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第一話 Episode.0

 ――痛ェな、ちくしょう……
 夜でも明るい渋谷のセンター街からほど近くても、ビルの裏手には月明かりさえ届かない。
 中華料理屋の入ったビルの裏、ゴミ袋に体をあずけた海棠竜児(かいどうりゅうじ)は星のない空を見上げる。
 傷んだ金茶の髪は、自分でブリーチを繰り返したせいで十七歳にしてはパサつきが目立っていた。だが、それよりも血にまみれて左まぶたの腫れた顔のほうが痛々しい。鼻も口も血で汚れ、呼吸をするだけで胸が痛かった。
 かつての真面目だった自分がこんな姿を見たら、すぐに逃げ出したのではないだろうか。それとも、真面目ゆえに即座に警察に通報したかもしれない。なんにせよ、高校入学当初の竜児を知る者は彼が二年後にこんな生活を送るとは思わなかったはずだ。
 幼い弟の事故死により、海棠家は完全に壊れた。
 まだ、たった九歳だった。
 いつも竜児の真似をしたがり、あとをついてきたがった、小さな弟。
 ここしばらくは、思い出すこともなかったのに。
 死ぬような怪我を負ったわけでもあるまいに、なぜだか今夜はやけに感傷的になる。
 竜児は、高校二年生になってから来る日も来る日も放課後になると渋谷に繰り出していた。学校の中にいると、息が詰まる。制服を校則どおりに着こなして、教師の言うことに従順な受験戦争の戦士たち。彼らからすれば自分はただのはみ出し者だが、ここにいれば仲間と会える。
 ゲームセンターにたむろし、誰かのバイト代が入ったといえばカラオケに行き、金のない日は街なかをぶらついてケンカの花を咲かせる毎日が楽しいかといえば、それも違っていて。
 だが。
 そうすることでしか発散できない何かが、いつも竜児の内側をくすぶらせていた。
 今夜も、そんなどうでもいい一日が終わる。
 ケンカ上等とはいえ常勝なわけでもない。袋叩きにされて、路地裏で鼻血にむせ返るのもそう珍しいことではなかった。ただ、ケンカの相手が仲間だと思っていた男だったことが、いつもとは違っていた。さらには、ケンカを吹っかけられた理由が竜児にはまったく思い当たらない女を奪ったと言われたこと。反論するのも面倒で、殴り返した。相手が違っても理由が違っても、やることは同じ。その程度のこと。
 仲間なんて、こんなものだ。暇を持てあました彼らの日常には、火花が散りやすい。
 頭ではわかっている。感情もそれなりに追いついている。
 それなのに、妙に胸の内側がひんやりと冷たかった。誰かに期待する人生なんて、とうに投げ捨てたつもり――そんな達観の域は、十七歳にはまだ早すぎる。
「……おや、先客かい」
 そこに、唐突に男の声が聞こえてきた。
 どこか時代がかった物言いに、年配の男を想像した竜児だったが、目に入ったのは不思議な雰囲気のある若い男だ。
 宵闇にまぎれて、色白の顔は青みがかって見える。その口元が、時折ぽっと明るくなるのは彼がタバコをくわえているせいだった。所作がしなやかで、足音さえもどこか軽やかに聞こえる。
「悪いが、ここは私の気に入りの場所なもんでね」
 歌うような口調で、男はゴミ袋に埋もれそうな竜児に近づいてくる。
 悪いが、と前置きするからにはどこかよそへ行けと言いたいのかもしれない。だが。
「――どけって言われても、動けねえよ」
 かすれた声で返事をすると、すぐそばまでやってきた男は切れ長の目を瞠った。
「そりゃ、ボロ雑巾みたいになった野良犬に向かってどけなんて私だって言いやしないから安心おし。ただちょっと、同じ空を見せてもらう断りを入れただけさ」
 見るからに仕立てのいいスーツは、二十歳そこそこにしか見えない男が着るには不自然なスリーピース。白くすべらかなひたいと柳眉に、オールバックにした黒髪がひとすじこぼれている。乱れたのではなく、最初からそうしてセットされたのであろう美しい造形に、こんなときだというのに竜児は息を呑んだ。
 だが、同時に血も飲み込んでむせ返る。
 ――こんなところで夜空を見上げるだなんて、コイツ、イカれてやがる。
 酔狂というにも奇妙なもので、ビルとビルの隙間のようなこの場所には月明かりが届かないどころか、見上げたところで空には雲も星もない。ただ張り巡らされた黒の天井を見るのと、なんら相違ない景色が広がっていた。
 ボロ雑巾だの野良犬だの、好き放題言われているというのに、竜児は相手の男に反論する気にはなれなかった。タバコを挟む左手の指は優雅だが、この男は只者ではない。手首に光る重厚感のあるブランド物の時計は、腕時計の善し悪しなどわからない竜児ですら知る有名ブランドである。
 彼は、手にしていたミネラルウォーターのペットボトルを気まぐれにこちらに差し出してきた。
「……?」
「飲みな。毒なんか入っちゃいない」
 本音を言えば、すぐに受け取って喉を潤したい。
 なんならついでに、汚れた手や口元を洗い流したいくらいだ。
 いつもの竜児なら、見知らぬ相手から差し出された飲み物なんて決して受け取りはしないのだが、今夜はひどく疲れていた。
「どーも」
 遠慮なく、受け取ったミネラルウォーターの封を切る。毒を入れるどころか、まだ未開封だった。
 ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲むと、頭の中が少しすっきりしてくる。同時に、殴られて切れた口の中が痛い。
「なんだい、ずいぶんおとなしい犬じゃないか。それとも、殴られすぎて吠え方も忘れちまったのかい」
 軽く顎を上げて目線だけをこちらに向ける男が、ふっと唇に笑みを浮かべた。
 その瞬間。
 背筋に、ぞわりと嫌な電気が走った。
 まるで刃物をつきつけられてでもいるような不安感に、竜児は奥歯を噛み締めて男を睨み返す。黙っているからといって、牙がないわけではないのだと虚勢を張った。悲しいことに、虚勢が精一杯なのだ。先のケンカで体のあちこちがきしみ、指一本動かすのすら億劫になっている。
「お、俺は犬じゃねえ」
 かろうじて絞り出した声が、無様に震えていた。
「そうかい。あんまり慌てて水を貪るから、飢えた野良犬かと思ったがね。そんならボウズ、名前は?」
 五歳と離れていないだろう相手に、今度はいきなりボウズ呼ばわりである。しかし、不思議なことにその男には年齢や性別といった枠を超えた何かがあるように感じた。こんな場所で、こんなふうに声をかけられるだなんて、そもそも始まりからして珍妙に過ぎる。
 やばい相手に名前を教えるのをためらうと、男は紫煙をふうと長く吐き出して、肩をすくめて見せた。
「つっかかってくるわけでもない。だが、容易に名を明かすほどバカでもない。なかなかおもしろいワンコロじゃないか」
 再度、犬ではないと否定する気持ちも薄れ、竜児は血で濡れた口元をぐいと拭う。
 体はまだ重く、殴られた部分は熱を持っていたけれど、いつまでもこの奇妙な男といるのも癪に障る。無理をして立ち上がろうとすると、少しばかり足元がふらついた。
「おっと、何もそんなに急いで逃げなくてもいい。たまには夜空でも見上げてゆっくりしておいきよ」
「見上げたところで、何もねえだろ」
「何もない、ねえ。だが、在るも無いも見方次第というもんだ。存在なんてものは、観測されない限り存在しないものでしかないと言うだろう」
 禅問答のような物言いに、煙に巻かれそうな気配を感じる。だが、こんなところで素性も知らない男を相手に什麼生(そもさん)、説破(せっぱ)なんてやりたくもない。
 何しろ、この男は美しい顔をしてひどく冷たい印象がある。
 言うなれば、悪魔のような闇を背負って見えるのだ。
「行くあてはあるのかい?」
 男が静かに問いかけてくる。
「あんたに関係ねえ」
「それもそうだ。だが、こうして話したからには見知らぬ仲というわけでもあるまい。寝場所に困るほど追い詰められたときには、私のところに訪ねておいで。犬の一匹や二匹くらい、飼ってやる余裕はある」
 すっと差し出されたのは、触れたら手が切れそうなほどの白い名刺。
 そこに書かれた名前は――
「っっ……! あんた、鬼神の……っ」
 蜆沢組の鎌倉大地(かまくらだいち)といえば、このあたりで遊ぶ悪い連中なら誰もが知る有名人だ。
 女形のように美しい顔をして、穏やかな口調で笑みを絶やさずに、それでいて自分の倍もある筋肉ダルマを相手を素手で殴り倒すと噂の『鬼神の大地』。
「なんだい、こんなボウズにまで私の名は知られているのかい。こりゃ驚いた。ずいぶんと有名になったもんだ」
 さも楽しそうに笑う男は、たしかに話に聞く鎌倉大地の姿に相似している。事実、名刺まで出してきたからには本物だろう。
「――さて、そろそろ来るころか」
 ポケットから取り出した携帯灰皿でタバコをもみ消し、大地が軽く首を鳴らす。
 いったい、何がそろそろなのか。竜児にはさっぱりわからなかった。だが、わからなくとも足音と男たちの声は聞こえてくる。
「おい、そっちだ!」
「鎌倉のクソ野郎、コソコソと逃げ隠ればかりしくさって!」
「うちの兄貴の女に手を出して、ただで済むと思うなよ!」
 ドタバタと、アスファルトをかけてくる男たちの足音。それは、先ほどの大地の優雅で軽やかな足音とはまったく違っていた。
「騒がしくして悪いね。巻き込まれたくなかったら、ゴミ袋でもかぶって――ああ、いや、もう遅いようだ。下がっていなさいよ」
 スーツのジャケットを脱ぐと、大地はそれを惜しげもなくゴミ袋の山に投げ捨てる。
「鎌倉ァ! 見つけたぞ!」
「はいはい、鬼ごっこはそろそろ終いだ」
 女を取った取られただなんて、ヤクザも高校生と同じような理由でケンカをするとは。
 ――いや、俺は取ってねえけど。
 手に手に木刀やら特殊警棒やらバットやら、物騒なものを持った派手な柄シャツの男たちが大地に突進してくる。
 『鬼神の大地』の噂は真実なのだろうか。
 逃げようと思えば逃げることもできなくはなかったが、竜児はささやかな好奇心に負けてその場に立ち尽くした。
「ワレェ、誰の女に手ェ出しとんじゃ!」
 ひどい巻き舌である。
「さてね。私は手も足も出した覚えはないけれど――」
 ベストを着た大地の背中に、先ほどまでは見えなかった月が細く光を落とした。
 ひと呼吸置いて、それまでとは違う低い声で大地が言う。
「きさんらに追い回される筋合いなんかねえんじゃ。くらすぞ、コラァ!」
 相手が多勢だというのに、大地は先に蹴りを繰り出した。電光石火。長く細い脚が、手前にいたバットを握る男の胸元に正面からハイキックを決める。
 そこからは、罵声と怒声と悲鳴と肉を殴る蹴るする鈍い音が不協和音を響かせた。
 武器を持った複数の男を相手に、大地は一歩も譲らない。それどころか、しなやかな動きで相手の獲物をさっとかわしては、隙だらけの脇腹に重いパンチを打ち込む。いったい、あの体のどこにあんな力があるというのか。
 人数差を考えれば、リンチ状態でもおかしくないはずだったのに、数分とたたずに男たちのほとんどはのされてしまった。
「く、クソ……っ……、鬼神の……大地……」
 倒れた男が、手にしていたバットを地面に投げ出す。それが、竜児の足元まで転がってきた。
 何の気なしにそれを拾い上げる。あるいは、無意識のうちに自分に火の粉が降りかかったときのため、用心していたのかもしれない。
「やれやれ、思ったより手間取った。怖がらせて悪かったね、ボウズ」
 振り向いた大地が、返り血の飛沫をワイシャツの袖に散らして笑う。
 鬼でもなく、悪魔でもなく、鬼神。
 なぜこの男が、そう呼ばれているのかわかる気がした。
「いや、俺は別に――」
 そう言いかけて。
 大地の向こうで、ゆらりと動く影を見た瞬間、竜児は反射的に手にしたバットを振り上げていた。
「このままで済むと思――グボッ」
 殴るには距離がありすぎる。即座にそう判断した竜児が、バットを思い切り投げつけて、それが木刀を手にした男の顔面にクリティカルヒットしたのである。
「なんだい、負け犬の遠吠えくらい最後まで言ってから沈みゃいいものを」
 クックッと喉を鳴らして笑うと、大地が倒れた男の背中を踏みつけた。
「どこの女を寝取られたと勘違いしたか知らないが、私は惚れた腫れたにゃ疎いんだ。おおかた、そっちの兄貴分が勘違いしたんだろうよ。それでも気が済まないってんなら、うちの組がやってる店で接待してやろうじゃないか。おまえさんたちの兄さんにそう伝えな」
 大地は言いたいだけ言うと、竜児が投げつけたバットを拾ってこちらに放ってくる。
「うわっ」
 思わずそれをキャッチして、体の痛みを思い出した。
「それはおまえさんの戦利品だよ。まったく、こんなボウズに助けられるだなんて私もなまったもんだねえ」
「……あんた、俺が何もしなくたって余裕で勝ってただろ。一発くらったところで、百倍は返しそうだし……」
「さてね、いつどこでくたばるかなんて、わかったもんじゃない」
 ゴミ袋の山に放っていたスーツのジャケットを拾うと、大地はそれに鼻を近づけて顔をしかめた。
「ひどいにおいだ。こりゃ、クリーニングに出さないと袖を通せそうにないねえ。ってことは、おまえさんも――」
 バットを抱いた竜児に、大地が顔を寄せてくる。
 肩口を、くんと嗅いで。
「野良犬どころか、それじゃ歩く生ゴミだ。おまえさん、そんな格好で渋谷を歩いたら臭害でとっ捕まるよ」
 そう言いながらも、大地は楽しそうに笑っている。
「仕方ねえだろ。俺だって好きでゴミに埋もれてたわけじゃねえ」
「口の悪い犬だねえ。どれ、ついてきなさい。着替えと餌くらい、褒美にくれてやる」
「おい、あんた、俺は――」
「あんた、だと?」
 冷たい目で睨めつけられ、竜児が息が止まりそうになった。
「……か、鎌倉さん」
「はっは、そんなかしこまりなさんな。私は大仏じゃないんだから、名前で呼んでかまわないよ」
「じゃあ、大地さん、俺は犬じゃねえし、餌なんて……」
「若いもんが遠慮するんじゃないよ。ああ、それにしても臭い。おまえさん、名前がないなら生ゴミって呼んでいいかい?」
「っっ……! 誰が生ゴミだ。俺は竜児、海棠竜児ってんだよ!」
「そうか、そんじゃ竜児。さっさとついてきな」
 右肩にスーツのジャケットをかけて、鬼神は倒した男たちを平然と踏んで歩いていく。
 その背中を前に、十七歳の少年は。
 ペットボトルとバットを左右の手に提げて、駆け出した。
 どこからともなく姿を現した半分の月が、竜児の世界を照らしている。
 何もない、夜のはずだった。
 いつもと同じ一日が終わるはずだった。
 けれど。
『在るも無いも見方次第というもんだ』
 大地の言葉を思い出し、竜児は鬼神のあとを追いかけていく。
 そうして、海棠竜児は鎌倉大地と出会った。
 のちに二十五年以上ものつきあいになるとまでは、このときのふたりはまったく思いもよらなかったけれど――