どうしても、手放したくない愛がある エリート御曹司の終わらない独占欲 1
「白波社長から直々に、お嬢様との縁談を持ちかけていただけるなんて。私にはもったいないお話です」
黒檀の座卓の向かいで、真壁透さんは完璧な笑みを浮かべた。
私も彼に合わせて、お見合いの場に相応しい微笑を返す。
でも、そんなことでは胸の痛みを誤魔化せなかった。
──……バカだな。
──真壁さんは私を嫌ってるって、わかってたのに。
──少しでも魅力的だと思ってもらえたら、なんて期待して、お母様の形見の振り袖まで着込んできて……。
袖口をぎゅっと握り締めて、胸のうちで自嘲する。
だって真壁さんは、この高級料亭の個室に入ってから、一度も目を合わせてくれない。
オフィスにいるときと同じ優等生然とした顔で、でも視線はずっと、私の向こう側の中庭を見ていた。
私の横に座る父──このお見合いの立案者で、総合旅行会社ルミナトラベルの社長──は、私と真壁さんの間に深い溝があることなど露知らず、わははと笑った。
「いやあ、真壁君! 入社以来ずっと我が社のエースとして貢献してくれているのに、何を謙遜してるんだ。しかもとんでもない色男ときた! なあ、澄花?」
「……ええ。何年も成績トップを維持するなんて、並大抵の努力ではないと思います」
「恐縮です。これも、先輩方のご指導ご鞭撻のおかげです」
格式張った返答に、突き放された心地になる。
でも父はなんとしても縁談を成立させたいのだろう。しばらく彼と私の長所を交互に褒め称え続けた。
お互い二十六歳で、入社同期。
真壁さんは法人営業部、私は秘書課所属だ。
今後社内で顔を合わせても気まずくないよう好意は隠したいのに、どうしても視線が引き寄せられる。
だって……フォーマルなスリーピースのスーツを着こなした真壁さんは、いつにも増して魅力的だ。
がっしりした体格と、憂いを漂わせる精悍な顔立ちに、鋭い目尻。
漆黒の瞳は、孤高のダークヒーローを彷彿とする。
近付き難いほど神がかった造形は、どこか儚く危うい雰囲気を孕んでいて……その不安定さが唯一、彼も生身の人間であると証明しているみたいだった。
いつも彼を意識している女性社員たちが今日の改まった装いを見たら、みんな黄色い悲鳴を上げるだろう。
「白波社長。あとはしばらく、若いお二人で……」
形ばかりの仲人、真壁さんの上司である法人営業部の部長が、いまどきドラマでも聞かないような台詞とともに父に目配せをする。
「ああ、そうか、そうだな!」
父と部長が揃って腰を上げ、襖がぱたりと閉まり、乾いた足音が遠ざかって──。
真壁さんが、私をまっすぐ睨みつけた。
「おい。どういうつもりだ? 茶番もいいところだ。社長が戻ったら、適当な理由をつけて断れよ」
低い声と、ぞんざいな口調。
会社でみんなに見せている、優等生の彼とは違う。
でも私はそれが何より嬉しくて、思わず微笑みそうになってしまった。
──よかった……。
──お見合いの席でも、真壁さんはちゃんと、私の大好きなままの真壁さんだ。
二人きりのとき、真壁さんは私に、一切忖度しない。
私が社長令嬢だからといって特別扱いしたり、へつらってお世辞を言って、甘やかしたりしない。他の男性のように、下心を隠して媚びることもない。
私がばかなことを言ったら、『ばか』って言ってくれる。
無茶をしたら、『ちゃんと弁えろよ』と叱ってくれる。
そんな分け隔てない態度が、私にとっては特別に嬉しいもので。
何より、わかりにくいけれど、真に相手を思った気遣いのできる人だって知ってしまったから。
だから。
だから──。
「いえ。もし真壁さんが断らないのであれば、私はこの縁談をお引き受けする覚悟で参りました」
「っ……は?」
真壁さんは、私を凝視して固まった。
見つめ合っていたら顔が赤くなってしまいそうで、手つかずの上生菓子に視線を落とす。五月の花、菖蒲を象った練り切りは、少し乾きはじめていた。
私は勇気を振り絞って、大きく息を吸う。
「父が強引に組んだ縁談とはいえ、適当な気持ちで赴くのは失礼ですし。何より私は……ご存じでしょう? 身体が弱かったから、若いうちに出産したいんです。もちろん、嫌われているのはわかっていますから、断っていただいて構いません。もし結婚するなら、お互いに望む条件を書面に認めた上での契約結婚にしましょう」
真壁さんが答えるまで、何度、鹿威しの音が響いただろう。
断られたら、きっぱりこの恋は諦めて。
次こそお見合いで知り合った男性と結婚するつもりだ。
そう、覚悟を決めていたのに。
「それで、俺が引くと思ったのか?」
「え……?」
「俺も、前に言ったよな? ゆくゆくはルミナトラベルの社長の座が欲しい、出世に利用するためにあんたを狙ってた、って」
「っ……それは……」
忘れるわけがない。
三年前の入社直後、二人で過ごした夜のことを。
そのとき真壁さんは、今と同じ冷たい目でこう言った。
『出世ってエサがなきゃ、あんたみたいにタイプじゃない女、誘うわけないだろ』
『もう、あんたに興味はない』
『ほしいものくらい、自力で勝ち取ってみせる』
それで……私の部屋から出て行った。
それから着実に成果を重ねて、異例のスピードで出世し、今や会社になくてはならない存在だ。父が会社を任せたいと思う社員は、彼をおいて他にいないだろう。
だからもう、私との結婚に頼る必要なんて、ないはずなのに。
「日頃から社長に『早く孫の顔が見たい』なんて何度も聞かされて、『うちの娘を頼みたい』って頭を下げられたら、俺に断る選択肢はない。ここまで積み上げてきた社長の信頼を裏切って、今までの努力を無駄にはできない。でもあんたは、他にいくらでも選択肢があるだろ」
「っ……、確かに、今日までたくさんの方とお見合いさせていただきました。でも、対等なパートナーとして協力できると思える方が、真壁さん以外、いなかったんです……!」
正気を疑うように、真壁さんが顎を引いて片目を細める。
「野心のために……会社を乗っ取るために、あんたの人生を利用するつもりだった男だぞ」
『乗っ取る』なんて聞こえの悪い言葉を使ったのは、なんとか私から断らせるためだろう。
でも私だって、生半可な決意じゃない。
好きな男性と結婚するチャンスを自ら捨てるなんて、できるわけがない。
「下心を隠して上辺だけの関係しか築けない方より、潔く実力でのし上がろうと努力している真壁さんのほうが気骨があって、尽くしがいも、利用のされがいもありますから。命がけで出産するなら……そんな方の子どもを、授かりたいです」
まっすぐ睨み返すと、真壁さんは気まずそうに顔を逸らして、舌打ちした。
優等生の振る舞いより、ちょっと不良っぽい仕草のほうが、ずっと似合うと思う。
「子どもって……。お前さ、子作りで、俺と何するのかわかってんのか? コウノトリが運んでくるわけじゃないんだぞ」
「っ……ば、馬鹿にしないで! そのくらい、わかってます……っ!」
耳の先まで熱くなってしまうのは、どうしようもない。
でも子作りについてだって、不安なのは私のほうだ。
「ま……真壁さんこそ、でっ、できるんですか。その、私と、そういう……」
真壁さんは、整った唇を硬く引き結んだ。
「……、……できるよ。どんな相手だってできる。……そんなもんだろ、男なんて」
しばらく言い淀んだのが、本心だったのかもしれない。
それでも私は、引かなかった。
はじめから、両想いなんて贅沢は望んでいない。
好きな人とともに過ごせるだけで十分だ。
強い出世欲の裏に、どんな理由や感情が潜んでいたって構わない。
だって、真壁さんは優しい。
こんなときですら、まっすぐに、
「もう一回聞く。白波は本当に……俺と一生、添い遂げる覚悟があるのか?」
そう言って、私の気持ちを、一番大切にしてくれる人だから。
◇◇◇
「いいよねぇ~、社長令嬢って。白波さん、完全に縁故採用でしょ」
「社長の第二秘書だっけ?」
「秘書って重役にしかついてないし、普通に狙ったら超倍率高そう」
「パパの秘書なんだから、仕事なんて、あってないようなものじゃない? 私もお嬢様に生まれたかったぁ~~」
居酒屋の個室から聞こえた揶揄に、私は襖にかけた手を引っ込めた。
──ああ。またこの手の噂話か。
──頭痛で仕事が遅れなければ……遅刻しなければ、聞かずに済んだのかな……。
真壁さんから同期の飲み会に誘われたのは、入社して二ヶ月目のことだ。
父の会社に入ると決めた時点でこの手の状況は覚悟していたし、職場で親しい知人を作るのは難しいだろう、とも思っていた。
だからこそ、別部署の集まりに招かれたことが嬉しくて、楽しみだったのに。
──今入ったら空気を悪くするだけだし。
──さっき痛み止めを飲んだばっかりで、まだ頭も痛いし。
──この話題が終わるまで少し待とう。
深呼吸している私をよそに、会話はますます盛り上がっていく。
「俺入社式で見かけたけど、髪長くてふわふわで、ちょっと幼いというか、おっとりした印象だったな。苦労したことなさそうっていうか」
「いかにもお嬢様で、甘えてる雰囲気だよね。絶対私たちと話あわないって」
「クラシカルなお嬢様コーデとか似合いそう~!」
「失礼がないようにしなきゃ。社長にチクられたら大変だもん」
え~、こわ~! と悲鳴が重なって俯いた。
髪色が薄くてふわふわなのも、少し童顔なのも、母に似て生まれつきだ。こんなふうに言われるのが嫌で、スポーツカジュアルやモード系ファッションに挑戦したり、ショートカットを試したこともあるけれど、どれも絶望的に似合わなかった。
でもこの状況は、今にはじまったことではない。
幼い頃から、友人知人に限らず親戚にまで、ステレオタイプなお嬢様のイメージを押し付けられてきた。
『澄花ちゃんは身体が弱いから、パパに甘やかされまくりねぇ』
『澄花は何でもパパが用意してくれていいよね~。受験もコネでいけるんでしょ?』
昔はいちいち傷ついていたけれど、他人や、自分の容姿を恨んでも仕方ない。
だって、噂話以上に私の足を引っ張ってくるのは、亡き母に似てすぐ具合の悪くなる、このぽんこつな身体のほうだ。
大人になるにつれて体力がつき、人並みに動けるようになってきたものの、子どもの頃は思い通りにならないことばかりだった。
友達と外を駆け回れば喘息が出て死にそうな思いをするし、遠足も修学旅行も、あらゆるイベントやアクティビティは、指を咥えて見ているだけだった。
一度不満が爆発して、
『私もみんなの行ってる自然学校に行きたい! キャンプしてみたい!』
と駄々を捏ねたこともある。
でも、キャンプ先で高熱を出して、引率のスタッフが私にかかりきりになり、本来の予定に影響が出て、『遊べないの、澄花ちゃんのせいじゃん!』と目の前で友達に泣かれて──やっと悟った。
私はこの身体を受け入れないと、ただただ迷惑な存在になってしまうのだと。
それから“普通”や“みんなと一緒”は諦めて、ひたすら体力作りに励むうち、こんな夢を抱くようになった。
──母も病弱で、私の出産がきっかけで命を落としたらしいし。
──できるだけ体力のある、若いうちに子どもを授かりたい。
父と二人の生活に寂しさを感じて、家庭を持つことに人一倍憧れていた私にとって、ごく自然に湧いた願いだ。
とはいえ、元来好奇心が強く、社会人経験も積みたかった私は、大学卒業と同時にお見合い結婚なんて真っ平だった。
体力を考えたら、仕事と育児の両立は難しい。それなら結婚前に社会人を経験したいけれど、仕事で大きく体調を崩したら元も子もない……。
だから秘書の仕事は、散々悩んだ末、自ら父に頭を下げて頼み込んだ。まずは父の元で新しい生活に身体を慣らしてから、別の課への異動なり転職なり、次のステップに進むのが堅実だと考えたのだ。
つまり……結局、みんなの言う通りなのだ。
父の元に生まれた私は、恵まれている。
だから、何を言われたって仕方がないのだけれど──。
「ってか遅いねぇ。白波さんより先に乾杯できないし」
「大衆居酒屋だから、気が乗らないんじゃない?」
「あー、オシャレな高級店のほうが似合いそう!」
「ってか真壁君さぁ、なんで白波さん誘ったの? いつもの営業メンバーでいいのに」
──ダメだ。別の話になるまで待ちたいけど、これ以上は……。
悪化していく頭痛を無視して、再び襖に手をかけたとき。
「お前ら、いい加減にしろよ」
今まで黙っていたらしい、低い声が割って入った。
襖の向こうが、しんと静まりかえる。
「ろくに喋ったこともないのに、勝手に決めつけすぎだろ」
「べ、別に……悪く言ってたわけじゃないし。なあ?」
「そうそう、事実っていうか。何熱くなってんだよ」
「普段からそういう会話してると、取引先でいくらいい顔したって、人間性見抜かれるぞ」
──ああ、そうだ。この落ち着いた声。
──今日の幹事で、私を誘ってくれた、真壁……真壁透さんだ。
『あの。白波さんですよね?』
約一週間前。
会社の廊下で突然話しかけられて、固まってしまったことを思い出す。
『来週の金曜の夜って空いてます? 今年入社したメンバーで飲み会があるので、よかったらどうですか?』
口を半開きにして、ぽかんと見上げてしまったのは、『なんで営業の人が秘書課のフロアに?』と訝しく思ったから──ではない。
今まで父に連れられて、様々な社交場でタレントやモデルと挨拶したことがあるけれど、こんなにも整った顔立ちの男性は、はじめて見たのだ。
圧倒的な高身長と突き抜けた美貌に、視界にレタッチがかかったのかなと、目を擦りたくなったほどだ。
実際、廊下ですれ違った女性社員はみんな彼に目を奪われて、何度も振り向いていた。
でももちろん、このとき覚えたのは、美に対する純粋な感動であって。
『秘書課は先輩ばかりですよね? 法人営業だけの集まりですけど、横の繋がりを持つきっかけになるかと』
そう。嬉しかったのは、社長の娘であることを一切気にせず、ただただ思いやりから誘ってくれたことだ。
私は大喜びで連絡先を交換して──そして今もまた、真壁さんに助けられてしまったらしい。
「とにかく、もう学生じゃないんだから、そういうノリやめろよ」
「あ……あはは。まあまあ……! わ、私は白波さんと飲めるの楽しみにしてたよ?」
「ねー? こんなきっかけでもなければ、喋る機会ないし」
「真壁、何だよ。まさかもう点数稼ぎ?」
「一人娘だから、彼女の結婚相手が社長候補になるって噂だもんな~」
凍った空気が動きだしたのを感じて、思い切って襖を開いた。
「っ……こんばんは、遅刻しちゃってすみません……!」
掘りごたつ型のテーブルを囲む男女が七人。
丸い目で私を見上げて、硬直している。
唯一白けた顔をしているのは、一番奥まった席に座っているのに類まれな容姿で誰よりも目立つ男性、真壁さんだった。
「あ、あ、白波さん~! 待ってたんですよぉ~」
「道に迷ったりしませんでした?」
「バッグ、こっちこっち。何飲みます?」
「あ、メニューこれです! 飲み放題の中から選んでもらって……!」
ワンテンポ遅れて、真壁さんを除く全員が、ぎくしゃくと私をもてなしはじめる。
──せっかく、真壁さんがくれたチャンスなんだから。
──お高く止まってるわけじゃない、ってところを見せて、一人でも社内で知り合いができたらいいな……。
──別部署でも、仕事の悩みを相談できたりしたら心強いし……。
頭痛は相変わらずだし、お酒も苦手だ。
でも、「ナマがいい人~~?」という声に全員手を挙げているのを見て、慌ててそれにならった。遅刻した上に流れを乱して、これ以上悪目立ちしたくない。
「ほんと、お待たせしちゃって申し訳ないです」
「いえいえいえっ。仕事のこととか、いろいろ話してたところです」
「まだみんな慣れないことばっかりで……ねーっ?」
私から一番離れた席で店のタブレットを操作していた真壁さんが、全員ぶんのドリンクを注文しつつ口を開く。
「お前ら、同期なのにお客様扱いは逆に失礼だろ」
「べ、別にお客様扱いなんて。ねえ?」
「してないしてない! 同じ会社の仲間だし……!」
自己紹介を終えて食事がはじまっても、場の空気がどこかぎこちなかったのは、気のせいではないと思う。
みんな、私が社長によからぬことを伝えるのではと、不安なのかもしれない。
しかも、真壁さんの隣に座ったセミロングの女性──北原玲奈さんは、終始私を冷たく睨んでいた。個室に入るタイミングを見計らっていたとき、率先して私のことを口にしていたのは、北原さんの声だった気もする。
──確か自己紹介のとき、真壁さんと幼馴染み、って言ってたっけ。
──本当は私がいるから気が進まなかったけど、真壁さんに誘われて、渋々参加してるとか……?
──……いやいや。単に人見知りなのかもしれないし。
──勝手に悪いほうに想像するなんて、よくない……。
嫌なことばかり気になってしまうのはきっと、アルコールが回って、胃腸にまで不快感が広がっているせいだ。
私は不調を隠して必死に会話に食らいつき、明るく相槌を打ち、お酌をして、二次会のカラオケにまで参加した。大学の友人から教わったアニソンを武器に、全力で場に馴染もうと努力した。
けれど結局──全ては空回りに終わった。
カラオケ後、駅へ向かうメンバーと別れて、真壁さんと一緒に、悪酔いしてしまった女の子をタクシーに乗せる。
タクシーが走り去るのを見届けると、疲労がどっと押し寄せた。
──みんな最後までよそよそしいままだったけど。
──体調不良を隠し通せただけで、よしとしないと。
──学生時代みたいに、『病弱らしい』なんて噂まで広まったら、もっと特別扱いされちゃうし……。
「白波さんも地下鉄ですか? もし一緒なら、途中まで──」
斜め後ろから真壁さんの声がして、振り向こうとする。
でも、妙に足元がふわふわして、地面を踏んでいる感覚がない。
──……?
──あれ……?
「白波さん?」
「あ、……」
真壁さんが、顔を覗き込んできた。
焦点が合わない。
真壁さんの表情が、わからない。
呼吸が浅くなって、きん、と耳鳴りがした。
痛み止めを飲んだのに、頭痛が悪化している。
そろそろ五月も終わるというのに、やけに寒い。
悪寒を自覚した瞬間、全身からどっと、冷たい汗が噴き出る。
「白波さん──っ、ちょっと!」
人間、そう簡単に気を失ったりはしない。
だから、視界が狭くなって上下左右がわからない中でも、真壁さんに腕を掴まれたことは認識していた。
「っ、大丈夫ですか? そんなに飲んでないですよね? 確か、ビール一杯だけ……ああ、待って待って待って、道に座り込んだら汚れます」
「……ごめん、なさ……、だいじょうぶ、で……」
──なんで……何で?
──大学入ってから、だいぶ鍛えて、倒れることはなくなってたのに。誰にも迷惑かけずに済んでたのに。
──ああもう。なんでこの身体は、いつも……。
「全然大丈夫じゃないです! 顔が真っ青で……家はどこですか? 白波さん? わ、っ……!」
とうとうがくりと膝から力が抜けて、でもアスファルトに全身を打ち付けることはなかった。
ふわりと両脚が浮いて、瞼の隙間から小さな月が見える。
隣に頭を預けてやっと、抱き上げられているらしいと気付く。
もう一度謝りたかったのに、呼吸を続けるだけで精一杯だ。
「クソッ、なんで途中で具合が悪いって言わなかったんですか!」
──真壁さん……『くそ』なんて言うんだ……。
──優等生みたいな、印象だったのに……。
酷い状況なのに、ストレートに感情をぶつけてくれたことに、感動している自分がいた。
いつも過剰に心配され、どこかよそよそしく介抱されて、本気で叱ってくれた人なんていなかった。
だからこそ申し訳なくて、誰の手も借りたくなかった。
気遣わせたり、余計な迷惑をかけないように、早くよくならなくちゃと焦りが増すばかりだった。
なのに今は妙なことに、『何もかも預けて大丈夫だ、このまま意識を手放して、迷惑をかけてもいいんだ』なんて、安堵している自分がいる。
だって真壁さんは、本気で苛立って私を心配してくれている。
「病院連れていきます」
遠退く意識の中、必死に首を横に振り、喘ぐように訴える。
「へい、き……いつものこと、だから……家……家に……」
「いつもの? ならなおさら、自分で把握してただろ……! すみません、そこの方! あのタクシー、停めていただけますか!」
真壁さんの腕は、驚くほど逞しくて。
今まで誰にも感じたことのない、不思議な安堵感に包まれて──。
私は、深い眠りにつくように瞼を閉じた。