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この愛、共存不可能につき 極道と女刑事 1

第一話


「頼む。組長になってくれ」
「……人にものを頼む態度じゃないのでは?」
 動揺しないよう、焦っていることに気づかれぬよう、長嶺琥珀は極力低い声をゆっくりと発する。
 琥珀は今、男に押し倒されている。
 こういうときは相手におびえた顔を見せてはいけない。弱気になっているとわかれば増長するかもしれない。
 感情の赴くままに行動するのなら、「不埒もの!」と怒鳴りながら股間のひとつでも蹴り上げたいところ。
 しかしそれができないのは、相手が慎重にならざるを得ない人間だからだ。
 おまけにここは……刑事部で使用されている捜査車両の後部座席である。
「姐さん、頼みます」
「ドス利かせればいいってもんじゃないっ」
 この男──不動仁は極道である。
 仙道組の若頭。歳は三十二歳。
 琥珀が知りえる情報では、仙道組のナンバーツーといわれ、かなり頭がよく腕の立つ男らしい。
 腕が立つのはなんとなくわかる。なんといっても体格がいい。身長は一九〇センチ近くあるだろう。手足も長く、スーツ姿に迫力がある。
 両手首は彼の片手で掴まれ、頭上で押さえられている。両脚は投げ出された状態で自由は利く。ただ琥珀が動きだせばすぐに押さえこまれてしまうだろう。
 ……隙がないのだ。
 股間のひとつも蹴り上げてやろうかと思っても、隙がないから余計に慎重になる。それでも動こうとすれば秒で脚を搦め捕られ完全に動きを封じられる。
 下手をすれば空いている手で首を絞められてもおかしくはない。
 そんな非道なことを……という気持ちは通用しない。相手は極道だ。
 顔つきも、渋みと華のある男前だ。……そう、とてつもなく男らしくていい男なのだ。ごついという意味ではなく、美丈夫と言っていいレベルで整っている。そして左目の下の泣き黒子に艶っぽさを感じずにはいられない。
 血腥い極道の世界に置いておくのはもったいない。
 彼にはぜひ、アクションスターにでもなってハリウッドを目指してくれと更生のための助言をしたい。
 そんな彼に「組長になってくれ」と言われ押し倒されている琥珀は、極道でも仙道組の関係者でもない。
 ましてや、「姐さん」などと呼ばれるいわれはない。
 琥珀は、一週間前まで地域の交番で人気者だった女性警察官、現在、捜査第一課の女刑事である。
「お嬢、俺がこんなに頼んでるんですから、お願いします」
「誰がお嬢ですかっ。とにかくどいてください。あなたからは殺気をガンガン感じて神経すり減りますっ」
「俺がお嬢に殺気なんか向けるはずがないでしょう。今俺のなかにあるのは純然たる性欲だけです!」
「もっと悪い! このバカタレが!」
「それっ、亡き組長と同じ口調! やはり姐さんは組長の娘……」
「うちの母の口癖ですっ!」
 これ以上つきあっていられるか。琥珀はイチかバチかの勝負に出る。反動をつけて上半身を上げ、仁に頭突きを喰らわせたのだ。
 いい勢いで身体が跳ね上がったこともあって、かなりのダメージを与えられるだろうと予想した。
 確かにヒットしたし、彼の手も離れた。……のだが、彼は琥珀が反撃することを力の入り具合で察したのだろう。手を離して身体を引いたのだ。そのせいで頭突きはそれほど深く入らなかった。
 しかし手が離れたのならこっちのものだ。
 琥珀は素早く座面から身体を落とし、体勢を立て直す。仁に蹴りのひとつでも入れるつもりでいたものの、彼はそれも察していた。後ろ手に車のドアを開け放ち、同時に外へ飛び出したのだ。
「ちょっ……!」
「いい動き。さすがだな。また顔を見にくるから、待っていてください」
「誰が……!」
 すぐに車から飛び出そうとした。しかしそんな琥珀に、仁は強烈な爆弾を投げてよこしたのだ。
「マジで姐さん、ムチャクチャ俺の好みなんで。絶対組長になってもらいますよ」
「はぁぁ?」
 おかしな声が出る。それどころか仁は投げキッスをして走り去っていった。
 ハリウッドアクションスター並みの男前が放つ投げキッスの破壊力たるや……。
 年齢イコール男性経験なし、どころか恋愛スキルがマイナス百の琥珀は、すっかり固まってしまった。
「……なんなの……」
 後部座席と運転席のあいだに身体を落としたまま、琥珀は茫然と開け放たれたドアの向こうを見つめる。
「なんなのよぉ……」
 とんでもない男に目をつけられてしまった。
 目をつけられたというか、見つけられてしまったというか。
「組長の娘って……なによ……」
 仁が言うには、琥珀は仙道組組長の隠し子らしい。
 組長が亡くなったから、組を継いでくれと琥珀を説得に現れたのだ。
「わけわかんないよ……」
 いきなり投げ落とされた爆弾のような話だった。
 もちろん、最初に聞かされたときは信じてはいなかった。派手にからかわれたくらいにしか思っていなかったのだが……。

 それは、刑事としての初入庁だった、一週間前にさかのぼる──────。

 

「長嶺琥珀です。若輩者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 自己紹介で失敗したことは……あまりない。
 新しい環境に入ったときにやらされがちなイベントだが、自分をアピールすればいいだけのことだと割りきり、勢いで突破する。
 友だちに言わせると「琥珀はクソ度胸がいいんだよ」とのこと。
 いい意味にも悪い意味にも考えられるが、ここは褒められていると思っておきたい。
 そのクソ度胸のおかげで、今日、琥珀の夢がひとつ叶ったのだ。
「捜査一課は目標でもありましたので、精いっぱい、頑張っていきたいです」
 元気に明るい声を出し、琥珀は自分に注目する面々を目で追った。
 警視庁刑事部捜査第一課。琥珀が配属されたのは、強行犯捜査係殺人犯捜査第五係である。
 ほぼ予想どおり男性ばかりだ。それも、働き盛りのお父さん、みたいな人が多い。他の班にも女性はいると聞いていたが、それは庶務や科学捜査係のことではなかろうか。
「一課が目標だったんなら、強行一係にでも入れてもらったほうがよかったんじゃないのかい?」
 どこからかそんな声が飛ぶ。強行犯捜査係強行犯捜査第一係はいわゆる庶務や調整をとる部署である。若い女の子ならそこで十分と思われているのかもしれない。
「ドラマなんかで憧れちゃったのかな。職業体験でくる子たちのなかにも『刑事ドラマが好きで』とかいう子がいるよ」
「ドラマは事件の解決も早いしな」
 そういったことは多くあるのだろう。話しながらアハハと苦笑いだ。
 捜査第一課という名称はドラマなどでも馴染みが深いし、エンターテインメントと現実を混同する視聴者は多い。それは琥珀も交番勤務で承知している。
「お嬢ちゃん、二十六だって聞いたけど、おじさんの娘と同じ歳だよ。そんな若い娘がこんなしんどいばっかりで地味な部署に配属されるなんて、いたたまれないねぇ。係長、なんとかなんないのかい?」
 デスクチェアの背もたれに寄りかかりながらキィキィと軋ませ、髪が後退しかかった年輩の男が溜め息をつく。琥珀のそばに立っている係長に目を向け困った顔を作った。
 それ以上に困った顔をしてしまったのは係長のほうだ。係長も琥珀の父親と言ってもおかしくはない年代だろう。それゆえ、五係の刑事たちからこんな声が飛んでしまう気持ちもわかるのだ。
 男社会の職場に、お花畑の幻想をかかえた自分の娘くらいの女の子が入ってきてしまったようなもの。やりづらさこの上ないだろう。
 が……そんな気持ちにさせるだろうことくらい、琥珀は予想済みである。
 交番勤務時代に地域住民の相談役として親しまれた経験は伊達じゃない。学生さんの友人関係の悩みから思春期のお子さんを持つ親御さんの泣き言まで、会社に行きたくないサラリーマンの皆様から就活が上手くいかない大学生の励ましまで。
 親子関係、友人関係、会社の人間関係、恋人や夫婦間の問題もどんとこい。『琥珀ちゃんにお話を聞いてもらえると元気が出る』何度そんな言葉をもらったことか。
(敬遠されるかな……とは思ってたけど)
 琥珀はにこりと笑顔を作り、椅子をキイキイ軋ませている男を見る。
「ありがとうございます。お父さんに心配されるのってこういう気分なのかって、少し嬉しくなりました。わたしの父も、生きていたらそう言ってくれたかと思います」
 椅子の軋みが止まった。それだけではなく軽い調子で発せられていた言葉も笑い声も止まり、その場の空気が重くなる。
 漂うのは「余計なことを言わせてしまったのでは」という空気。
 往々にして人というものは、家族を亡くしている者に対して、それを口にさせてしまうことに気まずさを感じるものだ。
「母は深くを語ってはくれませんが、わたしの父は刑事だったんです。殺人犯を追っているときに知り合ったと聞いていますから、捜査一課の刑事だったのだと思います。……わたしは、父の顔を知りません。だから余計に、父と同じ気持ちになりたくて、父と同じ仕事がしたくて、警察官になりました。捜査一課の刑事になることは、わたしの目標だったんです」
 笑い声も物音もたてる者はいなかった。しかしここで話をやめては、琥珀はただ同情を引きたくて父親の話をしたととられかねない。
 そう思わせないためにも、締めの言葉は大切だ。
「とはいえ、目標だったからといって『夢が叶った』と気を抜くつもりはありません。若い女の子が、とご心配いただくより、そんなに動き回って大丈夫か、と呆れられるくらい頑張りたい。ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、極力、自分の尻拭いは自分でできるようやっていきますので、どうしても行き届かないところは諸先輩方に頼らせてください。というか、すっごく頼りになる先輩ばかりだと伺っておりますので、ウザいくらい頼らせてくださいっ。よろしくお願いいたします!」
 勢いよく頭を下げ、笑顔で顔を上げる。
「よし、頼れ頼れ」
「できないことを頼るのは恥じゃないぞ」
「頑張れよ」
 ほうぼうからそんな声が飛んでくる。からかう言葉も気まずい空気も一掃されてしまっていた。そこにあるのは、新人を歓迎する雰囲気だけだ。
(よしっ)
 心の中で小さなガッツポーズ。掴みはOKというやつだ。
「歓迎されているみたいじゃないか。よかったな」
 長身細身の男性が笑いながら近寄ってくる。それを見て座っていた男も慌てて立ち上がった。
 係長がさりげなく場所を譲り、琥珀は頭を下げる。
「五十里課長、おはようございます」
「おはよう、琥珀君。間に合ってよかった。本当なら登庁を迎えてあげたかったんだけどね。早朝から会議があって」
「そんな、お気になさらないでください。五係の皆さん、いい方ばかりでホッとしています。たくさん仕事を覚えて、お役に立てるよう頑張ります」
「うんうん、琥珀君はいつも前向きで頼もしい」
 おだやかな顔で首を縦に振る五十里は、捜査第一課課長である。
 階級でいうなら警視正レベル。そんな人物が「琥珀君」と親しげに呼び、また琥珀も慣れた様子で接する。知り合いなのかと周囲がざわつくのも無理はない。
 それを察したのだろう。五十里は刑事たちに顔を向け琥珀を手で示す。
「もしかしたら君たちも聞いたことがあるかもしれない。地域部の交番勤務で、軽犯罪検挙率が素晴らしく優秀な女性警察官がいると評判になっている。それが、長嶺琥珀君だ」
 一気に五係の空気が盛り上がる。それどころか聞き耳をたてていた他の班の刑事までもが振り返った。
「判断力、機動力ともに素晴らしい。一課を目標にしていると聞いて私が推薦した。長嶺君の異動に関しては二課や四課からの引き合いもあったのだが……、私が勝ち取った」
 言葉を少し溜め、自慢げに言いきる。その様子だけで、各課で琥珀の争奪戦があったことが窺えた。
「若い女性だからといって侮ってはいけない。実に優秀な女性だよ」
「あの……、課長は、長嶺さんとは以前からお知り合いなんですか?」
 様子を窺うよう誰もが聞きたそうな質問が飛んでくる。課長がこれだけ褒めるのだ。下世話な思考を働かせるなら、もしやよからぬ間柄では……と勘繰られてもおかしくない。
 しかし五十里はハハハと軽く笑う。
「知っているよ。馴染みの小料理屋の娘さんでね。学生のころはよく店の手伝いをしていた。今でもたまに手伝っているのを見るが、一課に異動になったらそんな暇もなくなるかもしれないな」
「母がやってるんです。【こはく】っていう小料理屋で、十一時から昼の二時まではランチタイムもありますから、近くを通りかかったときには寄っていってください。五係って言ってもらえればサービスしてもらいますからっ」
 商魂たくましく母の店の宣伝をしておく。笑い声とともに「じゃあ行ってみるかな」と声が飛んだので、琥珀は嬉しくなった。
「やったぁ、嬉しいっ! ぜひよろしくですっ。母のご飯、本当に美味しいんですよ」
 ちょっとはしゃぎすぎかなとは思いつつも、上手く宣伝できた嬉しさはかくせない。
 客が増えれば母が喜ぶ。サービスにつられてとか単につきあいでとかでもいいのだ。母の料理は絶対美味しい。一度食べてもらえれば二回三回と行きたくなること請け合いである。
 琥珀がニコニコしているせいもあって、場の空気がなごやかだ。ここぞとばかりに五十里が切り出した。
「さて、話は伝わっていると思うが、──瀬尾君」
 五十里が目を向けた先にいたのは歳のころ二十代後半、眼鏡をかけた背の高い青年である。面立ちはなかなかに整っていて、生真面目な雰囲気が好みという女子にはモテるのではないか。
 琥珀もあらかじめ話は聞かされている。彼、瀬尾美津弥は琥珀の指導担当である。
 しばらくは彼について現場に出る。よく言う“相棒”というやつだ。
「長嶺君を頼むよ。期待の新人だからね」
「よろしくお願いします! 先輩!」
 元気よく挨拶をした琥珀だったが、瀬尾は表情を変えず平坦に言い放った。
「邪魔にさえならなかったら、それでいい」
 異動初日、五十里のサポートもあって上手く捜査第一課のなかに溶けこめそうだったというのに。
 最後の最後に、手ごわいものにぶつかってしまった気分だった……。


「長嶺さん、“人たらし”って言われるだろう?」
 何気なく聞かれて、一瞬返答に困った。
「人……たらし、ですか?」
「悪いほうの意味じゃなくて、褒め言葉で」
 捜査車両の運転席でシートベルトを締め、瀬尾は助手席に座る琥珀には目もくれないまま話を続ける。
「挨拶のときもそうだったけど、さっき四課の課長と五十里課長が一触即発寸前だったのを見て確信した」
「あ……」
 これには琥珀も苦笑いである。瀬尾と外回りに行こうと課を出たところで、四課の課長に声をかけられた。「なんだ琥珀ちゃん、本当に一課に行ったのか」とさみしそうに言われ、さりげなくかわそうとしているところに五十里がやってきたのである。
『おやおや、うちの新人に興味津々ですか? かわいい女の子だからって馴れ馴れしくしないでくださいね』
『五十里~、てめぇ、どこに手ぇ回しやがった。人事だけじゃねえな』
『なんですか物騒ですね。まあ、強いて言うなら行動力の勝利というものでは?』
『琥珀ちゃんはオレも推薦していて、異動先決定直前まで手ごたえありだったんだ。それをおまえが……』
『こんな若い女の子に、組織犯罪対策部、それも四課に推薦するなんて。相変わらずあなたは気遣いというものがありませんね』
『捜査一課だって似たようなもんだろうが。こんなかわいい女の子に死体とにらめっこさせんのか』
『暴力団とにらめっこさせるよりはマシです。死体は殴りかかってきません』
『てめぇはぁ~』
 本当に一触即発……寸前だったのだ。周囲にいた誰もが固唾を呑み、四課の刑事らしき数人が慌てて駆け寄ってこようとしていた。
 のだが……。
『よぉし、この件に関してじっくり話し合うぞ。いつものところなっ』
『了解』
 で、終わってしまったのである。
 それも険悪な雰囲気ではなく、友だち同士が飲みに行く約束をするような感じだった。見ていたみんながホッとし「結局いつもどおりか」と苦笑いしていたので、このふたりはいつもこんな感じなのだろう。
 実際、一課の課長である五十里と四課の課長である藁井は仲がいい。それは琥珀も知っている。
 ふたりは母の小料理屋、【こはく】の常連である。同期である五十里と藁井は、昔、捜査第一課の一線でコンビを組んでいたとのこと。
 喧嘩友だちのようなものだ。
 いつものところ、というのも【こはく】のこと。酒を酌み交わしながら、飲んで食べてしゃべっていく。
 五十里と同じく藁井も琥珀が学生のころから知っている。「琥珀ちゃん」と呼ばれるのはそのせいだ。
 藁井が課長を務める組織犯罪対策部組織犯罪第四課は、暴力団が関係する犯罪の捜査にあたる。扱うものが扱うものなので、藁井の面構えは本物の極道と並んでも引けをとらない。
 仲のいい友人同士であっても、五十里と藁井は顔つきも体格も正反対だ。
 警視庁本部庁舎を出た車は、ゆっくりと国道一号線に入っていく。霞が関の官庁街と呼ばれる通りだ。中央分離帯の左右には四車線道路。そしてこの国を形成しているともいうべき中央官庁が建ち並んでいる。
 霞が関には何度か来ているが、そのたびに威圧感がビル群から降り注いでいるような気がしていた。しかし今はそれほど感じない。
 むしろ、警視庁の刑事としてここにいるのだという気持ちで血流が速くなっている。
 夢が叶った。目標を達成できたのだ。浮かれてしまわないよう感情を抑えるのに必死だ。今ひとりにされたら小躍りしてしまいそう。
「そのへんのヤクザよりヤクザっぽい藁井課長が、あんなにデレデレして勧誘していた。よほど気に入られているんだな」
 そんな琥珀の理性は、隣に人がいることで保たれている。おまけに、なんとなく瀬尾には気を抜いたところを見せてはいけないような気さえしていた。
「気に入られているというか、藁井課長も母の店の常連なんです。それでわたしのことも知っていただけで」
「最初は遠巻きだった係の人間も、長嶺さんの話にすっかり取りこまれてしまった。話しかた、表情、声のトーン、人を惹きつけるものを持っている。話題の振りかたも上手い。敵を作らないで生きてきた? 交番では地域の相談役だったんじゃないの?」
「……プロファイリングがお得意ですか?」
 なるべく不快を表さぬよう声に出す。──初対面であれこれ決めつけられるのは好きじゃない。
「そんなたいそうなものじゃない。人を見るときの基本だ。聞きこみでもなんでも、人の話を聞いているときには聞くのと同時に内面を探れ」
「難しいなぁ。でも、頑張ります、はいっ」
 前向きに、前向きに。心の中で唱えながら明るく返事をする。やっと琥珀を横目で見た瀬尾が、フンッと鼻を鳴らして苦笑いをした。
「それだから、人たらしだっていうんだ」
「どうしてですか?」
「今、僕のこと『理屈っぽくてウザイな、こいつ』とか思っただろう? それなのに前向きな返事なんかして、印象を悪くしないようにしている」
「深読みしすぎです」
「でも間違いじゃない」
「決めつけないでくださいっ。もぅ、めんどくさいなぁ」
 ついつい本音が出てしまった。あっ、と思うものの、瀬尾は笑いを噛み殺しながら運転を続けている。気分を悪くしてはいないようだ。
 安心しつつ、肩を軽く上下させて息を吐く。
「それで、これからどちらに? わたしはなにをすればいいんですか?」
 なにも言われず外回りに引っ張り出された。どこへ連れていかれるのかも聞いていない。
「僕が担当している事件の聞きこみだ。言葉で聞くより、実際に見て覚えてくれ。ダッシュボードに事件の概要をまとめたものが入っているから。到着するまでに読んでおいて。すぐ到着するから、速読で」
「速読ぅ?」
 声が裏返りそうになってしまった。速読しなくてはならないくらい近いなら、先に言ってほしい。
(マイペースの人だな。今までペアを組んだことないんだろうか)
 さすがにそんなこともないだろう。だとしたら、マイペースすぎて相棒に逃げられてばかりという可能性もある。
(ちょっとめんどくさそうだけど、悪い人ではなさそうだし……)
 最初にどうかなと思っても、印象などは一緒に仕事をしていくうちに変わるものだ。ダッシュボードからダブルクリップでまとめられた紙束を取り出す。
 厚さにして一センチほどの事件概要書。これを速読で読めとは、何分程度を想定しているのだろう。
 車が信号で停まる。何気なく窓の外に視線をやった琥珀は、ハッと目を見開きシートベルトを外した。
「おい、なにして……」
 意表をつかれたのは瀬尾だろう。しかし彼が声をあげたときには、車のドアを開けた琥珀が道路に飛び出し反対車線の歩道に向かって走り出していた。
「おい! 戻れ、長嶺!」
 背後から瀬尾の声が追ってくる。それでも琥珀は止まらない。信号待ちをしている車のあいだを縫って一直線に歩道までくると、「泥棒!」と叫びながら座りこんでしまっている若い女性の肩を叩いた。
「大丈夫ですよ。待っていてください」
 すぐに数メートル先を走る黒いジャージの男を追いかける。
 車のなかから、琥珀はひったくりを目撃したのだ。うしろから走ってきた男が女性のトートバッグを引っ張り、ハンドルを掴んで抵抗する女性を蹴り飛ばして転ばせた。
 交番勤務で地域の安全を守ってきた琥珀が、これを見逃すはずがない。反射的に車を飛び出してしまったのである。
 女性が追ってこられないと安心していた男だが、琥珀が追ってきているのに気づいて猛ダッシュで逃げ出した。
 意外に速い。しかし琥珀だって負けてはいない、小学生のころから足は速いほうだ。そのせいかどうかは知らないが、小中学校のころは女子からモテた。
「そこの黒いジャージの人! 止まりなさい!」
 一応叫ぶ。もちろん止まる気配はないし、ともすれば琥珀も追い続ける。
 逃走中に止まれと言われて素直に止まる犯罪者というのも、あまり聞いたことはない。止まらないだろうなとわかってはいても、警告は大事だ。
 短い信号を渡り、男はそばにあった省庁ビルの情報広場へ向かって走っていく。一般に開放されている施設だ。見学者がいたら面倒なことになる。
 スピードを上げた琥珀の横に、スッと見知らぬ影が並んだ。
「手伝います」
 一瞬見ただけで目を引く男性だ。ダークグレーのスーツ姿は見るからに背が高くひとことで表すなら「カッコいい」。おまけに……。
(えっ!? 足、速っ!)
 あっという間に追い越して先を走っている。男が施設の中へ入っていくと男性もあとを追う。しかし建物の中に入ったのではなく、入ったと見せかけて建物の裏へ回りこんだようだ。
 建物は通路で囲まれている。男が通路から外れずに逃げているのなら挟み撃ちにできる。琥珀は男が走り去った方向とは逆側から走っていく。やがて、慌てて走る黒ジャージの姿が前方に見えた。
 男は逃げるのに必死なのだろう。琥珀が近づくまで目の前に迫っていることに気づかない。──気づいたときには、手遅れだ。
「止まりなさいと、警告はしました!」
「わああああ!」
 回りこまれていたとは思っていなかった男は奇声をあげて右手を振り上げる。左腕で奪ったバッグをかかえていた。
「姐さん!」
 男を追いかけてきていた男性がなにかを叫んだようだが、今はこっちが先だ。琥珀は左手を男の腰に回して抱えこみ、右手で男の左肘をとって横回転で投げ落とした。
 ドンッと通路に男の身体が打ちつけられる。投げられた驚きか、単に身体が痛かっただけか、男は目を見開いたまま動かなくなってしまった。
「大丈夫ですか!」
 警備員と一緒に警察官がふたり駆けつけてきた。どう見ても普通ではない様子の人間が省庁ビルの敷地内に駆けこんできたのだから、何事かと思うだろう。
 琥珀は男の腕を掴んだまま警察手帳を取り出す。
「お疲れ様です。警視庁捜査第一課殺人犯捜査第五係の長嶺です。この男、そこの交差点近くで女性からバッグをひったくって逃走しました。桜田通りに面したビルの前に被害者の女性がいます」
 一般人だと思っていたのだろう。琥珀が手帳を出すと三人の背筋が伸びた。
「了解いたしました。それでは、あとは我々が」
「よろしくお願いいたします」
 男を引き渡し、警察官に連行される姿を見送ってから肩を上下させて息を吐く。くるっと身体を返し、ずっと立って見ていた男性と向き合った。
「勇敢な方ですね。ご協力、感謝いたします。あなたが追いかけてくれたおかげで、ここに追いこめたようなものですから」
 男性はジッと琥珀を見ている。それなので琥珀も男性から視線をそらせなくなった。
 一瞬見たときからイケメンだとは思ったが、男性的な魅力にあふれているのに、とても綺麗な人だ。三十代だろうか、雰囲気も落ち着いている。
 身長が高いぶん体格もしっかりしている。一六五センチの琥珀と頭ひとつぶんくらいは違う。一九〇近いのではないか。
 ダークグレーのスーツが彼を屈強に見せ、サイドを軽く流してはいるものの少々長めの前髪がひたいに落ち、そこから覗く視線にぞくっとする。
(なんか、海外のアクション映画に出てくる人みたいなカッコよさ!)
 最近、スパイアクション映画を観たばかりだったので、よけいにそう思う。
「さすが姐さんだ。さっきの、柔道技ですか? 黒帯四段は伊達じゃないですね」
「え……?」
「交番勤務のときも、その度胸と腕っぷしの強さで小さな事件は即解決だったそうですね。姐さんの管轄で悪さをするなんて、クソ馬鹿野郎だ」
「あの……あなた、どなた?」
 戸惑いが先にたつ。交番勤務のことを知っているのなら警察関係者だろうか。琥珀が柔道黒帯四段であることは、指導係の瀬尾でさえ知らないというのに。
 それと、先ほどから妙な呼称で呼ばれているような気がする……。
 男性は琥珀に近づくと、その胸に抱きしめた。
「ずっと探していました、姐さん。俺は仙道組の若頭、不動仁です」
 声を出そうと口は開くものの。声が出ない。というか、身体も硬直してしまった。
 男性に抱きしめられるなんて……初めてだ。
 それも、若頭、ということは、この男は極道ではないか。
「お迎えにまいりました。組長が亡くなった今、仙道組を引っ張れるのはあなたしかいない」
「いやいやいやいやいやいやいやいや、ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっとまったぁぁぁっ」
 喉に詰まった声を気力で押し出す。黙っていてはいけない。ここでなにも言わなかったらとんでもないことになりそうだ。
「わたしに、そんな、なんとか組に所属している父はおりませんっ。なにかの間違いです、ありえませんよ、だいたい、生まれたときから父はいませんでしたからっ」
「組長にも子どもはいないと思っていましたが、死に際に打ち明けてくだすったんです。隠し子がいると。遺言書もあります」
「かくしごぉっ?」
「組のことを頼むと、亡き組長の遺言です。あなたを支えて共に生きていけと、俺は……それを姐さんに伝えるために探していたんです」
 頭が混乱してきた。なにを言われているのか整理しきれない。
(組? 遺言? 共に生きていけ? ……なにそれ!)
「それにしても、俺は最高に嬉しいですよ。姐さんが、こんなに気風のいい美人に育っていて。むちゃくちゃ俺好みです」
 嬉しそうな声とともに、背中にあった手がお尻を撫で……。
 ──プチン……と、琥珀の中でなにかが切れる。
 一瞬にして出足払いが決まり、琥珀は地面に崩れた不動仁と名乗る男を残してその場から走り去った。


 念願だった刑事としての一日目は……。
 いろいろと不可解すぎた。
 課のなかで上手くやっていける手応えはあったし、関わる捜査の内容も交番にいたときとは違い刺激的で意欲が湧いてくる。
 軽く不可解なのは相勤の瀬尾だ。
 マイペースなのはわかる。そういう性格なんだなと思えば対処もできる。初日から勝手な行動をとってしまって申し訳なかったし、きっと強く注意をされるだろうとも思った。
 おかしな男から逃げて瀬尾に連絡を入れると、なんと彼は琥珀を置いてさっさと現場へ向かっていたのだ。
『そっちの用事終わった? ああ、ひったくりを見つけたんだ? いきなり飛び出すなんて、羽虫を見つけた猫みたいだな。目的地の住所を教えるから、自力で来て』
 ……最寄駅から行ける場所でよかった……。
 もちろん勝手な行動を謝ったが……。
『どうして謝っている? ひったくりを捕まえたんだからいいんじゃないのか? 長嶺さんは長嶺さんが納得する仕事をしただけだろう? そういえばすぐ連絡が入っていたけど、課内で話題になってるらしいよ。ひったくり犯を投げ飛ばした女三四郎がいるって』
 ハハハと軽く笑われ、ひねくれて考えれば皮肉かなとも思えるのだが、今日の印象から、瀬尾はこういう性格なのだと結論づけた。
 ただ帰庁してから大量の資料整理を任されてしまったので、勝手な行動をとった報復はされたような気がした。
 そして、本日最大の不可解といえば……。
 ────組長が亡くなった今、仙道組を引っ張れるのはあなたしかいない。
 不可解にもほどがある。あれはなんだったのだろう。からかわれた……にしては設定が悪趣味すぎる。
 よりにもよってヤクザの隠し子だなんて。
 なにをしても許される魔法の言葉、「ただしイケメンに限る」を持ってきても許せるものではない。イケメンだからなにをしてもいいと思ったら大間違いだ。
 再び目の前に現れておかしなことを言ったらどうしてくれようか。
(出足払いだけじゃ済まさないからね。関節技でヒイヒイ言わせてやるっ)
 強い決意を胸に、豚バラチャーシューを口に入れる。もきゅもきゅ噛み締め、ごくりと呑みこみ……たい、ところだが、美味しくて口の中からなくしたくない。
 目の前には山盛り豚バラチャーシューのマヨかけ丼。琥珀が座るカウンター席の隣では、顔は見かけるが素性はよく知らない馴染みの女性客が、女将相手に楽しそうだ。
「でね、友だちがやっと結婚するの。その子がニブチンでニブチンで、明らかに好意を示されているのに気づけない子で、もーぉ、何度ハラハラしたことか」
 ぬる燗片手にご機嫌なのは、琥珀よりは少し年上とみられる女性である。毎朝綺麗にセットしているのだろう外ハネの髪、夜になっても崩れていない見事なメイク、品のよさを心がけたスーツ姿。
 琥珀の見立ては、どこか大企業の秘書課勤めではないかと思う。
「もぉ、やよいちゃんっ。ニブチンとかハラハラとか言っちゃ駄目でしょう。そのお友だちが結婚するのが嬉しくて嬉しくて堪らないくせに」
 そこでやんわりと返すのは、この小料理屋【こはく】の女将。鞠子である。
 小紋に割烹着。長い髪を頭のうしろでまとめ上げ、そのときどきの気分で櫛や簪で留めている。いかにも“女将”を全身で表したような、やんわりとした美人顔。
 ──琥珀の母親である。
 そして、全身から漂うのは女将の風格だけではない……。
「お友だちのためにそうやって喜べるやよいちゃん、素敵よ。はい、塩辛オマケしちゃう」
「きゃぁぁ、ママの手作り塩辛だぁ。うれしいぃ、ママ大好きぃ」
「そう言ってもらえると嬉しいわぁ」
 ほくほく笑顔の長嶺鞠子。老若男女、この笑顔に堕ちぬ者なし。
「やよいちゃんが以前言っていた『大切な大切な、目のなかに入れても痛くない、でも本当に入ったら痛い』親友、でしょう? そのうち会わせてね。あっ、その子、なにが好きかな。張りきって仕込んでおくね」
「ママぁ~、天使かっ」
 天使、ではない。──天然の“人たらし”である。
 鞠子ヒーリングをたっぷり浴びた女性は「今度は彼氏連れてくるね~」とご機嫌で帰っていった。
 仕事帰りの女性がひとりでふらっと入って一杯飲んでいく。それが普通のようにできる雰囲気のある店。
 それが、小料理屋【こはく】である。
 カウンターに七席。テーブル席がふたつ、小上り席がふたつ。全体的にハイトーンの木目調でまとめられた店内は、色合いからしてあたたかい。
 日替わりメニューの大皿がカウンターの上に並び、もちろんそれ以外のメニューも注文可能で、定食などもある。琥珀が食べている豚バラチャーシューのマヨかけ丼も、そのうちのひとつ。
 ランチタイムの日替わり定食は数量限定で、なかなか競争率が高い。
 客が途切れたところを見たことがないほど常連やリピーターに愛されている店。琥珀が生まれたときから、鞠子はこの店の女将だった。
 店の名前の由来を聞かれ「大事なひとり娘と同じ名前なんですよ」と答えるのが鞠子の定番ではあるが、こう言うと店に娘の名前をつけた、と思われがちだ。
 実際はその逆で、娘が店の名前をつけられたのである。
 鞠子の人たらし効果のおかげで店は安定している。それがなくとも十分料理が美味しいので、ランチタイムも大盛況だ。
 どんぶりを持ってチャーシューをかっこんでいると目の前に湯呑みが置かれた。頬をふくらませて咀嚼をしながら顔を上げると、鞠子がカウンターの中からニコニコして琥珀を見ている。
「娘に構ってないで、お客さんを構ってあげなよ。でも、お茶、ありがとう」
「いいじゃない。琥珀ちゃんがカウンターでママのご飯食べてくれるの久しぶりだもの。いっつも勝手に自分で作って家の中で食べちゃうし」
「まあ……お腹すいてたし……、それに……」
 琥珀は苦笑いで横目を使う。座っているのは入り口から一番遠い左端の席なのだが、みっつ空けた席に……。
「なんだぁ? 母娘でイチャイチャしやがって」
「先ほどのお嬢さんがいなくなって、やっと鞠子さんとお話しできるところなんだから。遠慮しなさい、琥珀ちゃん」
 藁井と五十里である。
 琥珀が資料室で格闘して帰ってくると、すでに課長ふたりが来店していた。
 すぐに引っこもうと思ったのだが、琥珀を見つけた課長たち、特に五十里がなにか言いたそうにジッと見ている。琥珀が瀬尾を振り切って単独行動したことは耳に入っているだろうし、そのことでひとことあるのかと感じてカウンターに座ってしまったのである。
 店の奥と二階が母娘の住居になっている。店はもともと、今は亡き祖父母が営んでいた小料理屋を鞠子が引き継いだものだ。
 いつもは住居用の玄関から入るのだが、お腹がすいていたので店側から入り、厨房で賄いを見繕って引っこもうと軽く考えていたのである。
 琥珀と課長たちを遮るように先ほどの女性が座っていたので気にならなかったものの、いなくなるとなんともいえないオーラが襲いかかってくる。
(やっぱり、初日から単独行動をしちゃったのはマズかったかな……)
 瀬尾はまったく気にしていないようだし、ひったくり犯を捕まえたことを知っている者も面白がって声をかけてくるだけだったが……。
 上司的には、アウトなのかもしれない。
(でも、ひったくりは捕まえたし)
 少々自棄気味にどんぶりをかっこむ。しかし母お手製の豚バラチャーシューがことのほか美味しすぎて、ひとまず叱られてもいいやと思いながら噛み締めた。
 どんぶりをカラにし、箸を上に置いて、琥珀は意を決し五十里を見る。
「課長っ、本日は勝手な行動をとってしまい……」
「琥珀ちゃん、『ごちそうさま』は?」
「ごちそうさま~」
 鞠子の介入で勢いが落ちる。それでも娘の「ごちそうさま」を聞いた鞠子はほくほくしてカラになったどんぶりを取り厨房へ引っこんでいった。
 湯呑みのお茶をグイッと飲んで立ち上がり、琥珀は五十里の横で頭を下げた。
「課長っ、本日は勝手な行動をとってしまい、申し訳ございませんでしたっ」
「ん? なにか不都合があったのかい?」
 反応は薄い。拍子抜けのあまり頭が上げられない。
「いえ、あの、初日からやらかしたので……」
「女三四郎の話は伝わってきているけど。特に悪い結果に終わったわけではないだろう?瀬尾君も気にしていないし」
「はあ……」
「それより、頭を上げてくれないか。ずっと鞠子さんが睨んでいるので」
「は?」
 顔を上げてカウンター内を見ると、鞠子が厨房へ続く暖簾を片手で半分上げながらジッとこちらを睨んでいる。
 ──うちの琥珀ちゃんになにか文句でも?
 目は口ほどにものを言い、である。
 琥珀は笑顔で母に手を振る。なんでもないよ、が伝わったのか、鞠子は暖簾の奥に消えていった。
 ホッと胸を撫でおろし、改めて五十里に話を振る。
「瀬尾さん、本当に気にしてないですか? 勝手なやつだって怒りそうなものですけど」
「怒られたかい?」
「捕まえたんだからいいだろって、笑われました」
「そうだろうね」
「でもそのあとで山のような資料をまとめさせられました。ただで許すと思うなよと言われているような気がします」
「そうだろうね」
(そうだろうね、って……)
「瀬尾君は、終わり良ければすべて良しだからな。……まあちょっと変わり者だけど優秀な男だよ」
 やっぱり変わり者なんだ。そうかなと思ってはいたが上司である五十里に言われるとストンと腑に落ちる。
「琥珀ちゃんは四課にくるべきだったなぁ。その腕っぷしの強さ、欲しかったなぁ」
 藁井の口調は未練タラタラである。今朝の険悪な雰囲気が再発してもおかしくない物言いだが、五十里は笑って流した。
「まあ、異動の可能性がないわけじゃないから、そのうち組織犯罪対策部に持っていかれても不思議ではないが……」
 猪口を口に運び、いったん言葉を切る。
「──三課四課あたりは……、ちょっとね……」
 四課の課長である藁井の横でこの発言。しかし皮肉めいたものはなく、むしろ困ったような口調。おまけに藁井も言い返すことなく猪口に口をつけたまま黙っている。
 五十里の言いかたに含みがあるように感じ、少し違和感を覚えた……。
 なぜかわからないが、なんとなく気まずい。こんな気まずさを感じてしまう理由が、我ながらわからない。
 ただ、このままではいけないとわかるので、琥珀は思いついたことを口にした。
「そうだ、藁井課長ならご存じかと思うんですけど……」
「ん? なんだ? いきなりそんな固い呼びかたしなくていいんだぞ。『わらいのおじちゃん』でいいぞ」
「子どものころの呼びかたじゃないですかっ」
 言い返したことで気まずさが薄れた気がする。もしかしたら藁井も同じように感じて、気を使ってくれたのかもしれない。
 藁井や五十里は琥珀が生まれる前からの常連だ。琥珀は幼少期からふたりのことを知っていて「いかりのおじちゃん」「わらいのおじちゃん」と呼んでいたこともある。
 その「おじちゃん」ふたりが、今や上司なのだから。人生、なにが起こるかわからない。
「仕事にちょっと関係あるから、藁井課長、でいきますね。お聞きしたいことがあるのですが」
「なんだなんだ。なんでも聞きなさい」
 気取った声を出し、背筋を伸ばしてスーツの襟を整える。ふざけているようだが本来頼ってもらうのが好きな人なので、素直に張りきっているだけだろう。
 ……顔は怖いが頼れる上司である。
「仙道組ってご存じですか? そこの組長が亡くなったのって、いつなんでしょう?」
 ──場の空気が固まった。
 一瞬、重苦しさに押し潰されそうになる。
 それがなんだったのかわからないうちに、藁井が口を開いた。
「仙道組がどうかしたか? あそこは今、跡目争いで物々しいから三課がピリピリして様子をみている」
「跡目争い……ですか?」
「組長だった仙道光之輔は病死だった。先月のことだ。子どもがいなかったこともあって、実質ナンバーツーといわれていた若頭が襲名すると思われていたが……。幹部のひとりが反旗を翻して、現在、組は真っ二つだ」
「若頭が、仙道組の組長になるはずだったってことですか?」
 頭に浮かんだのは昼間の男だ。不動仁と名乗った彼は、自分を「若頭」と言っていた。
「実力は間違いない男だが、幹部のなかに納得しないやつがいたってことだ。その幹部が豪く組長を崇拝していた舎弟らしくて、自分の上に立つのが組長以外は許さないって感じなんだろう。それならいっそ自分が亡き組長の遺志を継ぎたいって張りきっちまったんだろうな」
「そこまで慕われたら、組長冥利に尽きますね」
 むしろ、そこまで強い絆で繋がれないと、極道のトップになんてなれないのかもしれない。
「まあ、とにかくあまりおだやかな状況でもない。どうして興味を持った? 瀬尾君の指示か?」
「いいえ、まったく関係はないんですけど。……小耳に挟んで、なんとなく気になったので……」
 そうとしか言いようがない。まさか、ひったくりを捕まえたときに仙道組の若頭に絡まれました、とも言いづらい。
 とはいえ、本当にあの男が仙道組の若頭本人なのかというのも未確認だ。もしかしたら嘘をつかれた可能性だってある。
「こんばんはー、三人いいですかー?」
 店の引き戸が開き、明るい声が店内に満ちる。三人の若い女性が入ってきた。素早く鞠子も暖簾の奥から出てくる。
「大丈夫よ~。小上がりでゆっくりしてね。おかえりなさい、お仕事お疲れ様ね」
「あーん、ママ優し~。今日のおばんざい、なに?」
 おかえりなさいと言っても、別に同居人ではない。アットホームな店の雰囲気づくりというやつだ。
 しかしこの癒し効果が抜群で、鞠子の天然人たらしオーラが大活躍なのである。
 女性客の来店で場の空気が明るくなった。これ以上仙道組について聞くのもおかしいかと感じ、琥珀も「ありがとうございました。ごゆっくり」と礼を言い、自宅へと引っこんだのである。


 キーボードを打つ手を止める。
 やっと打ち終わったという達成感と、もう指を動かすのもいやだという疲労感、そして、どこまでも事務処理を押しつけてくる瀬尾への鬱憤が同時に襲ってくる。
 せめぎ合う感情の中で優位に立つのは、やはり瀬尾への不満だ。捜査第一課に配属されて一週間ほどたったが、この三日間ほど琥珀はずっと事務処理をさせられている。
 報告書作成などの事務処理も大切な仕事だ。それはわかっている。実際の刑事というのはドラマや映画のようにいつも捜査で走り回っているものでもないし、一時間足らずで犯人を捕まえられるものでもない。
 現実は書類の作成も多いし、調べ物も多い。じっくり根気よく取りかかる事件も少なくはないので、あっという間に事件解決、なんて派手なことも……ないとはいわないが、稀である。
 つまりは、世間のイメージとは違い結構地味な部分が多い仕事なのだ。
(交番にいたときのほうが動いていた気がする)
 琥珀が事務処理なら瀬尾も同じく……ではない。
『じゃあよろしく。僕が帰ってくるまでまとめといて』
 この三日、書類作成を琥珀に押しつけ、瀬尾は朝から夕方まで戻ってはこない。
 目立つようなミスをした覚えはないが、やはり初日の単独行動を根に持たれているのだろうか……。
 などと不満をかかえてみるが、本音は少しホッとしている部分もあるのだ。
 捜査に出ていると、またどこからか仁が現れるのではないかと気が気ではない。現れなくてもどこかで様子を探っているのではと気になる。
 実際、気になるあまり視線を感じる。つけられている気配までする。ついキョロキョロしてしまい、瀬尾に不審そうにされる始末だ。
 デスクワーク詰めにされてしまったのは「誰かに見られている気がする」と口走ってしまった翌日からだった。
「お疲れ様です、長嶺さん」
 かわいい声とともにデスクにコーヒーが置かれる。顔を上げると強行犯捜査第一係の志野樹里がニコニコしながら立っていた。
「ありがとうございます、志野さん。いつも気を使っていただいて」
「いいえ、長嶺さんが課内にいるとなんか嬉しくて、よけいなお世話かなと思いつつなんかしたいんです。なんかすみません」
 自分でも説明がつきにくいのか、曖昧に「なんか」でまとめられてしまった。
 樹里が所属する強行犯捜査第一係の主な仕事内容は、いわゆる「庶務」である。琥珀が初登庁だった日「強行一係にでも入れてもらったほうがよかったんじゃないのかい?」と引き合いに出された部署だ。
 樹里は入庁二年目の二十四歳。一係のなかでは一番の若手だ。全体的に小柄で、一六五センチの琥珀より十センチ程度低い。頬のラインがふっくらした丸顔にレイヤーボブがとても似合っている。
 琥珀とは歳が近いせいか、初日から気さくに声をかけてくれた。以来、よく話をするようになったのだ。
「余計なお世話なんかじゃないですよ。歳の近い女の子に声をかけてもらえて嬉しいです。特に初日は助かりました。すっごく緊張していたし」
「そうなんですか? そんなふうに見えませんでしたよ。余裕綽々に見えたし、やっぱり殺人犯捜査係に配属される人は違うなって思いました。動きもシャキシャキしてたし」
「ありがとうございます。……そのわりには、デスクワークの日々ですけど……」
 ハハハと笑う声が乾いている。自虐的になるつもりはなかったのだが、樹里があまりにも褒めてくれると気まずさが湧いてくる。
 ありがたくコーヒーに口をつける。ほのかな甘みが琥珀好みで、それほど喉も渇いていないと思っていたのにごくごく飲んでしまった。
「美味しいっ。志野さんに淹れてもらったコーヒーって、いつも甘さがちょうどいいの」
「ふふっ、実は長嶺さんがご自分でコーヒーを用意していたときにこっそり観察していたんです」
「そうなんですか? 気がつかなかった」
「気になる人のストーキングには自信があります」
「問題発言~」
 おどけた話しかたをしてくれるおかげで気分が紛れる。ふたりでアハハと笑い合うと、楽しい雰囲気につられたのか近い席で同じくデスクワークをしていた同僚刑事が口を挟んできた。
「志野さん楽しそうだな。おれたちとそんなふうに話してくれないのに」
「歳が近くてかわいい女の子が入ってきてくれて、嬉しくないはずがないじゃないですか。登庁したらまず長嶺さんの姿を探してますよ」
「まあ、疲れたおじさんを眺めるより、話の合う小綺麗な女の子のほうがいいよな」
「まったくです」
「ちょっとは否定して」
「本心ですっ」
 聞いている琥珀のほうが同僚刑事に同情してしまうほど自信満々に答え、樹里が笑顔で顔を向ける。
「そうそう、長嶺さんがデスクワークだと、姿が拝めてあたしは嬉しいんですよ。瀬尾さんも、長嶺さんが書類関係をやってくれるから助かるって言っていました」
 意外な話に耳が立つ。助かるなんて言ってもらったことはない。樹里が気を使って言ってくれているだけだろうか。
 本気にできない琥珀を知ってか知らずか、樹里は楽しそうに教えてくれる。
「瀬尾さんが追っていた事件が正念場らしくて、集中しなくちゃならないけどそのぶん事務処理も溜まってしまってどうにもならなかったらしいです。長嶺さんがやってくれるから安心して捜査を進められるって」
「そんなことを……瀬尾さんが?」
「はい」
 そんな話は聞いていない。それならそうと言ってくれたら喜んで事務処理に専念したのに。面倒なデスクワークを押しつけられていると思って不満を蓄積させるところだった。
 瀬尾が追っていたのはアパートの騒音トラブルが原因とみられる殺人事件で、被害者の両隣と真下の階に住む住人、三人の容疑者に絞られていたものだ。
 最初のうちは聞きこみにも同行していたが、すぐに事務処理に回されてしまったためその後の経過を知らなかった。
 しかし、相勤であるはずの琥珀が知らなくて庶務の樹里が知っているというのも微妙な話だ。
(もしかして!)
 ハッと、ひとつの可能性が脳裏に瞬く。改めて樹里を凝視した。
 小柄でかわいらしく、その人好みの味にしてあげようと観察をする気配りの細やかさや明るい気持ちにしてくれる雰囲気を持っている。
 きっと、いいお嫁さんになれるタイプではないだろうか。
 常に自分のペースで物事を考えてしまう瀬尾のような男でも、上手くつきあっていけるのでは……。
(恋人同士!? いや、その可能性はあるでしょ。瀬尾さん、刑事部のなかでは若手だし、結構顔が整った人だし!)
 それなら、なにかの拍子に「追っている事件のケリがつきそう」とか言ってしまった可能性もある。
 確定ではないものの、その可能性があるなら樹里の前で瀬尾の愚痴はご法度だ。琥珀はアハハと笑って頭に手をやった。
「そっかあ、よかった。実はですね、捜査に同行させてもらえないし気に障ることでもしちゃったかな~、なんて少し悩んだんですよ」
「あんたが自意識過剰だから引っこんでもらっているだけだ。黙ってデスクワークをしていてくれ」
 予期せぬところから言葉が飛んできて反射的に顔を向ける。いつの間にやら瀬尾が近づいてきていた。
「お疲れ様です、瀬尾刑事」
「お、お疲れ様ですっ」
 樹里に比べると言葉がたどたどしくなってしまった。それをごまかすよう言葉を続ける。
「なんですか、自意識過剰って」
「外に出るたび周囲を気にしてキョロキョロしてるだろう。あげくに『誰かに見られている気がして』とか心配そうな顔をされたら、そうそう連れ出せなくなる。自分が人に好かれやすいってわかっているから出る言葉なのかもしれないが、人に見られるのが気になるなら引っこんでいてもらうしかないだろう」
「いや、あれはっ、そんなつもりで言ったのではっ……」
 焦って腰を浮かせかける。デスクチェアがガチャッと大きめの音をたて、先ほど会話に加わってきていた同僚刑事が何事かと顔を向けた。
「座れ。僕は助かっているからいいんだ」
 ポンっと押し戻すように肩を叩かれ、そのまま腰が座面に戻る。再びデスクチェアがガチャッと音をたて、同僚刑事の視線もそれた。
「刑事が捜査中だと知らなくたって、仕事中の男女が並んで歩いていれば目で追う人間は多い。僕はまったく気にしてはいなかったが、あんたは気にした。だが、いつまでもデスクワークばかりというわけにもいかないから、慣れろ」
 どうやらこれは気を使われていたようだ。自分のペースで他人はお構いなしかと思ったが、そうでもないらしい。
 相勤と長く続いたことがなさそうなどと決めてかかっていたのが申し訳ない。
 とはいえ外回りの際、誰かに見られていると感じたのは自意識過剰でもなんでもなく、間違いなくつけてくる人の気配を感じているからだ。
 逆にその気配を追及してもよかったのだが、なんといっても琥珀は初日から単独行動をとってしまっている。下手なことはできないとこらえていたところ、デスクワークに切り替えられた。 
 つけまわしているのはもしかして……、不動仁ではないかと考えると、気になって仕方がない。
 組長の隠し子だなんて冗談にもほどがある。からかわれただけだと思いたい。
「瀬尾さん」
 険のこもった声がすると思えば、樹里が眉を寄せて瀬尾を睨んでいる。
「長嶺さんは『あんた』じゃありません。そういう呼びかたはやめてください」
「あ……」
 瀬尾がマズいことをしたと言わんばかりに表情をゆがめる。手で口元を押さえ「すまない、つい……」と戸惑いを窺わせた。
 意外すぎる反応を見てしまった気がして、一瞬言葉が出ない。瀬尾は年下の女の子に注意をされてこんなにも素直に従う人なのだろうか。
(わたしも年下なんだけど)
 そう考えたところで再びハッとする。これはもしや……。
(志野さん、嫉妬しているのでは!?)
 自分の彼氏が他の女に気を使い意外な優しさを見せている。仕事だとわかってはいても、彼女ならば気になるところなのではないか。
 そして瀬尾も、彼女に睨まれて気まずそうにするなんて。もしや外弁慶な性格の証拠では。
「ところで長嶺、……さん」
 改めて瀬尾が呼びかけてくる。苗字を呼び捨てにしたところで、まだ樹里が睨みつけているのを気にしたのか「さん」がついた。
「デスクワークをしてもらえているのは助かるのだが、これからひとり引っ張るから同行して」
「犯人、確定したんですか?」
「まあ、ほぼ間違いない。検察側とも意見が一致している。水商売の男で、この時間はアパートにいるからすぐ出る。行けるか?」
「はい、もちろん」
 張りきって立ち上がる。樹里が下から覗きこむようにして笑顔を見せた。
「頑張ってきてくださいね、長嶺さんっ」
 非常にかわいらしい口調で照れくさくなるくらいなのだが……。
(そういう顔は、彼氏に見せてあげたほうがいいんじゃないでしょうか)
 ふたりのあいだに挟まり、ちょっと居心地の悪い琥珀である。
 ──すぐに車で被疑者が住むアパートへ向かった。
 被疑者の元へは瀬尾が向かう。表向き任意同行だが、ここまで踏みこんでこられるのは初めてだということで被疑者が逃走を図るかもしれない。その場合を考えて、琥珀は車の前で待つことになった。
 被疑者の男はアパートの一階に住んでいる。真上が被害者の部屋だ。車は塀の陰に停めてあるので、逃走を図ったとしても待ち伏せされていることには気づかないだろう。
 コンクリートブロックの塀の陰から、こっそりとアパートの様子を窺う。被疑者の部屋へ向かおうとしていた瀬尾が左端の部屋から出てきた老齢の女性に話しかけられている。
 部屋の位置から考えて大家だろう。聞きこみには何度も訪れているから顔見知りになっているはずだ。
「世間話しているときじゃないんだけどな」
「ついに切符を切られたんですか? まあ、時間の問題でしたからね」
「切符?」
 ひとりごちた言葉に反応があって、何事かと振り向き……息を呑んだ。
「お久しぶりです、お嬢」
 ──不動仁が、真後ろに立っていた。
 誰かが近づいてくる気配を感じていなかっただけでも驚くのに、よりによってこの男だ。驚きは二倍三倍にふくらみ、思わず塀に背中をぶつける勢いで身体を引く。
「なんですか、どうしてここにいるんですっ」
 なるべく動揺を表さないよう小声で問い詰める。すると仁がわずかに眉をひそめた。
「どうしてはこっちのセリフですよ。お嬢こそ、どこにかくれていたんですか。最近まったく姿を見かけなくて。俺がどれだけ探したと思ってるんです」
 いやな予感がする。琥珀は探るように言葉を出した。
「もしかして、なんだけど。一週間前から数日、……わたしのあとをつけていた?」
「あとをつけるとか、いやな言いかたですね。見守っていたと言ってくださいよ。それにしても、歩くお嬢も走るお嬢も缶コーヒーを飲むお嬢も昼飯を食うお嬢も散歩中の大型犬に懐かれるお嬢も、どれも最っ高にイカしてました」
「ストーカーぁぁぁぁ」
「人聞きの悪い。見守っていたんだと言っているでしょう。そうだ、にわか雨に濡れた姿には俺のコイツが反応するほどググッときました。さすが、お嬢のオーラには男を言いなりにさせるなにかがある。秒で見守り強化を決めました」
「変態ぃぃぃぃ」
 やはりそうだ。数日間「誰かに見られている」と感じたのは気のせいではないし、もしかしたら仁ではないかとの考えもそのとおりだった。
 俺のコイツ、の意味を考えないよう軽く頭を振り、琥珀は喉の調子を整えて仁に顔を向ける。
「いい加減、人をからかうような真似はやめてください。なんのつもりですか」
「からかう?」
「そうやって人をつけまわすのもそうですが、お嬢だとか組長だとか、だいたい、あなたがその組の若頭だって言ったのも、あなたが勝手に言っているだけで……」
「どうぞ」
 目の前に小さな紙がつきつけられる。反射的に片手でつまんでしまった。ゆっくりと顔から離して眺めると、名刺だ。
 黄色味を帯びた茶系の紙に組の紋らしきものが金色で箔押しされ、そこに、彼の身分が記されている。
【醍醐組二次系列 仙道組若頭 不動 仁】
「俺、あまり自分から名刺は出さないんですが、お嬢には特別です。大事にしてくださいよ」
 今になって心臓が大きな音をたてる。
 間違いなかった。この男は、本当に仙道組の若頭なのだ。
「あ、あなたの身分は信じますが、言っていることは到底信じられる話ではないんですよ。なにが目的でわたしにあんなことを……」
「目的はひとつだ」
 仁の声が鋭くなった気がしてハッとする。そのとたん腕を引き寄せられ、車の後部座席のドアを開けた彼に車内へ押しこまれた。
 体勢を立て直す間もなかった。両手首を頭の上で掴まれ座面に押し倒されてしまったのである。
「頼む。組長になってくれ」
 そして、凄みのある重低音で響く……無茶な要求。