Ep.03 そして花嫁は目を閉じる
結婚式当日。
前夜は、早くにベッドに入ったものの、結衣が目を覚ますとまだ窓の外は暗かった。枕元のスマホで時間を確認すると、午前四時前。早朝よりもまだ早い、未明と呼ばれる時間である。
上京してから働いていたカフェを、三日前に退職した。
結婚してから三カ月が過ぎているけれど、今日の結婚式とガーデンパーティーが終わったら、明日の夜には新婚旅行に行く。
――わたし、ほんとうに隼世さんと結婚したんだなあ……
いまさらながら、そんなことを思って、結衣はそっとベッドから起き上がった。
この一カ月ほど、隼世は忙しくてふたりで過ごす時間もほとんどなかったほどである。それでも、一度だけ結衣が彼の帰りを眠れずに待っていた夜には、激しく愛してくれた。彼だけが求めていたわけではない。結衣だって、隼世がほしかった。その気持ちを口にするのが恥ずかしいだけのことで。
入籍し、遮るものなく愛し合い、早く子どもがほしいねと言っているものの、ここからほんとうの結婚生活が始まる――ような気がするだなんて、やはり自分は結婚式をしたかったのかもしれない。
誠一と隼世がなかば強引に押し切るかたちで決まった結婚式ではあったけれど、結衣にとっても今日この日は特別な一日なのだ。
寝室を出て、階段をゆっくりと下りていく。
隼世が新居に選んでくれた家は、この数カ月でずいぶん生活感が出てきた。
気の早い彼が、子ども部屋の壁紙を選びはじめたときには「男の子か女の子かわからないうちに決めないほうがいいです!」と反対したけれど、隼世の気持ちが嬉しかった。
リビングの扉を開けると、ダイニングテーブルの上に見覚えのないものがある。
「……? なんだろう、これ……」
照明をつけ、テーブルに近づく。
やわらかな色味のプリザーブドフラワーをボールのように丸くアレンジしたそれは、昨晩なかったはずで。
白いスタンドの脚部分まで真っ白なリボンが垂れている――いわゆる、結婚式のためのラウンドブーケと呼ばれるものだ。
「もう見つかったか。結衣は早起きだな」
背後から、さっきまで眠っていた隼世の声が聞こえてきて、結衣は驚きに目を丸くして振り返った。
「は、隼世さん、これ……」
「不格好なのは見逃してくれ。俺は、自分のことをわりと器用なほうだと思っていたんだが、どうあがいてもきれいに丸くならなくて、ずいぶん講師に苦労をかけたんだ。それでも、マシにできたほうだから」
その言葉に、見開いた目から涙があふれてくる。
広い庭には、昨日から業者が会場準備をしてくれていた。教会には前もってウェディングドレスを運びいれてある。ブーケについては、当日までに手配しておくから心配いらないと彼は言っていた。
「結衣!?」
――隼世さんが選んでくれるのかと思っていたけれど、違うんだ。選ぶんじゃなく、作ってくれたんだ……
まだ四時にもならない、薄暗い窓の外。
遠く、白い月が涙でにじむ。
「嬉しい……」
結衣は、隼世の胸に抱きついて、喜びの涙を流した。
「いや、そんなに喜んでもらえて俺としてはありがたいけれど、結婚式はまだ始まってもいないんだぞ。花嫁が泣きはらした目で現れたら、みんな心配するんじゃないか?」
よしよしと頭を撫でてくれる、大きな手。
なんでもできる隼世が、自身の不器用さを自覚し、苦労して作ってくれたブーケ。
「世界で、たったひとつのブーケです。隼世さんが、つ、作ってくれた……」
「ああ、そうだよ。俺の大事な花嫁に捧げるブーケだ」
「嬉しくて、な、涙が、ぜんぜんとまらな……」
「まったく。きみはどうしてそんなにかわいいんだろうな。式場で渡すか迷ったんだが、前もって見せておいてよかったよ。泣きじゃくる花嫁を見て、城月先生が結婚を反対したら大変だ」
冗談めかした声と裏腹に、彼は愛しさを込めて結衣を抱きしめてくれる。
幸せすぎて、怖いほどに。
「俺はきみをずいぶん泣かせただろう?」
強く抱きしめながら、隼世がそう尋ねる。いや、尋ねるというよりは確認するような口調だった。
「だから、これからはもう悲しい涙は流させない。そのかわり、違う意味では泣かせるかもしれないが」
「違う意味、ですか……?」
こんなステキなサプライズで、嬉し涙を流させてくれるというのだろうか。
まだ止まらない涙が、彼のパジャマを濡らしてしまう。
「そうだな。嬉し涙も悪くない。俺としては、もっと違う結衣の泣き顔も見たいけどね」
たとえば、ベッドの上で――
そう付け加えた彼に、結衣がびくっと肩を震わせる。
「あ、あの、それは、その……」
「ああ、驚いて涙が止まったみたいだな。よしよし、冷たいタオルで目を冷やそう。今、持ってくるから座っているといい」
――隼世さん、ベッドの上でって……!?
かあっと頬が熱くなる。
「え、えっ、違う意味って、そういう……」
洗面所へ向かおうとしていた隼世が振り返った。
「もちろん、そういう意味だよ。俺はずいぶん禁欲してきたから、今夜は覚悟してもらう」
目を細めて、彼が笑う。
今日は、結婚式。
花嫁は、まだ明けやらぬ空を横目に、両手で頬を押さえた。
元『ラベンダー』の葉崎夫妻、そして『.K』の葉崎夫妻、先日結婚した義兄の城月誠一とその妻である麻理恵、『.K』で一緒に働いていた仲間たち。
そのほかに、隼世の秘書や大学時代の友人数名参加してのガーデンパーティーは、親密で優しい雰囲気の中、幕を下ろした。
双方ともに両親は来ていなかったが、理由はそれぞれ違う。
結衣の母には、誠一が打診をした上で招待状を送ったけれど、欠席の返信が届いた。それを見て、やはり少しばかり落ち込む気持ちがなかったとは言えない。たったひとりの母親は、結衣が結婚すると言っても祝ってくれないのだ。しかし、返信のはがきが届いて数日後、母から荷物が届いた。小さなジュエリーケースに、古い指輪。
『おばあちゃんが昔、結婚するときにくれたものです。これからは結衣が持っていてください。結婚おめでとう』
短いメッセージからは、母が何を考えているのか、結衣をどう思っているのか、離れて生きてきた時間に何があったのか、すべてを読み取ることなんてできない。けれど、決して母が自分を嫌っているのではないのだと感じられた。
幼いころは、なぜ自分は母と一緒にいられないのか悩んだこともある。祖母がいてくれたから、寂しいと言ってはいけないと思っていたものの、ほかの子たちのように母親と過ごしたいと願ったものだ。
なぜ、母は自分を連れていってくれなかったのかを考えたとき、かつては結衣よりもその当時の交際相手や、あるいはのちに再婚した城月氏を優先したのだという結論にたどり着いていた。実際、そうだったのかもしれない。だが、そうではなかったのかもしれない。
人の心は、外からは見えない。
どんな言葉も、どんな行動も、心そのものではないのだ。
――いつか、お母さんと顔を合わせて話ができたらいいな。そのときには、隼世さんと結婚して幸せに生きてるよって、ちゃんと胸を張って言えると思うから。
さて、結衣の母親は結婚式の参加を断ったが、隼世は自身の両親に招待状を送ることさえしなかった。
それというのも、結婚の挨拶をしに行くと連絡した際、電話口で隼世の父親は息子に絶縁を言い渡したのである。
以前に彼から聞いた話では、隼世は父の正妻との間に生まれた子どもではなかったため、母親から引き離されて東京へ連れてこられたそうだ。それから、母の死によって隼世は父への期待を失い、同時に父は隼世を自分の後継者としてしか見ていなかったのだという。
隼世は、父親と決別することも東条グループの後継者候補からはずされたことも、なんとも思っていないようだった。むしろ、晴れ晴れとした表情でそのことを話してくれた。
結衣としては、自分との結婚が理由で隼世の父が息子と絶縁したというのは、なんとも心の痛いことなのだが――
「誤解しないでほしい。親子関係はとっくに破綻していた。それに、俺にとって家族と呼べる人は、もともと結衣しかいないんだから」
話をよく聞くうちに、彼が心からそう思っているのだということが伝わってきた。
どんなに言葉を尽くしても、わかりあえない人はいる。
何も語らずにいても、心の通じる人もいる。
世の中には、たくさんの人がいて、その誰もが精一杯に生きているのだ。いつだって、毎日を懸命に、一瞬を大切に生きている。生きていく。
幸せなガーデンパーティーののち、結衣と隼世はふたりきりで寝室へ戻った。
庭の後片付けは、明後日――ふたりが新婚旅行に出たあとに、業者が回収してくれる手はずになっている。今日は、ケータリングの料理の残りや食器類、生花だけを片付けてくれた。
「結衣」
ジャケットを脱いだ隼世が、右手をそっとこちらに差し出す。
「はい」
ベッドサイドのテーブルに、スタンドに載せたラウンドブーケ。
彼の手をとる結衣は、幸せでとろけてしまいそうな気がした。
「隼世さん」
愛しい人の名を呼んで、彼女は顔を上げる。
「ブーケ、ずっと大切に飾っておきたいので、アクリルケースを買おうと思うんです」
「……喜んでもらえて嬉しい反面、一生あの不格好なブーケを飾っておかれると思うと気恥ずかしいものがあるな」
「不格好なんかじゃないです。わたしにとっては、世界一ステキなブーケです。だから……」
抱き合って、重なるふたりの体がぬくもりを分け合う。
健やかなるときも、病めるときも。
これからは、この人と生きていく。
「ブーケについては、きみに一任する。だから、結衣。目を閉じて。今日一日、ウェディングドレス姿のかわいいきみを前に、俺はずいぶん我慢した。そろそろ限界だ」
かすれた声が、彼の情熱を伝えてくれる。
「愛しています、隼世さん」
そして花嫁は目を閉じる。
幸せな夜を、幸せな朝を、幸せな未来を、そのまぶたの裏に隠して――