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第三話 獅王と環奈と吾輩

 吾輩は猫である。名前は吾輩(わがはい)である。
 と、猫が言うことはないけれど、黒猫の名前は吾輩という。名付け親は獅王(れお)だ。
「獅王ー、吾輩のカリカリってストックあった?」
「いや、今のが最後だな。買いに行かなきゃと思ってたんだが」
 環奈は、空っぽになった餌袋をゴミ箱に捨てると、缶詰を開ける。
「じゃあ、吾輩は今日は猫缶ね。豪華だね、よかったね」
「ニアーオ」
 黒猫は、まるで言葉を理解しているように嬉しそうな声をあげた。
「環奈、俺には?」
 餌皿に缶詰の中身をあけている環奈の背後にまわり、獅王は華奢な体を抱きしめる。
「あっ、ちょっと、こぼれる」
「かーんな、吾輩の餌だけじゃなく俺の餌も」
「食事、まだいいってさっき言ったじゃない」
「俺は環奈が食べたい」
 白い首筋に、軽く歯を当てる。すると、彼女の肌がうっすらと赤く染まった。歯型がついたわけではない。それほど強く噛んだりしない。
「……あ、あとで」
 首だけ振り向く環奈の左目の下が、わずかに赤くなっているのを獅王は見逃さなかった。
 ――結婚して一年経ってもこんなにかわいいって、アリなのか?
 環奈マニアを自称する獅王としては、妻の愛らしさに毎日KOされる一年だった。
「あとで? 時間をおけばおくほど、俺の欲望がおさまるのに回数が必要だってわかってんだよな?」
 脅し文句と見せかけて、さんざん抱きたい自分の本音を口にする。
 保育所で正社員として働きはじめた環奈は、平日の夜の行為を避けようとするきらいがある。
 ――まあ、俺が朝までヤるせいなんだが。
 わかっている。彼女には彼女のやりたい仕事があって、それは結婚したからといってなかったことにはならない。大学で保育士と幼稚園教諭の資格を取得した環奈が、一度はその仕事を退職した過去がある。だからこそ、今の職場でがんばりたいと思っているのも知っている。
「なあ、環奈。今日は土曜だ」
「うん」
「明日は休みだろ」
「うん」
「だったら、今夜はたっぷり環奈を抱かせてくれよ」
「う……っ……」
 しかし、今日の環奈はなかなか首を縦に振ってくれない。
 ――何か気に入らないのか? 先週末、環奈が恥ずかしがってるのにかわいくて動画を撮影しようとしたからか……?
 当然ながら、実際は撮影していない。
「ニアーン」
 餌を早々に食べ終えて、吾輩は「もっと!」と言いたげに顔を上げる。
「おまえな、もう若くないんだから食べすぎはよくないぞ」
「ニィー」
「……かわいいな、吾輩」
 環奈の背におぶさるような格好で、手を伸ばして吾輩のひたいを指で撫でた。
「れ、獅王、重い!」
「あ、悪い」
 長身に筋肉がしっかりついた体格だ。環奈の倍ほどの体重がある。
 ――だからか、環奈を思い切り全身で押しつぶして抱くのが悪いのか?
 パッと立ち上がって逃げる環奈を、吾輩が追いかけた。
「おい、環奈」
「お風呂そうじしないと。ついてこないでね?」
 そう言われて、おとなしく引き下がる獅王ではない。
 環奈が逃げる。吾輩が追う。そのあとを、さらに獅王が追いかける。
 そうはいっても、マンションの広さは知れたものだ。ふたりと一匹は洗面所で一堂に会し、環奈が唇を尖らせる。
「ついてこないでって言った」
「ニアーン」
「俺は環奈が食べたいって言った」
「ニィー」
「あ、あとでって……」
「ニー、ニアー」
「あとになればなるほど、おまえのことめちゃくちゃに抱いちまうだろ!」
 こらえきれずに、獅王は環奈を抱き寄せた。ふたりの足元で退屈そうにあくびをし、吾輩が洗面所を出ていく。
 ――ありがとな、吾輩。空気読んでくれて助かった。
「……そろそろかなって、思って……」
「ん?」
 小声でうつむく彼女の言葉が、はっきりと聞こえない。
「そろそろ、排卵日だなって思って、だから今日はその、したいなと思うけど、でもすると確率が上がるから、説明しておかないとダメだし。ちゃんと相談して、獅王の気持ちを確認してからどうするかを――」
 頭で考えるよりも早く、両腕に力が入った。
「……俺は、望んでる。環奈と俺の新しい家族を求めてる」
「わたしも、獅王の子どもがほしい」
 彼女の返事が最後まで聞こえていたか、自信がない。戸惑いがちに、けれど誘惑顔でこちらを見上げる環奈に、待ちきれないとばかりにキスをした。
 慣れたくちづけは、互いに舌を絡ませあい、体と体をぴったりと密着させる。
「もっと、言ってくれ」
「獅王の子どもが、ほしいよ」
「俺も。環奈との子どもがほしい」
 ベッドまで戻るのも、もどかしかった。
 彼女のエプロンを剥ぎ取り、スカートの裾をめくり上げる。
「待って、まだお風呂……っ」
「待てない。風呂ならあとで俺が洗う」
 さんざん環奈をイカせた一時間後、獅王は一糸まとわぬ彼女を貫いたまま抱き上げて、寝室へ向かった。

「……獅王」
「ん?」
「しすぎ、だと思うの」
 浅い呼吸で、熱っぽい目をした環奈がベッドの上でかすれた声をこぼす。
 わかっている。わかっていた。けれど、体はわかっていない。
「一応調べたんだけど、射精のあとはしばらくおとなしくしていたほうがいいって」
「ああ。俺も調べた」
 なのに、射精しても抜くのがもったいなくて、そのまま二回戦、三回戦、四回戦が終わった。最後は吐精のあとに、彼女の中を指でたっぷり撹拌した。後戯まで味わいたくなってしまうのは、獅王の悪い癖だ。
「環奈、俺が――」
 悪かった、と言おうとしたとき、環奈が細い手を伸ばして獅王の頬に触れる。左手の薬指には、結婚指輪が光っていた。
「獅王がわたしのこと、すごく愛してくれてるの、知ってる」
「!」
「わたしも、獅王に抱かれてると気持ちよくてわからなくなる。これって、愛情の行為なのかな、快楽の行為なのかな。それとも生殖行動でしかないのかな」
「んなこと知るか。俺はおまえが抱きたくてどうしようもないだけだよ」
「ね。わたしもなの。獅王のことが好きなのはわかるのに、獅王としたくなるのはどうしてなのかわからない」
 だからね、と彼女が続ける。
「獅王が入ってると幸せ。ほかに何もいらないって思う。なのに、子どももほしいなんて贅沢なのかな」
 言いながら、環奈の目が閉じていく。
 窓の外は、まだ夜の帳がおりたままだ。朝は遠い。汗ばんだ肌が愛しい。
「いくらでも、贅沢させてやるよ」
 細い体を抱き寄せて、獅王は環奈の泣きぼくろにキスをした。
「破産……しちゃう……」
「おまえの贅沢くらい、叶える。体も心も、なんだって満たす。俺はそのために、環奈のそばにいるんだからな」
 すうすうと寝息が聞こえはじめてから、獅王は幸福感を噛みしめる。
 結婚してから、まだたった一年だ。
 幸せは募るばかりで、どうしようもないほど環奈が愛しい夜がある。
「ニアー」
 隙間を開けておいたドアから、吾輩がするりと寝室に入ってきた。
「おまえはほんと、空気の読める猫だよ」
 何も言わずにベッドの下で体を伸ばし、吾輩がその場に丸くなる。
 渋谷区にあるマンションの寝室で、向井獅王と向井環奈と、愛猫の吾輩はそろって眠る。
 ふたりと一匹の暮らす部屋に、新しい家族が増えるのはもう少し先のこと。
 吾輩には、まだまだ長生きして弟か妹の最初の友だちになってもらわなくては困る。
 ――いつか、子どもたちにも話して聞かせるんだ。うちの猫の名前の由来と、吾輩がどんなに賢い猫かってな。
 夜は甘くやすらかに、親密な愛情に包まれて朝を待つ。
 目覚めた環奈が、抱擁というにはあまりにがっしりとしたホールドにあえぐまで、あと数時間――
 獅王と環奈と吾輩の、幸せな時間は続いていく。