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一生そばにいてくれよ せっかちなエリート外科医は恋人をとことん甘やかしたい 1

第一話


   桜の開花宣言はまだだが、早咲きの桜が遊歩道を淡い色に染めている。
 そんな暖かな三月初旬。
 品川区内の駅からほど近い場所にあるビルの貸し会議室の一室で、六人掛けのテーブルに座った男女四人が顔を合わせていた。
「はぁ」
 八木澤(やぎさわ)理(おさむ)はため息をつきながら、一人一人に視線を走らせる。
 右隣に座る兄、一馬(かずま)は、落ち着きなく目を動かしていた。
 一馬の隣に座るその妻である恵美(えみ)は、柳眉を逆立てて、テーブルの上で爪を弄りながら、向かいに一人座る一ノ瀬(いちのせ)千早(ちはや)を睨んでいる。
 理のため息に反応したのか、俯いていた千早が顔を上げこちらを見た。その表情には若干の緊張が見て取れる。それは当然だろう。今回の集まりは、彼女が原因なのだから。
 時刻はすでに二十時を過ぎているが、いつもならまだ仕事で病院内にいる時間だ。
 さっさと話を終わらせて戻りたいのだが、どうやら彼女はまだ言い逃れできると思っているのか、不倫を認めない。イライラしているせいで、ため息ばかりが漏れる。
「この調査報告書に間違いはあるか?」
 理は手に持っていた紙の束をばさっとテーブルに乱雑に投げると、千早に視線を向けた。
 千早は調査報告書を自分の方に引き寄せて、パラパラとページを捲りながら目を通す。やがて、軽く目を伏せて観念したかのように息を吐いた。
「いえ、間違いありません」
(間違いない、ね)
 一ノ瀬千早はこの近くのNPO法人で働く二十七歳の女性だ。
 丸い目に小ぶりの鼻。日に焼けていない白い肌はきめ細かく、ピンク色のリップが塗られた薄い唇が目を引く。
 肩の下辺りまで伸びた自然な焦げ茶色の髪は、後ろで一つにまとめられていた。毛先がくるりと丸まっているのはパーマだろうか。
 いつか見たときと同じで化粧は薄く、上品で清楚な印象も変わらない。彼女は理を覚えていないのか、あのときと違い笑みはなかった。それも理を苛立たせる要因となっている。
(おとなしそうな顔をして不倫とはな)
 彼女は控えめで男遊びとは無縁そうに見えた。
 過去に言葉を交わした際の印象が強烈に残っているからか、こうして話していてもまだ信じがたい。人は見かけによらない、とはよく言ったものだと理は思う。
 ただ、彼女の顔には、後ろめたさが欠片も浮かんでいない。それどころか、気が立っている義姉を前にして、落ち着き過ぎている。どこか覚悟のようなものを感じさせる表情をしていて、理はそこに多少の違和感を覚えた。
(兄さんとの愛を貫く決意か? そんなに兄さんが好きなのか? だとしても、人の家庭を壊していい理由にはならないだろうが)
 理は、患者に向ける穏やかな目を、このときばかりは鋭く細めた。
 自分が他人からどう見られているかをわかった上で、患者に余計な不安を与えないように、普段は笑顔でいることを心がけている。
 日本人離れした彫りの深い顔立ちに、シャープな頬のライン、太い眉や厚めの唇は男性的だ。
 癖のない真っ直ぐな黒髪は無造作に流している。仕草が上品で落ち着いた雰囲気があり、女性からのアプローチは後を絶たない。
 百八十を超える高い身長に引き締まった体躯、併せ持った美貌は、周囲を圧倒させ、近づきがたさを感じさせてしまう。
 だが、医師という職業的にはこの外見で得をすることが多く、親しみやすい話し方と作り笑顔を浮かべるだけで、患者への説明もスムーズに進む。
「なら不倫だと認めるんだな?」
「間違いはありませんが……私と一馬さんは不倫関係ではありません」
 千早はおとなしそうな外見とは裏腹に、はっきりとした口調でそう言った。
「またそれか」
 証拠を突きつけて彼女がそれを認めて謝罪をし、もう二度と兄には会わないという誓約書を書く、それで終わりだったはずだ。
 それなのに、兄と二人で肩を並べホテルのエレベーターに乗る写真を突きつけても、部屋に入る写真を突きつけても、千早は不倫を認めない。
「ここまで証拠が揃っているのに?」
「理……っ、やめてくれ……彼女は!」
 一馬が千早を庇うように口を挟んだ。それは妻である恵美に対して火に油を注ぐ結果にしかならないと、兄ならばわかるだろうに。
「一馬さん! どうしてその女を庇うのよっ!」
「義姉さん、落ち着いて」
 理はますます苛立つ気持ちを抑えながら、何度目かのため息を吐きだす。
「兄さん……俺は兄さんが自分からこの女を引っかけたとは思っていない。兄さんはそんなことができるタイプじゃないからな。この女に唆されたんだろう?」
「……違うんだ、そうじゃない!」
 一馬は泣きそうに顔を歪めて、必死に首を横に振った。
 その必死さを見ていると、一馬と千早が純粋に愛し合っていて、一馬の妻である恵美がまるで悪役であるかのように錯覚しそうになる。
(この女、さっきから落ち着き過ぎだ。よほど兄さんに愛されている自信があるらしいな)
 一馬の目は千早しか見ておらず、また彼女も一馬を気にかけてばかりいる。
 余計な時間を取られている苛立ち。妻がいる男を奪っておきながら悪びれない態度。なにもかもが気に食わなかった。
 一番腹立たしいのは、彼女を好ましく思っていた自分に対してだ。初めて会ったとき、理は彼女に強く惹かれた。また会いたい、言葉を交わしたいと思っていた。
 それなのにこれだ。彼女がまさか兄の不倫相手だなんて、理にとって悪夢でしかない。自分に見る目がなかっただけの話だが、裏切られた気分だった。
「じゃあ、なんだ。まさかこんな地味な女に本気だとでも言うつもりか」
 理は、千早を貶めるつもりでそう口にした。だが、千早は先ほどからなにを言われても、表情を変えない。感情がないのではないかと思うほどだ。千早の落ち着き払った様子にさらに苛立ちが募って、理は指先でテーブルをとんとんと叩いた。
「本気とかそういうんじゃないんだよ……何度もそう言ってるだろう……」
「そういうんじゃない? ならどうして何度も二人でホテルに? ホテルの部屋で三時間過ごしましたが、男女の関係ではありません、なんて言い訳が通用すると思っているのか?」
 一馬と千早が夜に二人きりでホテルの一室にいたという調査報告書が上がっているのだ。写真だって何枚もある。室内でなにが行われていたかは想像するしかないが、ただお茶を飲むためにわざわざ密室を使用する必要はないのだから明白だろう。
「それは……」
 一馬は言葉を濁らせ、助けを求めるように千早を見た。千早は一馬と視線を合わせると、なにも言わず首を横に振る。
 往生際悪く違うと言っているのは一馬だけで、千早は調査報告書に書かれている内容をすべて認めた上で、不倫関係だけは違うと言い張っている。どうあっても認めないのは、訴えられる危険性を考えてのことだろうか。
「不倫してる証拠はあるんだから、さっさと認めなさいよっ!」
 いい加減に腸が煮えくり返っている様子の恵美は、二人が目配せし合っていることに苛立ちが収まらなかったようで、荒々しくテーブルを叩いた。
「申し訳ありませんでした」
 千早は恵美に向けて、神妙に頭を下げた。心底、申し訳ないと思っているのは態度から伝わってくる。だが、不倫を認めていないのに謝罪だけされても困るのだ。
「それはなにに対しての〝申し訳ない〟だ」
「誤解を招くようなことをしてしまいました」
「誤解、ね」
「誤解だなんてどの口がっ! 人の夫を奪っておきながら……っ、この!」
「手は出さないでくれ。こちらが不利になる」
 理は、恵美が拳を振り上げるのを咄嗟に止めた。
 恵美の拳は怒りでぶるぶると震えている。
「だってっ!」
「気持ちはわかるが、やめてくれ」
 千早は言い訳一つしない。その潔さは感心したくなるほどだが、身体の関係を持っていないのなら、二人きりでなにをしていたのかと問うても、決して口を開かない。
 不倫したことを認めてくれれば、彼女を訴えることはせずに、謝罪と今後は兄と会わないという誓約書一枚で済ませようとこちらは思っているのに。
 理は念のためテーブルに置いた録音中のスマートフォンで時刻を確認すると、ため息を漏らした。仕事を抜けてきたため、早く病院に戻りたかった。
「これだけ証拠が揃っていてまだ不倫ではないと言い張る気か? そう言えば逃れられるとでも? それとも、兄との関係は遊びじゃないとでも言うつもりか」
「一馬さんと私は不倫関係ではありません。言えるのはそれだけです」
 言えるのはそれだけ。つまり、彼女にはなにか言えない事情があると、普段の理ならば気づいただろうが、このときの理は頭に血が上っていた。
 兄は大事な家族だが、好意的に思っていた女性の真の姿に失望していた理は、さっさとこの場を終わらせたいという思いが強かったのだ。
 多少の違和感を覚えながらも、理はそれを無視した。
 目の前にいる女が妻のいる男と二人きりで会っていたのは間違いない。調査は半年前から始めていて、証拠となる写真は大量にある。
 彼らは月に二度のペースで逢瀬を重ねていた。二人が会うのはいつも同じホテルで、不貞をしている意識がないのか堂々とロビーで待ち合わせをして部屋に入っている。
 だいたいいつも二~三時間ホテルに滞在するが、千早が宿泊したことはなかった。
 恵美が一馬の行動に不信感を覚えたのがおよそ一年前だというから、もしかしたら一年以上にも渡って関係を続けている可能性もある。
 一馬は、八木澤家が経営する個人病院『やぎさわ内科』の院長だ。おそらく金目当てでの不倫関係だろう。
「もういい、これ以上は時間の無駄だ。訴えはしないが、この件は君の職場に報告させてもらう。これは兄には二度と会わないという誓約書だ。目を通してここにサインを」
 最初からこうしていればよかったのだ。一応は彼女の言い分も聞こうなどと思わずに。
 千早が働くNPO法人の理事は父の知り合いだ。雑談という形で彼女の不倫を話すくらいは容易い。仕事を失えば、男にかまけている時間はなくなるだろう。
 理が誓約書を差しだすと、千早はボールペンを持ち、最初から最後まで書類に目を通しサインをした。
 そして彼女は、書類を理の方に向けてペンをテーブルに置いた。
「これで大丈夫でしょうか」
「あぁ」
 理は誓約書を受け取り、彼女の名前が書かれた箇所を確認する。生真面目そうな直角ばった文字の書き方だ。悪筆ではなく、むしろ見やすさや読みやすさを意識したような美しい文字だった。
 理は書類から顔を上げて、千早に目を向けた。
 彼女は、今も尚、案じるようにちらちらと一馬を見ていた。
 それがやたらと腹立たしい。
(そこまで、兄さんが好きなのか?)
 自分が不道徳な行為をした認識はあるはずだ。兄とホテルにいたことは認めているのだから。それでも兄に向ける気持ちは止めようがないのだろうか。
 そこまで一人に固執した経験のない理には、互いに想い合っている二人が、今どんな気持ちでいるかなど推し量れない。
 職場に報告すると言ったときも、兄と会うなと言ったときも、千早は顔色を変えなかった。言い訳一つ口にせず、潔く責任を取ろうとする姿勢も好ましく、こんな場でなかったら彼女との再会を喜んでいただろう。
 不倫をするような女だと自分に言い聞かせていても、必死に兄を守るような姿勢を見せつけられると、どうにも平静でいられなくなる。
 兄ではなく自分が相手だったらなんの問題もなかったのに。そんな考えが脳裏に浮かび、書類を持つ手に力が入る。
(俺は、なにを……)
 理は胸のうちで舌打ちをした。
 わけのわからない腹立たしさを打ち消すように、鋭い目を彼女に向けた。
「書類は問題ない。あとは、この場で兄の連絡先を消してくれ。悪いがSNSのメッセージもすべてチェックさせてもらう」
「わかりました」
 理が言うと、千早は少しの逡巡すら見せずにスマートフォンをテーブルに置く。ロックを解除し連絡帳を表示させると、理の方に差しだした。
 理は受け取った千早のスマートフォンに表示された〝かずまさん〟という登録を消す。どうやら二人は電話番号しか教え合っていなかったようだ。
 メッセージアプリもチェックしたが、兄のアカウントは登録されていなかった。
 おそらく不倫がバレるのを恐れてだろう。ずいぶんと慎重なわりに、ホテルに入るときは堂々としており、なにやらちぐはぐな印象を受けた。
「兄さんも」
 理が促すと、兄は千早よりも未練たらたらな顔でスマートフォンを出した。
「……わかったよ」
 一馬はため息交じりに言うと、〝一ノ瀬千早〟と表示された連絡先を渋々消去した。恵美の前では言えないが、一馬の方がどっぷりと千早との関係にはまっているのは明らかだ。
 兄は、この部屋で不倫を突きつけられても、恵美への謝罪を一言だって口にしていないし、先ほどからずっと千早を庇い続けている。
 それが余計に恵美を苛立たせるのだろう。恵美は一馬の妻という強い立場のはずなのに、想い合う二人を引き裂く悪役のようではないか。
 結局、千早に不倫を認めさせることはできなかったが、ようやく終わった。理は書類を手に席を立った。
「次は法的措置も辞さない。愚かな真似はするなよ? 行こう、兄さん、義姉さん」
 念のため釘を刺し、兄の肩に手を置き退出を促した。
 恋人との別れがそこまで辛かったのか、兄の顔は蒼白だった。ふらふらと立ち上がり、足先は部屋の外に向いているが、それでも縋るような目で千早を見つめている。
 今にも倒れそうな兄が心配で、理はふらつく一馬の背中を手で支えながらドアを開けた。兄を先に廊下に向かわせて、背後にいる恵美にも退出を促そうとした。
 その瞬間。
「死ねっ!」
 恵美は椅子から立ち上がり、テーブルの中央に置いてある六個口の電源タップを掴み、千早に投げつけた。止めようと手を伸ばしたときには遅かった。
「……っ」
 がつっと鈍い音がして、千早の口から微かに呻き声が聞こえる。
「義姉さんっ」
 理は義姉の腕を掴んだ。
 我慢の限界だったのだろう。義姉は肩で息をしながら、ほかに投げる物がないか探すように目を動かした。
「だめだ」
「でもっ! この女が!」
「そう遠くないうちに彼女は仕事を失う。男と会うどころじゃなくなるはずだ。兄さんの妻はあなたです。これで終わりにしよう」
 このまま彼女の前にいさせてはいけないと判断した理は、強引に義姉の腕を引き、部屋の外に促した。
「……わかったわよ。でも、絶対に許さないから」
 恵美の怒りはまだ収まらないようだったが、額を押さえる千早を見て、多少の溜飲は下がったのか、おとなしく従った。
 だが、廊下にはすでに一馬の姿はない。兄からしてみれば愛しい恋人と別れる原因になった恵美とこれ以上顔を突き合わせていたくなかったのだろうが、まだ婚姻関係にある以上は、多少のフォローをしてほしかった。
 廊下に一人ぽつんと立った恵美は、悔しげに顔を歪ませると、甲高いヒールの音を立てながらエレベーターに向かっていった。
 理は恵美の背を見送り、会議室に戻った。
 千早はまだ座ったままで、痛むのか額を押さえている。
「身内がすまなかった。額を見せてみろ」
 額を押さえている手を退かして、傷の確認をすると、わずかに赤くなっているものの、切れてはいないようだ。
「……切れてはいないな。大丈夫か?」
「大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 彼女はその場で立ち上がり、深く頭を下げた。
「何日も痛みが残るようだったら病院に」
「わかりました」
「じゃあ」
 もう二度と会うこともないだろう。それを少し残念に思う自分もいて、理は彼女への未練を振り切るように部屋から出た。
 廊下にはすでに義姉の姿もない。恵美を実家まで送らずに済み胸を撫で下ろした。
 理はビルの前でタクシーを拾い、職場である『友育(ゆういく)医療センター』へと戻ったのだった。


 後日、千早が働くNPO法人の理事から、彼女が三月末で退職したと報告をもらった。
 この件は、それで終わったはずだった。
 一ノ瀬千早とは二度と会うことはない──そう思っていたのに。