このたび、弊社のCEOと子作り契約いたします!? 片思い中の冷徹社長の溺愛にキャパオーバーです! 1
第一話
「辞める?」
低い声に、詩乃は全身をこわばらせた。
「……はい。急なご相談で申し訳ありません」
最高級のホテルにある、バーのカウンター席。
隣のスツールに腰掛けているのは、誰もが振り向く精悍な男で――彼の向こうには、宝石のような都心の夜景が輝いている。まるで、映画のスチル写真かと見紛う光景だ。
けれど詩乃は、長年の思慕が漏れないよう、手元のティーカップを見下ろし続けていた。
――最後の最後まで、この恋は悟られたくない。
――社長の信頼に値する、優秀な一社員でありたい……。
「給与や待遇に不満が?」
「いえっ、まさか!」
思わず隣を振り向くと、漆黒の瞳に貫かれて息が止まる。
〝冷徹な合理主義者〟
〝感情の読めない鉄仮面〟
周囲は、尊敬と畏怖を込めて、九条宗助をそう評する。
彼は日本経済を牛耳るコングロマリット、九条グループの御曹司だ。
と同時に、亡き母親が創業した国内最大級のECサイトを中核とする、霧島ホールディングスの代表取締役兼CEOでもある。
両親からエリートの血を継いだ彼は、社長に就任してたった数年で、グループ傘下の通信、金融事業を強化し、新たにエネルギー開発事業に乗り出した辣腕の若手経営者だ。
万人を圧倒する肩書きを持つ男は、とどめに、非の打ち所のない容姿をしていた。
作りもののように整った顔を向けられると、〝仕事もプライベートも完璧な女〟の仮面を剥がされ、必死に背伸びをしてきただけの自分を見抜かれそうで怖くなる。
「不満どころか、一介の社員でしかなかった私に沢山のチャンスを与えてくださって、感謝しています」
約二年前、宗助から直々に、
『水谷さんの眼識に興味がある。定期的に、忖度抜きの意見を聞きたい』
と頼まれた時の天にも昇る気持ちは、一生忘れないだろう。
冷静な顔で引き受けつつ、内心、
――経験豊富で有能な役員は沢山いるのに、どうして私!?
――それに、超一流ホテルのバー?
――私、恋愛ドラマで見たことあるよ! 仕事を口実にお酒を飲んで、ホテルの部屋の鍵をちらっと見せられるやつ……!!
なんて舞い上がった過去を自嘲する。
社長室や会議室では立場を超えて自由に意見をしにくいから、リラックスできて、気兼ねしない場所を用意してくれたに違いないのに。
――いかにも元陰キャで、今も根は垢抜けない女の夢想って感じだ……。
きっと、周囲の高学歴の人々とは違う、大衆寄りの意見が欲しかっただけだろう。
様々な業界のトップと繋がりを持つ宗助の周囲には、家柄も学歴も頭脳も折り紙付きのバリキャリ美人がわんさかいる。
幾度か二人で会ううちにそんな別世界が垣間見えてきてもなお、宗助に頼られるだけで嬉しくて、『自分は特別なのでは』と思い上がってしまう。
だから――。
「感謝は必要ない。辞める理由を聞いている」
「それは……」
詩乃は唇を舐めて、用意してきた答えを慎重に口にした。
「仕事の心残りは沢山あるのですが。実は……親と『二十五を超えても結婚の予定がなければ、地元に戻って見合い結婚をする』と約束をして上京したもので。それに私自身、子供を持つことにも憧れが……」
母との約束も、子供が欲しいのも事実だ。
でも一番の理由は、この報われない初恋だった。
はじめは、こうして二人で話せるだけで十分に嬉しかったのに――彼は仕事に恋愛感情を持ち込む女性を嫌っていると知っているのに、いつからか、
――強いお酒を頼んで、酔ったふりで寄りかかったら、何かが変わったりするのかな?
――髪を解いたり、甘い香水をつけてみたり、普段よりちょっとだけ露出の多い服を着たら、女性として見てもらえる?
なんて愚かな下心が湧いて、止まらなくなった。
そして先月、資料を見るのに彼のタブレットを覗き込んで肩がぶつかった際、全身がかっと熱くなり、下腹部まで疼く予感に襲われて――悟ったのだ。
もうこれは初恋なんて甘酸っぱいものではない、いつかこの煩悩は彼にバレてしまう、限界だと。
「……では、その指輪は? 長年付き合っている恋人がいると噂を聞いたが」
「え……?」
宗助の鋭い視線が、ティーカップのソーサーに添えていた右手の薬指に注がれている。
慌てて手を引き寄せ、左手で指輪を隠した。
――あー……! 私のバカ……!
――緊張しまくってたとはいえ、肝心な時に詰めが甘すぎ!
「えっと、これは、……」
数年前、とある事情から身を守るため、ネットで購入した安物だ。
問題が解決したら外すつもりだったのに、社内で『詩乃さんやっぱり彼氏いるんですね』『素敵な男性なんだろうな~!』とおだてられて思わず話をあわせてしまい、更には宗助に男旱ですり寄っていると思われたくない下心も働いて、外すタイミングを失ったままのものだ。
それにしたって、幹部が辞める時ですら『代わりを探すだけだ』と言っていた宗助にプライベートまで踏み込まれるのは想定外で、それらしい理由を捻り出して取り繕う。
「その、彼は子供を望んでいないらしいことがわかって。色々話し合ったんですが……意見がすれ違ったまま、つい先日振られました。でも、まだ少し未練があるのかもしれません」
宗助は珍しく考え込み、氷の溶けたアイスコーヒーを見つめた。
物憂げな顔で長い脚を組む様子は、大人の上質な空間に溶け込んでいる。
「見合い相手は? 決まっているのか?」
またもや、彼らしからぬ質問だ。
でも信頼を得て並外れた出世をさせてもらったのに、自分の都合で辞めようというのだから当然かもしれない。
「いえ。まだ親には何も伝えていません。まずは社長に退職時期をご相談させていただいてから、色々考えようかと」
「……そうか」
宗助はまた黙りこくってしまった。
彼はそのまましばらくカウンター内に並ぶ数多の酒瓶を見つめて、はじめてアルコールを注文した。
ウイスキーのシングル、ストレート。
ショットのように一口で飲み乾し、グラスの縁を指で辿る。
高級バーに相応しくない飲み方は、やっぱり、詩乃の知っている九条宗助ではなくて。
――退職理由に踏み込んできたり、突然お酒を飲んだり。
――どうしちゃったんだろう……。
想いを断ち切ると決めたのに、何か役に立てることがあるだろうかと覗き込むと、彼は空のグラスを見つめたまま言った。
「つまり。結婚相手さえ見つかれば、親との約束も果たして、うちで仕事も続けられるということだな」
「え? ええ……」
彼の言葉は、詩乃の説明を言い換えて繰り返しただけだ。
いつだって合理的で無駄を嫌う人なのに。
――具合が悪くて、ぼーっとしてるとか?
――それとも、今のお酒のせい?
「あの、大丈夫ですか? お水とか……」
「俺は、君に辞められたら、困る」
「っ……」
もし彼が強く必要としてくれるものがあるとしたら、それは、詩乃の少し特殊な仕事の経歴だけだ。
本当は、一晩だけでも身体と心を捧げたいと思っている、だなんて気付かれたら、間違いなく失望されるのに、自然と顔が熱くなってしまう。
「申し訳ありません。私も残りたい気持ちでいっぱいなのですが。出産は若いうちがいいと聞きますし、こればかりは、どうにも……」
「そうでもないかもしれない」
「え?」
漆黒の瞳に閉じ込められた。
強い吸引力にあてられて、目を逸らすことができない。
その色は、彼と出会った日の、雪の夜を思い起こす冷たさで。
「俺と結婚して、子供を作らないか」
◆◇◆◇◆◇
「今月も、酷い赤字だ……」
四年前の、クリスマスイブの夜。
霧島ホールディングスの美容事業で美容師として働いていた詩乃は、ヘアサロンのバックヤードで、パソコンに向かって頭を抱えていた。
母親の反対を押し切って上京し、憧れのサロンの内定を得て浮かれていられたのは、入社してたった二年ほどだった。
美容室〝エンチャント・メゾン〟は、宗助の母、九条陽子がEコマース事業で成功を収めた後、彼女が趣味で始めた店だ。創業当初こそ、カリスマ女性経営者として一世を風靡した陽子のブランド力で人気を博したものの、彼女が四十代の若さで亡くなった後はチェーン店の撤退が相次ぎ、今や都心の本店が残るのみだった。
将来への不安から先輩美容師たちが次々に転職していく中、焦りを感じつつも詩乃が店に残ったのは、陽子の生前のエッセイを読んで、〝働く女性が更に輝くための手伝いをしたい〟という志に惹かれたからだ。
その結果、二十二歳で店舗責任者を押し付けられ、帳簿に目を通し、想像を超えるテナント料や人件費、膨大な赤字に驚愕したのが、この年の夏の終わりのこと。
自分は事業撤退の見届け役という汚れ仕事を押し付けられただけで、期待なんてこれっぽっちもされていないとわかってはいた。それでも。
――今のところは、本社が赤字を補填してくれてるし。
――私は責任者なんだから。なんとか、お店を盛り返す方法を考えないと。
本気でそう思えたのは、若さ故だったかもしれない。
とはいえ、はじめは突然丸投げされた店長業務を回すだけで精一杯だった。
秋の終わりに少し余裕ができて、経営指南やマーケティングの本を読み漁ってみたものの完全に付け焼き刃で、すぐに抜本的な解決などできるはずもなく。
「詩乃、そんな溜息吐いてばっかだと、老けるよぉ~」
鼻歌交じりにバックヤードに戻ってきて退勤準備を始めたのは、高校時代からの友人で、同期でもある吉田綾だ。
詩乃は顧客管理ソフトの売上の下降線を見つめながら、虚ろに呻く。
「もう崖っぷち……っていうか崖から落ち続けてるし。やっぱり一発逆転狙いで、動画配信でお店を宣伝するしかないと思うんだ。でも本社から許可をもらいたくても、毎回たらい回しの挙げ句、『折り返します』って……」
「残念だな~、配信者、ちょっと興味あったのに」
もし配信の許可が下りたら、詩乃がシナリオを作り、綾が出演してくれることになっていた。
でも『残念』と言いつつ、綾は笑顔だ。
「まあ本社の立派なビルでキラキラ仕事してる人らは、潰れかけの店なんて興味ないでしょ。それに考えようによっては最高の環境じゃん。お客さん来なくて暇でお給料もらえてさ~」
――学生時代は、『詩乃はやればできるよ!』って、よく励ましてくれたのに……。
化粧を直している綾の肌は、日々勉強を続けて寝不足の詩乃と違ってつやつやしている。
「あ、忘れてた。詩乃、フロアの掃除だけお願いしていい?」
「えっ……全部終わったから帰り支度してたんじゃ。私これからお店のビラでも配ろうかと、」
「これからデートで、時間ギリギリだからさ! 今度クロージング代わるからー」
綾が、「ねっ、お願い!」と胸の前で手をあわせる。
彼女の恋人は、詩乃が昔『素敵な人だよね』と少し憧れていた男性客だ。
無邪気に『付き合いはじめちゃった!』と報告を受けた時は呆気に取られたが、カップルにとってクリスマスは特別なものだろうと思い、仕方なく頷いた。
「今日だけだよ。あと……今は二人きりだからいいけど、他のスタッフがいる時にこの手の頼みごとはやめてね。店長としての面目丸つぶれだし」
「ありがと! 恩に着る~~。詩乃も早いところ相手見つけないと、行き遅れるよぉ~。じゃ、お疲れ様!」
笑顔で出て行った綾は、一緒に上京してから唯一の、何でも話せる友人だ。
だから、ちくちくと胸に嫌な感じが走るのは、現状に対して無力な自分への苛立ちに違いない。
大抵、こういう疲れた時だ。不意に、
『詩乃ちゃんは、一人じゃ何もできないんだから』
という、幼少期に何度も聞かされた母の言葉が蘇ってしまうのは。
いつも嬉しそうにそう言って、次に『お母さんがやってあげるね』と甘やかすふりで無力な存在だと思い込まされてきた。
その影響か、子供の頃は自信がなく引っ込み思案で、学校ではクラスの誰にも認識されないような地味な存在だった。
そんな詩乃が少しずつ変われたのは、高校でクラスメイトだった綾が、
『水谷さん、もっとお洒落したら可愛いのに!』
と話しかけて九条陽子のエッセイ本を貸してくれたからだ。本に記された美意識や行動力に感化され、少しずつメイクやファッションを楽しむことを覚え、自分もいつか、女性を輝かせる仕事に就きたいと思うようになった。
母から『接客なんて無理でしょ』『都会で一人暮らしなんて』と反対された時に押し切れたのも、綾が『一緒に美容学校に行こうよ』『上京しよ!』と誘ってくれたおかげで。
ただ、恋愛に関してだけは未だに奥手で、経験がないままだ。
――私も綾みたいに器用だったら、今頃恋人がいて、仕事の相談に乗ってもらったりしてたのかな……。
ノートパソコンを閉じ、母の呪いの言葉を振り払うように立ち上がる。
「寒くなってきたし。今日は早く帰って、動画編集の勉強でもしよっと」
屋内にもかかわらず冷えているのは、経費節約のため、最後の客を見送ってすぐエアコンを切ったからだ。
カーディガンを羽織り、掃除用具を手にバックヤードを出ると、表通りに面したウインドウの向こうに、白くちらつく雪が見えた。
「うわ、嘘でしょ~……!」
電車が止まる前に帰らねばと慌てた時、店の前に佇む人影に気付いて二度見した。
降り積もる雪の中。
日本人らしからぬ高身長の若い男が、店内を見つめている。
黒いコートに、黒い髪。
肌だけが白く、この世の人間とは思えないほど整った顔立ちをした、モノクロームの男。
だから、そのせいだ。
――なんだか、死神みたい……。
だなんて非現実的な連想をして、つい呆けて見つめてしまったのは。
背後から大鎌を取り出し、黒い羽が広がって空に消えても、納得してしまいそうだ。
イルミネーションが輝き、ホワイトクリスマスに浮かれるカップルたちが通り過ぎゆく中で、不吉を予感する男の存在だけが異質に浮き上がっている。
――芸能人、かな? 恋人と待ち合わせとか?
――この辺は高級ブランドの旗艦店も多いから、お忍びで遊びにくる人もいるし。
よく見ると、傘どころか鞄すら持っていない。
広い肩には、刻々と雪が積もりつつある。
――あのままじゃ、風邪引いちゃう……。
赤の他人とはいえ、店の前で困っているなら何かの縁だ。
詩乃は迷わず掃除用具を置き、バックヤードのロッカーから置き傘を取って、店を出て駆け寄った。
魔法のごとく消えているかも、と思ったけれど、男は相変わらず遠い目で店内を見つめ続けている。
「あの、大丈夫ですか? よかったらこれ、使ってくださ、い、……」
光の欠けた瞳に捉えられて――なぜか、心臓を掴まれたように胸が痛んだ。
遠目に見た印象を遙かに上回る、整った顔立ち。
行き過ぎた完璧さは、かえって作りもの染みた軽薄な印象を与えそうなものなのに、まっすぐに通った鼻梁と引き締まった唇には、深い知性が見て取れた。
前世でどれほどの徳を積んだら、こんな完璧な見目形に生まれつくのだろう。
瑕疵があるとすれば、僅かに驚きを表現した瞳の大きさが――その絶妙ないとけなさが、まだ青年期の心を引きずっているように見えることくらいで。
肌が切れそうなほどの冷気に包まれているのに、じわりと顔が熱くなる。
――っ……見ず知らずの男性に、何、意識してるの。
そう思ってみても、男を見上げたまま動けない。
「……水谷、詩乃?」
「え……?」
聞き間違いかと思った。
――お客様でこんな格好良い人がいたら、絶対に忘れないし……もしかして、ちょっと変な人? ずーっと雪の中に立って、お店を見てるなんて普通じゃないし。
――私が気付かなかっただけで、いつも店を覗いてたとか? じゃあストーカー?
少し怖くなって、もう一度男を観察して――ふと、最近流し見した社内報と、ニュースサイトに掲載されていたポートレートが目の前の男と重なった。
そして確か、ニュース記事の煽り文句は――。
『霧島ホールディングス、雇われ社長の任期満了。創業者、故・九条陽子氏の次男が代表取締役社長に就任。亡き母の名声を超えられるか』
「……、……社長……?」
掠れた声で呟くと、彼は『今更気付いたのか』と言わんばかりに目を眇めた。