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ヤクザの恩返し 無垢な令嬢は孤独な極道のひたむきな愛に溺れる 1

 第一話

 


 あるところに、一頭のロバがいました。
 質素で狭い納屋に住み、充分な餌を与えられず、いつも見窄らしい姿をし、朝から晩まで重い荷物を運ぶのが仕事でした。
 あるところに、一頭の馬がいました。
 清潔で広い厩に住み、飼料をたっぷり与えられているおかげで体格も良く、たてがみはいつも美しく手入れされ、のびのびと草原を駆けていました。
 ロバは馬をたいそう羨みました。
 自分も馬に生まれたかった。もう、こんなに惨めな生活はごめんだ。馬のように立派な姿で、毎日気楽に、幸せに暮らせたら良かったのに。
 あるとき、馬は戦場に駆り出されました。
 大事に育てられてきた馬は、軍用馬だったのです。
 傷だらけになって戻ってきた馬を見て、ロバは二度と馬を羨まなくなりました。

                    ――イソップ寓話『馬を羨んだロバ』


 

 事の発端は、昨夜まで遡る。
「こ、こっちです……っ、あとちょっと、頑張ってください……!!」
「う、うう、すまんな、お嬢ちゃん、イタタタタ!」
 瀬戸内桔花は、その晩、腰の立たない老人を連れて帰宅した。
 近所のデパートへ、牛乳と食パンを買いに出掛けた直後のことだ。公園裏の路地にうずくまっている、小柄な彼を見つけた。
 持病のヘルニアが悪化したと言い、自力では一歩も動けないようだった。
 最初は、身内に連絡をしてやろうとした。でなければ、救急か警察に。動けないほど辛いなら、一刻も早く然るべき場所で治療を受けたほうがいい。
 しかし老人は、誰にも言わないで欲しい、そっとしておいてくれと懇願する。愛人宅の帰りゆえ、家内に知られたら殺される……などと泣きつかれたら、できなかった。
 だからといって、弱った老人をひとり、放っておくわけにもいかず――。
 仕方なく、桔花は彼を部屋に連れて帰ることにしたのだった。
「ヒイ、七十過ぎて若い子相手にハッスルするもんじゃないのぅ、ううう」
「よいしょ、っと……あの、靴、脱げますか?」
 息を切らしながらも、どうにか玄関までたどり着く。あまりに必死だったから、マンションのだだっ広いエントランスをどうやって越えて来たのか、覚えていない。
「お、おお、いや、すまん……くっ、靴……ぬ、脱げん」
「わかりました。じゃあ、このまま行っちゃいましょう!」
 桔花の祖父は、事あるごとに言っていた。困っている人を見つけたら、必ず手を差し伸べなさい。それが我々、持てる者の役割なのだから、と。
 桔花は重々承知している。
 瀬戸内食品工業グループ――。
 言わずと知れた日本随一の大企業の代表こそ、桔花の父、その人だ。ちなみに先代が祖父で、創業者である先先代が曾祖父。つまり桔花は、深窓の令嬢なのである。
 困った人を見捨てなどしたら、非難の的にされること請け合いだ。
 でなくとも桔花は、困難に直面した人を見掛けたら、見なかったことにはできない。多少無理をしたとしても、助けてあげたいと思う。そういう人間なのだ。
 靴を履いたままの老人に肩を貸し、玄関から廊下へとよたよた進む。
 向かったのは、玄関から一番近い洋室だ。
 ベッドを一台だけ置いた、普段は使っていないゲストルームのひとつ。奥にはもう少し広い空き部屋もあるのだが、桔花の細腕ではここが限界だった。
「下ろしますよ……っ」
 ベッドに座らせようとすると、アタタタタっ、と悲鳴を上げつつ翁は倒れ込んだ。
 イタリアブランドの高価そうなスーツが、無惨にも皺だらけだ。派手なロゴマークで埋め尽くされた運動靴を脱がせてやると、ようやく落ち着いたのだろう。
 白い口髭の向こうから、ふーっと長く息を吐いた。
「助かった……。誰も呼ぶなと強がったが、正直、限界だったんじゃぁ……」
 明るい場所でまじまじと見て、整った人だな、と思う。
 翁の風貌には、単に老いただけではない、円熟みがそこはかとなく漂っている。
 真っ白だが充分な量のある髪に、手入れのされた口髭。肌が綺麗だからなのか、目尻の皺には品を感じるほどだ。落ち窪んだ目にははっきりとした力が宿り、老人のそれとは思えない。
「今、お水を持ってきます。痛み止めも、あったほうがいいですよね?」
「おお、何から何まで申し訳ないのう。ご両親はどちらじゃ? 本当にお邪魔して良かったのかね?」
「お気になさらないでください。ひとり暮らしなんです」
 老人が驚いたように目を丸くする。当然の反応だった。
 駅前のタワーマンションかつ、来客用ベッドルームのある余裕のある間取り。しかも最上階の角部屋だ。桔花のような若い女性がひとり暮らしなど、普通に考えたらできっこない。
 しかし桔花は前述の通り、その『普通』の範疇に収まらない、至極裕福な家庭で育ったわけで――。
「あの、ご存じないですか? 瀬戸内食品工業グループ。父はそこの経営をしていて」
「ん? せとうち、せっとうちっ♪ マイルドはちみつカレー……じゃったか」
「それです!」
 聞き慣れたCMソングを口ずさんだ老人に、こくこくと頷いて応える。
 瀬戸内食品工業といえば、戦後、桔花の曾祖父が立ち上げた輸入食品の会社を基礎とし、カレーやシチューのルウ、冷凍食品に菓子など、店頭で見掛けぬ日はない。
 一般社員に交じり、桔花が本社に勤務したのは実に一年ほど。
 無理をして働くことはない、きっとすぐに婿をもらって家庭に入るのだし、と言ったのは父だった。桔花はひとり娘で、瀬戸内家に男児はいない。だから今後、瀬戸内家を粛々と存続させていくためには、桔花が早々に結婚し男児を産む必要があった。
 フェミニストが聞いたら、反感を持つに違いない。なんて時代錯誤な話だと、桔花も思う。しかし、血縁を重視する人々というのは未だこの世に存在する。
 父の秘書である母もそのひとりで、桔花は社会人二年目を前にして家事手伝いの立場に収まった。
 幸い、家事以外にもなすべきことはたくさんあった。
 主に、祖父が遺した投資目的の物件を管理すること。
 今まさに桔花が暮らしている部屋も、その物件のうちのひとつなのだった。
「お嬢ちゃん、いささか不用心すぎるんじゃないかの? ひとり暮らしの部屋に見ず知らずの男を招き入れ、かつ裕福な環境にいることをあっさり明かしてしまうとは。儂が悪い男じゃったら、お嬢ちゃんを手ごめにしたうえで金目のものを奪って逃げるか、身代金目的で誘拐を企てているところじゃぞ」
 クク、といかにも悪そうに笑われて、思わず噴き出してしまう。
「そんなこと、なさる方には見えません」
 腰を痛めているというハンデを抜きにしても――。
 老人はお金に困ってはいないと、桔花は確信していた。
 きちっとした身なりのみならず、彼の仕草には重みがある。翁こそ、どこぞの企業の重役だろう。あのまま放置していれば、追い剥ぎにあってもおかしくない。
 そう思ったのもあって、部屋まで連れてきたのだ。
「マンション内には警備員も常駐してますし。こう見えて、丸腰ではないですよ」
「ふむ、儂が心配するまでもなかったか」
 ふふ、と桔花は肩を揺らす。心配してくれるなんて、やはり悪人ではない。
 不倫に勤しみ家庭を顧みない点、完全な善人とも言えないのだろうが。
「今夜はこちらの部屋を使ってくださいね。夜が明けたら、タクシーをお呼びしますから。ちゃんと帰宅して、奥さまに謝らないとだめですよ」
 そうしてひと晩、桔花は見ず知らずの老人に部屋を貸した。
 翌朝には、朝粥も振る舞った。子供の頃から毎朝食べている、定番の朝食だ。梅干しと海苔の佃煮、鮭の切り身と昆布、おひたしとゆで卵も添えて。
 幸い、老人はひと晩休んでどうにか起き上がれる程度に回復していた。もともと、丈夫なのだろう。タクシーを呼ぼうとすると、迎えの車を呼びたいと言うので、電話の子機を持ってきて貸してやった。
「いやはや、朝食まで用意してくださるとは。お嬢ちゃんはまさしく菩薩さまじゃ」
 迎えを待ちながら、ベッドに腰掛けて翁は言う。
「一宿一飯の恩ができてしまったのう」
「そんな、大袈裟なものでは……」
「そう謙遜なさるな。これを機に愛人にならんか? いい部屋に住まわせてやるぞ。――と誘いたいのはやまやまじゃが、お嬢ちゃんは充分いい部屋に住んでおるしのう。住む場所を保証してやったところで、大した利にはならなそうじゃのう」
「ふふ、そうですね」
「どれ、何か欲しいものはないかね? ブランドバッグでも、ダイヤモンドでも、車でもいい。愛人契約は抜きにして、今回のお礼に何かひとつ贈らせてもらえんか」
「それこそ必要ありません。欲しいものなんて、何もないですから。ありがたいことに、わたし、今のままで充分、満たされているので」
 というのは遠慮でも自慢でもなかった。
 事実、桔花は満たされきっている。
 幼い頃から、あらゆるものが常に、欲する前に与えられる環境だった。
 衣食住はもとより、おもちゃ、電子機器、宝飾品から車まで。
 どうしても欲しいと渇望した経験もなければ、なくて困ったという覚えもない。
 満たされているのはモノに限った話ではなく、環境に関してもだ。
 祖母は桔花が生まれる前に亡くなったが、祖父は同居している期間もあったし、寂しいと言えば父も母も必ず早く帰ってきてくれたから、不満など抱く道理がなかった。
 何不自由なく。
 その言葉が似合う状況で育てられた自分が、これ以上何を望めるだろう。
「なるほど。満たされておる、か。正反対じゃの」
 老人は興味深そうに顎鬚を撫でた。
「案外、とんでもない化学反応を起こせるかもしれんの」
「え?」
「いやいや、こっちの話じゃ。とにかく、一宿一飯の恩義は返さねばならん。お嬢ちゃんがどう思っていようが、儂にもメンツというものがあるからな。そうじゃ」
 言いながら老人は、ジャケットのポケットを探る。
 そして気楽そうに一枚の名刺を差し出した。
 厚手の紙の左上には、丸い家紋のようなマークが金で箔押しされている。中央の模様は、水芭蕉のようで少し違う。植物だろうが、見覚えがあるようなないような――。
(企業のロゴマーク……? 『半夏会』って、社名かしら)
 考え込んでいると、部屋のチャイムが鳴った。
「儂の名前を覚えておいてくれ。儂は厚、大柴胡厚じゃ。必ず恩返しに来る」
 厚はそう言って、やけに体格のいい黒スーツの男たちに抱えられて去っていった。
 
 
 ひとり暮らしの部屋に誰かを招いたのは初めてだった。
 くまなく掃除する習慣があって、良かったと思う。ひとり暮らしで、訪ねてくる友人も恋人もいない桔花の唯一の趣味は、主に掃除なのである。
「よし、今日はバスルーム掃除の日にしよう」
 掃除用具が入ったバケツを用意し、デニムの裾を捲り上げる。
 5LDKのどこか一か所を、ローテーションで重点的に綺麗にするというのが、桔花のいつものやり方だ。
 部屋を管理するという名目でこのマンションに住んでいるため、始めた掃除だった。しかし部屋がきちっとしていると、頭の中まですっきりする。
 そして頭がすっきりすると、心までも落ち着く。
 もっと丁寧に暮らそうと思う。すると料理も捗って、体までも元気になる。そんな循環が心地よくて、掃除を好きになった。
(お風呂掃除が終わったら布団乾燥機をセットして、お昼のパンでも焼こうかな)
 考えながら、浴槽に洗剤を噴きつける。スポンジで端から磨いていく。最近は汚れが良く落ちる洗剤の口コミを、SNSで検索して探すのも楽しい。
 ひとり暮らしを始める前は、住居にこんな手入れが必要だとは知りもしなかったが。
 瀬戸内の実家にはお手伝いさんが五人ほどいたし、両親が家事をしているところを見たこともなかった。家の中は放っておいても常に綺麗、というのが当たり前だった。
「……ん。今日もピカピカだわ!」
 洗剤を流し終えると、正午を少し過ぎていた。
 Tシャツもデニムもびしょびしょだ。着替えに行こうか、いや、その前に使った掃除用具をベランダに干そうか。
 そんなことを考えながらタオルで足を拭いていると、リビングからインターホンの呼び出し音がした。
「あ、はーいっ」
 宅配便でもやってきたのだろう。
 たまに、両親から送られてくるのだ。米やら、お中元やお歳暮などでもらった肉やら蟹やら、プロモーションとして受け取ったブランド物の服やら――。
 しかしインターホンの小さな画面には、黒髪にスーツの男が映っている。
『瀬戸内さまのご自宅でよろしいでしょうか』
 かしこまった物言いに、桔花は首を傾げた。誰だろう。
 最新式のモニターとはいえ、画面が小さすぎて人相が判然としない。
 それでも肩幅の広さや、上半身が筋肉質なのはなんとなく伝わってきて、知り合いにこんなに見事な体格の男はいないと桔花は思う。
「どちらさまでしょうか」
 通話ボタンを押して尋ねれば、男は軽く会釈をする格好で答えた。
『大柴胡厚の部下で、山下白雨と申します』
「大柴胡……」
 昨夜の老人だ。
 驚いて目を丸くする桔花の前、モニターの中で男――山下は言う。
『大柴胡の代理にて、一宿一飯の恩義を返しに参りました』
 恩返し。まさか本当に訪ねてくるとは。
 面食らいつつも、桔花は手もとのボタンを押してエントランスの鍵を開けた。客人を立ちっぱなしにしておくわけにはいかない。
「あの、最上階です。エレベーターを降りて、突き当たりですから」
『お邪魔いたします』
 一礼した男が自動ドアをくぐるのを確認し、桔花はクロゼットに飛び込んだ。
 濡れたデニムとシャツでは、とてもではないが来客応対などできない。急ぎ、ロイヤルブルーのロングスカートとブラウスに着替え、カーディガンを羽織って……。
「いけない。掃除用具、出しっぱなしっ」
 パタパタと、掃除用具をバケツに詰めてバルコニーへ干しに行く。
 そうしている間に、また、呼び出し音が鳴った。今度は玄関のチャイムだ。
「はいっ、今出ます!」
 慌てて玄関まで駆け抜け、勢いよく扉を開けた桔花は、思わず固まった。
 モニター越しにはわからなかった。
 目を見張るほど美しい男が、ケーキ箱を片手にそこに立っていたからだ。
 奥二重の目は、鋭いだけじゃない。触れたらヒヤリとするだろうという、絶対的な冷たさを感じさせる。スッと伸びた高い鼻も、口角の上がった唇も、いや、眉と鋭い顎のラインまでもが、まさに涼やかな雰囲気で――。
 雪の中にぽつんと立っていたら、ひどく似合う。
 そんなイメージだった。
「瀬戸内桔花さまでいらっしゃいますね?」
「は……はい」
「このたびは手前ども『半夏会』の大柴胡が、大変お世話になりました。組織を代表し、ここに厚く御礼申し上げます」
 深々と下げられた頭に、その広い肩に、今後幾度となくしがみついて切なく啼くことになろうとは、誰がどうして予想できただろう。
 
 
 男をリビングに通したものの、桔花はすこぶる落ち着かなかった。というのも彼はリビングに着くなり、ソファの存在を無視して床に座ってしまったからだ。
 そう、まるでお仕置きを受ける学生のように。
「あ、あの、山下さん、でしたよね?」
 桔花はソファの端に座り、居心地の悪さで逃げ出したくなりながら言う。
「ハク、とお呼びください。大柴胡からはそのように呼ばれております」
「ハクさん……その、ソファに座りませんか。床の上は硬いでしょうし」
「辞退させていただきます。私は、もてなしていただく立場にはありませんから」
 腰が低いのはよくわかった。ひょっとしたら厚から、そのように言い付けられているのかもしれない。しかし、それにしてもやりにくい。
 彼がソファに座る気になるよう、桔花は気を遣って先に向かいに座ってみせたのだが、失敗だったと思う。これでは完全に上から目線だ。
(どうしよう。わたしも床に降りたほうがいい? でも、ソファの横に大人が向かい合って正座をしている様子なんて、想像すると滑稽だし)
 ローテーブルの上では、ふたつのコーヒーカップが虚しく湯気を上げている。手をつけてはもらえないだろうことを、すでに悟っているふうだ。
「ではまず、ご希望の品についてです。すでにお決まりですか? それとも、手前どもからご提案させていただきましょうか」
「品って、恩返しの、ですか?」 
「ええ。現金でも、貴金属類でも、金塊でもブランド物の鞄でも、車でも土地でも。ご希望とあらば、ご用意いたします。あなたさまを満足させよと、大柴胡から命じられておりますので」
「ちょ、ちょっと待ってください。わたし、先ほどのケーキだけで充分です」
 桔花はさらに焦ってしまう。
 てっきり、ハクが持参した苺ショートケーキがお礼の品なのだと思っていた。だから、遠慮することなくありがたく受け取った。
 第一、桔花は厚に言っておいたはずだ。お礼なんて必要ない、と。しかしハクは事務的な口調で「まさか」と言う。
「そちらはただの手土産です。その程度で恩返しを済ませては、大柴胡の名に傷がつきます。別途、あなたさまのご厚意に見合う品をご所望ください」
「見合う品って……」
 ひと晩泊めたくらいで貴金属やら車やらを受け取っては、それこそ見合わないではないか。桔花はそう思ったが、ハクはみるみる話を進めてしまう。
 モノで駄目なら経験ではどうか。旅行、いっそ別荘という手もある。あるいはコネクション。芸能人と一対一で会う、大物政治家への紹介……。
 これでもかと提案される『恩返し』に、桔花は魅力を感じるどころか困ってしまう。
「あの、別荘なら何か所もありますし、旅行も正直、行き尽くしてしまって。テレビは観ないので芸能のことは存じませんし、政治にも興味がありません」
「そうでしたか。では、絵画では? 骨董品などでも結構ですよ」
「いえ、その、お申し出に関してはありがたく思っています。ですが、わたし、本当に何もいらないんです。見返りありきで厚さんを助けたわけではありませんから」
「そうおっしゃいましても、これは大柴胡の沽券に関わる問題ですので」
 このままでは、いくら話し合っても結論など出ない。
 困り果てた桔花は、今、一番必要なものをお願いすることにした。
「……でしたら、夕飯の買い物でもお願いできませんか。昨夜、買い物に行く途中で引き返してきてしまったので、牛乳と食パンが欲しいんです」
「かしこまりました。では、そちらは別途ご用意いたします」
「別途、って」
「恩返しとは別、ということです」
 やられた。
「っ……あ、じゃあ慈善団体に寄付というのは」
「残念ながら、慈善事業は大柴胡の信念に反します。まず、私はあなたさまを満足させるようにと言いつかって参りました。慈善というのは他人のために施すこと。あなた自身が満足することに使われなければ、どんな大金でも意味がないのです」
 これでは恩返しの押し売りではないか。
 などと言えるはずもない桔花に、ハクは淡々と催促を続ける。
「何か、おありのはずです。街を歩いていらっしゃるとき、雑誌やインターネットをご覧になっているとき、お手にしてみたいと思われたものはありませんでしたか」
「な、ないです」
「即答なさらず、よく思い出してみていただけませんか。富豪のご令嬢とはいえ、瀬戸内さまにだって、欲というものが備わっていないはずがないのですから」
「ありません、欲なんて!」
 もちろん、桔花にも食欲と睡眠欲くらいはある。喉の渇きだって知っている。
 しかし、どうしてもこれでなければ、というこだわりはなかった。
 最低限、用が足りればそれでいい。だから衣類もファストファッションばかりで、鞄も軽くて使い勝手のいいノーブランドのものを長く愛用している。
 その点、見栄だってないのかもしれなかった。
「欲が、ない……?」
「はい。わたしは……その、何もかも満ち足りているんです」
 ぴくりとハクのこめかみが引き攣る。
 嫌味だったかもしれない、と桔花は一瞬後悔したが、撤回するのは躊躇われた。欲がないのは事実なのだ。今さら、誤魔化すほうが失礼になる。
「ハクさん、お手数ですが、厚さんに連絡を取らせてもらえませんか」
「何故ですか」
「お伝えします。恩返しなんて必要ありませんって。受け取れないのはわたしの都合ですから、話してわかっていただこうと思います」
「お優しいお気遣い、痛み入ります。ですが、あなたさまにご満足いただくことが、私に申し付けられた仕事です。大柴胡の命令は絶対です。ご理解ください」
「絶対って、でも、仕方ないじゃないですか」
 話せばわかってもらえるはずだ。
 そう言い掛けた声を遮って、やや強い口調でハクは言う。
「仕方ない、で済む話なら私刑(リンチ)は必要ありません。恩返しが叶わず、あまつさえあなたさまに庇われたとして、私は温情を賜るどころか組織を追われるでしょう。結果的には、破門です」
「は、破門?」
 組織を追われるのは、普通、解雇と言うのではないのか。
 いや、その前に彼は今、私刑と言ったか。
(どういうこと……?)
 戸惑う桔花の前で、ハクはいきなりネクタイを引き抜く。続けてジャケットとワイシャツのボタンを引きちぎらん勢いで外し、腹部をがばっと開いて見せた。
「破門になるくらいならば、私は死を選びます」
 切腹する勢いに、仰け反った桔花は二重の意味で驚いた。露出したハクの胸――鎖骨の周辺に、鮮やかな赤色が見えたからだ。
 花柄のインナー……ではない。
 ――刺青。
 花弁を重ねた牡丹の花が、筋肉質な肩からこぼれるように咲いていた。
 ようやく、桔花はすべてを理解する。彼の口調が古風な理由も、やけにブラックめいた仕事に対する姿勢も、厚が率いている企業ではない組織のことも。
 ヤクザだ。
 彼らは任侠一味なのだ。裏社会の人間なのだ。
 ゾッとしたのも束の間、しかし、それ以上深く考えている余裕はなかった。ハクが内ポケットから、短い木刀のようなものを取り出したからだ。懐刀だ。殺される。
 いや――。
 死ぬ気なのだ、ハクは。
 察して、桔花は焦ってその腕に飛びつく。
「わああ、ストップ、ストップーっ」
「止めないでください」
「止めるに決まってるじゃないですかっ。だめ、死んじゃダメですーっ」
 刃物で死のうなんて、痛いに決まっている。想像しただけでゾッとする。違う、痛くなくたって、こんなくだらない理由で死ぬのはいけない。
 死んでから後悔したって遅いのだ。
「仕事より、命を大事にすべきです……!」
「それは一般社会での常識であって、我々裏社会では通用しません。……ああ、ここでは後処理が大変ですし、事故物件になってしまいますか。では、場所を変えます」
「そういう問題じゃないです!」
 事故物件になるのは困るが、桔花は正直まだそこまで考えが至ってはいなかった。
 脳裏を過ぎるのは、五年前、祖父が亡くなった日の光景だ。
 九十三歳、天寿をまっとうしての大往生でも、家族全員、親戚に至るまでが愕然とし、しばらくまともに会話ができなかった。
 腰を浮かせかけたハクの腕を引っ張り、懸命にその場に留める。
「死んだら駄目です。わ、わたしが、厚さんに、合わせる顔がなくなりますっ」
「お気になさらず。私が不甲斐ないだけで、あなたさまの責任ではありませんから」
 庇うような言葉だが、桔花はむしろ責め立てられている気分だった。
 自分が欲しいものを定められない所為で、ハクは命を落とすのだ。いや、裏を返せばハクは、桔花が欲しいものさえ指定してやれば死なずに済む。
「失礼」
 ハクが片膝を立て、いよいよ立ち上がろうとしたから、桔花はがむしゃらに縋った。
「かっ、か、考えますっ。欲しいもの、ちゃんと考えますからぁ!」
 両手で懐刀を掴む。力任せに引っ張って、取り上げようとする。
 すると、ぴたりとハクが動きを止める。視線はまだ、己の手もとに向けたまま、だ。
「考える? いつまでに、ですか」
「……えっ、え、ええ?」
「期限を切っていただけないのであれば、残念ながらここまでです」
 懐刀から手を振り払われたので、慌てて腕を掴みながら「三日っ」と叫んだ。
「三日ください。その間に決めます!」
 黒々とした冷たい瞳が、桔花を捉える。長めの前髪がひと筋、額を斜めに横切って左目にかかっていた。鋭くも冷たい視線に、ゾクリとする。
 握った懐刀を下ろさない点、ハクはまだ桔花の言葉を疑っているに違いない。
「三日後、同じ時間にお伝えします。ので、やめてください。お願いします……っ」
 改めて訴えると、数秒後、筋肉質な体から力が抜けるのがわかった。
 ようやく納得した様子で、ハクは「承知いたしました」と頷く。
「では三日後、またこの時間にお伺いいたします」
 感情のない声とは裏腹に、そっと腕を解く仕草が優しかった。
 懐刀を内ポケットに戻し、着衣を整えながら立ち上がる。途端、かすかに夏を思わせる匂いが桔花の鼻を掠めた。触れたらひんやりとしそうな外見からは、想像もつかない熱い気配に、不思議と、胸がざわめく。
(なんだろう、この感じ……)
 しばらくぼんやりしていたから、我に返って恐ろしくなったのは、ハクの気配がすっかり部屋から消えたあとだ。
 とんでもないことになってしまった。
 まさか、あの人のよさそうな厚がヤクザの親玉だったとは。そしてその手下のヤクザから、恩返しさせろと迫られる羽目になろうとは――。