罪深く、君に溺れる 社長と秘書の再会愛 2
第二話
「美葉ちゃん、すごい溜め息」
「あ……深水(ふかみ)先輩」
社長秘書室の入口に立って笑っているのは美葉より二年先輩の深水真理子(まりこ)だ。現在は事業統括部長の肩書を持つ取締役の友基の秘書を務めている。秘書というよりお目付け役と言った方がいい。大学時代よりは落ち着いているものの、相変わらず放蕩者の友基は仕事はそこそこにいつもあちらこちらの部門をほっつき歩いてばかりいる。
「はい、これ。さっき総務に寄ったら社長宛の郵便物があったからついでに持ってきたよ」
真理子はそう言って腕に抱えていた荷物を美葉のデスク横に下ろした。〝ついでに〟と言うが、贈答品で送られてきた菓子折の小包と大量の封書が入った段ボール箱はずしりと重い。
「先輩、重いのに……ありがとうございます」
「いいのいいの。ついでだったから」
真理子は執務室に繋がる応接ゾーンをちらっと覗いて誰もいないのをたしかめてから美葉のところに戻ってきた。立ち話をするつもりらしい。
社長室の構造は廊下から入ったところがまず美葉のいる社長秘書室で、そこから応接ゾーンに入り、その先に執務室がある。外部からの侵入者──エレベーター自体が厳重なセキュリティで守られているのでそんな人物が実際にここまでやってくるとは思えないが、侵入者はまず社長秘書室を突破しないと社長のところまで到達できない構造なのだ。逆に栖川会長などは『僕が勝手に遊びに行かないように秘書に見張られている』と笑い、社長秘書室を関所と呼んでいた。
「どうしてそんな浮かない顔してるの? 秘書室はみんな社長付になりたがってるわよ。仕事は完璧だし、目の保養にもなるし、しかも優しい紳士だし、言うことないじゃない」
「そうでしょうか……」
今の貴範に〝優しい〟要素を見つけようにも、美葉には溜息しか出てこない。
「秘書室に来るといつもあの美麗なお顔でお疲れ様ですって笑いかけてくれるから、その度にみんなふわっふわ舞い上がってるわよ」
「笑いかけてくれる……?」
いよいよ美葉の溜息が深くなる。
「私には一度も笑いかけてくれたことないですよ」
「えーっ、嘘でしょ」
その原因については身に覚えはあるが、昔貴範に無謀な恋をしていたなどとは口が裂けても言いたくない。コミュニケーションを円滑に図ろうにも、無駄に笑顔を向けると誤解されるのではと思うと美葉の表情も硬くなる。
美葉は〝冷遇〟されていることだけ自虐の冗談として笑いながら明かした。
「おはようとかは言ってくださるんですけど、それ以外に何の会話もないんです。何度も顔を突き合わせてるのに」
「家庭内別居夫婦みたいねぇ」
真理子は美葉が誇張しているとでも思っているのか面白がって笑っている。
「実はシャイとか? ないか」
真理子の冗談に美葉は噴き出したが、もし自分が同じ冗談を彼に言ったらどれだけ空気が凍り付くだろうと想像して身震いした。
実際のところ、就任から一か月も経つのに彼にまともに笑顔を向けられた記憶が本当にないのだ。〝ありがとう〟〝お疲れ様〟などの礼儀正しい声掛けはあるが会話は必要最低限で、無駄話はしない。ことプライベートに関しては不可侵という暗黙の大前提が横たわっている気がする。彼が〝栖川麗佳〟宛の郵便物を美葉に開封させないのもそうだろう。美葉に対しても同じく、プライベートについて一切尋ねてこなぃ。
とはいえ『僕は、そうはいかない』とまで言われたほどだから、笑いかけてほしいだなんて美葉も期待していない。
「美葉ちゃん、大学時代から弟部長とお友達だったんでしょ? つるんで何かやらかしたんじゃないの?」
「違います!」
当たらずとも遠からずの憶測に、美葉は慌てて首を横に振った。
「まあおしとやかな美葉ちゃんに限ってそれはないよね。でも弟部長、相当やんちゃだったらしいね。大学を四年で卒業できたのは奇跡だって本人が自慢してたわ」
貴範と同じ栖川姓なので、社内で友基は〝弟部長〟と呼ばれている。
「あ、それはそうと弟部長ここに来なかった?」
「来てないですけど……また行方不明なんですか」
「そうなのよ。ほんとGPSを付けたいわ」
真理子はぶつぶつ言いながら去っていったが、言葉と裏腹に表情は楽しそうだ。
「さてと……すごい量」
デスクについた美葉は段ボールの中の大量の封書や小包をせっせと開封し始めた。
こうして届く郵便物の中身を確認して必要があればすみやかに処理、分類して保管または処分する。 特に今は就任直後で挨拶状を大量に送ったあとなので、それに対する祝賀や会合の打診などが殺到している。単純作業のようで実はかなりの判断力やスキルが必要なのだが、美葉はファイリングが得意らしく、栖川会長からはいつも整理が上手いと褒められていた。
(新社長からは褒められたことないけど)
そんな日は永遠に来そうにない。
黙々と封書の山と格闘している間に真理子から聞いた話を振り返っていた美葉はだんだん腹が立ってきた。
(笑おうと思えば笑えるんじゃない……)
八年前に知り合った当初の彼は今と同じくクールで威厳に溢れていたが、二人きりで食事した時などはとても優しく笑いかけてくれた。今の氷壁のような態度は友基にまつわる誤解も多少は原因になっているのかもしれないが、社長という厳しい立場でもあるし、会社ではそういう人なのかもしれないと自分を納得させていた。
しかし無愛想にあしらわれているのは自分だけだったと知ると面白くない。少しでも美葉に笑いかけたら、むしゃぶりつかれるとでも思っているのだろうか?
「そっちがそうくるなら、こっちだって」
あちらが機械のような態度なら、こちらも能面のような秘書になるまでだ。
実行するかどうかは別として腹いせにそんなことを考えながら作業していたその時、当の本人の声がいきなり響いた。
「栖川です。入ります」
床には分厚い絨毯が敷かれているので靴音は聞こえにくいが、数年もここで勤務していれば社長室から人が出てくる気配は難なく察知できるようになっている。しかしこの時郵便物の開封作業に没頭しながら頭の中で貴範へのささやかな意趣返しを繰り広げていた美葉は、彼の声が響くまでまったく気づいていなかった。
「きゃっ……」
突如本人が 現れたことに驚いた美葉は、分類のため保留で膝にのせていた封書の束を床に落としてしまった。
部屋の入口では貴範が呆れたような表情を浮かべて立っている。
「……君はいつもそんな風に驚くのか?」
たしかに貴範の着任初日も同じように驚いてスマートフォンを落としたし、普段も貴範が部屋に入ってくる度、肩に力が入ってしまう。おそらく見た目にわかるほど露骨に。
「失礼しました」
意趣返しなど綺麗に忘れ、美葉は恐縮しながら床に散らばった封書を拾おうと慌てて屈んだ。ところが美葉が封書に手を伸ばすより先に、目の前に白いシャツの腕が伸びた。
「これを」
「え?」
貴範は美葉の手にうぐいす色の包みを預けると、床に散らばった封書を拾い始めた。
「立ってください。僕が拾いますので」
「は……はい」
言われるまま立ち上がった美葉は社長に拾わせるなどありえないと焦りつつも、思わず貴範に見とれてしまった。
床に落ちているものを拾うという普通ならあまり美しくない動作のはずなのに、彼だとなぜかスマートで色香さえ漂う所作になる。美葉は預かった包みを捧げ持ったまま待つ姿勢に困り、彼の後頭部を意味なく見つめていた。偏屈な彼だが、髪は素直な直毛で触るとさらさらしていそうだ。
立ち上がる彼の動きでふわりと仄かな香りの微風が立つ。我に返った美葉は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「いいえ。ここでいいですか?」
「ありがとうございます」
貴範は揃えた封筒の束をデスクの上に置くと、そのまままた執務室と応接ゾーンに続くドアへと歩き始めた。
「あの、社長! こちらの包みをお忘れですが」
彼の後ろ姿を見送っていた美葉は包みを預かったままだと気づいて呼び止めた。
貴範はドアのところで立ち止まり、こちらを軽く振り返って言った。
「差し入れです」
耳を疑う言葉に美葉は目を丸くした。
「先ほど会食した店のものです。分けづらい菓子なので、ご自宅でどうぞ」
彼の背中が答えるのと同時にドアが閉まる。
「あ、あの、ありがとうございます」
ドアが閉まってから言っても聞こえないのに、美葉はドアに向かってお辞儀までしていた。
初めての差し入れに不意を突かれ、包みを手に突っ立ったまま悩み始める。
普段、贈答品で菓子をもらった際は開封してこのフロアにある各部門に分配している。しかし貴範は贈答品とは言わず〝差し入れ〟と言っていたし、贈答品にしては包みが小さい。
(わざわざ買ってくれたもの?)
いや、この氷のような距離感でまさかそんなはずはない。
(追いかけてお礼を言うべき?)
しかし彼はわざわざドアを閉めながら言ったのだから、それ以上のやり取りは不要ということかもしれない。それにすでに一分近く経過しているので今から追いかけるのも変だ。
(どうして閉めながら言うの……)
しかも顔すら見ず背中を向けて。
とりあえず椅子に座り、開けてみる。包みは絞りを入れたちりめんで、風呂敷として使える洒落たものだ。中の和紙の小箱を開けると抹茶味のわらび餅が入っていた。
「わあ……」
仕事の疲れも貴範への気まずい緊張も忘れ、美葉は頬を綻ばせた。わらび餅は大好物だ。しかも大好きな抹茶味となると、家に帰って 食すのが楽しみでたまらない。
その時ふと記憶から消した昔の光景が蘇った。貴範に連れていってもらった和食の店で最後 に出てきたデザートが抹茶味のわらび餅だった。あの時美葉は緊張を忘れて喜んでしまい、それを見て微笑む貴範の視線に気づいて赤面したものだった。
懐かしくてしょっぱい、小さな恋の思い出。そのあとの顛末のせいですべて封印してしまったが、汚点として黒く染めようとしても、恋の純粋な輝きは染まり切らずに今も清冽(せいれつ)な光を放っていた。
眩しくて直視できないような気分になり、美葉は急いで記憶とともにわらび餅の箱を閉じた。心が昔に戻ってしまいそうな気がして怖くなったのだ。
元通りに風呂敷で包んでバッグに大切にしまうと、郵便物の開封作業を再開した。
これを終えたらスケジュールをもう一度組み直して、その確認で執務室に行った時にお礼を言おう。
そう考えて作業していた美葉はあることに気づいた。
〝栖川です。入ります〟
貴範は社長室エリアからここに出てくる時、いつもこう言う。
社長秘書室はその奥にある社長の居室と廊下を隔てる緩衝地帯であり、極端に言えば通路のようなものだ。栖川会長は当然のようにノックもなく出てきたし、美葉もそのことに何の抵抗も感じていなかった。
しかし貴範は社長秘書室を自身の通路ではなく美葉の仕事部屋として尊重してくれているのだ。〝出る〟ではなく〝入る〟という表現で。
厳格でわかりにくいが、彼の人柄を表す行動は他にもある。封書を拾ってくれたのは、タイトスカートを 気にしながら屈む美葉を見て咄嗟にあの行動になったのだろう。
〝僕は、そうはいかない〟
あの強烈な言葉を放った彼は、昔美葉が恋をした優しく礼儀正しい紳士のままだった。
今更ながら気づいた事実がなぜか胸を締め付ける。七年という時間は美葉に何の言い訳も与えてくれなかった。
涙ぐみそうになり、美葉はそれ以上考えるのをやめた。黙々と開封作業を終え、菓子折の小包 を持ってパントリーに移動する。ここで空き箱に適当に分けておけば休憩時に各部門の秘書が持ち帰って配ってくれる習慣だ。
美葉が作業しているとポケットの中のスマートフォンが振動した。画面を見た美葉は「もう……」と呟いてから通話ボタンを押した。
「もしもし? 今仕事中なのよ」
電話をかけてきたのは実家の母だ。平日の昼間は仕事中だと何度も言っているが、スーパーでパート勤務している母はオフィスの都合をあまり理解できないらしく、出るまで何度もかけてくる。
『急ぎの用事なのよ。すぐ切るから』
「どうしたの?」
もう一方の手で菓子を分けながら美葉は尋ねたが、母の相談の内容は予想がついていた。
『春樹(はるき)の学費が足りないの。明日までに三十万円振り込める?』
「前期の学費はこの間振り込んだじゃない」
つい三か月前に弟の学費と生活費を振り込んだばかりだ。すると母の口調が歯切れ悪くなった。
『それが……家の修理とかもかさんでね』
「もしかして学費を一括納入せずに分割にして使っちゃったの?」
『あんたにはわからないだろうけど、古い家にはお金がかかるんだよ!』
美葉の非難めいた口調に母が過剰反応し、噛みついてくる。母だって決して贅沢しているわけではなく、生活はぎりぎりだ。娘に頼らねばならない情けなさもあってそんな態度になるのだろう。それを理解している美葉は声をやわらげた。
「わかった、三十万円ね。今夜振り込むから。学費は優先して払ってあげてね。ここまで頑張ったんだもの」
電話を切った美葉は溜息をついた。医学部の履修年数は長いが、あと少しだ。そうすればもうお金の心配ばかりしなくて済む。
その時パントリーの壁をこんこんとノックするように叩く音が聞こえたので顔を上げると、友基が廊下から顔を覗かせていた。
「美葉ちゃん、お疲れ」
「深水先輩が探してましたよ、栖川部長」
美葉は微笑み返したが、わざと他人行儀な呼び方で応じた。旧知の関係であっても職場で馴れ合いを見せることは憚られる。特に同性の視線は厳しいものだ。
栖川商事の中でもとりわけ秘書室は縁故採用の女性社員が多い。秘書は正しい接遇マナーを身につけていることが求められる。また贈答の品などを社長に代わって見立てることも多く、センスと審美眼も必要だ。縁故採用組の配属が秘書室に集中するのは、そうしたポテンシャルが高いことも理由の一つだ。
そんな中で生活保護を受けるほどの困窮家庭出身の美葉は異色といえる。友基以外誰もそのことを知らないし美葉自身も恥じていないが、育ちの泥臭さや華のなさはそこはかとなく滲み出てしまうものなのだろう。
そんな美葉が秘書たちの中でもある意味最高位ともいえる社長秘書に抜擢されているのだから、面白くないと感じる人間がいて当然だ。今の立場に恥じぬよう美葉は語学や法律など仕事に役立つ知識を磨き努力を続けているが、上流女子独特の閉塞性でさりげなく疎外されてもいる。こんな状況なので、貴範の徹底したよそよそしさは美葉を守っていると言えなくもない。
電話している間に菓子は分け終えていたので、余った箱をたたんで片付けてしまうとパントリーをあとにする。仕事はまだ山のように残っているので友基のさぼりに付き合っている暇はないのだ。しかし友基はまだ持ち場に戻る気はないらしく、社長秘書室までついてきた。
「深水先輩に通報しますよ」
「まあまあ」
いつのまにくすねたのか、友基はパントリーで美葉が分けたチョコレート菓子を二つ手にしていて「はい、賄賂」と美葉に一つ寄越してきた。そのまま美葉のデスクに寄りかかり、チョコレートを口に放り込む。
「うまー」
「……集中できないんですけど」
スケジュールの組み直しをすべく画面を開いた美葉は呆れ返って友基を眺めた。
友基が長男でなくてよかったとつくづく思うが、意外と友基は目端がきくところがあり、この体たらくでも社内の受けは悪くない。真理子によると〝やる時はやる〟のだそうだ。
「電話聞いちゃったんだけど、弟くんの学費?」
どうやら友基がここまでついてきたのにはちゃんと理由があったらしい。
「うん……。国立大でも下宿だと生活費も送らなきゃいけないから結構な額になるね」
美葉は正直に打ち明けて苦笑した。弟の学費を工面したいという美葉のために栖川商事の縁故採用を頼んでくれたのは友基だったし、それ以外にもいつも美葉を気にかけてくれる心優しい友人だ。
「後期の授業料のために貯めてた分から出さないといけないけど、まあもうすぐボーナスだから大丈夫」
母親がああやって電話してくる時は大抵もう支払期日が迫っているタイミングなので、猶予はないのだ。遅れたせいで弟が進路を断たれることだけは避けたい。
「でも美葉ちゃん自身の奨学金返済もあるんだろ?」
「うん。でも大丈夫よ。ありがとう」
美葉は心配しないでと友基に笑いかけたが、友基は残念そうに眉を下げた。
「美葉ちゃんに贅沢してほしいよ。こんなに真面目に働いてるのに」
「贅沢って? 今で十分よ」
家賃の安さと引越し費用の節約でいまだに学生時代からのぼろアパート住まいだが、中は改修されてそこそこ綺麗だし、もう雨漏りもしていない。たまに友達とランチに行く程度の余裕はあるし、服だって昔よりは持っている。
「いやいや、もっと海外旅行とか、ディオールのドレスとか、女子が好きなものあるじゃん」
「そうね」
どれも美葉には不要だが、友基が熱心に言うので調子を合わせる。早く納得してもらわないと立ち去ってくれないからだ。美葉にはどうしても今日中にやりたい仕事がある。
しかし、あとから思えば迂闊だった。
「自慢じゃないけど俺、金だけは唸るほど持ってるから、美葉ちゃんに貢がせてよ」
友基のそんな冗談が飛び出したその時、社長室のドアがかつてない勢いで開いた。
入口に立つ貴範を見た瞬間、美葉は眩暈を覚えた。今回に限っていつもの〝入ります〟がなかった理由は考えるまでもない。
貴範ははっきりと怒気を含んだ目で美葉とデスクに寄りかかる友基を一瞥したが、すぐにその視線は廊下に繋がる出口へと向けられた。
「失礼」
通り過ぎる際に氷のように冷ややかな一言を残し、貴範は部屋を出て行った。硬直したままその後ろ姿を見送っていた美葉は彼の足音が遠ざかると両手で顔を覆ってデスクに突っ伏した。
「最悪……」
どこからかはわからないが、今の会話──少なくとも友基の最後の台詞は確実に聞こえていたはずだ。どうしてこうもタイミングが悪いのだろう。
友基はというと、貴範の気配が完全に消えるとおかしそうに噴き出した。
「今の絶対聞いてたよな? いやーすげえ顔。殺されるかと思った」
「早く深水先輩のところに帰って」
友基を無理やり追い出したあと、美葉はがっくりと項垂れた。
今日中にスケジュールを組み直して確認してもらうつもりだった。その時にわらび餅のお礼を言おうと決めていたのに、これではまたその勇気が挫けそうだ。これでもう決定的に金目当ての女の烙印を押されたに違いない。
「今更よね……」
スケジュールを組み直す美葉の口からは溜め息が漏れ続けた。
就任から二か月近くが過ぎ、忙しくしている間に季節は梅雨明けを迎えていた。
早朝出勤の美葉は職場に着くとまず社長室を整え、飲み物をすぐに供せるようパントリーの準備をする。それから貴範とのブリーフィングに備えてその日の予定などを確認し、彼の出社を待つのだが、毎朝遅めだった栖川会長と違って貴範の出社は異常に早い。最近はまるで競争しているような気さえしている。
そうして早朝から深夜まで同じエリアで断続的に顔を突き合わせていてもお互いのプライベートに一切触れないよそよそしい雰囲気は相変わらずだ。友基の〝貢がせて〟発言も聞かれてしまったことだし、美葉も仕事に支障がなければこの距離のままでいいとすっかり諦めていた 。
社用車の運転手から社長到着の連絡を受けると、美葉はすぐにパントリーでコーヒー豆をミルにかける。礼儀正しい貴範はたとえインスタントコーヒーを出しても文句は言わなそうだが、一日のスタートには美味しいコーヒーを飲んでほしい。
「おはよう」
社長室に現れた貴範はいつもながら完璧な姿だ。昨夜は会議と残務で帰宅は深夜だったのに、わずか数時間で微塵の疲れも見せず現れるのだから、本当は機械なのではないかと疑いたくなる。
ブリーフィングを行うのは朝日をいっぱいに受けた応接ゾーンだ。コーヒーを運び終えると、貴範の正面に美葉もタブレットを手に着席する。美葉がタブレットをタップしている間に貴範がコーヒーを一口飲み、わずかに口元を緩めたのがわかった。
「今、本日の予定をお送りしました」
美葉が告げると貴範はカップを置きノートパソコンを手にしたが、すぐにそれを脇に置いて立ち上がり、窓のシェードを下ろし始めた。
「私がやります」
「いや、座っていてくれ」
明日から眩しい時はシェードを下ろしておかなければ。
美葉が脳内にメモしていると、貴範が背中越しに言い足した。
「社長秘書室は常にシェードが下りている。高いところが苦手なんだろう」
「いえ、あの……」
実はそうなのだが、もったいない眺めを否定するようで美葉は口ごもった。
「どちらかと言えば地面が好きですけど。鳥がいて、風に草木がそよいでいるような」
こんな説明は要らないだろうなと思いつつ、仕事以外の会話という異例の状況に焦った美葉の口が勝手に喋った。するとソファに戻り腰を下ろした貴範が驚くことを口にした。
「お父さんは庭師をされているんだったな」
「…………」
すぐに言葉が出てこなかった。彼が美葉のプライベートについて初めて触れたということももちろんだが、美葉が驚いたのは、それが八年前に食事に連れていってもらった時に何気ない会話の中で美葉が語ったことだったからだ。彼の中ですぐに消去されたと思っていた。
「始めます」
「は、はい」
ぴしりと鞭打つような声が響き、慌ててタブレットを注視する。貴範の記憶力が尋常ではないというだけのことだ。彼の言動にいちいち感情を見せていてはまた突き放されそうだ。自分は事務用品だと念じてひたすら伝達事項を並べていく。
「こちらのお打ち合わせの資料は前回の内容を反映したものを作成し、参考データとともにさきほどお送りしています」
「前回の資料も君が?」
「はい」
何か不備があったのかと美葉が顔を上げると、貴範は手元のパソコンを操作しファイルを開きながら言った。
「過不足なく、打ち合わせの流れに則していて非常に使いやすい資料だった。ありがとう」
「…………」
望外の評価にまたも言葉が出てこない。
「今回もこれで大丈夫です」
「はい、ご確認ありがとうございます」
美葉が動揺している間に彼はさっさと資料の内容を確認し、簡潔に了承を伝えてくる。巨大企業の総帥は多忙なので大仰なリアクションなど求めていないのだ。
ブリーフィングを終えて美葉が自席で仕事を始めていると、貴範がフラワーアレンジメントを持ってやってきた。前日に祝賀で届き、特別豪華で美しかったので美葉が執務室に入れておいたものだ。
「どうかなさいましたか」
「君のところに置くか?」
「えっ……」
遠慮すべきところだが、美葉は思わず目を輝かせてしまった。花が届くことはよくあるが、これは美葉が好きな花ばかりだったのだ。
「ここに置いておくので好きに変えてくれ」
貴範は美葉の返答を待たずデスクの隅にアレンジメントを置くと、さっさと執務室に戻っていった。相変わらず笑顔一つなく、感激する美葉の反応を見る気もない。
それでも可愛らしい花を前に美葉の気分は浮き立った。アレンジメントを手に取り、愛おしく眺める。いろんなものを切り詰めなければならない生活の中で、美葉にとって花を買うことは滅多にできない贅沢だった。
「お日様の光が恋しいよね」
高所からの眺望は苦手だが、自然の花の美しさには太陽光が似合う 気がしてシェードを上げる。その際につい眼下の景色に目をやってしまい、美葉は逃げるように窓から離れた。
花が水不足にならないか、アレンジメントを壊さないよう根元に指を差し入れてオアシスの湿り具合をたしかめると、美葉は顔を緩ませながら仕事に取り掛かった。
ところが、事件は昼過ぎに起きた。
その日の貴範は前日の過密な業務とバランスを 取るための調整日で、午前中と夕刻に海外拠点とのウェブ会議がある以外は在席予定だった。そのため美葉も普段ほどにはタイムキーパーのように貴範の時間を気にする必要がなく、書類仕事に集中できた。
資料作成に没頭してキーを打ち続けていた美葉はふと手を止めた。視界の隅で何かが動いた気がしたのだ。パソコンのすぐ脇に視線を向けた美葉は、何が起きたのかしばし理解できなかった。
それは美葉にとって身の毛もよだつような光景だった。都心一等地のランドマークタワー最上階の社長秘書室にはありえないもの──むくむくと太った青虫が美葉に向かってまっしぐらに接近していたのだ。
庭師の父の影響で美葉は幼い頃に草花に親しんでいたが、毛虫と青虫が飛んで逃げるほど苦手だった。
それはすごい速さで這ってくる。衝撃のあまり硬直していた美葉は、自分が手を置いているキーボードの上に青虫が這い上がってきた時、思わず悲鳴を上げて飛びのいてしまった。
「い……嫌ーっ!」
はずみで美葉は床に尻もちをつき、椅子が派手な音を立てて倒れた。悲鳴はさほど大声ではなかったが、美葉は慌てて手で口を押さえた。静かな社長室フロアでこんな声を上げるものではない。
ところが次の瞬間、美葉の悲鳴よりもすごい音を立てて貴範が飛び込んできた。
「どうした!」
常に感情をコントロールし威厳を保ってきたあの貴範が、今は血相を変えている。床に座り込んでいた美葉は一瞬恐怖も忘れて呆気に取られた。こんなに慌てふためいている貴範は見たことがない。
「大丈夫か!」
貴範が駆け寄ってくる。青虫だと知ったら、きっと貴範はそんな下らないことで騒ぐなと激怒するだろう。
しかし美葉を助け起こそうとしてこちらに屈み込んでいる彼の背後のデスクの端に青虫が 現れたのを見て、美葉は震え上がった。
「あ……青虫が」
「……何だって?」
「青虫がデスクにいるんです……っ」
デスクの縁を青虫が這い始め、美葉の声が恐怖で揺れる。
黙って立ち上がりデスクを眺めた貴範は「こいつか」と呟き、小さなメモ用紙を一枚取って青虫をのせた。
「そんな小さな紙で……!」
すぐに手に上ってきそうだ。恐れをなしてできるだけ遠く窓際まで逃げた美葉に、貴範の冷静な指摘が入る。
「そこに逃げるのはいいが、背後は君の苦手な高層階の窓だぞ」
「うっ……」
つい後ろを見てしまった美葉は声なき悲鳴を上げる。今朝のブリーフィングで高所恐怖症を否定したのに、貴範にはばれていたようだ。
「アレンジメントにいたんだな」
デスク周りを見回していた貴範の言葉に鳥肌が立つ。考えないようにしていたが、朝からずっと青虫と一緒に仕事していたことになる。しかも何度もアレンジメントを撫で回してしまった。
「庭師の娘じゃなかったのか?」
「そ……そうですけど」
美葉はまともな言い訳を探したが、彼が手にしている青虫の動向が気になって何も考えられなかった。
「どうなさるんですか」
「どうって、潰すしかないだろう」
「ま……待って」
貴範がもう一枚メモ用紙を取って青虫に被せたので、美葉は見ていられず顔を背けて思わず止めてしまった。青虫は苦手だが、目の前で命を絶たれるのは忍びない。
「蝶になるのに」
「じゃあ戻すのか?」
貴範の返答は単純明快だった。始末しないなら当然だ。美葉は何も言えずに慄いた顔で貴範を見つめた。
するとそんな美葉の顔を見つめた貴範はあっさりと頷いた。
「わかった」
貴範はそう言うと、いったいどうするつもりなのか青虫を持ったまま廊下に出て行った。
手をもみ絞りながら彼の帰りを待ったが、なかなか戻ってこない。しっかりしろと自分を叱咤し、美葉は用心深くそろそろとデスクに近づいた。倒れた椅子を起こし、青虫の仲間が潜んでいるのではないかと怯えつつデスクを整える。社長をサポートする秘書ともあろう者がこんな下らないことで迷惑をかけるとは、自分が情けなくて仕方がない。貴範もさぞ呆れていることだろう。
しばらくしてようやく貴範が戻ってきた。
「申し訳ありませんでした」
彼を見るなり美葉は深々と頭を下げたが、貴範は「ああ」と軽く頷いただけで立腹している様子はない。
「あの、どうやって……」
とりあえず姿はなくなったが、顛末がわからないので落ち着かない。質問しかけたところで美葉は彼がまださきほどの紙を持っていることに気づき、思わず後退りした。
「そんな汚いものを見るような目で僕を見ないでくれるか」
「す、すみません」
美葉は小さくなって謝った。すると貴範は少し歯切れ悪く言い足した。
「潰してはいない」
「…………」
「ロータリーの植え込みには近づかない方がいい」
どうやら彼はわざわざ一階まで降り、外に出て植え込みに青虫を移してきたらしい。
「あれを持ってエレベーターに乗ったんですか」
「仕方がないだろう。他にどうやって四十二階から一階まで降りるんだ」
貴範が不機嫌そうに答える。
彼には申し訳なく謝りようがないのだが、美葉は突如笑いがこみ上げてきた。雲の上の人である彼が青虫をのせた紙を手に真面目腐った顔でエレベーターに乗っているのだから、さぞ社員たちの注目を集めたことだろう。さきほどこの部屋にいた時、紙が小さすぎてすぐに青虫が手に到達しそうになり、彼は始終紙をひっくり返していなければならなかったが、エレベーターでもそうだったはずだ。
その様を想像した美葉は噴き出しそうになり口に手を当てて堪えた 。それを見た貴範は一瞬怒ったような顔をしたが、我慢しきれなかった様子で笑い出した。 つられて美葉も笑い出す。日本のトップ企業の社長室で何をやっているのだと、自分たちが滑稽で笑ってしまった。
貴範が執務室に戻ったあと、美葉はお詫びにコーヒーを淹れようと思い立ってパントリーに向かった。
ドリップから落ちる雫を眺めながら、美葉は先ほど見た彼の笑顔を何度も思い返していた。ふとそんな自分に気づき、心許ない気分になった。
束の間の和んだ空気が心地よく、ずっと浸っていたくなる。彼の笑顔や優しさに何かを探そうとしてはいけないのに──。
「あれっ、こんな時間にお昼?」
かなり遅い午後、美葉が栖川ビル内のカフェテリアでお弁当を開いていると、休憩を取りに来たらしい真理子が声をかけてきた。ちょうど卵焼きを口に運んでいた美葉は返事の代わりに手を振り咀嚼を急ぐ。
「ごめんごめん、ゆっくり食べて。いつも忙しいんだから」
真理子がカフェラテのカップを手に美葉の前に腰を下ろす。
社長秘書の一日は世間がイメージしているより地味で孤独だ。大所帯の部門のように大部屋に席があればお昼を一緒に食べる仲間もできるが、社長秘書は業務の性質上、他の社員から隔絶された環境にある。しかも社長のスケジュールとともに動いているので昼食をとる時間もまちまちだ。そのため一人で食べることが多い美葉は昼食代の節約もかねて毎日手作りの弁当を持参していた。
「いつ見ても渋いねぇ、美葉ちゃんのお弁当」
「ばかにしてますよね」
ようやく口をきけるようになった美葉は拗ねたふりをして笑った。
幼い頃から母に代わり台所に立っていたせいで、美葉は料理が得意だ。でも決して人前で披露できるようなお洒落なものではない。今美葉が食べている弁当も地味な総菜を安価な保存容器に詰めただけの質素なものだ。
「朝から作るの面倒じゃない?」
「そうでもないですよ。作り置きのお惣菜が多いし、朝作るのは卵焼きぐらい」
「いや、無理だわ。私なら一秒でもメイクに時間かけちゃう」
その言葉の通り、真理子はいつもさりげなく流行を取り入れたファッションに完璧なヘアメイクだ。
「毎朝大変よ。だってこの顔、特殊メイクだからね」
真理子の冗談に美葉は噴き出しそうになった。
本人は目鼻が小さくて地味だとよく嘆いているが、美葉は真理子の上品な顔立ちがとても素敵だと思っている。どこかのお嬢様らしいが、まったく気取ったところがない。社長秘書ということもあって他の秘書たちから距離を置かれがちな美葉にいつも声をかけてくれる心優しい先輩だ。
「社長とは少しは打ち解けたの? 青虫事件もあったし。あれは珍事だったねぇ、見たかったわ」
先日の青虫の一件はやはり社内で話題になっていたらしい。しかしあれ以来鉢植えやアレンジメントが届く度、貴範の〝検品〟が入ることは誰も知らないだろう。美葉のことを遠ざけたがっている割に彼は世話焼きだ。
「前よりは少し、ましにはなりましたけど」
会食などで外出した際の美葉への〝差し入れ〟も何度かあった。決まって抹茶味なのは美葉がそれを好きなことを知っているのか、それとも偶然なのか。
距離感は相変わらずなのに、ふとした時にそんな優しさを見せられると惹かれてはいけないという戒めを忘れてしまいそうになる。二人の間にあった壁が瓦解するにつれ、美葉の息は苦しくなっていた。
彼に惹かれ、それを認めてしまったら最後、心が戻れなくなることはわかっていた。そうなればどれだけ美葉が隠そうとしても自ずと貴範に伝わってしまうだろう。七年前の失恋を繰り返すことだけはしたくなかった。傷つくことも、ここにいられなくなって収入を失うことも。社会的な格差で悩んだ七年前と違い、貴範が妻ある身となった今はもっと絶望的だった。
弟の経済扶助に目途がつくまであと二年ほど。それまでここにいるために、彼を好きになってはいけないのだ。
貴範の話題はまだ続く。真理子が何かを思い出したらしく、カフェラテのカップを置き大仰に手を打った。
「そうそう、昨日のテレビ放映観た? 栖川社長が出演した対談番組。最高だったよ」
「あ……私、部屋にテレビがないんです。収録はちらっと見たんですけど」
「えーっ、じゃあオンデマンドとかで観てよ。カメラアングルだとまた違うから。トーク内容もすごいし、こんな社長の会社に勤めてるんだと思うと誇らしかったわ」
その番組の収録は栖川ビル社長室の応接ゾーンで行われたので、美葉も実際に目にしている。
それはアメリカの著名な経済アナリストとの対談企画で、事前に経営企画部が参考資料をまとめたものを用意していたが、貴範はほぼそれを見ることなく様々な分野に及ぶ質問に答えていた。機知に富んだ回答は理路整然としてロジックに乱れがない。自社の事業ビジョンだけでなく、世界の市場が抱える問題点やこの先の展望まで、柔軟かつ先鋭的な見解を述べた。
彼が有能であることは今更言うまでもないが、仕事の折々で感じるのは彼の脳の瞬発力だ。かと思えば真面目腐った顔で美葉のために鉢植えの検品をする。
彼に惹かれるまいと踏ん張る美葉に攻撃を仕掛けるように日々目にする彼は魅力的で、そして愛すべき人間臭さがあった。
弁当を食べ終えると美葉は真理子と別れ、総務部で郵便物などを受け取って社長秘書室に戻った。業務の合間にひたすら開封作業に追われていた就任当初に比べると郵便物の量も落ち着き、普通にこなせるようになっている。
手際よく開封作業を進めていた美葉の手が一通の封書で止まった。しばらくそれを見つめていた美葉はぽつりと呟いた。
「今年も……そうよね」
それは酒造会社が毎年開催するパーティーの招待状だった。夫婦で参加することになっており、昨年までは栖川会長夫妻が出席していた。今年は貴範が引き継ぎ、彼の妻とともに出席することになるはずだ。
真理子と軽い調子で喋っている時は気が紛れているが、貴範が妻ある身であることをこうして意識させられる度、美葉は本当の自分を知る。
再会しなければ忘れて生きていけたのに──。彼のことも、恋をすることも。
たった一人で上京して家族を支えようとしてきた美葉にとって、恋は遠い贅沢だった。自分が背負う責任だけで精一杯で恋にうつつを抜かしている余裕などなかったから、七年前のあの失恋だけで十分だったのだ。
あの頃痛手を忘れるために貴範を恨んだりもしたが、あれから出会う誰にも同じような感情を抱くことはなかった。
人が心の底から純粋に恋をすることは人生に一度しかないという。美葉のそれは、あの時に終わった。それでよかったのに。
美葉は止まっていた手をまた動かし、用件をまとめて執務室に向かった。心を消してひたすらに仕事をしていればいい。いつかここを去る日まで、そうするしかないのだ。
「堀口です。今よろしいでしょうか」
「どうぞ」
貴範は午前に成田着でアメリカから帰国し帰社したばかりなので疲れが残っているはずだ。簡潔に済ませてあげなければと、美葉は執務室に入るとすぐにまず一つ目の用件を切り出した。
「総務からタクシーチケットが通常の二倍届いていますが、これでいいでしょうか」
タクシーチケットは美葉が総務に手配を依頼しているが、今回例月の二倍量が届いていた。間違って届いたのかもしれないが、総務に返す前にとりあえず確認する。
すると貴範はこともなげに言った。
「半分は君の分だ」
「えっ?」
美葉は目を丸くした。
「……私がいつ使うのでしょうか」
「朝晩の出勤時と帰宅時だ。この間、社用車を断っただろう」
少し前に美葉も送迎の社用車を使うべきだと貴範に言われたことがあった。社長より早く出社し、夜も残業で遅くなることが多いのだからと。
それを聞いた美葉はとんでもないと固く辞退した。そんな法外な待遇を受けるわけにはいかない。それに、これは貴範には言わなかったが、社用車で会社玄関に乗りつけるようなことをしたら余計に他の秘書たちに睨まれてしまう。
「あれは僕の考えが至らなかった。すまない。君の立場が悪くなるからだろ?」
「い、いえ……」
貴範に理由は言わなかったのに、彼はちゃんと察してくれていた。まさか謝られるとは思いもしなかったので咄嗟に言葉が出てこない。
「だが、君はおそらく社内で最も拘束時間が長い勤務状態だと思う。安全面や体調管理面でも負担がないよう配慮をすることは僕の責任だ」
たしかに普通の社員と違い秘書は労働組合に属しておらず、勤務状態の管理基準は曖昧だ。それでも彼自身が最も多忙で計り知れない重圧を抱える立場なのに、こうして美葉の勤務状態を気にかけてくれていたことに胸が熱くなってしまった。
しかし、今美葉に向けられている優しさはあくまでも仕事のパートナーに対する配慮で、それ以上でもそれ以下でもない。
「タクシーなら目立たないから問題ないか? むしろ社用車でない方が融通がきくから君には使いやすいだろう」
「……はい。ありがとうございます」
美葉は通常分の発注しかかけていないので、貴範が自ら総務に連絡したに違いない。断ろうとしても押し切られるだろうし、ありがたく受けることにした美葉は深々と頭を下げた。
「強制ではないが、最寄駅から自宅までだけでも使ってほしい」
「はい」
使わなければばれて注意されるのだろうなと考えながら、美葉は次の案件の封書を取り出した。
「夏は変な奴が多いからな」
「え?」
「何でもない。次は?」
「は、はい」
貴範の言ったことがよく聞こえなかったので美葉が聞き返すと、なぜか怒ったような顔で用件を促された。
「こちら、例年出席しているパーティーの招待状です」
貴範は主催企業名を見て「ああ」と頷いた。
「ワインの試飲会も兼ねているもので、夫婦での出席が通例だそうです。昨年まで栖川会長は奥様とご一緒に出席されていました。奥様のお名前を入れて出席で連絡してよろしいでしょうか?」
すると貴範が怪訝そうに顔を上げた。
「奥様?」
「はい」
「誰の奥様?」
「社長の、奥様……ですが」
ここで貴範は美葉にとって驚くべき事実を口にした。
「僕に妻はいないが」
「……えっ?」
貴範が言った言葉を頭の中で繰り返したが、何度考えてもその意味しかない。
「あの……栖川麗佳様は?」
「栖川麗佳は僕の母だ」
「す、すみません」
不躾に尋ねたせいで貴範のプライベートに立ち入った形になってしまい、美葉は恐縮して謝った。
貴範はそのことを気にしている風ではなく、淡々と説明を加えた。
「栖川会長の前妻です。離縁後も栖川姓を名乗っている」
ならば友基に見せられたあの画像の婚約者──貴範の幼馴染で、橘グループの令嬢だというあの美しい婚約者は?
破談になったのだろうか。それとも一度結婚して離婚?
自分の大きな勘違いを突然知った美葉はなかなか飲み込めずに考えたが、さすがに貴範にそこまでは聞けない。
ところがここで投下された貴範の指示に、美葉の困惑はそれどころではなくなった。
「その日が残業になって申し訳ないが、僕の同伴者を君の名前で連絡してくれ」
「えっ?」
能無しのようにこの反応ばかりで申し訳ないのだが、やはり自分の耳が信じられずに美葉は聞き返してしまった。
「何か予定が?」
「いえ、何もないです。ただその、秘書でいいのでしょうか」
パソコンに視線を戻していた貴範は再び顔を上げ、何がおかしいんだという表情で美葉を見た。
「妻がいなければ秘書を伴うのが妥当だろう。アメリカではそうしていた」
「あ、は、はい」
そうか、そういうものなのかと、貴範のペースにのまれてわけもわからず頷いたが、美葉は重要なことを思い出してさらに抵抗した。
「まったくワインの知識がないのですが」
「僕がいるから大丈夫だ」
「それに飲めません」
なおも美葉が食い下がると、パソコンに視線を戻していた貴範が再び顔を上げた。
「僕が飲むから構わない。君は僕の隣にいてくれるだけでいい」
「は……はい」
まっすぐな彼の視線。
〝君は僕の隣にいてくれるだけでいい〟
これはあくまでも仕事だとわかっている。しかし貴範に妻がいなかったという事実と一緒にパーティーに行くという現実が同時に押し寄せてきて、美葉は心の底まで公に徹することができなかった。表情を読み取られることが怖くて、美葉は彼の目を避けデスクに視線を落とした。
「承知しました」
「よろしく頼む」
美葉の事務的な承諾に返ってきた のは、やはり事務的な言葉。
そう、これは仕事。
それでも執務室を出る美葉は 速まる動悸を鎮めることができなかった。
彼に妻はいない。ただそれだけで、近づくことが叶わない距離 は八年前と何ら変わっていないのに。何も望んではいけないのに──。
パーティーの当日を迎え、美葉は緊張しながら会場となるホテルのロビーラウンジで貴範を待っていた。
準備時間が早すぎたせいで約束の時間までまだ小一時間ある。でもドレスアップに慣れていない美葉はこの格好で歩き回る度胸がなく、また時間を潰せるような場所もわからず、長居して申し訳ないと思いつつロビーラウンジにいるしかなかった。
この日、美葉は終日出張扱いで出社していない。パーティーは夕刻からなので、美葉はそれまで通常通り勤務するつもりだったのだが、貴範から出張扱いで休むように言われた。
『……何のために?』
『女性は支度に手間がかかるだろう。普段忙しい分、たまにはゆとりがあっていい』
出勤しなくていい理由を美葉が問うと、貴範はさらりと答えた。
『嫌でなければ僕が準備に立ち会うが』
『い、いえ! 結構です』
超がつく多忙な彼に、そんなことで時間を無駄にさせるわけにはいかない。彼の過密スケジュールを管理している当事者である美葉は、断じてならぬという勢いで断った。そのせいでまるで嫌がっているような印象になってしまったが、貴範の方がもともと美葉を遠ざけたがっているのだから気にしなくていいだろう。磨いたところで代わり映えはしないだろうし、見ていて有意義なものでもないはずだ。
すると貴範は少し素っ気なく言った。
『だったら費用はすべて経費請求してくれ』
この事務的な台詞でその場の会話は終わったのだが、あとになって美葉は悩み始めた。
パーティーって、どんな服を着ていくもの?
貴範に出席を指示された当初、こうした場を実際に経験したことがない美葉は秘書なのだから普段の仕事着である黒いスーツで行くものだと思っていた。しかし『女性の支度には手間がかかる』という貴範の言葉をよくよく考えてみれば、普段の黒いスーツではないことは明白だった。
もちろん美葉がパーティードレスなど持っているはずがない。何度も貴範にそれを申し出ようと迷ったが、ドレスをねだっていると思われそうで言いにくい。そんな疑いをかけられるぐらいなら少々みすぼらしくても自前でドレスを用意したい。とはいえ場違いな格好で貴範に恥をかかせたくない。
思い悩んだ美葉が頼ったのは真理子だった。
『えーっ、社長とパーティーに行くの? いいじゃない!』
事情を聴いた真理子ははしゃぎ、張りきって協力してくれた。
『普段の黒いスーツにコサージュとかアクセサリーをつけるとかでいいでしょうか。代理なのにあまり頑張り過ぎるのもおかしいし』
美葉がこう言うと、真理子は呆れ返って断言した。
『何言ってるの。社長のためにドレスアップすることが礼儀でしょ』
真理子に背中を押されてようやく美葉は遠慮を捨てたのだが、そうなるといよいよドレス選びが悩ましくなる。
『ここなら栖川商事が最近日本での販売権を獲得したブランドだから、気のきく秘書だって見直してくれるんじゃない?』
真理子に連れていかれたブティックは海外の人気ブランドだったが、そもそもブティックというものと無縁だった美葉は居心地が悪くて選ぶどころではない。店員の態度はどこか冷ややかで、客の値踏みをするような視線に自分の田舎臭さを透視されているような気分になる。
『感じ悪いわね。栖川社長の秘書ですけどって言ってやったら?』
『やめてくださいよ。社長が恥をかくじゃないですか』
真理子を窘め、恐る恐る値札を見た美葉はその桁数に目を剥いた。
『……ゼロの数が尋常でないんですけど』
『これ、円表示じゃないわよ』
高級品に慣れていないのをここでも晒してしまったが、円に換算してもやはり目の玉が飛び出るほど高額だった。
『すべて経費でいいって言われたんだからいいじゃない』
『ダメですよ! 秘書のドレスにこんな額が使われたら社員が泣きますよ』
それ以前に貴範には〝金目当ての女〟という認識に拍車をかけることになるだろう。
結局その店は諦め、いろいろ見て歩いた美葉はレンタルブティックに落ち着いた。レンタルといっても一流の仕立ての一点物を扱っており、著名人の顧客も多いという。これなら貴範に恥をかかせることはないだろう。
『経費にするでしょ』
『いいえ。こんな夢は滅多に見られないので自分で出します』
『えーっ、なんで?』
一日借りるだけでも結構な高額だが買うよりは安いし、美葉の財布でもなんとか工面できる。バッグも靴もコーディネートしてもらい、美葉はほっと胸を撫で下ろした。
そうして今、美葉はそのドレスに身を包んで貴範を待ち受けている。メイクはあまりやり方がわからないので普段通りだが、ホテルの美容室で髪をアップにしてもらった。成人式すら経験がない美葉はホテルの美容室など初めてだ。
『シャンプーのCMに出られそう』
美容師からは肌と髪を大層褒められた。お金がなくてパーマもカラーも一度もあてたことがないせいだろうか。ドレスの色も美葉の肌色と相性がいいと太鼓判を押され、少しだけ勇気をもらえた。アクセサリーまでは手が回らず何も着けていないが、美葉にとってはこれが精一杯の盛装だ。
ロビーラウンジの美葉の席からはガラス越しにホテルの正面玄関が見える。パーティーに出席する客だろう、美しく着飾った客が到着し始めると、美葉は緊張でいよいよ落ち着かなくなった。メイクがおかしくないか、パウダールームを探そうと思ったその時、栖川商事の社長送迎車がロータリーに滑り込んできた。貴範の到着だ。
車が停止しドアが開くのを美葉は瞬きもせず見つめた。毎日会社で顔を合わせているのに、どうしてこんなに彼の姿を求めてしまうのだろう。車から降りる際に少し頭を屈める所作すら映画のワンシーンのように美しい。ロビーラウンジの席で美葉は一人で頬を染め、ドレスの膝を握り締めた。
あの彼の隣に立つなんて、たぶん心臓がもたない。
こっそり逃げてしまいたくなったがその間もなく、ロビーに入ってきた貴範はすぐに美葉を見つけた様子でまっすぐにこちらにやってくる。貴範の目に自分がどう映るのかを知るのが怖くて、美葉は視線を伏せたまま立ち上がってお辞儀した。
「あの……お疲れ様です」
いつまでも目を合わさないわけにもいかないので顔を上げると、貴範は少し驚いたような表情で美葉を見下ろしていた。今まで見たことのない色を浮かべた目をおずおずと見つめ返す。
「あの……」
「綺麗だ」
おかしいでしょうかと口にしようとした時、貴範が我に返ったように一言答えた。それから彼はなぜか少し慌てた顔になった。
「職場のスーツ姿の君も、普段の君も、僕は綺麗だと思っているが」
〝普段の君〟といっても美葉はスーツで通勤しているので、他に貴範に披露した格好は七年前の古びたセーター姿しかない。まさかそんなはずはないし単なる言葉の綾だと、美葉は蘇りかけた過去の記憶に慌てて蓋をした。単に彼は着飾った時だけ褒めるのは失礼だと思ったのだろう。
「場違いではないですか?」
美葉が恐る恐る尋ねると、貴範は今度ははっきりとした口調で答えた。
「パーフェクトだ。清楚な雰囲気によく似合ってる」
まさか貴範にそんな言葉をかけてもらえると思っていなかったので美葉は真っ赤になってしまった。心をどれだけ隠そうとしても、染まる頬は正直だ。
顔を伏せて貴範に続きロビーラウンジを出る。彼は会場に向かうエレベーターホールではなく、パウダールームの方向に足を向けた。
「寄るか?」
「あ……はい」
パウダールームに入り、ほっと一息つく。こちらが言い出さなくてもさりげなく女性の希望を汲んでくれる彼の配慮が心強かった。
鏡にはワインも飲んでいないのに上気した自分が映っている。
クリーム色に近いアイボリーのシルクタフタ素材のドレスは、赤でも白でもワインの色を引き立てる背景として選んだものだ。秘書としての立場上もワインの試飲会というその場の目的からも、あくまでも引き立て役であることを大切にして選んだが、思いがけず貴範から似合っていると褒めてもらえたのが嬉しかった。
軽く頬をパウダーで押さえ、薄くリップを塗り直して外に出ると、貴範が壁に寄りかかって待っていた。
「あっ、ごめんなさい」
慌てて美葉が駆け寄ると、彼は口元に柔和な笑みを浮かべて壁から身を起こした。見たことのない寛いだ表情に目を奪われる。
「謝らなくていい。エスコートする身はこうやって待つのが嬉しいものなんだ」
一般論として言ったのだろうが、彼の言葉と表情にまるで傅(かしず)かれているような錯覚に陥りそうになる。
彼はただこの場の目的に合わせているだけ。
これも仕事なのだと自分に言い聞かせながら彼に誘導され会場に向かう。
パーティーはオープニングイベントのあと、立食で自由に食事とワインが楽しめる。酒造会社の社長は栖川会長時代に何度か顔を合わせたことがあったので、美葉も緊張せず挨拶を交わせた。
夫婦でワインを楽しんでほしいという趣旨のパーティーということと例年お馴染みの顔ぶれであることから、会場内はさほどビジネス色はなく和やかに歓談する姿が多い。しかし参加企業の代表格である栖川商事の新社長が初めて顔を見せたとあって、貴範への挨拶を求める出席者は列をなす勢いだった。 貴範はそうした挨拶を上手に中断しては美葉のために料理を取るなどして、常に美葉が手持無沙汰にならないよう気遣ってくれる。料理を取ることに少し気後れしてしまう美葉にはとてもありがたかった。
「あっ社長、それ私の飲みかけ……」
ワインを飲めない美葉が新たに勧められないよう形だけ持っているグラスを彼が取り上げ飲み干したので、美葉は慌てた。
「これを代わりに」
先ほどの赤ワインに代わり、今度は白ワインを渡される。たしかに同じグラスをいつまでも持っていると、絶えずウエイターが新しいワインを勧めに来る。その度にグラスを空けなければならないようで、美葉はいつウエイターが自分のところに来るかとびくびくしていた。美葉が初顔だからなのか、ワイン初心者であることが何となくわかるのか、貴範と離れると途端にウエイターやソムリエに捕まってしまうのだ。その度にすぐに貴範がやってきて助けてくれる。
美葉をじっと見つめて貴範が言う。
「何杯か飲んだだろう」
「……はい」
彼のせいで最初から上気していた頬は、今はもっと火照っている。たしかに何杯かワインを飲んだが、今の火照りはそのせいだけではない。そのことを彼に悟られないよう、美葉を見下ろす彼の視線を避けるように目を伏せた。
「無理して飲まなくていい。君の代わりに僕が飲むから」
貴範が身を屈めて耳打ちするように小さく言う。
「でも社長は大丈夫ですか?」
「僕はザルだ」
彼は軽く笑うと美葉のために席を確保し、ミネラルウォーターと料理の小皿を美葉のために取ってきた。好物の魚介のマリネと焼き立ての香ばしいバゲットに美葉は思わず微笑んだ。
普段会社にいる時、彼は美葉に業務以外で無駄に雑用をさせたりせず自分でやってしまうが、ここでも美葉に自分の世話をさせないばかりか、まるで美葉が宝物であるかのように一切何もさせずかいがいしく面倒を見てくれる。上流社会の紳士はそういう流儀なのかもしれないが、こうしたことが初めての美葉はくすぐったくてたまらない。
この感覚──。
傍らで歓談する彼を見つめる。
大切に守られ甘やかされる安心感。この人の傍にいれば何も怖がらなくていいと、満ち足りて本当の自分に戻るようなこの感覚は、初めてではない。七年前、彼と過ごしたほんのわずかなあの時間に感じていたものだった。家庭の支柱となるためこれまでの人生のほとんどを誰かに頼ることなく生きてきた美葉にとって忘れられない幸せだった。そしてそれは彼にしか抱けない感情だった。
どれだけ抵抗しても、誰かに恋をする心は他のすべてを凌駕する。彼が栖川商事の社長であろうとなかろうと、彼に恋をすることは宿命だったのだと思う。七年前も今もこれからも、たとえ叶わない恋でもそれはずっと変わらない。美葉は自分の人生唯一の恋がそこにあることを認めた。
「デザートにするか?」
挨拶に来る客をかわし、貴範が身を屈めて美葉に優しく尋ねる。彼の言葉も行動も眼差しも、まるで恋人のように穏やかで甘い。これがこの場限りの設定だとわかっていても彼の優しさに夢を見ていたくなる。
「苦手なものは?」
「ええと……ないです」
貴範が持ってきてくれるものなら、たとえ苦手なものでも苦もなく食べてしまえるだろう。美葉は遠慮を捨てて貴範を見上げて微笑んだ。
ところがその時、二人の背後から女性の声が響いた。
「貴範さん」
パーティーとはいえ公の場で彼の下の名前を呼ぶ声に、貴範も美葉も驚いて背後を振り返った。
そこには美しい女性が嫣然(えんぜん)とした微笑みを浮かべて立っていた。
(この女性は──)
いつか直面することになるだろうと無意識に恐れていた現実。 それはこの七年間、美葉が失恋の決め 手として記憶から消すことができなかった橘グループの令嬢──貴範の元婚約者だった。
彼女は美葉に視線を走らせ、少し目を見開いたあと敵意のある冷ややかな目になった。それは一瞬のことで、彼女はすぐに笑顔を作り貴範に視線を戻したが、美葉には彼女が自分を不快に思っていることがはっきりと感じられた。
「今日の午後、ヨーロッパ出張から帰国したばかりなの。貴範さんも出席するって言うから急いだけど、かなり遅刻しちゃったわ」
〝久しぶり〟などという挨拶もない話しぶりからして 普段から貴範と接点が多いことが 窺えた。美葉が会社で関わる範囲内では、橘グループとは社長とのビジネスに徹した連絡のみだ。ということは婚約が何らかの形で破談になったとしても、彼女は今でも貴範のプライベートに食い込む間柄なのだろう。一瞬でも夢を見かけていた美葉は冷水を浴びせられたように感じた。
貴範の口から彼が独身であることを聞かされたあと、美葉は友基にその経緯を尋ねたことがある。すると友基は曖昧に濁してこう言った。
『あの二人は長すぎた春ってやつだろうな』
長すぎた春とは、実際に何があったのか。他所の家庭のプライバシーでもあり、相手が友基とはいえ濁されたのは言えない事情があるのだと理解するしかなく、それ以上尋ねることはできなかったが、友基は意味深な言葉も残した。
『兄貴の行動にはすべて計算がある』
この言葉が何を指しているのかもわからなかったが、少なくとも貴範が元婚約者といまだに接点があることは〝長すぎた春〟という友基の言葉が事実とそう遠くないことを裏付けている。うたかたの夢から覚めた美葉は認めたばかりの恋の現実を受け止めなければならなかった。
「会長も来てるのよ。あ、こっちに来るわ」
彼女が振り返ったところで恰幅のいい高齢の男性がやってきた。橘グループの会長であることは美葉も写真で 知っている。アパレル業界最大手の橘グループは栖川商事とも取引がある。
「おお、貴範くん。君が帰る前に間に合ってよかったよ。折り入って大事な話があってね。酒でも飲みながらと思ってたんだ」
最初に彼女が登場した時から美葉は礼儀正しく立ち上がって傍に控えていたが、彼らは明らかに貴範の同伴者である美葉などまるで存在していないかのような態度だった。
ところが彼らが喋り続けているのを無視して、貴範が突然割って入った。
「こちら、橘グループの会長だ。君も知っているだろう」
一歩下がっていた美葉を貴範が振り返り、前に出るように背中に手を添え自分の隣に立たせた。
それから貴範は橘会長ににこやかな笑顔を向けた。
「僕の秘書です」
「栖川の秘書を務めております堀口と申します」
背中にそっと添えられた手に勇気をもらい、美葉も急いで挨拶する。貴範は自分の同伴者という美葉の立ち位置を尊重したのだろう。
「会長の橘です」
なぜ自分が秘書の小娘などに挨拶しなければならないんだという不満がありありと見て取れたが、一応は橘会長も挨拶を返した。
続いて彼女が進み出る。
「橘恭香(きょうか)です。いらっしゃるのに気づかなくてごめんなさいね」
ここで彼女は美葉に笑顔で毒を含む針を刺した。
「でも昔と全然変わってないのね」
恭香が登場した時、貴範と美葉は顔を寄せて会話している最中だったうえ、恭香は美葉を冷ややかな目で一瞥していた。だから美葉に気づかなかったというわざとらしい謝罪は存在に気づかないほど美葉の影が薄いという意味を持たせる意図的な非礼だ。
しかしそれより、二つ目の言葉はさりげなく美葉のプライドを挫くものだった。必死で着飾っても、美葉は古びたセーターを着ていたあの頃とまったく変わっていないという意味だ。女性特有のこうした悪意には慣れているつもりでも、貴範の前で言われたことが辛かった。
恭香の攻撃はこれで終わりではなかった。
「あら、あなたのそのドレス……」
ここでいったん言葉を切り、美葉のドレスを眺めた恭香の唇の端がかすかに上がった。
「私が手掛けているレンタル商品よ。クチュールに手が届かなくても質の高いものに触れてほしくて立ち上げたの。ご利用くださったのね、嬉しいわ」
借り物であることを暴露され、美葉は眩暈を覚えた。
レンタルドレスであることは恥じることではないが、感謝と称してこの場でそれを明かすのは彼女の言葉そのままの意味ではないはずだ。〝クチュールに手が届かない〟という言葉がまるで施しを受けたような気分にさせる。恭香が纏っているのは目の覚めるような真紅のドレスで、最高級のブランド品であることは間違いなかった。
美葉は見栄を張りたいわけではないので何を言われてもいいのだが、貴範の顔に泥を塗ったように感じていたたまれず身を縮めた。
すると貴範の穏やかな声が響いた。
「ファッションが担う役割は多彩ですね」
貴範はそう言って微笑みながら美葉を見下ろした。
「ワインが主役であるこの場に相応しい、ワインを引き立てる色合い。その場の趣旨への敬意がドレスコードの根本的な思想です。そういう知性ある選択ができる秘書を僕は信頼しています」
そう言いながら貴範がなぜか愛おしそうな眼差しをくれたので、美葉は彼を見上げたまま頬を赤らめてしまった。ワインの酔いのせいだと思ってくれることを願い、視線を伏せる。
恭香の言葉のせいで惨めな思いでいたが、美葉がこの色を選んだ心遣いを汲んでくれたこと、そして信頼しているという言葉に救われる。この場をまとめるための口上に過ぎないのかもしれないが、それでも嬉しかった。
恭香は一瞬真顔になったが、すぐに微笑んだ。
「弊社のドレスがお役に立てて、これ以上嬉しいことはないわ」
秘書のドレスなどどうでもいいという顔つきでワインを飲んでいた橘会長がここで割り込んだ。
「ところでもうすぐお開きだが、このあと場所を変えて話せないか?」
貴範がちらりと腕時計を見る。
「ぜひお話をお伺いしたいのですが、今度改めてお時間をいただいてよろしいでしょうか。あいにくこのあと予定があります」
たしか美葉が組んだスケジュールではこのあとは何もないはずだ。貴範のプライベートの何かだろう。美葉は自分には不可侵の予定に彼が去ってしまうことにそっと小さく息を吐いた。
「その予定が終わってからでもいい。恭香と一緒に君と話がしたくて、実は今日もわざわざそのために来たんだ。もし早く終わったら連絡を入れてくれ」
しつこく念押しする橘会長たちと別れて社長送迎車を待っている時、美葉は貴範に頭を下げた。彼が〝次の予定〟に行ってしまう前に一言謝りたかったのだ。
「さきほどは社長に恥をかかせてしまい、申し訳ありませんでした」
「何がだ?」
美葉の唐突な謝罪に貴範は面食らった顔をした。
「あの……借り物のドレスで……」
「何を言ってるんだ。あの時言った通り、君はパーフェクトだ」
「でもレンタルだとわかるものだったみたいで」
「橘グループはうちの社の取引先だ。相手先の商品を身に着けることは最大の敬意だろう。何を謝ることがある? 僕は誰よりも知性ある選択をした君が誇らしかったよ」
橘恭香の言葉にはたしかに悪意があった。貴範は言及しないまでもそれを感じているのかもしれないが、恭香の前でも彼は堂々と美葉を称賛してくれた。それだけでもう十分だった。
「僕の方こそ悪かった。ドレスを選ぶのに休日の時間を使わせてしまったはずだ」
「いえ……楽しかったです」
様々に悩んで迷った時間は、あの時は認めていなかったが美葉にとって好きな人のために綺麗になりたいと願ったささやかな恋の時間だった。
しかし、貴範の次の言葉は美葉に現実を思い出させた。
「手間をかけさせて悪かった。すべて経費請求してくれ」
「……はい」
そう、これは仕事。こんなに綺麗な服を着て、こんなに煌びやかなホテルのロビーでライトアップされた街明かりを二人で眺めていても、彼にとってこれは仕事なのだ。最初からはっきりしていたことだった。美葉が浮かれ過ぎただけだ。
「社用車が遅れているようですが、次のご予定は大丈夫ですか?」
美葉はぐっと息をのみ込み、秘書としての自分に切り替えて尋ねた。彼が正確に予定をこなせるよう計らうのは美葉の責務だ。
「次の予定は君を自宅まで送り届けることだよ」
思いがけない貴範の言葉に美葉の胸が一瞬跳ね、切なく疼いた。
恋を認めた今だけはこれ以上の優しさに耐えられそうになかった。永遠に変わらない遠い距離。今も彼の傍にいる元婚約者。失恋したあの頃と何も変わっていないのに、美葉の恋心だけが募り続ける。
「そういえばデザートを取り損ねて悪かった。何か食べていくか?」
「いえ、大丈夫です。たくさんお料理をいただきましたから」
お願い、それ以上笑顔を見せないで。夢から抜け出せなくなるから──。
「あの、送っていただかなくて大丈夫です」
「そんなわけにはいかない。君を無事に送り届けるのは僕の役割だ。そんな酔った顔で電車に乗るな」
その時ちょうどタクシーがホテルの正面玄関に滑り込んできた。 送迎車ではなく客待ちのタクシーらしく、停留所に停車した。
「じゃああのタクシーに乗って帰ります。社長にいただいたタクシー券がありますから」
そう言いながら美葉はタクシーに向かって身を翻した。ところが駆け出そうとした時、履き慣れない高いヒールのせいでよろめいてしまった。
「では失礼し……あっ」
「危ない」
あっと思った次の瞬間、美葉は貴範に抱きとめられていた。
「ごめんなさい」
腰に巻き付く力強い腕の中から貴範を見上げた時、間近な距離にあった彼の視線に美葉は息をのんだ。貴範もまた動揺した表情を浮かべていた。なぜか動けず、時が止まったように見つめ合う。
「……すまない」
時間にすればわずか数秒だっただろう。貴範が我に返ったように美葉を立たせて身体を離した。
「し……失礼します」
再び向きを変え、ドアを開けて待っているタクシーへと駆け出した。まるで何かから逃げようとするかのように、なぜ自分がこんなに急いでいるのかもわからずに。
ホテル玄関からタクシーが滑り出し、夜の街明かりの中へと紛れ込んでいく。背後に残した貴範がどんどん遠くなる。もうじき彼も社長送迎車に乗り、美葉とはまったく違う世界に帰っていくのだろう。橘会長と恭香のいる世界へ。
冷たい窓ガラスにもたれて目を閉じる。無性に苦しくてたまらなかった。こうして一人で熱を冷ます時間が今の美葉には必要だった。ガラスの靴を脱いで、元の自分に戻るのだ。
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ご愛読ありがとうございました!
この続きは4月4日発売予定のオパール文庫『罪深く、君に溺れる 社長と秘書の再会愛』でお楽しみください!