戻る

相性最悪な会社の先輩が極甘彼氏になりました 1

第一話

 

 JR新宿 駅西口から地下道を使って、徒歩八分。
 新宿高層ビル街の中でも歴史ある築五十年を過ぎた本社ビル、その三十七階フロアで百々地心春(ももちこはる)はうつむいていた。
 建物自体は古いけれど、国内でも有数の商社である。内部は改装された最新のオフィスとなっている。
 営業部のある三十七階は室内をガラス壁と、同じくガラスのパーティションで区切られていて、解放感のある造りだ。
 最初にこのフロアへ足を踏み入れたときは、系列子会社で働いていた自分が突然キャリアアップしたような気分になっていたけれど──。
「……どうして社内で迷子になれるのか、教えてもらっていいですか?」
 ──うう、やっぱり苦手だ。三津谷(みつや)さん!
 口調こそ丁寧だが、そこはかとなく声に呆れが感じられる。感情的ではないのに、彼の気持ちがため息になって届くような気がした。
「いえ、あの……迷子になっていたわけではなくて、ですね」
 弁明する心春の声は、自信なさげだった。
 無理もない。この春に、御鏡商事本社へと異動してきたばかりなのだ。本社に勤務し始めて、まだ一カ月。今日はたまたま違ったけれど、社内で迷子になった経験がないとは言えない。
「だったら、何をしていたんでしょう。百々地さんには資料室から過去の商材を持ってきてくださいと頼んだはずですが?」
 本社営業部に配属されて、隣の席に座っていたのが三年先輩の三津谷遼珂(はるか)だった。
 この三津谷という男、一八〇を超える長身に長い腕と脚、わずかにまなじりの下がった甘い顔立ちをしているのだが、驚くほどに話し方がそっけない。なんなら、煽り口調にすら聞こえる。
 少し厚めの上唇もあいまって、三津谷遼珂は無表情でいても妙な色気のある人物だ。
 今だって、じっとこちらを見据える目は冷たいのに、その奥にかすかな熱を感じる。いや、心春が勝手にそう思っているだけで、実際の遼珂は面倒な後輩にうんざりしているだけなのかもしれないけれど──。
「ところで、商材はどうしたんですか?」
「あ」
 だんまりの心春を見かねて、彼は質問を変える。
 そこで、自分が頼まれた商材を持たずに戻ってきてしまったことに気がついた。
「……もう結構。俺が自分で行きます」
「あ、あの、待ってください、三津谷さん。これには事情が、じゃなくて、わたしが行きますから!」
 彼の背中は、心春の声を拒絶してガラス壁の間をすいすいと歩いていってしまう。
 ──ああ、ほんとうに三津谷さんとは相性が悪い。
 この局面だけを切り取って判断されたら、明らかに心春は要領の悪い後輩だろう。
 しかし、おとなしそうな小動物タイプと評されることの多い外見に反して、もとより心春は明るく朗らかで、誰とでもすぐに打ち解けられるほうだった。
 そもそも東京本社へ異動となったのも、心春が系列子会社の西八王子支社で本社の社員に匹敵するほどの営業実績を上げたのがきっかけだ。
 ──西八王子はよかったな。のどかで、ゆったりしていて、競争とも無縁で……。
 とぼとぼと自分の席に戻った心春は、小さくため息をついた。
 それにしても、と隣の空席を眺めながら思う。
 三津谷遼珂。
 彼はさっき聞いてくれなかったが、心春だって無駄に社内を徘徊していたのではない。『なぜ』『どうして』という単語を用いるならば、こちらの回答を待ってくれてもいいではないか。
 もちろん、心春の返答が遅かったのも悪い。そこは自覚している。

 資料室は営業部のフロアから三階下の三十四階の東端だ。高層ビルのエレベーターは速度こそ立派だが、いかんせん階数と利用人数が多いせいで待ち時間が長い。
 そこで心春は階段を使って三十四階へ向かった。
 すると、そこでひとりの女性がうずくまっていたのである。
「大丈夫ですかっ!?」
 考えるより早く、心春は彼女の隣に膝をついた。
 あとから考えると、少しばかり恐ろしい。
 三十階以上のフロアで、非常階段を頻繁に使う者はあまりいない。心春も、それを知っていて階段を使った。
 そこにうずくまる女性。
 なんだか、怪談じみているではないか。
「すみません、足を踏み外してしまって……」
 顔を上げたのは四十代半ばと思しき、上品なスーツの女性だった。顔色があまりよくないのは、階段の照明のせいか。あるいは階段を落ちて怪我をしたのか。
「立ち上がれますか?」
「ちょっと足首に力が入らないんです。手をお借りしても?」
「ええ、もちろんです」
 そして、心春はその女性に肩を貸し、荷物が置いてあるという会議室まで案内した。
「ごめんなさいね。お仕事中でしょう?」
「ちょっと資料室まで行くところだったんです。偶然ですが、通りかかってよかったです」
 女性は、スマホもバッグも持っていなかった。打ち合わせで御鏡商事に来社して、化粧室を使おうとしたところ、混雑していたので下の階に行って階段で戻るところだったという。
「あなたが来なかったら、どうなっていたかわからないわ」
「いえ、そんなことは……。あ、でも、お手洗い帰りだったのは幸いでしたね。行く途中で怪我をしたら、より緊張感のある状況だったかもしれません!」
「ふふ、あなたっておもしろいのね」
 話しながら会議室のドアを開けると、室内にいた男性ふたりが慌てた様子で立ち上がる。
「社長! 遅いから心配していたんですよ」
「ごめんなさい。ちょっと階段で足を踏み外して、こちらの方に助けていただいたの」
 ──え? 社長?
 思わず、心春は肩を貸している女性をまじまじと見つめた。
「驚かせてしまったかしら。わたし、阿弖河(あてがわ)輸入食品の社長をしています。阿弖河今日子(きょうこ)と申します」
 阿弖河輸入食品といえば、アルコール類から製菓材料、香辛料など、手広く海外の商品を扱う大手企業である。
 もちろん、心春だって阿弖河の名前は知っていた。
「そ、そうだったんですね! 何も知らず、失礼をいたしました。わたしは御鏡商事営業部の百々地と申します」
「百々地さん、とても助かりました。ほんとうにありがとうございます」
 椅子に腰を下ろした今日子は、ハイブランドのハンドバッグから名刺ケースを取り出した。美しい革細工のケースだ。そこから名刺を一枚抜き取るのを見て、心春も急いでジャケットのポケットから自分の名刺を取り出した。
「あらためまして、阿弖河です。このたびはたいへんお世話になりました」
「ちょうだいいたします。営業部の百々地心春です」
 形式的な名刺交換を終えると、阿弖河の社員たちが代わる代わる心春に頭を下げる。
 彼らは、打ち合わせを終えて帰る前に化粧室へ行った社長が戻ってこないので、だいぶ心配していたようだ。話を聞けば、今日子は三十分以上も姿を消していたらしい。
 ──三十分は、たしかに心配する。スマホも持っていなかったって言っていたし……。
「百々地さん、今度あらためてお礼をさせていただきたいわ。今日は、このまま病院へ連れて行かれてしまいそうなの。ね、かならずお礼をさせてちょうだいね」
「いえ、そんな。どうかお気になさらず。わたしは偶然通りかかっただけですから」
「あなたがいなかったら、あのまま何時間も階段に取り残されていたかもしれないでしょう? ふふ、百々地さんはわたしの命の恩人なのよ」
 阿弖河今日子は、やわらかそうな雰囲気だがしっかりと押しが強い。だからこそ、社長なのかもしれない。そうでなければやっていけないのだろう。
 そういった諸事情によって、心春は遼珂に頼まれた商材のこともすっかり忘れて営業部へ戻った。そののち、先ほどの会話につながったわけだが──。
 ──阿弖河社長との一件が免罪符になるかって言ったら、ならない。わたしだってわかってる。三津谷さんに迷惑をかけたのは事実なんだから、もっとちゃんと謝罪すべきだった。

 はあ、と短いため息をついたのと同時に、隣の席にドサリと段ボール箱が置かれる。
 反射的に顔を上げると、無表情な遼珂がこちらを見下ろしていた。
「あ、あの、三津谷さん」
「商材、ありました。思ったより重かったので、百々地さんに頼むべきではなかったですね。結果として、俺が行ってよかったです」
 彼は、感情をどこかに置き忘れたような一定の声音で告げる。
 自分が間違っていたでもなく、心春を責めるでもなく、ただ淡々と事実を述べているだけなのだろう。
 頭ではわかっているのだが、彼のその言葉に心春は、
「あの、ほんとうにすみませんでした」
 考えるより先に頭を下げていた。
「今、俺は百々地さんに頼まなくてよかったと話したつもりですが?」
「でも、頼まれたことを果たせず、ほかのことをしてきたんですから、期待に応えられなかったという点で、これはわたしの失態です」
「商材を取りに行ってもらうだけのことで、たいして期待なんてしませんよ」
 ──謝ってるのに受け入れてすらもらえないってこと?
「それと、台車もなしに行かせようとしたこちらの判断ミスです。百々地さんが頭を下げるようなことはありません」
 おそるおそる顔を上げると、すでに遼珂は段ボール箱の中から二年前のフェアで使用した商材を取り出している。彼の中で、会話は終わってしまったらしい。
 ──やっぱり、三津谷さんとは相性が悪い! というか、会話が成立しない!
 気を取り直して、心春は自分のパソコンの画面に目を向けた。


 子会社の西八王子支社は、心春の初めての勤務先だった。
 大学を卒業し、右も左もわからずに入社した先では、疑似孫パラダイスが待っていた。
 御鏡商事の子会社は両手両足の指を全部使っても足りないほどに数あれど、心春のいた支社はその中でも平均年齢が極端に高かったのである。
 最初は年齢の近い同僚がいないことに不安を覚えたものの、ほとんどが五十歳以上の職場で、心春は孫のようにかわいがってもらった。
 世に聞くパワハラセクハラモラハラマリハラその他、どんなハラスメントもない。
 年配の先輩たちは皆、心春に丁寧に仕事を教えてくれて、困ったときは適切なアドバイスをくれて、お腹が空いたときには引き出しからチョコレートやキャンディを与えてくれた。
 もとよりおおらかで朗らかな性格の心春は、西八王子支社ですくすく育ち、若手ホープと称された。もっとも、若手と呼べそうな人材は心春しかいなかったのだが、それはさておき。
 のどかな街の、小さな支社。
 そこで心春は生来のポジティブさと、年配先輩たちの後押しや協力もあって、東京本社に匹敵するほどの営業結果を出した。
 就職してから三年。
 心春は、子会社の本社を飛び越えて御鏡商事本社から異動の辞令をもらった。
 西八王子支社の皆は、心春の旅立ちを笑顔で見送ってくれた。本社は厳しいところかもしれないから、ポケットや引き出しにはこっそりお菓子を入れておくんだよ、とチョコレート缶を持たせてくれた人もいる。寂しくなったら帰っておいでと言ってくれた支社長の、優しい声を忘れない。
「──ねえ、ここのランチセット、スープもおいしい」
「でしょ? 実はひそかな穴場なの。この前、チーフが教えてくれたんだよね」
 昼休憩は、社内にいるときは営業部の先輩女性ふたりと一緒に食事をとる。営業先に出向いているときは、ひとりで適当にファストフードで済ませることが多い。
 今日のランチは、会社から御苑方面に歩いて三分ほどの小洒落たビストロに来ていた。
「百々地さんも、ちゃんと食べないと。午後、体力もたないよ?」
「あ、はい」
 心春が選んだのは、揚げ茄子と豆乳リコッタチーズのラザニアだ。ランチタイムはミニサラダとスープがついて税込み九八〇円というのだから、立地を考えると驚きの安さである。
 本社で働き始めてランチの高さに頭を悩ませていたため、格安でおいしいランチセットに感動してもいいところなのだが──。
「今日も三津谷さんに詰められて、百々地さんは落ち込んでるんだよ。ね、百々地さん、元気をお出し、よしよし」
 撫でるふりで慰められて、心春は表情筋が緩むのを感じた。
「やっぱりあれって、わたし、詰められてましたよね……」
「まあ、言い方はいつもどおりだし、表情もいつもどおりだけど」
「三津谷さんは、あれが通常なんだけどねえ。最初はちょっときついのもわかるよ」
 先輩たちは、三津谷遼珂に対して心春とは異なる評価をしている。それは以前からわかっていたことだ。
「とはいえ、仕事はデキる」
「そうそう。それに面倒なデータ作成を押しつけてこない」
「わかる! 営業部の男性社員たち、気軽にデータ作ってって言い出す。特に飯塚(いいづか)主任と、竹内(たけうち)さんね」
「こっちも同じ給料で働いてるし、なんなら外回りだって同等にこなしてるんですけどーってなるからね」
 それについては、心春も本社勤務一カ月ですでに感じていることだ。
 西八王子支社でもパソコンや表計算ソフト、文書作成ソフトがあまり得意ではない人はいたけれど、丸投げされた上に成果を独り占めする先輩なんてひとりもいなかった。
「やっぱり、あれって普通のことじゃなかったんですね」
「えっ、百々地さん、普通みんなやってることだって言われてたの?」
「あ、具体的に言われたわけではないんですけど、なんかそういう雰囲気もあるというか」
「もうさー、女性社員のこと営業補佐と勘違いしてるおじさんたち、どうにかしてくれんかー!」
 先輩たちの嘆きは、年季が入っている分恨みが深い。
 実際、営業部は男女問わず正社員全員が総合職である。男女が性別によって仕事や給与で区別されることはない。少なくとも名目上はそうなっているのだ。
「その点、三津谷さんは仕事できるし、女性社員を補佐扱いしないし、顔もいいし、スタイルもいいし」
「後半、ルッキズム大丈夫?」
「えー、じゃあ、生理的に嫌悪感を抱かない、とか言えばいい?」
 その言葉を聞きながら、心春はラザニアをフォークで口に運ぶ。
 実際、三津谷遼珂の顔が整っているのは事実だ。甘やかな唇の輪郭は、黙って仕事をしているだけでも目を奪われることがある。横顔は涼しげで、かすかに下がったまなじりが魅惑的で──。
「百々地さん、たしか中高一貫の女子校だったんだよね?」
「あー、はい。そうです」
 実は中高だけではなく、外部進学した大学まで女子大だった。
「じゃあ、三津谷さんタイプは馴染みないもん。仕方ないよ」
「まあ、おいおいね、慣れていけばいいと思う」
「……慣れますかね?」
「慣れる慣れる。一カ月に二十日も顔を合わせてたら、多少気の合わない相手もやり過ごし方がわかってくるよ。三津谷さんは、そこまで面倒というか、いちいち突っかかってくるタイプでもないしね!」
 その言葉に、フォークを持つ右手が止まった。
 ──突っかかってくる、気がするんだけど。
 そこは、心春がまだ本社の新入りというのもあるのだろうか。至らないところが多いから、彼なりに教えてくれようとしている?
 好意的に考えたいところだが、あの無表情の詰め方を思い出すと、どうしてもそう思えない。
「あと、やっぱり三津谷さんって、ねえ?」
「んー、それはまあ、ね?」
 意味ありげに視線を交わす先輩たちに、心春は首を傾げた。
「何かあるんですか?」
「特に隠してないから言っても平気だと思うんだけど──」
「あの人、スリーバレーの御曹司なんだよ」
 一瞬、何を言われたのかわからなくなる。
 スリーバレーは国産スポーツブランドのトップオブトップだ。心春も中学のころ、ジャージやスニーカーを部活で愛用していた。
 そのスリーバレーの御曹司が、三津谷遼珂。
 ──や、でもスリーバレーって何か違う会社の可能性も……。
 思いかけて、それはないと自答する。
 国内でスリーバレーといえば、間違いなくあのスポーツブランドだ。国内だけではなく、海外でもそうかもしれない。
「……どうして、スリーバレーの御曹司が御鏡商事で働いているんですか?」
 疑問は山のようにあったけれど、厳選したひとつを口にする。
 言いながら、別に彼がどこで働いたって職業選択の自由ではないか、と頭ではわかっていた。
「なんでだろ?」
「わかんない」
 心春の疑問は、先輩たちにはまったく響かなかったらしく、考えたこともないという顔で、ふたりは食事を続ける。
「とにかく、三津谷さんは完璧超人ってこと。だから、あまり気にしないで。わたしたちはあくまで、自分の仕事をこなしていけばいいんだから、ね?」
 東京本社の営業部で働く、強くたくましく賢い先輩たちの金言に、心春は素直にうなずいた。


 昼を終えて仕事に戻ると、三津谷は席をはずしていた。
 社内アプリを確認したところ、彼はこの時間、会議に出席しているようだ。
 ──三津谷さんは三津谷さん。わたしはわたし。先輩たちの言うとおり、自分の仕事を着実に片付けていけばいいだけなんだ。
 目の前の作業に没頭していると、次第に集中力が増していき、周囲の雑音が聞こえなくなっていく。
 心春は、過集中の傾向が強い。特に自分の好きなことをしているときは、集中しすぎてしまうきらいがある。
 子どものころにくらべれば、自分をいたわる方法もわかってきた。とはいえ、気をつけないと周りが見えなくなるのも事実だった。
「──さん、百々地さん」
 呼びかける声にハッとしたのと、肩に触れられたのはほぼ同時だった。
「悪いんだけどさ、この資料まとめてもらえないかな。明日の午後に使いたいんだ」
 声をかけてきたのは、ランチのときにも話題に上った竹内である。資料作成を頼んでくる、と先輩たちが話していた人物だ。
「資料ですか……。でも、わたしまだ本社に来て日が浅いので、わからないかもしれません」
「そんなことないって。百々地さんの資料、前回のもすごくよくできていたからさ。お願い、今度食事おごるから」
 ──わあ。平成のドラマっぽい。
 これは、もちろんいい意味の感想ではない。悪習を未だに引きずっている相手への、ちょっとした嫌悪だ。
 そもそも、彼はまだ心春の肩に手を置いている。そのつもりはないかもしれないが、ハラスメント研修の場だったら、確実に悪い例として取り上げられるたぐいのものだろう。
「すみません。わたしもまだ自分の仕事が終わっていなくて」
「そこをなんとか!」
「なんとかするのは、百々地さんではなく竹内さんなのでは?」
 唐突に割り込んできたのは、振り返るまでもなく遼珂の声だった。
「三津谷~。冷たいこと言うなよ。先輩が困ってるんだぞ?」
 冗談めかしてはいるが、竹内の片頬がかすかに引きつっている。
「就業時間内外を問わず、同意なき身体的接触と先輩からの仕事の押しつけ。営業部のハラスメント対策委員である竹内さんなら、これがどういうハラスメントに該当するかおわかりかと思いますが」
 遼珂は、特に激昂するでもなく、かといって冷たく突き放すでもなく、彼なりに丁寧に噛み砕いて話しているふうだった。
「ま、体裁でいえばそうなるけどな。でも、営業部全体のためと思えば、資料作成くらい、な?」
 何が「な?」なのかわからないと言い切るのは簡単だ。
 だが、いかにハラスメントや業務形態の見直しをしたところで、現場で働いているのは人間である。
 そこである程度円滑に物事を進めるためには、あえて損を取ることだってなくはない。
 ──竹内さんと三津谷さんが険悪になるのも困るし、ここはわたしが……。
 残業を覚悟した心春が口を開くより先に、遼珂が竹内に向かって右手を差し出した。
「だったら、俺が引き受けます」
「え、三津谷が? それはありがたいけどさ。どんな風の吹き回し?」
「今日も社内で迷子になった百々地さんに、営業部全体のための作業をさせるのは荷が重いかと。このあとは俺も資料作成の予定なので、巻き取りますよ」
 ──って、そこでわたしの失態を持ち出す!?
 迷子になっていたわけではないと、もっと明確に説明しておくべきだった。
「あー、そうなんだ? じゃあ、悪いね。頼むわ。それと百々地さん、社内で迷子になるのはやばいよ~? 今度俺が案内してあげよっか」
 仕事の押しつけ先が見つかって、竹内は調子よく相好を崩す。
「そうですね。気をつけます」
 迷子にならないように、そしてあなたのような調子のいい相手にうまく使われないように。
 両方の意味を込めて、心春は微笑んだ。
 竹内が去ると、先ほどまでの作業に戻ろうとモニターに目を向ける。だが、さっきまであれほど集中できていたはずが、今はなんだか左隣が気になってしまう。
 ──お礼を言うべきかな。三津谷さんは、わたしをかばってくれたつもりじゃないかもしれないけど、実際彼のおかげで助かったわけだし。
 ちら、と彼のほうに視線を向けた。
 大きな手がキーボードの上を滑らかに動く。カタカタと打鍵音が聞こえるが、必要以上に大きな音を立てるわけでもない心地よいリズムだ。
 ──この人が、スリーバレーの御曹司。
 ふいに、昼休みに聞いた話を思い出して、心春はなんとなく落ち着かない気持ちになった。
「──何?」
 こちらに視線ひとつよこさず、遼珂が唐突に口を開いた。
「え、あっ、その……」
「じっと見られるの、気分よくないです。用事があるなら言ってください」
 ひと言だけ敬語を崩して、すぐにまたいつもの口調に戻る。そんな遼珂に、いっそう心春は動揺してしまう。
「それとも、俺の顔に何かついてますか?」
「違うんです。三津谷さんのお仕事から、いろいろ学んでいきたいなーと」
「個人的な興味でなければ構いません。どうぞ学んでください」
 自信にあふれた言葉だ。だが、仕事のできる遼珂だからこそ、この言葉に意味がある。
 ──でもね、個人的な興味ってなんですかね? わたしが三津谷さんを好きだから見つめてるとでも思ったんですか!?
「個人的興味はないです。完璧超人の三津谷さんから学べること、見つけていこうと思います」
 つとめて冷静に、そう告げた。
 心の動揺を声に出さないように、心春なりに気をつけたつもりだった。
 ところが。
 キイ、と小さな音を立てて遼珂が座っていた椅子をこちらに向ける。
「え」
 急に距離が縮まって、鼻先をジャスミンと海の混ざったような香りがかすめた。おそらく、遼珂のつけている香水だ。
「完璧って、何が?」
 完全に敬語が消えている。
 遼珂がまっすぐに心春を見つめていた。
「え、えっと、深い意味はないです。仕事ができて、先輩あしらいもおじょうずで、それから……」
「それから、何」
 語尾の疑問符すら消失し、これこそが詰めの本領発揮と言わんばかりに彼は空気を緊迫させる。
 ──ひと言でも間違ったら、軽蔑されるかもしれない。
 心春はごくりと息を呑む。
 彼にとって、先ほどの竹内相手のときよりもよほど言われたくない何かを言ってしまった。それだけはわかっている。
「資料作成が丁寧で、プレゼンがうまくて」
「それ、本気で言ってる?」
「もちろんです」
「……そうか。いや、すみません。ちょっと引っかかってしまっただけです。気にせず」
 もとの位置に椅子を戻し、彼は何ごともなかったかのように仕事に取りかかった。
 ──失言は、なかった?
 安堵を空気ににじませないよう、心春も自分のパソコン画面に目を向ける。
 もしかしたら、あそこで彼の顔立ちやスリーバレーの御曹司であることを列挙していたら、遼珂は不快感を表したのかもしれない。
 当然だ。完璧超人だなんて言われて喜ぶほど、彼は単純な人間ではないのだろう。
 ましてその根拠が、当人の努力と無関係の外見や出自だと言ったら、心春は軽蔑されても致し方ない。
 ──安易な言葉だった。完璧に見えても、それは三津谷さんの努力によるもの。
「百々地さん」
「はい」
「さっきの竹内さんに頼まれた資料の作り方、というか読み方、よければあとで説明しますが」
「! お願いしたいです」
「わかりました。先週も教えた気がしますが、気のせいだったということにしておきます」
 彼はかすかに目を細めて、口角を上げた。
 本社に来て日が浅いからわからないと断った心春を、能力不足だと言っているのかもしれない。あるいは、前回も教えたのに覚えていないのを愚鈍だと言っているのかもしれない。
 ──ううう、やっぱりこの人、苦手だ!
 心春は、心の中で叫んだ。
 王様の耳はロバの耳と違って、穴さえ掘らなければ誰かに知られることもない。だから、心の中だけは自由に「三津谷さんの陰険! 無表情! 冷血漢!」と続けることにした。