白くて甘くて苦くてせつない。
綾崎玲奈は目を瞠った。
次の瞬間、これは勘違いだと自分に言い聞かせ、彼女は着かけていたワンピースをいったん脱ぐ。
白いシフォン地は胸元にたっぷり生地を使い、胸の下をサテン素材のリボンで軽くしぼるデザインで、つい先日恋人がプレゼントしてくれたものだ。
「今のは何かの間違いよ。そう、もう一度着ればきっと……」
現実から目をそらし、彼女は胃のあたりに力を込める。少しでも胸を引っ込めようというむなしい努力だが、残念なことにやはり先ほどと同じ現象が発生した。
つまり、ワンピースが胸の上で引っかかってしまうのだ。
姿見の前に立ち、玲奈は無様な自分を凝視する。
この日のために準備した、純白のレースたっぷりのブラジャーとショーツが丸見えで、何度も引っ張ってみるがボリュームのある胸は引き絞られたリボン部分を通過できそうにない。
――せっかくカオルが買ってくれたのに、着られないなんて!
体をよじったり、胸を手で押しつぶしたり、ひどく珍妙な格好でなんとかワンピースを着る努力を続けた十分後、玲奈はひたいに汗を浮かべて唇を噛んだ。
ワンピースを脱ぎ、彼女は両手で髪をぐしゃりとかき上げる。
「あああああ、もう! なんで!?」
付き合いはじめてすぐに同棲することになったふたりが、今夜は珍しく外で待ち合わせてデートの予定だというのに、彼のプレゼントしてくれたワンピースはどうあっても玲奈の胸を拒絶するつもりのようだ。
忌々しい気持ちで胸元の双丘を見下ろすと、新品のブラジャーが頑丈なワイヤーで胸を押し上げている。別段、寄せて上げる必要のない胸ではあるが、少しでも美しいかたちに見えるよう選んだ人気のインポートブランドの高級ブラジャー。
しっかりと胸のかたちを整えるということは、同時にそれなりの硬度であることに通ずる。
「……そうよ、そうだわ。これさえなければもしかしたら!」
背中の三段ホックをはずし、勢いにまかせて彼女はブラジャーを床へ放った。二万六千円を投げ捨てたあとは、脇目もふらずワンピースを頭からかぶる。
カップがなければ、そしてワイヤーもなければ、胸など所詮は脂肪でしかない。
ぐいぐいと柔らかな脂肪を押しつぶすこと二分、玲奈は満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、ふふふふ、やればできるのよ、やれば」
姿見に映る彼女は、ふんわりかわいらしく、それでいて大人の甘さを感じさせる白いワンピースを完全に着こなしている。
問題はノーブラであるということなのだが、いかんせんブラジャーをつけていては着られないというのなら仕方があるまい。
幸いなことに裏地もしっかりしたワンピースなので、ぱっと見で下着をつけていないことはわからないはずだ。
――あとはカーディガンとスプリングコートを羽織れば平気よね。
時計を見ると、カオルとの約束の時間まであと三十分をきっている。
玲奈は急いでストッキングをはき、洗面所へ向かった。
あとはメイクをして、カオルがプレゼントしてくれた白いオープントゥのパンプスで出かけよう。
今ごろ、大手出版社で打ち合わせ中のカオルは、この格好を見たらどんな顔をするだろうか。天使のような微笑みを浮かべるか、喜びのあまり街なかで抱きついてくるか、それとも――
幸せに胸を膨らませ、彼女は急ぎしたくを整える。
♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪
土曜の夕暮れ、大江戸線を六本木駅で降りると、改札を出たところで愛しい恋人が手を振っている。
「玲奈さーん、こっち」
そんなに声をあげなくとも、玲奈だってすぐに彼の存在を見つけた。どこにいても、誰といても、きっとカオルにだけは気がつく。
それは、彼を愛しているからなどという単純な理由にも起因するが、それ以上にカオルが並外れた容姿の持ち主であることも関係するだろう。
「ごめんね、待った?」
彼の目の前に立って尋ねると、やわらかな黒髪を揺らしてカオルがふるふると首を横に振る。
今日の彼はいつもの白パーカーではなく、桜色のアシンメトリーなロングカーディガン。中に着た薄いレモンイエローのシャツと、ダークブラウンのパンツのせいもあって、かわいさ百倍というところか。
「ワンピース、着てきてくれた?」
左手を差し出し、カオルがにっこり微笑む。長めの袖口は指の付け根まであり、親指だけが袖脇の指穴から出るデザインになっている。着る人を選ぶ服だと思うが、カオルにはそれがよく似合うから不思議だ。
「もちろん、着てきたわ」
――ブラはつけられなかったけどね!
何事もなかったふうを装って、玲奈は彼の手をとる。
「でも、思ったより今日は寒いみたいね。食事、屋外ラウンジで食べるんでしょう? 家に帰るまでワンピースは見せられないかも」
前もって準備しておいた言い訳を先に口にして、彼女は防衛線をしっかりと張り巡らせることに余念がない。
さすがにノーブラでコートを脱ぐのははばかられる。誰が気にしないとしても、誰も気づかないとしても、玲奈自身が恥ずかしいのだ。
「でも、食事までまだ時間があるから、少しゆっくりしない?」
「ゆっくり……?」
彼の言葉を聞き返し、玲奈は片頬をひきつらせる。
たとえば喫茶店でお茶を飲むことになった場合、あたたかい室内でコートを脱がないのはいささかおかしく見えるだろう。
――でも、これから食事だっていうのにお茶はしないわよね。映画も時間的にムリだし、せいぜい書店で新刊チェックとか?
本好きの玲奈の恋人は、なんといっても人気作家の玖珂駆人なのだ。お互いに読書を趣味とするため、連れ立って書店をめぐるのは珍しくない。
「最近、お互い忙しかったし、この近くのリラクゼーションサロンのストレッチコース予約しておいたんだ。三十分だから、食事にも間に合うよ」
つなぐ手にきゅっと力を込めて、カオルが嬉しそうにそう言った。
「えぇっ!?」
反対に玲奈は絶望的ともいえる声をもらし、足を止める。週末の六本木駅は人が多く、改札付近で立ち止まるのはいい迷惑だというのに。
「ちょ、ちょっと今日は……ほら、だってせっかくワンピース着てきたのに! ね!」
「着替えは貸してくれるから平気だよ?」
「そっ……それは、そうなんだけど……っ」
玲奈とてリラクゼーションサロンは大好きだ。彼と暮らすようになってからは、愛のこもったマッサージをしてもらう日々だったため、最近はあまり行った覚えがないが、もとはそれなりに常連だった。
だからこそ知っている。
施術の際には、サロンで準備しているシャツとパンツに着替えるのだ。オイルマッサージコースの場合には、紙パンツだって抵抗なく穿く。
――でもストレッチコースってことは、たぶんTシャツとショートパンツよね……。
ノーブラの玲奈にはあまりにハードルが高すぎる。
「きょっ、今日はカオルとふたりで桜を眺めてゆっくりしたいなあ!」
声が裏返りはしないかと不安だったが、真意を隠した声は驚くほどに棒読みで、逆に後ろめたい気持ちがあるのがバレバレである。
「ミッドタウンの桜を見るのは、食事のときでもいいんじゃない?」
しかし彼は気づいているだろうに、意見を曲げない。普段は玲奈の気持ちを何より優先してくれるカオルにしてはらしくないことだが、動揺しきった彼女にはそれすらもわからない。
「ふたりで手をつないで歩いたりとか!」
「でも、ライトアップされるんだし、夜桜を楽しもうよ」
「明るいのと暗いのと、両方堪能したいし!」
言ってから、すでに日暮れ時を過ぎていることに気づくも、玲奈にはほかに理由が見つけられなかった。
「あ、そろそろ予約の時間だから急ごう?」
結局、彼女の意見に耳を貸さず、カオルが玲奈の手を引いて歩き出そうとする。
「~~~~カオル、カオルくんっ、カオルさまっっ!」
年下の恋人に、彼女はすがる思いで呼びかけた。
「ハイ、行けない理由があるならちゃんと教えてくださいね、玲奈さん?」
天使の笑みの下には、玲奈ごときにははかりしれない何かが渦巻いている。
彼の手のひらの上で転がされ、それでも玲奈は頬を赤らめて口を開いた。
「し……下着を……つけていないので……」
今度はカオルが息を呑む番である。
彼もいくつか理由を考えてはいたのだろうが、待ち合わせをした恋人が下着を着用せずにやる気満々意気揚々と現れるとは思いもよらないはずだ。
「え、えっと、どうしてつけてないの?」
それでもなんとか平静を装って、カオルが問いかけてくる。
――胸が入らなかったなんて言いにくいし、説明したところでわかってもらえるかあやしい!
だが、そういう趣味の人だと思われるのも困りモノだ。
「諸事情により、着用できませんでした……」
言いにくいことがあると、人間はなぜか敬語になる。
うつむいた玲奈をそっと引き寄せて、カオルが背中に腕をまわしてきた。
「そういうプレイが好きとかなら、協力するけど」
「違う! そんなんじゃないから!」
案の定、誤解されかけたことに玲奈は慌てて否定する。そもそもつけていないのはブラジャーだけであり、それもやむにやまれぬ理由があってのことだ。
「つけてないって、上も下も?」
「……下はつけてるわよ」
「ちょっと失礼」
ぐいっと強く抱かれて、胸と胸が密着する。
いつもならばこういう場合、ブラジャーのカップがある程度の防波堤となってくれるのだが、今日の玲奈は完全なる丸腰だ。
彼の胸板に押しつけられた双丘が、ふにゃりとやわらかくかたちを変える。
「あ、ほんとだ」
「だから言ってるでしょ! リラクゼーションサロンはムリ!」
「でも理由は教えてくれないんだよね?」
「今ここでは言いにくいだけなの。あとで、家に帰ってから説明するからっ」
こんなところでバカップルよろしく抱き合っているふたりを、通りすがる人たちが冷めた目で見つめているのがわかる。
――もう、せっかくのデートなのに、どうしてこんなことになるワケ!?
今さら胸を恨んでも仕方がないけれど、こんなときには必要以上に膨らんだ胸にうんざりもする。
「……え、カオル、ちょ……っ」
そろそろ離れようかと様子をうかがっていた玲奈の胸元に、信じられない感触があった。
「一応、確認させてね」
「っっ!? か、確認ならもうしたでしょ!」
「ちゃんとさわって確認したいんだよ」
左腕で玲奈を抱き寄せ、右手をひそやかに胸元に這わせる。
路上で、しかも駅前で、なんたる破廉恥なな行動だろうか。
「やめ……っ」
「ヘンな声だすと、周りの人に見られちゃうかもしれないよ? おとなしくしてて」
コートのボタンを片手で器用にはずすと、カーディガンをかきわけて、カオルの右手がワンピースの胸元をまさぐった。
決していやらしい手つきというわけではないのだが、好きな相手にそんなところをさわられて、何も感じずにいられるほど玲奈はまだ枯れていない。
「うん、ほんとうにつけてないんだね。もう一度、一応尋ねるけどそういう趣味なら正直に言ってくれてかまわ……」
「違うって言ってるでしょ!」
小声ながらも怒りと羞恥と困惑と、それに一匙の快楽をにじませた声で言い切ると、今度こそ彼女はカオルから一歩離れる。
「あ、涙目になってる。ごめんね、イジワルしすぎちゃったかな」
「……カオルのバカっ」
ぷいとそっぽを向いて、玲奈は視線を空に向けた。混沌とした感情により、理由のわからない涙が浮かんでいるので、下を向いたらこぼれてしまう。
そうして涙が引っ込むのを待っている間に、背後でカオルが予約キャンセルの電話をする声が聞こえた。
――カオルだって悪気があってサロンの予約をしたわけじゃないのに、すべてはわたしの胸が悪いんだ。悪気どころか、きっと疲れてるわたしを気遣ってくれた優しいカレシなのに、あああああ、もう、なんでこうなっちゃうのよ!
考えるほどに情けなさで泣きたくなる。
思えば中学のころから、ずっと胸で苦労してきた。学年が上がるごとに更新されるカップのサイズ。母親は口に出さなかったが、ブラジャー一式を買い換えるのは出費も多かったことだろう。育つほどにかわいらしいブラジャーは減り、高校時代は着替えるときに誰にも見られないよう、ずいぶんとこそこそしていたものだ。
そして先日の後石原の一件もある。
あれとて、玲奈の胸があと3サイズほどカップダウンしていたら、起こらなかったことかもしれな――いや、それはないか。後石原に関しては、玲奈の胸はあまり関係ないに違いない。
「じゃあ、気を取り直していこうか、玲奈さん」
「え……?」
ぽん、と肩に手を置かれ、玲奈は慌てて振り返る。
特に怒った様子もなければ、玲奈の胸に欲情した様子もない、普段どおりのカオルがそこにいた。
♪゚+.o.+゚♪゚+.o.+゚♪
当初の予定にしたがって、ふたりは東京ミッドタウンの屋外ラウンジで軽くワインを飲み、ライトアップされた夜桜を見上げた。
枝を広げた桜の花と、にょっきりそびえ立つ高層ビルが不思議な空間を作り出している。以前から話には聞いていたが、初めて訪れた都心の桜の名所に、先刻の失態も忘れて玲奈は楽しい時間を過ごした。
帰る時間になっても、なんだか名残惜しくてついカオルの腕にぎゅっとしがみついてしまう。いつもの彼女ならば絶対にしない行動だ。
彼女は脳の低位機能が表層化した状態にあった。いわく、それを酒に酔うと称する。
「ほら、玲奈さん、ちゃんと歩いて。縁石に乗り上げたら危ないよ」
「やーだー、危なかったらカオルが助けてくれるもんー」
酒に酔うと説教臭くなったり、箸が転がらなくても笑いこけたり、過去の悲しい出来事を思い出しては涙を流したりするのが人間というものだが、玲奈の場合はわかりやすい幼児化現象が発生する。
「あーもう! そんな無邪気な顔して、胸を押しつけてくるとかなんの拷問ですか……」
カオルが軽くひたいに手をやるのを見て、彼女は首を傾げた。
「カオル、頭いたいの? だいじょうぶ? いたいのいたいのとんでけー、する?」
「……いらない。それより、早く部屋に帰って玲奈さんとふたりきりになりたいよ」
「うん、じゃあ競争するー?」
九段下にも春は訪れている。
ふたりの歩く夜道を、どこかから桜の香りが吹き抜けた。
しがみついていた腕を離すと、玲奈は軽やかに駈け出す。
白いワンピースの裾がひるがえり、女性らしいしなやかな足がアスファルトの上で跳ねる。
「先にマンションについたほうの勝ちね。わたしが勝ったら、カオルは今夜一晩、腕枕の刑ー!」
言うが早いか彼女はマンションめがけてまっすぐに走って行く。
「酔っぱらい相手に僕が負けるわけないでしょ。――って、ちょっと、本気でそんな走ったら危ないってば!」
夜空にかかる雲が、ぱっくりと左右に割れてさやかに月の姿を見せる。
それを見上げるカオルは、マンションの十メートルほど手前でしゃがみこんだ玲奈を抱き上げ、小さく和歌を口ずさんだ。
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空、か」
「んんー? なあにー、カオル、またむずかしいこと言ってるのー?」
「違うよ。僕たちには縁のない話だなって。夢から覚めて雲が離れていっても、僕はずっと玲奈さんと一緒にいるつもりだからね」
脱げかけていた白いパンプスが、ことんと音を立ててエントランスに落ちる。玲奈を横抱きしたまま、カオルは器用に拾い上げると、すでに目を閉じている彼女の頬に軽くキスを落とした。
「寝たふりしてもダメだから。部屋に帰ったら、ノーブラで外を出歩いた罰にたっぷりお仕置きするよ、玲奈さん?」
だけど酔いの冷めた玲奈は、白くて甘くてかわいらしいワンピースの真実に気づいて愕然とするだろう。
胸の下のリボンは、ほどいて結び直すことができるなんて、彼女はまったく知らなかったのだから。そのせいで、ノーブラ外出という珍妙な行動をとった。
きっと彼は笑って、
きっと彼女は真っ赤になって、
白いシーツの上で抱き合う春の夜。
白くて苦くて甘くて切ない、きみと過ごす幸せな時間――……