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崖っぷち若女将、このたびライバル旅館の息子と婚約いたしました。 1

第一話

 近頃の熱海駅は平日でも観光客で混み合っている。特に昼時ともなると飲食店目当ての地元民も合わさって、駅一帯が相当賑やかになる。
 その中を一陣の涼風のように美女が通り過ぎていく。
 すれ違った通行人がはっとし、思わず視線で美女を追った。
 青磁色の江戸小紋氷割りの着物に銀糸の織り込まれた生成りの帯。丁寧に結い上げた黒髪は氷翡翠のあしらわれた簪(かんざし)で丁寧にまとめられている。
 年の頃は二十代半ばから後半だろうか。若い娘らしさの残り香と成熟しつつある女らしさが相まって、少年から老人までありとあらゆる年代の男性を魅了する。
 観光客の若い娘も美女の粋な着物姿とすっと伸びた背筋、優雅に人混みを縫って歩くさまに目を輝かせた。
「今通り過ぎた人、すっごく綺麗じゃなかった?」
「思った、思った! 大和撫子って感じだよね。熱海の観光ポスターとかに出ていそう。ほら、美人若女将ってイメージで」
「あっ、すごくそれっぽい!」
 美女は改札前に辿り着くと、手にしていたバッグからスマホを取り出した。自動改札機にタッチしようとした途端その手が止まり、黒い瞳がそこを出てきた一人に向けられる。
 視線の先にはスーツ姿の青年がいた。同じくその場に立ち尽くし、驚いたような表情で美女を凝視している。
 この青年は大和撫子な美女とは対照的で、整えられたライトブラウンのくせのない髪と、同じ色の目が現代的でクールな印象である。日本人にしては随分と背が高く足も長い。
 スタイルの良さと端整な顔立ちのせいか、ファッション雑誌からたった今抜け出してきたモデルのように見えた。
 美女の視線と青年の視線が宙で交差する。端から見ればそれは美男美女が惹かれ合い、見つめ合う美しい光景だった。
 しかし――。
「あら、日高(ひだか)、久しぶりね。三ヶ月ぶりかしら」
「……大月(おおつき)、お前はどうして駅なんかに」
「あなたに理由を説明する義務はないわ」
 ここで会ったが百年目と言わんばかりに会話のしょっぱなから険悪である。
 青年は美女が着物姿であるのに気付き、「随分めかしこんでいるな」とからかうような口調になった。
「まさかデート? それとも見合いか?」
 しかし美女はけんもほろろの態度である。
「その質問にも答える義務はないわ」
 初夏だというのに辺りの気温まで急降下しそうな冷たい声である。視線も異様に冷たく雪女に睨まれている心境になる。
「日高旅館(ひだかりょかん)の長男ともあろう男が東京に行ったら随分俗っぽくなったわね。他人のプライベートについて質問するのはセクハラよ」
 もっともな指摘だった。
 しかし、青年は余裕の姿勢を崩さない。
「そんなにムキになるって図星か?」
「……!」
 まさに一触即発となったその時、改札を通り抜けてきた老人二人が「ちょっと失礼」と二人の間に割って入った。
「お二人さん、痴話喧嘩はこんなところでするもんじゃないよ。通行人の邪魔になる」
 美女と青年は同時に我に返り、「申し訳ございません!」とやはり同時に謝った。
 それぞれぷいと顔を背け、美女は改札を潜り抜け、青年は身を翻して改札から離れる。
 老人の一人が「んん?」と首を傾げ、振り返って遠ざかる美女の背を眺める。
「ありゃあ月乃屋(つきのや)の女将じゃないか」
「ん? なんだい。キーさん、さっきのべっぴんさんを知っているのかい」
「ああ。儂の女房が昔月乃屋で仲居をやっていてねえ。ということは、男の方は日高旅館の倅か。相変わらず犬猿の仲だねえ」
「あっ、月乃屋と日高旅館の噂は聞いたことがあるよ。そうか。あの二人がねえ」
 熱海の旅館やホテルの経営関係者には有名な話だった。
 月乃屋と日高旅館はともに熱海の老舗旅館である。いずれも江戸時代に創業し、月乃屋は代々大月家が、日高旅館は日高家が家業として運営している。
 ところがこの大月家と日高家、いつの頃からかは不確かだが、代々互いをライバル視し、当主同士は長年犬猿の仲だったのだ。
 他にもライバルの旅館やホテルはいくらでもあるのに、なぜか双方しか目に入っていないらしく、売り上げからサービスの内容までありとあらゆる点で競い合っていた。
「どうしてまたそんなことになったんだい」
「さあ。何せ江戸時代かららしいからねえ」
 実に三百年近くに亘る因縁である。ここまで来るといがみ合いも歴史の一部だ。
「と言っても、日高旅館の倅はもう家を出て上京したらしいが」
「なんだい。後を継がなかったのかい?」
「それがねえ、東京で社長をやっているそうだよ」
「はあ、社長⁉」
 東京の大学を卒業したのち、母方の親族が経営する海陽館(かいようかん)ホールディングスに入社。
 海陽館ホールディングスはホテル事業、レストラン事業、不動産開発事業や不動産賃貸、管理事業を展開する企業だ。
 耀一朗(よういちろう)は二十代にもかかわらずトントン拍子で出世。更に独身で跡取りのいない社長に気に入られ、会社を譲られることになったとか。
「社長じゃ辞めるわけにもいかんだろう。じゃあ、日高旅館はどうなるんだい」
「妹がいると聞いているから、そっちが婿を取って女将になるんじゃないかね」
 老人二人はそれではと顔を見合わせた。
「もう日高旅館の経営には関わっていないのか。独立したんならいがみ合うこともないんじゃないか」
「まあ、今更止めようがないんだろうな」
 キーさんと呼ばれた老人は肩を竦めた。
「若い者同士仲良くしてほしいもんだけどねえ。ほら、最近はそういう気遣いもお節介だのセクハラだのと嫌がられる世の中だからねえ」
「まったく、人間関係までつまらなくなっていくねえ。儂らの時代には若い男女がいればそれだけで恋に落ちたものだけど」
 すでに改札内に姿を消した美女――大月菖蒲(あやめ)にその嘆きは届きようもなかった。
 物理的に声が聞こえない距離になっていたからだけではない。先ほど日高耀一朗と遭遇したことで、早鐘を打つ心臓の鼓動を宥めるのに必死だったからだ。
(日高ったらよりによってどうして今日熱海に帰ってきたの!)
 そして、なぜよりによって駅で出くわす羽目になるのだ。今日は銀行に融資の相談に行く日なのに。いつも以上にしっかりしなくてはいけない日なのに。
(いくら好きな人に会ったからって情けない。それに、またあんな憎まれ口叩いちゃって……)
 菖蒲は溜め息を吐いてホームのベンチに腰を下ろした。
(融資の相談、うまくいくかしら)
 前もって事業計画書をメールで送っているので、向こうもある程度は答えが出ているだろう。
(また断られたらどうしよう……)
 芯の強そうな黒い瞳が揺れる。菖蒲は膝の上で両の拳をぎゅっと握り締めた。


 菖蒲と別れた耀一朗は駅前でタクシーに乗り込み、一見クールな顔と声で運転手に告げた。
「料亭の高波(たかなみ)まで」
「はい、かしこまりました」
 今日は老舗料亭高波との業務提携の交渉のアポイントがある。
 なのに、よりによって菖蒲に遭遇して、すっかり調子が狂っていた。
 それにしてもと長い足を組んで脳裏に菖蒲を思い浮かべる。
(くそっ、なんなんだあの着物姿! 似合いすぎて反則だろう!)
 あのあとつい振り返って菖蒲の後ろ姿を見つめてしまったが、黒髪と対照的なうなじの白さが忘れられない。
 自分だけではなく通りすがりの男全員が菖蒲に目を奪われていた。
 着物が珍しいのもあるが、菖蒲が物語から抜け出してきたような風情ある美女だからだ。
(電車なんかに乗るなよ……他の男の目に晒されるだろ。いっそ窓なんてない護送車で送り迎えしてもらえ。俺以外にあんな姿を見せるんじゃない!)
 もちろん、自分にそんな権利がないことくらいはわかっている。菖蒲は代々商売仇の一族の当主である上に、本人から嫌われていることも知っている。
 だが、嫉妬せずにはいられなかった。
(駅にいたってことは今からどこかに行くんだよな。やっぱり男とデートか? それとも本当に見合いか?)
 胸の奥がチリチリ焼け焦げそうに熱い。
 耀一朗はいくら家同士が天敵だろうが、菖蒲に嫌われていようが、叶わぬ恋だろうが諦められなかった。
 高校時代に恋に落ちて以来ずっと気にかかっていて、こうして顔を合わせるたびに気持ちを再確認してしまう。
 家同士の仲が悪かったので、親への気遣いもあって告白できなかったが、やはり他の男にかっ攫われるのを指を咥えて見ているなどできそうにない。
 どうせ日高旅館とはすでに縁遠くなっているのだ。ならばもう遠慮は不要だ。
「……よし」
 懐からスマホを取り出しスケジュールを確認する。続いて月乃屋のウェブサイトを検索して開いた。


(やっぱりダメだった……)
 菖蒲はがっくりと肩を落とし、一人銀行の自動ドアを潜った。日傘を差してトボトボと歩き出す。
 薄々察していたが案の定融資はできないと断られてしまった。
 担当者の言葉が脳裏を過る。
『月乃屋さんが経営努力を重ねていることは存じておりますし、歴史の長さもサービスのよさも把握しております。しかし、この事業計画書だけで小百合(さゆり)さんの穴は埋められませんよ。一度専門のコンサルタントに診断を依頼してはいかがでしょうか?』
「……」
 日傘の柄を持つ手に力がこもる。
 菖蒲の母の小百合は長い月乃屋の歴史でも、屈指のカリスマにして名女将と呼ばれていた。
 そして現在の苦境の原因は担当者の言っていた通り、三年前その小百合が突然脳溢血で死んでしまったからである。
 あの時の衝撃は忘れられない。朝は元気に働いていた母が昼に倒れ、夜には冷たくなって病院のベッドに横たわっていたのだから。
 悲しみに浸る間もなく葬儀や相続の手続きに追われ、そのまま月乃屋の新たな女将となり、ようやく泣く時間ができたのは四十九日後のことだった。
 それでも明日も仕事だから目が赤くなってはいけないと、必死になって涙を堪えたのを覚えている。
 菖蒲とは対照的に恋女房を亡くしたショックからか、父の幹比古(みきひこ)はがっくり気落ちし仕事どころではなくなっていた。持病の悪化もあって現在は入院中だ。
 幹比古だけではない。菖蒲には悪いがそろそろ年なのでこれをきっかけに……と、長年月乃屋に勤めてくれたベテランの仲居や料理人が退職し、人手不足で来客に対応しきれずにいる。
 結果ピーク時と比べて売り上げが半分近く落ちており、営業利益は三千万程度の赤字に転落してしまった。
 このままでは返済原資を作ることすらままならない。
 菖蒲はこの現状をすべて自分の責任だと捉えていた。
 月乃屋で女将見習いとして小百合を手伝うかたわら、大学で最新の経営学を学んでいたのに、ちっとも役に立っていないと焦ってもいる。
 これでは女将とは言えない。半人前の若女将のままだ。
(どうしよう。こんな状況じゃあの不動産屋に売らなきゃいけなくなる)
 半年前、月乃屋の苦境をどこで知ったのか、東京の不動産屋が買収を持ち掛けてきた。なんと月乃屋を買い取ったあと、大衆向けのスーパー銭湯に改築するのだという。
 菖蒲を東京に呼びつけたでっぷり太った社長は冬にもかかわらず、暑そうに扇子をパタパタしながらこうのたまった。
『悪い話ではないと思うんだよねえ。君だって女だてらに旅館経営なんて本当は面倒くさいんじゃないのかい。こっちが有効活用してあげるから意地張りなさんな。勤め先に困るって言うんなら世話してあげるからさ。君、二十七歳だっけ? 女が一番色っぽい年だよねえ』
 挙げ句、菖蒲の手を握って擦ったのだ。
 帰りに駅のトイレで何度手を洗ったことか。
 あんなセクハラマシュマロマンに月乃屋を蹂躙されるなど冗談ではなかった。
(面倒くさくなんてないわ。私は月乃屋のために生きてきたのよ)
 幼い頃より小百合と幹比古に教育されてきたからだけではない。
 菖蒲は月乃屋をこよなく愛していた。誇りにしていた。
 長年の歴史も、江戸時代の面影を残した和風の旅館も、源泉掛け流しの温泉もすべてを愛していた。月乃屋は菖蒲の一部になっており、失うことなど考えられなかった。
(でも、どうすればいいの。月乃屋を維持するためには……)
 駅前に到着したところでバッグの中からスマホの着信音が鳴り響く。画面には幹比古の入院先の病院名が表示されていた。
 慌ててバーをスライドさせ耳に当てる。
『もしもし、小田熱海(おだあたみ)病院の看護師の中村(なかむら)と申しますが』
「父に何かあったんですか!?」
『はい。実は院内で転倒し骨折してしまいまして』
 階段から転がり落ち右腕を折ったのだとか。命に別状はないものの、一度来院して新たな治療の手続きをしてほしいと言う。
「わかりました。すぐに参ります!」
 菖蒲はスマホを仕舞うと、すぐに手を上げタクシーを止めた。

 父の幹比古は今年で七十歳になる。
 菖蒲は入り婿の幹比古と亡き母小百合が四十三歳と四十歳の頃に生まれた一人娘だ。
 二人は次期女将として菖蒲を厳しく育てたが、深い愛情を注いでもくれた尊敬すべき両親だった。
 それだけに、連れ合いを亡くし弱った幹比古を見るのは菖蒲も辛かった。
「お父さん」
 菖蒲が一人部屋の病室に入ると、横たわっていた幹比古がゆっくりと顔を上げた。
「おお、菖蒲か。中村さんが連絡したのか? いいって言ったのになあ」
「いいわけないでしょう」
 返事をしながらもほっとする。
 幹比古は右腕にギブスこそはめているが、思ったよりは元気そうだったからだ。
「しかしなあ、もうすぐ退院だったのに情けない。これじゃ月乃屋に戻ってもろくに働けないぞ」
「月乃屋のことは私に任せて、治すことに集中してよ」
 それにしても、持病に続いて骨折とは、幹比古も老人なのだと実感せざるを得ない。
 本来ならもう引退している年なのにいまだに月乃屋を気にするのは、一人娘の自分が未熟なせいだと思うと申し訳なく情けなかった。
 大昔の時代劇では病身の父親と娘が「いつもすまないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」などという遣り取りをしているが、むしろこちらが謝りたい心境である。
 そんな菖蒲の心境を感じ取ったのだろうか。幹比古が「なあ、菖蒲」とかたわらの椅子に腰を下ろした娘を見上げた。
「どうしたの? 何かほしい? なんでも言って」
「……菖蒲、辛ければ月乃屋を手放してもいいんだぞ。経営、厳しいんだろう」
 一瞬、呼吸と心臓が止まりそうになった。
「お父さん、何を言って……」
「俺も小百合も跡継ぎだからとお前に月乃屋の女将以外の道を許さなかったが、最近それは間違いだったんじゃないかって思えてきてな……。普通の家に生まれていればこんな苦労はさせなかったんじゃないかって」
「もう、冗談は止めてよ」
 菖蒲は茶化して話を終えようとしたが、幹比古は伏せっていても話を終わらせようとはしなかった。
「菖蒲、なんでも言ってというなら一つだけほしいものがある。……死ぬ前にお前の花嫁姿を見たい」
 この懇願には菖蒲も絶句した。
「お前、月乃屋のことばかりやってきて、彼氏の一人もいなかっただろう? せっかく縁談を持ち込まれても入り婿じゃなきゃ駄目だって俺や母さんが断って……」
 幹比古は掛け布団を握り締めた。
「本当に悪いことをした。お前の人生を台無しにしてしまった」
 菖蒲は両親に不幸にされたなどとはまったく思っていなかった。
 たとえそうだったとして、もうとっくに二十歳を超えているのだ。嫌だったらとっとと逃げ出している。
「ねえ、何か誤解していない? 私は月乃屋が大好きだから女将になったんだよ? それに死ぬだなんて言わないでよ。七十くらい今時若いのに」
「こんなに頭が真っ白なのにか? そんなことはどうでもいい。月乃屋のことももう……。俺が今一番心配なのはお前が独りぼっちになることだ」
 自分が病気がちで未来が見えないのもあるが、菖蒲が自分の細腕だけで月乃屋を支えようとして、たった一度の人生を潰してしまいやしないか心配なのだと。
「俺のためを思うなら、別に入り婿じゃなくてもいいからいい男を見つけて結婚してくれ。そっちの方がよっぽど親孝行――」
 幹比古はそこで突然咳き込み口に拳を当てた。
「お、お父さん! ナースコール……」
「……そこまでじゃない」
 どうにか咳を抑えて大きく深呼吸をする。折れた右腕に響いたのだろうか。幹比古は顔色を悪くしながら「頼む」と訴えた。
「俺の知り合いにも頼んでおくから、とにかく見合いをしてみろ。気に入らなければ断ればいいから。お前くらいの美人なら男はいくらでも群がってくるだろう」
「で、でも……」
 脳裏に昼間改札前で遭遇した耀一朗の顔が思い浮かぶ。
 高校時代に恋に落ちて以来ずっと彼だけを想ってきた。家同士が犬猿の仲なのもあって好意を伝えることはできないし、そもそも好かれていないと知っていたから告白も有り得なかった。
 それでも、二十七年の人生で恋に落ちたのは耀一朗だけだ。今更見合いで結婚などできるのだろうか。
 だが、幹比古と月乃屋のためなら――。
「わかったわ……」
 菖蒲はぐっと拳を握り締めた。
 月乃屋のない人生など考えられない。なら、自分の恋心は封印すべきだ。女将としてそれくらいの覚悟はしなければ。
 誰もが吸い込まれそうなほど魅惑的な黒い瞳に闘志の炎が燃え上がる。
「お父さん、私必ず月乃屋の役に立つ婿を見つけるわ」
「い、いや菖蒲、俺はお前が幸せになれるのなら……」
「こうなれば早速組合の理事長に相談しなくちゃ!」
 菖蒲は一度こうと決めると意志を曲げず、とことん努力するタイプだった。なお、それは頑固とも言う。

 熱海には著名な旅館やホテルが構成員となっている協同組合がある。
 月乃屋もその一員であり、亡き母の小百合は理事長と仲が良かった。
 そのコネを利用して結婚相手を探そうとしたのだが――。
 融資を断られて一週間後の日曜日、菖蒲はテーブルを挟んで理事長と向かい合っていた。
観光客でごった返す平和通り商店街を見下ろす、昭和レトロな喫茶店内はもうエアコンがフルでかかっている。
 菖蒲は変わり七宝柄があしらわれた白藤色の紋紗の着物と、月白色の幾何学模様の名古屋帯を合わせ、少しばかり暑い季節によく似合う装いをしていた。
 一方、理事長は半袖シャツにスラックスと、この年代の男性にありがちな服装だった。
 着物美女と六十代の男性との不自然な組み合わせは、どうにも店内の観光客にあらぬ疑惑を抱かせてしまう。
「ねえ、あそこにいる着物の女の人とおじさん、一体どんな関係なんだろう」
「もしかしてパパ活?」
「不倫カップルじゃないよね……」
 そう噂されているとはつゆ知らず、菖蒲と理事長は今後の縁談について話し合っていた。
 理事長がおしぼりで額の汗を拭く。
「もちろん、菖蒲ちゃんのお願いというのなら何人でも紹介するよ。でもねえ……」
「でも、なんでしょうか?」
 理事長の人のよさそうな顔からまた汗が流れ落ちる。
「結婚は月乃屋と切り離して考えた方がいいと思うんだよねえ。ほら、菖蒲ちゃんはせっかく美人なんだからさ」
 どうも月乃屋の苦境はすでに知れ渡っているらしい。いくら老舗とはいえ、潰れる寸前の旅館に婿入りするような物好きはいないと言いたいのだろう。
「経営はもうどこかに任せてみたらどうかな」
「……やってみないとわかりません」
 菖蒲は低い声で呟いた。
 的に矢を当てるにはまず弓を引かねばならない。何もしていないのに諦めてどうすると負けず嫌い根性が騒いだ。
「旅館やホテル関係の仕事の方なら職種を問いません。なんだったら年齢だってうんと離れていても。五十歳までならなんとか」
「いやいや、いくらなんでもそんなに自分を安く売るものじゃないよ」
 理事長はふーっと溜め息を吐いた。
「うんうん、わかったよ。とりあえず探してみるけど、本当にその条件ならどんな男でもいいのかな?」
「はい」
 菖蒲は力強く頷いた。


 耀一朗は氷の溶けかかったアイスコーヒーを前に愕然としていた。
 先ほど店を出て行った理事長と菖蒲は、男を紹介するだの結婚だのそんな話をしていなかったか。
 今日も料亭高波との打ち合わせのために熱海を訪れ、アポイントの時間まで暇つぶしに喫茶店に入った。そこでまさかまた菖蒲に遭遇する羽目になるとは思わなかった。
 もっとも、菖蒲はこちらには気付いていなかったが。
 しかし、たった一人着物かつ美女で目立ちまくっていたので、耀一朗は入店してすぐにそうとわかり、気付かれないようさり気なく空席を一つ挟んだ席を選んで腰を下ろした。
 何せ協同組合の理事長とわざわざ二人きりで会い、熱心に何か話し合っているのだから気にならないはずがない。
 耀一朗も日高旅館にいた頃には理事長に世話になっていたのだ。
 向かい席の秘書の瀬木(せぎ)が手帳を手に今日の打ち合わせの内容を確認する。
「会席料理の経験のある料理人を三名雇用してほしいとのことでしたが――」
「おい、もうちょっと小声で話してくれ」
 耀一朗は声を潜めて言う。
「……」
 瀬木は片眉をわずかに動かし、すぐに「かしこまりました」と頷いた。耀一朗に合わせて声を潜める。
「私の二つ後ろの席にいる女性に聞こえなければよろしいのですね」
 さすが仕事のできる秘書。社長の意図をすぐに汲み取ったらしい。
「社長が女性に関心を持つのは珍しいですね」
「俺も男だからな」
 いずれにせよ、今は高波との件に集中せねばならない。
「もう一度確認を頼む」
「かしこまりました」
 耀一朗は瀬木の声を聞きながら、自分以外の男と結婚などさせるものかと闘志を燃やした。
 今回は仕事で熱海に来ているが、実は妹の日和(ひより)の相談に乗るため、また母千晴(ちはる)の様子をうかがうのもあって毎月熱海を訪れている。
 そして、毎度とは言わないが、数回に一回は菖蒲と出くわしている気がする。
 これは先祖の因縁か、あるいは腐れ縁か、はたまた運命なのか――。
(なら、運命にしてやる)
 鋭い視線を窓の外に向ける。
 まず菖蒲の現状を把握する必要がある。一度理事長に接触を図らねばならなかった。


喫茶店での打ち合わせから一ヶ月後、七月に入りいよいよ本格的な夏を迎えつつある頃。
 さすがは理事長、すぐに条件に当てはまる男性を三人紹介してくれ、菖蒲は一週間置きに見合いをすることになった。
 二十代半ばから四十代まで年齢層は幅広いが、皆旅館、ないしはホテル勤務経験者だ。
 しかし、全員との見合いが終わった八月上旬。
 菖蒲はスマホを手に月乃屋の厨房前の廊下に立ち尽くし、顔を青ざめさせながら理事長からの電話を聞いていた。
(……また断られた)
 一人くらいはと思っていたのにまさかの全敗である。
 しかも、三人ともに同じ理由で断られていた。
 理事長からはこう説明された。
『菖蒲ちゃんかい? あの、うーん、言い辛いんだけど、吉田さんからお断りの連絡が来てね』
 もう説明の内容がわかっているのが悲しかった。
『菖蒲ちゃん自身にはすごく好感を抱いたんだけど、やっぱり老舗旅館の女将とビジネスホテルの一従業員に過ぎない自分とでは釣り合わないってね』
 理事長は言葉を濁しているが以前指摘された通り、経営難の旅館への婿入りは重荷ということなのだろう。
 世の中の厳しさを思い知り溜め息を吐く。
『あのー、それでね菖蒲ちゃん』
 理事長が遠慮がちに話を続けた。
『前の三人は残念だったけど、一人会ってみたいって人が出てきてね』
「えっ」
 一体どんな物好きだろうと思ったものの、ありがたいには違いない。
「どんな方ですか?」
『年齢は二十八歳で一つ上だけど学年は菖蒲ちゃんと同じだね。東京でホテル経営の会社に勤めているそうだよ』
「私も是非お会いしたいです。お願いします」
『そうか。良かった。お見合いをセッティングするにあたってだけど、一つ条件があるんだ』
「条件?」
『実はね、その人お見合いの前に菖蒲ちゃんの旅館に泊まってみたいそうなんだよ。終わるまでは身元を明かしたくないってね』
 随分変わった要求だったが菖蒲にはすぐにピンと来た。
 ミステリーショッパー、覆面調査員の手法だ。
 一般客に紛れて対象の店を利用。店側に気付かれないようサービスや接客のクオリティ、店の様子などについて実態調査を行う。
 その目的は顧客目線での評価を業務改善に役立てることである。
「……月乃屋がどんな旅館かを品定めしたいんですね」
 婿入りに値するかどうかを検討するつもりだ。
 相手の本気を感じてスマホを握る手に力がこもった。
『みたいだね。どう? 受ける?』
「もちろんです」
 菖蒲は力強く頷いた。
 提供するサービスや料理には自信がある。月乃屋はまだまだ健在なのだとアピールし、是非婿入りして仕事を手伝ってほしかった。

 ミステリーショッパーは通常いつ来るかわからないし、名前も性別も年齢も明かされない。
 今回は年齢と男性ということだけはわかっているが、月乃屋の顧客の半数は男性で、二十代ももちろんいる。見合い相手が誰なのか判別がつくはずもなかった。
 それゆえに調査終了までは気を抜けなくなる。
(いつも通りに接客をすればいいのよ。サービスの質だけはどこにも負けないわ)
 菖蒲はその日の午後も帯締めをきゅっと締め、客を迎えに玄関に向かった。途中、仲居の一人に声をかけられる。なぜか話しにくそうだった。
「あのう女将さん……。その、今朝一名様で当日予約が入ったんです。三泊の連泊で」
「あら、そうだったんですか。青島(あおしま)さんが担当でしょうか?」
「はい……」
 昨日キャンセルが一件あったので、そこに割り当てる形になったのだという。
「キャンセルって露天風呂付きの……十六夜の間でしたね」
 十二畳半の和室で露天風呂を含むと六十四平米ある客室だ。壁一面の窓と露天風呂からは熱海の青々とした凪いだ海を眺められる。
「お客様のお名前は?」
「日高耀一朗様でして……」
 一瞬、世界の時が止まった。
「ひだか……よういちろう? って日高旅館の⁉」
「は、はい」
 仲居が言い辛いはずだ。
 一体なぜよりによって耀一朗が月乃屋に宿泊するのか。片思いの相手が来てくれて嬉しいというよりも、さすがに一体何が目的なのかと訝しむ。
(ううん、動揺しちゃいけない。どんなお客様にも最高のおもてなしをする。そのポリシーを守るだけ)
 菖蒲は顔を上げて仲居に告げた。
「担当は私に交代してください。チェックインは何時の予定ですか?」
「ご、午後五時です。お夕食は七時からで」
 長年のライバルの息子でも好きな男性でもなく、月乃屋の一人の客として扱うのだ。
 菖蒲はしゃんと背を伸ばすと、腕時計の針が三時を指したのを確かめ、慣れ親しんだ戦場に向かった。

 耀一朗が月乃屋にやって来たのは予定より少々早い午後四時半。
 菖蒲は気持ちを切り替えてロビーに出向いた。すでに従業員の男性が耀一朗からキャリーケースを受け取っている。
 その姿を見て菖蒲は目を瞬かせた。
 以前はスーツ姿だったが今日はプライベートモードなのか、白いTシャツにブラックの開襟シャツを羽織り、ベージュのパンツで長い足を包んでいる。
 どうということもない服装なのに、耀一朗が身に纏うと洗練されて見えた。いかにも都会の男という雰囲気である。
「~~っ」
 心の中で頬を押さえる。
(スーツも似合っていたけど、カジュアルな服装も素敵! 絶対に女の子が放っておかない)
 我に返り姿勢を正す。
(……何を浮かれているの。そうよ。あんなにカッコいいんだから、きっと彼女の一人や二人や三人いるに決まっているじゃない)
 菖蒲がその場に立ち竦んでいる間に耀一朗は従業員に案内され、ロビーの一人がけのソファに腰を下ろした。ライトブラウン色の双眸を窓に向けて細める。
 ロビーは壁一面が窓で外の景色を眺められる。
 客には客室に案内するまでそこで小休憩してもらい、ウェルカムドリンクをサービスすることになっていた。
 菖蒲はすうと息を吸って吐いた。
 真っ直ぐに、だが優雅に耀一朗のもとに向かう。
「いらっしゃいませ日高様」
 耀一朗ははっとした顔で菖蒲を見上げた。ライトブラウンの目がわずかに見開かれる。
「遠いところからお越しいただきありがとうございます。当館ではウェルカムドリンクをご用意しております。こちらのメニューからお選びください」
「……」
 耀一朗は菖蒲がメニューを差し出したにもかかわらず受け取ろうとしない。
 じいっと見つめられると菖蒲も照れ臭くなるより決まりが悪くなった。
(顔に何かついている?)
 あとで確かめなければならない。
「あのう、日高様……」
 耀一朗はようやくはっと我に返り「じゃあ、緑茶をアイスで」と頼んだ。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 グラスに入れたアイス緑茶をテーブルに置き、館内施設について案内する。
「月乃屋はこの通り海を望む温泉旅館です。ロビーだけではなく大浴場、各お部屋すべてがオーシャンビュー仕様なので、どうぞ朝、昼、夕方と表情の変わる海の景色を堪能してくださいませ」
 またなんの反応もない。
「で、では、お茶が終わる頃にお声をおかけし、お部屋にご案内いたします……」
 菖蒲はその場を離れるとすぐに従業員用トイレにすっ飛んでいった。
 慌てて鏡を覗き込んだのだが、顔には何もついていないどころか、髪一筋も乱れていないしメイクもばっちり。接客用の着物である藍色に蔦柄の小紋もしゃんと着こなしている。
(大丈夫……よね)
 これまでの耀一朗の態度からして、身なりに注意すべき点があれば必ず口にするはずだ。
(なら、どうしてあんなにジロジロ見ていたのかしら)
 首を傾げつつロビーに戻ると、ちょうど耀一朗がドリンクを飲み干し、ソファから立ち上がったところだった。
「それではお部屋にご案内しますね。お荷物はすでにお部屋に」
 微笑みを浮かべ先導する。
 耀一朗は大人しくあとをついてきた。
 十六夜の間は二階にある広々とした和室だ。
 ほんのりい草の香りのする畳の踏み心地がよく、床の間には竹細工の一輪挿しと若手の書道家の手による掛け軸がかけられている。
 もちろん、旅館には欠かせない広縁もあった。無理に観光地に行かず、一日ここからぼんやり海を眺めて帰る客も多い。
 耀一朗は室内をぐるりと見回すと、早速座布団に腰を下ろした。座卓の上に置いてあった冊子を手に取る。
「これは?」
「室内でご利用いただけるお飲み物、軽食のメニューです。フロントにお電話いただけましたらお持ちいたします。また、こちらの革表紙のお料理のメニューはオプションとなっております」
 にっこりと微笑んでみせるとまた耀一朗の反応が消えた。
 しかし、もういちいち気にしていられない。
「日高様の夕食のご予約は午後七時からこちらのお部屋でとなっているので、五時半までにフロントにご連絡いただければ、追加でご用意できますのでよろしければ」
 いつも通り真心を込めた完璧なおもてなしをと心がけていたせいか、自然に丁寧に接客をすることができた。ほっとしつつ「それでは失礼致します」と引っ込みほうと溜め息を吐く。
 今日から三泊気が抜けなかった。


 耀一朗は菖蒲がドアを閉めるのと同時に、座卓に肘を突いて頭を抱えた。
「……なんてこった」
 菖蒲は水色やピンク、オフホワイトなどの明るい色が似合うと思っていたが、今日着ていた藍色の小紋もよく似合っていた。
 和風美人のしっとりとした色気を引き立てており、つい目が離せなくなってしまった。
(あんな格好で接客だと? 男に絡まれやしないのか?)
 菖蒲は幼い頃から女将になるべく教育されてきたのだ。軽くいなすだろうとは思うものの心配である。
「くそっ」
 耀一朗は苛立たしげに髪を掻き上げ、今は煩悩は捨てろと自分に言い聞かせた。ビジネスケースからノートパソコンを取り出し月乃屋のデータを確認する。
 ――半月前協同組合の理事長に連絡を取り、菖蒲の現状について問い質した。
 理事長は当初事情を明かすのを渋った。妙齢の女性のプライベートだからと。
『ほら今個人情報保護なんちゃらかんちゃらとか色んな法律あるでしょ。いくら耀一朗君でもちょっとねえ』
 そこで『見合い相手を探しているんでしょう?』とカマをかけたのだ。
 すると理事長は『どうして知っているんだい!?』と驚き、渋々月乃屋の苦境と菖蒲の父・幹比古が入院していること、菖蒲が事態を打開するために結婚を望んでいることを教えてくれたのだ。
 そして、条件を聞いてみて驚いてこう口にした。
『……その条件、俺にピッタリでは?』
 現在旅館やホテル関係の仕事についているどころか社長である上に、実家が同じ老舗の温泉旅館である。更にその実家を立て直した経験もあった。
 そのせいでもともと悪かった母との折り合いが更に悪くなり、最終的に実家を出ていくことになったのだが――。
『大月に俺を紹介してみてください』
『い、いや、でもね』
『旅館の立て直しには自信があります。そちらについても問題ございません』
 理事長は電話の向こうで戸惑っているようだった。
『だけど、耀一朗君って日高家出身……』
『もうとっくに独立しています。だから問題ありません』
『そういうことじゃなくてね。君たち犬猿の仲じゃなかったの? ……あっ、もしかして』 
 理事長の口調が一変する。頭が光るさまとニヤニヤ笑いが見えるようだった。
『わかった。あれだあれ。君ってもしかしてツンデレってやつ? 好きなんだけど意地張っちゃうみたいな』
『……』
 沈黙を肯定と受け取ったのだろう。理事長は俄然張り切り始めた。
『な~んだなんだ、そういうことだったの! い~や~、もう甘酸っぱいねえあっはっは! そういうことならおじさん協力しちゃう! 仲人やるのだ~い好きだから結婚決まったら教えてね!』
 耀一朗は理事長のキャハハ笑いを脳裏から掻き消すと、顎に手を当てノートパソコンの画面を見つめた。「ポテンシャルは十分なんだよな」と呟く。
 以前日高旅館を立て直した経験が生きるはずだった。
(……普通に見合いを申し込んでも絶対に断られる)
 何せ日高家と大月家は三百年に亘るライバルである。菖蒲本人にもあれだけツンツンされているのだから脈はないだろう。
 つまり、条件はその辺の男よりもはるかに悪い。
 圧倒的に不利なハンデを覆し、菖蒲に婿入りを承諾させるためには、自分でなければならない理由を提示する必要があった。
 そのために理事長を巻き込んで今回の計画を立てたのだ。
 ライトブラウンの双眸がギラリと光る。
「……やってやろうじゃないか」
 十年間の片思い、実らさでおくものかと闘志を滾らせた。