロアプレート、黒く重厚なドア。モノトーンで統一された無機質な廊下には、パイプ椅子よりもっといいグレードの椅子が十脚近く一列に並べられていて、“面接の方はこちらでお待ちください”と、白い紙に案内が印字されている。
三十代から五十代までの幅広い年齢層のオジサマたちが、椅子に腰掛けたり、立って伸びをしたりしていた。
(ここにいるのはみんな面接を受けるライバルですね!?)
たぶんそうなんだろう。ほとんどの人がスーツだったが、ノーネクタイで黒いハイネックとジャケット姿という若干ラフな人も数人いて、みんな仕事ができそうな雰囲気をビシビシと漂わせている。が、女性は瑠璃ひとりだった。でも瑠璃だって負ける気はしない。
応募要項にあった業務内容は、社内の業務システムを開発する開発系エンジニア。または社内のITインフラ・セキュリティに関するシステムを構築するインフラ系エンジニアの二種。広告業界は未経験だが、どちらの業務になったとしても、それなりに上手くやれるはずだ。特に、社内の業務システムの開発なら任せてほしい。AIを駆使した業務システムには多少覚えがある。この会社がAIシステムを使っているかはわからないが、使っていないなら提案するまでだ。
(くぅ〜緊張してきました!)
一番端の椅子に腰掛けて、鞄とコートを膝の上に置く。こっそり左手に“人”を三回書いて呑み込んでいると、エレベーターが開いて、面接官らしき如何にも重役でございという雰囲気の男の人が五人ほど颯爽と降りてきた。そうして瑠璃たち面接希望者の前を、肩で風を切って歩いていく。その先頭から二番目にいたのは、さっき社員食堂で大会議室の場所を教えてくれた男の人で──
(ぴゃっ! さっきの人!)
驚いた瑠璃が目を丸くしていると、その人と視線が合う。ふわっと微笑まれた気がしたが、瑠璃が我に返ったときにはもう大会議室へと入っていて、後ろ姿さえ見えない。
(もももも、もしかして、さっきの人面接官だったんですか!? うっそぉ!?)
一旦会議室の中に入った面接官のうち、ひとりが廊下に出てきて説明をはじめた。
「お待たせしました。時間になりましたので、今から、ITエンジニア中途採用の面接をはじめます。おひとりずつお呼びしますので、お名前を呼ばれた方は中に入ってください。──では、安藤さん」
「はい」
おそらく、あいうえお順なんだろう。最初の人が呼ばれて、瑠璃はどんよりと気落ちして項垂れた。緊張感ではなく絶望が漂う。まさか、ちょっと道を聞いた人が面接官だったなんて……
(ああ……もうダメだ……きっと、会議室の場所もわからない馬鹿だと思われたに決まってますよぉ……もう面接落ちた……人生オワタ……)
まだ面接ははじまってもいないのに、真っ白になって燃え尽きていると、最後に名前を呼ばれる。
「中山さん」
「はい……」
瑠璃はよろよろと立ち上がって、大きく深呼吸した。
(面接官は五人。あの人が一番下っ端の可能性に賭けましょう! よしっ! 行くよ、るりりんっ! ゴーゴー!)
「失礼します」
大会議室に入って息を呑む。だだっ広い部屋のど真ん中にポツンと置いてある一脚の椅子。その向かいには、横長の机が三台一列に置かれ、五人の面接官が座っている。その中で、瑠璃の視線はいの一番にあの人に向かった。
(あ、真ん中にいらっしゃるんですね? もしかして、すごく偉い方だったりします?)
──オワタ。
心の中で涙を流しながら、瑠璃は中央の椅子の横でお辞儀をした。
「中山瑠璃です。本日はお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします。どうぞ、お掛けください」
例の男の人──とは違う人に椅子を勧められて腰掛ける。
「中山瑠璃さん。では軽く自己紹介をお願いします」
「わたしはAI開発事業を行う会社に三年間勤務しておりました。そのときに開発したシステムは、運送業の自動配車システムで──」
自分を実質クビにした会社のシステムを、宣伝する勢いで自己PRをする。
「自動配車システムは、今ではタクシーにも採用されておりまして、皆さまがスマホアプリでタクシーを呼んだりするあのシステムです。どのタクシーが一番お客さまに近いところにいるか、どのルートだと早いかといったシステムの中核とも言える部分をですね、AIで算出させているわけです」
「素晴らしい。それを開発するチームにおられたと?」
「あ。いえ、あれはわたしひとりで開発しました」
キリッと本当のことを言ったのだけれど、面接官の顔が途端に渋くなる。
「……それは設定盛りすぎ……」
面接官側からボソッと聞こえてくる本音に、きょとんと瞬きする。
(設定ってなんのことですか?)
よくわからないでいると、次の質問が飛んできた。
「中山さんは学生時代、プログラムでなにを作られましたか?」
「学生時代にプログラムは触っていませんでした。幼稚園教諭の道を志していたので……」
「じゃあ、プログラム歴は前職からということですか?」
「はい、そうです」
「ふむ……じゃあ、三年か……うーん。派遣……」
面接官が難しい表情をして、ペンでこめかみを掻いている。確かに瑠璃のプログラム歴は短い。学生時代からプログラムに精通しているほうが有利なのかもしれない。実務経験が三年では戦力外と判断されるのだろうか……?
(でも、事前のコーディング試験は合格してるから!)
基準は満たしているはずなのだが……
「前職は契約期間満了ということですが、これは職場からの申し出ですか? それとも、中山さんからの?」
ドキッ! これはつらい質問だ。瑠璃はスイーッと目を泳がせながら口ごもる。手のひらにじわっと汗が滲んできた。
「……職場からですが、わたしも! そろそろステップアップをと考えておりましたので! 双方の意見の一致で! 円満退職です!」
(嘘じゃないですよぉ。円満退職です。円満退職。あんなパワハラブラック企業、前々から辞めてやろうと思ってたんですよ!)
契約期間満了を言われたとき、延長はないのかと泣きついたのはキレイさっぱりなかったことにしてやった。
「……円満退職、ね……」
またぁ! 面接官側からボソッと声が聞こえてくる。この反応は、絶対信じてくれていないやつだ。なんだが胃が痛くなってきた。確かに円満退職とは言えなかったかもしれないけれど……
「──では採用の可否につきましては、一週間以内にメールでご連絡します。本日はお疲れ様でした」
「ありがとうございました」
廊下に出た瑠璃は、盛大なため息と共に肩を落とした。これはダメかもしれない。
(……帰りに社員食堂でご飯食べて帰ろ……)
憧れの社員食堂を最後に味わっておきたい。あまりお腹はすいていないけれど。
瑠璃が最後の面接だったからか、もう廊下には誰もいなかった。椅子も片付けられている。肩に鞄を掛け直して、エレベーターに向かっていると後ろから声をかけられた。
「中山さん、ちょっといいですか?」
振り返ると、面接官の真ん中にいた男の人──もとい、社員食堂で大会議室の場所を教えてくれた彼がいる。瑠璃はよくわからないながらも、ペコリとお辞儀をした。
「はい? えっと、はい、大丈夫です」
面接は終わったはずなのに、どうしたんだろう? なにか忘れ物でもしただろうか? そんな覚えはないけれど。
「すみません、中山さん。ちょっとお話しさせてもらってもいいですか?」
「お話?」
もしかしてこれは──
(採用ですか!?)
瑠璃の表情がパアァッと明るくなる。メールで採用可否の連絡をすると言っていたけれど、それは建前で、いつから出勤できるかとか、職場見学していくかとか、聞かれてしまうのかも!? 言うなれば、二次面接のような!?
「もちろん大丈夫ですっ!」
「よかった。では場所を変えますので付いてきてください」
「はいっ!」
なんのも疑問も抱かずに、瑠璃はほいほいとその人に付いていったのだった。