[過去]
店長にプロポーズの予告をされてから数日後、土曜日の午後。今日バイトは休みだったけれど、私はコナトゥスの扉の前に立っていた。
なぜか店長に、店に来るように呼び出されたためだ。
土曜日の午後といえば、お客様も然程多くはないはず。それに昼間は、先輩の蓮沼さんがシフトに入っていた。だからわざわざ呼び出された理由がわからないのだけれど……。
「……考えてもしかたないか」
店長の考えなんて、読もうと思って読めるものじゃない。それは、あの人の傍にいて嫌というほど感じていることだ。
あまり妙な事態にならないよう祈りつつ、私は恐る恐る『オープン』の札の掛かった扉を開いた。扉上部についているカウベルが鳴ると、同時に切羽詰まった声が飛んでくる。
「神原さん……! やっと来てくれた!」
「蓮沼さん? どうしたんですか?」
待ってましたと言わんばかりの勢いで出迎えてくれたのは、バイトの先輩である蓮沼さんだった。蓮沼さんは涙目になりながら、店の奥へと私を急き立てる。
「もー俺、どうしていいかわかんなくてさ。店員としてっつーか、男として自信なくしそうだよ……」
涙目で言いながら、蓮沼さんの視線がカウンターの方向へと向いた。その瞬間、私は思わず目を疑って、その場に立ち尽くしてしまう。
「よー、来たな、神原ちゃん」
シガーの薫りとともに出迎えてくれた声は、店長の声ではなかった。よく通る低い声は、聞き慣れてはいたものの、完全に予想外の人物。
「なんだよ、ハトが豆鉄砲食らったような顔して」
「ゆっ、湯島先生……! そんな恰好でなにしてるんですか!?」
カウンター前のスツールに腰を下ろしていたのは、類まれなる美貌の主で店長の悪友、湯島先生だった。それだけならいつもの光景で、ここまで驚きはしない。けれども、湯島先生がコナトゥスの制服を身にまとっているとなれば、ハトが豆鉄砲どころか機関銃で撃たれたような衝撃を受けた。
「どうして湯島先生が制服を着ているんですか?」
均整の取れた体躯に整った顔立ちをしている彼がまとうコナトゥスのギャルソンスタイルの制服は、とてもよく似合っていた。というか、似合いすぎていて怖い。
「まあまあ、とりあえず座ったらどうだ? 話はそれからでもできるだろ」
「は、はあ……」
促されるままにカウンターの前まで来たところで、ようやくこの店の主にお目にかかれた。店長は私の困惑ぶりを見て、薄く笑みを浮かべる。
「悪かったね、神原。せっかくの休みなのに店に来てもらって。しかも、かなり驚かせたみたいだし」
「当たり前ですよ。いったいどういうことでなんですか? 店長」
「さぁ? いきなり店に来たと思ったら、制服を着たいと言い出したんだよ。だから俺の替えの制服を貸してやったんだけど、本人がかなり気に入ってしまってね」
だからと言って一応営業中なのに、この人たちはなにをしているんだろうか。店長と湯島先生に非難の目を向けると、彼らは軽く肩を竦めた。
「おいおい。それだと俺が、単なるコスプレ好きみたいじゃねぇかよ」
「違うのか?」
揶揄する口調で視線を投げた店長に、湯島先生が口角を上げた。
「たしかに、コスプレも嫌いじゃないけどな。でも今日は、亨ちゃんにご奉仕しに来たんだよ。なにせ今日は、亨ちゃんがコナトゥスの店長になった記念すべき日だしな」
「えぇっ!? 本当ですかそれ?」
あまりにも予想外の事実に、驚いて店長を見つめる。店長は苦笑を零して首肯した。
「そんなに大げさに騒ぐほどでもないんだけどね。たしかに二年前の今日は、俺が店長としてこの店に出た日ではあるけれど」
「そういうことは、もっと早く教えてくださいよ……。それ、すっごく重要な日じゃないですか。知っていれば、お祝いを用意したのに」
「亨ちゃんは、そういう記念日に頓着しないからな。だから俺が、祝いにきてやったんだよ」
得意げに言い放った湯島先生は、店員よろしく私をスツールに促した。
「どうぞ、お嬢様。こちらにお掛けください」
恭しく片手を胸にあてると、湯島先生が頭を下げる。それを見た瞬間、メディアでしか見聞きしていない『執事喫茶』だとか、『ホストクラブ』と名のつくお店を想像してしまった。
こんな人が店員だったらさぞかし店は繁盛するだろうと思う一方、それはそれで困りそうだと思う。店長目当ての女性たちだけでも手一杯なのに、そのうえ湯島先生目当ての女性まで増えたら、いったいなんの店なのかわからなくなる。それに、やたらと色気をまき散らす店長と、誰もが見惚れる美形の店員がいる店なんて、自分の身の置き場がなくなりそうで恐い。
そんなことを思っていると、蓮沼さんが肩を落として訴えてきた。
「聞いてくれよ神原さん! 神原さんが来る前、大変だったんだよ。土曜なんてそんなに忙しくないはずなのに、湯島先生がわざわざこの格好で外に出て宣伝するもんだから……!」
蓮沼さんの説明を聞いて、やっぱりそうかと納得する。
湯島先生みたいな人が店にいるとなると、彼目当てのお客様は当然出てくるだろうし、今みたいに執事やホストを思わせる真似をされれば、本来の店員である蓮沼さんは形無しだろう。お店の隅で恨めしそうに湯島先生を見る蓮沼さんの姿が想像できて、同情してしまう。
「蓮沼さん、お気の毒です……」
「わかってくれるのは、神原さんだけだよ……。俺だってさ、見た目にはそこそこ自信あったんだぜ? それなのに……今日は完全に、湯島先生と店長の引き立て役だった。どうせ俺なんて……このふたりにはナニからナニまで敵わないんだぁぁぁっ!」
「はっ、蓮沼さん……!?」
蓮沼さんは悲痛な雄叫びを上げながら、バックヤードに引っ込んでしまった。私が来るまでの間に、彼は相当ダメージを受けたようだ。……あまり、落ち込まなければいいけれど。
「くはっ、蓮沼はホント面白いよなぁ」
「性格が悪いね、お前も。こうなることは、予想がついただろうに」
バックヤードの方を見遣り、肩を震わせている店長と湯島先生を見て思う。蓮沼さんには悪いけれど、つくづく今日のバイトが休みでよかった、と。
「店長、さすがに蓮沼さんが可哀想です。あとでフォローしてあげてくださいね」
「大丈夫だよ。蓮沼は、ひと晩寝れば復活するタイプだからね」
この言い方だと、フォローする気は毛頭ないようだ。でも店長の言うように、蓮沼さんはそれほど深刻に悩んではいないだろう。なぜなら、彼が彼女のこと以外で悩んでいるところを見たことがない。
「さて、蓮沼も帰ったことだし、今日はクローズしようか」
店長は、カウンターから出ると店の扉を開き、『クローズ』の札を下げた。そしてカウンターの中に戻ると、おもむろにシェーカーを取り出す。
「神原、何飲む?」
「え……? いいんですか?」
「湯島が言っていたように、今日は一応記念日だからね。どうせもうお客様も来ないだろうし、構わないよ。この男はお客様ではないから、気を遣う必要もないしね」
そう言って店長が、湯島先生へ目を向ける。湯島先生は余裕の笑みでカウンターに肘をつくと、店長の背後にあるキャビネットを指さした。
「それじゃあ享ちゃん、俺はギムレット」
「……お前からのリクエストは、受け付けていないんだけどね」
そう言いながらも、店長は流麗な仕草でカクテルを作り始めた。
湯島先生の隣に腰を下ろすと、店長の手つきを食い入るように見つめる。抑えた照明に浮かぶ骨ばった手が、とても艶めかしい。
やっぱり店長は、カウンターの中にいるのが良く似合う。カウンター越しに見ていると、店長目当ての女性の気持ちが良くわかる。この人のことをずっと見ていたくなるし、少しでもその目に映りたくなってしまう。否応なしに惹かれてしまうのは、性というやつかもしれない。腹の立つことに店長は、その場にいるだけで女性の欲を掻きたてるのだ。
だから店長の特別になれた今も、ハラハラしてしまう。この人の傍にいる限りはこの手の不安は付きまとうし、この人を好きになった時点で、人の倍以上の不安と苦労を覚悟しなきゃいけない。
しなくていい苦労を背負うから、店長にマゾ呼ばわりされるのだろうか。つくづく罪な人だと嘆息したところで、隣にいるもうひとりの罪な人に顔を覗きこまれた。
「神原ちゃんは、享ちゃんを見る時、真剣だよな」
「そう……ですか?」
「ああ。清々しいくらいにな。若いっていいねぇ」
「……そんな風に言うほど、年は変わりませんよね」
「そうか? 六歳はそれなりの年齢差だろ。だから余計、羨んでる」
「何に、ですか?」
「享ちゃんを仕留めたパワーと勢い、それに若さと素直さにってところか」
「仕留めたって……」
まるで店長が、ゲームのボスキャラか何かのように言う湯島先生の言い方が可笑しい。
「湯島先生は、誰かに仕留められることはないんですか?」
「さあねぇ。俺はどっちかって言うと、仕留める方が好きなんだよ」
たしかに、湯島先生にはその方が似合っているかもしれない。だけど湯島先生は、店長と双璧を成す厄介な人だ。この人に狙われる女性が、ちょっと可哀想な気もする。
こっそり思ったところで、目の前にカクテルグラスが差し出された。
「お待たせ。神原は酔うとタチが悪いから、軽めにしておいたよ」
「……タチが悪いかはともかく、ありがとうございます」
ひと言余計だと思いつつ、店長の作ってくれたゴールデンアップルに口をつける。作った人は性格に難があるのに、カクテルはとても優しい味がした。
これも一種のギャップというやつだろうか。ちょっと意地悪なことをされたあとに優しさを見せられたら、効果は絶大だと思う。でも店長は、こういうことを狙ってはやらない。なんという天性の人たらしだろう。
「すごく美味しいです。……店長って、こういうところが狡いですね」
「神原ちゃん、何考えてたのか知らねーけど、声に出してんぞ」
「え、あ……すみません。つい」
「神原は、ついうっかりが多いね。迂闊なところが面白いからいいけど」
「……嬉しくないです。それ」
自覚があるだけに、なんとも肩身が狭くなる。これ以上突っ込みを入れられて虐められる前に、話題を変えることにした。
「そういえば、店長。このお店は、誰かに譲り受けたものだったんですよね?」
この前、千川さんのお店に店長と行ったとき、そんな話を聞いた。最近まで店長の耳を彩っていたピアスも、店長が店を譲り受けた記念に湯島先生がプレゼントしたものらしい。
あのときはピアスの話が衝撃で受け流してしまったけれど、よくよく考えてみるとどういう経緯で店長になったのだろうか。
私がこのお店に入った時は、すでに店長はコナトゥスの主だった。だからこのお店が他の人のものだったなんて、想像できない。それほど店長は、この店に根を張っている。この人がここにいるのは、呼吸するのと同じくらい自然だと感じるほどに。
「そうだよ。あらためて説明したことはなかったけど、もともとこの店のオーナーが店長を兼任していたんだ。それがどうしてか、隠居をするって言いだしてね。当時バイトをしていた俺が、なぜか店長に指名されたんだよ」
「しかも、店の権利ごとだろ。オーナーのお気に入りだったもんなぁ、享ちゃんは」
「オーナーは根っからの道楽者で、気まぐれな人だったからね。それにお気に入りだからというよりは、千川さんの口添えがあったんだと思うよ。あの人には、だいぶ気にかけてもらっていたしね」
「千川さん……? どうして千川さんが関わっているんですか?」
意外な名前が出てきたことで、思わず口を挟んだ。興味津々で見つめていると、店長が肩を竦めて答える。
「千川さんとは、湯島と同じくらい長い付き合いでね。俺がコナトゥスで働き始めたのも、彼の紹介だったんだよ」
当時を懐かしむように目を細めながら、店長が続ける。
「オーナーはね、あるホテルのフレンチレストランで、グラン・シェフ(総料理長)にまで上り詰めた人なんだ。千川さんはオーナーがグラン・シェフ時代に、同じくフレンチレストランで働いていたコックで、オーナーの弟子なんだよ」
「千川さんが? てっきり私、和食専門の方なのかと思ってました」
彼のお店は、たしか和食中心――どちらかと言えば、おふくろの味的なメニューが多かった気がする。
「千川さんも、かなり変わった経歴の持ち主だよ。ゆくゆくはグラン・シェフだと目されていた人だったのに、突然ホテルを辞めたと思ったら、今度は創作居酒屋で修業を始めてね。しばらく修業を積んでから、今の店を開いたんだよ」
「そうだったんですか……それじゃあ、千川さんが店長や湯島先生の“師匠”になったのは、このお店を譲られた頃なんですか?」
「そうだね。千川さんには、公私ともに色々世話になったよ」
コナトゥスのオーナーと、千川さんが働いていたというホテルは、日本でも五指に入る高級ホテルらしい。千川さんやオーナーの経歴も興味深いし、どうして店長に店を譲ったのかも気になるけれど、まずはふたりにお礼を言いたい。ふたりがいなければ、店長がコナトゥスの店長になることも、私と出会うこともなかった。そう考えると、人の縁って不思議だ。
「そういや亨ちゃんが店長に抜擢されたときも驚いたけど、千川さんが転職したときも驚いたっけなぁ」
湯島先生はどこか遠くを見るように、眼鏡の奥の瞳をゆるめた。
「懐かしいな。あの頃は、千川さんもまだ尖がってたんだよな」
「お前も大概だったけれどね。留学先から帰ってきたばかりなのに、人の部屋に入り浸って」
「あの時は、人肌が恋しかったんだよ。それに亨ちゃんのベッドは、寝心地がいいからねぇ」
湯島先生が煙草を咥えて片目を眇めると、店長がライターで火をつけた。このふたりは、何気ない仕草だけで色気を撒き散らしているから困りものだ。この人たちが揃うと、つくづく危険だ。そう言う代わりに、別の疑問を口にした。
「寝心地って……湯島先生、店長と一緒に寝てたんですか?」
「そうだって言ったら?」
「……仲がいいですよね」
「ぶはっ、そうきたか」
いちいち思わせぶりなセリフには、この際目を瞑るとして……。付き合いの長さを窺わせる会話が、ほんの少し羨ましい。
「店長や湯島先生って……当時から、さぞモテたんでしょうね」
「まあな。神原ちゃんが妬く程度には、享ちゃんの女関係は派手だったぞ?」
「……」
予想通りのセリフに閉口したところで、店長が湯島先生の前に新しいギムレットを置いた。それ以上口を開くなと言っているのか、それとも反論するのが面倒なのか、店長は笑みを貼り付けたまま、カウンター越しに湯島先生の耳に口を寄せる。
「またお前とも遊んであげるから、あんまり拗ねるんじゃないよ」
「そりゃあ光栄だねぇ。ま、神原ちゃんに怒られない程度にな」
ただでさえ色気のある2ショットなのに、意味深なセリフを聞けば、なぜか見ている方が照れてしまう。もっとも、この人たちは単にじゃれ合っているだけだから、とりあえず放っておくことにする。
店長の女性関係が派手だったのは知っているから、今さら過去に妬いても仕方ない。そうでも思わなければ、腹いせに店長の頬を抓ってしまいそうだ。
「……それにしても、話を聞けば聞くほど店長の過去って謎ですね。もっと掘り下げれば、いかがわしい話がたくさんありそうで怖いです」
「人を汚れみたいに言わないで欲しいね。それほどひどい行いはしていないつもりだけど」
「店長は、充分に汚れだと思いますけど」
言葉尻が厭味ったらしくなった私に、ふたりは目を丸くして、それから盛大に笑い声を上げた。
「言うねぇ、神原ちゃん。享ちゃんの教育の賜物かぁ?」
「もしそうだとしたら、俺の教育方法が間違いだったことになるね」
穏やかな口調だけど、店長の目は笑っていなかった。けれど、“汚れ”と言った程度では罰は当たらないと思う。
なにせこのふたりには“遊びの師匠”がいるくらいだ。それはもう派手に色々していたんだろうとは、簡単に想像できる。それでなくとも、もともと女性が放っておかない人たちなのだ。もしもその頃、私が店長と会っていたとしても、見向きもされなかったに違いない。
「いいじゃないですか。いっつも虐められてるんだから、ちょっとくらい仕返ししたって」
「おいおい神原ちゃん、顔が怖くなってんぞ。まさかもう酔った訳じゃねーだろうな」
湯島先生が苦笑して、眉間に指を突き立てる。うう、と、唸りながら皺を伸ばしていると、店長が軽く笑みを浮かべた。
「別に、聞いても面白い話じゃないだろう? 俺が店長になった経緯や昔話なんて」
「そんなことないです。だって私、本当になんにも知らないから……あ、店長はここで働く前までは、何をしていたんですか?」
「さあ? 覚えていないな。もうかなり昔のことだしね」
……嘘だ。そう思ったけれど、口に出すのは止めた。
店長はあまり、自分の話をしない。どちらかと言えば聞き役に徹しているように思う。聞き上手なのは、仕事柄もあるだろうけれど、きっと触れられたくない部分があるからだ。
踏みこまれたくない一線が、店長にはある。だから、必要以上に踏みこまれないように、誰とでも一定の距離を保っているんだろうか。
「……店長も湯島先生も、人に言えないような過去がたくさんありそうですよね」
「そりゃあ、それなりにはなぁ」
「神原よりも長く生きている分はあるかもね」
店長と湯島先生が顔を見合わせて、頷き合っている。
人に言えないような過去を持っているなんて、このふたりはいったいどんな生活を送ってきたのか。興味は尽きないところだけれど、知らない方がいいこともあるのかもしれない。
過去は今の店長を形成したという意味では重要かもしれないけれど、あくまでも過去でしかない。そう思えるのは、店長のバックグラウンドを知らずとも、私がこの人を好きなことに変わりはないから。
「過去はどうあれ、今が真っ当ならいいのかもしれませんね」
「享ちゃん、真っ当かぁ?」
「少なくとも、お前よりはね」
店長の答えを受けて、湯島先生が意味ありげに片目を眇めた。
「だったら期待に応えて、いまから真っ当じゃないご奉仕をしてやろうかねぇ」
「制服を汚さない程度の奉仕であれば、受け取ってあげてもいいよ」
麗しい見目に反して下品な物言いをする湯島先生に対し、まったく引けを取っていない店長。どう贔屓目に見ても、このふたりは真っ当に見えなかった。
でも、たとえ他にどんなに真面目で人に誇れる過去を持っている人が現れたとしても、私は店長以外の人は目に入らないだろう。それはもう、身に染みてわかっている。
厄介な人を相手にしているんだなぁ……。なんてしみじみと思っていたところで、その場はお開きになったのだけれど……。
しかし私はこの後、店長の逆襲を受ける羽目になる。
「――それじゃあ今度は、神原の話を聞かせてもらおうかな」
湯島先生を見送ってから店長の車に乗り込むと、開口一番言われたセリフに目を瞠った。
そんなこと、今まで訊かれたことがなかった。コナトゥスで雇ってもらえることになったときでさえ、履歴書に書いてある以上のことは言ったことはない。いったいどういう風の吹き回しだろうか。
「私は……店長と違って、特に話せるような過去なんてないですけど」
「そんな波乱万丈な話を期待している訳じゃないよ。なんでもいい」
「なんでもいいって言われても……たとえばどんな話ですか?」
「そうだな……」
静かに駐車場から車を出すと、店長は少し考える素振りを見せた。
「コナトゥスに来る前、神原は何をしてた?」
店長に問いかけられて、今度は自分が考えてしまった。コナトゥスに来る前の自分は、あまり褒められるような道のりを歩んでいなかったから。
店長は私を横目で見遣ると、苦笑気味に告げる。
「躊躇うほど振り返りたくない過去なら、無理には聞かないけど」
「そういう訳じゃないんです。ただ……何もしてなかったんです。私」
「何も?」
店長が意外そうに目を細めた。私は小さく頷くと、少し恥ずかしくなって俯いた。
「大学在学中は、就職しようと必死だったんです。でもなかなか就職先が決まらなくて……そのまま卒業したんです。コナトゥスに入るまでは、短期のアルバイトを転々としてました」
「ふうん? どんな?」
「コンビニとか喫茶店とか……普通ですよ」
在学中の就職活動は、思うような結果が出なかった。せっかく大学に通わせてもらったのに、就職できないのは両親に申し訳ない。その一心で頑張っていた就職活動だったけれど、ただでさえ就職難と言われているご時勢で、内定ももらえないまま時だけが過ぎ、卒業を迎えてしまった。
当時はかなり落ち込んでいた。だけどそのお陰でコナトゥスと――店長と会えたのだから、不運ではないのだろう。……多分。
「アルバイト先で、好きな男はできなかったんだ?」
「な、なんでそんなこと」
「その様子だと、いたみたいだね」
「……そんなに、大げさなものじゃないです。ちょっとだけ、いいなって思ってた人がいたっていうだけで」
「へぇ。どんな男だった?」
「そんなの……もう覚えてませんよ」
視線を感じたけれど、顔を上げられず膝の上を見ていた。
なぜかやけに突っ込んでくる店長に、なんだか浮気を攻められているような心地になる。もっとも、そんな経験なんてないから、あくまで心地というだけだけど。
それに以前のバイト先だって、特別に何かあったわけじゃない。本当に、ちょっとした淡い気持ちを抱いただけで、恋と呼べる代物ではなかったのだ。
「店長、どうしたんですか? 今までそんなこと興味なかったのに」
「興味が沸いたんだよ。いや……違うか。そうじゃないな」
独白のようなセリフに顔を上げると、信号に捕まった車が静かに停まった。
「単純に、知りたいと思ったんだよ。神原のバックグラウンドをね」
「……どうしてですか?」
「そこで疑問に思うのが、神原らしいけど」
ふっと苦笑した店長と、視線が絡んだ。指の腹で頬から顎のラインをなぞられて小さく身じろぐと、信号が青に変わって指が離れる。それと同時に、ふたたび車が走り始めた。
「まぁ確かに、本来俺は、あまり人に興味がない方だしね」
「店長って、必要最低限の情報だけ知っていれば、あとはどうでもいいって感じですよね」
「ひどい言われようだけど、否定はしないよ」
「それじゃあ、どうして?」
「決まってるだろう? 神原だから、だよ」
小さく微笑まれて、俄かに鼓動が騒いだ。
私は店長と違って、人に話して面白いような過去も、誇れるような経歴も持ち合わせていない。気の利いた会話もできないし、つまらない女だと思う。それでも、店長が知りたいと思ってくれた。それが、ほんの少し自信を与えてくれる。
「私、そんなに大層な過去は持ってませんけど、それでもいいんですか?」
「キスも慣れていなかったくらいだから、男関係の経験はないんだろうね。神原のほとんどの経験は、俺が初めてだったんだろう?」
「い、いちいち訊かないでください……」
「身体のことは誰よりも知ってるのは本当だからね。ただ、それ以外は残念ながら、ほとんど知らない。だから、知りたくなったのかもしれないな」
「それって……喜んでいいことなんでしょうか」
「それは、神原の受け取り方次第だよ」
「……」
つまり店長は、これまで私に欠片ほど興味を持ち合わせていなかったということだ。プロポーズの予告をしている相手に対し、ちょっとひどいと思う。そういう人だとわかっていたとはいえ、少し……いや、かなり複雑な心境になる。
若干肩を落とした私に、気付いているのかいないのか、店長はどこか楽しそうだった。
「神原を知りたいと思うのは本当だよ。健気だと思わないか?」
「それは同意しかねます」
「へぇ……なかなか辛辣だね」
意味深な笑みを浮かべた店長は、運転に集中することにしたのか、それ以降口を開かなかった。
やがて車は、見慣れたマンションの前に来ると、静かに停車した。
いつものように先に降りて待っていようと、シートベルトに手をかける。ところが、なぜか店長の手が私の手を阻み、シートベルトを外させてくれなかった。
「えーっと……店長?」
もしかして、妙なスイッチが入ったんだろうか。私は、店長に誘惑されれば絶対にあらがえない。たとえマンションが目の前だとしても、求めに応じてしまうだろう。
けれども店長は、私の心の中に渦巻く感情を薙ぎ払う言葉を放った。
「今日から、一日ひとつ、神原のことを教えてもらうよ。汚れの俺とは違って、神原は真っ当な過去があるんだろうね。楽しみだな」
「あ、あの……店長?」
「神原、先に部屋に戻っていいよ。俺もすぐに行くから」
スッと私の手を離した店長は、営業用の綺麗な笑みを浮かべ、私に降りるよう促した。
キスどころか、スキンシップもしない。店長にしては、とても珍しい行動の意味するところは。
「……さっきの仕返しだ」
ポツリと落とした呟きは、暗闇の中に溶けて消えた。
翌日から、店長は、私へのスキンシップをピタリと止めた。
もともとスキンシップ過剰な人だから、仕事中に限っては減るくらいでちょうどいいと思っていた。それが一切なくなって、寂しいと思うのは贅沢なんだろうけれど、モヤモヤとする気分は抑えられない。
「まったく……極端というか、意地が悪いというか……」
クローズ後に洗い物をしながら、ひとりごちて、ハッとして首を振る。
意地が悪いという表現は正しくない。スキンシップがなくなってそう思うのは、自分がそれを望んでいることになる。そんなことを店長に知られたら、また無駄に垂れ流されている色気にあてられて、そのまま足腰立たなくなるまで虐め倒されるに決まっている。
「となるとやっぱり、極端な……変態?」
「……ずいぶんと大きなひとり言だね」
「て、店長!? 驚かさないでくださいよ」
気配を消していたとしか思えないほどに、背後から音もなく店長が現れた。ちょうど店長のことを考えていたものだから、妙に狼狽えてしまう。
店長は顎を撫でながら、私の動揺を見透かしているかのように、口元に笑みを浮かべた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。それとも神原は、何か疾しいことでもしていたのかな?」
「疾しいことなんてしてませんよ。ただ、洗い物をしていただけです」
「だったらいいけど」
含み笑いが耳をくすぐり、なんだか恥ずかしくなる。知らずと身を竦めると、店長が脇をすり抜けていく。僅かに揺れた空気にすら、ドキリと鼓動が跳ねた。
「そういえば」
ふと、思い出したように、店長の声が投げかけられる。洗い物を終えて振り返ると、くすりと小さく微笑まれた。
「神原の過去を、ひとつずつ教えてもらう約束だったね」
「覚えてたんですか……」
「昨日の今日で忘れていたら、問題じゃないか?」
「できれば忘れて欲しかったです」
店長の訊きたいことは、わかっている。以前の私が抱いていた、恋ともいえない淡い感情のことだ。どんな男性に心を動かされたのかを、私の口から言わせたいのだ。私が、嫌がっているのを承知の上で。
「過去を教えて何か得があるなら、答えてもいいですよ?」
「それは、ご褒美をねだってる?」
「店長が言うと、わいせつなことを言われている気分になるんですけど」
「……神原は、どんどん俺に対して遠慮がなくなってくるね。いい傾向だよ」
どこか楽しそうに、大きな手が私の髪をかき混ぜた。
遠慮していたつもりはない。ただ、店長の本心が見えなかった時は、深入りしたくないという気持ちが強かった。その結果、甘えられなかったのかも、とは思う。
「遠慮がなくなったついでに、ワガママ言ってもいいですか?」
「俺に叶えられることであれば、なんなりと」
「そんな、即答してもいいんですか? ものすごいワガママ言って、店長を困らせるかも」
「それはそれで面白いからね。言ってごらん」
優しく促されてしまい、僅かに躊躇いが生まれる。すると店長は、腰を折って私の顔を覗きこんできた。
「俺にワガママを言うってことは、叶えて欲しいことがあるんだろう? 神原が何を望んでいるのか、興味深いね」
「……店長って、変なところで好奇心旺盛ですよね」
「人によるよ」
端的に答えた店長は、視線で先を促した。
ワガママを言っていいなんて、こういうことをシレっと言うものだから、この人は狡いのだ。私は小さく息を呑むと、思いきって言ってみることにした。
「その……たまにでいいから、店長の時間が欲しいんです。お休みの日に、どこかに遊びに行ったり……ふたりで過ごせる時間をください」
言いきったところで、頬が熱くなってきた。店長に願いを伝えるのは、どうしてこう恥ずかしいんだろう。この人が相手じゃなければ、もっと気軽に言っている。単純に、もっと一緒にいたいんだということを。
「……またずいぶんと、可愛いことを言ってくれるね」
一瞬目を丸くした店長が、不意に私に身体を寄せた。シンクの淵に追い詰められて、密着してしまう。ここでいつもなら、流されるまま啼かされる羽目になる。けれども今日の店長は、その先の行動に移さなかった。代わりに艶やかな眼差しを注がれて、息がかかりそうなほど顔を近づけられる。
「神原が望むなら、どこにでも連れて行くよ。希望があるなら言えばいい」
「本当ですか?」
「そんなことでいいなら」
事も無げに言った店長に、今度は私が面くらってしまった。まさかこんなに簡単に、承知してくれるなんて思わなかった。
どうしよう。素直に嬉しい。口元がゆるんでしまうのを抑えられずにいると、店長の両腕に身体を囲われた。
「それじゃあ話もまとまったことだし、聞かせてもらおうかな」
「えーっと……店長……この体勢は、ちょっと……」
「せっかくだし、神原の顔を近くでみながら聞こうと思ってね」
「……何が訊きたいんです?」
「わかっていることをあえて訊くのはどうかと思うけどね」
「……」
上目で軽く睨むと、白々しく首を傾げられた。
やっぱり、見逃してはもらえないようだ。私は仕方なくコナトゥスに来る前の、過去とも呼べない記憶を思い出していった。
*
コナトゥスに来る前。あれは、大学を卒業したばかりの頃だった。
就職浪人となった私は、どうにかして職を探そうと躍起になっていた。かといってやりたいことも見つからずに、気ばかりが急いていた。短期のバイトをしながら就職先を探す日々は、世間に取り残されたような孤独感を覚え、心が折れそうだった。そんな時、偶然通りかかったお店の前に、“アルバイト募集”の張り紙を見つけた。
そこは小さな洋菓子店だった。
ディスプレイされていたケーキが美味しそうで、外からしばらく眺める。するとお店の中にいた店員さんと、目が合ってしまい……固まった。
自分よりも少し年上。二十代そこそこと思しき男性の店員さんは、笑みを湛えてお店から出てきた。爽やかな、笑顔だと思った。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「いえ……美味しそうだなって思って見ていたんです。それと、この張り紙を……」
ちらりと、自動ドアの横に張ってある紙に視線を向ける。店員さんは納得したように、にこやかに言った。
「ああ、アルバイト希望の方ですか? 今からお時間あればすぐに面接しますけど」
「え……でも私、履歴書も何も持ってませんけど」
「かまいませんよ。僕が面接する時に見るのは、履歴書ではなくその人自身なので」
“僕が”……? ということは、この人、もしかして。
問いかけるよりも先に、店員さんは笑顔で予想通りの言葉を口にした。
「はい。僕、店長なんです。貴女がよろしければ、今から面接をしませんか?」
かくしてなんの心構えもないままに、私は面接を受けるべく店に足を踏み入れることになり――その日のうちに、ケーキ屋さんの店員になることが決定したのだった。
*
「――まあ、そんな感じです」
「それだけ? ずいぶん端折っている気がするけど」
「そう言われても……その日すぐに面接をして受かって、少しの間ケーキ屋さんで働きました。それだけです」
「ってことは、ケーキ屋さんの店長にナンパされて、店員になったってことでいいのかな?」
「ナ、ナンパって……いかがわしい言い方しないでくださいよ」
どちらかというと、見るに見兼ねて拾われたといった方が正しい。なぜならケーキ屋さんの店長は、私が就職活動中だと知ると、即決で雇ってくれたのだ。
「あの時は、色々な意味で余裕がなかったんです。だから、拾ってもらえて感謝してます」
「ふうん。で、感謝が好意に変わったわけだ」
揶揄するような眼差しを注がれて、うっと喉を詰まらせる。確かにその通りだったので、反論はしない。
だけど、バイトに雇ってくれたから好意を持ったわけじゃない。困っているところに手を差し出してくれた人であり、私の価値観を変えるきっかけをくれた人だからだ。
ケーキ屋さんでアルバイトをさせてもらうようになった私は、半分以上失いかけていた“自信”を取り戻すことができた。繁盛店だったのに少人数で営業していたから、お休みは少なかったし、見た目の華やかさとは違って重労働だった。だけど誰かに必要とされる心地よさとか、お客さんたちの喜んでいる顔を見る嬉しさとか、ケーキ屋さんでは、たくさんのことを教わった。漠然と、“どこかの企業に就職したい”と思っていた自分には、必要な経験をさせてもらったと思っている。
「私がコナトゥスに出会った時、店長にアルバイトを頼めたのって、あそこでアルバイトしていたからだと思います」
「どうして?」
「ケーキ屋さんの店長が言ってくれたんです。長い人生なんだから、経験を積むことも必要だよ、って……焦って結果ばかりを求めなくても、少し深呼吸してみれば、道が見えてくるかもしれないって、諭してくれたんです」
その言葉で、当時はずいぶんと気持ちが楽になった。
「だから、やりたいことに出会えたら挑戦しようって思ったんです。後悔しないように、行動しようって」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「ダメ、って言っても聞かれそうなので、どうぞ」
「人生訓を得た神原は、どうして彼も得ようとはしなかった?」
「……」
嫌なところを突いてくる。でも、店長に話すと決めた時点で、訊かれるのは予想済みだった。過去と呼べるような大した話でもないのに、こうも興味を持たれると居た堪れないけれど。
「……恋というよりは、憧れだったからです。それに、店長にはもう奥さんがいましたから」
「なるほどね、お手付きだったわけだ。その頃の神原に会いたかったな。そうしたら、色々付け込むようなことをできたのに」
「今でも充分なのに、怖いこと言わないでくださいよ……」
即座に否定してから、ふと思う。落ち込みの激しかった時期に店長と会っていたら、いったいどうなっていたんだろう。
多分、今よりもっと溺れてしまって、制御不能になっていたに違いない。
至近距離で話していると、感情が読みとられそうで困る。視線を外そうとした時、店長は悪戯に目を細めると、自然な仕草で私の唇に触れた。
「神原が心を惹かれた相手と俺は、だいぶタイプが違うみたいだね」
「正反対ですね。ケーキ屋さんの店長は、爽やかというか……あ、三上さんに近いかもしれません」
「へぇ。神原は、癒し系がいいわけか」
「そういうわけじゃ……ないですけど」
なんだか、店長の口調がだんだん意地悪く聞こえてくる。今までの経験からいって、これは非常に危険だ。
「あの……店長? そろそろ退いてもらえると有難いんですけど」
「まだだよ。肝心なことを聞いていないからね」
緩くウェーブを描いた前髪から覗く野性的な眼差しが、私を捉えた。
店長の顔が近づいてくる。無精髭が耳を掠め、ぞくりと肌が粟立って身を縮こませた。まるで身体が、この先にある行為を期待しているかのようだ。
店長は私の様子に口の端を引き上げると、わざともったいつけるように、ゆっくりと声を出した。
「神原が奥手だってことはわかった。だったらどうして、俺の誘いに乗ったのか……理由を聞かせてもらおうかな」
――その後。お店から攫われるように、店長の部屋に連れ帰られてしまった。
ひょっとして、スキンシップがなかったことも過去云々も、口実でしかなかったんじゃないだろうか。だって店長の瞳の中には、欲望の火が灯っている。今にも頭からガブリと食べられてしまいそうな危機感を覚え、なんとなく距離を取った。
「どうしてそんなに離れてるのかな?」
「……身の危険を、ひしひしと感じているんです」
「それは、なかなか勘が鋭いね」
缶ビールをテーブルに置くと、じりじりとにじり寄ってくる店長。反射的に逃げようと後退りするも、すぐに壁を背負ってしまった。なんだか私はいつも、身の危険に晒されている気がする。主に、店長を前にした時限定で。
「だけど勘は鋭いくせに、学習はしていないね。俺から逃げようとしても無駄だと思うよ」
「逃げようと思わせる店長に、問題があると思うんですけど……」
「逃げられるとね、追い詰めたくなるんだ。だから観念した方が身のためだよ?」
剣呑な物言いに、ひくりと頬が引き攣る。店長から逃げるのが至難の技であることは、十二分に承知の上だ。けれどもここで観念してしまえば、明日私の身体は使い物になりそうにない。
「さて、それじゃあ聞かせてもらおうか。恋愛に不慣れで奥手の神原は、どうして俺と?」
「その前に、ひとついいですか」
「どうぞ」
「……あんまり虐めないでもらえますか?」
端的に伝えると、店長が虚をつかれたように目を丸くした。これだけで、この人には伝わるはず。私があまり、激しく追い詰めないで欲しいと思っていることを。
「それは、答えにもよるかな。多分、神原にもわかってると思うけど」
「それって……店長の気に入らない答えだったら、虐め倒されるってことですよね」
「違うよ。気に入るような答えはいらないけど、神原があまりにも可愛い答えを言うなら、手加減なしに色々するかもしれないね」
「もし気に入らない答えだったら?」
「それは、想像に任せるよ」
艶やかに笑みを作る店長を見て、確信する。これはどちらに転んでも、無事では済まない。
壁に両手をついて私を囲い込んだ店長は、促すように瞳を眇める。実は私は、この表情がとても好きだ。からかい混じりのシニカルな笑みで見つめられ、艶のある低音の声で耳をくすぐられると、それだけで腰から下が痺れてしまうのだ。
つくづく私は、この人に弱いらしい。それはもう、どうしようもないほどに。
「……私、店長を見た瞬間、多分落ちたんです」
「何に?」
「恋に……ですかね?」
「そこで疑問形なのが、神原の迂闊なところだと思うよ」
「だって……」
私は初めてコナトゥスに足を踏み入れた瞬間から、店長に心を奪われていた。否応なしに惹かれてしまう感覚を恋というなら、恋とはなんて激しい感情なのだろう。
「でも“恋”か。久しぶりに聞いた単語だな」
「気に入りませんでしたか?」
「いや、悪くはないね」
そうは言うものの、私の答えが気に入ったのか否か、その表情からは読みとれない。ジッと見つめていると、店長の唇が耳たぶを掠め、そのまま首筋に埋まった。
「んっ……」
強く肌を吸われて、薄い皮膚を食むように唇に挟まれる。チクリした痛みと、期待を覚えた身体がかすかに震えた。
「神原は感じやすいね。ただ肌にキスしてるだけで、そんなに顔を赤くして」
「て、店長が……触るから」
「ふうん。俺に触れられるのが好き?」
「好きじゃなきゃ、触らせないです」
即答すると、一瞬意外そうな顔をした店長は、それから唇に笑みをのせた。
少しでも意表をつけたことに満足していると、店長の指先が私の顎を撫で、首筋を下りていく。途端に跳ね上がる心拍数は、店長によって刷り込まれている身体の反応としては正しいものだ。もっとこの人のぬくもりが欲しいと、声よりも先に身体が訴えている。
けれども店長は、いつも以上に時間をかけて私の反応を愉しんでいた。
「店長、今日は……焦らすんですね」
「まるでいつも俺が、ガッツいてるみたいじゃないか」
「ガッツいてはいませんけど、いつもはもっと……」
直接的に触れるのに。そう言いかけて、言葉を止める。店長に言わされている気がしたからだ。どうせそんな意地も、少しすれば容易く崩されてしまうだろうけれど。
「いつもはもっと、虐めるのにって?」
「というか……いつもは、私を玩具かなんかと勘違いしてるのかってくらいに、好き勝手に弄ぶのに、とは思いますけど」
「……少し前から思っていたけど、神原はだんだん湯島に似てきている気がするよ。逞しくなったと喜ぶべきか、口が悪くなったと嘆くべきかは迷うところだけど」
「あ……っ」
店長の吐息が首筋を滑り、その感覚に身を捩る。服の上から時折なぞられる指の感触が焦れったくて、気付けば足の間からじわりと熱が滴っていた。
あさましい欲望に、羞恥で頬が焼け焦げそうだ。ほんの僅かの間触れられていないからって、これは恥ずかしすぎる。
「神原の感度が触れるたびに上がるのは、喜ぶべきところかな」
私の欲望を見透かしたように、店長が薄く笑う。この人はこうして言葉を投げかけることで、さらに私が恥ずかしがることを知っているのだ。
店長は私を囲っていた手を壁から離すと、私のカットソーをまくり上げた。
「あっ……店、長……っ」
露わになったブラの上から、大きな手でやわやわと揉み込まれる。時折指先が強く胸の先端を擦り、そのたびに甘い声が漏れてしまう。壁を背負っているから逃げ場もなく、店長にされるがままになっていた。
「神原、ここでするのとベッドでするの、どっちがいい?」
「そんなこと……言えませ……んっ」
「ふうん。だったら、ここでしようか。神原も、欲しがっているようだしね」
店長の片手が太ももを辿り、スカートの中に忍びこむ。迷うことなく中心に進んだ指先は、蜜の滲んだ部分を押し潰した。
「あっ、ん!」
「神原は俺の望みどおりに反応をくれるね。そこが可愛いんだけど」
笑みを含んだ声で囁きながら、店長の指が割れ目を往復する。割れ目の上を爪で弾くように動かされ、腰が揺れてしまう。
最初はしっとりと湿っただけのクロッチが、店長の指を濡らすくらいに濡れていく。もっと強くとねだっているかのように、蜜口が蠢くのがわかった。早く奪われたい私の気持ちを知っているだろうに、上手くかわすだけの店長が憎らしい。
「店長……なんで、そんな……ぁっん!」
「神原が、自分のことを玩具だなんて思わないように可愛がってるんだよ。せめて自分が、俺の特別なんだってわかるくらいにね」
店長は割れ目から指を移動させると、下着のサイドの紐を引いた。簡単に紐をほどくと、今度は下着をめくり、ぬかるんでいた蜜口に指を挿れる。
「や……あぁっ!」
熱く潤んだ内壁を、店長の指が犯していく。蜜を掻き出すようにして抜き差しを繰り返されれば、下肢から力が抜けてしまう。全身が過敏になって、肌に吹きかかる吐息にすら感じて苦しい。早く楽になりたくて店長に腕を伸ばすと、彼はゆるやかに口角を引き上げた。
「神原、立って壁に手をついてごらん。俺にお尻を突き出したら、後ろから舐めてあげるよ」
「なっ……そんなことできな……」
「だったら、しばらく指で楽しもうか。神原はどこで音をあげるのかな」
「はぁっ……ゃあっ、あっ……んっ」
心底楽しげな声音で言う店長は、やっぱりひどい人だ。私を快感に弱くしておいて、そのくせ焦らすのが大好きなのだから。
「気持ちよさそうだね。硬くしこってるよ。わかる?」
「あっ、は……そこばっかり……やぁ……っ」
店長は言葉どおり、指だけで私を愛撫した。中をかき回されて痛いくらいに張り詰めているいやらしい部分を撫でながら、空いている手でブラの上から胸の先端を擦られる。上下から与えられる快感の甘さと重さに、どうしようもなく内壁が疼く。
「店長……っ」
堪らずに店長の頭を掻き抱くと、店長が吐息交じりで囁いた。
「しかたのない子だね。神原が自分で立てないなら、手伝ってあげるよ」
そう言うと、店長が前を寛げる気配がした。そして私の両足を大きく開かせると、蜜に濡れている恥部にそれをあてがう。熱く昂ぶった店長自身に息をのんだとき。
「しっかり掴まっているんだよ」
グッと蜜口に昂ぶりを押し込んだ店長は、私の両膝の裏に腕を入れると、そのまま立ち上がった。
「店長、やだぁっ……!」
立ち上がった拍子に最奥まで店長に貫かれ、一瞬目の前が白くなった。心許ない体勢が怖くて首にしがみつき、無意識に両足を店長の腰に絡めると、耳もとで笑みが零される。
「は……すごいね。初めての体勢なのに、上手じゃないか」
「てん、ちょ……離してくださ……あぁっ」
言葉を継ぐ間もなく激しく奥を突かれ、息が止まりそうになる。激しい上下の動きでブラがずれて、カットソーの中で胸の先端が擦れている。今までにしたことのない体勢で店長を受け入れた身体は、新たな悦びを覚えて上り詰めていく。振り落とされまいと店長にしがみつくほどに深く昂ぶりを咥えこんで、突き抜けるような快感に嬌声を上げることしかできない。
「あっ、はぁっ、あぁ……っ!」
「上手に感じているね。これなら、加減しなくて済みそうだな」
信じられないひと言を吐くと、店長は本気で私を陥落させにかかった。
脳まで響きそうな激しい抽送に、店長の形に押し拡げられた内部が打ち震えるのがわかる。中に深く楔が打ち付けられるたび、身体は悦びを覚えていた。
与えられる快感の波に呑み込まれそうになりながら、思う。
私はこれからも、店長の行為に慣らされていくんだろうか。というよりも、すでにそうなっている。何度抱き潰されて声をからすほど啼かされても、それが嫌だと思えないのだから救いようがない。
よくよく店長に躾けられている。むしろ自分でもそれを望んでいる私って、大概M気質なのかもしれない。
嫌な自覚をしつつも、意識が途切れる寸前まで、幸せに胸が満たされていた。