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運命のひと、見つけました。 敏腕弁護士とめちゃ高速しあわせ婚!? 2

第二話

 日曜日。実家に帰ると、父親はゴルフに行っているとかで、いなかった。
 母は「あれ、あんたどうしたの」と不思議そうな顔をした。月に一度程度しか顔を見せない沙也香が、あまり間を空けずに帰ったからだ。
「姉ちゃん、お帰りっ! 俺の部屋行こっ」
 弟に手を引っ張られて、二階に上がった。母と余計な話をするなということか。
「あんた、もしかして……父さんと母さんに、話してないの?」
 返事がない。
 弟の部屋に入る。
 それなりに存在感のある段ボールがふたつ、床の上に置いてある。
 封が開いていたので、中を見てみる。
 ひとつには、英語のテキストが数十冊。もうひとつには、一枚だけ開封され、残りは未開封のCDが、これまた数十枚は入っていた。
 CDって。
「あんた、CD聞けるデバイスなんて持ってるの?」
「……それはまあ、CDプレイヤー買えばいいかなと思ったんだけど」
 買う前に、これほんとに聞くか? と我に返ったわけか。
 できればもっと前に我に返ってほしかった。
「契約書は」
「これ」
 虫眼鏡が欲しくなるほど小さい字でギッシリと書かれた契約書の文面の最後に、へったくそな字で、弟のサインが入っている。
 英語ではなくペン習字でも習った方がまだましなんじゃないだろうか。
「あんたこの文章、ちゃんと読んでからサインしたの?」
「……読んでませんでした……あ、いまはもう、読んだよもちろん!」
「読むのが遅い!」
 豊を叱りつけ、極小の字をなんとか読んでいく。
 クーリングオフに関する文面は、半分ほど読んだところにあった。
 クーリングオフ期間は、契約した日を一日目として、八日目まで。ただし、ひとつでもなにかを開封したら無効――沙也香は封の開いたCDを見た。
 いやいやそんな馬鹿な。
「でさ、やっぱりやめようって思って、俺にこれを売ったひとに電話したの。そしたら、もう解約できないって言われちゃって」
「開封したから?」
「そうそう」
 開けてしまった一枚は買い取れという話ならわかるが、全部返品できないとはまた、ずいぶん横暴な話だ。
 沙也香は大きなため息をついた。
「わかったわかった。姉ちゃん明日、弁護士さんに相談してみるよ」
「ありがとう、姉ちゃんっ……!」
 びしょ濡れになった犬みたいな顔で、豊が言った。
 馬鹿な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。豊は沙也香の子供ではないが、つい甘やかしてしまう。


 週明け、沙也香は始業時間ギリギリに出社してきた久保部長に理由を話して、午後休を申請した。
「休むのは全然かまわないけど、法テラスってけっこう弁護士の当たり外れないか?」
「でも他にツテもありませんし」
 そう言うと久保部長は、なに言ってるんだという顔をした。
「うちの顧問弁護士に相談すればいいじゃないか」
「えっ」
 そういう存在がいることは知っていた。だが、あくまで「会社の」顧問弁護士なのだと思っていた。
「こんな個人的なことを、相談しちゃっていいものなんですか?」
「いいよ」
 と久保はこともなげに言った。
「社員の離婚案件なんかもやってもらったよ。毎月安くない顧問料払ってるんだから、こき使ってやればいい」
 そう言うなり、久保は会社用のスマホで電話をかけだした。
「――あ。おれおれ。そうそう、ヤクザの車に追突しちゃったから、急いで一千万用意しなきゃいけなくて、って誰がオレオレ詐欺じゃい。お前さ、ちょっとうちの社員の個人的な相談にのってやってほしいんだけど、今日こっちこれる?」
 オーケー、と久保が指で沙也香に合図してくる。
「じゃ、頼むな」
 軽い調子で電話を切って、沙也香の方を見る。
「午後イチでこっち来るって」
「ずいぶん親しいんですね」
 とてもただの顧問弁護士と担当先の一社員とは思われなかった。
「大学の同級生だったんだ。俺は小学校からエスカレーター、向こうは大学受験組だったけど」
「なるほど」
 学友か。それは親しいわけだ。
「応接室使っていいから」
 久保部長が言った。
「ありがとうございます」
 お茶の準備をしながら、頭の中で話す内容と順序を組み立てる。
 よくある事例だろうから、上手く話すことができなくても、わかってもらえるとは思うが。弁護士に会う機会なんてそうそうないから、少々緊張してしまう。
 午後一時の約束時間ちょうどに、受付から「清水先生がいらっしゃいました」と内線が入った。
 応接室に通してもらい、すぐに契約書などを持って沙也香も向かう。
 コンコン、とノックを二回して、ドアを開いた。
「――失礼します」
 ソファに座っていた男性が立ち上がって、こちらを見た。
「えっ」
 小さく声を上げて、男性が固まってしまう。
 どうしたのかと思ったが、沙也香も遅れて気が付いた。
「あ、パンダのっ……」
 そう言うと、男性の表情が緩んだ。
 スポーツジムで何度も顔を合わせている、先週ナンパ男からさりげなく守ってくれた男性だった。
 いつものようにTシャツ短パン姿ではなく、ビシッと三つ揃えのスーツを着て隙のない格好をしているから、一瞬気付かなかった。
 それにしても、ここまで印象が変わるとは驚きだ。
 ジムで会っていたときは、人懐っこい笑顔が可愛らしくて年下かな、なんて思っていたけれど、いまはどこからどう見てもやり手の弁護士だ。久保部長の同級生だと知らなかったとしても、年上にしか見えない。
 仕立てのいいスーツを着て、髪をきちんと整えた姿は、ハッとするほどかっこよかった。
「この会社の方だったんですね」
 慣れた仕草で名刺を取り出し、両手で差し出してくる。
「御社の顧問弁護士を務めております、佐川法律事務所の清水佑です」
「久保フードサービス広告宣伝部の増村沙也香です。今日はお時間いただきまして、誠にありがとうございます」
 お互いかしこまって名刺交換してから、フフッと笑い合う。
 何度も顔を合わせたことがあるのに、いまさらこんな硬い挨拶をするなんて、なんだかとても不思議な気分だった。


 ◇◆◇◆


 三日前の金曜日、増村豊は、渋谷をひとりでふらふらしていた。
 よく行く古着屋で冬物の上着を見ていたとき、同い年くらいの可愛い女の子が話しかけてきて、流れでお洒落なカフェに入った。
 カフェで一時間くらい古着について楽しく話していたら、話題はやがて、英語がいかに大切かということに移った。
 たしかに、英語は大切だ。
 豊はそう思い、女の子の話にうんうん頷いた。
 そうこうしているうちに、女の子のスマホに、電話がかかってきた。
 偶然近くにいた女性の先輩とやらが合流したいのだという。
 まったく知らない人が突然混ざってくることに戸惑いながらも、心の狭い男だと思われたくなくて了承した。
 先輩はものの五分でカフェにやってきて、豊の隣に座った。
「英語やりたいんだって?」
 大切だよねという話が、やりたいという話に変化した気はしたが、頷いた。否定できない空気だったからだ。
「いいと思うよ、いまからでも本気でやれば、絶対就職で有利になるから。ただ、教材はしっかり選ばないとだめ」
 一日にコーヒー一杯分の投資で本物の英語が身に付くのだと、先輩と女の子は強く言ってきた。
 月一万五千円のローンを組めということだ。
 この辺からちょっと様子がおかしいなとは思ったのだが、もう引くに引けなくなっていたし、アルバイトをしているから一万五千円くらいならなんとか払えるのではないかと、そのときは思ってしまった。
 
「――なるほど。絵に描いたようなキャッチセールスですね」
 沙也香の話を一通り聞いて、佑は言った。
「もう、『流れでお洒落なカフェに入った』ってところからダメすぎですよね……」
 鼻の下伸ばして女の子についていったであろう弟の姿を思うと、情けなくて泣けてくる。だいたい、一日にコーヒー一杯分の投資って、苦くてコーヒーを飲めない男のくせに、なぜそれで納得してしまうのか。
「契約したのが、三日前ですよね」
 佑が契約書を手に取った。
「大丈夫、問題なくクーリングオフできます」
「それが、弟が家に帰ってから正気に戻って、そのキャッチの女の子に電話してみたら、『ひとつでも開封したらクーリングオフはできないって、契約書に書いてあるでしょ』って全然聞き入れてもらえなかったみたいなんですけど」
「特定商取引法で、消費者に不利な契約は無効だと定められています。なので、その部分の表記は無効になります。たとえ払わなきゃいけなくなったとしても、その開けたCD一枚分だけで大丈夫です」
「よ、よかった……」
 沙也香は胸を撫で下ろした。
「今後の窓口は、弟さんの代理人ということで、私にしましょう。弁護士の肩書で内容証明郵便を出せば、弟さんが前に出るよりずっと早く話が進むと思いますよ。向こうも面倒なのは嫌でしょうから」
「本当にすみません、お世話になります……」
「顧問弁護士ですから」
 にこっ、と人懐っこい笑みを向けられ、心のなかの、弟と一緒にオロオロしていた部分が落ち着いていくのを感じた。
「なんだか、助けられてばかりですね、わたし」
 ジムでのことといい、今回といい、世話になってばかりで恐縮してしまう。
「たいしたことはしてません」
「……情けない話ですけど、弟がこういうのに引っかかるの、初めてじゃないんです」
「と言いますと」
 佑は軽く身を乗り出した。
「前回は、美術になんてまったく興味ないくせに、大きな版画を買わされてきました」
「あーっ、ちょっと前に流行りましたね」
「そのときは未成年だったので、私が抗議に行ってなんとかなりました。でもマルチ商法にも引っかかりそうになってたし、新興宗教にも入信させられそうになって……なんでしょう、そういうのを惹き付けるオーラみたいのがあるんですかね」
 騙される騙されない以前に、沙也香はこの年まで生きてきて、キャッチやマルチに声を掛けられたことが、一度もない。
 だからなぜ弟が、ちょいちょい怪しい話に引っかかってくるのか、まるで理解できなかった。
「弟さん、優しいひとなんだと思いますよ。それが顔にも出てるんじゃないですか、会ったことありませんけど。ひとの話をちゃんと聞いてくれそうな感じっていうか」
「それはありますね、私のお説教は聞き流されますけど」
 佑はハハッと声を出して笑った。
「仲いいんですね、弟さんと」
「そうなんですよね、なんだかんだいっても」
「豊」と書いて「バカ」と読むのではないかと思ってしまうくらい浅はかな弟だが、泣きつかれると、つい世話を焼いてしまう。
 弟が小さい頃からそうだった。
「俺はきょうだいがいないから、そういうの羨ましいです」
 佑がフッと笑う。
 その顔を見て、胸の奥がキュッとなった。
「……どうかしました?」
「あ、いえ。一人っ子なんですね」
「そうなんですよ」
 なんてことのない会話のはずなのに、彼の両手を取って握り締めたくなったことに戸惑う。
 一人っ子だから可哀想だとか、寂しいだろうなとか、思う方が失礼だろうに。
「――そろそろ話は終わったか?」
 佑が来てぴったり三十分経ったところで、バーンと応接室のドアが開いた。
 ズカズカ入ってきたのは、久保部長だ。
「さ、飲みに行くぞ」
 当たり前のように佑の隣に腰掛ける。
「まだ昼間じゃないか」
 佑は思い切り顔をしかめた。
「お前いつも忙しいからって断りやがるけど、今日は逃がさないからな」
「実際忙しいんだが。今日もこれから、地裁と拘置所だ」
「増村さんも来るぞ」
「えっ!?」
 それは初耳だ。
 そうなの? という感じで、佑がこっちを見てくる。
 知らない知らないと、首を振った。
「というわけで、十八時半に直接、店で待ち合わせな。場所はあとでメッセージを入れておく」
 言いたいことだけ言って、久保部長はさっさと応接室を出ていってしまった。
 残されたふたりで、顔を見合わせる。
 久保部長は沙也香の上司だが、佑の同級生だ。勝手な上司ですみませんと謝るのも違う気がして、なにを言えばいいのかわからなくなる。
「……どうします?」
 佑は困惑と諦めの混ざったような顔をしている。
 久保部長の言い出したら聞かない性格は、よくわかっているようだ。
「私は行けないこともないんで行きますけど、清水先生はご無理なさらず」
「先生はやめてください」
 照れてしまいます、と本当に照れた顔で言われた。
「俺も行きますよ。行けなくはないので」


 飲みに行くことを話すと、人事の松下琴美も来たがったので、呼んで四人で乾杯をした。
 久保部長が予約した新橋の居酒屋は、個室が広く、なにを食べても美味しかった。さすが、毎晩のように飲み歩いているだけある。
「おふたりは、学生時代からのお友達なんですよね?」
 琴美が尋ねた。
 気のせいか、佑と久保部長を見る目が、ずいぶん輝いている。
「友達……なのか?」
 佑が首を傾げ、久保部長が「ひどい!」と嘆く。
「俺は大学受験組でしたからね。内部進学の久保とは距離ありましたよ」
「そんなに違うものです?」
 専門学校卒の沙也香には、その辺りの機微がよくわからない。
「俺は勉強とアルバイトで、いっぱいいっぱいでしたからね。テニスサークルを主催して、頻繁にパーティーを企画していた久保との接点なんて、必修科目の講義くらいで」
「お前、どんなに誘っても絶対パーティーに来なかったよな」
 久保部長が佑を恨みがましい目で見た。
「そんな暇あるわけないだろ」
 佑は切り捨てるように言って、刺身に箸をのばした。
「久保フードサービスの御曹司さまと一緒にしないでくれ。俺は学費は全額給付型の奨学金もらってたから絶対成績落とせないのに、バイトで生活費をまるまる稼がなきゃいけなかったんだ」
「うわあ、それは大変」
 沙也香は佑に同情した。
「うち、母子家庭だったんです。母は病気がちで、金なくて」
「苦労されたんですね」
「あんまり言うと、苦労自慢みたいで嫌なんですけど……司法試験の勉強もあったから必死で、大学時代のことってあんまり覚えてないんですよね」
 自分はそこまでなにかを頑張ったことがあるだろうかと、沙也香は佑の話を聞きながら考えた。
 デザインを学びたいとは思ったけれど、美大に挑戦するほどの意欲はなかった。そこまで自分に才能があるとも思えなかった。
 美術専門学校の学費は、両親が出してくれたし、それを当たり前だと思っていた。
 佑のようなひとからしたら、さぞ能天気な人生に見えるだろう。
「うんうん、お前はえらいよ。司法試験だって一発合格だったもんな」
 久保部長に肩を組まれ、佑は心底うざそうな顔をした。
 友達だと佑は認めないかもしれないが、久保部長といるときの彼は、ずいぶんと表情が豊かだ。
 スポーツジムで会ったときはさわやかな好青年、会社で会ったときは敏腕弁護士という顔をしていたが、素の佑は案外、普通のひとなのかもしれない。
 本当の彼がもっと見てみたくなる。

 それから一時間ほど経った頃だった。
 話題は沙也香と佑が同じジムに通っているということで、朝活の話になった。
「よく朝っぱらから走る元気あるなあ」
 と、万年二日酔い男の久保部長がげんなりした表情になった。
「わ、私もちょっと、無理かも……」
 琴美も顔を引きつらせている。
 朝活が無理だったら婚活でもすれば、とは不倫している琴美には言いづらい。
「うちの親なんかは、朝活も夜活も通り越して、もう終活始めてますけどね。早くないですか。まだ六十ちょっとなんですけど」
 沙也香が言った。
「あーっ、うちも」
 と、琴美も言う。
「なんだろうね、あれ。六十代に流行ってるのかな。まあお墓とか口座とか整理してくれるのは助かるんだけど、私のものまでなんでも捨てたがるのはちょっと困る」
「――そういえば、もしあったらでいいんですけど」
 ふと思い出したように、佑が言った。
「完結した、最初から最後まで揃っている漫画でいらないものがあったら、もらえると嬉しいです」
「え?」
 漫画が好きなのかな、と思ったが。
「なんらかの事情で家にいづらい十代の子たちの居場所を、弁護士仲間とボランティアで作っているんです。そこに置きたくて」
「あります、めっちゃありますっ!」
 沙也香は食い気味に言った。
「ちょうど実家に置いてあった漫画本を持って帰れって言われていたところなので、私もすごく助かります」
「いいんですか? ありがとうございます」
 佑が頭を下げてくる。
「思い入れのある漫画ばかりで捨てるのは絶対嫌だったんですけど、いま住んでいる部屋は狭くて、どうしようかと思ってたんです。面白いのばっかりですよ! 私が保証します、布教できて嬉しいです」
「ボランティアですか。弁護士さんって、そんなこともするんですね」
 琴美が尊敬の眼差しを佑に向けた。
「俺は、国選弁護人になったり、法テラスで相談に乗ったり、なんでもやります。そうすると、いろんなひとと出会います。法からこぼれてしまう子供も見ます」
 佑は空になったグラスを、両手で包むようにして持った。
「勉強したいのに、家が落ち着いた環境じゃなくてできなかったり、塾に行きたいのに行かせてもらえなかったり。そんな状況に危機感を持った仲間たち数人と、持ち回りで放課後と週末の居場所を作って、無料で勉強を教えているんです」
「すごい……ご立派なんですね」
 琴美は胸の前で手を組んで、うっとりした顔で言った。
「そんな立派なもんじゃないです。できることをしているだけで」
「俺だってできることをやってるぞ」
 久保部長が主張してくる。
「うちの見切り品の食材をどんだけ提供してきたか」
「あれはまじで助かってる」
「こども食堂もやっているんですか?」
 沙也香は尋ねた。
「おおっぴらにはやってません。夕飯時にその場にいた子供に出す程度で」
 なんでもないことのように言われ、沙也香は自分のことが恥ずかしくなってきた。
 できることをしているだけと言ったって、若手弁護士の彼は仕事だけで相当忙しいはずだ。自分なんて、毎日定時で帰れているのに、いままでボランティアなんて、しようと思ったことすらない。
 自分がいかに自分のことしか考えていない人間なのか思い知らされ、自然と下を向いてしまった。
 琴美が、ちょっと失礼、と手洗いに立つ。
「……増村さん」
「あ、はい」と、顔を上げる。
 佑がまっすぐにこちらを見ていた。思いのほか、優しい目をしている。
「漫画本、取りに伺いたいんですが、いつ頃がいいですか」
「いえ、私が持っていきます」
 どうせ暇なのだ。
 忙しい彼に、これ以上手間をかけさせたくなかった。