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溺愛は惚れ薬から!? 不器用な婚約者に突如めちゃめちゃ迫られて困惑しています 1

第一話

 

「ちょっと待っ、て……っ」
「待ちません」
 やっと絞り出した制止の言葉は唇を奪われたことで呑み込まれてしまった。覆い被さる小野瀬柾の胸を押し返そうとしても、口内に侵入してきた彼の舌のせいで力が入らない。
「んっ……ふ、っあ……ま、柾さんっ」
 こんなのよくない。早くなんとかするべきなのに。そう焦る心とは裏腹に、自分の身体に伸し掛かる彼の重みとまるで心を暴くように重ねられる唇が――とても甘美で、栗城鈴香はそっと目を閉じた。
 どうしてこんなことになったんだろう。
 今日は仕事後に柾が迎えに来て、残業を叱られて少し口論になってしまった。そうしたら彼は……
「鈴香、どうか拒絶しないで……貴方のことが好きなんです」
 鈴香の戸惑いを分かってか、彼が切なげに想いを告げる。その懇願とも取れる愛の告白に、鈴香は答えられず目を逸らした。
(柾さんが私を好き? そんなの……)
 正気を失ったゆえの一時の幻想だ。信じたらあとで泣く羽目になる。けれど、今はこのまま流されてしまいたいと望むずるい自分がいる。
 鈴香は己の欲求に従い抵抗する力を弱めた。それが分かったのか、ゆっくりと唇が離れていく。瞼を開くと、強すぎる眼差しと目が合った。射貫くような彼の目力にわずかに息を呑み、先ほどからけたたましい鼓動を刻む自身の胸元をぎゅっと掴む。
(柾さん……)
 精悍な顔つきと意思の強そうな瞳に、低いけれど気遣いのある優しい声。幼いときは鈴香を引っ張り守ってくれた力強い手も、見上げなければいけないくらい高い背も、全部好きだった。ずっと憧れていた。
 たとえこれが惚れ薬が起こした間違いだとしても、好きな人から劣情を向けてもらえて断れるほど鈴香は強くない。
(私、最低だわ……柾さんが正気に戻ったらきっと後悔するのに……止めてあげられない)
 このまま溶け合って一つになれたら、今ある悩みも消えてなくなるのだろうか。今は何も考えずに、ひとときの夢に溺れたい。


 

 木々が色づき秋の到来を感じはじめた錦繍の頃、鈴香は高級料亭の座敷でどうしたらいいか分からず困っていた。
(婚約なんて……本当にいいのかな)
「やっとね。二人とも奥手だからなかなか進展しなくて、かなりやきもきさせられちゃったわ」
「本当なら柾から言わなければならなかったのに、栗城社長に尽力していただくなんて……ありがとうございました。とても助かりましたわ。この子ったら昔から鈴香ちゃんにメロメロなくせに、肝心なところで駄目だから……。鈴香ちゃんもごめんなさいね。不安にさせちゃったわよね」
「え? いえ、そんなことは……」
 斜め向かいに座る柾の母から突然頭を下げられて、鈴香は誤魔化すように笑った。
(いや、これ政略結婚だから。大体いつの話をしているのよ)
 鈴香の父が経営する栗城香料で柾の父が専務を務めていることもあって、鈴香が生まれるより前から両家は家族ぐるみの付き合いがある。それもあり幼い頃は柾の後ろばかりをついてまわり、いつも面倒を見てもらっていたように思う。
 ひとりっ子の鈴香にとって、実の兄妹のように育った柾は兄であり、良き理解者で憧れの人でもある。
 それは両親もなのだろう。大学院で研究ばかりをしている娘より、優秀な柾のほうが後継ぎとして相応しいと考えているようだ。彼は真面目で誠実そのものだし、栗城香料に入社してからは父の期待に応えるだけの結果も残している。跡を継ぐ気も経営能力もない娘に託すより、有能な柾に任せたほうがいいと鈴香自身も思う。
 そのとき楽しそうな笑い声が聞こえてきて視線を動かすと、柾の父親と自身の父親がお酒を酌み交わしながら今後の展望についての話に花を咲かせていた。鈴香と柾の結婚後や柾が継いだあとはこうしていきたいと話す二人を見ていると、やはり政略結婚なのだとひしひしと実感する。
 鈴香は小さく溜息をつき、どちらにもうまく対応している柾を見つめた。
 どんなときだって側にいてくれた人ではあるが、今や距離ができている。それはそうだ。柾も鈴香も、もう子供ではない。
(本当のところ、柾さんはどう思っているのかしら)
 鈴香は昨日父から「柾くんと婚約が決まった」と告げられ、心の準備をさせてもらえないまま、ほぼ無理やり着飾られてここに連れてこられた。だが、柾はどうなのだろうか。鈴香とは違い、ちゃんと打診されていたのだろうか。
 と言っても、社長である父からの申し出を柾が断れるはずがないので、事前でも事後でもあまり変わらないのかもしれない。
 今日着せられた雲取りに花模様が美しい桜色の着物の袖をぎゅっと掴む。
(うう、胃が痛くなってきた)
 柾は幼いときから変わらず、かっこいい。目は少し細くてきつめに感じるが、彫りの深い端正な顔立ちはまるで外国人の俳優のようだ。
 就職してからあまり笑わなくなったが、ブリティッシュスタイルのスーツをビシッと着こなしている姿は堂々としていて、そのクールな表情によく合っている。今だって動揺している鈴香と違って、彼はとても涼しい顔で冷静そのものだ。だが、落ち着き払っているのも考えもので、何も話しかけてくれないのは少々つらい。
(やっぱり柾さんは仕方なくこの婚約を受けたのよね)
 次期社長に望まれるのは名誉なことかもしれないが、彼は自分との結婚は望んでいないはずだ。でも栗城香料で働いている以上、我が家には……いや、父の意向には逆らえない。
(いくら昔から家族ぐるみのお付き合いをしていたといっても、きっとその辺はシビアなのよね)
 鈴香は小さく深呼吸してから、両親に聞こえないようにひそひそ声で柾に話しかけた。すると、彼の目が鈴香を捉える。
「柾さん。私と婚約なんて良かったの? お父様が無理を言ったのよね?」
「別に。無理なんて言われていません」
「何も婿になんて入らなくても、柾さんが普通に後を継げばいいだけだから迷惑だって言って婚約を断ってくれていいのよ。私からお父様に言ってあげようか?」
 来年の春に鈴香は大学院を卒業して、栗城香料に就職する。この機会に、と考えたのかもしれないが、今どき世襲にこだわることもないのだから、鈴香と柾が結婚する必要はないと思う。
 だって子供のときのように二人の仲は良くはない。鈴香はずっと柾に恋をしているが、柾はそうではない。
(今だって……とても怖い顔……)
 最近の彼は鈴香の前で厳しい表情をしてばかり。おそらくよく思われていないのだろう。そんな彼と婚約なんてして、果たして彼を不幸にしてしまわないか、とても不安だ。
 だけど、柾を恋慕う心が、彼との婚約を喜んでしまう。
(私ったら駄目ね)
 鈴香は伏し目がちに小さく笑みを浮かべた。
「俺は光栄だと思っています。……鈴香は迷惑なんですか?」
「いいえ、そんなことないわ。むしろ私にはもったいないくらいの素晴らしい縁談だと思ってる……」
「なら、いいじゃないですか。俺なら公私共に鈴香を支えられます。むしろ俺以外最適な相手はいないと思いますが」
 そんなにも会社を継ぎたかったのかと、少し驚いた。が、すぐに父にそう言えと言われたのだろうと思い直して、鈴香は一瞬喜んだ自分が心底嫌になった。
「……ええ、そうね。柾さんが嫌じゃないならいいの。……そっか。ということは、これからは私たち、婚約者同士になるのね。なんだか、ちょっと変な感じ。柾さんはとても素敵でかっこいいからドキドキしちゃうかもしれないけど、私頑張るから」
 ちゃんと婚約者を務められるだろうか。有能な彼の隣に立つのに相応しくあれるようにもっと努力しなければ。
 鈴香がつい本音をこぼすと、柾の眉間の皺が一層濃くなった。彼は鈴香から視線を逸らして、何かに耐えるような表情を浮かべている。
(あ……失敗しちゃった。ドキドキするなんて迷惑よね……)
 仕事ができて周囲に認められている柾は素敵でかっこいいと褒めたつもりだったのだが、よく思っていない相手からそんなことを言われたら、それは迷惑だろう。苦渋に満ちた顔になってもおかしくない。
 鈴香は柾の表情を和らげたくて、今の失言を挽回すべく言葉を続けた。
「え、えっと……婚約したからって気を遣わないで今までどおりでいましょうね。私はこれからも研究ばかりしていると思うから柾さんも好きなようにしていて。変わらず兄妹みたいに過ごせたら嬉し……」
「は?」
 そう言った途端、柾に睨まれて鈴香は慌てて口を噤んだ。
 柾の負担にならないようにと言ったつもりだったのだが、言い方が悪かったのだろうか。
(私、また失敗した?)
「俺は鈴香を妹のように思っていません」
「ごめんなさい……」
「これから俺たちは婚約者です。変わらずになんていられるわけがない。よく覚えておいてください」
 有無を言わせない眼差しと口調に、鈴香は気圧されるように首肯した。
(また柾さんを怒らせちゃった……私ったら本当に駄目ね)
 今後は彼の邪魔にならないように、一層努めよう。
 鈴香は柾に見えないように座卓の下で拳を握って、決意を固めた。すると、柾の咳払いが聞こえてきて、身体がビクッと跳ねる。
「叱っているわけじゃないんですから、そんな顔をしないでください。それより博士論文はどうですか?」
「大変だし難しいけど、なんとか……頑張っているわ」
 柾が気にかけてくれているとは思っていなかったので、鈴香は目をパチクリさせた。でも話題ができたことが嬉しくて、そわそわしながらそう答えると柾が安堵の息をつく。
「それなら良かったです。先日鈴香の研究室に行ったらとても散らかっていたので、心配していたんですよ」
「あ、あれは……」
 実家の離れに鈴香のために小さな研究室をつくってもらっている。最近知らないうちに綺麗になっていたので、てっきり母かお手伝いの松(まつ)下(した)が掃除してくれたのだと思っていたが、まさか柾だったとは……
「栗城香料の社名が入った瓶がいくつか部屋の隅の箱にまとめられていましたが、あれは何ですか?」
「あ……えっと……そ、そうね。箱に入れてあるのはボツにしたものだと思うわ。いけないとは思うんだけど……つい会社のものを使っちゃっていたの。だってずっと家に置いてあるから……ごめんなさい。今後は控えるわ」
 しどろもどろになりながら言い訳をする。
 無断で会社のものを使って叱られると思ったが、柾は興味深そうに目を見張った。そしてやや身を乗り出してくる。
「いらないなら、俺がもらっても? 気に入った香りがあったんです」
「え? ええ、どうぞ」
 珍しいこともあるものだと、鈴香は目を丸くした。

 ***

 いつからだろう。いつから自分たちの関係はぎこちなくなっていたのか。
 あの婚約成立の食事会から一年後、柾は自分のデスクに肘をつき、顔の前で組んだ手に額を当て、重く暗い溜息をついた。
 男女が婚約することの意味を理解しているのか甚だ怪しい鈴香に自覚しろとは言ったが、時間が経つのは早いもので、結局柾自身も関係を変える一手を打てずにいる。
「はぁっ……」
 一体どうすれば鈴香が、自分を異性として意識してくれるのか。いや、その前に柾を見たら強張る癖を至急なおさなければならない。
(なぜこんなにすれ違ってしまったんだろうか)
 以前はそうではなかった。鈴香も柾も互いに自然体で接せられていたはずだ。
 昔は鈴香はいつだって柾を頼り、自分の両親よりも柾に甘えてくれていた。なのに、気がついたときには二人の間には大きな溝ができていた。かつては『柾兄様』と呼んでくれていた鈴香も今では『柾さん』と呼び、用事があるときしか近寄ってこない。それどころか自分を見たら緊張するようにもなった。
「……」
 柾は椅子の背もたれに身を預け目を瞑り、古い記憶を呼び起こした。
(あれは確か……)
 鈴香が高校生の頃、彼女と大きな喧嘩をしてしまった。思い返せば、あの頃から――噛み合っていた二人の歯車が少しずつずれはじめたように思う。
 幼少期の四歳差は大きく、最初はただの幼なじみとしか思っていなかった。懐いてくれるのが可愛くて、妹のように思っていたのも事実だ。
 その気持ちが変わったのはいつだっただろうか。気がついたら、鈴香は柾にとってかけがえのない存在になっていた。だが、あの日彼女は突然「学校に来ないで。私に構わないで」と柾を拒絶したのだ。
 それからは部活や進路相談などで帰宅が遅くなったときは、あてつけのように一つ上の先輩に送ってもらうようになった。遅くなるときは迎えにいくから連絡してこいと何度言っても、彼女は嫌だと突っぱねて柾の話を聞いてくれなかった。
 あの日のショックな気持ちは、今でも忘れられない。柾の言うことはなんでも素直に聞いていた鈴香が初めて反抗したのだ。
 だがそれもそうだ。鈴香だっていつまでも子供のままではいられない。同年代の男と恋もするだろう。そんなときに兄のように振る舞う幼なじみが側にいたら邪魔すぎる。
 頭では理解できても、実際はかなりこたえた。今まで自分がいた彼女の隣に見知らぬ男が立っている。しかも鈴香は頬を染めて、とても楽しそうに笑っているのだ。
 彼女を守るのは自分の役目だったはずなのに――
 嫉妬が己の弱い心を占有する。本来なら幼なじみとして祝福してやるべきなのに、その恋の相手が自分でないことに無性に腹が立ってしまった。
 そのときに鈴香に恋をしていたのだと気づいたけれど、想いを口にすることができなかった不甲斐ない自分は、彼女は社長令嬢なのだから立場を弁えるべきだと言い聞かせ、自覚した想いに蓋をし己を律することに努めた。それから少しずつ……鈴香との関係が変化していったように思う。彼女はいつしか柾の前で緊張した表情しか見せなくなった。
「はぁっ」
 また陰鬱な溜息が漏れ出る。
 鈴香と婚約して一年。二人の間にある大きな溝のせいで、まったく関係を進められていない。彼女は就職して自分の好きな仕事ができているからか、柾のことがまったく眼中にないらしい。
(悩んでいるのは俺だけなのか? まさか婚約したことすら忘れていないよな……。いや、さすがにそんなわけないか。それよりは……どうしたらいいか分からなくて、向き合うことを今も後回しにしているだけか)
 柾は自問自答しながら頭を抱えた。一方通行すぎて泣きたくなる。
 この一年で会えた日を指を折って数えてみると、逃げられずに会話ができたのはほんの数回で、ほとんどが遠目に顔を見られた程度だということが分かる。どう考えても婚約後から避けられているとしか思えない。
(そんなにも俺と向き合いたくないのか?)
 柾はかぶりを振った。考えていても、悪いほうに思考がいくだけだ。
 鈴香の気持ちが追いつくまで待ちたいと思っていたが、もう一年。そろそろ我慢ができない。もう少し二人の時間を持とう、と提案し話し合いたい。そもそも二人のことなんだから、これからのことは二人で考え向き合うべきだ。
 柾は小さく息をつき、一年前の鈴香との会話を思い返した。
『柾さんはとても素敵でかっこいいからドキドキしちゃうかもしれないけど、私頑張るから』
 婚約に不服そうな顔をしていたくせに、鈴香はふとしたときにこちらを翻弄するような一言を漏らす。柾の気持ちなど何も分かっていないような無邪気な表情で、息が止まりそうなくらい可愛いことを言ってくるのだ。けれど、鈴香もこの婚約を喜んでくれているのかと喜びそうになった心を、続いて出た彼女の言葉により無情にも打ち砕かれる。
『婚約したからって気を遣わないで今までどおりでいましょうね。私はこれからも研究ばかりしていると思うから柾さんも好きなようにしていて。変わらず兄妹みたいに過ごせたら嬉し……』
 無自覚とはなんと恐ろしいのか。本当に残酷な人だ。
 思わず「は?」と出た怪訝な声に、失敗したという表情で口を閉じる鈴香の顔が今でも脳裏から消えてくれない。
 結局あれはどういう意味だったのか。この一年の鈴香の振る舞いを見るに、婚約したからといって立場を変える気はないと線を引いたのだろうか。それともなかったことにされたのだろうか。
 かっこいいと褒めてくれた口から出る拒絶に、落胆が心を占める。
 鈴香はいつもこうだ。こちらはときめきを抑えるのに必死だというのに、無自覚な言動で柾を振り回す。ひどいときは『好き』と言ってくるときだってあるのだ。もちろん鈴香の好きは『兄への好き』だということくらい分かっている。だが、そんなのならいらない。柾が欲しいのは『恋人への好き』だ。
(そろそろ幼なじみという関係を壊して、恋人として好きだと言わせてやる)
「待っていては駄目だ。鈴香が欲しいなら自分から動かなくては……」
 欲しいものは眺めているだけでは手に入らない。手を伸ばし声に出して自分の想いを伝えなければ、鈴香は決してこちらを向いてはくれないだろう。
 柾は決意を固めて、鈴香が働く研究所へ向かうことにした。
 自分は感情を表に出すタイプではないので、鈴香は柾が自分に惚れているなんて夢にも思っていないはずだ。まずはそこから正さなければ……
「はぁ?っ」
 自然に溜息が漏れる。
 鈴香のようなタイプは察するのは不可能だ。まわりくどい言い方では絶対に伝わらない。
(これからは自分の気持ちをストレートに伝えていこう)
 押しに弱い鈴香のことだから、柾が迫れば拒否はできないだろう。そうして強引にでも二人の時間を作っていけば、そのうち鈴香も柾を意識するはずだ。
 迫れば鈴香はどんな表情を見せてくれるのだろうか。
 想像すると渇望感が湧き起こってくる。柾は逸る気持ちで、彼女に会うために会社を出て研究所へ向かった。

 ***

「はあぁぁぁ……」
「栗城さんったら」
 重苦しい溜息が自然とこぼれたとき、隣に先輩の秋(あき)山(やま)が来てとても残念そうに鈴香を見てきた。彼女は鈴香の三つ年上で、同じフレグランス研究室で働いている先輩だ。パフューマーとして見習うところが多く、密かに目標にしている。
 婚約成立後、鈴香は大学院を卒業し、予定どおり調香師(パフユーマー)として栗城香料に入社した。今は好きなことを仕事にできて楽しい反面、柾とのことがうまくいかなくて毎日憂鬱だ。それが原因の溜息とバレているのか、秋山はよしよしと鈴香の背中をさすってくる。
「溜息をつくと幸せが逃げるよ」
「逃げませんよ。それに……溜息は悪いものじゃないですし」
 疲れやストレスが溜まって浅い呼吸が続くと交感神経が優位になりがちだが、深呼吸よりも息を吐く量が多い溜息はリラックスもしやすく、より効果的に副交感神経を優位にしてくれる。だから、別にこれは……悪いことじゃない。
 秋山の視線から逃れるように目を逸らすと、彼女が嘆息する。
「そ、それより、もう定時すぎてますよ。帰らないんですか?」
「それはこっちのセリフ。帰らないの?」
「はい。私はもう少し……」
 こくりと頷くと、秋山が大仰な溜息をつく。鈴香が見ると、秋山が「溜息は悪いものじゃないんでしょ」と困り顔で笑う。
「いやでもさ、疲れやストレスが溜まっているからこそ、それを解消するために溜息が出てくるから……しないですむなら、それに越したことはないと思うわ」
「まあ確かに……」
 つい同意してしまうと、秋山が得意げに「ほらほら?」と鈴香の頬をつつく。が、すぐに神妙な面持ちになって声をひそめた。
「もしかしてだけど……破談になったから落ち込んでるとか?」
「まさか。小野瀬部長が父の申し出を断るなんてできません」
 鈴香が社長令嬢だということや、柾との婚約については隠していない。だから社内の皆も知っている。けれど、鈴香も柾もビジネスライクな関わりしかないせいか、『実は仲が悪いのでは?』と噂されているので、秋山が鈴香の元気がない原因を柾だと考えるのも仕方ないのは分かっている。というか、実際柾が原因だし。
「じゃあ、どうしてそんなに憂鬱そうなの? 婚約して一年目なんてまだまだラブラブな時期なんじゃないの? それとも噂どおり本当に仲悪いの?」
「さあ、なんででしょうか。仲悪いというより大人になるにつれ関わりが減っていたせいか……どう接していいか分からず困惑しているだけなのかも」
 言っていて悲しくなる。
 鈴香が項垂れると、秋山がポケットから飴を出していくつか鈴香の手に乗せてくれた。そして背中をさすってくれる。
(秋山さん……)
 慰めてくれる彼女に胸がじんわりと温かくなった。
「まあ確かに。幼なじみと急に婚約って言われても接し方に困るわよね。大人になって関係が希薄になっていたなら尚更。でも仕事に逃げていても何も解決しないわよ」
「はい」
「頭使いすぎたときは甘いものが一番よ。これ食べて元気だして。それから、ほどほどのところで帰るのよ」
 こくりと頷くと彼女が「頑張って」と、鈴香の背中をポンポンと叩いて研究室を出ていく。
 彼女はいつもこうだ。鈴香に元気がないときは励ましてくれる。とても優しい先輩だ。
 鈴香は出ていく秋山の背中を見て心の中で「ありがとうございます」と感謝した。
(あまり心配かけないようにしなきゃ……。それに秋山さんの言うことはもっともよね)
 逃げていても何も解決しない。向き合わなければ……
「でも……向き合うってどうやって?」
 柾にこれからは婚約者の自覚を持てと言われたが、二人の仲は婚約前から特段変わっていない。今のところ鈴香の実家や職場以外での交流はほぼないし、柾もこれといって態度を変えることもない。というより、彼は今年の春に三十二歳という若さでフレグランス営業部の部長に抜擢されたので、鈴香に構っている余裕はないのだと思う。
 それは鈴香も同じだ。栗城香料はほかの研究室との隔たりがなく、フレグランス研究室やフレーバー研究室――どちらの先輩からも相談やアドバイスを受けやすい。それにこれは部長である柾のおかげもあるのだろうが、営業部のサポートが良く依頼主との打ち合わせが捗る。とても仕事をしやすい環境のせいか、ついつい励んでしまうのだ。それもあり、うまい具合にプライベートでは彼と距離が置けている。
(そういえば……柾さんが部長になってから営業部の雰囲気が良くなったって、以前柾さんの部下の人が言ってたな。やっぱり彼はすごいのね)
 自然と笑みがこぼれて、なんだか誇らしくなった。が、それと同時に少し寂しい気分にもなる。
 二人の間に愛はなくとも、子供の頃から培った絆はある……はずだ。柾が会社を継ぐと覚悟を決めたのなら、愛のない政略結婚でも構わない。鈴香は調香研究を通して、柾の役に立つ妻を目指せばいい。
(いい夫婦にはなれなくても、いいビジネスパートナーにはなれるわ)
 この一年で鈴香なりに答えを出したつもりなのだが、柾にはまだ言えていない。というより、どうやって伝えればいいか分からない。
「伝え方を間違えたら、また怒らせてしまうかもしれないし難しいわね」
 好きな人に自分の気持ちを話すのは研究発表のように上手くはいかない。正直論文を書くより難易度が高いと思う。
 鈴香は自分の不甲斐なさに調香する手を止めて独り言ちた。そのとき研究室のドアがコンコンとノックされる。
(あら、秋山さんが忘れ物をしたのかしら? いやでも彼女ならノックをせずに入ってくるわよね)
 すでに定時を二時間ほど過ぎているので、ほとんどの研究員は帰宅している。残っているのは鈴香くらいなものだと思う。
 鈴香は壁掛け時計が示す時刻を見て、首を傾げた。
(あ、そういえば今日フレーバー研究室の方たちが、作業が難航しているってぼやいていたわね)
 調香は――クライアントが求めているイメージどおりになるように、何度も改良を繰り返して香りを完成させていくので、なかなかに難しい。でも良い評価をもらえたり商品に採用されたりしたときは大きな達成感が得られる。だから、とてもやりがいはあるが根気がいる仕事だ。
(もしかしたらあちらの方たちも残っているのかも。休憩のお誘いかしら)
 そう思いながら、「どうぞ」と声をかけるとドアが開いた。そちらに視線をやると、そこに立っていたのは同僚ではなく、柾だった。
 予想もしていない人が現れて、鈴香は目を見張った。
「柾さん? どうしてここに?」
 栗城香料の本社ビルと鈴香が働いている研究所は少し離れている。そんなに遠くはないが、こんな時間にわざわざ足を運ぶ人はいない。それに終業後に柾が実家以外で話しかけてくるのも珍しい。
(もしかしたらデートのお誘いとか?)
 そこまで考えて、鈴香は都合のいい考えにかぶりを振った。いやいや、何か仕事で問題があったに違いない。急なことなので、部長である柾が来たのだろう。
 鈴香が自問自答していると、柾が近寄ってきた。そして彼はなぜか調香中の香料を怪訝そうに見てくる。その怖い顔に鈴香は不安でいっぱいになった。
「連絡をしたのですが、どうやら気づいていなかったようですね」
(え……)
 慌てて白衣のポケットに入っているスマートフォンを確認すると、確かに柾から「話がしたい」とメッセージが来ていた。
「ごめんなさい、仕事に夢中で……。何か問題でもあった?」
「そういうわけではありません。いや、連日残業しているのは充分問題か……」
 柾の呟きに分かりやすく身体が跳ねる。もしかすると、彼は父か母のどちらかに言われて、鈴香の残業を注意しに来たのかもしれない。
「実は少し行き詰まっているの。残業しないと間に合う気がしなくて……。今後は気をつけるわ」
「それならなぜ鈴香一人が残業を? まさか押しつけられているんですか?」
「ち、違う。これは私が勝手に……!」
 厳しい顔で追及されて、しどろもどろになる。鈴香は返答に窮して視線を彷徨わせた。
(行き詰まっているのは本当だけど……。貴方の邪魔にならないように極力仕事中心の生活を送るようにしていると言ったら、もっと怒るわよね?)
 忙しくしていたら余計なことを考えないですむし、何より柾に『婚約者らしい時間』を強いる必要もなくなる。仕事はもちろん楽しいが、鈴香にとって『忙しい』を理由に断れるのは都合が良かった。
 何も答えられずにいると柾が一歩詰めてくる。ついあとずさってしまうと、また距離を詰められた。
「鈴香が研究好きなのは知っていますが、仕事はチームワークが必須です。調香研究に限らず、会社に属して働くということは自分だけの都合を通していいわけではないんですよ」
「そ、そんなの当たり前でしょう。私だって同僚を蔑ろにしたことはないし、普段はちゃんと協力して進めているわ。でも終業後は自由でしょう?」
「確かに自由です。だからと言って好き放題残業していい理由にはなりません。毎日遅くまで何を考えているんですか?」
(どうして、それを!?)
 何人かで残るときは別だが、今日のように一人で作業したいときは残業の申請をしたことはない。それなのに、なぜ毎日残っていることがバレているのだろうか。
「お父様から帰宅時間が遅いから注意して来いと言われたの? でも許可は得ているわ。少しなら仕事後に個人研究をしてもいいと、お父様が言ったのよ」
「でもこれは個人研究ではないですよね? 鈴香も先ほど言ったじゃないですか。残業しないと間に合わないと」
「う……」
「何に行き詰まっているんですか? 相談にのれるかもしれません。見せてください」
「柾さんの手を煩わせるほどのことではないわ。そ、それにもう大丈夫だから」
 作業中の香料を見ようとしてくる柾を制止する。
(私が悪かったかもしれないけど、そんなに怖い顔しないで)
 これ以上話したら、もっと柾を怒らせてしまうかもしれない。
「ですが……」
「配合割合で悩んでいたんだけど、もう大丈夫だから気にしないで。いいひらめきを得られたから、完成を楽しみにしてくれると嬉しいわ」
 鈴香は貼りつけたような笑顔で誤魔化して、慌てて片づけようとした。だが慌てたのがいけなかったのか、誤って手が当たってしまう。容器が床に落ちて割れる音と共に、強い香りが室内に立ち込めた。
「あ!」
(やっちゃった……!)
 こぼしてしまった香料を見て、鈴香は顔が青くなった。
「ご、ごめんなさい!」
 片づけるためにしゃがみ込み手を伸ばすと、柾に「触るな」と怒鳴られる。ビクッと身を竦めたのと同時に、彼の手が伸びてきて怪我をしていないか確認された。
「良かった……。指を切ったりしていませんね。俺が片づけるので鈴香は離れていてください」
「ごめんなさい」
 しゅんとして再度謝ると、不意に頭に温かいものが触れた。柾に頭を撫でられているのだと気づいて、鈴香は目を見開く。
(ま、柾さんが私の頭を撫でてる!?)
 すごく久しぶりだ。小さいときはいっぱい撫でてもらったが、いつだったか――鈴香が子供扱いしないでと言ってからはそういった触れ合いはなくなっていた。
 鈴香が固まっていると、頭を撫でていた手がゆっくりと滑り、柾が鈴香の髪をひと束すくった。そしてその髪にキスが落ちてくる。
「!?」
 鈴香が驚愕の視線を送ると、柾がこちらを愛おしそうに見てくる。その熱を帯びた瞳に鈴香は心臓が止まってしまいそうだった。ぎゅっと胸元を掴んで驚きすぎた気持ちを落ち着けようと、何度か深呼吸する。
「仕事熱心なのはいいことですが、あまり無理をしないでください。俺は貴方のことが心配でたまらない。……好きなんです。どうかこれ以上心配させないで」
(え? 今なんて?)
 信じがたい言葉が聞こえてきて、鈴香は柾の顔をジッと見つめた。すると、彼が困ったように笑う。
「厳しい言い方をしてすみませんでした。ですが、これも鈴香を思ってのことです。過度な残業は身体を壊します。俺は鈴香にそうなってほしくない。分かってくれますか?」
 反射的にこくこくと頷く。鈴香が素直に聞き入れたことに安堵したのか、柾はとても優しげに笑った。その彼の表情に瞠目する。
 そんな笑顔知らない。そんな優しい表情で甘い雰囲気を出してくる柾なんて、初めて見た。だってここ何年もずっと厳しい顔しか見せてくれなかったのに。
 常でない彼の行動に戸惑いや驚き以上に動揺がすごい。鈴香は大混乱のあまり、くらりと眩暈を覚えて頭を押さえた。
(一体何が起こったの?)
 もしかすると、これは鈴香の願望が見せた幻覚なのかもしれない。
 鈴香は自身の頬をパシンと叩いてみた。
(……痛い)
 だが幻覚から覚めることはなく、柾は鈴香が落として割ったものを片づけてくれている。
 夢や幻でないのなら、なぜ柾は好きなんて言ってきたのだろうか。だって彼は鈴香のことをよく思っていないはずなのに。
 柾を注視しても何も分からなかった。鈴香が見つめていると片づけ終わった柾が顔を上げ眉尻を下げた。
「鈴香は俺が婚約者だと嫌ですか? 俺が怖いですか?」
「そ、そんなことは……」
 あるわけない。柾と一緒にいられるだけで胸が高鳴ってしまう。これは会社のための政略結婚だと分かっていても、それでも柾の側にいられるならいいと思えるほどに柾が好きだ。
 鈴香が言葉を詰まらせると、柾はコツンと額を重ねてきた。絡み合う視線に胸の高鳴りがピークを迎える。
「怖いけど……嫌じゃない。む、むしろ、結婚の相手が柾さんで嬉しかったの。でもどう接していいか分からなくて……仕事を理由に避けていてごめんなさい」
 この一年の想いを口にした途端、鈴香は柾の腕の中にいた。
「やっぱり俺、怖いですか?」
「うん……顔が少し」
 ついでとばかりに普段の厳しい表情について言及すると、柾が「以後気をつけます」と言って、抱きしめる手に力を込める。
 包み込んでくれる温かな彼の体温と厚い胸板から伝わってくる彼の鼓動を感じて、鈴香は目を閉じた。
 鈴香だけじゃなく彼も鈴香といてドキドキしていることが分かって、なんだか嬉しい。
「さて。それでは一緒に帰りましょうか?」
 鈴香に手を差し出しながら訊いてくる柾に、鈴香は彼の手を取り頷いた。
 これが夢で、明日になったら覚めてしまうのだとしても構わない。今はただこの甘い時間にひたりたい。