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妹尾さんの好きはわかりにくい

「覆水盆に返らずって、知ってるか?」
 三十歳の誕生日を迎えた直後だった。
 三上奈江(みかみなえ)は、とても有名なことわざをいちいち知っているかどうか問いかけられている。
「そっちこそ、わたしの年齢知ってる? その上で、覆水盆に返らずを知らないと思って聞いたの?」
 けんか腰になるのは、現状が恥ずかしいというのもあってのことだ。
「三十歳、処女、恋愛経験なしということは知っているつもりだが、ほかに何か付け加えたいことがあるなら先に言っておけ。あとから文句を言われたところで、処女を返してやれない」
「っっ……、言い方!」

 一年間、奈江はカウントレス9(ナイン)の社長に個人的に雇われていた。
 仕事内容は、シェアハウスの入居者になりきること。簡単にいえば、彼が恋する女性とうまくいくまでの間、都合のいいシェアメイトを演じるというものだった。
 相手の女性である萌々香(ももか)と親しくなるほどに、嘘をつくのがつらくなった。
 二人を結びつける役割といえば聞こえはいいが、奈江は大掛かりなフラッシュモブの一員のような存在である。最終的にすべてを知った彼女が、広い心で全部受け入れてくれたから今も友人でいられるけれど、恨まれて嫌われていてもおかしくなかった。
 とはいえ、その一年間で奈江の人生は大きく変化していた。
 ときどきテレビドラマや映画にモブで顔を出す程度だったのが役名のある仕事をさせてもらえるようになり、脇役ながらもエキセントリックなキャラクターを演じた結果、遅咲きの演技派扱いされるようになったのである。
 おもしろいくらいに仕事が増えて、劇団の公演にも客が増えた。以前から提携している芸能プロダクションからは、正式所属を提案されてマネージャーもついた。
 街を歩いていて声をかけられるようになり、次第にサングラスとマスクが必需品になる。
 大好きな演技で自分を認めてもらうということは、想像していたよりもずっと喜びにつながった。
 それでも、自信があるわけではない。
 奈江にはとても大きな問題があったからだ。
 恋愛経験がない。
 キスシーンもベッドシーンも、仕事では演じた。だが、実体験としては一度も男性と交際をしたことがなく、もちろんその手の経験もない。処女だ。
 演技はあくまで演技なので、経験していなくとも想像で演じることはできる。キスシーンについては、ファーストキスがカメラの前になるとは思いもしなかったけれど、特に感慨なく過ぎていった。
 ――だけど、これでほんとうにいいの?
 奈江は何度も自分に問いかけた。
 殺人犯の役を演じるときに、人を殺した経験がないと悩む必要はない。そもそも視聴者の大半は、人を殺す気持ちを知らないからだ。
 だが、恋愛はそうではない。
 誰かを好きになる気持ちを、好きな人と手をつなぐ喜びを、そして好きな人と体で結ばれる幸せを知っている人は多いだろう。
 その前で、恋愛経験のない自分が想像で演じる姿は滑稽ではないだろうか。薄っぺらく見えはしないだろうか。ほんとうに恋をしているように見えるだろうか――

 シェアハウス生活の終わりが近づき、奈江は事務所が選んでくれたセキュリティのしっかりしたマンションに引っ越すことになった。
 一年前に住んでいた安アパートとは家賃の桁が違う。
 こんな高級な部屋に住んで、仕事がなくなったらどうしようと不安もあった。
 脇役をいくつかもらえる程度、深夜ドラマの主演が決まったとはいえ、まだ新人扱いの奈江には高額な報酬があるわけではない。
 すぐに飽きられて干されるかもしれないと思うと、自分の演技への不満が募る。
 もっとリアリティがあって、もっとキャラクター性を高めて、もっと見ている人に共感と驚愕を与えられるような、そんな俳優になりたい。
 人間は欲深く、何かを得たらそれを失いたくないと思う。
 失わないためにできることは成長だ。足を止めたら、流れの速い芸能界では奈江なんて一瞬で置いていかれてしまうだろう。
 だが、少々名前と顔が知られた身で安易に手近な知り合いと恋愛をするのも難しい。
 ましてや処女だと知られるのを前提にすると、恋愛という関係を築くのにいっそう躊躇する。
 そこで奈江が選んだのは、とりあえず経験値だけを上げるという道だ。
 相手は――

「言い方が悪いなんて今さら言うなよ? 俺が腐れ外道だってことはそっちがさんざん言ってきたことだろう」
 妹尾秀一(せのおしゅういち)。
 カウントレス9の副社長にして天才プランナー、プログラマーである彼は、シェアハウスにおける奈江の天敵ともいえる男だった。
 同時に、芸能界とも劇団とも関係ない人物である。
 彼が数年前に恋人と別れて以来、特定の相手を持たない主義だということも聞いていた。
 その男に、奈江は自分から頼んだのだ。セックスをしてほしい、処女をもらってほしい、一度だけの関係になりたい、と。
 妹尾はさして驚いた様子もなく、彼の所有するマンションに案内してくれた。案外拍子抜けするほど簡単にここまできたのだが、覚悟を決めた奈江に彼は言った。
 覆水盆に返らず。
 想像した妹尾の部屋は、ものが極端に少ないか、極端に多いかのどちらかだった。
 実際には、驚くほど豊かな観葉植物で部屋が埋め尽くされている。湿度の高い室内は、緑の香りがしていた。
 ――わたしが思うより、情の深い男なのかもしれない。
 一瞬だけそう思ったけれど、考えるのはやめる。彼が外道でいてくれたほうが、こちらも一方的な要求をしやすいからだ。
「それは知ってる。いつだって妹尾さんは許される側でしょう?」
「どういう意味だ」
「才能があって、技術がある。支えてくれる人たちがいて、能力を認められてる。だから自由でいられる」
 彼を信頼しているから選んだわけではない。
 だが、彼の面倒で厄介な性格は知っているのだ。
 ――この人は、わたしが寝てくれと頼んだからってあとでリベンジポルノまがいのことをやる男じゃない。脅しのネタにすることもない。わたしよりずっと稼いでいて、ずっと多くのものを持っている。
「俺の記憶では、三上奈江も最近じゅうぶん話題の役者のはずだが、それは嫌みのつもりか? だとしたら、まだまだぬるい。その程度で相手を不快にできると思うなよ」
「あのね、わたしは別に嫌みを言ってるわけじゃない。事実を言ってる。そして、そういう妹尾さんだから頼んだのよ。恥を忍んでね!」
「処女をもらってください、か。いい女にそんなことを頼まれて悪い気持ちはしない」
 この男から、曲がりなりにも褒め言葉に近い何かを言われるとは思いもしなかった。もちろんこの文脈には、三十にもなって処女のいい女なんているわけがないという意見も含まれているから、そのまま受け取ったら痛い目を見る。
「ええ、そうよ。わたしは処女だし、役者として今大事な時期なの。だから、危険のある相手には頼めないってこともわかるでしょ。それに加えて言うなら、こっちが痛いとかやめてとか言ったところでためらいなく奪える男のほうがいい。これは、恋愛でも欲望でもなく必要な処置みたいなものなんだから」
 奈江の求めているのは、経験があって優しさのない男だ。
 へたに情がわくことなく、ただ一度のセックスの相手になってくれる――そんな男。
「ほう。見た目より自信がないんだな」
「なっ……」
「いちいちイラつくな。今のは素直に褒めてる」
 ――どこが!
「俺は自信過剰な人間は嫌いだ。自分の力量をはかれないからではなく、劣等感を自覚できないところが無様だからだ。その点、三上奈江は違うらしい。たかがセックスひとつに経験のなさから自分を劣っていると感じ、仕事のために好きでもない男と寝ようとする。自分で自分を磨くためなら、傷がつくことをいとわないというのは、むしろ好ましく思う」
 今度は、彼の言葉に反論する気持ちがわかなかった。
 妹尾は本気でそう思っているのだと、裏を読むことなく信じられた。
「それなら、早く――」
「焦るなよ。俺からも提案がある」
「提案?」
「そうだ。役者としての向上心によってセックスを経験するというなら、一度だけではどう考えても足りない」
「は?」
 妹尾の言っている意味をはかりかね、奈江は眉根を寄せる。
「初心者にわかりやすく説明してやると、万能の俺でも処女を性の虜にするほどの性的才能はないということだ」
「なっ……」
 ――誰が性の虜にしてほしいなんて言った!?
 彼が万能かどうかはさておき、奈江の望みは処女膜貫通。性経験がある女になるということだけだ。
 快楽の扉を開いてほしいとまで頼んだ覚えはない。
「演じる上で必要だからするんだろう?」
「そうよ!」
「だったら、快楽も知らずに感じているふりをするのか? それでは処女を喪失しただけで、慣れた女の演技なんてできないとは思わないか?」
「……っ……!」
 悔しいけれど、一理ある――ような気がする。
「三回」
 眼鏡をかけた長身の男は、指を三本立てて見せた。
「今夜一晩で三回という意味じゃないから勘違いするな。最低でも三回おまえを抱く。それで、性の虜にはできなくとも一度くらいは身体的な絶頂を感じさせてやる」
「それはご丁寧に、どうもありがとう……?」
 疑問形になるのも仕方ない。
 奈江だって羞恥心のかけらくらい持ち合わせている。
「ただし、俺にとってもメリットがほしい。一方的に、棒扱いされるのは不快だ」
 妹尾が眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、奈江を値踏みするように見据えた。
「メリットって? 具体的に言って」
「つまり、その三回で俺にイカされたらおまえは俺の女になる。どうだ?」
「ゲスだ外道だとは思ってきたけど、妹尾さんって頭がどうかしてるんじゃない……?」
「恋愛感情もない男に処女をもらってほしいと頼む女には言われたくないものだな」
「だからそれは……っ!」
「俺はこう見えてプライドが高い」
 ――いや、それは最初からそう見えるから。
「金を払って女を抱いたこともなければ、愛情のない女を抱いたこともない。どうだ、おまえの思うゲスより少しマシだろう」
 いったいなんの話だ。奈江は当惑気味に首肯する。
「俺を棒扱いしたおまえを気に入った」
「今、一気に血の気が引いたわ……」
「安心しろ。俺の血の気は下半身に集中している。正しく言うならばペ――」
「黙れ、クソ外道!」
 反射的に奈江は彼の口を両手で塞いだ。
 手のひらに、男の唇がふれる。
「恥じらう姿も悪くない」
「っっ……!」
 妹尾は奈江の手首をつかみ、いともたやすく言論の自由を取り戻す。
「俺に抱かれて女になればいい、なあ、奈江?」
「だから、それだけでいいって言ってるの!」
「俺の女になるまで、しっかり仕込んでやるという意味だ」
「話を聞きなさいよ!」
「俺はたしかに外道だが、好きな女には優しい。安心しろ」
「……それ、つまりわたしには優しくしないって意味じゃない。まったく安心できないんだけど」
 くっくっと笑う妹尾が、想像以上に優しい手の持ち主だった理由を。
 いがみあっていた日々の楽しさを。
 奈江が知るのは、もう少し先のこと――

 さて、三上奈江が実際に妹尾秀一に抱かれるまでにはこのあと二時間以上を要した。
 そしてふたりがつきあうまでにはさらに一カ月。
 犬猿の仲だったはずが、翌年五月には授かり婚をすることなどこのときの奈江はまったく予想もしていなかった。