今夜だけ、瞳を閉じて 1
眩い光と音が溢れるランウェイをモデルたちがしなやかに闊歩している。客席にせり出したステージ中央のトップで足を止めた彼女たちはその衣装が最も美しく見えるポーズで場内の視線を最大限に引きつけ、次の瞬間には鮮やかに身を翻す。その余韻は巡ってくるモデルたちによって次から次へと重ねられ、独特の世界観で会場を包み込む。
ファッションショーはモデルたちだけでなく、素材、デザイン、パターンといった服飾技術から音楽や舞台演出まで様々な分野のプロフェッショナルが結集して織りなす美の世界だ。
ランウェイをUの字に囲んで配置された客席の一角には招待席が設けられており、マスコミやファッション関係者がひしめいている。その中央を避けた端の席で、久遠千咲(くおんちさき)は真剣な面持ちでステージを注視していた。
透き通るような肌にたおやかながら凜とした知性を感じさせる美しい佇まい。すらりとした身体に纏った上質なブラウスとスカートは、素材とカッティング技術に対する彼女の確かな審美眼を伝えている。
「今泉(いまいずみ)さん」
ショーの中盤の幕間に千咲は背後の席に控えている年配の男性をわずかに振り向いて小声で顔を寄せた。
「申し訳ありませんが、このあと一時間ずつ後ろ倒しでリスケをお願いできますか? 予定を変更して閉幕後のレセプションに顔を出します」
「了解しました」
今泉と呼ばれた男性が微笑んで短く返答する。
「ありがとうございます。お手数ですがお願いします」
千咲はすまなそうに礼を言い、再び真剣な表情で次のショーを待つステージに視線を戻した。
“久遠の副社長がレセプションに出席するらしい”
千咲のわずか数秒の動きにすら周囲のファッション関係者たちの視線が集中し、そんな囁き声が背後で伝播していく。日本を代表する名門アパレル企業の後継者の一挙手一投足も来シーズンの勢力図を占うファクターなのだ。
社長である父親の厳命を受けて千咲がアパレル商社の久遠ホールディングスの副社長に就いたのは二年前、二十九歳の時だった。当時、それまでワンマン経営で独裁的だった父が妻を亡くしてめっきり老け込み、自身の引退を意識し始めたタイミングだった。
折しも会社が売上を落とし、それまで長年競い合ってきたライバル企業に首位の座を明け渡しただけでなく、台頭してきた新興企業にも負けて二位の座すら守れなかったことも無関係ではなかっただろう。
業績不振もあり同族経営については厳しい声があったが、父親は血筋を守ることを譲らなかった。となると久遠家の一人娘である千咲しか担える者はいない。
当時の千咲は副社長の任に就くには尚早だという自覚はあったし、千咲自身も母親を亡くした悲しみの中にあったが、久遠家と会社を陰ながら支えてきた母を思い、腹を括って大役に身を投じたのだった。
以来、いまだ男性優位の感覚を残す経済界の逆風の中で、千咲は厳しい重責を背負ってきた。
ファッション業界で女性が活躍するのは当たり前のことだが、大企業の舵取りとなるとファッションではなく経営の領域になる。
歴史ある久遠ホールディングスはこれまで日本経済を支えてきた他社同様に代々男性が社長を務め、経済界で一定の発言力を有してきた。そんな歴史に一石を投じるような人事に対しては“世襲でその座に就いた若い女に何ができる”というのが経済界の意識なのだ。
男性以上の手腕を見せなければ認められないという女性の厳しい現実は、経営の世界においても変わらない。
そんな千咲を秘書としていつも支えてくれているのが長きにわたり父の補佐を務めてきた今泉だ。千咲にとっては第二の父であり、身内同然に信頼できる存在でもある。
「リスケ完了です。社長とのお打ち合わせは明日に飛ばしました」
ショーがフィナーレを迎えると、幕間から席を外していた今泉が戻ってきて千咲に報告した。
「ありがとうございます」
今泉に礼を言ったあと、千咲は苦笑した。
「やっぱりそうなりますよね」
帰社後は父親にこのショーについて報告することになっていたが、そこで起きる議論が平行線を辿ることになるのは目に見えている。セレブリティのための高級ラインに拘る父親は、今回千咲が視察しているこのショーの“リアル・クローズ”というものに対して頭から否定的なのだ。
「一日の最後に持ってくるとエンドレスになりますし」
「そうね。次の予定があるからって切り上げられる方がいいかも」
「それに副社長も少しは早めに帰宅してお休みになった方がいいですし、いろいろな意味で明日に飛ばすのが得策かと」
今泉に副社長と呼ばれた千咲は居心地が悪そうに文句を言った。
「その呼び方やめてって言ってるのに」
「表ではこう呼ばせていただきます」
今泉が穏やかな笑みを浮かべて答えた。
先代社長から気難しい現社長まで長年仕えてくれた今泉は久遠家の功労者だ。千咲に至っては幼い頃に遊んでもらったほどで、もう引退してもおかしくない年齢の今泉をこうして部下として使うのは、千咲にとってとても心苦しいことだった。
「レセプションの間、ロビーラウンジで待機していてください。あそこの紅茶はとても美味しいって聞いたから偵察してきて」
今日はすでにかなりの行程をこなしていて、今泉もきっと疲れているはずだ。そんな今泉をさらに立ちっぱなしのレセプションに付き合わせるのは申し訳ない。
しかし千咲が休むよう仕向けても今泉は乗ってくれない。
「その手には乗りませんよ。爺や扱いしないでください」
「爺やなんて言ってない」
今泉の自虐に千咲は思わず笑ってしまった。
確かにもう六十歳を過ぎているが、背が高く上品な顔立ちの今泉は年齢より若々しく、ハイブランドを展開する久遠のイメージにぴったりのルックスだ。穏やかで包容力があり、緊張とストレスの絶えない仕事の中で千咲はいつも癒されている。
そんな会話をしていると、招待客向けに隣のホールで行われるレセプションの案内が流れ始めた。今回のショーに出品されたアイテムの商談の場だが、ファッション関係者にとってはコネクション作りの場でもある。千咲も脳内にある今後の事業構想の下準備としてショーで興味を持ったデザイナー数名に声をかけるつもりだった。わざわざ予定を変更したのはそのためだ。
最近は業績に陰りがあるとはいえ、業界を代表する超名門として不動の威光を纏う久遠ホールディングスの副社長というだけあって、レセプション会場に入るや否や千咲の周囲には名刺を手にした関係者が列をなして集まってきた。
ところが、ここで首位から三位に転落した久遠の斜陽ぶりが皮肉な形で晒されることになった。
久遠を退け首位を我がものとしたライバル企業の幹部が会場に姿を見せたのだ。
「あっ、真山(まやま)副社長よ」
誰かがその名を口にすると途端に周囲は色めき立ち、視線は一気にそちらに集中した。
つい千咲もつられて目をやると、すでに人だかりになっている一団にひときわ目立つ男の姿があった。
男性モデルかと見まがうほどの長身に、明敏な知性を感じさせる顔立ち。佇まいや身のこなしに漂う品格に色香も同居する様は極上の男という表現をおいて他にない。
真山宏隆(ひろたか)──長年久遠とともに日本のアパレル業界を牽引してきた名門企業である真山グローバルワークスの後継者にして副社長。生粋の貴公子でありながら相手を身構えさせない柔軟性もまた彼が有能たる所以だ。
(やっぱり来た……)
真山宏隆を遠目に見つつ、千咲は心の中で溜息をついた。
ライバル社の後継者同士ということもあって、宏隆とは微妙な緊張関係にある。二人とも大企業の子息子女という同じ育ちながら、華やかな宏隆とは対照的に千咲は真面目が取り柄の堅物だ。
そんな千咲をいつも余裕顔で小馬鹿にしてくる宏隆の態度に内心苛つかされるのだが、いかんせん同じ業界、同じ副社長という立場なので行く先々でぶつかってしまう。
幕間の時点ではまだ宏隆の姿はなかったので千咲も油断していたが、今頃になって彼が来場するとは予想外だ。
このタイミングの来場は、主催側のたっての願いでスケジュールを調整して顔を出したのだと察しがつく。レセプションだけでも顔を見せて花を添えてほしいという依頼だったのだろう。
ショーのオープニングから必死にかじりついていた千咲と違って首位企業の彼は余裕で、しかも賓客扱いなのだ。
「名刺の予備は持っていますので」
「ありがとう」
今泉の声に気を取り直し、宏隆の存在をとりあえず意識から追い出した千咲は名刺交換を求めてくる相手の応対にしばらく集中した。彼の登場で千咲に集まっていた人数がかなり減ってあちらに移動したことは仕方がない。それが業界首位と三位転落企業の差というものだ。
おおかたの挨拶を終えたあとは千咲自身がこのあとの事業展開に備えて目星をつけたデザイナーの姿を探し、挨拶して回る。
しかし、そのうちの何人かは声をかけるのに躊躇ってしまう状況だった。
というのも彼女たちが宏隆に群がる集団の中にいて彼に熱っぽい視線を送っていたからだ。宏隆に声をかけられるのを期待して待っているのだろう。彼女たちがデザイナーではなく完全に女の目になっているのを見て、千咲は再び溜息をついた。
今までどれだけこんな状況を見てきたことか。
彼のステイタス目当ての打算ばかりではなく、宏隆には女が本能的に吸い寄せられてしまう魅力があるらしい。女性が中心になって活躍するファッション業界だけにそれは公私を越えて絶大な力をふるうのだ。
だからといってデザイナーのスカウトを諦めるような弱気な姿勢では企業を背負う身としていただけない。このためにリスケしてくれた今泉の苦労を無駄にもできないので、千咲は恥をかくことも覚悟で、宏隆の近くで彼の目に留まるのを待っているデザイナーの一人に声をかけた。
「久遠ホールディングスの久遠千咲と申します。ご挨拶させていただいてよろしいでしょうか」
駆け出しのデザイナーならば久遠のような大企業からの声がけはまたとない大きなチャンスだ。彼女は驚いた表情のあと、一瞬だけ目を輝かせた。
しかしやはり今はデザイナーではなく女になってしまっているらしく、彼女は千咲の名刺を無造作にバッグに突っ込んで「どうも」と言っただけだった。それから他の女性と喋っている宏隆を気もそぞろといった様子で眺めた。真山のライバル企業である久遠のスカウトを受けているところを宏隆に見られたら、彼に声をかけられるチャンスを逃してしまうとでも思っているのだろう。
社会勉強をそれほど積んでいないことも多い若いデザイナーにはこうした失礼な振舞いは珍しいものではなく、一緒に仕事をしていく中で育てることもあるので千咲は気にしていない。こうした出会いからブランドの柱になる逸材が見つかることもある。
才能ある人材は無限にいるわけではない。無礼であろうとまずは名刺を渡し、家に帰ったあとにでもいいから意識下に入れてもらうことから始めるのだ。
ところが気が散ることに、デザイナーのスカウトに励む千咲に気づいた宏隆が話しかけてきた。
「久遠副社長」
旧知の間柄なので昔は下の名前で呼び合っていたが、両家の関係が悪くなってからはパーティーなどで両家が交流することはなくなった。さらにお互いに副社長になったため、最近はこの呼び方が多い。
「お疲れ様」
「真山副社長、お世話になっております」
千咲がデザイナーに振られたところを見たのだろう。彼の唇の端は意地悪く上がっている。それに気づかないふりをして千咲は笑顔で丁寧に挨拶した。
「ショーから来てたのか?」
「ええ」
「副社長自らスカウトとは精が出るね」
やはりこの当てこすりだ。
「おかげさまでね」
真山に競り負け三位に転落している自虐も込め、千咲は澄ました顔で嫌味を返した。
遠目でもそうだが、こうして目の前にすると見れば見るほど宏隆は完璧なルックスの持ち主だ。
知的な額に自然に落ちる癖のない黒髪。すっきりとした涼しげな顔立ちは優しく微笑んでいても相手に本心を掴ませない鋭さもあり、彼の有能さを語っている。
好きな女性にはどんな表情を見せるんだろう──。
ついそんなことを考えてしまった千咲は負けたような気分になり、急いで宏隆から視線を外した。
宏隆の腕にはモデル風の美女が絡みついている。恋人なのかどうかは知らないが、宏隆は非公式の場ではいつもこうして誰かしら女性を連れている。呆れるのを通り越して感心してしまうのだが、見る度に相手が違うのだ。
彼ほど魅力的ならば女除けも必要だろうし、海外であれば有名人がこうしてモデルを連れているのは当たり前だものねと、千咲が心の中で苛々を収めようとした時だった。
宏隆が千咲の服装を眺めながら言った。
「今日はこれからお見合いにでも?」
「違うわよ!」
これにはたまらず、千咲は憤慨して言い返した。
千咲は基本的に毎日自社ブランドを着ている。立場上ある種の広告塔でもあるし、久遠が人気に陰りを見せている今はなおさら副社長が他社ブランドを着ていれば自社否定になってしまうからだ。
それは仕方のないことだが、久遠は最高級のお嬢様ブランドとして知られており、保守的で可愛らしいアイテムが多い。つまりどういうことかというと、働く三十代の女性である千咲には正直なところニーズに──ついでに言えば年齢にも合っているとは言えないのだ。“お見合いなら久遠”と世間で太鼓判を押される鉄板ぶりあっての宏隆の当てこすりだ。
さらに悪いことに今日の千咲のスカートはリボンをモチーフにしたものだった。といってもあからさまにリボンがついているのではなく、精巧に計算されたウエスト部分からのドレープがリボンを思わせるさりげないデザインだ。
これを可能にするのは久遠のパターンとカッティング技術だけだと、千咲は自社製品を誇りに思っている。ただし、千咲に似合っているかどうかは別問題だが。
「可愛いでしょ」
千咲が開き直ると、宏隆は声を上げて笑った。
「うん、すごく似合ってるよ」
馬鹿にされているとわかっているのに、端正な顔を人懐こく崩して笑う宏隆はたまらなく魅力的だった。見とれてなるものかと心の中で脇を締める。
「一人で来たのか?」
宏隆がこう尋ねてきたのは、今泉がちょうど誰かに電話するために千咲から離れているからだ。千咲がそれを説明しようと周囲を見回して今泉を探していると、先に見つけたらしい宏隆が軽く笑った。
「ああ……また今日もお目付け役と一緒か。相変わらずお堅いな」
確かに千咲はパーティーに父親と今泉以外の男性を連れて行ったことがない。もう何年も恋人と呼べるような男もいない。クリスマスも誕生日も普段と変わらず仕事している。世間で言われる“干物”とはこういう状態を指すのだろう。
しかし、だから何だというのだ。
「だからって何か迷惑かけてる?」
「まあそう怒るな」
千咲が公の顔ではなく地で返すと、彼も副社長ではないプライベートの調子で笑った。
「じゃあまたな」
いつも冷静な千咲の澄ました顔を崩して満足したらしく、彼は怒る千咲を残してあっさりと踵を返した。
挨拶を求めて集まっている関係者の方に戻っていく宏隆の後ろ姿を千咲は深呼吸しながら見送った。
腕に絡みついたモデル風美女がこちらを振り返ってすごい目で睨んでくるのだが、宏隆が千咲にわざわざ声をかけたことと、彼がプライベートの顔を見せる間柄だということが気に入らないのだろう。こちらにしてみればいい迷惑だ。
再び彼のことを意識から追い出すべく千咲も挨拶回りに戻る。
しかし“お目付け役”という言葉は千咲の寂しい恋愛事情だけでなく、傾きつつある企業を立て直すのには足りない未熟さも当てこすられたようで、時間差でまた腹が立ってきた。
(嫌な男……)
華やかな女性たちに囲まれている宏隆にそっと視線を戻した千咲は心の中で呟いた。
こんな風に感情をかき乱されてしまうのは、ライバル社の後継者同士という間柄のせいだけではない。
嫌いなはずなのに、戦わなければならないのに。
それなのに、どうしても宏隆に視線を奪われてしまう女としての自分が腹立たしいのだ。
二人を取り巻く両家の因縁ははるか昔に遡る。
久遠家と真山家は共に服飾業を営み、明治時代に会社の形をもって創業した。以来、経済社会の流れに合わせて社名や企業体制を変えながら日本のファッション業界の一時代を築いてきた。
同じ時代に興った多くの企業が同族経営を維持できなくなる中、久遠と真山はアパレルという特殊な業種であることにも助けられて創業以来の血筋を保っている。
そうした歴史を持つ両家は日本のファッション業界の双璧としてトレンドを牽引する立場で共闘関係にあり、ライバルでありながら名門一族同士でプライベートでも関わるなど、良好な関係を続けてきた。
ところが近年はすっかり交流がなくなり、関係は冷えきったものになっている。そのきっかけを作ったのは千咲の父、久遠社長だ。
久遠社長は真山が獲得寸前だった海外ブランドの販売権を強引なやり方で奪うなど、それまで暗黙のうちに築かれていたルールを破る振舞いで業界の覇権を独占しようとした。
対する真山は元から太いパイプを持っていた広告代理店などへの根回しで久遠の宣伝広告を阻害し、二社の抗争は泥沼化していった。
折しも業界にはファストファッションが海外から流入し、消費スタイルが大きく変化する潮目にあったことも影響した。
真山グローバルワークスは女性の社会進出の本格化に合わせ、それまでの高級ラインから機能性を併せ持ったオフィスファッションを意識したブランドへと切り替えることで売上を伸ばした。
それに対し、久遠社長はそれまでの強固な支持層であったセレブリティに拘り、信頼と高級感を損ねるとして下位ブランドの展開には消極的だった。
結果としてそれが明暗を分け、久遠は憧れのブランドから保守的なお嬢様ブランドというイメージへと衰退した。ついに数年前にはファストファッションを展開する新興企業の立花インターナショナルにも負け、三位に甘んじることになった。
そんな久遠の苦戦を後目に真山家は嫡子である宏隆を数年前に副社長に据え、次代に向けて盤石の体制であることを世間に示している。
久遠家と真山家の泥仕合は、現在のところ真山に軍配が上がっている状況だ。
こうした趨勢を受け、真山と同じく嫡流の伝統が揺るいでいない余裕を世間にアピールすべく、久遠社長は後継者として千咲の副社長就任を決めたのだった。
とはいえ、子供の頃から千咲は人の前に出ることを好む性質ではなかった。かといっておとなしいわけではなく、責任感が強いので指名されればクラス役員も臆さず務めるが、基本は他人を立てる真面目な努力家だ。それは久遠家が古風な家庭で、父親が堅実を重んじる厳しい教育方針だったこともある。裕福な名家に生まれても控えめで、久遠という苗字から身分はばれるものの、友人からは“社長の娘っぽくない”とよく言われていた。
そんな真面目な千咲だったが、勉学の傍ら父親に隠れて絵を描いていた。家業の影響もあり、いつしかそれは洋服のデザイン画が主になっていった。
“ファッションデザイナーになりたい”
思い描いた洋服をそのまま形にできたらどんなに素敵だろう。
千咲は密かにそんな夢を抱いたが、父親の久遠社長はその夢を許さなかった。薄々わかっていたことだが経営者の一人娘に自由はない。
“デザイナーになりたければ、お父さんが選んだ相手と結婚しなさい”
千咲自身が会社を継ぐか、血筋を繋ぐために父親が選んだ相手と政略結婚するか。
つまり職業の自由を得るためには身体と魂を売らなければならないということだ。進路選択で美大に行きたいと父親に願い出た千咲に突きつけられた現実はこれだった。
当時の千咲にとって、結婚とは他者が不可侵の純粋で神聖なものだった。衆人環視のもと選定された相手に献上され後継者をもうけるなど、まるで交配のように思えて想像するだけで絶望してしまった。
(女だからって、私は道具にはならない)
千咲は父親の言うことも家業を守らねばならないことも理解しつつ、心の中だけでささやかに反抗した。
結局、千咲は美大を目指さず経営学を学ぶため大学に進学した。父親の意向に従ったように見えて、心の内では会社の“道具”にはならないと決めた、意思ある人生を歩むための選択だった。
その選択には政略結婚を避ける以外にもう一つ理由があった。
デザインの道に進めば久遠の娘というだけで最初から重用されることは明らかだ。
しかし突出した才能があるわけではないのに七光りで“売れっ子”デザイナーになることは、千咲には恥ずかしい行為に思えた。そうしたコネ文化を自分がファッション業界に持ち込むことは許せなかったし、デザイナーという職業は才能を持つ人たちだけに開かれる聖域であってほしい。夢だったからこその理想だ。世襲制という既定路線による社長の椅子とはそこに決定的な違いがある。
経営の道に進むと決めて以降はデザイナーの夢をきっぱり諦め、一生懸命に経営学を学んだ。自分に経営の才があるかどうかなどわからなかったが、そこは努力で克服しなければならない。家業を背負うと決めた以上は生半可な姿勢でいることはできなかった。
大学を卒業して久遠ホールディングスに入社してからはさらに研鑽を積んだ。休日も経営に関する国内外の文献や専門誌を読み、都内の百貨店から地方のショッピングモールまで久遠のショップに限らず消費の現場を歩いて回った。
しかし久遠社長は伝統と過去の成功に拘り、ターゲットである女性が社会進出し仕事を持つことが当たり前になっても、いつまでも従来路線を変えようとしなかった。
売上の三位転落による批判の高まりで千咲を副社長に据え刷新を図るかに見えたが、それでもなお周囲や千咲の進言など一蹴するばかりで久遠社長のワンマン経営は変わらない。
そのせいで副社長就任で注目を浴びた反動もあって、久遠ホールディングスがその後一向に変わらないことから、千咲まで“期待外れ”と厳しい評価を受けることもあった。
そんな久遠家とは対照的なのが真山家だ。
真山社長は自由闊達な人物で、伝統を崩すことを恐れない。時代の潮目でそれが良い方向に作用し、これまでトップ争いを繰り広げてきた久遠を下す勢いを会社にもたらした。
柔軟性ある真山社長の経営の才は嫡男である真山宏隆にもそのまま受け継がれた。さらに宏隆は恵まれた容姿と人を惹きつけるスター性も併せ持っていて、経済界でも社交界でも注目の的となっている。
こうして何かと比較される二人だが、両家が仲たがいする前の時代──二人がまだ十代だった頃は、家族で出席するパーティーなどでは仲良く一緒にいた。
大人たちがひしめく立食パーティーで、三つ年上の宏隆はいつも千咲のそばにいてくれた。
『どれが食べたい?』
『ええと……エビのサラダ』
『いいよ、俺が取ってあげるから。次は?』
千咲はお皿を持って一人でうろうろするのが苦手だったが、宏隆がいればそんな心配は要らなかった。
『ドレッシングはアンチョビ?』
『うん』
宏隆は千咲の代わりに料理を取ったり席を確保したり、かいがいしくエスコートしてくれた。
大人たちは子供そっちのけで企業政治にかまけていたが、一人っ子の千咲が退屈することはなかった。宏隆がずっとそばにいて楽しませてくれたからだ。今思えばそれも自然と女性を惹きつけてしまう宏隆の才能の片鱗だったのかもしれないが。
『俺から離れちゃ駄目だよ』
パーティーでどこかの軽薄そうな子息に千咲が声をかけられたりすると必ず宏隆が守ってくれて、誰も寄せつけようとしなかった。
少女から大人へあどけなさを残しながら凜とした女性へと成長していく千咲の蕾のような美しさは“さすが名門の娘”と陰で評判を呼び、父親も誇らしげだった。宏隆ももちろんその頃からすでに際立つ容姿で才気に溢れ、久遠家と真山家の子息子女が並んでいると、大人たちはみんな目を細めたものだった。
立食パーティーでお腹が満足すると、二人でこっそり抜け出してバルコニーや庭に出てしばしの逃走を楽しんだりもした。
一度、迷路のようになっている庭園で隠れて遊んでいるうちに宏隆を見失ったことがある。
必死に宏隆を探しても行き止まりの園路に阻まれてばかりだ。明るい光を放つ会場の建物はすぐそばに見えていてそこに戻ればいいだけなのに、宏隆がいないというだけで千咲はにわかに不安になってしまった。
『宏隆……どこ?』
千咲の声に涙が交じっていることに慌てたのだろう。
『動かないで。俺が行くから』
すぐに見つけてくれた宏隆は千咲の涙を見て驚き、ぎゅっと抱き締めてくれた。
『ごめん……泣かないで』
千咲の頬の涙を拭いながら、宏隆はふざけすぎたことを何度も謝った。
『ずっと千咲のそばにいる』
『うん』
千咲は素直に頷いた。幼い約束にどれだけの意味があるのか、二人にだってわからない。
庭園に落ちるしっとりとした夕闇。遠くから聞こえる音楽、ほのかに庭園を照らす宝石のような光。千咲を抱き締める優しい腕、薄明かりに照らされた宏隆の真剣な眼差し。あの日の美しい情景は、今でも千咲の心に鮮やかに残っている。
当時の二人はまだ十三歳と十六歳。それ以上の何かがあったわけではない。
しかし、その時に千咲の胸の奥に生まれたほのかな熱がそのあとの運命を変えてしまったのだろうか。
それからしばらくして二人の距離は微妙に開いていった。
というのも、久遠社長による牽制が働いたからだ。
『千咲もそろそろいい年齢だから真山の息子と一緒にいるのはやめなさい。いずれは結婚する身なんだぞ』
まるで価値が落ちると言わんばかりの父親からの注意に千咲は反発心を抱いた。
しかし幼少時と違って両家を取り巻く経営事情を理解できる年齢でもあり、いずれ競合していかねばならない宏隆と単純に友人でいることは許されないのだと受け止めるしかなかった。
千咲が宏隆といることを躊躇うようになったのが先なのか、宏隆が他の女の子たちといるようになったのが先なのか。それとも父親の牽制が千咲にだけでなく裏でも働いていたのかどうかは定かでない。
やがて大学受験のため数年間パーティーへの出席を控えた千咲が社交の場に復帰した頃には、大人になった二人の関係はすっかり変わってそれ以前のようなものではなくなっていた。
真面目で堅実な千咲と、華やかで常に女性に囲まれている宏隆。美男美女でありながら古風な久遠家と自由闊達な真山家の対比そのままの二人は、顔を合わせる度にさりげない会話の下で水と油のような攻防を繰り広げるようになった。
といっても千咲が仕掛けることはなく宏隆が真面目な千咲をからかってくるのだが。
それが親同士の敵対や企業戦争の勃発よりも前からだったことを考えると、二人の必然の相性だったということなのだろうか。
ファッションショーを視察した翌日、千咲は秘書室の阿部智子(あべともこ)に誘われてパントリーでしばしの休憩をとっていた。
「社長との戦の前にお茶でも飲んでいってよ」
「アポまであと十分だから、五分だけね」
「相変わらず忙しいね」
「だって数秒でも遅れたら不機嫌になるのよ」
うっかり遅刻しないようスマホのアラームをセットする千咲に智子が笑いながら同情してくれる。
千咲と同期入社の智子は新入社員研修で意気投合して以来の立場を越えた友人だ。二人の育った環境はまったく違うがお互いに気の置けない関係で、千咲にとってはどんなことも話せる理解者でもある。
「来賓用のいいお茶っ葉を使っちゃお」
智子がそう言いながらお茶を淹れてくれている。
「それなら私もとっておきのおやつを出さないと」
千咲がパントリーの戸棚にしまっておいた袋をごそごそと出してくると、それを見た智子が呆れ返った。
「いつもの貝ヒモじゃないの」
「噛むと頭の働きが良くなるのよ」
「また屁理屈を」
二人で笑いながら小さな丸椅子に腰かける。
「久遠の令嬢が貝ヒモかじりながら仕事してるって、世間は想像もしてないだろうね」
「だって辛い系のおやつが食べたい時、最近ポテトチップスの油が重くて」
「老化にはまだ早いよ」
智子は長年の仲の恋人と同棲していて、いずれは結婚する予定だという。元々温厚な性格だが、プライベートの充実もあって智子はいつもメンタルが安定している。だから千咲も悩みや愚痴をつい打ち明けてしまうのだ。
「干物といえばね」
千咲は貝ヒモから宏隆の当てこすりを連想して顔をしかめた。社長へのプレゼンテーションを控えているおかげでせっかく忘れていたのに。
「昨日また馬鹿にされたの。これからお見合いにでも行くのかって。放っておいてくれたらいいのに」
誰がと言わなくても智子はわかってくれている。
「いつものことじゃないの。お互い好きなんだねぇ」
「違うって。例によってまた新しいモデルさんが腕に巻き付いてたし」
「魔除けならぬ女除けのお札みたいなものでしょ」
「そうだろうけど……」
昔から宏隆はもてていたが、大人になるにつれいっそうそのスケールが華やかになっている。千咲と一緒にいてくれた頃が今となってははるか遠く感じられた。
「それに千咲だっていつも今泉参与を連れてるじゃないの。それだって男除けよ」
「今泉さんは業務のためよ。わざわざ除けなくても誰も私に寄ってこないから警戒する必要もないの」
こんなことを言っている千咲だが、自分の未来が自由ではないことに密かに抵抗して、これまでに二度恋愛しようとしたことがある。
一度目は大学時代。同級生に告白されて付き合おうとしたが、すぐに父親の知るところとなり大目玉を食らった。
一人暮らしを始めてから二度目の恋人ができたが、千咲の家柄や背負うものを理解してくれたかに見えた彼は、やがてもっと遠慮なく付き合える相手を選んで結婚した。
千咲も仕事で多忙だったので、彼との将来を望んだところで厳しいハードルをいくつも越えなければならないことはわかっていた。
だから彼が去っていったことに納得できたし、むしろ傷つけずに済んだことにほっとしていて、そんな自分を嫌悪し責めたりもした。
こうした二度の経験で、やはり自分には恋をする自由はないということを思い知らされてしまった。さらに今は久遠の副社長という重い肩書までついている。
もっとも、千咲ももう恋を求めてはいない。
「千咲は仕事一色だし、声をかけようにも若い男にはハードル高いだろうね」
「この服装のせいもあると思うわ。隙も何もないからね。それが久遠の売りなんだけど」
「まあ千咲の服と同じで、彼が腕にぶら下げてるモデルさんも魔除けのキーホルダーだと思えばいいよ」
「キーホルダーね……」
やはり第三者は無駄に感情的にならず冷静な言葉で表現してくれる。
「でもいつかはそのうちの一人かどこかの令嬢と結婚しちゃうんだろうね。早くそうなってくれたらいいのに」
宏隆ももう三十四歳だ。彼の次の後継者も当然必要だし、いくら真山家が自由な家風とはいっても彼にはかなりの圧がかかっていることだろう。世間でもなぜ宏隆はまだ結婚しないのか、お相手は誰になるのかという話題が度々聞かれる。
だから千咲はいつその報に接しても平気でいられるよう覚悟していた。
この会話でちらちらと見えている前提──宏隆に対する千咲の気持ちはこれまで一度もはっきりとした言葉で智子に言っていないし、千咲は自分にも認めることを許していない。
だから智子もそれ前提で固有名詞抜きで会話してくれる。
「そうなれば諦めがつくってこと?」
手元のスマホはあと三十秒で休憩が終わることを示している。
智子の質問に答える前に、千咲はお茶を飲み干して少しだけ間を置いた。
「諦める以前に望んでない。言霊ってものがあるからね」
自己暗示は重要だ。
千咲は智子に明るく笑いかけながら手元のスマホのアラームを解除した。画面は見ていないがあと数秒でけたたましい音が鳴るはずなので、役員フロアの騒音公害の犯人になるのを回避した。
「騒ぐほどのことじゃない。もう三十路だし」
失恋など人の数だけあることだ。それに自分でも彼への気持ちを認めていないおかげで失恋と呼ぶほどまだ心は深入りしていない。
「ロミオとジュリエットだね」
智子の言葉に、千咲は笑って答えた。
「そんな美しいものだったらいいけど。そもそもあっちは私のことなんて眼中にないから、会社のせいで何かを失ったわけではないのよ」
宏隆を好きだと誰かに認めたら、心が久遠の次期社長ではなく一人の女になってしまう。会社を継ぐと決めて真山と闘わねばならない今の千咲の立場では、恋心も敵なのだ。
「それより迫りくる現実は社長へのプレゼンよ!」
「そうだったわ」
スマホを見てアラームから一分経過していることに気づいた千咲の叫びに智子も慌てて立ち上がった。
「お願いだから職場で着られる自社製品を作ってほしいよ。社販でも高すぎて手が届かないもん。十万円のブラウスの袖がインクトナーで汚れたら泣くわ」
「ほんとね。私たち毎日お見合いしてるわけじゃないんだから」
「頼んだよ」
智子に発破をかけてもらった千咲は湯呑を片付けると急いで社長室に向かった。
定刻の一分前であることを確かめ、深呼吸を一つして気持ちを切り替える。
「失礼いたします」
千咲が一礼して執務室に入ると、久遠社長はどっしりとした椅子に身体を預けたままじろりとこちらを見た。はなから機嫌が悪いのは、千咲がこれからショーの視察報告とともに提案しようとしている新ブランド構想が久遠社長の毛嫌いしているリアル・クローズ系のコンセプトだということがわかっているからだ。
「また安物の提案か」
久遠社長は面倒くさそうに立ち上がり、打ち合わせ用の応接セットまでゆっくりと移動した。少し腰を庇うその仕草を見て、父親が年老いたことを感じた千咲の胸が痛んだ。
久遠ホールディングスに入社して研修などが一通り終わった頃、千咲は父親の大反対を押しきってアパートを借り実家から独立した。
父親は千咲の公私を厳しく監視する人で、千咲の帰宅が遅かったり男性と一緒にいたりすると“傷物に見られる”と激怒した。
家を出たのは遊びたかったわけではなく、傷物という言葉が象徴するように女性に対する時代錯誤な考え方に我慢ならなかったのだ。また、入社してからは自宅でも仕事での上下関係の緊張が続いて、息が詰まってしまったからでもある。
それが間違っていたとは思わないし、普通の家庭なら就職して子供が実家から独立することは特に珍しいことではない。
しかし千咲が一人暮らしを始めた数年後、母が体調を崩して倒れてしまった。元々は病弱な人ではなかったが、気難しい夫を支え社長の妻として全方位に気を配る立場は負担が大きかったのだろう。母は様々な不調から衰弱し、倒れてから数年後に五十代の若さでこの世を去った。
もし自分が家を出ずに母を支えていたら、こんなに早い別れにはならなかったのではないか。
父親の圧政から逃れてささやかな自由を得ようとした自分を当時の千咲は責めたが、だからこそ今また父親の老いを感じると、父のために今もっとできることがあるのではないかと胸が痛んでしまう。
しかしそれは久遠家に限らず、子供が大人になり自立していく時に誰もが抱える思いだ。
妻を亡くした当時の久遠社長がかなり気落ちしていたので、千咲は一人暮らしをやめて実家に戻ろうかと提案した。しかし父は〝家政婦がいるから不要〟と強気にはねつけた。意地もあったと思うが、娘の負担になるまいという親心だろう。
しかし父はその時こうも言った。
“立派な経営者になってくれたら、それでいい”
我が子の人生の自由や幸せを犠牲にしても、受け継がれてきた家業を絶やしてはならない──。世襲企業の嫡流が背負う悲しいまでの義務感は、呪いのようでもある。
だからこそ会社を、ひいては父を支えるため、千咲も時代に合った商品展開に軌道修正することで業績を立て直そうと懸命なのだ。
しかし、今回のプレゼンテーションでもやはり社長が石頭であることに変わりはなかった。
千咲が市場傾向の分析に続けて新ブランド構想のコンセプトを説明すると、久遠社長は不機嫌をあらわに資料をテーブルの上に投げ出した。
「久遠ブランドを台無しにする気か」
「変えたいという提案ではありません。既存ブランドはそのままで、今提案しているのは新ブランドです」
「企業姿勢の話をしてるんだ。こういう軽薄な市場におもねらずにきたからこそ久遠ブランドの価値を維持できたんだろうが」
だから今売上が落ちているんじゃないのと言いたいところを千咲はぐっと我慢した。
こうして新ブランドを提案しているが、千咲は久遠の製品を何よりも誇りに思っていた。歴史ある久遠の技術と理念は無形の財産だ。
しかし、千咲が経営陣に入りブランドの総指揮を務めるようになってから既存ブランドの立て直しを進めてきたが、ハイブランド市場が縮小している中では飛躍的に業績を回復させるには足りない。
市場が大きい身の丈の新ブランドを主張しているのは、それが既存ブランドを支えることにも繋がるからだ。会社を存続させなければ伝統は守れない。
「久遠の技術なら軽薄にはなりません。上質なデイリーウェアの提案です」
「デイリーって、今でもそうじゃないか」
久遠社長は千咲の服を指さした。
「お前も毎日うちの社の服を着てるだろ。それと何が違うのかさっぱりわからん」
確かに千咲は毎日自社製品を着ているが、その陰にはお嬢様アイテムをいかにオフィスに馴染むコーディネートにするかという鏡の前の苦心がある。しかも高額だ。
働く女に今の久遠ブランドはまったく合っていない。
「立場上着ないといけないからです。でもオフィスに着まわせるアイテムが限られているので一週間を回すのは普通に無理です。他を着ていいなら楽なのに」
「じゃあ他社の安物を着ろ!」
「社長は男だから好きなブランドのスーツを着てますよね」
腹を立てる久遠社長に千咲も怯まず言い返す。
「私は当事者だからこそ、いかに久遠が世の女性のライフスタイルから乖離しているかがわかるんです」
「久遠ブランドには強固な顧客がいる。これまでそれでやってきた」
「その久遠ファンもお年を重ねます。いつまでもお嬢様ではありません」
「その娘がいるだろ、娘が。文化は母親から受け継がれるんだ」
「でも今は女性が一生の仕事を持つのが当たり前の時代です。いくら母親から上質な服をすすめられても、職場にそぐわなければクローゼットに一着あればいい代物になってしまいます」
これこそが久遠が直面している事態なのに、社長は意地がオーバーランしたのか、ここで暴言を吐いた。
「女性の社会進出なんぞまやかしだ。どうせいずれ辞めて家庭に入るんだろう」
「それは女性に失礼でしょう! 私にも、久遠の社員にも」
「差別する気はないが、男には子を産めないんだから仕方がないだろ」
「それで生じる不公平を是正するのが企業の責任じゃないですか」
こんな泥仕合にするつもりではなかったのに。しかも話が脱線している。
久遠は手厚い福利厚生制度で女性の社会進出を支える企業としてはリーダー的な役割を果たしている。だからなおさら社長の今の発言はその制度こそ“まやかし”だったのかということになる。言葉で飾っても経営者の思想は滲み出るものだ。
「今の発言、表で言えますか? 久遠は一瞬で潰れます」
さすがに暴言だという自覚はあったらしく、久遠社長は珍しく一瞬詰まった。
「まあその……今のは言いすぎた」
しかし、しおらしく謝った反動で社長はさらに強硬になった。
「そんなに安物ブランドをやりたいなら勝手にやれ。その代わり一切協力しないからな。人も金も自分で集めろ」
社長はそれでも言い足りず、ついにここで本音をぶちまけた。
「リアルだデイリーだ? それこそ真山がやってることじゃないか。真似をして真山の後塵を拝するなど久遠の名折れだ」
「時代に合わせようとしているだけで、真似ではありません。それに業績ですでに後塵を拝しているじゃないですか」
ここで千咲が業績に言及して父親の痛いところを突いたことが火に油を注ぐ結果になった。返事に窮した社長の矛先は千咲に向けられた。
「自分が真山宏隆に負けたと認めるのは悔しくないのか」
「どうしてここに真山宏隆が出てくるんですか」
「どのビジネス誌を見ても真山宏隆の記事ばかりだ。もう少ししっかりしろ!」
真山の話になるともう手がつけられない。もっと穏便に話を終えたかったが、ここはいったん撤収するしかないというのがこれまでの攻防で学んだ対処法だ。
「ああもう……疲れた」
怒る社長を残して執務室を出ると、千咲は溜息をつきながら社長秘書のところまで戻ってきた。
二人の言い合いは秘書席まで聞こえていたらしく、彼女はくすくす笑っている。
「お疲れ様です」
「父のお世話、いつもありがとうございます。本当に頭が下がります」
「いえいえ、コツを掴めばコロコロと」
秘書の言葉に千咲は思わず笑ってしまった。千咲がもし父の秘書だったらお互いに一か月ももたないだろう。
「すごい言い合いでしたね」
「うるさくしてごめんなさい。いろいろ余計なことを言い返してしまって」
「でも、許可下りましたよね」
秘書の言葉に、千咲も同じことを考えていたので笑って頷いた。
「そう解釈していいですよね。勝手にやれって確かに言ったもの」
これまで何度も同じような提案をしてきたので父が根負けしたのか、それとも単なる売り言葉に買い言葉に過ぎないのかはともかく、言葉面で“許可”が下りたのは一歩前進だ。
「はい。証人になりますよ」
社長秘書も共犯者のように笑って千咲の背中を押した。
ただしゼロ円でできる事業などあるはずもなく、かといって千咲が独立して起業しろという意味でもないわけで、結局は久遠の資金が大前提である以上、社長の言葉は事実上の“不可”なのだ。
(そこを何とかしなければ)
満願叶うとは思っていなかったが、千咲は新たな課題に頭を悩ませながら社長室をあとにした。