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海に沈む深愛 記憶喪失のCEOは身代わり妻を今夜も離さない 1

第一話

 窓を叩く柔らかな雨の音。
 流れていく雨の水色が、白いシーツに煌めくような淡い陰影を落としている。
 その輪郭はやがておぼろになり、全てがゆらゆらとした水の底に沈んでいく。
 ここは夢の中。雨に閉じ込められた夢の世界。
 
 ――香子(きょうこ)……。
 そう囁いた誰かの手が、素肌を優しく辿っている。
 大きくて、少しごつごつして、それでいてとても優しく肌をまさぐる。
 全身が官能的な匂いに包まれている。
 密着した誰かの肌はすべすべとして温かく、ほのかに日なたの香りがする。
 喉元を甘く辿る、温かく濡れた唇。
 それは顎に口づけ、耳を食み、そっと唇に被さってくる。
 弾力を帯びた熱い舌で口の中をかき回され、気づけば胸の先端にも同じ感触がまとわりつく。
 やがて甘くとろけた身体からショーツがそっと脱がされた。
 ひんやりとした空気が内腿に触れ、二本の指が柔肉の割れ目に忍び込む。そして、優しい振動を与えてくる。
「ァ……」
 足の指にピクッとした力がこもり、腰が浮く。
 うるみを帯びた縦溝から甘い蜜がジクジクと滲み出る。
「ぁ……は……」
 あえかな声が漏れるのに、瞼が重たくて目を開けることができない。
 雨の音、吐息、揺れる髪と睫毛の影。隅々まで愛され、深い悦びに溺れていく身体。
 あなた――私の太陽、私の月、世界で一番愛しい人。
 その顔を一度でいいから見たいのに、どうしても目を開けられない。
 今があまりに幸福で、現実を見るのが怖いから。
 この幸福全部が夢で、目を開けた瞬間に消えていくのが分かるから。――。
 やがて視界一面がオレンジ色に染まっていく。ゆらゆらと滲んで揺れるその明るい色彩が、次第に暗く翳ってくる。
(――香子、……香子、目を覚ませ!)
 ごめんなさい、まだ目を開けたくない。
(頼む……目を開けてくれ……)
 もう少し、このまま……。


 けたたましい振動音で、香子ははっと目を覚ました。 
 屋根を叩く雨音と、ぼんやりと見える天井の羽目板。出窓のカーテンから薄く差し込む夜明けの青。
 そして枕元で振動するスマホ。
「えっ……?」
 ようやくそれが電話だと気づいた香子は、寝返りを打って震えるスマホを取り上げた。
『――香子? 俺だ』
 夢で聞いた声と同じ響きに、束の間、これが現実か夢か分からなくなる。
「……、お兄ちゃん……?」
『ごめん、日本はまだ早朝だったな。もしかして寝てたのか?』
 息を吐いて半身を起こした香子は、数秒呆然とした後、自分の頬をパチンと叩いた。
 ぼんやりしていた頭が、ようやくこれでしゃきっとする。
 ――うん、大丈夫、現実だ。
「ううん、ちょうど今起きたとこ。どうしたの、こんな時間に」
 画面の端に表示された時刻は午前六時二十九分。兄が突拍子もない時間に電話してくるのはいつものことだが、さすがに朝は勘弁して欲しい。
『いや、ちょっとどうしてるかと思ってな』
「今、どこ?」
『言えないが日本じゃない。身体の方は大丈夫か?』
「全然元気、お兄ちゃんこそ無茶してるんじゃないの?」
 その時、耳に当てたスマホが、今度は六時半にセットしたアラームを鳴らした。
「ごめん、ちょっと待って」
 急いでアラームを切って再び耳に当て直すと、 
『――悪かった、ちょっと声が聞きたかっただけなんだ』
「何かあったの? まさかこれ、死亡フラグじゃないよね」
『なわけないだろ。――切るよ、元気そうで安心した』
 雑音混じりの通話が切れると、室内が再び雨音に満たされる。
 兄の声を聞いたのは半年ぶりだ。
 今みたいに、なんの前触れもなく生存確認の電話をしてくる兄だが、掘り下げて聞いてみれば、大体何かの理由がある。
 ただそれらは全て、警察官の兄にしか理解できない第六感のようなものなのだが。 
 スマホを置いてベッドから出ようとした香子は、内腿に温い感触を覚えて頬を染めた。
 随分久しぶりにあの夢を見た。半年ぶり? いや、最後に見たのはもっと前だ。
 その時も、自慰さえ経験したことのない場所が濡れていて、すごく恥ずかしい気持ちになったのを覚えている。
(それ、間違いなく欲求不満よ。もったいぶってないでさっさと経験しちゃいなさい)
 友人にはそう忠告されたが、あの夢は、そんな単純な感情には落とし込めない。
 雨に覆われた不思議な世界で、顔の見えない誰かに愛されている夢。
 それはいつも、オレンジの色彩が視界いっぱいに広がって終わる。
 目が覚めた後、身体には優しい疼きが残っているが、胸は締めつけられるように切なく、かきむしりたいほどに苦しい。
 まるで、愛する人を永遠に失った時のように。
「…………」
 立ち上がって窓のカーテンを開けると、小降りになった雨が、眼下に広がる庭の植物を優しく濡らしていた。
 半分花の散ったレンゲツツジとオオムラサキ、開花を間近に控えたムクゲ。まめに手入れをしていないせいか、すっかり秩序をなくした庭の真ん中では、もう何年も前から花をつけなくなった紫陽花(あじさい)の葉がしおれている。
 香子はそっと空を見上げた。
 今日は午後から、ここ数日来ずっと準備してきた大切な仕事がある。
 就寝前に確認した午後の降水確率は〇パーセント。この降り方だと、多分午後には晴れるだろう。
 ふと夢で味わった感情が蘇り、胸を切なく締めつけた。
 あの夢に帰りたい――どうしていつも、そんな風に思ってしまうんだろう。
 しっかりしなくちゃ、今が私の現実なんだから。

 

 東京都渋谷区神宮前。
 明け方に降っていた雨も上がり、抜けるほど晴れた青空の下、高層ビルが立ち並ぶ目抜通りの一角に不思議な光景が広がっていた。
 濃紺の制服に身を包んだ人間の隊列である。
 紺のジャンパーに同色のズボン。白のヘルメットを被り、腰には警棒を装着している。
 人数にして百人余り。それがビルの敷地内に整然と列び、威嚇するような眼差しを道路側に向けているのだ。
 一見、警察官の演習風景のようだが、傍らにそびえる二十五階建ての高層ビルを見れば、彼らが何者かは察しがついた。
 全面ガラス張りのビルの天辺には、〈PTS〉のロゴが燦然と輝いている。
 綜合警備保障会社プロテクトセキュリティ(PTS)。
 制服の隊列は警察官ではなく、同社が抱える警備員なのである。
「敬礼!」
 号砲のような声が響き、百余名の警備員が一斉に右手をこめかみに当てた。
 閑静なオフィス街に広がる異様な光景に、足を止める通行人は増えるばかりだ。そこに、腕章を着けた一人の女性が走り出てきた。
「申し訳ありません。今から車両が到着しますので、もう少し下がっていただけますか」
 黒のパンツスーツにパンプス、長い髪を一つに束ね、頭の上でまとめている。
 雰囲気は硬いが口調は柔らかく、澄んだ鈴の音のように清らかな声だ。
 小さな瓜実顔は若々しい桜色。黒目がちの瞳は少年のように凜々しいが、細い鼻筋と優しげな唇に大人の気品が漂っている。
 彼女の首には名札がかけられ、〈PTS総務部庶務課 秋月香子(あきづききょうこ)〉と印字されていた。
「おい、秋月!」
 その秋月香子に、背後から歩み寄ってきた大柄な男が声をかけた。
 日差しにテラテラと映える高級スーツ、短く刈った髪に精悍な顔、歳は三十代半ばといったところだ。名札には〈PTS専務取締役 宮迫隆之(みやさこたかゆき)〉と書かれている。
「俺があれだけ言ったのに、花束贈呈を男にさせるってのはどういうことだ。ウィリアム・リー・バトラーがゲイならともかく、野郎に花を渡されて嬉しい男がどこにいる」
 またその話か――とうんざりしながら、香子はかつて上司だった男を振り仰いだ。
「バトラー氏の性的嗜好は知りません。ただ、海外の要人を歓待するに当たって、ジェンダーを意識するのは当然の配慮だと思ったまでです」
「それでもうちの会社じゃな、花束を渡すのは女の仕事なんだよ」
 宮迫は濃い眉を不快そうに歪めると、ますます威圧するような目つきになった。
「いいからとっととプレゼンターを交代させろ! あっちに秘書課のきれいどころを呼んでるから、そういうのは全部秘書課に任せとけ」
「――お言葉ですが、今から行うのは接待ではなく、バトラー氏を歓迎するためのセレモニーです。担当は庶務課で、私がその責任者」
「おい、誰のおかげで、お前みたいなポンコツが今でも会社に残れてると思ってんだ」
 目に冷淡な怒りを宿した宮迫が、香子をジロリと睨みつけた。
「当時上司だった俺が、お前を庇って謝罪してやったおかげだろうが、ああ?」 
 一瞬怒りで胸が詰まった香子は、その感情をのみ込んで息を吸う。
「……そうですね、申し訳ありません」
「しっかし、お前をこのセレモニーの責任者に選ぶとは、上司もよっぽどの無能だな。失敗したらお前共々島流しな。北海道の島にでも飛ばしてやろうか」
 香子は黙って、因縁ある元上司のねちっこい嫌味に耐えた。
 宮迫は、香子が入社してすぐに配属された警備課の課長だった。前職は自衛官で、課長としては最年少。入社早々社長の娘と結婚したことで出世コースに乗ったらしい。
 最初から宮迫の体育会系ノリが苦手だった香子だが、どうしても我慢できなかったのは、若い女子社員へのセクハラ行為だ。それを止めようとして失敗した時から、今のような嫌がらせが続いてる。
 それは、香子が仕事上のミスを理由に警備課を追い出され、宮迫が専務取締役に昇格した今になっても変わらない。
「ついでに教えてやるが、男なら誰だって若くて可愛い女がいいに決まってるんだ。日本人であろうと、外国人であろうとな」
 まだ嫌味を言い足りないのか、ネチネチと宮迫は続ける。
「バトラーがどれだけ意識高い系か知らないが、一皮剥けばその辺の親父と同じだよ」
「それは……専務個人のお考えですよね」
 さすがに黙っていられなくなって、頬をかすかに紅潮させた香子は口を開いた。
「バトラー氏は数年前に奥様を亡くされ、今回はお子さんを同伴されての来日です。そういう考えは、彼に失礼なんじゃないですか」
「はっ? お前、今、なんつった?」
「――っ、秋月さん、ちょっとちょっと」
 そこで、痩身の男が二人の間に割り込んだ。香子の上司、庶務課長の浦島真(うらしままこと)である。
「専務、申し訳ありません。花束の件は私が手配いたしますので、どうかここは」
 頭を下げた浦島が、眼鏡越しの目で訴えてきたので、香子も仕方なく頭を下げる。
 衆人の前でさすがにバツが悪いと思ったのか、宮迫は香子を睨みながら吐き捨てた。
「秋月、覚えてろよ、俺がいる限り、お前が警備課に戻ることは絶対にないからな!」
 ――やっちゃった……。
 宮迫が去った後、香子はため息をついて頭を上げた。
 黙って聞き流せばよかったのに、なんだってあそこで言い返しちゃうかな、私も。
 同じようにため息をついた浦島が、呆れを滲ませた目で香子に向き直る。
「あのさ、専務と喧嘩してどうするの。あの人は、いずれうちの社長になる人だよ?」
「すみません、……分かってはいるんですけど」
「連帯責任はマジで勘弁してよ。俺んとこ、去年子供が産まれたばかりなんだから」
 どこか飄々としたもの言いの浦島は三十八歳。顔にも髪にも脂気がなく、学者のように理知的な雰囲気を持つ男だ。
 しかし、意外にも前職は警視庁の刑事。兄の元同僚である。
 三年前、香子がPTSに入社したのは、この浦島の斡旋があったからだ。
 入社後も何かと面倒を見てくれたし、警備課を追い出された時は、自分が統括する庶務課で引き取ってくれた。あらゆる意味で、頭の上がらない相手である。
「ま、がんばって。これが上手くいけば、警備課への推薦状が書けるから」
「はい、ありがとうございます」
 このセレモニーの進行役に、香子を抜擢したのは浦島である。
 香子を警備課に戻すため、上層部に実力をアピールする場を設けてくれたのだ。
 警備員百余名を動員したこの大がかりなセレモニーは、実のところたった一人の来賓を出迎えるためのものだった。