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このたび、弊社のCEOと子作り契約いたします!?  片思い中の冷徹社長の溺愛にキャパオーバーです! 3

第三話

「俺と水谷さんが結婚すれば、双方の問題が解決する」
「……、けっこん、……?」
 プロポーズが聞こえていたのか、カウンターに立つバーテンダーがさり気なく二人から距離を置く。
 詩乃は間抜けな顔で宗助を覗き込み、ごくり、と喉を鳴らした。
 ――もしかして、恋心を見破られて、鎌をかけられてる……?
 ――実は、ずっとバレてた……?
 ――だとしても、もう辞めるのに? 確認する意味って?
 詩乃は最後までデキる女を貫き通すべく、「んんっ」と咳払いをし、涼しい顔で姿勢を正した。
「え、ええと。問題、と申しますと……? 社長も何か、お困りのことが、」
「実は俺も、父から三十までに結婚して子供を作れと迫られて見合いを勧められているが、あと一年しかない」
「……なるほど」
 何も『なるほど』なことはなかった。
 ぽかんとバカみたいに見つめるよりはマシかと思って、神妙な顔で頷いてみただけである。
 ――そ、そっか、次男とはいえ、九条グループの御曹司だもんね……。何人も跡継ぎが必要、だったり?
 ――それで……、……あー……? っと……? …………つまり?
 言われた言葉を咀嚼しようとしてみても、頭が真っ白で、何も考えられない。
「水谷さんは見合い結婚の覚悟ができているのかもしれないが、俺は正直、出会って間もない女性と一生の契りを交わすのは、リスクが高すぎると思う」
「……ちぎり、」
 少し古風な印象の言葉に、更に意識が遠退いていく。
「今は再生エネルギー事業に注力し始めた大事な時期だ。結婚相手を見定めたり、ゼロから信頼関係を築く余裕はない。その点、水谷さんとは出会ってから四年も経つ。頻繁にコミュニケーションを取ってきたわけではないが、価値観の相違があっても冷静に対処できる人だと信じている。もちろん、子作りを終えた後は、好きなタイミングで仕事に復帰すればいい」
「こっ、づ、っ……こづくり、」
 処女には刺激の強すぎる言葉に噎(む)せそうになって、慌てて冷たくなった紅茶を啜った。
 合理性を突き詰める姿勢は、いつもの宗助だ。
 でも、これほど多弁な彼を見るのは、初めてだった。
 心臓がせり上がってくる嫌な感じに堪えきれず、バッグから取り出したハンカチを口元に当てて、ごくんと心臓っぽいものを飲み込み、ちらりと宗助の横顔を盗み見る。
 相変わらず、鉄の仮面を被ったように表情は変わらない。
 漆黒の瞳からは、愛情どころか、体温すら感じ取れない。
 会議室で、社員のプレゼンを冷静に見定めている時と、全く同じ。社内報の取材で会議に同席したことがあるから、よーく覚えている。
 ――そう……そうだ。
 ――これはプロポーズっていうより……企画のプレゼン。普通の恋愛結婚とは全然違うもので。
 ――ただの、合理的な取引なんだ……。
 結婚という名前の、共同プロジェクトの提案。もしくは、契約の営業。
〝水谷詩乃〟が求められているのではない。
〝水谷詩乃という駒〟が、偶然、宗助にとって望ましい状況にあっただけ。
 ――えっと、でも、じゃあ……もし子供ができなかったら……。
 優秀な男は詩乃の疑問を先読みしたのか、更に続けた。
「安心してくれ。もし子供を授からなかった場合、貴重な時間を無駄にして、ずるずると縛り付けるつもりはない。離婚のタイミングは、水谷さんが決めてくれていい」
「離婚……」
 さっきから、バカみたいに宗助の言葉を繰り返してばかりだ。
 でも結婚とは、よほどのことがない限り一生を覚悟するものだと思っていた詩乃は、『なるほど』すら忘れて、ぱちぱちと目を瞬かせるのが精一杯だった。
 一方宗助は、ドライに首肯する。
「そうだ。再度条件のいいパートナーを探すなら、お互い、若いうちがいいだろう」
 また嘔吐きかけ、口元にハンカチを当てながら、宗助の言ったことを一つ一つ飲み込んでいく。
 長年信奉してきた男性から、断定的かつ流暢な説得をされると、元々軽い脳みそはスポンジみたいにすかすかになって、『そっかぁ~……』なんて気分になってくる。
 ――そうだよね……私と違って、社長ならすぐに別の女性と結婚できるだろうし。
 ――子供ができなかったら早いうちに見切りを付けて、若い女性に乗り換えた方が効率が良いに決まってるし。
 ――……ん? あれ? でも、それなら……。
 詩乃は、ごくごく純粋に問い返した。
「あの。でも男性は同時並行で、種、……」
『種を蒔くことができるのに』と言いかけて、慌てて二度目の咳払いをする。
 宗助の割り切った提案につられてか、つい即物的な言い方になりかけたが、いかに〝理解力のある、デキる女〟を気取ってきたとはいえ、『種』は少し下品な気がした。
「……ええと。社長との子供を欲しがる女性は、他にいるのではないでしょうか。つまり、結婚をせずとも、……」
 みしっ、と宗助の眉間に溝が刻まれて、詩乃ははっと口を噤む。
「俺が、何の契約も結ばず、あちこちに種をばら撒くような、無責任な男に見えるか?」
「えっ……いえっ!? そういうわけでは! ただ、その……」
 もし離婚となったら、宗助の完璧な人生に汚点を作ってしまうことになるのでは、と思ったのだけれど。
 宗助は詩乃が口籠もった理由を、真逆の方向に勘違いしたらしい。
「もちろん、離婚した場合は水谷さんの籍を汚すことになるが……新しい命の関わる、重要な行為だ。きちんと責任を取った形で子作りに励みたいと考えている」
「はげ、む、」
 性的な、セクハラ染みたニュアンスは一切ない。
 むしろよくそんな真顔で、と感心するほど、平時と何も変わらない。
 再び硬直した詩乃を見かねてか、宗助は、あとひと押しで契約を取り付けられるとばかりに鞄から一枚の紙を取り出し、手渡しながら言った。
「安心してくれ。不確定要素をできうる限り排除するため、検査も済ませてある」
「……?」
 ――確かに交渉ごとなら、利益を保証する類いの数字(データ)は強みだけど。
 ――結婚に、検査……?
 脳内に無数のクエスチョンマークを浮かべつつ、渡された紙を開いて視線を落とす。
「っ……!?」
 なんとか、悲鳴は飲み込んだ。
 そこには、ロマンチックな高級バーに相応しくない、見ているだけでくらくらする性感染症の名前がずらりと並び――その横には全て、〝陰性〟〝検出せず〟とあった。
 それから、〝精液一般検査〟という見慣れない文字。
 その下に、精子の数や運動率、正常形態率が並んでいて。
 指先が冷えているのは、冷房のせいだけではないだろう。きっと脳みそに血が集中して、なんとか現状を理解しようとフル稼働している。
「感染症はない。精子の状態も、全て平均を上回っている。だからといって百パーセントの成功は保証できないが……とにかく、男も加齢に比例して自然流産率が上昇するし、早いに越したことはない。お互いにとってメリットのある提案だと思う」
「…………、そっ……そうですね…………」
 他に、どんな相槌があるだろうか。
 宗助は畳み掛けるように営業トークを続けて、詩乃のなけなしの思考力を根こそぎ奪いにかかってきた。
「それに、別れた恋人と子供を考えるほど深い付き合いをしていたのなら、今更この手のことや結婚に、過度な理想を求めることもないだろう?」
「あ……」
 その場凌ぎの嘘を思い出して、はっとする。
 ――そ、そっか。
 ――男慣れしてるなら、さくっと子作りできるだろ? ってことかな?
 ――だって、処女は面倒だとか聞くし。極力無駄を省くための提案だし。
 実際、この淡々としたプロポーズからして、本物の恋人同士のような行為は全く想像できない。おそらく義務的な、ただの生殖行為としてのセックスだろう。
 ――キスとか、抱き締めたりもなくて。
 ――いきなり脱いで、『よろしくお願いします』からの挿入、みたいな?
 それは、酷く寂しいものに思えた。
 普通なら、恐怖を感じるかもしれない。
 でも詩乃は初心なぶん単純で、宗助に触られることを想像しただけで、簡単に身体が熱くなる。
 ――だって。社長に選んでもらえるなら。きっと、何をされても……。
 それに流れ作業的なセックスなら、ずっと仕事と宗助一筋で、男性経験が皆無だと気付かれることなくやり過ごせる気がする。
「……確かに、そうですね。お互いに時間と労力の無駄がない、最善の選択かもしれません」
 爪先が攣りそうなほど背伸びして、『男性のことなんてわかってます、手の平の上でころころです!』という自分をイメージして頷いたものの、不安しかない。
 ――だって、今も二人で話すだけでドキドキしてるのに。
 ――一緒に暮らしたら、今までの下心も全部バレて、幻滅されるんじゃ……。
 辣腕な彼には、隠しごとを察知するセンサーでも備わっているのかもしれない。
 これまで下心が一切なかったか確かめるように、顔を覗き込んできた。
「水谷さん、これだけは言っておく。俺は君を信頼してこの話を持ちかけたんだ。どんな時も冷静で実直で、媚びることなく、社内ではいつも笑顔で振る舞っていた。そんな女性は、君だけだったから」
 だから、お前、俺の信頼を裏切るなよ――?
 吸い込まれそうな黒い瞳の奥から、そんな声が聞こえた気がして。
 下心しかない詩乃は、震え上がった。
 もし子供が生まれたら、一生、彼に後悔をさせない自信があるのか。
 詩乃は苦し紛れの時間稼ぎに、もう一度検査結果を見下ろした。
 ――そう……そうだ、そうだよ。
 ――私だって検査を受けなきゃだし。
 ――いくらなんでも、今すぐに返事なんて求めてないだろうし……。
「ありがとうございます。そんなに高く評価していただけて、嬉しいです。では……」
 いったん持ち帰って、前向きに検討させてください――そう言い終えないうちに、またもやらしからぬ早口で、宗助が被せてきた。
「良かった。常に理性的で、合理的な考えにも理解のある水谷さんならそう言ってくれると思ったんだ。では契約書にサインを」
「……? けいやくしょ?」
 やっぱり、ついていけない。
 なかったことにならないよう、言質を取っておこうとでも言うのだろうか。
 宗助はもう一度鞄を開け、取り出した紙を広げてカウンターの上を滑らせた。
「!?」
 A3サイズ。
 茶色の罫線が印刷されている。
 そして、左上には――。
〝婚姻届〟
 凝視する。
 じいっと目を細めて、もう一度。
 見間違いではない。
 証人欄はすでに、宗助の親族らしきサインで埋まっている。
 それから、〝夫になる人〟と書かれた欄には――ペン字の見本のような達筆で〝九条宗助〟と認められていた。
「印鑑は必要ない」
 宗助のイニシャルが刻印された、ブランドの万年筆を差し出される。
 綺麗な爪が、とん、と記入すべき場所を叩く。
「週末には親への挨拶を済ませて新居を決めて、再来週には引っ越そう。一時期、営業戦略でメディアに露出していたせいで予期せぬタイミングや内容で話題(ニュース)にされかねないから、入籍発表は大事にならないよう、広報部長に任せておく。余計な詮索を避けるために……そうだな、二年前から付き合っていたことにしておこうか」
 用意してきたかのごとく滑らかな説明だった。
 が、詩乃は目の前の用紙に釘付けになっていて、全てが脳みそを素通りしていく。
 宗助は、切り替えも決断も早い。
 だからこそ、社長に就任して以来、組織を成長させ続けている。
 もし詩乃が躊躇いを見せたら、彼はすんなり引いて、詩乃の次に条件の整った女性にこの紙を渡すに違いない。
 彼の周囲には、詩乃より家柄も良く優秀で、若くて出産に適していて、結婚相手に立候補する女性がごまんといるだろう。
 ――……嫌。
 ――そんなの、絶対嫌。
 ――せっかく社長が、私を選んでくださったのに。
 上京や配信の時も躊躇った。
 地元を出るのは怖くて、人前は苦手で、自信なんてなかった。
 だからこそ、勇気を出して新しい人生に飛び込むたび成長できて、今がある。
 チャンスの神様には、前髪しかない。
 ――今までだって、思い切ってやってみたら、何でも上手くいったもの。
 ――今度は家でも毎日背伸びして、今と同じ努力を続ければいいだけ。
 詩乃は、ペンを受け取った。
 手には滴るほどの汗が滲んでいて、取り落としそうになる。
『待たせるな』とばかりに宗助が首を傾げた。視線で署名欄を示されたのを合図に、震える指でキャップを外した。

 それから、全てが宗助の言葉通り、寸分の遅れもなく進行した。
 翌週の土曜日は地方にある詩乃の実家へ、日曜には宗助の実家へ赴き、それぞれ親に挨拶をした。
 事前に母に電話で伝えた時は、案の定心配のふりで、
『どんな人? 詩乃ちゃんは見る目がないから』
 なんて遠回しに決意を否定してきたけれど、霧島ホールディングスの社長と知るなり仰天して言葉を失い、反対されることもなかった。
 挨拶で直接顔をあわせた父は、宗助の肩書きに怯みつつも、結婚については『そうか』の一言で、相変わらず家族に関心が薄いらしい。隣に座る母の寂しげな顔が、なんだか堪えた。
 翌日向かった宗助の実家は、予想を遙かに上回る大豪邸だった。
 七月上旬の蒸し暑い中、門前に立った詩乃は、
 ――私の実家なんて、完全にウサギ……いや、鶏小屋……!
 ――相当厳しくて怖いお父さんなんじゃ?
 ――庶民との結婚なんて、猛反対されるんじゃ……。
 とぷるぷる震え上がって、泣きそうになったのだけれど。
 宗助の父親――総合不動産ディベロッパーを中核として日本経済を牛耳るコングロマリットのトップは、
『水谷さん! よくいらしてくださいました! うちの琥太郎が水谷さんのチャンネルに出てから、動画、ずっと見てましたよ! いやあ、ずっと直接お礼を伝えたいと思っていたんです。妻の店を救ってくださった上、まさか宗助と一緒になっていただけるなんて。こいつは昔から真面目一辺倒で、一生独り身かと心配していたから、入籍届にサインが欲しいと言われた時は驚きましたが――どうか息子をよろしくお願いします』
 と大歓迎し、感極まった様子で両手を握られて、ぽかんとしてしまった。
 ――こんなに優しそうなお父さんが、『三十歳までに子供を』なんて厳しく言うかなぁ……?
 とぼんやり疑問に思ったけれど、宗助が嘘をついてまで結婚相手に自分を選ぶはずがない。
 それに彼は父親が喋るたび、『それ以上口を開くな』とばかりに殺気立った様子で睨み付けていたから、父子関係は、詩乃に見せている姿とはまた違うのかもしれない。
 ともあれ。
 日曜の午後には休日窓口へ婚姻届を提出し、新居のマンションを決め、引っ越し業者を手配し、『来週からよろしく』と別れて――。
「――さん? 水谷さん? ……水谷さんっ!」
 はっと、我に返った。
 どうやらメールの受信画面を見つめたまま、明日の引っ越しのことに意識が飛んでいたらしい。
 隣のデスクを振り向くと、広報部の同僚が、にまにまと口元に手を当てている。
「やっぱり、いつも冷静で仕事バリバリな水谷さんでも、幸せの絶頂となると、ぽーっとしちゃうんですねぇ~」
「えっ……えっ?」
「ふふっ、慌ててる詩乃さん珍しい。えっと、先週の執行役員と若手の交流会のレポートを上げておいたので、チェックお願いできますか?」
「あ……あー……! う、うん、もちろん」
 詩乃は冷静を装ってメールソフトを閉じた。何か必要があってメールを見ていたはずなのに、明日からの結婚生活が気がかりで全く思い出せない。
 宗助の予測通り、二人の結婚は、『霧島ホールディングス社長の九条宗助氏、元配信者の女性社員と結婚』なんてタイトルでいくつかのニュースサイトに取り上げられ、多くの人に知れ渡ることとなった。
 とはいえ、この三年は二人ともネットに露出していなかったこともあり、世間の反応は静かなものだ。
 が、社内ではそうもいかず――。
 隣の同僚が、キーボードを叩きつつ器用に続ける。
「私、何度か社長にインタビューしたんですけど、水谷さんが一番お似合いだと思ってたんですよぉ。配信で人気が出たのにあっさり引退して裏方の仕事一筋って、社長、そういう女性好きそうですもん! でも隠れて何年も付き合ってたなんて、気付かなかったぁ~」
 詩乃が言葉を挟む間もなく、向かいのデスクの男性社員が、大げさに溜息を吐く。
「は~~。俺元々〝シノ姉〟のファンだったから、なんか好きになったアイドルが結婚しちゃったみたいで複雑だなぁ~……」
「うわ。それ社長に聞かれたら異動させられちゃうかもよぉ」
 四年前、詩乃の配信活動は本社でも話題になっていたらしく、未だに当時の成果を神聖化し、ことあるごとに讃えられてしまう。
 だからこそ宗助の前だけでなく、日頃から背伸びして尊敬の眼差しに応えよう、動画の中の自分のイメージを崩さないようにしようと頑張ってきたのだけれど――やっぱり、自分が話題の主役になるのはちょっと苦手だ。
「あ、あのね。新婚でぼーっとしてたわけじゃなくって……サロンのことを考えてたの。これから佐藤さんとミーティングなんだけど、なかなかいいアイデアが浮かばなくて」
 適当に取り繕ったけれど、ミーティングの予定は事実だ。
「ああ……エンチャント・メゾン、また右肩下がりですもんねぇ」
「ってことは、とうとう〝シノ姉〟復活ですか!?」
「見たい見たい! 私、ライブ配信でオススメしてたヘアミスト、今も愛用してて。彼もいつもいい匂いーって言ってくれるんですよ~」
「ふふ、ありがとう。店に人が戻るなら何でもするつもりだけど、美容業界も配信も、年々競争が激しくなってるから……。もしやるにしても、本当に良い企画を思いつかないとね」
「あっ! じゃあ、結婚式は挙げないって言ってましたけど、披露宴だけやって生配信とかどうですか? 社長も就任直後はイケメン御曹司ーってメディアで持て囃されてたし、美男美女の晴れ姿、絶対再生数伸びますよ!」
「あは……はは……、お、お互い忙しいし、ちょっと難しいかな……」
 離婚が視野に入った関係なのに、世界中に披露宴を晒すなんてとんでもない。
 それどころか、結婚に浮かれて自分の立場を忘れないように、バッグには常に離婚届を忍ばせている。これが失敗したら後はないぞ、という自分への圧を兼ねた、相応の覚悟を持って臨むためのお守りだ。
 詩乃は腕時計を見て、「あ、もう行かないと」とノートパソコンを手にそそくさと席を立ち、一つ上のフロアのミーティングルームへ逃げ込んだ。
 ――新婚生活も不安だけど、皆に嘘をついてるのは、やっぱりちょっと気まずい……!
 ちなみに、結婚式を断ったのは詩乃だ。
 詩乃の実家から都内へ戻る新幹線の中で、
『もし挙げるとしても、子供ができて、落ち着いてからにしませんか? 離婚の可能性もありますし……』
 と、華やかなことには全く興味がないふりで。
 合理的な宗助にとっては理想の提案だろう、きっと妻としても高い評価を得られるはずだと思ったのに、彼の反応は芳しくなかった。あからさまに眉を寄せ、
『……そう? ……まあ、水谷さんがそう言うなら……』
 と、どこか不機嫌そうにノートパソコンを開いて、仕事をはじめてしまったのだ。
 ――結婚式をやりたいなんて言ったら、社長の嫌いな、恋愛に浮かれてる女みたいだと思ったんだけど。
 ――社長は責任感云々って言ってたし、家柄もすごいし。『形式だけはちゃんとしましょう』って言う方が正解だったのかな?
 ――私だって、ほんとはドレスを着て社長の隣に立ってみたかったけど……。
 溜息交じりにミーティングルームの椅子に座ってスマホを確認すると、宗助からメッセージが届いていた。

『俺は気にしないから、無理をしなくていいと言ったのに。
 痛かったり、辛くはなかった?』

 ――あ……見てくれたんだ。
 婚姻届にサインをした翌日、詩乃は慌ててブライダルチェックを受けに行き、先日受け取った結果を写真に撮って送ったのだ。
 ――……子供が目的なのに、結果については一言も感想なし?
 ――まあ、別に何も問題はなかったし、そんなものか……。
 でも、気のせいだろうか。
 少し口調が砕けている気がする。
 子供のことより詩乃を気遣ってくれているみたいで、メッセージ一つでにやけそうになる。
 慌てて顔を引き締めてホーム画面に戻ったのに、今度は妊活アプリのアイコンが目に入って、ぼっと顔が熱くなった。
 これも、新幹線での会話がきっかけだ。結婚式の話の後、しばらく黙々とパソコンに向かっていた宗助が、突然真顔で、
『そうだ、妊活アプリを入れて、水谷さんの体調を共有しておこう』
 と提案してきたのだ。
 詩乃は駅弁を吹き出しかけ、噎せてしまった。
『その方が効率がいい。仕事を調整して、時間を確保しやすくなる』
 もちろん詩乃は、『確かにそうですね』と澄まし顔で答えた。一分一秒にとんでもない価値のつく人だ。妻としては、最大限協力すべきだろう。
 その場で一緒に同じアプリをダウンロードし、前回の生理を入力して、『婦人体温計も必要そうですね』なんてそれらしいことを言って乗り切った。
 ――でも、社長の提案に乗っておいて良かった。
 ――だってつまり、子作りをするのは、効率の良い時期だけってことでしょ?
 ――妊活本によれば、排卵の数日前に種を仕込んでおくのがベスト。ちょうど今日明日あたりが排卵日だし。つまり、初夜まで最大一ヶ月も猶予があるってことなのよ……!
 その間に性行為について勉強しつつ、宗助との生活にも慣れて、心の準備をしておけば、処女とバレることもなく、家でも隙のない〝デキる妻〟でいられるはず。完璧だ。
 電子書籍アプリを開き、おさらいを兼ねて妊活本をタップした時、背後のドアがバーンと開いた。
「水谷さぁん! 社長と結婚ってすごいじゃないですかーっ!? おめでとうございまぁあ~す!」
 エンチャント・メゾンの現店舗責任者、佐藤が元気いっぱいに現れて、詩乃は慌ててディスプレイを消灯させ、なんとかいつもの笑顔で振り向いた。

 

 

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ご愛読ありがとうございました!
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