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このたび、弊社のCEOと子作り契約いたします!?  片思い中の冷徹社長の溺愛にキャパオーバーです! 2

第二話

でも、すぐにわからなかったのも仕方ない。
 同時期の入社で、二つ年上の男性。
 そこだけ切り取れば身近に感じるけれど、実際は雲の上の上の上の存在だ。
 社長が付き人もなしに、クリスマスの雪降る夜に繁華街に降り立ち、お荷物事業の末端社員のフルネームを知っているだなんてありえない。
 詩乃は、さーっと血の引いていく音を聞きながら、全力で頭を下げた。
「っ……申し訳ありません……! まさかこんな場所にいらっしゃるなんて、夢にも思わなくて……!」
「謝ることはない、アポを取らなかった俺が悪い」
 抑揚と感情の欠けた声に震え上がり、更に深く頭を下げる。
「いえ……いえっ、本当にご無礼を……っ!」
 酷い赤字を垂れ流しながら、『誰だろう?』なんて間抜けに見上げてくる社員に腹を立てない経営者なんて、いるわけがない。
 そして彼がここに来る理由は、どう考えても一つだけだ。
 美容事業からの撤退。
 つまり、エンチャント・メゾンの閉店。解雇。
 終わりが来るとしても、もう少し先だと思っていた。
 でもそんな楽観は、自分の甘さで。
 ――結局私は、ただ帳簿を眺めて溜息を吐いてただけで。本社に配信の許可がもらえない、なんて言い訳で。
 ――勇気がなくて、何も行動できないままだった……。
 詩乃は傘を抱えたまま、俯き加減に店に視線を送った。
「あの、冷えてしまいますから。とりあえず、中に……」
 本当に死神に心臓を掴まれた心地で雑然としたバックヤードに案内し、スタッフの休憩用の丸椅子を勧める。エアコンのスイッチを入れ、ケトルでお湯を沸かし、業務用スーパーで買ったコーヒーを入れた。
「インスタントですみません。これしかなくて」
「ありがとう。君も座って」
 宗助は湯気を立てるマグカップに触れもせず、詩乃が対面に座るなり切り出した。
「もう、わかっていると思う」
 見えない手で、心臓を握り潰された気がした。
 溢れた血の代わりに彼の冷気が染みこんできて、どんどん身体が冷えていく。
 詩乃は自分のマグカップに指先を添えたまま、背中を丸めた。
「……申し訳ありません……」
 他に、言える言葉があっただろうか。
 今となっては、何を言っても言い訳にしかならない。
 が、予想外にも、宗助は首を横に振った。
「君が謝る必要はない。俺も、もっと早く手を打つべきだった」
「そんな……この店の責任者は、私ですから」
 宗助はしばらく、マグカップに添えた詩乃の指先をじっと見つめていた。
 パーマやカラーの薬剤で荒れた指が恥ずかしくて膝の上に隠すと、彼の視線は、壁際の棚へ流れていく。
 そこには、詩乃の持ち込んだマーケティングや動画制作の入門書、そして学生時代から何度も読み返して心の糧にしてきた、彼の母親のエッセイ本が積まれていた。
彼の目には、格好だけの安っぽい努力に映っているのだろうと思うと、それは荒れた指以上に恥ずかしくて居た堪れなくて。
「本当に……情けない、です」
 店長になってたった半年とはいえ、本当に店を愛しているなら、その前からもっとできることがあったはずだ。 
 が、彼はまたもや、思わぬことを呟いた。
「……残念だ。俺もこの店だけは残したかった。ここには母の仕事への想いや、家族全員が揃っていた頃の思い出があるから」
 それは、思わず零れた本音のようだった。
 詩乃がこの先関わることのない赤の他人だからこそ、言えたことなのかもしれない。
 彼は本の山から詩乃に視線を戻すと、自分に言い聞かせるように続けた。
「でも、今は社長に就任したばかりで、大事な時期なんだ。世襲だからといって、身内に甘い人間ではないと示す必要がある」
 店の外に立っていた時の、死神と勘違いするほどの悲壮な雰囲気は、大切な思い出を葬らねばならない、悲しみだったのだろうか。
 ――この店のことを、誰よりも真剣に考えなくちゃいけないのは私だったのに。こんなにも、この場所を大切に思う人がいたのに……。
 ――本当に、これで全部終わりなの?『何もできない私』のまま?
 制服のエプロンの上で、荒れた指をきつく握り締める。
 湧いてきたのは、遅すぎる闘志だった。
「……駄目だな。ここにいると、らしくないことを喋ってしまう」
 そう言って、彼は詩乃の入れたコーヒーを一口だけ啜り、椅子を立った。
 見送らねばと思うのに、無力感と悔しさですぐに立ち上がれずにいると。
「水谷さん、ありがとう」
「……え?」
「新卒でうちに来てくれたんだろう? もっと丁寧に育ててくれる職場があっただろうに。最後まで残ってくれたことに感謝している。それを直接伝えたかったんだ」
 もしかしたら彼の鋭い瞳や冷めた表情は、冷血漢だからではなく、覚悟の現れなのかもしれない。
「引き留めてすまない。もし帰宅手段がなければ、駅前のホテルでこれを渡してくれ。必ず融通してくれる」
 そう言って、宗助はジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、テーブルに置いた。
 駅前のホテルは一軒だけだ。海外の主要な都市にも展開している最高級ホテル。そういえば、九条グループの一部だった気がする。でも。
「私、こんな親切を受ける資格は、」
「いや、君は十分頑張ってくれた。転職先についても、心配しなくていい。何か考えておこう」
「そんな……」
 ごくごく自然な仕草で、くしゃりと頭を一撫でされて心臓が跳ねた。
 初対面の男性にそんな親密な触れ方をされても驚くだけで済んだのは、その手から、心からの感謝が伝わってきたからだ。
「コーヒーをありがとう」
 宗助が、出口の方へ去っていく。
 彼の目には、哀れな雛鳥にでも見えていたのだろうか。
 手取り足取り世話をしなければ、一人で生きていけないような。
『詩乃ちゃんは、一人じゃ何もできないからね』
『ほら、泣かないの。お母さんがやってあげるから』
 昔は、それが母の優しさだと信じていた。
 でも今は、家庭に無関心な夫を持った母の、心の隙間を埋めるための搾取だった気がしている。
 ――もう、何もできない私じゃないんだから。
 ――自分に任せられたお店くらい……。
「っ……待ってくださいっ!」
 決断するより先に立ち上がると、ドアノブに手をかけた宗助が振り返った。
「時間を……時間をいただけませんか。一年――いえ、半年で構いません」
「……何?」
「この店を立て直すチャンスをください。少し貯金もあるし、私は無給でも……なんとかします。ですから……!」
 言っていることは滅茶苦茶で、交渉にすらなっていない。
 宗助は表情一つ動かさない。
 『今更何をバカなことを』と思われているのがわかった。
 と同時に、逡巡の気配も伝わってくる。
「……言っただろう。俺が社内で信頼を勝ち得た後ならともかく、今は見込みのない、しかも母が趣味ではじめた事業に資金を垂れ流すことはできない。トップの俺が親の七光りだと揶揄されるようでは、組織の全員が困るんだ」
「っそれは……でも、ただダラダラと続けたいわけじゃありません」
 宗助の視線が、ちらりと棚の上の本に流れた。
「……何か戦略(プラン)がある?」
「お店の宣伝になる動画を作って、配信します」
 これ見よがしな溜息。
 今どき動画配信なんてレッドオーシャンもいいところだ。そんなの、詩乃だってわかっている。
「配信? 誰が? どこにそんな資金がある」
 質問するのもバカバカしい、といった様子だ。でも詩乃は怯まなかった。
「私と同僚が。全部自分たちでやります。スマホとパソコンがあればなんとかなります。少し貯金を崩せば、ほぼ初期投資だけで回せるので」
「学生の遊びじゃないんだぞ」
「ネタは沢山メモしてあるんです。あ……今すぐお見せできます! 自分用のメモだから汚いですが……!」
 詩乃は自分のバッグから手書きのノートを取り出して宗助の手に押し付け、熱く語った。
「ヘア関連の動画も研究したんですが、同じ美容ジャンルのメイク動画とは違って、髪に関しては自分で再現するのが難しいからか、同業向けのカット技術を扱った動画が多くて――お客様目線に立ったものは案外少ないんです。ですから、髪質ごとの正しいヘアケアや、平日朝の短時間で再現可能なスタイルの提案をしつつ、当店では大きなイメージチェンジが可能だとアピールするビフォーアフター動画も上げたら、新しい集客導線を引けるのではないかと」
 ずっと一人で考えてきたことを口にしてみると、自分でも驚くほどの熱意が湧いてきた。
 気圧された宗助がノートを捲る姿に後押しされて、詩乃は続ける。
「ご存じの通り、エンチャント・メゾンのメインの客層は二十代後半から上の働く女性でしたが、動画では若い男女のモデルを採用することで、ターゲットの幅も広げられると思うんです。もちろん、安売りしてブランドのイメージを崩しはしません。少し背伸びして、贅沢してでも行ってみたいと思える魅力を全面に打ち出します」
 耳を傾けながら、宗助の意識がノートに集中していくのを感じて、詩乃は想いを語り続けた。
 残っているパートのスタッフは、経験を積んだ腕のある主婦が多いこと。
 創業者の九条陽子に憧れて入った人が多く、モチベーションも高いこと。
 だから詩乃が動画制作に力を入れている間も、安心して店を任せられること。
 ネタ出しと平行して、動画編集の勉強をして、再生数に直結するサムネイルなどの外注先も見当をつけてあること。
「もちろん、絶対に成功するお約束はできません。ですから、半年後に結果が出なかったら、その時は……」
 口籠もると、宗助はノートを閉じて詩乃を見下ろしてきた。
 真っ黒な瞳と目があうと、残りの寿命を見透かされているようで、少し怖くなる。
「こんなに酷いプレゼンは見たことがない。具体的な数字もないし、考えの甘さも目につく」
「っ……」
 やはり彼からしたら、雛鳥がぴーぴー鳴いているようなものなのだろう。
 無駄な足掻きでも、黙って諦めるよりは良かった――そう思おうとしてみても、自分の心に嘘はつけない。
 悔しさに唇を噛むと、宗助はもう一度溜息を吐いた。
「……半年だ」
「……? え……?」
「全て水谷さんの自由にやっていい」
 相変わらず、彼の顔には感情が欠けている。
 言われた内容をすぐに理解できなかったのは、だからで。
「それ、って」
「俺の評価がかかっていることを忘れるな」
「あっ……」
 突き返されたノートを受け取ると、彼が触れていた場所には、微かに熱が残っていて。
 何が起きたのか理解するのに、数秒かかった。
 我に返った時には、宗助は店から出て行くところで――慌てて追いかけ、雪の積もった街を見渡したけれど、彼は魔法のように消えていた。
 思わず空を見上げたのは、やっぱり羽でも生えていて、全てが夢ではないかと思ったからだ。
 でもバックヤードに戻ると、飲み止しのマグカップと彼の名刺が、確かにあった。
 ――本気で、期待してくれた……?
 そうは思えない。でも、情けだけとも思えない。
 名刺を見つめていると、これからすべきことへの責任がじわじわとのし掛かってきた。
 それでも、ここが宗助の思い出の場所で、僅かにでも期待してくれているのだと思うと、勇気が湧いてくる。
 この日から、詩乃の生活は一変した。
 通勤時間や仕事の合間を縫ってシナリオ数十本をまとめ、最低限の機材を揃え、美容室の一角を撮影場所として整え、一部の外注作業の見積もりを取った。
 けれど、いざ撮影を始める段になって、決意を試さんばかりの問題が立ち塞がった。
 年始に綾の妊娠がわかり、
『え、ホントにやるの? やっぱり顔出しってちょっと怖いし、今はお腹の赤ちゃん第一だしー』
 と出演をドタキャンされたのだ。
 当然、勤務時間外にサロンに残って撮影に付き合ってくれる代役などすぐに見つかるわけもなく、詩乃は青ざめた。
 全部、自分でやるしかない――。
 昔は、接客すら極度の緊張に見舞われていた詩乃は、カメラの前に立つだけでも強い抵抗があったが、もちろん、後戻りできる状況ではない。
 ――これで怖気付いたら、本当に、何もできない自分になっちゃう。
 自分にそう発破をかけて、腹を括った。
 万人の心の襞に入り込めるようなキャラクターを目指し、いつも緩く結んでいたロングヘアを下ろし、メイクをほんの少し大人っぽく変えて、〝どんな悩みも相談したくなる、前向きで気さくな、理想のお姉さん像〟をセルフブランディングした。
 
『皆さんこんにちは! ヘアサロン、エンチャント・メゾンのスタイリスト、シノです!』
『動画を気に入っていただけたら、チャンネル登録をお願いします。ぜひお店にも相談にいらしてくださいね!』

 何度も噛んで撮り直したせいで、この二つは、接客中も頭の中でリピートして止まらなくなるほど口にした。
 撮影後は家のパソコンに動画を取り込んで、カットし、繋ぎ合わせ、目を引くテロップや効果音、聞き心地の良いBGMを入れていく。動画編集の勉強をしていたとはいえ、慣れないうちは、十分程度の動画を作るのに丸一日以上かかった。
 それを週に二、三本のペースで投稿しながら、ほぼ毎日数十秒のショート動画もアップし、各種SNSに告知を投げる。そしてその傍らで、有名配信者に〝ヘアスタイルでイメージチェンジをするコラボレーション企画〟の依頼を送りつけた。が、無名のチャンネルだからだろう。大半は無視され、稀に届く返事はお断りだった。
 どんなに努力を続けても、再生数もチャンネル登録者数も底辺を彷徨うばかりで。
 ――やっぱり浅はかな考えで、無謀だったんだ。
 ――申し訳なくて、社長に顔向けできない……。
 忙しさに不安が重なって寝不足が加速した頃、やっとチャンスが訪れた。
 きっかけは宗助の弟、琥太郎だ。
 当時高校生で、雑誌モデルやインフルエンサーとして注目を集めていた彼は、企画にぴったりの存在だった。
 彼ならあるいは、と藁にも縋る思いでダイレクトメッセージを送ったところ、
『俺は母をあんまり覚えてないけど、親の店のためなら』
 と快く引き受けてくれたのだ。
 ヘアスタイルを大きく変化させ、ファストファッションを利用した、安価で手軽なビフォーアフター動画は、大学・社会人デビューを控えた若者の心を擽ったらしい。
 コメントや評価数の上昇と平行して、それまでの苦戦は何だったのかと思うほど再生数とチャンネル登録者数が倍々に伸び続け、コラボ企画も次々に成立し始めて、人が人を呼ぶ好循環ができあがった。
 それからはライブ配信をはじめてリスナーと交流を図り、いつからかコメント欄では〝シノ姉〟という愛称で親しまれるようになり――宗助と約束した期限を迎える頃にはとうとう、店は予約待ちの状況まで盛り返したのだ。
 できすぎた展開に詩乃自身が一番驚いたが、ともあれ、目的は叶った。
 このまま動画を通して大勢の人に技術を伝えるのも素晴らしいことだと思いつつ、やはり詩乃は、目の前の、誰かのために尽くしたい思いが強かった。
 ――やっと動画をやめて、お店の仕事に集中できる……。
 そう思えた時、詩乃の心身は悲鳴を上げていた。
 寝食を犠牲にした過労とプレッシャー。
 加えて、コメント欄に増え始めた心ない言葉は、ストレス発散が目的なのか、動画内で言っていないことまで批判を受ける。
 ちなみに、セクハラ染みたダイレクトメッセージが届き、指輪をつけ始めたのもこの頃だ。
 それらのせいか、元々薬で誤魔化していた薬剤アレルギーが悪化し、詩乃の両手は、ドクターストップがかかるほどボロボロになっていた。
 ――もう、美容師は続けられないかも……。
 成功の傍ら、鬱々とした気持ちで転職先を探し始めたのは、一人でも多くの人に見てもらうために動画は広告なしで収益化させておらず、一部の動画編集の外注費用で貯金の底が見え始めていたからだ。
 この時、
『直接報告を聞きたい』
 と本社へ呼び出してきた宗助が、どこまで詩乃の状況を見抜いていたのかはわからない。
 ただ、荒れ果てた手をちらりと見て眉を顰めた彼は、察するものがあったのだろうか。
 詩乃の功績を認めた上で、
『情報発信の経験を活かせるかはわからないが、本社の広報部で働かないか。デスクワークが不慣れなら、社内広報からはじめればストレスが少ないだろう。美容事業も続けたいなら、アドバイザーとして関わり続ければいい』
 と、誘ってくれたのだ。
 詩乃は、ありがたく厚意を受け入れた。
 気力も体力もマイナスに振り切った状態での転職活動には不安しかなかったし、何より、自分の可能性にかけてくれた宗助の側で働けることが――彼に認められて引き立ててもらえたことが、嬉しくて。
 しかも、それだけではない。
 宗助と同じビルで働き、新しい仕事に慣れ始めた頃。
 彼から、
『正直、美容事業の立て直しは無謀だと思っていたから、水谷さんの眼識(センス)には興味がある』
 と頼られ、月に一度、定期的に意見を求められるようになったのだ。
 でも――喜びに浸っていられたのは、そこがピークだった。
 なんとなく、わかっていた。
 出会った時に感じた動悸は、きっと、初恋というもので。
 過労で倒れそうになりながら動画制作を頑張ることができたのも、宗助を思い出すだけで元気が出て、勇気をもらえたからだ。
 だから彼の近くで働き、格差を実感して、辛くならないわけがない。
 彼は巨大な組織を率いる有能な雄で――当然、詩乃だけでなく、社内外の多くの男女を魅了していた。
 オフィスですれ違っても、ごく稀に会議に同席する機会があっても、特別な声がけをされることはない。
 彼の信頼を得たくて、必死に背伸びをして〝デキる女〟を気取ってみても、宗助にとって詩乃は、八千人を超える社員の中の一人でしかない。
 取り立ててくれたのは、彼の大切な店を守ったことへの報酬で。
 意見を求められるのは、詩乃の経歴が変わり種だからで。
 それに宗助は、ビジネスの場に色恋を持ち込んだり、感情を露わにする女性を嫌悪していると専らの噂だった。
 実際どんなキャリアであれ、彼に色目を使ったり恋愛感情をちらつかせる女性社員は、上層部と一切関わりのない部署に異動させられていた。
 ――一介の美容師でしかなかった私が、大企業の社長に認められて頼られるだけで、特別なことなんだから。これ以上を望むなんて……。
 そう思ってみても、月に一度の二人きりの時間が、恋に不慣れな詩乃の心を苛んだ。
 アルコールの力を借りて、すり寄ってみようか。
 酔って具合の悪くなったふりで、介抱を求めるのはどうだろう。
 あるいは、少し色っぽい服を着ていくのは?
 いつもと違うメイクや、香水や、髪型で気を引くのは?
 浅はかな考えが毎回浮かんで、必死に振り払った。
 でもいつか、しなだれかかって、色目を使って、彼を幻滅させて、自分の成し遂げてきた仕事まで台無しにしてしまいそうで。
 だからこそ、離れようとしたのだけれど――。