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副社長にハニトラを仕掛けたら予想をはるかに超えて溺愛されました 2

第二話

 他に兄弟はなく、要川家当主だった父親は五年前に他界、その後、由隆の母親は他の男と再婚して出ていった。
 跡取りというプライドでこの家に残った由隆、必然的に彼が現在の要川家当主である。父も母もいない今、玲は同じ屋敷に住む肉親なのだから、もう少しやわらかい態度で接してくれてもバチはあたらないのではないだろうか。
 要川家はレジャー産業を主として事業展開をする、株式会社カナメレジャーの創業一族である。
 由隆は長男で、玲よりも五つ年上の三十歳。現在常務というポジションにいる。
 今でこそ企業としては中堅近くまで落ちこんでしまったが、テーマパークが大当たりしていた時期は業界トップクラスに名を連ねるほどだったのだ。
 そのころ社長だった由隆の父親がかこっていた愛人が、玲の母親である。
 つまり玲は妾腹の子どもで、十歳のとき母が病死してこの要川家に引き取られた。引き取られたといっても認知はされていないので苗字は藤谷のままだし、そのころから由隆にはクズ扱いをされ続けている。
「僕の耳がおまえの声を聞きたがらないあまり、聞き違えたのかもしれない。もう一度言ってみろ」
 これはつまり、もう一度チャンスをやるからクソくだらないことは言うな、という意味だ。言葉に出さずとも見くだす三白眼がそう言っている。
 玲はすうっと大きく息を吸いこむと、同じ言葉を口にした。 
「この家から出て、要川家と一切の縁を切りたいです」
「ふざけるな、この恩知らずが!」
 由隆は勢いよく立ち上がりデスクを叩く。用意していたかのように、スルッと出てきた言葉だが、――恩を受けた覚えは、ない。
「おまえみたいなハンパ者を引き取って家に置いてやったのに、恩返しもしないうちに縁を切りたい? どの口が言ってんだ!」
 どの口と言われても玲本人の口である。
 ハンパ者とは失礼な話だ。妾腹だからハンパ者だとでもいうのか。――母は好きで愛人になったわけではない。
(恩返しってなによ。機(はた)でも織れって? わたしは鶴か)
 たとえ鶴でも、この家のために自分の羽を抜くなんてまっぴらごめんである。
 引き取ってほしかったわけではない。祖父母は亡くなっているし頼れるような親戚もない、母は病気を患っていたので、もしものことがあったときは母の古い友人が勤める施設に入ることが決まっていたのだ。
 施設には数回見学やお泊まり会にも行っていて、職員もいい人ばかりだし、同年代の友だちもできた。
 今後の生活の場が決まって安心した状態で、母の最期を看取ることもできた。
 それなのに、いきなり要川家に引き取られることになって、正直落胆しかなかったというのに「引き取って家に置いてやった」とは何事か。
「だいたい、おまえみたいな馬鹿がひとりでやっていけるわけがないだろう! 住むところはどうする? 仕事は? 毎日の食事は? ひとりではなにもできない馬鹿のくせに、偉そうなことを言うな!」
 馬鹿にされているはずなのに、心配されている気分になってくる。ひとりではなにもできないのだからここにいろという意味にもとれるが……気のせいだろう。
 そんな優しさを、この男が持ち合わせているはずもない。
 自分の意に沿わなければいやがらせ三昧、挙句、言うことをきかせるために暴漢をけしかけるような男だ……。
「お言葉ではありますが、掃除は得意だし料理もできます。ここを出ても部屋を借りればいいだけだし、今の職場をクビにされるなら就活しますよ。一応、再就職に困らないだけのスキルと学歴は持ち合わせておりますので」
 しれっと言い放つと、由隆の表情が曇る。彼の前で学歴の話をするのは、玲にとっての禁止事項だ。
 なぜなら中学高校大学と、玲のほうが由隆よりもレベルが高い学校へ進んでいるし成績や先生方の評価もよかった。
 由隆も有名どころの大学を出てはいるが、偏差値レベルでいえば玲に遠く及ばない。妾腹が嫡男の自分より勝っているのが気に喰わない。ことあるごとに玲に向かって「馬鹿か」を連発するのはそのせいだ。
 睨まれても玲は動じない。こんな顔も目も見飽きてしまって、怖いとも思わないし焦りもしない。
 要川家に来てから、玲は針の筵(むしろ)に座らされていたのだから。
 ずっと考えてきた。この一族と縁を切ろう。由隆の支配から逃れよう。
 自由になって、――自分を愛してくれる人を見つけよう。
 唇を引き結び、ゆるやかに眉を上げる。反抗的な表情になっているからだろう、由隆が目を大きくして戸惑いを見せた。
 それをごまかそうとしてか、くるりとエグゼクティブチェアを回し玲に背を向ける。顎を上げ、考え事でもするように壁の一点を見つめる。
 背後に書棚か窓でもあれば様になるのだろうが、壁を凝視していては虫でもいるのかとしか思えない。
(なんか困ると、すーぐそうやって目をそらすんだから)
 心の中で呆れつつ、玲は腰を下ろしている人間よりも立派なエグゼクティブチェアの背もたれを見つめる。
「……わかった」
 その背もたれから、由隆の声で聞いたことのない言葉が聞こえてくる。
「おまえの要望、受理してやってもいい」
 もっと嫌味三昧言われた挙句「この馬鹿が!」を連発されると思っていたのに。信じられないほど早く了解をもらえてしまった。
 さすがにこれは素直に「ありがとうございます!」と礼を言ってもいいのではないか。自然と笑みがこぼれたとき、立派なお椅子様が再び正面を向いた。
「ただし、条件がある」
「条件? なんでしょう」
 明るくなりかかった先行きに灰色の雲がかかる。やはり快諾とはならなかったか。無理難題ではないことを願うばかりだ。
「僕が言ったとおりの仕事ができたら、この家から出ることを許す。おまえがどこへ行ってなにをしようと一切干渉しない。人を使って探したり、追い詰めたり脅したり、エロい噂を流して就職先で仕事ができなくしたり、引っ越し先にいられなくしたり、そういったことは一切しない」
 ――するつもりだったらしい。
 つくづくゲスな男である。性格が悪いというか歪んでいるというか。父親亡きあと彼がすぐに社長の座に就けていないのがよくわかる。
 現在の社長は彼の叔父で、副社長は従弟だ。親族会議での強硬案だったが決定は正しい。もしそのまま由隆が社長の座に就いていたら、たちまち「カナメレジャーは息子の代で潰れる」と噂が流れただろう。
「仕事とは? 画期的なプランニングとかですか?」
 今までも由隆に代わって玲が新企画を提出したことが何度もある。いずれも成功を収めているが、もちろん由隆の業績だ。
(なんていうか、社長の器じゃないんだよね……。大丈夫なんだろうか、会社)
 縁が切れたらそんなことを考える必要もない。ワクワクしつつ、なにを言われるのかと少しの不安を混じらせ、玲は由隆の言葉を待つ。
 コホンと咳払いをした由隆は、その場で立ち上がり、まるで司令官にでもなったかのように片手を横に振った。
「ハニートラップだ。おまえ、男を手玉にとってこい」
「はああああっ!?」
 ――本気で、不審な声が出てしまった。


「二階堂ホールディングス……。まーた、どうしてこんな大手企業に……。ったく、あの世間知らずの坊ちゃんは、身の程を知れっていうか……」
 要川家、一階の片隅にある自室でぶつぶつと呟きながらキーボードを叩く。
 仕入れた情報を整理していたのだが、調べれば調べるほど、いかに由隆の計画が無謀であるかを実感してくる。
『二階堂ホールディングスとの事業提携、こっちが有利に動くよう、副社長だっていう二階堂の息子を手玉にとれ』
 司令官ポーズで由隆が意気揚々と言い放ったのは、どうにも理解しがたい内容だった。
 構想中のテーマパークに、売りになる宿泊施設を入れたい。ただホテルがあるというだけではなく、そのホテルに泊まりたいからテーマパークにも遊びに行こうと思えるようなものがいい。
 そこで目をつけたのが、リゾート観光業界大手、二階堂ホールディングスが展開するホテルチェーン、パレスリゾートホテルである。
 パレスとは、palace、つまり宮殿の意味で、その名のとおり外観や内装、もちろん客室にいたるまで実に豪華な造りになっている。
 本格的なレストランからファミレス、カフェやコーヒースタンド、バーやクラブ、ライブハウスなども完備。
 それだけではない。ホテルの敷地内には数々のブランドショップやコンビニまでが並ぶショッピングモール、巨大プールにスパ、アミューズメント施設、立地によってはスキー場やプライベートビーチ、その他いろいろ……。
(こんなホテルと手を組んで大丈夫なんだろうか……。テーマパークよりホテルで遊んだほうが楽しかったりして……)
 そう感じてしまうほど魅力的なホテルチェーンだ。
 こんなホテルがテーマパーク内にあったら、本当にホテル目当てで遊びに行きたいと思ってしまう。
(天下の二階堂ホールディングスに話を持ちかけるなんてね……。交渉には誰が立ったんだろう)
 由隆ではないのは確かである。
「ふむ……」
 軽くうなって手を止める。――モニターには、とんでもなく高レベルなふたつの顔面が映し出されていた。
「二階堂春騎と……二階堂将騎」
 二階堂ホールディングスの跡取り、副社長はふたりいる。ともに三十三歳。双子なのだ。
 これは本当に本人たちの顔なのだろうか。修正しすぎたとか、はたまた合成とか。こんなことで疑うのも失礼だろうが、そう思ってしまうほど男前で美丈夫だ。
 二階堂春騎が兄。美丈夫要素が多めで優しい顔つきをしている。言いかたを変えれば優男風というところか。
 二階堂将騎は弟。こちらは少々男前要素が多めに配合されていて涼しげな目元に厳格さが漂っている。言いかたを変えれば、抜け目がなくてちょっと怖い。
 双子だとはいうが、そっくりというほどでもないので二卵性なのかもしれない。兄弟だと言われたら納得できる。
 守りの兄、攻めの弟、といわれ、絶妙なコンビネーションで数々のプロジェクトを成功に導いている。
 兄弟仲はいいらしく、ともに独身、かなり女性からのアプローチも多く色っぽい噂がたつこともあるようだが、特定の相手はいない模様。
「ふたりともタイプは違うけどイケメンだよね……。そりゃあモテるでしょ」
 玲はこのふたりのどちらかにハニートラップを仕掛け、手玉にとってカナメレジャーが有利になるよう仕向けなくてはならない。
 そのためには二階堂兄弟と知り合う必要があるが、タイミングがいいことに兄である春騎が秘書を募集していた。
 こういった職種は〝経験者のみ〟もしくは〝経験者優遇〟が条件になっているイメージがある。玲に秘書経験はないので一瞬諦めかけるものの、幸い今回その表記はなかった。
 大企業の副社長秘書なのだから所持する資格などにも条件があるかと思ったが、一切ないのだ。ただ「コミュニケーション能力必須」とだけある。
 逆に不思議だし、もしかしたら表記のし忘れで、履歴書を提出した瞬間に落とされるかもしれないが、やってみる価値はあるだろう。
 数少ない、ターゲットに近づく手段のひとつなのだ。もしも奇跡的にこれで上手くいったら、万々歳ではないか。
 上手くいかなかったら別の手を考えよう。
 二階堂兄弟がよく立ち寄る店にかよって顔見知りになるとか、お気に入りのバーを探って話しかけるとか、いっそ店の嬢になるとか。
(知り合うきっかけを作らなくちゃならないっていうのが難しいよ。印象的な出会いかたが一番顔を覚えてもらいやすいし、インパクトがあるんだけどな。……いっそ、いきなり車の前に飛び出してぶつかったフリをして……)
 ……これでは、当たり屋だ。
 思考が危険な分野に突入していく。投げやりになってはいけないと、玲は大きく深呼吸をした。
 デスクの上に置かれた写真立てを視界に入れて心を落ち着かせる。――幼い玲を膝にのせた、母の写真だ。
 ――――玲は、ちゃんと自分を愛してくれる人に出会ってね。
 母は、どんな気持ちで玲にその言葉を言い聞かせていたのだろう。
 幼いころから、父は玲が生まれる前に病気で亡くなったのだと教えられていた。それを信じて疑わずに育ってきたのに、母が病死してから現れた要川家の弁護士に真実を聞かされて、どんなに驚いたか。
 十歳の子どもに愛人関係なんてよくわからない。ただ、自分が歓迎される人間ではないのだけはなんとなくわかった。
 予感は当たり、玲は要川家では〝空気〟だった。
 必要最小限、誰も口をきいてくれないし目も合わせない。
 愛人の子どもだと思えば要川夫人に無視をされるのは仕方がないにしても、父親であるはずの要川にまで空気扱いされた。
 父親はいないと信じて育ったのに、今さら父親がいたと言われても実感はない。悲しいと思わなかったのは、そのせいだろう。
 成長して愛人の意味や妾腹の立場が理解できたころ、ハッキリとわかった。
 母は、愛されたから愛人になったわけではない。
 家政婦のなかで一番古く、唯一玲に接してくれていた老年の女性が、辞めると決まったときに母の話をしてくれた。
 赤ん坊のころに施設の前に捨てられていた母は、そのまま施設で育ち、高校を卒業してから要川家で住みこみの家政婦として働きはじめた。
『明るくて優しい、笑顔がかわいい子だった』
 話をしてくれた女性が褒めてくれたように、家政婦仲間には自分の子どもや孫のようにかわいがられたらしい。
 若くてかわいい女の子。――ほどなくして、当時社長だった要川の手がついた。
 のちに妊娠が発覚し、手切れ金を持たされ追い出されたのだという。
 身寄りのない母のこと、追い出されてからは生きることに必死だったのだろう。お腹の子どもをどうしたらいいかも決められないまま、産むしか道はなかった状態になっていたのかもしれない。
 つらかっただろう。けれど、そんな思いをしても、母は生まれてきた玲をとても愛しんで育ててくれた。
 そのおかげもあって、玲は自分を不幸だと思ったことがない。明るく前向きなのが取り柄だと自分でも感じている。
 要川家での生活は本当に針の筵だし、毎日のように由隆には「馬鹿」を連発されるし、やることが気に喰わなければいやがらせをされた。
 そんな環境で、玲はいつしか、この家とかかわりを断ってやろうと考えるようになっていたのである。
 ――――玲は、ちゃんと自分を愛してくれる人に出会ってね。
 母が望んだように、自分を愛してくれる人に出会えるように……。
「……ここにいる限り、絶対そんなの不可能だもんね……」
 玲になにかしらの出会いがあっても、間違いなく由隆に邪魔をされるだろう。
 二十五歳になる今までそんな出会いは一度たりともなかったのが、幸いというか残念というか。
 写真立てを手に取り、微笑みかけてくれる母を見つめる。玲が五歳のときの写真、そこに写る母は若々しくてとてもかわいらしい。
 このとき二十五歳だった母と、玲は同じ年になった。長年考え続けてきた計画を実行するのは、やはり今しかない。
「一緒に、この家と縁を切ろうね。わたし、頑張るからね」
 パソコンのモニターにはふたりのイケメンが並んでいる。
 標的は、二階堂春騎。
 この優しい面立ちの男の秘書になってハニートラップを仕掛け、玲の頼みを聞いてくれるくらい骨抜きにしてしまえば作戦は成功だ。
 見るからにフェミニストっぽいし、性格もおだやかそう。誰からも好かれる〝いい人〟タイプならば、仲よくなるのは得意だ。
 どんどん親交を深めて、親密な関係を築いて……。
 ――――それから?
 心の問いにハッとする。
 楽勝と浮かれていた空気が一気に吹っ飛んだ気がした。
「ハニートラップ……?」
 写真立てを置き、ジッとモニターを見つめる。
 冷汗がにじむ。何気ない疑問が生まれた瞬間、底知れぬ不安が胸に去来した。
(ハニートラップって……どうやるの?)
 恋愛経験がまったくないどころか、玲は処女である。
 特定の男性と、性的な意味で仲よくなる方法など、知っているわけがない。
 ――とんでもない問題に、激突してしまった……。