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第一話 那王くんは叶わぬ恋をしています

 大学生活も残り四カ月。
 内定も無事もらい、年内に論文をあらかた終わらせようと思い立ち、先週から向井那王(むかいなお)はゼミの住人となった。
 普段から院生が泊まり込みで実験をしていることが多い研究室なので、学部生も手伝いに泊まることがある。那王も三年のころからゼミに出入りし、研究テーマを早めに決めていた。
 ――そのわりに、論文は進んでないな。
 研究棟の一階にある自販機の前で、小さくため息をつく。
 現在時刻は午前二時。草木も眠る丑三つ時だ。
 廊下の照明は消え、非常口を示す緑色のランプと自販機の光だけが手元を照らしている。
「なーおーくーん……」
 そんな中で、急に名前を呼ばれたものだから、さすがの那王もビクッと肩を震わせた。
「っっ……、奈緒子(なおこ)先輩。何してるんですか」
「ふふ、階段をおりていくの見たから、追いかけてきたの。驚くかなーと思って」
 小柄でふわふわの綿菓子みたいな茶髪を揺らした女性が、跳ねるように近づいてくる。
 彼女は同じ研究室の院生だ。博士前期過程一年、島田(しまだ)奈緒子。童顔と華奢な体型が相まって、飲み会の席では年齢確認を求められることも多い。
「ねえ、那王くん、最近わたしのこと避けてない?」
 隣に並んで、財布を出すでもなく自販機を見つめる奈緒子が小さな声で尋ねてきた。
「……論文で忙しくて」
「そうなんだ? でも、前は就活で忙しくても優しかったのにね」
 一歳上の奈緒子は、研究室の男子学生たちからいつもお姫さま扱いをされている。理工学部の中でも女子学生の少ない研究分野にいると、男子は男子で気を遣う。
「もう、わたしの悩みごと、聞いてくれないの?」
「…………俺が聞かないほうがいい話だと、思うんで」
「でも、那王くんが助けてくれないと、もしかしたらわたし、そのうち妊娠させられて捨てられちゃうかもしれないよ?」
 ――似ても似つかない。見た目も態度も口調も、何ひとつこの人は彼女に似てなんかいない。
 わかっているのに、知り合ったころの奈緒子が置かれていた境遇のせいで、那王は彼女を見捨てられずにいる。
 奈緒子は、許されない恋をしている、と言った。
 那王の初恋の女性も、そうだった。
 そうだったというより、幼い那王の言葉で傷ついて思い合う相手から身を引くような人だった。
 ――奈緒子先輩は、逃げるどころか自分から深みにハマっていってるけどな。
「そう思うなら、あの人とは終わりにしたほうがいいんじゃないですか?」
「そんなの、何十回も何百回も考えたわ。でもね、本気の恋って自分でもどうにもならないの。頭ではわかってるのに、体が――ね?」
 天真爛漫な笑顔でそう言われると、那王としては返事のしようがない。
 中学、高校と陸上部で活躍し、長身に切れ長の目、向井那王は今までの人生で十二回告白されたことがある。それは断った回数と同じ。正面きって好きだと言ってくれる相手を受け入れられずにいるうちに、『イケメンなのにガードの硬い向井くん』という謎のレッテルを貼られた。
 その話をすると、初恋の人はとても軽やかに笑ってくれた。口数の多いほうではない、どこかしっとりとした優しい声。彼女のことを思うとき、那王はいつも胸に小さなささくれを感じる。彼女を傷つけてしまったことを、今でも後悔しているのだ。
 那王に残る、小さなトラウマなど彼女は知らない。知らないままでいてほしい。
「わかっているなら、悩む必要ないと思います」
「那王くん、恋したことないの?」
「……どうでしょうね」
 奈緒子を相手に真実など告げるつもりはない。
 那王が大学に入学すると周囲の女性たちはストレートに想いをぶつけることをやめ、手口を変えてきた。
 直接告白するよりも、相談を持ちかけるのが彼女たちの戦法のようだ。恋人とケンカをしてしまった、好きな人とうまく話せない、講義についていけなくて悩んでいるなど。いちばん驚いたのは「家におばけが出るから泊まりにきてほしい」だ。真剣に心配し、彼女のひとり暮らしのアパートに到着したとたん、背後から抱きつかれて玄関に押し倒されたときは、彼女が取り憑かれているのではないかと思った。
 もちろん、那王が甘かっただけの話である。
 相手はヤってしまえばどうにかなると踏んだのか、冷静に塩で清めようとする那王を前に「あ、もう平気みたい……」とバツが悪そうな声で言った。
 女性というのは、なかなか観察眼に長けている。
 少なくとも那王には、誰がどのくらい経験があるかなんて見ただけではわからない。男女どちらを相手にしてもそうだ。
 けれど那王の経験値の低さを見抜いて声をかけてくる女子学生や、助手、講師。彼女たちの目には、自分と違う何かが見えているのか。
 ――姉ちゃんにも、そういうのって見えてたのかな。
「――くん、那王くん、聞いてる?」
「あ、すいません。飲み物何にするか考えてて」
「ひどい……。わたしのことなんて、どうでもいいんだ……」
 そういう意味で、奈緒子はなんとも難しい。
 彼女は妻子ある教授と不倫関係にある――と、那王に告げた。教授のほうから聞いたことがないので、奈緒子の説明を一方的にすべて真実と考えてはいない。不倫はよろしくない、やめたほうがいい、相手の配偶者から訴えられたら慰謝料を支払わなければいけない。そんなひと通りのことを言った那王に、奈緒子は、
『那王くんって、優しいんだね。わたしのこと、そんなに考えてくれるんだ』
 とてもうれしそうに笑った。
 以来、彼女は教授との不倫の相談なのかのろけなのかわからない話を那王にしてくるようになったが、ふたりきりでいると体に触れたがる。いきなり服の中に手を入れられたこともあったため、最近はかなり警戒していたのだが。
「どうでもいいと思ってるのは奈緒子先輩じゃないですか?」
「え……?」
「先輩が自分自身を大事にしないから、不倫関係を続けているように俺は思います。もっと自分を大事にしてください」
 軽々しく男性に触れるのも、好きな相手がいながらほかの男とふたりきりになりたがるのも、那王には理解できない。
「じゃあ、那王くんが優しくして……?」
「できませんよ。先輩は好きな人がいるでしょう」
「那王くんを好きにならせてくれないの?」
 奈緒子の政略から逃げるにも時間と場所が悪い。
 那王は空き缶専用のゴミ箱に一歩近づき、奈緒子と距離を取る。
「好きになるかどうかは、誰だって自由なんじゃない?」
 そこに、もうひとり。別の女性の声が聞こえてきた。
「あ、菜々緒(ななお)さん」
 奈緒子が、恥ずかしそうに「聞いてたの? やだー」と両手で頬を挟む。
 加藤(かとう)菜々緒。長身で長い黒髪が印象的な、メガネのクールな研究室の助手だ。博士課程を修了しているはずなので、三十近いのだろうか。
「島田さんが向井さんを好きになろうと、向井さんが島田さんを好きになるまいと、お互いの自由。ところでコーヒーを買いたいんだけど、自販機いい?」
 居心地悪そうに、奈緒子が「じゃ、わたしこれで」と駆けていく。彼女はあれで、自身の研究をきちんと進められているのか謎だ。
「すいません、ありがとうございます」
 少々困った状況にいた那王は、菜々緒に小さく頭を下げた。
「別に、おごると言った覚えはないよ」
「いや、そうじゃなくて」
「ああ、島田さんのこと? あのくらい、うまくかわせるようになったほうがいいね」
 菜々緒は、研究室の学生に対して決まった距離を置く。男女の別なしに名字にさん付けをするのがいい例だ。
「どうかわしたらいいんですかね」
「そういうところ」
「はい」
「そういう、わからなくて困ってるんですっていうのを顔に出すのが、隙があると見られる。だから、興味がない相手に興味がないと態度で示せばいいんじゃないの」
 さっさと無糖のホットコーヒーを購入すると、菜々緒がこちらを振り向く。
「今、加藤さんが俺にしてるみたいにですか?」
「……わたしは、婚約者がいて大学に雇われてる。学生に手を出したら、研究者としての道も結婚もご破産だね。だから当たり前でしょう」
 冷たく言い放ちながらも、菜々緒は自販機を右手の指でコンと叩いた。
「さっさと選んだら?」
「あー、はい」
 なんとなく、彼女と同じコーヒーを選び、ICカードを当てようとしたそのとき。
 ピッと音がして、菜々緒が先にICカードで決済をすませてくれた。
「え、おごる気はないって」
「なかった。でも、コーヒーくらい興味のない学生にだっておごってあげる。わたしは大人ですから。それと、向井さんの研究テーマ、わたしが学部のころにやった研究と類似してるから、少しだけ応援ね」
 笑顔のひとつも見せずに、彼女は先に自販機コーナーを去っていく。
 どうしてだろう。
 一縷の望みもないと最初からわかっているのに、那王の心臓が大きく跳ねた。
「あ……っりがとう、ございます!」
 その日買ってもらったホットコーヒーは、飲まずに研究室の引き出しにしまわれた。
 那王は、いつも叶わぬ恋をする。
 けれど、もしかしたら、この恋は違うかもしれない。
 すげなくぶっきらぼうで、ときどき当たり前のように優しい。そんな年上の彼女に、向井那王は二度目の恋をした。
 結論だけをいうと、二年後に那王は加藤菜々緒と電撃結婚をする。
 それはまだ、那王の知らない物語。
 那王くんは、現時点ではまだ、叶わぬ恋をしている――