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第二話 27歳と6歳

 一年七カ月前、海棠竜児は四歳の少女を引き取った。
 引き取ったとはいっても別に養父になったわけではなく、保護者代わりとして一緒に暮らしているだけの話だ。実際、竜児は自分を父と呼ばせるつもりはなかったし、その少女――未亜(みあ)もまったく父親扱いはしてくれない。それどころか、少女は「りゅうじ!」と平気で竜児を呼び捨てる。
 これは、とある春のお話。
 保護者代わりの青年と、小さいながらも口の達者な少女は、偶然にも誕生日が一緒だった。
 四月一日、世にいうエイプリルフールがふたりの生まれた日である。
 その日、三軒茶屋の竜児のマンションには、朝から少々ガラの悪い男たちが集まっていた。
「おい、ヤス! テメエ何してんだよ。いいか、バターは冷めてから使えって本に書いてあるだろうが」
「バカ野郎、バターは冷めたら固まっちまうんだぞ。知ったかぶりしやがって」
「なあ、これマーガリンって書いてあるけどいいのか?」
「つーか、マーガリンってバターの種類だろ?」
 普段は渋谷にたむろする男たちは、額を突き合わせてスポンジケーキの作り方が書かれた本のページを覗き込む。当然、彼らのうちひとりもケーキ作りの経験者などおらず、口から飛び出す発言は揃いも揃って間違いだらけだ。
 今日は、竜児と未亜の誕生日。
 十年来の竜児の友人――否、悪友たちが、ふたりを祝ってくれる予定になっていた。
「おじさんたち、朝からうるさいよぉ……」
 パジャマ姿の未亜が、寝室から顔を出す。長い髪がくしゃくしゃになっていて、パジャマの裾が片方膝までめくれあがっていた。
 小柄で愛くるしい顔立ちの未亜を前に、コワモテの男たちが一斉に相好を崩した。
「未亜ちゃん、ごめん、ごめんな。オレら、うるさくて」
「朝ごはんを作ってるの?」
 裸足でキッチンへ歩いてきた未亜は、右手の甲で目をこする。
「いや、これは朝ごはんじゃなくて――」
 言いかけたヤスの口を、うしろから粉まみれの手がふさぐ。
「そう、朝ごはんだよ、朝ごはん。未亜ちゃん、竜児の野郎を起こしてきてくんねえか? なっ!」
「……? うん、わかった」
 少女が竜児の寝室へ戻っていくのを見て、男たちはほっと息を吐いた。
「おい、ヤス、このクソバカ! なんでいきなりバラそうとしてんだよ」
「あン? ンだと、コラ、やる気か、おい」
「未亜ちゃんが、ケーキ作ってるって知ったら、サプリメントがなくなるじゃねえか」
「バカがカタカナ使おうとすんじゃねえよ。サプリメントじゃなく、サンライズだっつーの」
 サプリメントでもサンライズでもなく、サプライズにケーキを作ろうとしているケンカ自慢の男たちは、狭いキッチンで睨み合う。
 一触即発。
 ここで暴れたら、未亜にケーキ作りがバレるどころか、海棠家のキッチンをめちゃくちゃにするということさえ、彼らにはすでに見えていない。
 そのタイミングで、玄関のドアを開ける者がいた。
「おや、朝からずいぶん暑苦しい顔がそろってるもんだ」
 彼らに比べて、細身できれいな身なりの男性が目を細める。
「鎌倉の兄貴!」
「おはようございますッ」
「お早いお着きで!」
 鎌倉大地の登場で、男たちは一斉に頭を下げた。
「おはよう。だが、人様のマンションで朝っぱらからそんな大声出すのはどうだろうね。もう少しおとなしくできないのかい?」
「はッ!」
 どこぞの武士のような返事で、元半グレ集団がさらに深く腰を曲げる。
 なにしろ、彼らの大半は蜆沢組と付き合いがあるのだ。組の中でも若手の台頭である大地に逆らえば、この先都内でまともに暮らしていくことは難しくなる。どこの世界にもヒエラルキーは存在していて、大地は彼らより三角形の頂点に近い位置にいた。
「そんなにかしこまることはない。今日は友人の誕生日祝いに来ている同士だろうよ。なあ、ヤス?」
「は、はい。ありがとうございます、鎌倉の兄貴」
「それじゃ私は竜児とお嬢ちゃんをしばらく外に連れ出すから、その間に飾り付けとケーキの準備を頼んだよ」
 優雅な声音で告げると、大地はスーツの内ポケットから出した長財布を開く。そこから一万円札を数枚抜き取り、カウンターに置いた。
「これで、きちんとした準備をするように。もしケーキが失敗したら、お嬢ちゃんが好きそうな女の子向けのバースデーケーキを買いに行きなさい」
「ありがとうございます、兄貴」
 大地の口調がどうにも時代がかっているのは、彼が上京したてのころ、世話になった組の幹部の影響らしい。ちなみにそのときの幹部が、今の蜆沢組組長である。地方出身だった大地は、方言を隠すためにも親父の口調を真似している――というのは、彼をかわいがる組長が吹聴して歩いている実話だ。
「あっ、鎌倉のおじさん! おはよーございますっ」
 パジャマから洋服に着替えた未亜が、ぱたぱたと駆けてきて大地に両手を伸ばす。
「おはよう、お嬢ちゃん。どれ、少しは大きくなったかい。おじさんに抱っこさせておくれ」
「うん! みあ、大きくなったよ」
 未亜を抱き上げる大地は、手慣れた様子で。
「ほほう、これはたしかに大きくなった。だが、まだまだ竜児にはかないそうにないねえ」
 そう言って笑う。
「……そりゃそうっすよ、大地さん」
 黒髪に、未亜とおそろいのボンボンのついたヘアゴムでちょんまげを結った竜児が、眠そうな顔をこすりながら姿を現した。
 長身に筋肉質の体は、未亜がちょっとやそっと成長したところで敵いはしないだろう。
「そうなの? ねえ、鎌倉のおじさん、みあは大きくなってもりゅうじに勝てないの?」
「ったりめーだろうが、おまえは一生俺様には勝てねえんだよ」
「えー、やだやだ、みあ、りゅうじより強くなりたいっ」
 大地にぎゅっと抱きついて、未亜が無茶な願望を口にする。
「そうかいそうかい、だったらたんと食べてうんと体を動かして、ようく寝るといい」
「そうしたら、りゅうじより大きくなる?」
「なれるかどうかはお嬢ちゃん次第さね。努力にまさる才能なし。今から鍛えれば十年後は、どうなっているかわからないだろうよ」
 十年経つころには、竜児より大きく強くなりたいなんて思っていたことも忘れてしまいそうな少女の頭を、大地は優しく撫でた。
「さあ、それじゃ準備をして出かけよう。今日は遊園地へ行くんだったかい?」
「うんっ」
 床に下ろされた未亜が、満面の笑みで大きくうなずく。
 誕生日は、まだ始まったばかりだ。

♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪

 しかして一行は遊園地へ――
 行かなかった。
 寝起きの悪い竜児が、やっと着替えを終えて玄関を出ると雨が降り出したのである。
「それにしても、お嬢ちゃんはずいぶんと聞き分けのいい子どもだね」
 大地の高級外車の後部座席にチャイルドシートが設置されているのは、なんだか違和感がある。だが、未亜を乗せるためだけにチャイルドシートを準備してくれるのだからありがたい。
「しかたないよ。雨がふってたら、りゅうじが風邪をひいちゃうかもしれないもん」
 そう言いながら、未亜はやはりどこか残念そうだ。
 ――弟がこのくらいの歳のときは、もっとわがまま放題だった。
 車窓に当たる雨粒を眺めながら、竜児はわがままの言えない未亜を不憫に思う。
 四歳で両親を亡くし、頼りの親戚からは厄介者扱いをされ、血縁のない自分と暮らすことになった少女。
 いつだって気丈に振る舞っているが、未亜にはもっとわがままを言ってもらいたい。短い子ども時代を、我慢ばかりして過ごさせるわけにはいかないのだ。
「あのなあ、俺よりおまえのほうが風邪を引きやすいだろ」
「ちがうよ。こないだだって、りゅうじは咳コンコンだった。みあよりりゅうじのほうが、風邪ひくよ」
「あれはタバコの吸いすぎだから風邪じゃねえ」
 未亜と暮らすようになった当初、竜児は室内の換気扇の下でタバコを吸うことにした。けれど、どうしたって室内に煙の香りが残る。それで今度は、ベランダに出て喫煙することにした。就寝前後は、パジャマで外に出ることもある。エアコンの室外機が風を排出するのがちょうど体に当たり、真冬は寒くて仕方がない。
 ――やめるに越したことはねえんだけどな。
 わかっていても、そう簡単にやめられないのが習慣であり中毒である。
「あのねえ、鎌倉のおじさん」
「うん、なんだい」
 助手席に座る大地に、未亜が声をかけた。
「みあねえ、髪の毛のゴムがほしいの。おたんじょうびプレゼントは、それがいい」
「欲のないお嬢ちゃんだ。もっとほかにほしいものを言ってごらん」
「ううん、髪の毛のゴムがほしい。あっ、りゅうじのぶんも!」
 最近の未亜は、竜児の髪を自分とおそろいのゴムで結ぶことに凝っている。こんなでかい図体の男が、愛らしい髪ゴムでちょんまげを結ったところで、似合うはずもないのだが。
「ほお、竜児のぶんもねえ」
 バックミラー越しに、大地が意味深なまなざしを向けてくる。
「大地さん、言っておきますが俺の趣味なわけじゃないですよ」
「そうかい? 案外、やってみると楽しいものかもしれないじゃないか、女装ってものは」
「じょっ……!?」
 髪を結ぶだけの話が、ずいぶんと飛躍するものだ。
「じょそー? じょそーってなに、おじさん」
「女装というのは、女の装いと書くんだよ。つまり、竜児がお嬢ちゃんと同じようにスカートを――」
「あー、あーあああーあー、本日は晴天なり、本日は晴天なり!」
 これ以上言わせまいとして、竜児は車内で声を張り上げた。ハスキーボイスがど迫力のマイクテストをお届けする。もちろん、マイクなどない。
「りゅうじ、うるさいよ」
「おまえさん、私の鼓膜を破る気かい?」
 ふたりから同時に睨まれて、本日二十七回目の誕生日を迎える男は黙るほかなかった。

♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪

 遊園地には行けなかったけれど、大地の機転で水族館へ連れていってもらった未亜は、ご機嫌で三軒茶屋のマンションへ戻ってきた。
 ご所望のヘアアクセサリーは、水族館限定販売のイルカのゴム。水色のイルカを早速髪につけ、未亜は嬉しそうだ。
「りゅうじ、はやくー」
 玄関ドアの前で、未亜がぴょんぴょん跳ねる。イルカのついたツインテールが、元気いっぱいに揺れていた。
 ――そういや、あのボロアパートに住んでいたころも、よくこうやって髪を揺らしていたな。
 ひとりで延々と右手と左手のじゃんけんをしていた姿を思い出し、なぜあんな遊びを何時間もやっていられたものか不思議に思う。考えてみれば、なかなかシュールな遊びではないか。
「準備はできているそうだ」
 小声で大地が告げる。
「ありがとうございます」
 同じく小声で、竜児は頭を下げる。
「りゅうじー」
「わかったわかった、そんなに急かすなよ」
 鍵を手に、竜児は目尻をいつもより下げて玄関ドアに向かった。
 そして、いつもと同じく鍵を開けるとそこには――
「お誕生日おめでとう、未亜ちゃん!!」
 重なる破裂音と、紙テープの吹雪。
 未亜はびくっと硬直し、それが何かすぐに理解する。
「わあ……っ! クラッカー? ねえ、それクラッカー? すごい、お部屋にいっぱい飾りがある!」
 壁という壁にかわいらしい飾り付けがされた中を、未亜は目をまんまるくして歩いていく。
「未亜ちゃん、これはオレからのプレゼント!」
「ありがとう!」
「未亜ちゃん、俺のもすげえよ。なあ、開けてくれよ」
「ありがとう、ヤスくん!」
「でかさだったらこっちが最強だぜ。未亜ちゃん、見ろよこれ」
「おっきい! ありがとう、トモくん」
 むくつけき男どもに囲まれて、未亜は天使の笑みを浮かべた。
「ねえ、りゅうじ、見て! ケーキもあるよ。すごいの、みんなが作ってくれたんだよ!」
「ああ、すげえな、こりゃ」
 朝から台所を粉まみれにして奮闘していたのは、このためだったのか。
 竜児は、悪友たちの手作りケーキに目を細める。
「イチゴがいっぱい!」
「ロウソクを立てような、未亜ちゃん」
「トモ、おまえわかってねえな。こういうときは、キャンドルって言うんだよ」
「なんでも英語にすりゃいいってもんじゃねえだろ」
「えっ、ロウソクって英語じゃねえの……?」
 バカばかりだが、気のいい奴ら。
 その中心で、皆のアイドルの未亜がにこにこしているのを見ると、竜児は目頭が熱くなるのを感じた。もちろん、泣きはしない。泣きはしないのだが、それでもぐっと胸にこみ上げるものがある。
 ああ、よかった、と彼は思った。
 あの日、未亜の伯母であるえり子に頭を下げ、毎月ラクではない中でも約束の十万円を振り込みつづけたことには意味があったのだ。
 こうして、未亜が幸せそうにしているのを見ると自分のしてきたことを実感できる。
「おまえさんは、よくやっているよ」
 ぽんと大地に肩を叩かれて、「ありがとうございます」と竜児は頭を下げた。
 子どもにとっての一年は、大人にとっての一年とはまるで意味が違う。時間の流れる速度は同じはずなのに、それを感じ取る感受性が違うのだろう。
 ――頼むから、いつまでも笑っていてくれよ。じゃねえと、おまえの両親が心配してバケて出てくるかもしれねえからさ。
「りゅうじ、りゅうじもいっしょにロウソク消そうよー」
「ああ、そうだな」

 それは、四月一日のこと。
 嘘偽りなく、幸せに彩られた時間を共に過ごした。
 ケーキのスポンジは乾燥した高野豆腐のように硬かったけれど、そんなことも笑い話だ。
 二十七歳と六歳の誕生日も、二十八歳と七歳の誕生日も、その先も、そのずっとずっと先も。
 竜児は、未亜と誕生日を一緒に過ごす。
 たぶん、どちらかの人生が終わるまで。あるいは、世界が終わるまで。