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第二話 ミツカさんと櫻井くんのこと

 門倉満花(かどくらみつか)が本名をフルネームで名乗らなくなったのは、二十歳を過ぎたころからだ。
 未成年の間は、実家を出て好き勝手に生きていてもいざというときに門倉という名字を名乗らなければいけなかった。ただのミツカでは通用しない、世間はミツカの両親――特に父の名前で彼女を認識した。
 ミツカの父は、もともとメガバンクで出世コースをひた走っていた男だ。家族など顧みず、平日も休日も仕事か仕事の準備か、仕事関係者との外出ばかりする人物だった。
 それが、母方の祖父の地盤を継いで政治家になると決めた日から、妻子を異様なまでに束縛するようになった。
 いわく、政治家というのは身内の身辺調査までされるものらしい。だとしたら、祖父はなぜ母を、そしてミツカを自由にさせていたのだろう。それはさておき、父が政治家という新たな道に未来を見出した結果、ミツカは都内でも指折りの古めかしい女子学園に進学を余儀なくされた。中高一貫の厳粛な校風。校則で決められたスカート丈をきちんと守り、学校指定のスクールコートに、黒か紺の無地のマフラー。あの学校の生徒たちは、それを当たり前に受け入れていた。
 ほんとうは、バスケの強い高校に進学したかった。
 ミツカは背も高かったし、勉強より運動が得意だった。何より、バスケットボールが好きだった。
 受験校を決める際、何度も父と話し合おうとしたけれど、父はこちらの意向に耳を傾ける気がなかった。残念なことに、それは今に始まったことではない。そもそも仕事以外に興味のなかった父は、ミツカがバスケをしていることすら知らなかった。
 あまりにしつこく父の選んだ高校を拒んでいると、母が泣くようになった。
 夜遅く、ランニングから帰ったミツカの耳に父の怒声が聞こえてくる。
「おまえがきちんとしつけないから、あんなわがままな娘に育ったんだ! 責任を取れ!」
「ごめんなさい、あなた。ごめんなさい……っ」
 正直に言う。
「きもちわる……」
 ミツカは、父の言うとおりの高校に進学することに決めた。母がかわいそうとか、父に従おうとか、そんな考えはまったくない。ただ、とにかく気持ちが悪いと思ったのだ。
 その気持ち悪さから逃れるには、とりあえず自分の進路が父の思い通りになればいい。
 結果だけを言うと、そもそもミツカはどこにいてもそれなりに順応して楽しく暮らしていける性格だった。なので、お嬢様学園に入学し、それなりに居場所を見つけて学園生活を謳歌した。している、つもりだった。
 ある日、ふと中等部のきれいな少女を見た。
 色素の薄い、うつむきがちな子だった。左目の下に小さな泣きぼくろがあって、彼女は友人と一緒にいるのにどこか孤独を背負っているように見えた。
『ここは、わたしの居場所じゃない』
 そんな声が聞こえるような美少女だった。
 それから唐突に、彼女の姿がよく視界に入るようになる。一度認識してからは、気づけばミツカのほうから彼女を探すようになっていた。
 体育祭、文化祭、部活の試合、バレンタインデー。
 学園内で、ミツカはいつもヒーローだった。たくさんの女子生徒から声をかけられ、挨拶をされ、バレンタインには山のようなチョコレートをもらう。けれどいつも、視界の隅にあの子がいた。彼女と話したことはない。彼女の友人たちに声をかけられることはあっても、彼女は黙ってうしろに立っていた。
 ――ああ、同じだ。
 ミツカは気づいてしまった。
 どこにいてもそれなりにやっていける自分と、ここが自分の居場所ではないと思っていそうな彼女。
 似て非なるふたりだと思っていた。思いたかった。だが、気づいてしまったのだ。
 どこでも同じということは、どこにも自分のほんとうの居場所なんてない。この学校にいる門倉満花は、父の見栄のためだけに存在している。いずれはバスケットボールをやめて、父の選んだ男のもとに嫁ぐ日が来る。それすらも、どこにいても同じと受け入れられるだろうか。
 そんなことを考えていた時期に、ミツカは櫻井夏梅(さくらいなつめ)と出会った。
 高校二年になったばかりの、桜の季節。
 下級生の手本となるよう、決められたスカート丈に学校指定の靴下を履いて、革靴で歩くミツカの目に夏梅はひどく眩しく見えた。
 彼は、金色の髪でサングラスをかけ、見るからにガラの悪い男だった。
 それなのに、しつこいナンパに困っている女性を助けるため、絡んでいた三人の男を相手に前触れなく蹴りを繰り出したのである。
「てめえ、何しやがる!」
「何って、脚が長いから当たったとか言ってほしいの? んなわけねえだろ。おまえを蹴ってやったんだよ」
「ふざけんな」
「おい、やめろよ、そいつ……」
「オレのこと知ってんの? へえー、なになに、オレって有名?」
「櫻井だろ」
「櫻井ナツメ」
 ナンパされていた女性が逃げるのを見送って、櫻井がサングラスをはずす。
「よし、かわいそうな女性は無事逃げおおせた。あとはオレがおまえらを蹴りまくって警察が来るまえにここから去る。そういうシナリオだからよろしくなー」
「頭わいてんのか、てめえ」
「そっちこそ、脳に虫わいてるだろ。耳から臭うんだよ、くせーくせー」
 繰り出されるパンチを、櫻井はひょいひょいと軽くかわしていく。見た感じ、さして強そうにも見えない。それどころか、アクセサリーや派手な髪色のせいでホストと言われても納得しそうな優男だ。
「おっせーなあ、おまえら」
 彼は靴の踵で思い切り三人のうちのひとりの腹を蹴った。
「なあ、オレ今ね、けっこう機嫌悪いの。わかってる? わかってねーよなー。だから、おまえらとかどうでもいいし、他人なんかどうでもいいくらい、自分でいっぱいなんだよ。バカでもこのくらい説明したらわかるか? あ?」
 彼のシナリオどおりにことが運んでいく。ポケットに両手を突っ込んだまま、櫻井は男三人を蹴り潰した。
「あー、満足しねー。ぜんぜん満足しねーわ。おまえらもう、二度といやがる女子相手にナンパなんかすんじゃねーぞ、くそが」
 靴底の汚れを歩道になすりつけ、櫻井がその場を去ろうとする。
 ミツカは、彼の背中を追って走り出していた。
「さ……さくらい、なつめ!」
「へ? 何、きみ、誰? なんでオレの名前知ってんの。ナンパ?」
 振り向いた金髪の男は、少し驚いた顔でミツカを見る。
「さっき、そう呼ばれてた」
「あーね、そうね。で、なんのご用事すかー」
 彼の周囲だけ、光がゆっくりと動いている。空気をひりつかせ、いらだちを隠しもせず、それでいて妙にゆったりと話す男だ。
「……漢字を、教えて」
「ねー、だいじょうぶ? きみその制服、あそこのお嬢様学園のでしょ。オレに教えられる漢字なんて、あると思って聞いてんの?」
 本気で心配しているようにも聞こえる声だった。
「名前の漢字」
「貝ふたつの画数多い櫻井、それに夏の梅って書いてなつめ。ばあちゃんみたいって言ったやつは、女の子でも許さないからねー?」
 世界は、一瞬で色を変える。
 春に出会った夏の梅の名前の男。
「わたしは、ミツカ」
「ミツカちゃん。ふーん、漢字は?」
「……漢字は、いらないの。ただのミツカ。ねえ、どこに行くの? 一緒に行っていい?」
 櫻井はしばし黙って、ミツカの頭のてっぺんから足の先までゆっくり確認する。
「えーと、やっぱりこれ、ナンパ?」
「うん」
「きみ、わりときれいな子だよねー。そしてお嬢様」
「だから?」
「もったいないから、おうちに帰ったほうがいいよ。オレね、あんまりおすすめ物件じゃないの」
「おすすめかどうかは、わたしが決めるよ」
「あー、あれか。春だから、頭がちょっとアレな感じなのか。それとも学校がいやなのか。登校拒否か!」
 出会いは、あまり彼にとっては印象がよくなかったかもしれない。
 それからは、街で彼を見つけるたびに声をかけた。最初はいやがられて、途中もいやがられて、最後までいやがられていたと思う。
 そんなミツカのことをどこからか聞きつけた父に、頬を平手打ちされた。十七歳の誕生日すらまだだというのに、見合いをするよう命じられた。
 ――もう、いらない。どこにいてもそれなりにやっていける自分なんて、いらない。
 ミツカは高校に退学届を提出し、櫻井を追いかけている間に知り合った女の子の家に泊めてもらい、バイトをはじめた。それなり程度のミツカでも、それなりにバイトはできた。学校にいるより、ずっと楽しかった。何度か父の関係者がミツカを連れ戻しに来たけれど、櫻井を真似て思い切り蹴ってみたら気分がよかった。相手はおそらく格闘技の経験があったのだろうが、お嬢様であるミツカに蹴りつけられるとは思っていなかったのか。あるいはお嬢様に傷をつけてはいけないと思ったのか。毎回、ミツカはいい感じに逃げ切ることができた。
 そうしているうちに、ミツカは二十歳を迎えた。成人式なんて興味がなかった。流れ着いたショットバーで働き、そのうちバーという文化に魅了されていった。
「……ミツカさー、うちに来る?」
 櫻井がそう言ったのは、彼の母が亡くなった翌年のことだ。
 彼は高校を卒業すると同時に、父の暴力に耐えていた母親を連れて家を出て、体の弱い母の面倒をみていた。けれど、彼の母親は櫻井が恩返しを終えるよりも早く、この世を去った。闘病期間が短かったことだけが救いだと、櫻井は笑っていた。
「あ、ヘンな意味じゃないから。オレのこと襲わないでねー?」
 その時点で、まだ櫻井とつきあってはいなかった。
 知り合って七年が過ぎていた。ミツカは二十四歳だった。
「夏梅になら襲われてもぜんぜんいいんだけどなー」
「はー? ないでしょ。ていうか、ミツカならオレなんかじゃなく、いくらでもいい男選べるでしょー」
「バカだね」
 営業の終わったバーカウンターで、ミツカは櫻井の頬を両手で挟む。
「知らないの? わたし、夏梅とするって決めてたの。高校辞めて、この街に来た。自分の足で立ってなきゃ、夏梅を好きになれないって思った。だから、キスだってこれが初めてよ」
 触れた唇が、かすかに震えていた。たぶん、震えていたのはミツカだけだった。
「……ミツカさー、美人で頭もいいのに、ほんとバカだよね」
 そう言って、彼の腕がミツカを抱きしめる。
「オレ今ねー、家にひとりでいるのが寂しいから、誰でもいいから一緒に暮らしてくれないかなーって思ってるだけなんだよ。それなのに、大事なキスまでくれちゃって、ほんといいの?」
「お金はほしいものを買うために貯めるの。わたしの体は、夏梅を魅了するためにあるの。文句ある?」
「ありません。きみ、知ってたけどめちゃくちゃいい女だね」
 それから三年。
 ミツカは今も、櫻井と暮らしている。
 あのころと違うのは、新宿のオーセンティックバーで雇われ店長になったこと。
「ねー、ミツカ」
「どうしたの?」
「レオと環奈(かんな)ちゃん、結婚しちゃったじゃん」
「めでたいねー」
「でさ、オレもミツカさんと結婚とかしたいなって思うわけなんですけどもー」
 初めて会ったときより、ずっと大人になった。
 仕事も変わって、周囲の人間も変わって、だけど変わらない人もいて、変わらない想いもある。
「夏梅、わたしは夏梅としか結婚したくない。だから、この先もずっと一緒にいてください」
「……相変わらず、ミツカはかっこいい生き方してんな。オレ、隣にいてだいじょうぶー?」
「もちろん。夏梅じゃないとダメ」
 結婚後、櫻井満花とフルネームの入った名刺を作った。
 ふたりで名刺を見て笑った。
「いやー、これはなんとも、桜が満開な感じだねー」
「冬に差し出すには気後れする名刺だわー」
 これからは、名字を名乗ることを躊躇しない。
 誰かが勝手に与えた姓ではなく、自分の選んだ男の名前で生きていく。
「居場所、見つかったよ」
「ん?」
「夏梅のいるところが、わたしの居場所」
「よきかなよきかな」
 ミツカと櫻井は、今日も幸せいっぱいに暮らしている。
 ミツカは新宿のオーセンティックバーで働きながら、ひそかに情報屋として名を馳せて。
 櫻井は警視庁サイバー犯罪対策課のブラックリスト上位に名前が掲載されているけれど。
 ふたりは平和で、平穏で、愛情満開の毎日を生きている。