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幼馴染みのエリートパイロットは捨てられ花嫁を独占したい 2

第二話

 ――幼い頃、蒼は小柄ですぐに泣く子どもだった。
 犬に吠えられて怖かったと泣き、転んだと泣き、お父さんが一緒に遊びに行く約束を破ったと泣いていた。
 当時の蒼はお父さんっ子で、多忙で留守がちだという父親が帰宅するたび、英蓮に「昨日はお父さんが帰ってきたんだ!」と報告してくれたものだ。
 その父が外資系航空会社のパイロットだったからだろうか。蒼は「お父さんみたいなパイロットになりたい」といつも口にしていた。
 ところが、ある日を境にピタリと父親の話をしなくなった。
 それだけではなくパイロットという単語に敏感に反応し、一緒に見ていたテレビで航空特集が組まれようものなら、すぐにチャンネルを変えるようにもなった。
 何があったのかと聞いてみても、「なんでもない」としか答えない。
 心配だが蒼は繊細で傷付きやすいと知っていたので、無理に聞き出すこともできずに手をこまねいていた。
 そんなある春の夕暮れ時、英蓮は久々に一人でマンションに帰った。
 いつもは蒼と一緒にバスで帰ってくるのだが、教室に迎えに行ったところ、クラスメートに「今日は学校に来ていないよ」と教えられたのだ。
『先生も心配していて、おうちに連絡入れるって言っていた』
 朝は一緒に学校に来たのにと驚いた。つまり、それぞれの教室に着く前に、学校から姿を消したということになる。
 無断でサボるなど蒼らしくもない。
 だが、英蓮はこんな時蒼がどんな思いでいて、どこに行くのかを知っていた。だから、ある場所へ迎えに行ったのだ。
 当時英蓮と蒼が暮らしていたマンション裏には児童公園があった。
 桜やツツジが植えられ緑豊かなだけではなく、ジャングルジムや滑り台、砂場などの遊具が設置されている。大きな時計台もあり、親の目が届くのもあって格好の遊び場となっていた。
 あいにくその日は小雨が降っていたので、公園内に子どもたちの姿はない。
 それでも、英蓮は迷いなく足を踏み入れ、真っ直ぐに一際大きな桜の木を目指した。
『蒼ちゃん!』
 裏側に回り、木の幹に背を預け、膝の間に顔を埋めて蹲る蒼に声をかける。
『英蓮ちゃん……』
 よいしょと隣に腰を下ろし、「桜、散っちゃうね」と笑う。言葉に合わせて薄紅色の花弁がひらり、ひらりと雨の雫とともに舞い散った。
『ずっと咲いていてほしいのに』
『……』
 蒼は何も答えない。
 英蓮は蒼が泣き虫なだけではなく、寂しがり屋であることも知っていた。こんな時には隣にそっと寄り添ってほしいと願っていることも。
 だから、数分後に蒼がようやく口を開くまで、それ以上話そうとはしなかった。
『お父さん……違ううちに行っちゃったんだ』
 なんと一ヶ月前からいないのだという。
『えっ、おじさんが? 違ううちってどこ?』
『どこかまではわからない。でも、僕とはもう暮らせないからって。お父さんとお母さん……リコンしたんだ』
 英蓮のクラスメートにも母子家庭、もしくは父子家庭の子どもがいたので、離婚が何を意味するのかを曖昧にではあるが把握していた。
 だが、自分たちに起こりうることだとはまったく考えていなかった。
 蒼の父親と蒼は仲のいい親子だった。英蓮も父親に何度か会ったことがあったが、背が高くて笑顔の爽やかな、素敵なおじさんだと思った記憶がある。
 まさか、そのおじさんが蒼を置いて出ていくなんて。
『リコンってどうして? おじさんとおばさん、あんなに仲良しだったのに』
『お父さんに他に好きな人ができたからだって……』
 蒼の母親は初め離婚の理由を蒼に教えようとはしなかった。まだ父親を必要とする幼い息子に真実を告げるのは酷だと思ったのだろう。
 しかし、蒼自身が真実を知ってしまった。
『僕、今日朝の挨拶の前にお父さんを見かけたんだ』
 見間違えるはずがないと蒼は断言した。
『学校の近くのバス停で誰かの車から降りて……』
 父親がバスに乗ろうとしたその時、蒼は車の後部座席から小さな子どもが降り、駆け寄って抱き付くのを見たのだという。
『僕よりずっと小さな女の子だった。声は聞こえなかったけど、その子がお父さんを確かにパパって呼んだんだよ。お父さんは僕のお父さんを止めて、あの子のパパになっちゃったんだ』
 のちに知ることになるのだが、蒼の父親は不倫をしており、相手との間に子どもまでできていた。しかも、蒼の母親との家庭を行き来していたのだと。道理で留守がちだったはずだ。
 英蓮は思わずひどいと口走りそうになった。蒼が父を慕い、航空機と空に憧れていたのを知っていただけに、英蓮も蒼の父を許せない気持ちになった。
 だが、ぐっと堪える。
 蒼の声は怒りよりも悲しみに満ちている。まだ父親を慕っているからこそだと理解できたからだ。
 蒼が雨雲を見上げてぽつりと呟いた。
『僕がもっといい子だったらお父さんは出て行かなかったかなあ……』
 蒼のせいではないと慰めてやりたかったが、きっと心には響かないだろう。そう感じたからその代わりにそっと黒い髪を撫でた。
『蒼ちゃんは何も悪くなんかない。世界一いい子だよ。ううん、どんな子でも私は大好き』
 自分が同じ状況なら一番ほしい言葉を歌うように口ずさむ。
『……本当に? ずっと変わらない?』
『うん、変わらない』
『約束……してくれる?』
『もちろん。指切りげんまんしようか?』
『……』
 蒼がやっと微笑んで指を差し出す。英蓮はその頬に落ちた桜の花弁を涙のようだと思った。
 同じくらい小さな二本の指が絡まった。

 ――父親の裏切りがよほどショックだったのだろうか。
 その後蒼は「パイロットになりたい」と言わなくなった。すっかり表情が乏しくなり、時折微笑むくらいになっていた。
 だから、何年か経ったのち、また「やっぱりパイロットになる」と言い出した時には驚いた。「僕、いつかあそこへ飛んでいくんだ」と青空を指差すようにもなった。
 一体何がきっかけで、蒼は再び空を目指すようになったのか――。

 頭がズキズキする。
「うう……ん」
 痛みを堪えつつゆっくりと目を開けると、オフホワイトの天井と蛍光灯の光が視界に飛び込んできた。
 なんとか体を起こした途端、「英蓮!」と名を呼ばれたので振り返る。
「蒼ちゃん? ここって……」
「まだ寝ていろよ。昨日倒れたんだ」
 慌てて救急車を呼んで、病院に運び込んだのだとか。
「えっ、倒れた?」
 蒼が心配して見舞いに来たところまでは覚えているものの、そこから先の記憶がまったくなかった。
「睡眠不足と、水分不足と、栄養不足。栄養剤を点滴で打ってもらった」
 幸い入院するほどではないので、意識が戻り次第帰宅してもいいそうだ。
「……迷惑掛けちゃったね」
「……」
 蒼は溜め息を吐いて、ベッドの縁に腰掛けた。
「やっぱり何も胃に入れてなかったんだな」
「……ごめん」
「謝ることなんかない。英蓮は何も悪くない」
「英蓮は何も悪くない」――その一言に涙が込み上げてきた。掛け布団を握り締めてぐっと堪える。
「あはは、情けないね。昔は私がお姉さんで、蒼ちゃんの面倒を見ていたのに」
「お姉さんって一ヶ月早く生まれただけだろ」
 蒼は呆れたように英蓮の目を覗き込んだ。精悍な顔立ちがすぐそばに来て、心臓がドキリと跳ねる。
 幼い頃もここまで顔を近付けたことはなかった。
 蒼の瞳は深みのある黒で、濃い影を落とす長い睫毛も同じ色だ。見つめていると吸い込まれそうになる。
 蒼は英蓮の額に手を当て、「熱はないな」と頷いた。姿勢を正し、あらためて英蓮に向き直る。その切れ長の目は視線を逸らせないほどの真剣さを湛えていた。
「たった一ヶ月でここまで弱ったんだ。これ以上英蓮を放っておけない」
「で、でも……」
「でもじゃない。俺からの電話も取らなかったし、メッセージもろくに読んでいなかっただろう」
「……」
 情けないのだが崩れ落ちそうな心を支えるのに一杯一杯、会社に連絡を取るのがやっとで、蒼にはろくに返事をしていなかった。
「ごめんなさい……」
「謝ってほしいわけじゃないんだ。……ただ、心配なんだ。英蓮が倒れた時、死んだんじゃないかって焦った」
 まさかと笑い飛ばそうとしたができない。
 死とは想像する以上に身近で、ある日突然なんの前触れもなくやってくる。父が若くして亡くなったことで、嫌というほどよく知っていた。
「英蓮のおふくろさんにも顔向けできないし。そこでだ」
 背を屈め広げた膝の上で手を組む。
「俺が英蓮が元気になるまで面倒を見る」
「……へ?」
 きっと今二十六年の人生でもっとも間抜けな顔をしているに違いない――そう思うほど蒼の提案は突飛で英蓮の常識では有り得なかった。
「め、面倒を見るって?」
「俺の家に来い」
 2LDKだから英蓮の分の部屋もあるという。
「このマンションにいると辛いんじゃないか」
 図星だった。
 冗談だろうと問い返そうとしたものの、やはり蒼の眼差しは真剣で、そんなことを口にできる雰囲気ではない。
「で、でも、ほら、蒼ちゃん狙っている女の子もいるだろうし、その子に知られたらまずいでしょう?」
「……」
 蒼はなぜか答えない。
「それに、私今なんにもできないから、介護みたいになっちゃうよ」
「構わないよ。ずっと一人暮らしをしてきたから大抵の家事はできるし、一応人命救助の訓練も受けているから。それに、英蓮のおふくろさんからも頼まれているんだ」
「えっ……」
 母は何度か英蓮の様子を見にマンションにやってきたそうだ。だが、チャイムを鳴らしてもなんの反応もない。
 ならばと管理人に鍵を開けてもらうよう頼んだが、警戒して断られてしまったと。
 最近借金を抱えて絶縁された親が娘の部屋を訪ね、同じ手口で鍵を入手し、貴重品を盗んだ事件があったかららしい。
「またおふくろさんが来ても気まずいだろう?」
 蒼と母とどちらがましか――究極の選択で答えが出せない。
 一方、蒼は戸惑う英蓮に容赦なく最後通牒を突き付けた。
「英蓮は俺が信用できない?」
「そ、それは……」
「……悲しいな」
「ま、待って!」
 蒼は長年の幼馴染みであり恩人でもある。
 代理で結婚式に出席してくれただけではなく、倒れたところを助けてくれたのだから。そんな蒼の申し出を無下にするわけにはいかない。
「じゃあ……その……よろしくお願いします」
「じゃあ、引っ越しの手配をしなきゃな」
 内心、蒼はこんな強引な性格だったかと首を傾げる。
 記憶を探ってみたが、その答えは見つからない。ただ、昔の泣いていた幼い蒼が脳裏に浮かんだだけだった。


 英蓮には同棲の経験がない。
 元婚約者の俊とは結婚後の同居になるはずだった。
 なのに、まさか恋人でも夫でもない蒼の部屋に転がり込み、二人暮らしをすることになるとは。「卒業」されたのもそうだが、人生とはつくづくどうなるかわからない。
 元いたマンションはひとまず管理人に当分留守にすると伝えておいた。
 そして、いくらあのあと心療内科に行き、軽い鬱病だと診断されたからとはいえ、甲斐甲斐しく世話される羽目になるとも思わなかった。

 ――広々とした調理台で蒼が小気味よいリズムで野菜を切り刻んでいる。
 エプロン姿が小憎らしいくらいさまになっている。英蓮はその周囲をオロオロ、ウロウロと歩き回っていた。
「そ、蒼ちゃん、ご飯くらい私が作るから……」
「駄目だ。寝ていろ。そっちに持っていくから」
 そっちとはベッドだろうか。このままでは「はい、あーん」をされてしまうかもしれない。さすがにそこまではさせたくないし、英蓮も大人の女としてのプライドがある。
「だ、ダイニングで! せめてダイニングでお願い! さすがに座って食べるくらいできるから!」
 初日からこの調子では今後が思いやられる。
 英蓮は痛む頭を押さえつつ椅子に腰を下ろした。
「もう……」
 仕方なくテーブルに頬杖をつき、すっかり広くなった蒼の背を眺める。
「蒼ちゃんって料理できたんだね」
「ああ。自炊なら好みの味にできるしな。栄養面でも安心できる」
「メニューは何?」
「できるまで秘密」
 蒼は悪戯っぽく笑うと、しーっと人差し指を形のよい唇の前に添えた。
 ついドキリとしてしまう。
 こんな笑い方をするなんて、幼馴染みなのに知らなかった。
 それにしても、まるで新婚夫婦のような遣り取りだ。楽しい。
 もし無事に俊と結婚していれば、こんな暮らしをしていたのかもしれない。
 そう思うとまだ癒えない心の傷がズキリと痛んだ。
「よし、終わり」
 十分後、蒼が盆を手にダイニングにやってきた。
「メインが鶏肉のソテーデミグラスソース、副菜にジャガイモと切り干し大根の煮物、ブロッコリーとカニカマのサラダ」
 美味しそうな食卓に目を見張る。栄養面だけではなく彩りもいい。
「すごい……。こんなにちゃんとしたご飯、余裕ある夜しか作らなかったよ」
「さあ、食おうか」
 蒼は向かいの席に腰を下ろした。
「いただきます」
 二人揃って手を合わせると、新婚夫婦のようでドギマギする。
 蒼ちゃんは幼馴染み、幼馴染みと言い聞かせたのだが、何せ真向かいにいるので意識せざるを得ない。
 そんな自分の気持ちを誤魔化すように、まずはご飯を、続いてソテーを恐る恐る口に入れる。
「……美味しい」
 こんなに美味しいものがあったのかと思うほど美味しい。久々のまともな食事に全身が歓喜に打ち震えているのを感じる。
 一人で部屋に閉じ籠もっていた時には何を食べてもすぐ吐きそうになったのに。
「サラダも美味しい。このドレッシングは何?」
「めんつゆとすりごま」
「ええっ」
「めんつゆって結構便利だぜ。醤油並みの万能調味料だよ」
 料理の味もいいが蒼の食いっぷりもいい。
 男性らしくパクパクとあっという間にご飯を一杯、二杯と平らげてしまうが、慌てた様子はなくむしろ育ちの良さを感じた。
 英蓮の視線に気付いた蒼が箸を止める。
「なんだ?」
「蒼ちゃんがあんまり美味しそうに食べるから。昔は小食じゃなかった?」
「俺のことばかり見ていないで、ほら、もっと食べろ。英蓮はただでさえ細いんだから」
「……ありがとう」
「食い終わったらちゃんと薬を飲めよ」
 煮物を食べながら、ようやく美味しさの理由を悟る。温かい料理に思いやりが込められているからだ。
「……」
 目の奥から涙が込み上げてくる。
「本当に、美味しい……」
「そうか。ご飯もおかずもお代わりはたくさんあるからな」
 見れば泣きそうなのだとわかるだろうに、蒼は決して言及しようとはしない。もっと食べろとお代わりを勧めるばかりだ。
 そうだった。誰かと一緒にいるとはこういうことだったと思い出す。まだ父が生きていた頃三人家族で囲んだ食卓と同じ温もりがあった。

同棲……ではなく同居初日の難関は就寝だった。
 蒼のマンションは2LDKで、うち一室を借り受けている。
 それほど神経質ではないつもりだったが、まだ気が高ぶっているのか、それともいつもと違う部屋やベッドに馴染まないのか、日付が変わっても眠れない。
 何度もトイレに行ったり、水を飲んだりしているうちに、別室で眠る蒼を起こしてしまったらしい。
 五度目にベッドに潜り込む際ドアが開いて、蒼が「大丈夫か?」と顔を出した。
「眠れないのか」
「ご、ごめん。起こしちゃって」
「まあ大人にはよくあることだ」
 蒼は「来いよ」と英蓮をキッチンに誘った。
 冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに砂糖と合わせて泡立て、更に温めた牛乳とラム酒を加える。最後にカップに注いで、「はい、できた」と手渡してくれた。
「これ、何?」
「エッグノックってドリンク。よく眠れるぞ」
 友人のイギリス人パイロットに教えてもらったのだとか。
「ほら、飲んでみろ」
「あ、ありがと……」
 蒼の高い女子力に驚きながらも、ダイニングテーブルの席に腰を下ろす。
 蒼も向かい席に座りテーブルの上に手を組んだ。英蓮がエッグノックに口をつけるのを見守っている。
 一口飲んだ途端、カスタードの優しい甘さが喉を通り抜け、ラム酒のアルコールが胃に染み込んで体を温めた。
「美味しい……」
 感動して揺れる水面を見つめる。
「だろ? その友だちが”夜眠れないとママが作ってくれたんだ”って言っていたんだ」
 甘酒もいいかと考えたが、英蓮がプリン好きだと知っていたので、こちらの方が馴染みやすいと踏んだのだとか。
 至れり尽くせりの気遣いに感謝しつつ、エッグノックをじっくり味わう。
 しかし、マグカップのサイズが男性用だったからか、どうしても最後まで飲み切れなかった。
「いいよ、残せば」
「でも、もったいなくて」
「無理して飲むものじゃない」
 英蓮が促されるままカップを蒼に渡すと、彼はなんの躊躇いもなく残りのエッグノックを飲み干した。
「さ、寝るか」
 思わず「えっ」と声を上げそうになるのを堪える。
 子どもの頃はよくお菓子やジュースをシェアしていたが、すでにお互いいい大人なのだ。家族や夫婦ならともかく、口をつけたものをそのまま飲んでもいいのだろうか。
「……」
 キッチンのシンクにカップを置き、廊下に出る蒼の背を見るうちに我に返る。
 蒼からすれば昔の幼馴染み感覚なのだろう。恋をしたばかりの中学生でもあるまいし、いちいち意識してどうすると自分に言い聞かせた。
「じゃあ、お休み」
 割り当てられた部屋に戻り電気を消す。
 布団に包まるとエッグノックのおかげか、間もなく眠くなりうとうととしてきた。
 ところが、意識がなくなりかける間際に、またあの奈落の底に引きずり込まれる悪夢に襲われる。
 上も下も左も右も真っ暗で光が見えない。たった一人どこまでも落ちていく。
 思わず悲鳴を上げて飛び起きてしまった。
「……夢」
 額に脂汗が浮かび、心臓が早鐘を打っている。
「……もう」
 心が弱っていると眠ることすらできなくなるのかと情けなくなった。
「英蓮?」
 部屋のドアがノックされる。
 またしても蒼を起こしてしまったのだ。
「ごっ……ごめん……聞こえちゃった?」
「どうしたんだ」
「ちょっと夢見が悪くて。……本当にごめん」
 申し訳なさすぎてひたすら頭を下げるしかない。
 だが、二度も起こされたはずの蒼に苛立っている様子はなかった。ベッドの縁に腰掛け英蓮の目を覗き込む。
「謝らなくてもいい」
 と言われても、英蓮には謝ることしかできなかった。
「……本当にごめん」
 現在、蒼に付き添われてカウンセリングに通っており、悪夢を見てしまうと相談している。医師は「将来への不安が夢になって現れているんでしょうね」と分析していた。
 英蓮自身も医師と同じ意見だったが、こんな夢を見るのはもう一つ理由があると考えている。
 世界中で誰も味方がいないのではないか――その恐怖を克服できないのだ。
「英蓮」
 蒼の声に顔を上げる。
 すぐそばに濃く長い睫毛に縁取られた、黒い瞳があったので心臓がドキリと鳴った。
 いくら長年の仲のいい幼馴染みとはいえ、蒼はもう立派な大人の男性だ。存在感があるので意識せずにいられない。
 その蒼が「俺にできることはないか?」と尋ねる。
「力になりたいんだ」
「……」
 味方がいないなどと感じていたことに申し訳なくなった。
「……ありがとう」
 ようやく謝罪以外の言葉を口にする。
「じゃあ、一緒に寝てくれない?」
 蒼の切れ長の目がわずかに見開かれる。
「あっ、その、寝てってそういう意味じゃなくて……」
 添い寝とも違う。ただ、同じ部屋で一緒に眠ってほしかったのだ。蒼がいればあの悪夢を見ない気がした。
 蒼はしばらくじっと英蓮を見つめていたが、やがて小さく「わかった」と頷いた。断りを入れて一度自分の部屋に戻る。次に来た時にはマットレスや掛け布団を抱えてきた。
「今夜は床で寝るから」
 テキパキと寝床をセッティングし、電気を消してゴロリと寝転がる。
「……うん」
 その手際の良さと優しさに胸の奥が温かくなり、泣きそうになってしまった。
 なぜ容姿がよくパイロットを務め、思いやりもある蒼に恋人がいないのか、つくづく不思議に思いつつ瞼を閉じ、しばらく物思いに耽った。
「……昔はちっちゃかったのになあ」
 思わず声に出してしまい、はっとして口を覆う。蒼を起こしては悪いと思ったのだ。
 ところが、衣擦れの音がしたので目を見開く。
「……ちっちゃかったって俺のこと?」
「起きていたの?」
「ああ、眠れなくて」
 組んだ手を頭の下に置いた。
「英蓮の中の俺ってどんなガキだった?」
「どんなって……」
 寂しがり屋の男の子という印象が強い。しかし、さすがにプライドを傷付ける気がして言えなかった。
「すごく可愛かったなって」
「可愛い?」
「うん。守ってあげたくなるというか」
 うん、これも嘘ではないとうんうん一人で納得する。
「あの頃、私まだ一人っ子だったでしょう。弟みたいな感覚だったんだろうね」
「可愛いか……」
 蒼は少々複雑な心境になったようだ。慌ててそれだけではないと訂正する。
「でも、今はすごく立派になったよ」
 パイロットになるという夢を叶えただけではない。こうして幼馴染みに過ぎない自分を助けてくれる、大きく優しい大人の男性に成長した。
「私も……蒼ちゃんみたいになりたかったな」
 すっかり立場が逆転しているどころか、それ以上に助けてもらっていて情けなくなってしまう。
 しっかりしているつもりで、きちんと生きてきたはずだったのに、どこで何を間違えたのかがわからなかった。
「子どもの頃に戻りたいなあ……」
 無意識のうちにぽつりと呟いていた。
 一日を無事に過ごすので一杯一杯で、でも、両親に守られていることを知っていて、だからこそなんの疑問もなく未来は明るいと信じられていたあの頃に。
 暗闇に沈黙が落ちる。不思議と居心地の悪さは感じなかった。
 やがて蒼がぽつりと呟く。
「英蓮は悪くないからな」
「えっ……」
 一瞬、心を読まれたのかと焦った。
 蒼は「それに、知っているから」と言葉を続けた。
「英蓮はずっと頑張ってきただろう。だから、何も間違ってなんかいない」
 だからと言って俊の悪口も言わない。英蓮の初めての恋人であり、婚約までした男性なので、英蓮もいまだに悪く思えないとわかっているからだろう。
「蒼ちゃん……」
「俺だけは知っているから」
 あ、駄目だと思った次の瞬間、また涙が込み上げてくる。
「……ありがとう」
 たった一人でもいい。自分の生き方を認めてくれる人がいる。それだけで少し救われた気がした。
「なあ、英蓮」
「なぁに?」
「体力が回復したら二人で遊びに行かないか」
 誘い方にドキリとしてしまう。
「う、うん。いいけど、どこへ?」
「――松風(しょうふう)小学校。昔には戻れないけど、昔の場所に行くことはできるだろう。思い出ツアーってやつだ」
 そこは蒼と英蓮が通っていた小学校だった。