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幼馴染みのエリートパイロットは捨てられ花嫁を独占したい 1

第一話

 ジューンブライドになることに憧れていたが、日本では梅雨の季節で雨や曇り空が多い。
 それではと結婚式の日取りは秋晴れが多く爽やかで、招待客も時間を取りやすい十月を選んだ。
 ところが、一週間前までは晴れの予報だったのに、三日前には曇りに、昨日は小雨に切り替わってしまい今日を迎えている。
 花嫁となる英蓮(えれん)への励ましのつもりなのか、メイク担当の美容師が手を動かしながら、雨のジンクスを教えてくれる。
「フランスでは雨の日に結婚すると幸せになれるって言われているんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「新郎新婦が一生分流す涙を、神様が代わりに流してくれるって」
「わあ、素敵。雨で良かったって思えます!」
 青空が良かったのにと少々凹んでいたので、このジンクスには慰められた。
「日本の狐の嫁入りって言葉も雨と結婚式を結び付けていますよね」
「あっ、確かに……」
「恵みの雨とも言いますし、雨降って地固まるという諺もあります。要は気分次第ですよ。どうか新郎様と幸せになってくださいね」
 やはり結婚の日は特別だと英蓮は思う。恐らく一度しか会わない人からも、笑顔で祝福されるのだから。これほど注目されるのは最初で最後になるだろう。
「それでは、私どもは失礼しますね」
 美容師とそのアシスタントが笑顔で頭を下げ、メイクボックスを手に控え室を出ていく。
 英蓮はあらためて鏡の中の自分を見つめた。
 ダークブラウンのセミロングの髪は結い上げ、パールのあしらわれたティアラでまとめている。
 そこからふわりと垂れた透けたヴェールが、これからいよいよ挙式なのだと気を引き締めてくれた。
 ドレスはドレープの美しい、シンプルで上品なAラインタイプだ。もうじき夫となる彼が「英蓮はスタイルがいいから、ゴチャゴチャ飾りがついているものよりよく似合う」――そう褒めてくれたのでこれに決めた。
 今日ようやく結婚し、自分だけの家庭を持てると思うと、三時間後の挙式が待ち遠しかった。
 もっとも、その前に仲人への挨拶や最後のリハーサルが控えているのだが。
 ちらりとドレッサーの上の置き時計に目を向ける。
「うん、そろそろかな」
 ゆっくりと腰を上げる。
 婚約者とはファーストルックもやろうと話し合っていた。
 ファーストルックとはそれぞれタキシード、ウェディングドレスに着替えた新郎新婦が、当日初めて互いの姿を見せ合う二人だけのイベントだ。元々は欧米の習慣で、近年ではロマンチックだからと、日本でも取り入れるカップルが増えているのだとか。
 対面の瞬間まではドキドキ。いつもとは違う互いの晴れ姿を目にして感動し、惚れ直すとプランナーから聞かされ、せっかくだからと取り入れたのだ。
 彼は控え室からすぐの廊下の曲がり角で待っているはず。ウェディングドレスに身を包んだ自分を見て、どんなコメントをしてくれるかなと、期待に胸を弾ませながら廊下を歩いていった。
「……あら?」
 思わず声を上げる。
 長身痩躯の男性が背を向けて佇んでいる。
 その服装は新郎のシルバーのタキシードではない。招待客のブラックスーツだった。辺りを見回しているところからして迷ったのだろうか。
 男性がゆっくりと振り返り、切れ長の目をわずかに見開く。形のいい唇の狭間から低く掠れた声が聞こえた。
「……英蓮?」
「えっ、蒼(そう)君? うわあ、久しぶり! 直に顔を合わせるの何年ぶり?」
 英蓮も目を瞬かせる。
 それほど六年ぶりに会う蒼は雰囲気が変わっていた。
 ――蒼は英蓮の仲良しだった幼馴染みだ。
 家族で暮らしていたマンションの部屋が隣同士で、縁があったのか四歳から保育園、小学校も同じだった。当時は毎日一緒のバスに乗って通園通学し、帰るとマンション敷地内の公園で遊んだものだ。
 英蓮は家庭の事情で小学生の頃引っ越すことになったが、蒼にこのまま別れるのは嫌だと請われて連絡先を交換した。その後もメールで、SNSで、電話で交流して今に至る。
 大学時代英蓮に恋人ができるまでは、時々二人で遊びに行くこともあった。ここ何年も会っていなかったが、現在も男女の垣根を越えた友人だ。
 最後に会ったのはもう六年も前か。当時二十歳になったばかりの蒼には、まだ少年の面影が残っており、体つきも今より細身だったように思う。
 ところが、二十六歳となった今は子供っぽさがすっかり抜けただけではない、全体的にストイックな男性らしさがあった。
 くせのない黒髪は丁寧に整えられている。キリリとした眉と通った鼻筋、薄い唇と甘さの感じられない頬のライン。それでいて切れ長の目に落ちた濃い睫毛の影には、一瞬ドキリとしてしまうほどの色気がある。
 肩は英蓮が覚えているそれよりがっしりとし、筋肉質の二の腕がブラックスーツ越しでもわかる。日本人離れした長い足を包んだズボンはオーダーに違いなかった。
「見違えた。すっかり大人の男の人になっちゃったね。スーツが似合う!」
「ありがとう」
「今パイロットだったっけ。すごいね。小さな頃からの夢だって言っていたもんね」
 蒼は有名私立大を卒業後、百倍近くの倍率を突破し、国内最大手の航空会社NALに入社。自社養成パイロットとなり、現在副操縦士を務めているのだという。
 小中学校の同級生では一番のエリートではないか。
 英蓮も頑張ってきたつもりだが、さすがに蒼には敵わないと思う。
「今日は来てくれてありがとう。本当に助かったの」
 本来蒼を招待するはずではなかった。
 英蓮も婚約者も別々の企業の会社員だったので、どうしても招待しなければならない上司や同僚が多い。友人は最低限の人数にしようと決めていたからだ。その他の友人たちは二次会に招待しようと。
 ところが、今朝になって英蓮側の友人に急病で欠席者が出てしまった。しかも、その友人には余興も頼んでいたので慌てた。
 泡を食って他の友人に片端から電話を掛け、礼を弾むからと代役を頼んだのだが、当然急には不可能だと断られてしまった。
 進退窮まり、最後に駄目で元々で蒼に急遽連絡をしたところ、なんと二つ返事で引き受け、駆け付けてくれたのだ。
 先月上司の挙式と披露宴に出席したばかりで余興もやった。その時使ったネタでなんとかできる。ブラックスーツもレンタルではなく購入しているから任せろと。
 ありがたさのあまりスマホの向こうに後光が見えた気がしたものだ。
「あれ、蒼ちゃん?」
「……」
 蒼はまだ黙り込んだまま英蓮を見下ろしている。
「どうしたの? 大丈夫?」
 英蓮が顔を覗き込んでようやくはっとしたらしい。目を細めてどこか切なげな微笑みを浮かべた。
「英蓮には世話になったからな。俺こそ驚いたよ。……綺麗すぎて声が出なかった」
 思わず目を瞬かせる。
 蒼はあまり見え透いたお世辞を言わない、というよりは嘘を吐かないタイプだからだ。
 さすがにこれから結婚する幼馴染みには、結婚祝いに褒め言葉を送っておこうという気遣いだろうか。
 照れ臭くなってしまい目を逸らす。
「あはは、ありがとう。お世辞でも嬉しい。ところでどうしたの? 迷ったの?」
「そうなんだ。トイレはこちらですってあったんだけどな。英蓮は?」
「うん。彼とファーストルックのはずだったんだけど、ちょっと早かったみたい」
「ファーストルック?」
「あっ、まだ知らない人が多いよね。ファーストルックは欧米の習慣で……」
 蒼は説明を聞いて眉を顰めた。
「俺、悪いことをしたな」
「えっ、どうして?」
「花婿より前に英蓮の花嫁姿を見るなんて」
「そんな、気にしないで。私もせっかくだからって縁起を担いでみただけだから。これくらいで結婚が駄目になっていたら、世界中のカップルが破局しちゃう」
「……そうか」
 蒼はなぜか苦笑して「じゃあ、またあとで」と身を翻した。
「あっ、そうだ。もう一つ」
「うん、なんだ?」
「二次会も出席してね。そっちには独身の友だちも招待しているの。蒼ちゃん、彼女いないんでしょう? 可愛い子がたくさん来るから」
「……ああ、わかった」
 ふいと前を向き曲がり角を曲がっていく。
 英蓮はその背を見送りながら、「かっこいいのにね」と呟いた。
 蒼は身長がぐんと伸びた中学生頃から女子に人気があった。他の男子と違って馬鹿騒ぎをせず、教師や女子に媚びることもなく、クールでカッコいいと騒がれていた。
 バレンタインデーにはチョコレートの山を抱えて帰っていたものだ。断っても匿名で机や靴箱に入れてくると言って困っていた。
 ところが、現在に至るまでステディな関係の恋人がいたとは聞いていない。時々「彼女はできた?」と聞いても「いない」としか返ってこなかった。いないというよりは作るつもりがないのか。
 せっかくモテるのに、なぜかと長年不思議だったが、近頃蒼には片思いの相手がいるのではないかと考えるようになった。なら、彼女を作らないのも頷ける。
 しかし、蒼も自分と同じくもう二十六歳だ。
 お節介だとは思ったが、実らない恋に胸を焦がすよりも、愛し合える誰かを見つけて幸せになってほしかった。
 蒼が姿を消して間もなく、「英蓮」と婚約者の俊(しゅん)に名を呼ばれる。その顔色がひどく悪かったので驚いた。
「俊、どうしたの?」
「……いいや、なんでもない」
 蒼のように「綺麗だ」とは言ってくれなかった。
 英蓮が気になったのは顔色や態度だけではない。
 俊とは二十歳の頃から六年付き合っている。だから、ほとんどの表情は知っているはずだった。
 だが、追い詰められたような顔は初めてだったのだ。
「気分が悪いなら医務室に行こうか?」
「大丈夫だ。ほら、仲人のところへ行こう」
 戸惑いながらも頷く。
 何気なく腕を組むと、なぜか身動ぎをされてまた驚いた。
「あ、ああ、ごめん。俺もちょっと緊張しているみたいだ」
 引き攣った笑顔に違和感を覚える。
 だが、確かにもうじき挙式なのだからと思うと、それ以上問い詰めることもできなかった。

 ――ホテル内にあるチャペルのバージンロードを誰と歩くかは、最後まで母と揉めに揉めて悩みに悩んだ。
 母は継父を望んでいたようだが、英蓮にはやはり抵抗があった。本当は実の父がよかったが、もうこの世の人ではないので不可能だ。
 結局、プランナーからの提案で初めから新郎と一緒に入場しようと決めた。
 その件を伝えた際の母の一言が今でも耳に残っている。
『英蓮、あなた、そんなにお継父さんが嫌いなの? ……実家にほとんど帰ってこないのもあの人が原因? あなたが本当は再婚に反対していたって、私にもそれくらいわかっているのよ』
 嫌いというわけではない。ただ、どうしても馴染めないだけだ。
 継父だけではなく、継父と再婚した母にも、二人の間に生まれた年の離れた異父兄弟にも。
 だから、早く独り立ちをして、愛する人と自分だけの家族と家庭がほしかった。
 それが今日ようやく叶う。
「それでは新郎俊さん、新婦英蓮さんの入場です。みなさま、盛大な拍手でお迎えください」
 チャペル内に祝福の拍手が響き渡る中、新郎とともにバージンロードに最初の一歩を踏み出す。
 赤紫の絨毯の先には人前式のための祭壇があった。あいにく雨でドーム型の窓から日の光は差し込んでいなかったが、美容師のおかげで今はその雨も二人の幸福を約束しているように見えた。
「これより人前結婚式を開式いたします。それでは、誓いの言葉をどうぞ」
 渡された宣誓書を二人で手に取り、タイミングを合わせて読んでいく。
『本日、私たちはここにお集まりくださった皆様の前で結婚の誓いをいたします。これからは二人で力を合わせて苦難を乗り越え、喜びを分かち合い、平和で幸せに満ちた明るい家庭を築くことを誓います』
 一旦息継ぎをして締めの言葉を続けた。
『未熟な私たちではありますが、今後とも末永く見守っていただければ幸いです』
 一言、一言に思いを込める。
「それでは誓いのキス、及び指輪の交換をお願いします」
 結婚指輪は二人で数ヶ月かけて選んだ。一生つけるものだからとさんざん悩んだのをよく覚えている。
 今日からいよいよこの人の妻となる――万感の思いを抱きながら口付けを交わし、指輪の交換のために手を差し出したその時のことだった。
 チャペルの外から揉み合う声が聞こえる。
「お客様、困ります!」
「お帰りください!」
「邪魔しないでよ!」
 外で待機中の会場スタッフ二人の声と、もう一人の女性は誰だろう――そう首を傾げる間もなく、音を立ててドアが開け放たれたのでぎょっとした。
「なっ、何っ」
 長い黒髪にそばかすの浮いた、アクティブな雰囲気の若い女性だった。ジーンズにTシャツ、フーディとカジュアルな服装で、どう見ても招待客ではない。
「……真澄(ますみ)」
 振り返った婚約者が呆然と呟く。えっ、知り合いなのと聞こうとした次の瞬間、女性がすうと息を大きく吸って怒鳴った。
「その結婚、待ったー!」
 呆気に取られた英蓮と招待客をよそに、新郎が「もう遅いよ」と呟く。
「俺はもう英蓮と……」
「いいえ、まだ遅くないわ!」
 女性はバージンロードを大股でつかつかと進んだかと思うと、新郎に向かって手を差し伸べた。
「俊、一緒に行きましょう。私を選んで!」
「真澄っ……!」
 新郎は感極まった様子で祭壇を降り、女性に駆け寄ってその手を取ると、「もう迷わないよ」と目を潤ませた。
「二人で世界の果てまで逃げよう!」
「俊……!」
 そのまま手に手を取ってチャペルから駆け出ていく。
 参列していた全員が呆然としている中、初めに我に返ったのは蒼だった。身を翻してドアの方向を向く。
「おい、待て! どこへ行くつもりだ」
 学生時代、短距離でインターハイ代表にも選ばれた俊足で追っていく。その蒼のあとを追って男性陣が次々とチャペルと出ていった。
「おい、あの女は誰だ!?」
「どういうことなんだ!? どうして新郎まで逃げる!!」
 神聖かつ厳かなセレモニーから一転し、チャペルが騒然となる中、英蓮は目の前で起こった事態が把握できず、まったく動くことができなかった。
「あ、あの、新婦様……」
 数分後、司会者に遠慮がちに声を掛けられる。だが、ショックで呆然と佇む英蓮には聞こえない。
 外で降りしきる雨の音が一際強くなる。
「……」
 途端にへなへなと力が抜け落ちその場に座り込んでしまった。すうっと意識が遠のいていく。最後に司会者の焦った声が聞こえた。
「しっ、新婦様!? 誰か、誰か担架を!」


 あの結婚式以来天気に恵まれていない。
 弁護士が、新居となるはずだったマンションを訪ねてきたその日も曇り。どんよりとした空にますます気が滅入っていた。
 弁護士は元婚約者の実家の依頼だと説明した。
「永田(ながた)様のご両親は高瀬(たかせ)様に大変申し訳ないからと、挙式の費用すべてを負担し、慰謝料もお支払いするとおっしゃっております。このマンションも引っ越し先が決まるまでは住み続けていいと……」
「はあ……」
 英蓮はダイニングテーブルに置かれた書類を、生気のない目でぼんやりと見下ろした。
「金額に不足はないか確認をいただきたいのですが。一般的な相場を考えれば大分配慮された金額かと」
「……じゃあ、それで結構です」
 金額などどうでもよかった。
「その、本当によろしいですか」
 弁護士に心配そうに聞かれても、それ以上喋る気力もない。のろのろとサインをし、印鑑を押した。
「そ、それでは私はこれで失礼します」
 弁護士は気まずいのか、人形のような英蓮が不気味だったのか、書類を仕舞うとそそくさとマンションから出ていった。
 一方、一人取り残された英蓮は、何もないテーブルを見るともなしにぼうっと眺めていた。
 
 先ほどの弁護士に聞かされた事情は以下のようなものだ。
 あの長い黒髪にそばかすの女性は俊の元カノだったのだそうだ。
 大変仲睦まじかったらしいが、英蓮と付き合う一年前に別れている。元カノは青年海外協力隊に参加するからと、俊が止めるのも振り切って日本を出ていってしまったのだという。
 ボランティア終了後も現地に滞在し、帰る様子がなかったらしい。そこで二人の関係は終わったはず……だった。
 ところが、昨年元カノが帰国したことで状況が変わる。
 情報の詳細は本人たちのみぞ知るとしか言えないが、とにかく二人は再会し、焼けぼっくいに火が点いた。結果、映画「卒業」ばりの略奪劇に至ったのだ。
 なお、俊の両親も逃亡後の息子たちの行方は知らず、現在手を尽くして捜索中なのだとか。
 だが、英蓮にはそんなことはどうでもよかった。というよりは考える余裕がまったくなかった。
「どうして……?」
 テーブルに突っ伏して唸る。悲しいはずなのに涙が出ない。
「……私、何か悪いところがあった? だから、俊はあの人を選んだの? 私たちの六年ってそんなに簡単に壊していいものだったの?」
 最後の「私はそんなにあっさり裏切ってもいい存在だったの?」という疑問は、あまりに惨めすぎて口にできなかった。
「もう……やだ」
 俊とは二人仲良く式の準備を進め、直前までそんな素振りもなかったために、人生最高の瞬間を迎えるはずの場面で、最悪の形で裏切られた心の傷は深かった。
 英蓮はその日が暮れるまでテーブルに伏せていた。夜が更けても眠気はなく、まんじりともせずに朝を迎えた。
 子どもの頃は嫌なことがあっても、ベッドに入って眠りに落ちさえすれば、夢の世界に逃げ込むことができた。
 しかし、大人になった今はそれも叶わない。行き場のない虚しさを抱えて東の空が白み始めるのを見つめる。
 四人掛けのダイニングテーブルに朝日の光が落ちる。
 本来なら俊とこのテーブルを挟んで毎日の食卓を楽しむはずだった。いずれ一人、二人と子どもが増えていくだろうと思うと幸福の象徴に思えた。
 なのに、今はこのファミリー向けの新居のすべてが独りぼっちとなった事実を照らし出す。
 英蓮は再びテーブルに突っ伏し、すべての光から目を背けた。

 今朝は小雨が降っており、窓ガラスをポツポツと濡らしていた。
 本来なら挙式後イギリスに新婚旅行に出発し、金曜日に帰国。土日を置いて今日が既婚者としての初出社になるはずだった。
 行きたくない気持ちを必死に奮い立たせて出勤する。真っ先に向かったのは直属の上司、小石川七実(こいしかわななみ)のデスクだった。
「大変申し訳ございませんでした。ご迷惑をおかけしまして……。せっかくご主人と仲人を引き受けてくださったのに」
「そんなことはいいのよ。それより高瀬さん、体調は大丈夫なの」
 小石川七実は英蓮の勤める輸入食品の中堅商社、エルモ物産小売課の課長である。
 実績を買われて大手からヘッドハンティングされた実力者、かつ小売課では初の女性課長で今年三十六歳。
 彼女の双子の兄はチェーンレストラン大手、DAININGフードサービスの経営者というのだから恐れ入る。兄弟揃って食品業界で遣り手として名を馳せているのだ。
 サバサバした印象の美人で、外回りを連続十件でこなしても、ピンピンしている体力お化け。徹夜で飲み明かしても潰れないザルだとも有名だった。
 英蓮はなんとか笑みを浮かべた。
「はい、大丈夫です。今日から仕事に復帰しますので」
 小石川課長は溜め息を吐いてじっと英蓮を見つめた。
「やっぱりしばらく休んだ方がいいんじゃない? 顔色が真っ青よ。クマも浮いているし……寝ていないんでしょう? 体調が悪いとただ座っているだけでも辛いんだから」
 英蓮は小売課で営業事務を担当しており、営業よりは体力的な負担は少ない。なのに、それが無理だと判断されるほど危うく見えるのだろう。
 だが、はいと頷くわけにはいかなかった。
 卒業し、エルモ物産に入社して以来、真面目に仕事をこなしてきたのだ。この程度のことで潰れてはいけないと自分に言い聞かせる。
 挙式の真っ最中に手に手を取って駆け落ちされるのなんて、結婚してから浮気をされるよりダメージはずっと少ないはずだった。
「私偏頭痛持ちで、時々こうなるんです。でも、さっき薬を飲んだのですぐによくなりますから」
 そう言葉を重ねても小石川課長は英蓮から目を逸らさない。
「わかったわ。でも、調子が悪くなったらすぐに言ってね。いいわね?」
「……はい」
 英蓮は小さく頷き自分のデスクに向かった。
 上司に気を遣われるとは情けないとまた落ち込みそうになり、仕事をすることでなんと
か気を紛らわせようとする。
 パソコンを起動しやりかけの資料作成のファイルを開く。
 途中、もう一人の営業事務の同僚が出社してきて、オフィスのドアの前で「あれっ」と足を止めた。
「高瀬さん?」
「出勤していたの?」と続けようとしたのだろう。すぐにはっと口を閉ざし、少々引き攣った顔で「おはよう」と笑う。
 そのままさり気なく隣の席に腰を下ろし、自分の仕事を始めたが、こちらの様子を窺いつつ、緊張しているのがわかる。
 この同僚も挙式と披露宴に招待していた。
 いつもなら今朝のニュースや会社周辺の新しいレストラン、そんな他愛ない女性らしい話題で盛り上がる。
 しかし、さすがについ二週間前婚約者を略奪されたばかりで、結婚自体がおじゃんになった元新婦に掛ける言葉が見つからないのだろう。
 英蓮にはこの態度も辛かった。どんな対応をしていいのかわからない。こちらから話を振るのも不自然だ。
 だから、ただひたすら資料作成に勤しむしかなかった。
「あっ……」
 数分も集中力が続かず、続けてタイプミスをしてしまう。
 惨めだった。

 今日は朝食を取っていない。辛うじてコーヒーは飲んだものの、パンもご飯も胃が受け付けなかった。
 なのに、昼休憩になってもまったく空腹を覚えない。
 このままでは体が保(も)たないからと、近くのカフェで好物のケーキを喉に押し込んだが、なんの味もせず、食べられたものではない。途中で吐きそうになったので諦めた。
 エルモ物産のあるビルに戻り、エレベーターのボタンを押し溜め息を吐く。
「こんなんじゃいけないのに……」
 しっかりしなくてはいけない。
 大学入学を機に実家を出て以来、仕送りを断りアルバイトで生活費を賄って頑張ってきた。努力の甲斐あって単位を一つも落とすことなく取得し、卒業。
 その後きちんと就職活動をし、将来性があり働きやすいと判断してエルモ物産に入社。ミスをしないよう心がけ、丁寧に確実に仕事をすると評価されてきた。
 奨学金も誰にも頼らず一人で返済してきた。
 きちんと生きていればきちんとした家庭が作れるはず。そう信じて地味ではあるが努力してきたつもりだった。
 なのに――。
 足下がガラガラと崩れ落ち、真っ暗な奈落へ落下していく気がした。
「……っ」
 エレベーターがエルモ物産小売課のフロアに到着し、扉が開く前になんとか気分を切り替える。
 食事を取っていないせいか気分がより悪くなっている。
 しかし、幼い頃父が亡くなって以来しっかりしなくちゃ、きちんとしなくちゃと自分を叱咤してきた英蓮には、この時点まで早退すら考えられなかった。
 曲がり角を曲がってオフィスを目指す。途中、向こうから聞き覚えのある声がしたので、はっとして立ち止まった。
 隣の席の同僚と他の課の社員と思しき女性だった。
 こちらも昼休憩から戻ってきたところなのか、オフィスの方向を向いて立ち話をしている。
「えーっ、高瀬さんの結婚式、そんなにドラマチックだったの」
「そう。映画みたいだったわ。あんなことがあるなんて」
「可哀想。相手の男って今どこにいるの?」
「さあ……」
「……っ」
 英蓮は可哀想という一言に心臓を握り潰された気がした。
 二人はなおもお喋りを続ける。悪意がないだけにタチが悪い。
「結婚式の主役になるはずがいきなり当て馬にされたようなものだしひどいよね」
「でも、ちょっと見てみたかったかも。不幸な結婚式ってやつ?」
「もう、止めなさいよ。まあ、確かにネタっぽいけどね」
 二人とも悪気はないのだろう。
 当て馬、不幸、話のネタ、自分は今そんな立ち位置にいるのかと愕然とする。
 二人の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなっても、英蓮はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
 壁に背を当ててずるずると座り込む。
「うっ……」
 胃にはほとんど何も入っていないはずなのに、また吐き気が込み上げてきて口を押さえる。
 トイレに行かなければと思うのに、その気力すら湧いてこない。
 このまま何も感じない石になってしまいたかった。

 出社した日以来外に出ようとすると吐き気がし、人目が恐ろしくてたまらない。
 自分が惨めだ、不幸だ、可哀想だと思われたくないし、思い知りたくない。
 結果、出社どころか外出もできずに二週間が経っていた。
「……会社に電話かけなくちゃ」
 ベッドの上で布団に包まったまま、枕元のスマホに手を伸ばす。
 ぼうっとしていたので気付いていなかったが、実家から着信が十件以上入っていた。留守電に「連絡をください。心配しています」と入ってもいる。
 SNSには友人たちから心配しているというメッセージが届いていた。
 だが、今は誰とも話したくなかった。一層惨めな気持ちになるに違いないから。可哀想だ、不幸だ、ネタっぽいなどと思われたくなかった。
 履歴を削除して会社の電話番号を呼び出す。すぐに受話器を取る気配がした。
『大変お待たせいたしました。エルモ物産小売課でございます』
「……営業事務の高瀬ですが、小石川課長ですか」
『ええ、そうよ。高瀬さん、大丈夫?』
「その、もう少しお休みをいただきたいのですが」
『わかったわ。ちゃんと病院に行った?』
 相変わらず小石川は心配してくれる。だが、今はその気遣いが心苦しかった。
 プライベートと仕事をきちんと割り切れていない、意気地なしの自分に価値などないからだ。
 電話の向こうの小石川課長の声がわずかに大きくなる。
『その様子だとまだみたいね。あのね、病は気からって言うでしょう。そのままだと本当に体も駄目になるわよ。今時メンタルの不調なんて恥ずかしいことじゃないの。専門のお医者様に看てもらうのが一番よ』
 つまりは心療内科に行き、カウンセリングを受けてこいというのだが、まだ自分がそこまで悪いと思いたくないので気が進まない。
 それに、これ以上小石川課長に迷惑を掛けたくはなかった。
「小石川課長、お電話で申し訳ございません。また休んでお手数をかけるわけにもいかないので、退職をさせていただけないでしょうか」
『えっ』
 小石川課長はしばし絶句していたが、『却下!』と英蓮が耳を押さえる大声で断った。
『その様子じゃろくに引き継ぎもできないでしょう』
「引き継ぎは……引き継ぎだけはきちんとしますので」
『もう、遺言みたいなこと言わないで。あのねえ、高瀬さん、あ~う~あ~……』
 今度は何やら唸り声を上げている。
『……そうだ! うちの課、今年はもう転職組が来ないのよ。社内も人手不足で回してもらえるとは思えない。だから、あなたが辞めたら来年まで営業事務が一人だけって状態になっちゃう』
「そ、それは……」
 小売課は一日の業務量が多い。同僚一人ではパンクしてしまうだろう。
 さすがに現時点で退職はしづらくなってきた。
 小石川課長が『でしょう?』と満足げに鼻を鳴らす。
『あなたが復帰するまではチームでなんとかする。高瀬さんは来年までに帰ってきてくれればいい。休職手続きはこっちでしておくから安心して。ついでに残っていた有給も使っちゃいなさいよ』
「で、ですが……」
『はい、決まり! じゃあ、ゆっくり休んでね! 大丈夫になったらまた掛けて!』
 一方的に告げられ電話も一方的に切れる。以降、何度電話を掛けても小石川課長には繋がらなかった。

 小石川課長はその後SNSのメッセージでお勧めの心療内科を紹介してくれた。
「私の身内も助けてもらったところだから」とも書いてある。きっと行きやすいようにと配慮したのだろう。
 気持ちはありがたいのだが、今まで縁がなかっただけに、やはり精神科や心療内科と聞くと尻込みしてしまう。
「どうしよう……」
 初めてのことにどうしても怖いという気持ちが先立つ。
 英蓮にとって元婚約者に逃げられたことは、生涯の伴侶に相応しくないと烙印を押されたも同然だった。更に女として、人間としての自分、今までの人生を否定されたことでもあった。
 しかし、このまま引き籠もっていては小石川課長にも同僚にも迷惑をかける。
 思い切って心療内科に連絡を取ってみると、運良くキャンセルが出て、午後に空きがあるのでどうぞと言ってくれた。
 のろのろと起き上がりパジャマから普段着に着替える。財布と保険証、スマホをバッグに入れる。さすがにメイクをする気力はなかった。
 玄関のドアのノブに手を掛ける。
 今日もどんよりとした曇り空だ。この分では傘がいるかもしれない。
 だが、折りたたみ傘を取りに戻ろうとした途端、また吐き気に襲われ、その場にしゃがみ込んだ。
「……っ」
「行かなきゃ……」
 そう自分を叱咤しても足が動かなかった。
 なんて情けない――誰も見ていないのに惨めになって、今更涙が一滴頬を伝っていき、石タイルにぽつりとシミができた。同時に、ピンポンとチャイムが鳴らされる。
 宅配便が来る予定はないはずなのに。
 いつもの英蓮なら不審者かもしれないと警戒し、ドアスコープを覗いて確認、更に身元を確かめていただろう。
 しかし、この二週間ろくに食事も睡眠も取っていないせいか、ぼうっとしたまま「どちら様ですか」とドアを開けてしまった。
 長身痩躯の男性が佇んでいたので驚く。差し込んでくる逆光で数十秒誰なのかがわからなかった。
「えっ……蒼ちゃん?」
 見違えたのは蒼が見慣れぬ制服を身に纏っていたからだ。
 漆黒の仕立てのよいジャケットにはゴールドのダブルボタンが六つあしらわれている。
 袖にやはりゴールドのラインが三本入っており、胸元には羽を広げた鳥の刺繍が施されていた。揃いの仕立てのいいズボンが足の長さを引き立てている。
 大人の蒼のストイックな雰囲気にぴったりの制服だった。一瞬、自分の現状も忘れて見惚れてしまう。
「……」
「英蓮?」
 名を呼ばれて我に返る。
「びっくりした。その制服、パイロットの?」
「ああ、さっき国内線のフライトが終わったんだ。そんなことより」
 蒼は両手で英蓮の二の腕を掴んだ。
「顔色が真っ青だぞ」
 SNSで何度連絡しても返信がなかったので、果たして生きているのかと心配して勤務終了後見舞いに来たのだと。
「ああ、これ? 大丈夫、大丈夫」
「大丈夫なわけあるか。お前、気付いているのか。痩せたぞ。ダイエットってレベルじゃない」
 それも、たった一ヶ月でと唸る。
「ちゃんと食べているのか。睡眠は七時間以上取っているか」
「それは……」
 食事については悲惨すぎて白状できない。そういえば二週間、食料品の買い出しにも行っていなかったと今更気付いた。
 睡眠は疲労が溜まっているのか、うとうととすることはある。
 だが、すぐに奈落の底に引きずり込まれる悪夢に襲われ、飛び起きてしまうので、連続して一時間以上眠っていない気がした。
「本当に大丈夫だから。今ね、病院に行くところだったの」
 心療内科とは打ち明けられなかった。
 仲良しの蒼の知る「幼馴染みの英蓮」は、年の割にはしっかりしたお姉さんタイプだったはず。そのイメージを損ないたくなかったのだ。
「なんだ。そうか、病院か。なら、よかった。近くまで送る。タクシー呼ぶから」
「ううん、いいよ」
「でも、今だってフラフラしているだろう」
 そんなことないよと無理に笑おうとした途端、頭がくらりとして視界が闇に閉ざされていく。
「英蓮!?」
 一人で行けるからと口にしようとしたのだが、そのまま蒼の胸に倒れ込んでしまう。
「おい、英蓮!? しっかりしろ!!」
 蒼ちゃんの体こんなに広くてがっしりしていたんだ――そんなことを考えながら英蓮は意識を手放した。