戻る

幼馴染みのエリートパイロットは捨てられ花嫁を独占したい 3

第三話

 卒業してすでに十四年。
 松風小学校は大分様子が変わっていた。
「中学校が併設されたんだ……」
 英蓮たちが通っていた頃には小学校と中学校は別々だったのだが、中学校があった地域の再開発を受けて移転してきたのだという。
 同じ校門からランドセルを背負った小学生と、スクールバッグを肩にかけた中学生が出ていくのは、往年を知る英蓮には少々不思議な光景だった。
 子どもたちはきゃあきゃあ笑いながら下校している。晴れた空の下で皆なんの悩みもないように見えた。
 温かいカプチーノを飲みつつその光景を見守る。
 蒼は砂糖が要らないからとブラックコーヒーだ。昔はミルクすら甘くないと飲めなかったのにとおかしくなった。成長すると味覚が変わることもあるのだろうか。
「じゃあ、このカフェも移転してきたの?」
 学校前にはカフェや喫茶点も何件かあり、英蓮と蒼はうち一軒のイタリア風カフェのテラス席に腰を下ろしていた。
「いいや。カフェは多分、送り迎えに来る保護者狙いだな」
「ああ、だから”お子様のみの入店やお買い物はお断りします”って書いてあるのね」
「でも、ケーキの種類は多いだろう。子どもに強請られての持ち帰り需要を狙っているんだろうな」
「さすが、商売人は抜け目がない……」
 それにしてもとこっそり周囲を見回し、最後に蒼に目を向ける。
 店内では児童の保護者らしき女性や近隣の女子大の学生、住民の主婦らしきグループがそれぞれのテーブルでコーヒーやケーキを楽しんでいる。
 その中には熱の籠もった視線を蒼に送る女性が何人もいた。
 当然だよねとそっと溜め息を吐く。
 女性のレベルでは中の中でしかない英蓮に比べ、蒼はどこにいても目立つタイプだ。
 芸能人のような派手さはないが、凜と背の伸びた長身痩躯と無駄のないキレのある歩き方、理性的な眼差しがストイックで目を引く。
 外国人ならサムライのようだと表現するのかもしれない。
 すっきり整った顔立ちはもちろんのこと、垢抜けて見えるところも魅力的だった。
 上質の生地を使った、シンプルな服が好みなのだろう。ブルゾン、Tシャツ、ズボンがピタリとハマっている。ブランドものに違いないが、服に着られていないのは、蒼自身も上質の男だからだ。
 不意に蒼がコーヒーカップを置いて英蓮を見る。
「どうした?」
「あっ、なんでもない」
 ついジロジロ見てしまったと赤面しつつ話題を変えた。
 テーブルに頬杖をつき、再び校門に目を向ける。
「それにしても皆ちっちゃいなあ……」
 自分が小学生の頃には考えもしなかったが、大人の視点から見ると本当に幼く頼りない。
「……私あの三つ編みの女の子と同じくらいの年の頃、自分が子どもだってわかってはいたけど、自覚してはいなかった気がする」
「ああ、わかるかもしれない。世界の中心がまだ自分だから、周りから見たらどうかなんてとこまで考えないんだよな」
 その子どももやがて自分が中心ではないのだと思い知り、周囲の評価を取り入れ、社会の一員に――大人になっていく。
「一番純粋に自分らしくいられる頃なのかもね……」
 当時の自分は何をどう感じていたのか、今となってはよく思い出せないと呟く。
「中学生なんてすごく頼もしいお兄さん、お姉さんに見えたのに、いざ自分がなってみると全然そうじゃなくて、じゃあいつお姉さんになれるんだろうって思った記憶がある」
 それどころか、今もぐらぐらと頼りないままだ。自分が大人の世界で一人だけ、大人の皮を被って紛れ込んでいる子どもに思えて仕方ない。
 失恋や婚約破棄など世の中に数多ある不幸の中でも、大したことのない不幸だと思おうとしても、なかなかうまく乗り越えられない。
「子どもの頃が一番しっかりしていて、きちんとしていたかもね」
 クラスメートにも頼りにされていたし、蒼の母には「英蓮ちゃん、蒼をよろしくね」と頼まれていたくらいなのだから。
 大人になることとは成長することとイコールではないと気付かされ、苦笑するしかなかった。
 それにしても、なぜこんな大人になってしまったのだろう。いつから純粋な自分を失ってしまったのか。
「そろそろ行くか」
 蒼に声を掛けられ「うん」と頷く。
 一方、蒼はレジへ向かうと、なんの迷いもなく英蓮の分の代金も払った。
「えっ、いいよ。これくらい自分で出すから」
「外へ引っ張り出したのは俺だから。付き合ってくれた礼だ」
「駄目だよ」
 慌てて財布かスマホを取り出そうとしたのだが、「ほら」と何かを押し付けられ手が塞がってしまう。
「えっ……」
 ケーキの箱だった。
 英蓮が慌てているうちにさっさと買ってしまったらしい。
「コーヒー代は荷物持ちのバイト代ってことでいいだろう」
「……」
 同居の申し出といい、コーヒー代といい、蒼はこんなに強引だっただろうか。
 記憶を探ったがそんな思い出はどこにもなかった。

 蒼が続いて英蓮を連れていった先は、学校から歩いて十分ほどのところにある河川敷だった。
「あっ、ここ昔よく来たね」
 バス通学だった二人は待ち時間ができると、よくこの川岸に遊びに来ていたものだ。
「昔は川の近くに柵ってなかったよね」
「子どもだけじゃなくて酔っ払いが何人か溺れて、十年前にこうなったって聞いた」
「ああ……」
 川際に柵が設置されただけではなく、かつて土だった河川敷は歩きやすい石畳になり、低木の街路樹が植えられている。
 ところどころにベンチが置かれ、近隣住民の憩いの場になっているようだった。
 うち一つのベンチに座り、直後に蒼がほとんど距離を取らず、隣に腰を下ろしたのでドキリとする。
 蒼の身長は一八二センチだと聞いている。並んで歩くと約二十センチ差があり、立ったまま会話すればそれなりに距離があるのに、座った途端差がなくなりより近くなってしまう。
 端整な顔立ちが間近になり焦っていると、蒼は「ほら」とペットボトルの紅茶をくれた。
「英蓮はケーキには紅茶だろ」
 確かに、英蓮はケーキには紅茶を合わせると決めている。
 しかし――。
「ここで食べるの?」
「もちろん。昔よくやっただろう」
 そういえば昔こっそりお菓子を買って、ここで蒼と二人で食べたものだ。買い食いが禁止されていただけに、いけないことをしているというワクワク感があった。
 そうか、このためだったのかと納得して茶を受け取る。
「大人って自由だねえ。ねえ、いつ買ったの?」
「さっき途中に自販機あったから」
 まったく気付かなかったのでまた驚く。
「そ、蒼ちゃんって行動が早いね」
「グズグズしていたらすぐに手遅れになるってこの六年でよく学んだから」
 パイロットの仕事は落ち着きや判断力だけではなく、手早い行動力も求められているのだろうか――そんなことを考えながらケーキの箱を開けた。
「あっ、レモンパイ」
 レモンパイは英蓮の好物だ。隣にはシュークリームが並んでいる。
「……ふふっ」
「どうした」
「うん、蒼ちゃん、ケーキの好みだけは変わっていないんだね」
 すっかり頼もしい大人の男性になり、ブラックコーヒーを飲むようになっても、シュークリーム好きは昔のままだった。そんなささやかな発見が嬉しくてつい笑ってしまう。
「……」
 蒼は英蓮をじっと見つめていたが、やがてふと唇の端を上げて微笑んだ。
「やっと笑ったな」
「えっ」
「食べるともっと楽しくなるぞ。ほら」
 蒼はレモンパイを摘まんで、英蓮の口の中に入れた。
 これではまるでカップルの、「はい、あ~ん」ではないかと焦る。だが、その焦りもレモンパイの爽やかな甘さに溶けて消えた。
「ひゃっ……あっ、美味しい」
 爽やかな酸味とクリームの甘味が絶妙なコントラストだ。
「じゃあ、俺も」
 蒼は次にシュークリームを頬張り、二口目に入る前に少々むすっとする。
「どうしたの?」
「カスタードクリームが……」
 なんだなんだと蒼の手元を見ると、シュークリームの後ろ側からクリームがはみ出ていた。長い指の先がカスタード色に染まっている。
「ずっとうまく食べられないんだよな。いつも尻の方から出ちまう」
「……」
 シュークリームの尻という表現にまた笑ってしまう。昔から蒼はシュークリームを三口で食べてしまうのだが、途中、必ずクリームで手を汚していたものだ。
「その癖も変わっていないね」
 バッグからティッシュを取り出し、蒼の手を取って指先を拭う。
「さっきレモンパイを食べさせてくれたお返し」
「……」
 黒い切れ長の目がわずかに細められる。それが嬉しいのか、照れ臭いのかはわからなかった。
「……ありがとう」
 蒼は最後に一言そう呟いた。
 英蓮はふとこんなに楽しいと感じたのは久しぶりだと思い出す。
 一ヶ月前は裏切られた悲しみと、肝心なところで男に逃げられる自分の不甲斐なさに打ちひしがれていたのに。
 蒼は開いた膝の上に手を組んで、秋の茜色の夕暮れ時の空を映した、川の水面を眺めている。
 もうこんな時間なのかと驚くのと同時に、一日も、一年も、一生も、時が経つのはあっという間なのだと実感する。
 何気なく隣の蒼に目を向けて、心臓がドキリと鳴った。
 子ども時代の面影はかすかにあるものの、精悍な顔つきはもう大人の男性のものだ。自分と会っていない間、どんな人生を歩んでいたのだろう。
 憂いを含んだ眼差しから目が離せなかった。

 その夜は久々によく歩いてほどよく疲れたからか、途中で起きることもなくぐっすり眠ることができた。
 まだ父が生きていた頃のように、不思議と誰かに守られている安心感があった。
「うう……ん」
 寝返りを打ち仰向けになる。
 ふと、誰かが髪を撫でる感触がした。骨張った大きな手だった。
 その心地よさに身を任せる間に、今度は額に温かい何かが押し当てられる。
「お休み、英蓮」
 その夜、英蓮は夢を見た。
 奈落の底に落ちる悪夢ではない。目覚めると忘れてしまったが、涙が出るほど懐かしい夢だったことだけは覚えていた。


 ――二人で暮らし始めてもう一ヶ月。
 そろそろ蒼との同居生活に慣れていい頃なのに、朝起きて、その端整な顔を見るごとになぜかドキドキしてしまう。
 蒼は空港に出勤するので、日中は落ち着いていられるのだが、寝て起きるとまたドキドキの繰り返しだ。
 あれから思い出ツアーも続けているが、そちらも次はどこに行くのだろうと、ワクワクに近いドキドキがある。
 なぜなら思い出ツアーは到着するまで行き先は知らされない。だからこそ次はどこだろうと楽しみになる。
 その日は電車に乗り少々遠出をすることになった。
「今日はどこへ行くの?」
「俺たちが好きだったところ」
 はて、どこだっただろうと首を傾げる。蒼と遊びに行った場所はたくさんあったからだ。
「図書館? 動物園? あっ、わかった! 博物館でしょう?」
 蒼は微笑むばかりで教えてくれなかった。
 ある駅で電車を降り、改札を抜けたところで、「目を瞑って」と頼まれる。
「驚かせたいから」
「えっ、本当にどこなの? 楽しみ」
 言われたままに瞼を閉じると、骨張った大きな手が英蓮の右手をぐいと取った。ドキリと心臓が大きく鳴る。
「えっ……」
 視界を閉ざされた状態なのだから、手を繋がなければ危険だとはわかる。しかし、何も指を絡めなくてもよくはないか。
 長く骨張った指が守るように自分の手を包み込んでいる。手の平はずっと広く、体温はずっと熱い。大人の男性の手なのだと意識してしまう。
 一度跳ね上がった心臓がそのまま早鐘を打ち始める。
「そ、蒼ちゃん……」
 密着しすぎていないか――そう指摘しようとしたのに、言葉を呑み込んでしまう。
 触れられるのが嫌ではなく、むしろ心地よさを覚えていたからだ。それに、蒼にはなんの気兼ねもなくすべてを任せることができた。

 手を繋いで二人で歩いている間、蒼は何も話さなかった。
 五分ほど経ったところで、「もういいぞ」と告げられ、恐る恐る目を開ける。
「あっ……」
 思わず声を上げる。
「うわあ……懐かしい」
 小学四年生まで暮らしたマンションだった。蒼と隣同士で過ごした日々が脳裏を過る。
「このマンション、もうすぐ増築されるらしい」
「ああ、そういえばこの辺り今人気のエリアだって聞いた」
「行くか」
「行くかって……蒼ちゃん、あの、手……」
 蒼はさすがに戸惑って声を掛ける英蓮を無視し、手を握ったままマンションの裏側に回った。
「この公園……」
 昔よく遊んでいたジャングルジムや滑り台は撤去されている。だが、間違いなく蒼とよく遊んだ児童公園だった。
「増築の都合で来年にはなくなるそうだ」
「えっ……」
「その前に英蓮を連れてきたかった」
 久々の秋空の青さまで切なく思えてしまった。
「そう……なくなっちゃうの」
 世界は自分たちだけの都合で動いてはくれない。仕方ないとはわかってもやはり寂しい。
 当たり前にあると思っていた場所も、人も、そして自分自身も時の流れの中で変わっていく。
 英蓮はその時をわずかな間だけでも留めようとして、蒼を見上げて「ねえ、遊ぼう?」と笑った。
 馬鹿にされるとは思わなかった。きっと蒼ならわかってくれるだろうと。
「ちょうど誰もいないし。……ね?」
 蒼はやはり戸惑いも恥ずかしがりもせず、微笑んで「わかった」と頷いた。
「何をして遊ぶ?」
「隠れん坊がいい」
 子どもの頃英蓮はじゃんけんが弱く、いつも鬼になっていた。大人になった今こそはと意気込んだのに、やはり負けたので笑ってしまう。
「じゃあ、私が鬼ね。蒼ちゃん、隠れて」
 すっかり葉を落とした桜の幹に手を重ね数を数える。
「十六、十七……もういいかーい」
「まだだ」
「そこはま~だだよって言わなきゃ」
 数分経って許可が下りたので振り返る。
「さ~て、蒼ちゃんはどこかな?」
 幼い蒼は隠れるのが得意で、勝手知ったる狭い公園なのに、長い時には見つけるのに三十分掛かっていた。
 だが、今は違う。
 英蓮は一分も経たずにくすりと笑って時計台に歩み寄った。
「蒼ちゃん、み~つけた」
 あれから何年も経って蒼は縦も横もすっかり大きくなった。もう隠れるところを見つける方が難しくなっている。
 予想通りに蒼は時計台の裏に隠れていた。「早いな」と苦笑する。
「この時計台も撤去されるの?」
「ああ。植物はなるべく移植するみたいだけど、設備はもう全部古くなっているんだろうな。ほら、この辺は土台が錆びている」
 この公園の時計台は教会の尖塔を模したデザインで、緑の屋根と白い壁が可愛く子どもたちに人気だった。
 今はすでに壁は薄汚れてメルヘンな雰囲気はない。
 人間と同じように公園も年を取り、死んでいくのだと思わせられる。
「そっか、残念……」
 細部を覚えておきたくてそっと触れる。
「あっ」
 下の方に黒い線で横棒が引かれている。
「……これって」
 何年前かは覚えていないが、昔蒼と背比べをしてつけた痕だ。よく見ると消えかけているが、「そう」「えれん」とも書かれている。
「うわあ、公園の管理人さんごめんなさい……」
 掃除で消えなかったのか。子どもの悪戯とはいえ、いけないことをしてしまった。今更だが会ったこともない管理人に謝る。
 それにしてもと線の痕を指先で辿る。
「私ってこんなに背が低かったんだ……」
 よくもこんなに小さな体で生きていたものだ。
 蒼は更に低い。そういえば小学校三年くらいまでは、自分の方が背は高かったと思い出す。
 蒼はその事実を思い出したのか、またあの少々むっとした顔を見せた。
「俺ってこんなにチビだったか?」
「うん、可愛かったよ」
 複雑そうな蒼を見て笑ってしまう。
「今はどうだ」
 蒼は時計台にぴったりと背をつけた。
「私、結局百六十センチ行かなかったんだよね」
 英蓮もなんの作為もなくその隣に並ぶ。
「蒼ちゃん、大きくなったね」
 何気なく蒼を見上げ、心臓がドキリと鳴った。
 切れ長の目にじっと見つめられていたからだ。
「ガキの頃、いつも英蓮に身長で負けて悔しかったんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ、だからやっと越えたって思えて嬉しい」
 いつもは変化に乏しい表情がくしゃりと崩れる。
「あっ……」
 幼い頃と同じ笑い方だった。
 蒼は昔こんな風に屈託なく笑っていた。その笑顔が消えたのは父親が出ていったからか。
 思わず目を奪われている間に、そっと頭の上に手を置かれる。
「……小さいな」
 蒼の黒い双眸が細められる。
「英蓮がこんなに小さくなっていたなんて思わなかった」
 思わず息を呑んでその目を見返す。
「みーちゃーん! 砂場空いているよー!」
 連れ立ってやってきた子どもの声が聞こえなければ、一体どれだけ見つめ合うことになっていたのか。
 英蓮は我に返って蒼から距離を取った。
「それにしても、もう何年も経っているのに、この落書きよく残っていたね」
 心臓がまだ早鐘を打っている。小学生の初恋でもあるまいしと、自分を叱り付けて懐からスマホを取り出した。
「せっかくだから写真に撮っておこうか。もう見られなくなるんだから」
「……ああ、そうだな」
 蒼の手は行き場をなくし、束の間宙を彷徨っていたが、やがてぐっと握り締められ下ろされた。
「その前にやりたいことがあるんだ。暗くなったら辺りが見えにくいだろうから」
「やりたいこと?」
「本当の目的はそれだったんだ」
 蒼は花のない桜の老木を指差した。
「十六年前、英蓮とあの桜の木の下にタイムカプセルを埋めた。覚えていないか」
「あっ……」
 タイムカプセルと耳にした瞬間、色鮮やかに遠い昔のあの日の記憶が蘇る。
 確か、当時人気だった子ども向けアニメの影響だった。
 自分たちもメッセージや大切なものを詰めてタイムカプセルを埋め、大人になった頃に掘り返そうと約束していたのだ。互いに中身は内緒で埋め、最後にやはり指切りげんまんをした。
 ワクワクした気分を今この時のことのように思い出した。
『英蓮ちゃん、忘れないで。一緒にここに来ようね』
『うん! 絶対に忘れない!』
 忘れないと約束していたのに、言及されるまで思い出さなかったので、申し訳なさに思わず謝る。
「ごっ……ごめんなさい。私ったらすっかり……」
「覚えている方が難しいさ。それに、今日は俺一人で掘り出す予定だった」
 けれどもと言葉を続ける。
「英蓮と来れてよかった」
「行こう」とまた手を繋がれる。
「そ、蒼ちゃん……」
 拒むこともできないまま桜の下に向かう。
 蒼はその場で腰を落とすと、バッグから園芸用のスコップを取り出した。
「公園の東の角にある桜の木の下の、一番太い枝の影の下……」
 土を少しずつ掬って脇に避ける。
 英蓮が息を呑んで見守っていると、約十分後、桜の根の近くから二つのプラスチックケースが出てきた。一つは空色、もう一つは小花柄だ。
「あった!」
 思わず声を上げてしまう。
 蒼は続いて軍手をはめ、慎重にタイムカプセルを取り出した。
「すごい、ちゃんと残っていた……」
 感動する英蓮を尻目にティッシュで泥を拭う。
「帰って開けよう!」
 つい興奮して提案したのだが、蒼は静かに首を横に振った。
「まだ早い。このタイムカプセルを埋めたのは七月七日だった」
「ええっ、よく覚えているね」
「英蓮がそうしようと言ったんだ。その日なら七夕で、ゾロ目だから絶対に忘れないからって」
「ご、ごめん……」
 それにしても、蒼はよく一六年も前の子ども同士の約束を覚えていたものだと感心する。
「……ありがとう。思い出させてくれて」
 蒼も忘れてしまっていれば、タイムカプセルは永遠に失われていたに違いなかった。
「忘れるはずがないだろう」
 蒼がタイムカプセルを英蓮の胸に押し付ける。
「えっ、これって……」
「七月七日になったら一緒に開けよう」
「……」
 それは来年七月まで一緒にいてくれるという約束になるのか――そう聞こうとして口を開き掛け、また閉ざす。
 今自分は何を口走ろうとしていたのか、気付いて愕然としたからだ。
 蒼に求められる立場でもないのに。
「うん、そうだね」
 笑顔でそう答えることしかできなかった。

 マンションに戻る頃にはすでに辺りは薄暗くなっており、蒼は「うわ、もうこんな時間か」と唸りつつ英蓮に入浴を促した。
「メシ作っとくから先入っていて」
 言われるままにバスルームに向かう。
 まず頭からシャワーを浴び、軽く頭と体を洗うと、ほっと溜め息が出た。
 蛇口を閉め鏡の中の自分を見つめる。
「……まずいなあ」
 蒼にどんどん依存していっている。
 小石川課長に紹介され、通っている心療内科では、蒼は彼氏だと認識されている。
 前回の通院では医師に、『頼りになる彼氏さんですね!』などと評価されていた。『新しい恋愛ができるようになったのはいい傾向ですよ』とも。
 同じ屋根の下で暮らしているのに、まさか幼馴染みですとは言い返しにくい。否定できないまま今に至っている。
 蒼自身が否定しないのも問題だった。
 以前二人で街に買い物に行った際、英蓮がちょっとトイレに行った隙に、女子大生と思しき二人に逆ナンパされているのを見かけたことがある。
『ねえ、お兄さん、一緒にカラオケ行かない? 奢るから』
『そうそう。それから仲間たちと飲み会なの。どお? 絶対楽しいから!』
 蒼はきっぱり断っていたようだが、二人は蒼を極上の獲物と見なしたのか、しつこく離れようとしない。
 英蓮はどうしたものかと迷っていたが、さすがに助け船を出そうとしたところで、蒼が視線に気付いたのか振り返った。「彼女戻ってきたから」と二人に告げる。
『えっ、彼女?』
 女子大生の一人も英蓮に目をやり、「ほーら、やっぱり」ともう一人の肩を叩く。
『こんな男に女いないはずがないじゃん。ほら、行こう。浮気はいい加減にしなよ。また彼氏に怒られるよ』
『え~……』
 二人はようやく諦め蒼から離れた。
 蒼が英蓮に「助かった」と手を振る。
『最近の若い女って積極的だな』
 そして、『彼女扱いして悪い』と謝ったのだ。
『よかったか?』
『う、うん……。ああ言わないと、あの子たち納得しなかったと思うし……』
『なら、よかった』
 以降、蒼はこうした場面に出くわすたび、蒼を「彼女だ」と紹介するようになった。
 そのたびになんともむず痒い気持ちになる。
「ああ、もう……考えまとまんない……」
 英蓮は湯船に鼻まで浸かった。
 お湯の温かさに身を任せる間に、うつらうつらと眠ってしまい、はっと気付いて慌てて上がる。
 今何時になっているだろう。長風呂になっていたら申し訳ない。
 脱衣所に出て壁掛け時計を見上げる。
「よかった……」
 まだ入って三十分しか経っていない。
 ほっとしてバスタオルを手に取った、その時のことだった。
 脱衣所のドアが開けられる。
「えっ……」
 蒼は脱衣所にある洗濯物入れにタオルを持ってきたらしい。
 一方、英蓮はまだ髪を拭いただけで一糸纏わぬ姿だった。
「……」
「……」
 互いに目を見開いて凝視し合う。
 最初に反応したのは蒼だった。
「……悪い!」
 後ずさってドアを閉め向こう側から謝る。
「まだ入っているのかと思って……」
「こ、こっちこそごめんね! なんだかタイミング悪かったね」
 英蓮は慌てて体を拭き、下着を身に着けながら、「見られた!?」と脳内でリフレインしていた。
 もちろん、ばっちり見られたに決まっている。
 だが、顔から火が噴き出そうな恥ずかしさよりも、自分の裸身をどう思われたかが気になった。
 俊と破談になって以来、すっかり痩せてしまっている。貧相になっているのではないか。足腰は引き締まっているか等々。
 とにかく部屋着に着替え、気まずい思いでダイニングに向かう。
 テーブルにはもう料理が並べられている。豚キムチ、ピーマンとニンジンのきんぴら、豆腐と若布の味噌汁と彩りがいい。
 いつもなら「わあ、美味しそう」だの、「豚キムチ好き」だのと褒めるのに、今夜はなかなか言葉が出てこなかった。
「お風呂、先にありがとう。夕飯任せちゃってごめんね」
「俺、風呂はあとでゆっくり入りたいタイプだから」
 いつも通りにいただきますと食事を始め、今日起こった出来事やニュースについて語り合う。
 しかし、どこかぎくしゃくしているのを英蓮は敏感に感じ取っていた。恐らく、蒼も。
 英蓮は味噌汁の水面をじっと見つめた。
 とにかく、今はしっかり食べて太り、体重をもとに戻さなければと頷く。
 もう二度とそんな機会はないかもしれないが、次に蒼に裸を見られた時には、「いい体だな」と思ってほしかったのだ。
 

 近頃、蒼の一挙一動が気になってしまう。
 英蓮は鏡の中の自分を見つめた。起きたばかりだからか寝癖がひどい。水で濡らして整え、よし大丈夫だと頷いて身を翻す。
 蒼とは同居しているので、当然早朝フライトがある日以外は、寝起きの顔を見られることになる。
 すでにすっぴんどころか痩せ細ってクマが浮き、よれよれのパジャマ姿を見られている。それどころか、全裸も目撃されている。
 今更恥ずかしいも何もないはずなのに、どうしてもみっともない格好を見られたくはなかった。
「……よし」
 パジャマ姿の中では一番マシだと言い聞かせ、リビングダイニングに向かう。
 キッチンでは蒼が鮮やかな手捌きでスクランブルエッグを炒めていた。
「蒼ちゃん、おはよう」
 なるべく自然に、いつも通りに声を掛けたつもりだった。
「おはよう」
 蒼が振り返り笑みを浮かべる。あの屈託のない笑顔だった。
 一緒に公園で隠れん坊と背比べをし、タイムカプセルを掘り出したあの日以来、蒼は時々昔と同じように笑う。
 蒼の笑顔を見ると英蓮も釣られて笑ってしまう。昔に戻った気分になるのもあるが、蒼が楽しいと英蓮も楽しくなるのだ。
「蒼ちゃん、私トースト焼くね」
「ああ、頼む」
 初めは世話をされっぱなしだったが、今では役割分担ができて、二人で家事をするのも嬉しい。ついこのままずっと一緒にいられればいいのにと望んでしまう。
「よし、できた」
 蒼はソーセージ入りスクランブルエッグを皿に移すと、サラダのボウルと一緒にダイニングテーブルに載せた。
「いただきます」
 手を合わせて朝食に取り掛かる。
 ボウルの中のサラダのミニトマトを目にし、ふと元婚約者はトマトが嫌いだったと思い出す。
 そして、ここに引っ越してきて以来、次第に悩み苦しむ時間が減ったどころか、今になるまですっかり忘れていたと愕然とした。
 自分はこうも薄情だったのかと嫌悪感に胸が詰まる。
 これでは父を亡くして二年後にもう恋人ができ、三年後には継父と再婚した母と同じだ。
 将来を誓い合った伴侶をすぐ忘れるような、そんな女だけにはなりたくなかったのに。
 先ほどまでの喜びが消え去り、あえて屈託のない笑顔を作って「美味しい!」と感想を述べる。
「蒼ちゃんのスクランブルエッグって硬さが絶品」
「サンキュ。英蓮のソーセージを混ぜるってアイデアもよかった。これだけでもう立派なおかずになるからな」
 一途に一人の人を愛し、結婚し、生涯をともにする、そんな人生を歩みたかった。
 なのに、結婚どころか恋人ではない男性とともに暮らすなど、ふしだらやはしたない以前の問題ではないか。
 つい先ほどまで蒼に少しでも綺麗だと思ってもらいたいと、身なりを整えていた自分が嫌になってしまう。
 この場から逃げ出してしまいたかったが、蒼に不審に思われたくなかった。
 サラダのミニトマトを口にすることもなくつつきながら、この暮らしは終わらせるべきではないかと迷う。
 蒼にも蒼の暮らしがあるのだ。これ以上付き合わせるわけにはいかない。
 だが、いつ、どう話を切り出せばいいのかがわからなかった。
「英蓮」
 名を呼ばれてドキリとする。
「なぁに?」
「十二月って休みはあるか?」
「うん、うちの会社は土日なら休み。海外の取引先に合わせて、クリスマスからは冬季休暇もある」
「そうか、なら、久々に思い出ツアーに行くぞ。多分、これが最後になる」
 英蓮は最後という表現に衝撃を受けて目を瞬かせた。
 確かに、蒼とともに暮らす中で、心の傷は大分癒えている。付き合いの長い蒼はそれを認識しているだろう。
 思い出ツアーの終わりと同様に、この奇妙な同居生活も終わらせるつもりなのだろうか。
 胸の奥がズキリと痛んだ。その痛みのもとは俊の駆け落ちで付いた傷ではなかった。

 元婚約者の駆け落ちもある日突然で予想外だったが、蒼との暮らしも不意打ちで終了させられるとは思っていなかった。
 すべての物事には始まりと同時に終わりがあり、自分が関われるところはあまりない――すでに知ってはいるが複雑な心境になってしまう。
 つい最近まで別居を望んでいたはずなのに、こんな気分になるとは自分はなんと身勝手なのだと呆れながら、英蓮は蒼と最後の思い出ツアーに出掛けた。
 電車に揺られて四十五分、バスに乗り換えて十五分、この先には繁華街もなければ人が集まる施設もないので、一体どこに行くのかと首を傾げる。
 蒼は目的のバス停に到着すると、英蓮の手を取りのんびり道を歩いていった。
 タイムカプセルを掘り出したあの日以来、蒼は外に出ると手を繋ぐようになっている。
 それほど頼りなく見えるのかと情けなくなったが、振り解こうとは思えずそのままついていく。
 途中、ふと蒼が足の速さを自分に合わせてくれているのに気付く。蒼からすれば亀の歩みも同然だろうにと胸が切なく疼いた。
 そんな気持ちを誤魔化したくて口を開く。
「今日、天気よくてよかったね」
 数日前まで雨が降っていたので心配だったのだ。
「ああ、本当に」
 二人で薄い雲がところどころに浮かぶ青空を見上げる。
「こんなに綺麗な冬晴れは久しぶり」
 そういえば、亡き父の葬儀が執り行われた日も、こんな晴れた日だったと思い出す。
 次の瞬間、思わず声を上げそうになったのを堪える。
 心の病気を治療し、体を回復させ、仕事の復帰のために前準備をしてと、元の自分に戻るのに必死で父の命日を忘れていたと気付いたからだ。
 十六年で初の失態だった。
 同時になぜこの町に見覚えがあり、蒼が連れてきてくれたのかを理解する。
「蒼ちゃん、お父さんの命日覚えていてくれたんだね」
 蒼は肩を軽く竦めて微笑んだ。
「おじさんには俺も世話になったからな」
 それから更に十五分歩くと、不意に家屋やビルが消えた。
 広々と切り開かれた土地は木や植え込みで取り囲まれ、区画整理されているのでミニチュアの街のように見える。ただし、墓石が家屋に当たり、住人は死者なのだが。
 都民の墓地需要を満たすため宗教を問わないので、敷地面積は実際街くらいあり、何も知らなければ迷いそうになるのだが、英蓮と蒼は躊躇いなく歩道を進んでいった。
 南側にある一区画の木の下にある墓石の前で足を止める。
「あっ……」
 すでに花と落雁が供えられている。
 母が墓参りに来たのだろうか。
 ひとまず周囲を軽く掃除し、枯れた花を取り除く。
「お供え物なんかは用意してあるから」
 蒼がボストンバッグから仏花と最中の包みを取り出す。
 相変わらず用意がいいと苦笑しつつ、蝋燭に火を灯し、腰を落として手を合わせた。蒼も隣で同じように祈ってくれる。
 心の中で亡き父に話し掛ける。
 ――お父さん、久しぶりです。天国の暮らしはどうですか? 私はちょっと凹んでいましたが、蒼ちゃんのおかげで元気になってきました。

 父の英司(えいじ)を亡くしたのは英蓮が小学四年生の頃。
 いつもは午後六時には帰宅する父が帰宅せず、心配して最寄り駅まで迎えに行った。しかし、七時になってもなんの連絡もない。
 不吉な予感を覚えて自宅に戻り母に告げると、直後に勤務先から電話がかかってきた。父がオフィスで倒れ、救急車で運ばれたと。
 慌てて二人で病院に駆け付けたのだが、時すでに遅く父は帰らぬ人になっていた。
 医師によるとくも膜下出血で、手の施しようがなかったとのことだった。
 信じられなかった。
 だって、朝食もいつものように家族三人で食べて、母の蓮実(はすみ)と一緒に「行ってらっしゃい」と送り出して、当たり前の日常が明日も繰り返されるはずだったのに。
 無機質な銀の台の上に横たえられた英司の顔には血の気がない。初めて人の死を目にする英蓮にすら、父はもう二度と起き上がらないのだとわかってしまった。
『英司さん……!』
 蓮実が父に縋り付いて慟哭する。「なぜ」「どうして」と身も世もなく涙を流している。
なのに、子どもの英蓮は泣けなかった。
 受け入れたくない現実を受け入れ、その場に立つだけで精一杯だったのだ。
 蓮実を含めた周囲の大人たちは、そんな英蓮を「しっかりした子だ」と評価した。
 英蓮が悲しみでおかしくなりそうなのを誤魔化すため、通夜や葬儀、告別式の準備を手伝おうとしたのもあるだろう。
 突然死だったのもあり、バタバタとした英司との別れが終わると、今度は母子二人きりの暮らしを受け入れなければならなかった。
 不幸中の幸いで貯金があり、加えて英司の生命保険が支払われたので、当面の生活には問題なかった。
 とはいえ、今後を考えると贅沢はできない。幼い頃から慣れ親しんだ賃貸マンションを出て、横浜の母方の実家に世話になることになった。
 蒼と別れ別れになったのもこの時だ。
『今度お祖母ちゃんのいる横浜に引っ越すことになったの』
 そう告げると目を見開き、「嫌だ」と唸った。
『英蓮ちゃんと離れたくないよ。でも……』
 ぐっと拳を握り締め、「また会えるんだよね」と尋ねる。
『もちろんだよ。携帯だってメールだってあるし、電車でも一時間くらいじゃない』
 それでも、ドアを開ければ「遊びに行こう!」と誘い誘われた今までとは違う。今度は関係を維持するために努力が必要になってくる。
 だが、二人の交流はその後も続いた。
 今にして思えば単に幼馴染みというだけではなく、英蓮は父を病で、蒼は離婚でなくしたという共通点もあったからだろう。直接話題にすることはなかったが、互いの寂しさを理解し、慰め合っていたのだと思われる。
 しかし三年後の英蓮が中学生一年生の頃、家庭環境が再び大きく変わることになる。
 母の蓮実が再婚したのだ。
 薄々察してはいた。
 蓮実は一年目には就職し、仕事に慣れるのに必死だった。
 ところが、二年目になると次第に外出が増えていき、時折着飾って夜英蓮を置いて出掛けるようになったのだ。
 いくら英蓮が子どもでも気付く。
 祖母がおり一人にされることはなかったが、苛立ちのような怒りのような悔しさのような、様々な負の感情が入り交じった複雑な思いに駆られた。
 ――まだお父さんが死んで二年も経っていないのに。
 そうもあっさりと立ち直り、他の男に目を向けられるものなのかと、女としての蓮実に嫌悪感を抱いた。
 だが、不満を口になどできなかった。祖母を困らせたくなかったからだ。
 祖母はいつもこう英蓮を褒めた。
『英蓮ちゃんはいい子だねえ。なんでもお手伝いしてくれるし、我が儘を言ったこともない。蓮実が子どもを産むって聞いた時には、あんな甘えん坊が大丈夫かって心配だったんだけどねえ。英蓮ちゃんを育てられたんだから、あの子もちょっとは褒めてあげなくちゃね』
 自分がいい子の仮面を脱ぎ捨て、恋に夢中になる蓮実を非難すれば、祖母も母を責めざるをえなくなる。
 だから、ぐっと我慢した。他にどうすればいいのかもわからなかった。
 蓮実に再婚すると聞かされたのは、それから更に一年後のこと。
『英蓮、今度の日曜日空いている?』
『うん、空いているけどどうしたの?』
 久々に母と二人でどこかへ出掛けられるのだとウキウキした。
 そんな英蓮を目の前にしながら、蓮実は「お母さん、プロポーズされたの」と頬を染めた。
『えっ……』
 冷水を浴びせられた気がした。
『高瀬一郎(いちろう)さんって人なんだけど、英蓮にぜひ会いたいって。回らないお寿司屋さんなんて行ったことないでしょう?』
 ――お父さんが亡くなってまだ間もないのに?
 恋人ならまだ我慢できたが、その高瀬とやらが蓮実と夫婦になり、自分の父親になるのだけは受け入れられなかった。
『ご、めん。私、今週は友だちと約束があって……』
『あら、残念ね。じゃあ、来週は?』
 ショックで視界がぐらぐらと揺れた。
 週末は都合がつかないと断り続けたからだろう。蓮実は英蓮の拒絶に気付いているのかいないのか、一ヶ月後、ついに実家に高瀬を連れてきた。
 高瀬は人のよさそうな中年男性で、母の勤め先の上司なのだという。一緒に仕事をしているうちに惹かれ合い、結婚を考えるに至ったと。
 祖母は当初母の再婚に反対し、高瀬を警戒していた。
 ところが、高瀬が英蓮と養子縁組をするつもりだと聞いた途端、一転して再婚賛成側に回ってしまったのだ。
『まあまあ、英蓮ちゃんを引き取ってくれるんですか?』
 高瀬は「もちろんです」と頷いた。
『蓮実さんもそう希望されていますし』
『ですが、高瀬さんは初婚でしょう。いきなり中学生の女の子の父親になるなんて大丈夫ですか?』
『僕はこの通り中学生、高校生の子どもの一人や二人いてもまったくおかしくない年です。
結婚したら娘がほしいなと思っていたので、かえってありがたいくらいですよ』
 英蓮は蓮実が再婚することになったら、祖母の家でこのまま暮らしたいと希望していた。
 母がかつて父に見せていた笑顔を他の男性に向けるところなど見たくなかったし、亡き父以外の男性をお父さんと呼ぶことなどできそうになかったからだ。
 英蓮は耐えきれずに口を挟んだ。
『お祖母ちゃん、私、お母さんと高瀬さんの邪魔はしたくないよ』
『でも、高瀬さんもああ言ってくれているんだし。お祖母ちゃんももう年で、いつどうなるかわからないからねえ』
『そうよ、英蓮。そんなに高瀬さんが嫌?』
 高瀬が嫌なのではない。実父以外は皆嫌だ。
 だが、蓮実に今にも泣きそうな、悲しそうな目を向けられると、やはり何も言えなくなってしまう。祖母を困らせることにもなるのだと思うと、結局蓮実についていくという選択肢しか残されていなかった。

「……」
 英蓮は目を開けると苦笑して墓石を見つめた。
「そっか……。そうだったのね」
 すでにお参りを終えた蒼が「どうした」と首を傾げる。
「うん。ここに来て色々わかっちゃった」
 あれほど結婚を望んでいたのは、心の中でずっと燻っていた母への反発心と、寂しさが原因だとわかってしまった。
 蒼にというよりは蒼を通して自分に語り掛ける。
「私、お母さんに再婚してほしくなかったんだよね。本当はあの時ちゃんとその気持ちをぶつけて、とことん話し合わなくちゃいけなかったのに」
 いい子の仮面を脱ぎ捨てる勇気がなかった。
「ずっと私とお父さんだけのお母さんでいてほしいって言えばよかった。お父さんをずっと好きでいてほしいって。そんなことは無理だってわかっていてもちゃんと……」
 元婚約者の俊とは六年付き合った。
 その間何度も浮気をされたし喧嘩したし、別れようと考えたことも、別れを切り出されたこともあった。だが、そのたびに話し合いをしてよりを戻した。
 今にして思えば何がなんでも関係を維持しようと努力し、結婚にまで至ったのも、父の死後すぐに恋人ができ、再婚した母への反発心からだったのだろう。
 ――私はお母さんとは違う。一人の人を愛して、結婚して、添い遂げてやると。
 気付いてしまえば実に馬鹿らしい。馬鹿らしいけれども、人間とはそうした馬鹿らしい意地で生きているのではないかとも思う。
 自分だけの家庭がほしいと切望していたのは、新たな家庭では居場所がないと感じていたからだ。
 高瀬と蓮実が再婚して二年後、二人の間には異父弟の拓実(たくみ)が生まれている。
「拓実は私より十五も年下で、赤ちゃんだもの。お母さんを独り占めして当たり前だし、お継父さんだって初めての子どもなら可愛がって当然だよね」
 英蓮はそんな家庭環境の中で、疎外感を覚えて拗ねた。
 早く自分だけが異分子の家から出ていきたかった。
 だから、進学先の大学が同じ都内にあるにもかかわらず、一人暮らしを始めた。高瀬は学費を出すと言ってくれたのに、奨学金を取ったのも世話になりたくなかったからだ。
「わかっちゃうと、本当に単純」
 というよりは、わかってはいても認められなかったのだろう。
 認めるまでに十年以上かかってしまった。だが、今は心の中がすっきりして、今日の青空のように澄んでいる。
 心のしがらみが取り払われると、今まで見えなかったものが見える。
 高瀬がちゃんと自分の誕生日を覚えていて、必ずケーキを買って帰ってくれたこと。母が高瀬よりも先に赤ん坊の拓実を抱かせてくれたこと。女の子の一人暮らしは危ないと、高瀬と母が家を出るのを引き止めてくれたこと。
 二人とも自分を大事にしてくれていたのに。
「……空、綺麗ね」
 雲一つない快晴でどこまでも澄んでおり、天国まで見通せそうだ。
「お父さんもこっちが見えるかな」
「ああ、きっと見ているさ」
 きっとずっと馬鹿な娘だと心配していただろうなと思うと、ぐっと熱いものが目と胸の奥から込み上げてきた。
 人前で泣くなみっともないと、答えようとしたのに止まらない。しゃくり上げ、子どもに戻ったように泣いてしまう。
「ご、ごめ……」
 慌てて立ち上がり蒼に背を向ける。
 二十六歳にもなってみっともないと思い、泣かれているところを見られたくなかった。
「ごめん……なんだか、お父さんのこと、思い出しちゃって」
 溢れ出す思いが透明の雫に溶け込み、次々と流れ落ちていく。
 幼い日に父を亡くした慟哭も、高瀬と蓮実の再婚への反発も、一人で家を出てからの寂しさも、俊との六年間の思い出も、駆け落ちされた悲しみもすべて。
「英蓮」
 名を呼ばれて振り返ろうとして、不意に背後からふわりと抱き締められ息を呑む。
「そ、蒼ちゃん……?」
「これなら見えないだろう」
「……」
 反則だと内心独りごちる。
 振り払おうとはしなかった。広い胸に包み込まれていると、幼い頃父に抱かれていた頃のように安心できた。
 途中、家族で墓地にやってきた子どもに、「ラブシーンしている!」と囃し立てられるまで、蒼はずっと英蓮を抱き締めてくれていた。

 墓参りを終えた英蓮と蒼は、途中近くの商店街に立ち寄り、夕食のための買い物をして帰った。
「たくさん買っちゃったね」
 電車の中で一息吐く。
「蒼ちゃんがいてくれないと、こんなに野菜買えなかった。ごめんね、大荷物になっちゃって」
 玉ネギとニンジン、ジャガイモが特売になっていたので、つい大量に買い込んでしまった。今夜は英蓮が腕を振るってハッシュドビーフを作ることになっている。
 蒼は大きな買い物袋を軽々と持ち上げながら、「こんな時のための男手だろ」と笑った。
 自宅マンションの最寄り駅まで四十五分。途中、席が空いたので隣り合って腰を下ろす。
 電車がガタンと発車した拍子に、揺れで二の腕が触れ合い、意識して身動ぎしてしまう。同時に先ほど墓地で抱き締められたことを思い出し、今になって心臓が早鐘を打ち始めた。
「英蓮」
「な、何?」
 顔を見るのが気まずく、前を向いたまま答える。
「さっきは悪かった」
 何がとはさすがに聞けなかった。
「あっ、うん。気にしないで」
「俺さ――」
 蒼は何か言おうとして、すぐに口を噤んだ。
「今日のハッシュドビーフ楽しみだ」
「あっ、うん。私が料理するの久しぶりだもんね」
 そうか、もう料理できるほど元気になったのかと実感する。
 電車に揺られながら、すべて蒼のおかげだと思う。
 初めは尻込みしていた心療内科に行けたのも、蒼が付き添ってくれたからだった。
 一人ではここまで来られなかっただろう。
 思いを馳せるうちにも電車は次々と駅を過ぎていく。
『え~、次はS井戸、S井戸~、お降りの方は左側のドアをご利用ください』
 二つ先の駅で降りなければならない。
「蒼ちゃんもうすぐ」
 声を掛けようとした途端、肩にとんと軽く何かが当たった。
 蒼が肩に頭をもたせかけ転た寝をしていたのだ。昨日遅いフライトがあったので疲れているのだろう。
「えっと……」
 小さな寝息に合わせて心臓がドキドキと早鐘を打つ。
 切れ長の目は閉ざされ、あの凜とした黒い瞳は見えない。いつもよりずっとあどけなく見えた。
 そっと抱き締めて、ずっと見ていたい思いに駆られる。
 ――ああ、そうだったんだ。
 英蓮はようやく薄々気付いていた気持ちを認めた。
 ――私、蒼ちゃんが好き。
 二人で思い出の地を巡るうちに、いつの間にか恋に落ちていた。
 それは元婚約者の俊と付き合い始めた頃より、ずっと優しく穏やかで、情熱的というよりは温かな思いだ。
 そっと蒼の黒い髪に手を埋める。
 降りる駅までは蒼を寝かしておこうと思う。この温もりをまだ手放したくなかった。


------
ご愛読ありがとうございました!
この続きは2月5日発売予定のオパール文庫『幼馴染みのエリートパイロットは捨てられ花嫁を独占したい』でお楽しみください!