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ヤクザの恩返し 無垢な令嬢は孤独な極道のひたむきな愛に溺れる 2

第二話

 


 山下白雨――通称ハクは、雑な舌打ちをした。
 背後に聳えるのは、天を衝くような四十六階建てのマンションだ。いかに堂々と立ち去ろうが、尻尾を巻いて逃げ出したような気分にさせる、嫌味な物件。
  大股で先を急ぎながら、むしゃくしゃするあまりハクは吐きそうだった。
 乱れたワイシャツの前を整える気にもなれず、握っていたネクタイをジャケットのポケットに丸めて突っ込む。
『――ありません、欲なんて!』
 瀬戸内桔花――テレビCMでもインターネット広告でも一日に一度は全国民が目にするであろう『瀬戸内食品工業』社長のひとり娘。
 組長から、そう聞いている。
 彼女が暮らしている部屋の窓からは、広い空が遠くまで望めた。
 視界を邪魔するものは、何棟かの細いビルだけ。やんごとなき血すじの姫君のために、皆が首を垂れているかのよう。
 あんな環境が当たり前に、ただ裕福な家庭に生まれたというだけで容易く与えられるものなのだと思うと、煮えた腑の底がチリチリと焦げ付く。
(満ち足りているだと? ああ、そうだろうよ)
 数本だけ残っていたマルボロを取り出し、イライラしながら火をつければ、内ポケットでスマートフォンが鳴った。画面を確認すると『安中鳴』と表示されている。
「なんだ、ナル」
 タバコを吐き捨てて応答すれば、直後『兄貴!』と嬉しそうな声が聞こえた。
『二日ぶりス。今どこにいますか? 会いに行っていいスか? 俺はいつも通り仕事場兼自分ちにいるんスけど、あ、兄貴、来ます?』
「……悪いが今、地球の裏側だ」
『うそつきー! なんでいつもそんなにツレないんスか。俺はこんなに兄貴を慕ってるのに! 兄貴のためなら命も惜しくないのに!』
「頼んでねえよ」
『もー、頼んでくださいよ!』
 もっさりしたマッシュボブを揺らして、憤慨する様子が目に浮かぶようだ。
 首にいつもヘッドホンを引っ掛けているところといい、自信なさげなオドオドした態度といい、到底ヤクザらしからぬヤクザ、それがナルだ。
 最初に見掛けたのは組の屋敷で、同じ部屋住みの連中からも下っ端扱いされ、小突かれまくっていたのを見兼ねて庇ってやったのが始まりだった。
 腕っぷしはからっきしだが、IT関連の知識は玄人はだしと言っていい。その特殊な才能を買って仕事を与えたところ、兄貴と呼ばれるようになった。
『半夏会』――。
 厚率いる会員二千人ほどの、暴力団としてはまずまず大きな団体だ。
 特徴は、組織が三つに分かれている点だろう。
 会長の下に組長が三人、それぞれ特色ある一の組から三の組までを率いている。
 ハクとナルが属しているのは三の組で、ハクは組長に続く権力を持つ若頭筆頭の立場なのだが、なにしろ美形で目立つため、目障りだとでも思われているのだろう。組長から儲からない仕事をたびたび押し付けられているのだった――今回のように。
「それで、用件は」
『ああ、はい。クリーニング一件追加ス!』
「そうか。よくやった」
 しかし、いかに三の組内で邪険にされようと、ハクのシノギは揺るがない。
 クリーニング――もちろん比喩だ。
 ハクは主に非合法な資金の洗浄、いわゆるマネーロンダリングを得意としている。
 顧客は裏社会の人間のみならず、個人投資家や新進気鋭の動画配信者、テレビCMで見掛ける大企業の社長にまで至る。最初は税金対策の投資会社を装って近づき、興味があるようなら裏稼業へとうまく誘導するのがいつもの手口だ。
 一度、味を占めた人間がそれっきり手を引くことはまずない。
 皆、欲望に忠実で欲望によって身を滅ぼしていく。愚かだが、欲がないなどとのたまう女よりずっと、人間らしくて愛着も湧くというものだ。
『んで、祝杯をあげたいわけなんス。キャバクラなんてどうスか? デリヘルでもいいスけど、兄貴、女遊び好きじゃないスもんね。モテるのにもったいない。それにしても兄貴、ホントに今、どこにいるんスか』
「港区。会長案件を組長から任されて、使いっ走りになってんだよ」
『えっ、またスか!? 組長、めちゃくちゃ兄貴のことイビってるじゃないスか』
「そんなふうに言うな。組長の命令は絶対だ」
『真面目すぎますよ。たまにはバックれちゃえばいいのに。で、組長はそろそろ会長に絞られればいいんスよ。まあ、俺としては兄貴に下剋上しちゃってほしいスけど。皆、組長のこと老害だって言ってますし、兄貴が組長になってくれたら……』
「阿呆。上下関係を無視したいなら、足洗ってからやれ」
『そりゃわかってますよ。わかってますけど! 高額な上納金を吹っ掛けられて、そのくせ上前はねられて、まじで皆、組長には嫌気がさしてるんすよ』
「いい加減にしろ。切るぞ」
 さーせん、と不服そうに言ったナルが、どこまで理解しているかはわからない。しかし下剋上だなどと、もしも組長に近い誰かに聞かれたら間違いなく血を見る。
 喧嘩が怖いわけではないが、厄介事はごめんだ。
 これ以上、組長から煙たがられて、破門にでもなれば元も子もない。
 わかったな、と念を押して通話を切った。
 組長から押し付けられた雑用の詳細は、あえて伝えなかった。
(……クソ。暇じゃねえんだよ、こっちは)
 いかにも清純そうな女の顔を思い出してまた、ハクはイラつく。
 女への恩返しだなんて、誰でもできる雑用に関わっている場合じゃない。
 一円でも多くシノギを上げ、半夏会に貢献するのがハクの生き甲斐だ。
 この身は厚のためにあり、厚のためなら命も惜しくない。
 懐刀をチラつかせたのは交渉をハクのペースで進めるためのハッタリだが、破門になるくらいなら死を選ぶという、あの言葉において嘘は少しもなかった。
 ――『おい、坊主。頭ァ冷やして出直しな』
 初めて厚に会ったのは、ヤクザの愛人だった母が死んだ、三か月後。
 イキがって喧嘩に明け暮れていたハクには、社会の底辺に落ちるしか道がなかった。半夏会の門を叩いたのはごく自然な流れだったのだ。
 ――『こちとらムショ出の猛者ばかりよ。半グレでイキがってるようなガキが、生きていける世界じゃねえ』
 ドスのきいた声で追い返しながらも、大柴胡はポケットに三万円を捩じ込んでくれた。あの金で一週間ぶりに食べた白飯の、どんなに美味かったことか。
 厚に大恩を返す。
 そのためだけに、ハクはこの世に生きている。

          * * *
 
「……ずみません……思いつきませんでした……っ」
 そして迎えた約束の日、桔花はハクに平謝りするしかなかった。
 三日間、悩みに悩んでネット検索などしてみたが、決められなかったのだ。欲しいもの。それなりの価値があって、厚の顔を潰さないもの。手にして満足できるもの。
(中途半端に決めたら失礼だし、と、考え始めたらドツボに嵌まっちゃって……)
 そもそも前提条件が厳しいのだと桔花は思う。
 ちょっとしたもので良ければ、洗剤とか掃除用具とか、いくつでも思いつくのに。
「そうですか」
 初対面のときと同じ場所に座ったハクは、やはりスーツ姿で事務的に言う。
「つまり瀬戸内さまは、私に死ね、とおっしゃるわけですね」
「ちっ、違います! そういうわけじゃないんです。けど、そういうことに、なっちゃうんでしょうか……ど、どうしましょう……っ」
 ああ、やはり適当に指輪とかバッグとか言っておくのだった。
 だくだくと冷や汗を垂らす桔花の前で、ハクは無言のまま懐に手をやる。また懐刀を出されるのだと思い、反射的に腰を浮かせた桔花だったが、ジャケットの内ポケットから出されたのは封筒だった。
「そんなこともあろうかと、今回は解決策をリスト化して参りました」
「へ……?」
「ご安心ください。死ぬと言ったのはハッタリです。大柴胡を思うあまり、少々突っ走ってしまいました。それで、改めて考えてみたのですが、いかに欲がない瀬戸内さまにも困り事ならおありなのでは?」
「困り事……ですか」
「ええ。それを解決するという恩返しはいかがでしょうか。いつまでも欲しいものを考え続けるというのも、余計なストレスを与えてしまうようですし」
 淡々と述べる声に、桔花は安堵のあまりフローリングの上で脱力した。もし椅子にでも座っていたら、倒れ込んでいたところだ。
 それにしてもハクという男は、それなりに有能らしい。ヤクザ一派の会長である、厚の代理として遣わされるだけのことはある。
(よかった。また切腹騒ぎになったらどうしようかと思った)
 胸を撫で下ろした桔花の前で、ハクは一枚の紙をおもむろに広げた。
 びっしりと、箇条書きで文章が記されている。不甲斐ない桔花のために、わざわざ書き出してきてくれたのだと思うと、頭が下がるほどだ。
 それを彼が読み上げようと、口を開けたときだった。まるでタイミングを合わせたように、ダイニングテーブルの上でスマートフォンが甲高く鳴り始めた。
「ご、ごめんなさい。お気になさらず、続けてください」
 電話なら折り返せばいい。今は、目の前にいるハクが優先だ。
 桔花はやり過ごそうと思ったのだが「どうぞ」と掌を見せられる。
「出てください。お待ちしておりますから」
「……ですが」
「前回申し上げたでしょう。私は客ではありません」
「わかりました。……では」
 会釈してから立ち上がり、ダイニングへ行く。スマートフォンの画面には『お母さん』の文字が表示されていた。実家の母からの着信だ。
「もしもし、お母さん?」
 通話ボタンをタップして呼び掛ければ、明るい声で『桔花!』と呼ばれる。
『今、おうち? 三日ぶりかしら。元気だった? ご飯、ちゃんと食べてる?』
 矢継ぎ早の質問に、ひとまず「うん」と答える。母はいつもこうだ。どうせひとりでいるだろうからと、かまわず話を始めてしまう。
『さっきね、お米を送ったのよ。取引先からたくさん頂いてね。ほら、ウチのCMに出てくれてるタレントさん。地方の観光大使に任命されたとかで、地元のお米を送ってくださったの』
 用件はつまり、宅配便を受け取って欲しいということらしい。
 緊急の案件ではなさそうだ。ならばと桔花は早々に話を切り上げようとしたのだが、続けて母は言う。
『本当はおかずも届けたいんだけど、今週は会食続きでね……。あ、そうそう、お父さんがね、家族でお食事に行きましょうって。桔花、来週末にはこっちに来られる?』
「うん。それでね、お母さん」
『そうそう、それとね、忘れないうちに言っておくわね。いとこの花緒ちゃんがね、結婚するらしいの。お式の招待状、桔花のぶんも出席でお返事しておいたから』
「花緒ちゃんが? わかった。わざわざありがとう。あのね、わたし――」
 桔花はどうにかして切り上げねばと焦るのに、母に気づく様子はない。のんびりと『花緒ちゃん、どうやらお見合い結婚らしいのよね』などと話を広げてしまう。
『まだ二十六歳なのにお見合いなんて嫌がらなかったのかって聞いたら、花緒ちゃん、恋愛よりお見合いのほうが確実だって言ったんですって』
「そっか。合理的な花緒ちゃんらしいわ」
『そう? 今どき、珍しくないかしら。それとも、桔花くらいの世代はみんなそうなの? そういえば恋愛しない人、増えてるっていうものね。時代かしらねぇ』
 普段なら母の雑談の長さなどまったく気にならないのだが、今はいけない。
 気になって、チラとリビングのハクを振り返る。床の上に正座をしたまま行儀良く待つ忠犬のような姿に、ますます焦る。
「ご――ごめんね、お母さん。実はわたしね」
 言いかけると『やだっ』と重ねて言われた。
『誤解しないで。そんなつもりで結婚の話をしたわけじゃないの。桔花にはね、できればお父さんとお母さんみたいに、惹かれ合う相手と自然に出逢って結婚してほしいの。急かそうなんて思ってないし、お見合いをさせようなんて考えてもいないわ』
 どうやら母は、桔花がお見合いをしたくなくて謝ったと思ったらしい。
「違うの。そうじゃなくて……ごめんなさい、来客中なの」
『あらっ、もしかして、デート中だった!?』
 急かすつもりはないと言いながら、咄嗟にそう問うあたり、本当は娘の行く末が気になって気になってたまらないらしい。
 母の立場になって考えてみれば、当然だと思う。
 なにしろ桔花には、長らく特定の相手がいない。
 男性と付き合ったのも、大学生のときに一度きり。それも、二週間だけだったから。
「ううん。今日いらしているのは、ただの知り合いよ。先日、人を助けたから、そのお礼にってわざわざ足を運んでくださったの」
『そう。そうだったのね……』
「あっ、でも、がっかりしないで。わたし、今は特定の人はいないけど、恋愛とか結婚とか、したくないと思ってるわけじゃないわ。いつかはって思ってるし、このまま相手が見つからなければ、お父さんとお母さんにお見合い相手を探してほしいってお願いするつもりよ」
『まあ、本当?』
「うん。瀬戸内家の血すじを絶やしたりしない。それが、わたしの役割だもの」
 桔花は幼い頃から自覚している。己が瀬戸内家唯一の嫡子である以上、次代に家名を残せるのは自分だけだと。
「じゃあまた、あとで連絡するわ」
 桔花の言葉に、母はひとまず納得したらしい。きちんと戸締まりするのよ、お客さまによろしくね、と言って電話を切った。
「お待たせいたしました。では、お話の続きを……」
 元いたソファ脇へ戻ろうとすると「それですよ」と藪から棒に言われる。ハクは床から腰を浮かせ、乗り気な様子で桔花を見上げている。
「それ、と、おっしゃいますと?」
「瀬戸内さまは今、交際相手を探していらっしゃるのでしょう。お相手探しを恩返しといたしましょう。大柴胡の人脈をもってすれば、ふさわしい男を見つけるなど容易いこと。もちろん、カタギの人間をご紹介いたしますから、ご安心ください」
 話は決まったとばかりに封筒を胸ポケットに戻し、スマートフォンを取り出す。
 仲間に連絡を取ろうというのだろう。すぐさま「やめてください!」と桔花はその手を止めた。
「交際相手を探す必要はありません」
「何故ですか。然るべき相手が見つかれば、ご両親も安堵なさるのでは?」
「それはそう……なんですけど、今はまだ、ダメなんです」
「今はまだ、とは」
「その、わたしはまだ、男性とは、関わらないほうがいいんです」
 訳がわからない、といったふうにハクが目を丸くする。
 打ち明けようかどうか、ひどく迷った。
 大学時代、初めて男性と交際したときのこと。
 きっかけは、相手からの告白だった。今はまだ好きでなくてもいいから付き合って欲しいと、押しに押されて了承した格好だ。
 それでも一緒にいればそこそこ楽しかったし、うまくいっていると思っていた――そういう雰囲気になるまでは。
「何を根拠に、関わらないほうが良いとおっしゃるのです?」
「それは」
 それは。
 逡巡したのち、か細い声で桔花は答えた。
「ぬ……濡れない、から……」
 裸で舞台に立つような覚悟だった。
 は? と、言おうとしたふうにハクの唇が開く。
「その、ごめんなさい、こんなはしたない話。でも、本当なんです。どう頑張ってみてもダメだったんです。以前付き合った人と、そういう関係になろうとしたとき」
「そういう、というのはつまり、セックスですか」
 はっきり問われて、顔がかあっと熱くなる。
「そ――そうです。受け入れようと思うのに、体が反応してくれないんです。要するに、わたし、そっちの欲もない人間なんだと思います」
 彼のことも、結局は欲しいと思えなかった。
 物欲もなければ、性欲もない。自分でも少しおかしいと思う。だが、どうにもできなかった。そして誰にも相談できなかった。
「男性は……傷付かれるでしょう? こんな女と付き合うなんて」
 最初は、ごめん、と肩を落としていた彼は、次第に不満を露わにするようになって――しかし応えようがなかった。欲しがるほど、彼が空回りしているのが桔花にもわかって、しかし自分では解決できなくて。
 どうやったら欲しいと思えるようになるのか。
 考えても考えても、雲を掴むようだった。
 だから別れを告げられたときは、寂しいとか切ないとかいう前に、申し訳なくてたまらなかったのだ。
 次こそうまくいく、なんてまだ思えない。もう、誰も傷つけたくない。
 相手の男性のためにも、安易にあてがおうなんてしないほうがいい。
 俯いて言い切れば、ハクは、ク、と喉の奥を鳴らした。笑われた、のだろうか。驚いて、顔を上げる。予想通り、ハクはクククと愉快そうに肩を揺らしていた。
「たわけたことを。濡れないのは、男が下手なだけです」
「いえ、でも、彼だって一生懸命してくれて……」
「一生懸命になりさえすればイかせられると? 馬鹿馬鹿しい。その男は、あなたの反応をきちんと確かめていたのでしょうか。必死に、挿れて出すことしか頭になかったのでは? 猿以下ではないですか」
 辛辣すぎる。そんなことないと彼を庇いたいのはやまやまだったが、思い返してみれば、ハクの意見もまるきり的外れというわけではなかった。
 ベッドの上の彼は桔花が快感を得ているかどうかということより、思い通りの反応が返ってこないことのほうに不満を覚えているようで。
 何度も強引に挿れられそうになったが、痛いばかりで――。
「断言しましょう。あなたは濡れます。性欲だって、人並みに……いえ、今まで発散されてこなかったぶん、目覚めれば人並み以上になるかもしれませんね」
 嘘。そう言った唇が、乾いていた。
「自信がありますよ、私は。あなたをぐちゃぐちゃに溶かした挙句、欲しくて欲しくてたまらないと泣かせて、縋らせる自信がね」
 不適な笑みに煽られ、その様子を想像した桔花は動揺するしかない。
 こんな自分でも、濡れる? ぐちゃぐちゃに溶けるほど、快くなれる? 本当に? 
「試してみますか?」
「た、試すって」
「私と寝る、ということです。擬似でも、本番ありでもかまいません。どちらにせよ、あなたがよがって、泣いて、欲しがるようにいたしましょう。無理強いはしませんし、秘密も守りますよ。なにしろ、あなたは大柴胡の恩人ですからね」
 ありえない。たった二度、顔を合わせただけの男と肌を合わせるなんて。
 ましてや、ハクはヤクザ者だ。法の外にいる人間だ。深く関わってはならない。
 断ろうとして唇を開いたものの、声にならなかった。唇だけでなく喉まで張り付いて、唾を飲むとコクリと気まずい音がなる。断らなければ、早く。でも。
 こんな機会、再び巡ってくるものだろうか。
 もしまた恋人ができて、その人を心から好きになって、それでも濡れなかったら?
 両親のお膳立てで見合いをして結婚したとして、濡れないことが理由で相手を傷つけてしまったら? 瀬戸内家の跡継ぎを、もうけられなかったら……?
「では、もう一時間だけ待ちましょう。一旦辞去し、後ほどまた、参ります」
 そう言って立ち上がったハクは、本当に一時間きっかりでマンションの部屋を訪ねてきた。今度こそ時間切れだ。猶予は使い果たしてしまった。
 目が合って、見定めるようにじっと見つめられる。
 躊躇いながらもどうにかその視線を受け止め、お願いします、と桔花は頭を下げた。
「先ほどのお話――依頼させてください」
 欲しいものも、叶えたい夢もない。
 けれど桔花は、己がなすべきことだけはきちっと理解している。