「あ」
 すき焼きが食べたい。
 仕事からの帰り道、結城真紘はひとりそんなことを思った。しかし、公判が続いて連日まともに寝ていない身体に疲労はひどく、買い物などもってのほか。今すぐにでもベッドに倒れ込みたいのが正直な気持ちだ。まわらない頭をチョコレートで必死に稼働させて、どうにかこうにか仕事を終えて帰ってきたのが、現在――午後三時を過ぎたところだった。
 徹夜には厳しい太陽の日差しに、頭をクラクラさせながら帰宅した。
「……もうだめだ。寝る」
 ドアを開けて、靴を脱ぐ。出迎えのない冷えた廊下を歩きながら、ゆるゆるとネクタイに手をかけ、思い切り引き抜いた。あとで妹の真奈美に怒られることを覚悟しつつ、真紘は身体を引きずるようにしてリビングの床の上に服を脱ぎ捨てていく。それでもシャワーだけは浴びたくて、半脱ぎのまま脱衣所に入り浴室へ。家に帰ったことで、逆に気持ちが緩んだのだろう。気づけば下着を脱ぎ忘れていた。浴室から出てぐしょりと水を含んだ下着を洗濯カゴに入れ、手早く身体を拭き、着替えた真紘は髪の毛も乾かさず、上半身裸でベッドへと倒れこんだ。
「さすがに……、二日まともに寝ないと……だめ、だ……な」
 夢の中に落ちていきながら、徹夜さまさまだと思っていた。
 ――寝付きが悪いのは昔からだった。
 理由は知らない。ただ、目を閉じてから眠るまでの時間が長いといつも感じていた。しかしそれが続けばやがて“普通”になる。あるとき、眠くなるまでの時間を有効活用できないだろうかと考えた。もったいない時間を有意義に使いたくて、眠くなるまで机にかじりついて勉強をしていたら、朝になっていたことなんてざらだ。
 いつしか、心地いい眠りなど、自分にはもったいないのかもしれないと思い始める。
「……うるせ」
 聞くに堪えないけたたましい音に、深い眠りに落ちる寸前だったまどろみを邪魔された。不機嫌に眉根を寄せ、重い身体をどうにかこうにか奮いたたせてベッドサイドのスマートフォンを手にする。ぼんやりした視界に見えたのは同僚の名前だった。
「ん」
『寝てると思ったが、起きるとは思わなかった。あれだけ徹夜したのに熟睡できないなんて、面倒な身体だな。同情する』
 心配しているのかよくわからない同僚の声に、真紘は先を促すように不機嫌に答える。
「で?」
 相手は、小さくため息をついて話を続けた。
『とりあえず、終わった』
「おう。間に立ってくれてさんきゅ」
『構わないよ。ただ』
「何か問題でも?」
『元カノに対してやることじゃないな、と』
「浮気したのはあっちだ。これぐらい安いもんだろ」
『……ときどき、女に対してえげつないというか、容赦ないよな、おまえ』
「そうでもないだろ。……女《あっち》のほうが狡猾で一枚上手だ」
『俺には、真紘のほうが女を信用していないように見えるよ』
「……」
『心配だって言ってるの、わかってるか?』
「そこまで親切に言われなくても、伝わる。ていうか、おまえらしくないじゃん俺の心配なんて」
『じゃあ寒いついでに、おまえが信じられる女が現れるのを、願ってるよ』
「寒いな。……まぁいい。あと」
『ん?』
「心配ついでに、今回の依頼料まけて」
『水増し請求してやるから、次の給料日までに指定の口座まで振り込んでおけ』
 それだけ言って、同僚は電話を切ったらしい。真紘の耳に、無機質な機械音だけが届いていた。
「……容赦ないのはどっちだ」
 ち、と小さく舌打ちをして、真紘はそのままベッドに突っ伏す。
「冗談だよ、ばーか。ゆーやの……ま、おう……」
 スマートフォンをかろうじて枕元に置くと、真紘は今度こそ深い深い眠りに入った。
 寒い、眠りへ――。

 +。+゜+。+゜+。+゜+。+

「――さん」
 誰かに、名前を呼ばれている。
 先ほどまで寒くて、冷えて、独りでいるような感覚に、寒い眠りが一瞬にしてあたたかくなる。何かやわらかいものに包まれるような優しいぬくもりに導かれるようにして、真紘は目を覚ました。
「真紘さん」
 ぼんやり見上げたところにいるのは、愛しい彼女・辻本美依だ。明るい髪を揺らし、顔を覗き込んでくる彼女の愛らしい唇から、優しい声で名前を呼ばれる。求めていたひだまりを見つけたような気になって、真紘は思わず美依に向かって手を伸ばしていた。
「え? あの、真紘さ……ッ!!」
 驚く彼女の細い腕を手にして己の腕の中に抱き込めると、真紘は甘みのある彼女の優しい香りを吸い込む。ああ、あたたかい。それは真紘に安堵を呼び起こした。
「……真紘さん?」
 耳元から聞こえたのは、心配する美依の声。真紘はここに彼女がいるんだということを実感するように、ぎゅっと抱きしめる腕に力をこめる。
 どうかしたの?
 そう告げるように、美依がおずおずと頬をすり寄せてきた。彼女のぬくもりと、かわいい声に、ここが“現実”なのだとようやく実感する。
「……美依がいない、夢を見てた」
「夢……ですか?」
「そう。美依が、俺のそばにくる前の……俺の夢」
 冷めた、寒い眠りに落ちたくなくて、いつも徹夜をしていたあのころを思い出し、孤独から逃げていた自分を知る。今、腕にしている幸せという名のぬくもりを手にするまで、そんなことすらわからなかった。
 ――俺は逃げていたんだ。孤独という寒さから。
 知らなかった自分をこうして受け入れられるようになったのも、腕の中にいる彼女のおかげだ。
「あ、ところで美依、用があったんじゃないのか?」
 彼女がこの部屋にきた理由を問いかける。しかし、返事はなかった。おかしいと思いながらも、彼女の耳元に唇を寄せるようにして、首を傾けた。
「美依?」
 吹き込んだ声が彼女に届いたのだろう。美依は勢いよく真紘から起き上がる。
「……どうかした?」
「い、いえ、なんでも!」
 首がもげるんじゃないかと思うぐらいぶんぶんと横に振った彼女は、真紘の上から慌てて退いた。もう少し幸せの重みを感じていたいと思う真紘のことなど気づいていない様子で、美依は微笑んだ。
「夕飯、できましたよ」
 その言葉に、真紘の動きが止まった。なぜ、朝食ではないのか。
 まばたきを繰り返す真紘をまだ寝ぼけていると思っているのか、美依は笑って手を差し出した。どうやら、起きろ、ということらしい。とりあえず、真紘はその手を取って起きることにした。
「真紘さん、徹夜だったんです。朝帰ってきて、そのままベッドでばたんきゅうで、私が仕事から帰ってきてもまだ寝ていたので、夕飯ができるまで起こしませんでした」
 彼女の話を聞きながら、少しずつ寝る前の状況が蘇ってくる。確かに仕事で徹夜をした。それで百合に事務所を見送られ、タクシーで自宅に帰り着く頃には空が白かったような気がする。その段階であまり覚えてないのだから、相当眠かったのだろう。それでも。
「……なんですか?」
 美依の寝顔を見て寝たことだけは記憶の片隅にあるのだから、すごい。
「もう一回」
 繋いでいる手を引いて、驚きに見開く美依を再び腕の中に閉じ込める。ふわりと舞った彼女の香りに、またあたたかい気持ちになった。やわらかな身体を抱きしめて、その首筋にくちづける。白い肌に跡をつけたい気持ちを必死に押し留めて、真紘は抱きしめる腕に力をこめた。
「あ、ああああああの、真紘さん……!!」
「だーめ、まだもうちょっと」
「でも!」
「何か問題でも?」
 美依の首筋に顔を埋めて甘えるように真紘が言うと、その答えはあらぬ方向から返ってきた。
「――問題おおありだわ、セクハラ兄貴」
 ドア付近から聞こえる冷えた声に、さすがの真紘も恐る恐る顔を上げる。美依の肩越しから見えたのは、仁王立ちの妹・真奈美だった。彼女の表情から不動明王という言葉が浮かんだが、よけいなことは何も言わずに美依を離した。
「悪い、寝ぼけてた」
「質《たち》の悪い言い訳ね」
 冷ややかな視線と笑顔を向けた真奈美は、無遠慮に部屋の中に入って美依を連れて出て行った。それを見送ってから、真紘はベッドに座ったままがっくりと項垂れると……。
「やっちまった」
 ため息混じりにつぶやいた。真紘はとりあえずベッドから下りてシャツとブラックジーンズに着替えて部屋を出る。鼻先を掠める、甘じょっぱい香りに腹が、ぐぅ、と小さく吠えた。よしよしと自分の腹に飼っている“空腹”という名のケモノをどうにかするべく腹を撫でて、リビングへと向かった。
「ああ、やっぱり」
 香りから想像していた料理を前に、真紘の機嫌が自然とよくなる。
 リビングのドアを開けたダイニングテーブルの上には、中央に大きな鍋が置かれ、美依と真奈美がキッチンとテーブルをいったりきたりせわしなく動いていた。かわいい女の子(一名身内だが、身内目にも妹はかわいい)が食卓の準備をしている光景というのは、なぜこうも幸せな気持ちになるのだろう。
「ほら、兄貴。そんなところでつったってないで、こっちこっち!」
「はいはい」
「美依ー? こっち準備できたから、早くおいで」
「今行くー!」
 カウンターキッチン越しにしている妹と美依のやりとりが微笑ましい。それを少しでも顔に出したら、真奈美からすかさず「気持ち悪い」と言われるだろう。しかしそれでもいい。幸せだと思えることが、幸せなのだと、真紘は最近しみじみ感じていた。
「――気持ち悪っ」
 もはや、思ったとおりの真奈美の反応に愛しささえ浮かぶ。
「俺のことはいいから、ほら、メシ」
 表情筋が緩んでしまうのは、あんな夢を見たせいだ、と自分に言い訳をしながら、真紘は食卓に美依が座るのを待ち、三人揃ってから手を合わせた。
「いただきます」
 声が重なった三人のあいさつがリビングに響く幸せを噛み締めながら、真紘は久しぶりに食べるすき焼きに箸を伸ばす。
「まだ早いかなーと思ったんですけど、真紘さんからいただいたお肉がすき焼き用って書いてあったので、もうこれしかないかなって思って」
「美依、それ正解。とってもおいしいー!!」
「真奈美、ほら野菜ばっかりじゃなくて、ちゃんとお肉も食べて」
「この、汁を吸ったくったくたの白菜としらたきがおいしいんじゃない!」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、メインは高級牛肉でしょ!」
 野菜にばかり手を伸ばす真奈美の皿に、牛肉をのせる美依。一瞬、唇を尖らせた真奈美だったが、美依に逆らうことはせず、そっと口に肉を運んでいった。その瞬間、いつも飄々としている妹の顔が、見る間に綻んでいったのを久々に見る。
「んっまー!! やだ、おいしい! とろける!」
「真紘さんも、早く食べないとお肉のおいしさを知った真奈美にとられますよ」
「そうだな」
 美依に促されるように、真紘もぐつぐつに煮え立った鍋の中から、やわらかな牛肉をとる。そして濃厚な卵の黄身にからめて口の中に入れた瞬間、すぐに舌の上でほどけてしまった。すぐにとけてなくなった肉の旨味に煽られて、ついつい箸が進んでしまうほどだ。
「美依、おいしい」
 喜ぶ真奈美の隣で彼女に微笑むと、美依も一緒になって笑ってくれた。たまにしか飲まないサイダーも開けて、飲んで、食べて、他愛のない話をして、三人で楽しい時間を過ごす。それだけじゃない彼女の笑顔が、すき焼きとともに真奈美と真紘に幸せを運んだ。
 楽しい食卓が終わり、真紘が美依の洗い物を手伝っているところへ――嵐がやってきた。
 例によって例のごとく、それは当然彼女のことだ。
「じゃ、酒抜けたし、いってきます!」
 美依がキッチンで洗い物をし、その隣で食器を拭いている真紘の視界で、真奈美がキャリーケースを片手に声高らかに宣言する。なるほど、だからいつもの量よりも少なかったのか、と内心納得している真紘に、真奈美がにっこり微笑んだ。
「帰りは明日の夜になるかも」
「ん、いつもの突発出張な」
「そ。――だから、酔った美依を襲ったりしないでね、馬鹿兄貴」
 笑顔でさらりと言われた内容に、時間が止まる。
 何を言っているんだ、コイツは。
 どう反応をするのが正解かわからない真紘に、真奈美は小悪魔の微笑みを浮かべてキャリーケースとともに出て行った。
 バタン。廊下の先から聞こえる玄関ドアの閉まる音で我に返った真紘は、様子を窺うために隣の美依に視線を移した。彼女は泡のついた食器をもくもくと水で流しているため、真紘から彼女の表情が見えない。それがよけいに怖いというか、なんというか。そういうことは意識せずにするものだと思っていたせいか、意識させるような真奈美のひと言《ばくだん》に、逆に意識してしまう。
 ――どうしたもんか。
 はぁ、と小さく息を吐いて、真紘はぽつりとつぶやいた。
「すき焼き」
 ちょうど洗い物が終わったのだろう。水の音がやみ、美依が布巾を手に、洗い終わった皿に手を伸ばしていた。
「……うちでは、すき焼きって“幸せの味”なんだよね。みんなで食卓を囲って、ひとつの鍋をつつきあって、今日みたいに誰かにそればっかり食べないでこっちも食べなさいって叱られながら、笑って食べる。そういう、家族の団らん? を感じられる料理なんだよね。俺と真奈美にとって」
 触れるか触れないかの距離にいる美依の肩が、ほんの少し揺れる。真紘は少しずつ、ゆっくりしゃべった。
「正直、すき焼きなんて食べたの何年ぶりってぐらい、真奈美とは食べてない」
 どうして。
 彼女の揺れた空気が、伝える。
「嫌がるんだよ。……すき焼きは、大好きな人と食べて、その人たちに好きを分ける料理だから、兄貴とふたりで食べてもつまんない、って」
 大真面目な顔して言われたときは、呆気にとられてしまったが、そのときのことは今でもよく覚えていた。真紘が見よう見まねで作ったすき焼きを前にして言った妹は、そのすき焼きを牛丼に変えてしまった。その華麗なる手際の良さに、真紘はただただ感心しっぱなしで、自分のすき焼きをどうにかされたことなどどうでもよくなっていた。
「だから、今夜のすき焼きは……そうだな、俺たち兄妹にとっては格別の味だったんだ」
 小さく揺れる彼女の肩を隣で感じ、真紘は食器を近くの食器棚に片付けて、美依の前に跪く。見上げた彼女は、涙を必死にこらえている様子で、目に涙を浮かべていた。それがまた愛おしくて、立ち上がりざま、衝動のままに美依を腕の中に閉じ込めていた。
「ありがとう」
 抱きしめた彼女の首がゆるゆると横に振ったのを感じ、苦笑を浮かべる。
「どうして」
「……だ、て……、また、私……知らなかっ……」
「知らなくていいんだよ。わざわざ伝えるようなことでもないだろ?」
「でも、そんな大事な料理だなんて……知らなくて、私無神経だったかなって……」
「ばかだなぁ。そうやって俺たちのことを想って泣いてくれる美依だから、真奈美も俺も楽しくご飯を食べられたんじゃないか。俺たちの家庭環境なんて気にせず、美依は美依でいてくれたらそれでいいんだ」
 酒のせいでいつもより体温の高い美依の背中を撫でていたが、ふいに彼女が動いた。
「真紘……さん、は、優しすぎます……ッ」
 押しのけるようにして腕の中から抜けだした彼女に、下から覗き込まれる。目元がピンクのかわいい彼女から涙目で見上げられたせいか、ぐっとくるものがあった。それでも、いやいや、と自分の心をどうにか落ち着かせて、美依に微笑む。
「そうでもないよ。前に言ったかもしれないけど、俺、そんなに優しいヤツじゃない」
「そんな、こと……!」
「考えてごらん。すき焼き用の肉をもらってきたのは、俺だ。まぁ、百合さんから美依の話を聞いた所長から押しつけられた、ってのもあるが」
「え?」
「その話はまた今度な。――で、もらってきた肉をどう料理するのかっていうのは、美依に任せてたんだよ。すき焼きを作るもよし、牛丼でもよし。どんな料理になっても、俺も真奈美もおいしく食べるつもりだったから、いいんだ」
 それでも、さすがの真紘も驚いた。時期はずれだったから、まさか本当にすき焼きを作るとは想定外だったのだ。彼女の優しさを料理から感じ、みんなで「すき」を分け合えたのだから、それはそれでよかった。みんなですき焼きを食べたかったから。
「だから、……ありがとう?」
「ん、そう」
 涙がおさまった美依の腰を抱き寄せて、耳に唇を寄せる。
「作ってくれて、ありがとう」
「……ッ」
「ここにいてくれて、ありがとう」
「あの、真紘さ」
「真奈美と出会ってくれて、ありがとう」
「……んッ」
「俺から逃げないでくれて、ありがとう」
 それから、と小さくつぶやいて、真紘は戸惑う美依を器用に抱き上げた。驚きから首の後ろに腕を回してくる美依をかわいいなぁ、などと思いながら、いつのときもふたりでいるときに座ったリビングのソファに移動する。美依を抱えたまま腰を下ろして膝の上に乗せ、まばたきを繰り返す彼女に微笑んだ。

「俺を好きになってくれて、ありがとう」

 心からの感謝の言葉に、美依の瞳が再びうるうると潤っていく。
「ごめんなさい」
 なぜ、そこで謝るのか。しかも、目に涙を浮かべて。
 いきなりの謝罪に戸惑いできょとんとする真紘を前に、美依は申し訳なさ全開で口を開く。
「わ、私、真紘さんに、そういうことを言ってもらえるような人間じゃないんです。私、ひどい女なんです!」
「美依?」
「朝帰りした真紘さんを疑ったことなんて一度もないですし、浮気をしない人だってわかってます。でも、なんていうか、こんな気持ち初めてでどうしたらいいのかわからなくて。……彼女のためにファミリータイプの部屋を買うぐらい彼女のことを愛していたのかなーとか、さっきみたいに私がいないころの夢をみて、それが彼女の夢だったのかなって思うと、ちょっと、いや、こうかなりもやもやしたりなんかして、そう思ったらさっき寝ぼけてたのも、当時の彼女のこと思い出して、私をその人と勘違いしてたんじゃないかって……少しでも真紘さんの気持ちを疑って……」
 目に涙を浮かべて訴える彼女を見ていたら、何かがキレる音がした。
「だから、ごめんなさい。私、真紘さんに好きだって言ってもらう資格――ッんぅ」
 気づいたら、しゃべる彼女の唇を自分のそれで塞いでいた。頭を固定して、腰を抱き、むさぼるように舌を絡める。彼女が息継ぎをする暇も与えないぐらい、声も吐息もすべて奪った。唇を離すころには彼女の唇が艶を持ち、ぷっくりと膨れた。半開きの唇からは甘い吐息がこぼれ、その瞳に自分を映して潤んでいる。
「好きだよ」
「……ッ」
「資格とか、そんな色気のないこと言うなよ。俺が美依を好きだって言ってるんだから、それでいいんだ」
「真紘……さん」
「正直に言うけど、俺は薄情な男だから別れてから元カノのことを思い出したことなんて一度もない。ましてや、彼女と美依を間違えたりしない。……さっきは、真奈美がいたから“寝ぼけた”ってことにしたんだ。本当に寝ぼけていたわけじゃないよ。それに」
 もう一度美依の唇にキスをして、微笑む。
「俺は今、最高に機嫌がいい」
「…………え?」
「だって、元カノに嫉妬してくれるほど美依が俺のことを好きだってわかったからね」
 真紘の言葉を聞いて気づいたのか、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。事態を把握した彼女が、膝の上から逃げないようしっかりと抱きしめて、首筋に唇を落とした。
「んっ」
「真奈美との約束、早速破ってもいい?」
「え、と、あの」
 どういうことなのか考えている美依だったが、身体一瞬固くなったのを感じて、言っている意味を理解したのだと察する。
「今夜は、俺がどれだけ美依を愛してるのか、身体と心に刻み込んであげるね」
 愛する彼女の耳元でささやいた真紘は、美依を抱き上げて、優しいぬくもりを腕にして実感する。――あたたかい幸せを。
 そして、宣言どおり幸せという名のぬくもりを朝まで離そうとはしなかった。